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禿山に登ったら・・・カミのヤマ

2016-01-19 02:28:28 | 古事記字源

 ・・・「ハゲアタマ」・・・「政治的シンクレティズム(Political syncretism=政治的習合主義)・シンクレティックポリティクス(Syncretic politics)とは、対立する思想体系を結合する政治的立場」・・・「シンクレティズム」とは、「通常は異なるまたは対立すると考えられている複数の概念や要素が、結合または混合・混在されている事」・・・個々人としての「人間」は「学ぶ」と云うプロセスで「知識を習合せざるを得ない存在」だろう・・・そして、行動に於いて「アイマイな実践」で自滅する・・・
 以下は、ブログ記事から「ハゲを収拾集合」した「忘備賂句」だが・・・
ーーーーー
禿(はげ)
「かむろ、はげ、かぶろ、ハゲ、禿げ」
「baldness
 bald head
 children's hairstyle of short untied
 bald head〈人〉
 baldheade」
 ↓
「はげあたま、禿頭(トクトウ)、はげ頭」
 bald head
 baldness」
「skinhead(スキンヘッド)」
「ヘアスタイルの名称」
「ネオナチなどの蔑称」
「completely bald, partially bald」
 ↓
ファシズム(結束主義・伊語=fascismo 英語=fascism)
イタリアの
ベニート・ムッソリーニ
国家ファシスト党の思想や政治運動
1922年~1942年
政権獲得時に行った実践や体制の総称
広義には
ドイツのナチズムの
全体主義的・排外的政治理念を含む
その政治体制
自由主義を否定し
一党独裁による専制主義・国粋主義
指導者に対する絶対の服従と
反対者に対する「過酷な弾圧」が特色
・・・どんな政治思想に於いても権力を握ったモノの行動実践は「弾圧」は特殊ではないし、アタリマエである・・・
 ↓
ファシズム
極左思想経由の極右思想・・・「極右」の概念規定とはナニか?
ムソリーニ
は、イタリア社会党の極左派
初期ファシスト党員の大半は
アナキスト(anarchist)と前衛芸術家・・・「阿拿記素訳」?
 ↓
アナキズム
アナーキズム(Anarchism)
国家や権威の存在を否定
無政府として
国家のない社会を推進する政治思想
「個人(個々人)が
 平等な立場で
 自由に協力する社会」・・・どのように?
の創造を目指す政治思想・・・創造するのか?
政治権力の存在を・・・・・・「政治」とは?
否定する思想・・・・・・・・災害時には
              行政指導者が必要だろう?
無政府主義
アナキズム(無政府主義)・・・「政府」とは「正負」の
               バランス調整機関だが
国家などの
政治権力の存在を
否定する思想の総称
社会主義は「赤」
無政府主義は「黒」
 ↓
アナキの語源
ギリシア語=「α’ναρχο(アナルコス)」
      「支配者がいない」の意味
      「人間の自由に最高の価値を置く思想」
      「君主が権力的支配を
       行わないことを理想とした老子思想」
      「古代ギリシアの
       徳を自由な個人を基礎とする
       無政府社会の建設をの
       ストア派の始祖
       ゼノンの思想」
      「人間解放の思想や理想社会の
       人文主義者や
       ユートピア思想家
       社会主義社会が完成した
       共産主義社会において
       国家は
       死滅すべきものとした
       共産主義者」
 ↓
近代的アナキズム
18世紀末~19世紀中ごろ
19世紀後半以降の
社会主義、
マルクス主義との対抗関係
17~18世紀の
市民革命の結果である
近代国家と
近代資本主義社会は
人間の間に経済的、
社会的不平をきたし
格差は階級抑圧として
労働者や農民を
国家(の法治)規制として束縛
政治思想として
マルキスト

アナキスト
は、
対立はしたが、
専制支配の打倒や
反ファシズムの
共同戦線をはった
マルクスは
アナキズムの
プルードンの革命理論を批判
第一インターナショナルで
マルクス派

バクーニン派が
路線対立(1869~1873)
アナ(大杉栄)
ボル(堺利彦、山川均)
論争(大正9~11年)
 ↓
 近代アナキズムの理論家
 プルードン(フランス)
 バクーニン(ロシア)
 クロポトキン(ロシア)
 ↓
 ゴドウィン(イギリス)
 「政治的正義に関する研究(1793)」著者
 シュティルナー(ドイツ)
 「唯一者とその所有(1845)」著者
 国家権力
 や
 私有財産制を否定
 個人の自由を主張・・・「自由」とはなにかの
            「事由」とは?
 ↓
 プルードン
 「財産とは何か(1840)」
 「人類社会における秩序の創造(1843)」
 「経済的諸矛盾の体系――貧困の哲学(1846)」
 「19世紀における革命の一考察(1851)」
 「財産は盗みである」
 「不労所得が社会にあらゆる悲惨の根源」
 「平和革命の道の選択」
 「いかなる政治権力も、
  民衆的なものから
  金権階級へくみするようになり、
  結果、自由と平等を破壊する」
 革命後のプロセスにおいて
 プロレタリアートの独裁を否定
 ↓↑
 「アナキズムとは
  各人による
  各人の統治としての
  自治制」
 「政治的機能をもたない
  経済的機能のみの社会」
 「分権的連邦主義」
 「生産物を
  引き換える流通券発行の
  交換銀行の設立」・・・紙幣、貨幣は蓄財機能を有する
 「過渡的な
  強力な国家権力の
  生産手段の共有化、
  国有化を否定」・・・「事業法」はダレが制定するのか?
 ↓↑
 「資本主義的生産様式を残して
  平等化と正義の実現を図ることの非現実」
 とマルクスによって反批判
 プルードンの思想は、
 大工場制が未成熟で
 手工業者や農民、小商人たちが
 数多く残存していた
 19世紀後半の
 フランスにおいてのみ
 受け入れられるものであった
 ↓↑
 バクーニン
 ツァー時代の
 バクーニンの思想
 「神と国家(1871)」
 激烈な宗教批判が特色
 地上における
 「神=国家」の徹底批判
 「国家の本質は
  命令と支配と暴力そのもの」
 「自由のための強制」というルソーの思想は
 全体主義的独裁以外の何ものでもなく、
 民主的な共和国ですら
 自由を否定するものとした
 プロレタリアートの独裁の理論である
 普通選挙を獲得して
 労働者代表を議会に送り込むこと
 の批判
 「議会主義を排し
  テロリズムによる直接行動」
 は、
 ツァーの圧政下にあった
 ロシアの
 アナキストの置かれた状況であった
 ↓↑
 クロポトキン
 「パンの略取(1892)」
 「近代科学とアナキズム(1901)」
 「理想社会として
 権力機構や
 法律によらない・・・?・・・法外とは?
 自由な人々の
 結合に基礎を置く
 相互扶助の組織」
 コミューンや労働組合や
 個々人の結合した集団に
 基礎を置く連合組織
 「中央集権的な国家」はない
 ↓↑
 アナルコ・サンジカリズム
 労働運動の主流は
 ドイツ社会民主党
 アナルコ・サンジカリズムは、
 ドイツ社会民主党の
 議会主義的方式に反対
 生産点における
 ボイコット、サボタージュ、ストライキ(ゼネスト)
 などの手段による直接行動を通じ
 労働者の自主管理を確立・・・
 旧ユーゴスラビアや
 1980年代のポーランドにおける
 自主管理制の
 実施や主張・・・・現在、シリア難民受け入れ拒否らしいが?
 ↓↑
 近代日本のアナキズム
 樽井(たるい)藤吉らが設立した
 東洋社会党(1882創立)
 社会民主党(1901、即日禁止)
 日本社会党(1906)
 アナキズムの影響を受けて
 帰国(在米期間、1905.11~1906.6)した
 幸徳秋水
 片山潜
 田添鉄二
 西川光二郎
 堺利彦
 ↓
 幸徳は、
 合法主義的議会主義で
 労働者階級や国民大衆に
 影響力を及ぼしていこうとする
 マルクス主義的立場に反対し、
 ゼネラル・ストライキによる直接行動主義を主張
 「アナ・ボル論争」
 大逆事件で
 幸徳が刑死(1911)後
 大杉栄に引き継がれたが
 関東大震災中で
 大杉は虐殺(1923)
 石川三四郎
 岩佐作太郎
 ↓↑
 石川はクリスチャンとして、
 独自のアナキズムを主張
 「無政府主義研究(1931)」
 「天皇を中心とする
  アナキズム革命」
 ↓
 岩佐作太郎
 「大逆事件」に際しアメリカから
 明治天皇に向けて公開状を発表
 石川(1956没)
 岩佐(1967没)
 ↓↑
ファシストは、
認識において
共産主義者(マルクス主義者)であり、
行動において
反共主義者・・・・「行動」に於いては同類である?
 ファシストは、
 資本主義がその危機の極点において、
 「必然的に」共産主義へと移行するという、
 マルクスの分析に全面的に賛成
 マルクス主義=「科学的真理」・・・?
 だが
 ファシストは、共産主義を望まない
 資本主義は、放っておけば
 「必然的に」・・・・・「必然」とは「自然」ではない?
 共産主義へと移行するが、
 ファシストは
 これを「放っておく」つもりはない・・・
 ファシストは、
 資本主義に反対する。・・・国家社会主義に賛成?
 共産主義者が
 資本主義に反対するのは、
 それが「正しくない」からである。
 ファシストが
 資本主義に反対するのは、
 それが「美しくない」からである。・・・美しい国家?
 ↓↑
 ファシストは、
 共産主義者と違って、
 資本主義を
 「廃棄(揚棄)」しようとは考えない。
 共産主義以外の方法によって
 資本主義を「廃棄」することはできない。
 ファシストはただ、
 国家権力によって
 資本主義を制限する。
 ↓↑
 共産主義者は、
 資本主義が、
 人間を
 その「類的本質」から
 疎外していると考え、
 その解決策として
 「階級の廃止」を提示する。
 ファシストは、
 資本主義が、
 人間を
 その「本来性」から
 「頽落」させると考え、
 その解決策として
 諸個人による
 「死への先駆」を提示する。
 「死への先駆」とは、
 生の有限性の自覚であり、
 一回性の自覚であり、
 ひいては自らが
 空間的共同性(社会)や
 時間的共同性(歴史)の中に
 生きていることの自覚である。
 「歴史の終焉」へと向かう
 資本主義末期の現在において、
 共産主義者は、
 このまま歴史を終わらせようとする
 (共産主義に至る
  人類の「前史」と認識される)が、
 ファシストは
 歴史を復活させようとする。
 ↓↑
 ファシズムは、
 ニーチェ
 ハイデガー
 を主要な参照先とする革命思想である。
 ファシストを
 突き動かす動機は、
 文学的なものである。
 ファシズムは、
 実存的な苦しみから生まれる。
 真摯な共産主義者は
 試行錯誤の果てに
 実存主義を否定し、・・・?
 また
 「政治的な文学(芸術)」
 や
 「文学的(芸術的)な政治」
 を否定したが、当然である。・・・「否定」したのか?
 それらは
 ファシズムに
 帰結するからである。・・・・・「帰結」は「エゴ」だろう?
 ファシズムは、
 文学的(芸術的)な
 政治運動であり、・・・・・・・国粋、国民運動だろう?
 また
 政治的な
 文学(芸術)運動である。・・・民族主義的な文化運動
                国家主義的な文化運動
 ↓↑
 ファシストは、
 民主主義に反対する。
 民主主義は、
 諸個人の自由を、
 最終的には
 否定するからである。・・・・ナゼ?
 ↓↑
 ファシストは、
 民主主義と自由主義とが
 そもそもは
 相いれないとする意見・・・・確かに
               「プロセス」は
               「民主主義的な選択制度」
               「選択の結果」は
               「?」である
 (オルテガ、
  カール・シュミット、
  呉智英、柄谷行人)
 に全面的に賛同する。
 ファシストは、
 自由主義者である。・・・・・「自由」とは「エゴ」か?
 ↓↑
 ファシストは、
 大衆を蔑視する。
 監視社会化の
 急速な進行を見れば明らかなように、
 大衆こそは
 「自由の敵」である。
 「自由からの逃走」
 という有名な言葉どおり、
 大衆は
 自由を忌避する・・・・・同時に渇望する
 本性を持っている。・・・その根元は
             自己保身「是非の不安」である
 民主主義とは、
 大衆が力を持つ体制である。
 ファシストは、
 民主主義を打倒し、
 団結した
 少数の自由主義者による
 独裁政権の樹立を目指す。・・・レーニンの前衛主義と同類
 この
 「少数の自由主義者」
 の結社が
 ファシスト党である。
 ↓↑
 ファシズムの社会
 ファシスト党に
 結集した
 「自由主義者」のみが
 最大限の自由を享受し、
 大衆は
 「パンと見世物」の享受
 ファシズムに
 最も近いのは
 アナキズムである
 ↓↑
 アナキストの存在が
 許されてきたのは、
 まだ
 民主主義と自由主義の対立が
 最終局面に至らない過渡期において、
 細々とながら
 頑固な自由主義者が
 存在しうる余地があったため
 もはや
 アナキストを筆頭とする
 頑固な自由主義者たちは、
 民主主義の
 一元支配を要求する大衆によって
 圧殺される運命にある。
 それを拒否するには、
 ファシストへと
 自らを進化させる以外にない。
 ↓↑
 アナキズムには「展望がない」が
 ファシズムは、
 歴史上の革命で成功した
 ファシズムとは、
 アナキストの最後の活路である。
 ↓↑
 次にファシズムに近いのは、
 ナショナリズムである。
 しかし
 ナショナリストも、
 もはや自らの力だけをもって、
 グローバル資本主義の猛威に
 対抗することはできない。
 ナショナリストの抵抗は、
 感情にのみ依拠しているがゆえに
 絶望的である。
 ファシストには、
 革命理論がある。
 ナショナリストにもまた、
 アナキストと同じように
 ファシストへと進化するか、
 アナキストとは違って
 ナショナリストであるまま
 ファシストと手を結ぶ以外に、
 道は残されていない。
 歴史的にも、
 まず
 アナキストなど極左からの転向者によって
 ファシズムの運動は開始され、
 ナショナリストなど極右からの
 転向者の合流によって
 その運動は拡大した。
 ↓↑
 ファシストは、
 故郷喪失者であり、
 即自的に
 アイデンティファイできる
 ナショナリティを持たない
 大衆を含めた
 ナショナリティには
 アイデンティファイできない。
 ↓↑ 
 skinhead
 「悪いフィーリング」を持った表現で、
 右翼的で
 非社会的な
 「若い白人」を感じさせる表現?
 髪の毛を全て剃った頭
 (スキン=皮膚が全部見える頭)
 shaved・shaven head
 イギリス人は
 「それも含め、厳密には、
  髪の毛を切った(いがぐり頭)状態」
 ・・・GIカット・・・
 GI=Government Issueの略、
   本来は「官給品」の意
 GIカット・・・
 GI(アメリカ兵)に多い髪形で、角刈りに似る
 朝鮮戦争(1950~1953)以来、
 日本の若者に流行・・・・・「慎太郎刈り」は
              「GIカット」だった?
 米海兵隊員特有のクルー・カット
 (刈り上げた髪型、スポーツ刈りや
  Jarhead・GIカットとも)
 ↓↑
 Jarhead・・・ジャーの蓋の部分に見立てた
     ・・・他の説は、
        容器は頑丈で立派だが
        中身は空っぽ(馬鹿)
     ・・・第二次世界大戦時に
        メイソン魔法瓶が主力製品である
        魔法瓶(ジャー)の製造を
        一時休止して
        海兵隊用のヘルメットを製造したから
        などの説・・・
 ↓↑
 この状態にして
 自己主張をした
 ネオナチの為に
「悪いイメージ」が作られた
 ・・・「剃った頭」はムッソリーニの「ハゲ」・・・?
 ↓↑
「あそこ(性器周辺)」が
無毛は「bald」
剃っていれば
「shaved」
と言う表現・・・
 ↓↑
「ハゲ」
動詞「剥ぐ(はぐ)」の名詞形
「さのみにハゲをしかり給ふな
 ハゲをしからぬ
 本歌の侍(はべ)るぞかし(浮世物語)」
 ↓↑
「禿(はげ)げ上がる)」
禿げたために
生え際が頭の上の方になる
「はげ散らかす(関西方言)」
 ↓↑
ーーーーー
 交響詩
 『禿山の一夜』
 (はげやまのいちや
  Night on Bald Mountain)
  ニ短調
 ↓↑
 モデスト
 ムソルグスキー作
 ↓↑
原型は
メグデンの戯曲
『魔女』に構想された
オペラ
『禿山(ハゲやま)』
1860年頃に作曲したピアノ曲
『聖ヨハネ祭前夜の禿山』
「聖ヨハネ祭の前夜に
 不思議な出来事が起こる」
の言い伝えの一種、
「聖ヨハネ祭前夜、
 禿山に
 地霊チェルノボグが現れ
 手下の魔物や幽霊、精霊達と大騒ぎ
 夜明けとともに消え去っていく」
 とのロシアの民話が元
聖ヨハネ祭は
「夏至の夜の祭り」で
シェイクスピアの
『夏の夜の夢』と同様の題材
 ↓↑
『禿山の一夜』は繰り返し改訂・編曲
様々なバージョンが残されている
 ↓↑
『サランボー』(1864年頃)で
初めて『禿山の一夜』のモチーフが登場
独立した曲としては明確に現存せず、
アバドが『サランボー』の一節
「巫女たちの合唱」
として録音している
『禿山の一夜』の原曲は
第3幕第1場の最後あたり・・・
 ↓↑
作曲者による原典版(1867年)
現在の
ムソルグスキーのオリジナル版
ゴーゴリの戯曲
『聖ヨハネ祭の夜の禿山』
に基づいた題名
「魔物たちの集合〜
 ~そのおしゃべりとうわさ話〜
 ~サタンの行列〜
 ~サタンの邪教賛美〜
 ~魔女たちの盛大な夜会」
という
4つの場面が曲想として構成
初演は作曲後100年以上を経た
1968年に行われた
アバドの指揮による
 ↓↑
『ソローチンツィの市』(1880年)
1874年~1880年にかけて作曲された
ムソルグスキー晩年のオペラ
『ソローチンツィの市』
第3幕第1場の合唱曲
「若者の夢」として、
『禿山の一夜』
が用いられている
ムソルグスキーが
オペラ自体を未完のまま没したため、
ほとんど知られることなく
1913年に初演された
 ↓↑
オペラの一節
テノール・バス

児童合唱により構成
魔物の咆吼の合唱が秀逸
原典版にはなかった
「教会の鐘」
とその後の
「悪魔たちの退散」
はこの版に収められている
原典版にはこのシーンがないため、
リムスキー=コルサコフ
による編曲で追加されたものと思われがちだが、
このシーンは
ムソルグスキーのオリジナル・・・
 ↓↑
リムスキー=コルサコフ
1881年
ムソルグスキー没後、
リムスキー=コルサコフは、
未発表だった
ムソルグスキーの作品
『禿山の一夜』
を採り上げ
「若者の夢」
のための合唱版は、
ムソルグスキーが
ピアノ版に編曲していたが、
リムスキー=コルサコフ

この両者を参考にして
一部補筆し、
オーケストレーションについては
全面的にやりなおして、
1886年
現在
『禿山の一夜』
として知られる楽曲は
この改訂版・・・
 ↓↑
この曲は
ディズニーが
1940年に作った
アニメーション映画
『ファンタジア』
にも取り上げられた
(ストコフスキーの編曲が使用)
 ↓↑
モデスト・ペトロヴィッチ・ムソルグスキー
(Моде́ст Петро́вич Му́соргский
 マデースト・ペトローヴィチ・ムーサルクスキィ
 ラテン文字転写=Modest Petrovich Mussorgsky)
1839年3月21日~1881年3月28日
ロシアの作曲家
「ロシア五人組」の一人
「五人組」の中では、
そのプロパガンダと民謡の伝統に忠実な姿勢をとり、
ロシアの史実や
現実生活を題材とした
歌劇や
諷刺歌曲を書いた
国民楽派の作曲家に分類され、
歌劇『ボリス・ゴドゥノフ 』
管弦楽曲『禿山の一夜』
ピアノ組曲『展覧会の絵』
などが代表作
 ↓↑
ムソルグスキーは、
バラキレフに師事
ベートーヴェンなどの
ドイツ音楽を学ぶ
バラキレフの監督下に作曲された
『4手のためのピアノ・ソナタ』
は、ムソルグスキー
唯一のソナタ形式を含む作品
未完成のまま放棄した歌劇
『アテネのオイディプス』
ピアノ曲
『古風な間奏曲(Intermezzo in modo classico)』
(1867年に改訂し、管弦楽化)
民族主義的でない
 ↓↑
ムソルグスキー家は
荘園の半分を収奪され、
ムソルグスキー自身は、
多くの時間を
カレヴォに過ごし
一家の零落を救うコトに失敗
 ↓↑
独学
1863年~1866年
歌劇『サランボー (Salammbô) 』に取り組む
ペテルブルクに戻り、下級官吏として生計
ペテルブルクで、
近代芸術や近代科学について読書し、議論
ムソルグスキーは、
「リアリズム」
という理念を抱くようになり、
社会の低層に関心を寄せた
再現や
シンメトリーのある楽式を拒否し、
「現実生活」の繰り返しのない、
予測のつかない流れに忠実であろうとした・・・
 ↓↑
1865年
母親死没
深刻なアルコール依存症
26歳のムソルグスキーは、
写実的な歌曲の作曲を始め、
1866年に作曲された
歌曲
『ゴパーク(Gopak)』
『愛しいサーヴィシナ(Darling Savishna)』
は1867年に、初めて自力で出版された作品
1867年
『禿山の一夜』の初稿が完成
バラキレフはこれを批判し、
指揮することを拒まれ
存命中には上演されなかった
 ↓↑
文官としての職務は安定せず
1867年
余剰人員と宣告され、
出勤しても無報酬
ムソルグスキーは
ダルゴムイシスキーに接近
1866年よりプーシキンの
原作歌劇
『石の客』
を作曲中であった
ダルゴムイシスキーは、
テクストは
「その内的な真実が
 捻じ曲げられないように、
 あるがままに」
曲付けされるべきであると力説
アリア

レチタティーヴォ
をやめ
デクラマシオン
をよしとした・・・?
 ↓↑
『石の客』に影響されて、
1868年に作曲された、
ゴーゴリ原作の
『結婚』の最初の
11場では、
戯曲の日常的な対話の
抑揚を、旋律線によって
自然に再現することが優先
『結婚』は、
ムソルグスキーの
自然主義的な曲付けにおいて
極端な位置を占めている
作品は第1幕の終結まで作曲されながらも、
管弦楽法を施されぬままに放棄されたが、
その典型的な
ムソルグスキー流
デクラマシオンは、・・・?
その後のあらゆる
声楽曲において
聞き取ることが可能
自然主義的な声楽書法が、
数ある表現原理の中で、
しだいに唯一のものとなった
 ↓↑
『結婚』を放棄した後、
ムソルグスキーは
ボリス・ゴドゥノフの物語で
オペラを作曲するよう励まされ
プーシキン
の戯曲や歴史物語を集め、
オペラ『ボリス・ゴドゥノフ 』
を書き上げ
1871年に提出されるが、
歌劇場から上演拒否
初稿では、
プリマドンナ役
がなかったから・・・
ムソルグスキー
は改訂に取り掛かり、
大掛かりな
第2稿(原典版)を完成させ
1872年(5月)に受理され、
1873年
マリインスキー劇場
抜粋上演
 ↓↑
1874年2月
『ボリス・ゴドゥノフ』の初演まで、
ムソルグスキーは、不運に終わった
「五人組」の合作オペラ
『ムラーダ』にかかわって、
このために
『禿山の一夜』
合唱版を作成し、
歌劇『ホヴァーンシチナ』にも着手
『ボリス・ゴドゥノフ』
は批評家筋の受けが悪く、
上演回数は十回程度でしかなかったが、
聴衆には好評で、
これによって
ムソルグスキー
の活動は頂点をきわめた。
 ↓↑
ムソルグスキーは、
アルコール依存症の狂気・・・
友人
ヴィクトル・ハルトマン(ガルトマン)
の死亡(1873年)
肉親や
ルームメートの
ゴレニシェフ=クトゥーゾフ伯爵
(『陽の光もなく』『死の歌と踊り』の作詞家)
も結婚して去って行った
1874年以降
『陽の光もなく』、
『モスクワ河の夜明け』
(『ホヴァーンシチナ』前奏曲)、
『展覧会の絵』
が作曲
歌劇
『ソロチンスクの定期市』にも着手し、
『禿山の一夜』
の、別の合唱版も作成
 ↓↑
『死の歌と踊り』が作曲
文官としての仕事は、
「病気」や欠席不安定になったが
内務省に転職
1879年
伴奏者として
3ヶ月間に12都市で演奏活動
サンクトペテルブルク
に戻ると
再び以前の荒んだ生活に逆戻り
 ↓↑
1880年
公務員の地位を追われる
ムソルグスキーの窮乏を知って友人たちは、
『ホヴァーンシチナ』
『ソロチンスクの定期市』
を完成できるように寄付を集めようとした
『ホヴァーンシチナ』
のピアノ・スコアは、
2曲を除いて完成したが
完全には至らなかった。
 ↓↑
1881年
初頭に4度の心臓発作
3月28日
42歳で死去
イリヤ・レーピン
によって肖像画が描かれた
 ↓↑
増四度を積み重ねる技法や、
原色的な和声感覚、
作曲素材の大胆な対比などは、
印象主義音楽や
表現主義音楽の前触れ・・・
 ↓↑
20世紀半ばに
ショスタコーヴィチによって、
作曲者の手法にあたうる限り忠実に、
2つの歌劇
『ボリス・ゴドゥノフ』
『ホヴァーンシチナ』
の管弦楽法がやり直されるまで、
永らく見過ごされてきた
『禿山の一夜』は、
ディズニー映画『ファンタジア』に利用
 ↓↑
ピアノのための連作組曲
『展覧会の絵』
作品は友人であった
建築家
ヴィクトル・ガルトマン
の遺功をしのんで作曲
19世紀のうちから
管弦楽への編曲が試みられていたが、
今日の演奏は
ラヴェルの編曲・・・「ラヴェル」です
 ↓↑
ムソルグスキーは歌劇
『ソロチンスクの定期市』を未完成のまま没した
舞曲
『ゴパーク(英語読みでホパック)』
は、単独で演奏され、
ラフマニノフ
のピアノ用への編曲で有名になった
 ↓↑
歌曲
『蚤の歌』・・・「のみ(已・爾・耳・而已・已矣・而已矣
         能見・廼見・能美・納見)」の「ウタ」

ゲーテ
『メフィストフェレス』

アレクサンドル・ストルゴフシチコフが
ロシア語訳した詞に曲をつけた
バス独唱曲。その他の作品では、
3大歌曲集
(『子供部屋』(1872年)、
 『日の光もなく』(1874年)、
 『死の歌と踊り』(1877年))
が有名
ーーーーー
 ↓↑
「イデア」
古代ギリシャ語の
動詞「idein(見る)」に由来
 ↓↑
プラトン哲学
「idea(イデア)」

「eidos(エイドス)」とを対比
「eidos」は「idein」に由来
「idea」や「eidos」
が哲学用語・専門用語として
意味が固定したのは、
弟子の
アリストテレス・・・・・Aristotle・亜立土度徳・亜利斯土的列
            亜利士達
が用いて以降
プラトン自身が専門用語として
用いていたわけではなかった・・・
 ↓↑
プラトンの説の変遷・・・・Plato・布拉多・布拉達
             伯拉多・伯羅多
プラトンの初期
ソクラテスが実践した・・・Socrates・瑣子・瑣克底
             所哥羅垤斯・瑣格刺底
「philosopy(愛知)」・・・愛知尾張名古屋
             叡智→比叡山
を描くものであるが、
その「根本の動機」というのは
「良く生きること」である
「愛知の目的(徳の探求と学習)」を
明らかにしつつ、
「無知の知」を自覚させ、
「人間のpsyche(プシュケー、命、魂)」を
「愛知の道の出発点」に立たせようとする
 ↓↑
ソクラテスの
倫理的な徳目が
「何であるか」を問い求め
示唆を得て、
ソクラテスの問いに答えるような
「まさに~であるもの」
あるいは
「~そのモノの存在(イデア)」
を想定し、
この「イデア」のみが
知のめざすべき
時空を超えた
「非物体的な・永遠の実在・真実在」
 であり、このイデア抜きにしては
 「確実な知」はありえない・・・
 ↓↑
中期の哲学
「パイドン(想起)
 (アナムネーシス)」・・・阿拿務音重詞諏
              真理認識に至る過程
              人間の魂は、
              肉体に宿る前に
              天界で眺めていた
              イデアを想起し
              真理を認識する
という考え方の導入
「学習」というのは
「想起」である、という説明
「プシュケー(魂)」
というのは不滅
輪廻転生を繰り返し
もともとは
霊界にいてそこで
イデアを見ていたのであって、
こちらの世界へと来る時に
それを忘れてしまったが、
こちらの世界
で肉体を使い
不完全な像を見ることにより
イデアを思い出しているのだ、
それが
「学習」と考えた
この「想起」という考え方によって、
プラトンは
「徳」とは
「何であるかの
 問いに答えられない
 不知な
 対象は探求は不可能だ」
とする
「探求のパラドックス」
は間違っているとする
プラトンは
「philosophy(愛知)」というのは、
「死の練習」なのであって、
「真の愛知者」というのは、
できるかぎり
自分のプシュケーをその身体から
分離解放し、
プシュケーが
純粋にそれ自体において
あるように努める者だ、
とする
愛知者の「プシュケーが知る対象」として
提示されるのが
「イデア」である
 ↓↑
プシュケーの徳
「美そのもの(美のイデア)」
「正そのもの(正のイデア)」
「善そのもの(善のイデア)」
などを提示
「愛知の道」の全体像が提示
「善そのもの」は、
「知と真実の原因」
とされ、
太陽にも喩えられた
 ↓↑
「愛知者のプシュケー」が、
問答法によって
「善そのもの」へ向かい、
それを観ずることによって、
自らのうちに
「知と真実」をうむ
「善そのもの」を頂点とした
「イデア」を模範とすることで、
自己自身である
自分の「プシュケー」を
その「イデア」の
似姿として形づくる
 ↓↑
イデアの種類
様々な一般的な性質に対応する
「大そのもの」
「小そのもの」
などが提示された
「単相」
「純粋」
といった
存在論からのものや、
「知られるもの」
といった
認識論からのものも示された
 ↓↑
「美そのもの」

「美しいものども」との関係
「分有」
あるいは
「与り」の関係
「イデア原因説」と呼ばれる
前者が「範」であり、
後者が「似像」として理解されるときは
「類似」の関係だと言われる
「パラデイグマ・範形イデア論」
などと呼ばれる
 ↓↑
イデアの措定の困難を弁証的に越え、
『第三人間論』などでは
イデア論批判なども行う。
それとともに
「想起説」などが取り下げられ、
イデアやエイドスは、
中期のそれとは異なったものになり、
「分割と総合」の手続きにより
新たに定義される問答法で扱われる
「形相」、あるいは
「類」として
理解されるようになる
 ↓↑
後世の人々
プラトンの弟子の
アリストテレスは、
「形相」や
「類」の
分割や
交わりが引き起こす
「1対多問題」や、
定義の「一性」問題について考察しつつ、
自己の哲学を確立していった
 ↓↑
500年後
プロティノス
万物は一者(善のイデア)から流出した
(→ネオプラトニズム)
「イデア」が実在すると考える考えは
後に
「idealism(観念論)」
「実在論(realism)」
の系譜に属する、とされるようになった・・・?
 ↓↑ ↓↑
ーーーーーー
「禿(はげ)」であるカナ・・・すり切れる・ちびる
       禿筆
       穂先の擦り切れた筆・ちびた筆
       自分の文章や筆力を稚拙、謙遜していう
       禿筆を呵す
       穂先の擦り切れた筆に
       息を吹きかけて書く
       下手な文章を書くこと       
 ↓↑
近世以後「かむろ」とも
子供の髪形の一
髪(かみ)の末(すえ)を
切りそろえて
結ばないでいるもの
その髪形の子供
「髪をカムロに切りまはし(平家物語)」
髪のない頭・はげ
・・・「神室(かむろ)」・・・神室山地・・・
秋田県、宮城県、山形県の3県に連なる山地
東は栗駒山(1627m)
西は神室山(1365m)・・・・・・神室山(カムロやま)
雄勝峠(427m)
北は虎毛山(1433m)
南は禿岳(小鏑山・1262m)・・・禿岳(ハゲだけ・トクガク)?
               小鏑山(こかぶらやま)
花淵山(985m)
 ↓↑
ストレスで髪が
抜ける
円形脱毛症
 ↓↑
円形脱毛症には
アレルギーなどが原因の場合もある
ケルズス禿瘡など
 ↓↑
「禿(かぶろ、かむろ)」
頭に髪がないこと
肩までで切りそろえた児童期の髪型
その髪型をした子供
狭義では、
江戸時代の遊郭に住む
童女
 ↓↑
『平家物語』では、
平安京に放たれる平家方の密偵の子供
禿(かむろ、かぶろ)は
遊女見習いの幼女をさす
 ↓↑
「おかっぱの髪型」からつけられた名
時代と共に
髪を結うようになってからも、
遊郭に住み込む幼女のことを
かむろ
と呼んだ
7~8歳頃に
遊郭に売られてきた
女子や、
遊女の産んだ娘が該当
最上級の
太夫、
花魁
と呼ばれた高級女郎の下について、
身のまわりの世話をしながら、
遊女としてのあり方などを学んだ
禿の年齢を過ぎると
「新造」となって、
遊女見習いの後期段階に入っていく
嶋原では、
芸妓に付き添う幼女も
「禿」と呼ばれた。
 ↓↑
引込禿
通常の「禿」とは違い、
遊女の世話を離れて
楼主から茶道、華道、香道などの
英才教育をうけていた者
大商人や大身の武家を相手に
稼ぐことのできそうな
素質をもつ子が選ばれた
 ↓↑
髪型
江戸中期頃までは、
「おかっぱ頭」だったが、
江戸後期以降は、
吉原等では
「禿島田」という
髪飾りを沢山付けた
「高島田」になった
嶋原も江戸後期から戦前までは
日本髪を結っていた
 ↓↑
「禿(祇園祭)」
長刀鉾の稚児を補佐する
2名の少年も、「禿」と呼ばれる
太夫級の遊女、
または
芸妓が
2名の禿を従えていることに
なぞらえたものと見られる。
 ↓↑
『平家物語』に登場する「禿」
『平家物語』には、平安時代末期に
平清盛が実権を握った際、
「禿、禿童(かぶろ、かむろ)」
と呼ばれた多数の「禿の頭髪の童子(及び童形の者)」を平安京
内に放ち、市井の情報、特に平氏に対する批判や、謀議の情報な
どを集めて密告させた
平家物語
「14歳、15歳の童を300人えらんで、髪をかむろに切りまわし、赤
い直垂を着せ、京の市中を徘徊させ、平家のことをあしざまにい
うものがあれば、これを聴きだして、その家に乱入し、資財、雑
具を没収し、当人をとらえて六波羅に検束した。市中のものはお
それて関わらないようにした。禿童は自由に宮中にさえではいり
し、禁門をとおっても姓名をたずねる者さえなかった」
 ↓↑
ハゲ(禿、禿げ)
加齢、疾病
投薬の副作用、火傷、遺伝的要因
髪の毛が薄いか、
全くない頭部などを指す
ハゲた場合
頭皮に艶(つや)が出やすい
頭部がつるつるに禿げている様を指し、
「つるっぱげ(つるっ禿げ)」
 ↓↑
「ツルハゲ→金柑(キンカン→金橘・キンキツ)頭」は
「本能寺の変(天正十年六月二日・1582年6月21日)」の、
「明智光秀」ではなく、・・・「禿ネヅミ」は秀吉だが、
「児玉源太郎」であろう・・・
 ↓↑
「金柑(キンカン)あたま→蛙玉(アタマ)
             カエルの
            (御玉杓子
             児珠・小玉・木霊
             児玉の杓子)」だろう?
         児玉  源太郎
        (こだま げんたろう)
         嘉永五年閏二月二十五日
        (1852年4月14日)~
         明治三十九年
        (1906年)7月23日
         周防国都濃郡徳山村(山口県周南市)
         で誕生
         徳山藩士、児玉半九郎忠碩の長男
         父が幽閉され悶死
         1864.8.12(元治一年)
         浅見次郎彦が姉の久子の
         婿として家を継ぐが
         次郎彦が斬殺され、
         児玉家断絶
         1865.7.13(慶応一年)
         児玉家再興・中小姓
         元服して、源太郎忠精
         十月に馬廻役
         藩の献功隊士として戊辰戦争に参加
         1866.6(慶応二年)
         安芸口の戦いに従軍~
         陸軍大将
         正二位勲一等功一級子爵
         日露戦争
         満州軍総参謀長
 ↓↑
「かぶろ」
前髪の末を切りそろえ
後髪も結わずに
そろえて垂らす髪型
江戸時代
吉原などの遊所で
大夫、天神など
上級の遊女に仕え、
将来
遊女となるための
修業をしていた少女
ーーーーー
 上玉・・・

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イモ・いも・・・の「研究」・・・

2016-01-17 22:48:38 | 古事記字源

 ・・・数えで12・・・「イモ・いも」の妄想的な考察の資料をブログ記事で「漁る(あさる)」・・・「妹(いも)」も、「妻(つま)」はいないけれど・・・モモがいる・・・「乙・弟・乙・尾訳」の「ヒメ」・・・
ーーーーー
 アレク・サンダー
 Alexander
 歴山(レキザン)=アレキサンダー(アレクサンドロス3世)
 ↓↑       歴山大王
 ↓↑       亜歴山大王
          日本海軍の潜水母艦の
          艦名「アレクサンドル」
          元はロシア捕鯨用貨物船名
         「アレキサンドル」、260総トン
          日露戦争開戦
          1904年(明治37年)2月10日に捕獲
          7月10日に汽船に「歴山丸」と命名
          1905年7月4日
          雑役船(潜水艇母船)となった
          1910年(明治四十三年)
          第六潜水艇の遭難時に
          母船として監視に当たり、
          遭難後は
         「豊橋」、
         「硯海丸」
          と共に救助に従事
          1920年(大正九年)7月1日
          特務艇(潜水艦母艇)に編入
         「歴山」と改名
          1927年(昭和二年)11月1日
          除籍
          1928年4月23日
          廃船
 ↓↑       1929年(昭和四年)1月12日
 ↓↑       売却
 の
 マケドニア
 Macedonia
 馬其頓
 馬西頓
 瑪設度尼
 ↓↑
 馬鈴薯(バレイショ)の澱粉(デンプン)
 ↓↑
 ユリ科の
 カタクリ(かたくり→嘉多句理?)の
 根茎(コンケイ→混掲→困頃?)からとれる
 「澱粉(デンプン)」・・・伝聞?
             ヨドンデいる米の文?
 片栗粉の由来
 カタクリの花=「傾いた籠状の花」
        「カタカゴ」
        「カタコ」→「カタコユリ」→「カタクリ」
        カタクリの葉の形が
        栗の子葉に似ている→「片栗」
        馬鈴薯澱粉
        明治以降、北海道開拓で
        馬鈴薯が大量・安価に出荷
        片栗粉は馬鈴薯澱粉になった
 馬鈴薯(バレイショ)澱粉の総称
 片栗粉=スターチ
    dogtooth violet starch
     potato starch
     starch of dogtooth
     potate flour
     corn starch
 ↓↑
 馬鈴薯=17世紀、中国で、
     「松渓県志」に記録
     野生種の一種の
    「アンデイゲナ」とよばれる
     植物のイモの形が
     馬の首につける鈴に似ていた
     馬鈴薯=ジャガイモに使用したのは
         江戸時代の小野蘭山
         1808年の
         「耋莚小犢(テツエンショウトク)」
         の記録
         台湾では
         馬鈴薯(マーリンスウ-)
        「マレー(マレーシア)の芋」
        「馬来西亜(マレーシア)」のイモ 
         馬鈴は素焼きの土製=土鈴(ドレイ)
    ↓↑
    じゃがいも
    南米アンデス山脈高地が原産
    ナス科ナス属の植物
    16世紀、スペイン人がヨーロッパにもたらした
    イモの芽は毒で「悪魔の植物」と呼ばれた
    日本には1600年頃
    オランダ船により
    ジャカルタ港より運ばれた
    観賞用として栽培
    じゃが芋=ジャワの
         ジャガトラ(ジャカルタ)イモ
    天保の大飢饉で
    ジャガイモので餓死を免れたことから
    「御助芋(ごじょいも・お助けイモ)」
    が転じた
    代官の名を取って、
    「善太夫芋・清太夫芋」とも呼んだ
    「きんかいも」=「金柑」が転じて
            「禿げ」のこと・・・?
    1年に2~3回収穫でき
    「にどいも(二度芋)・さんどいも(三度芋)」
    とも呼ばれ、
    「南京イモ・御所芋(ごしょいも)」とも
    中国では
    「土豆(トゥードウ)・洋芋(ヤンユー)
     薯仔(シューザイ)」などの呼称
 ↓↑
 男爵薯=1908(明治四十一)年
     函館の
     川田龍吉男爵が
     イギリスから種イモを購入し広がった・・・
     19世紀末
     英国の
     チュルテンハムに近い
     ベンサムで栽培されていた
     1900年
     サットン商会が世間に紹介
     日本には
     1917年(大正六年)に
     英国より輸入され、
     北海道には
     その年か、
     翌年(1918年)に導入された
     ↓
     1928(昭和三)年
     「メークイン」とともに
     北海道の
     優良品種に選ばれた
     原品種名は
     アメリカの「Irish Cobbler」
    「Irish Cobbler
    (アイルランド人の靴直しの意)」
     1876年にアメリカの
    「Messrs Dobbie & Co.」により
    「Eureka」の名でイングランドへ導入
    「Messrs Sutton & Sons」も
     1907年にアメリカの
    「Messrs W. H. Maule」から購入し
    「America」とも呼ばれた
 メークイン=May Queen (potato variety)
       May Queen (5月の女王) ・・・?
       may queen, queen of the may
       メーデーの祭りで女王に選ばれる少女
       (the girl chosen queen
             of a May Day festival)
       May Queen→女王かも?
             女王に違いない?
             イモねぇチャン?
       大正時代に
       イギリスから持ち込まれた品種
       男爵イモよりもねっとりしていて、
       煮くずれしにくい
       男爵薯に比べて長い形状
       凸凹も少ない
       皮はむきやすい
       「メイクイーン」とも
  ↓↑     
  薯=ショ・ジョ・いも・やまいも・
   薯蕷(ショヨ)・甘薯(カンショ)
   自然薯(じねんじょ)
   仏掌薯(つくねいも)
   薯蕷(やまのいも)
   ↓↑
   potatoの語源は、
  「タイノ族」の言葉で
   サツマイモを意味する
   batataが
   スペイン語の
   patataに変化した・・・
   ↓↑
  「タイノ族」=アンデスの部族、
         コラ族(Collas) から派生・・・
         南アメリカ~カリブ海まで使用された
         アラワク語族・・・
         1492年のコロンブスの到着
         イスパニョーラ島に
         5つのタイノ族の王国
         スペイン占領時には、
         タイノ族の人口は最大で3000人・・・
         カリブ族と敵対・・・
  ↓↑
  オランダ語の
  aardappel(大地のリンゴ)から
  「アップラ=アンプラ=カンプラ」
  という呼称も・・・
  薩摩芋=甘薯(甘藷)→海人妹→阿毎意摸
  ↓↑
 蕷=とろろ・ヤマノイモ、ナガイモなど、
   とろろ汁にするイモ
   すりおろして、調味料を加えた料理
   とろろ汁
ーーーーー
 ・・・  

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麩(フ)は「グルテン」・・・

2016-01-16 23:47:57 | 古事記字源

 ・・・「です(出素)・ます(眞素→助)」、「ある(阿留・蛙留・雅留)・だ(拿・雫・田→かり=狩り・漁り・刈り・借り・猟り・雁・假・権・駆り)」・・・なぜ、「田=□+十」で「田→かり(猟り)」と読ませているのかは、前回の「呂望非熊(巻之一)・六韜曰(六韜にいう)・文王将㆑田(文王が狩猟に出かけようとした)」を根拠にしたが、「田」は古代には「水田」ノミならず、「生物、植物の食物を収穫、狩猟、漁労する場所、領域」を指したらしい・・・「田麩(デンプ)」は「魚を蒸して身をほぐし、水分を抜いて味つけしたモノ」らしく、「片栗粉の澱粉(デンプン)」ではなく、実体は動物である「魚の身を魚粉にしたモノ」が「田麩(デンプ)」であるらしい・・・
 「麩(フ)」をブログ辞典で調べると、
 「中国の宋(そう)代の書物にみられ、これが日本に伝わったといわれている小麦粉のタンパク質を利用した加工食品。小麦粉に水を加えてこねると粘弾性のあるグルテンが形成される。このグルテンはタンパク質で、これを取り出して加工したのが生麩(なまふ)や焼麩(やきふ)」、
 「室町時代初期に禅僧が中国からもたらした。小麦粉に80%ほどの水と少量の食塩を加えてよく練ると粘りが出てくる。これに水を加えながらもむとデンプンや水溶」、
 「鎌倉時代からつくられ、豆腐などとともに精進料理の重要なタンパク源とされている小麦粉を原料とする加工食品」
 「小麦粉に水(小麦粉の80%)を加えてよくこねる。粘りが出てグルテンが形成したら水中でもみ洗いして、デンプンと水溶性の物質を流し出す。残ったグルテンに、糯米(もちごめ)粉などを加えて蒸したのが生麩で、グルテンに小麦粉と膨剤を加えて整形して焼いたものが焼麩」、
 「もみ洗いして流れ出たデンプンは正麩(ショウフ)とよばれ、染物などの工芸用糊(のり)に用いられる」、
 ・・・「糊(のり)=米+胡(古+月)」ならば、襖(ふすま)、「障子」の貼紙(はりがみ・センシ)であり、ポスターである・・・藤原定家は「百人一首」を別荘の襖(ふすま)に貼り付けて鑑賞したらしい・・・古人、胡人とは波斯(ペルシャ)人であり、近代では「西洋人」である・・・
 ・・・問題にしたいのは「のり」と訓読みされている漢字のスベテであるが、ここは「のり=憲・法・規・則・矩・掟」で、「乗」、そして接着の「糊」と、食用の「海苔」である・・・
 「グルテンが含まれていない米の粉からはパンは製造できない。グルテンは日本では古くから麩(ふ)として利用。麩は小麦粉から分離したグルテンに澱粉(デンプン)などを加えて焼いたもので、グルテンの網目構造に由来して細かい気泡ができている」
 ・・・NHKドラマ・・・「逃げる女」・・・「麺麭(パン)の生地をコネ、マルめ、焼いて造っている時だけが、生き甲斐だった」・・・「理屈で嘘をつくのはオトコ?」、「その場で咄嗟に嘘をつくのはオンナ?」・・・モノガタリだが・・・暗くて恐ろしい・・・「目的のないウソ(?)」をツカレたら、ドウスル・・・それでも、嘘をツカレた人間は「ウソの根拠」を知りたいだろう・・・「ワナに嵌められる人間はホトンドが善人(?)」だが・・・嘘をツカレタ人間は、ウソをツク・・・「ウソに目的が無い」のはコドモだが、それには「ウソは無い」・・・「現実と空想が一致」しているから・・・
  ↓↑
 で、グルテンとは麩(フ)ですか・・・愚留典、繰田、具留佃(奠・転・添?)・・・先週のETVのサイエンスゼロで「セルローズ」の「ナノファイバー」・・・「鉄の5倍の強度」、「鉄の1/7の重さ」、「熱に強い」・・・「セルロースをナノレベルに精製したセルロースナノファイバーは、炭素繊維やカーボン ナノチューブに次ぐ新素材として世界中で ... 非可食性植物由来化学品製造プロセス 技術開発2013年度 ~「高耐熱リグノセルロースナノファイバーの開発」、
 「植物繊維をテンポ(薬品によるTEMPO酸化セルロースナノファイバー)」で細かく分離・・・
 突然ですが、填補(テンポ)で、とびマス→「天保(仁平四年(1154年)の改元の際に最終候補に挙げられたが左大臣藤原頼長が「天保=一大人只十=一大人の臣民が只の十人)」で縁起が悪いとし「久寿(クジュ→口授)」に替えらた?・・・
 マタマタ、「幕末・明治」の数字と人物にコダワッテ、「維新の原点」にもなった「天保の年表」を添付するか・・・
ーーーーー
  ↓↑
 「天保元年(1830)
一月二十六日
  水戸藩主・徳川斉昭、藩政改革を開始
七月二日・京で大地震
       死者約280人、
       負傷者約1300人
  十月一日・徳川斉昭、幕府批評の上書提出
       薩摩藩
       調所広郷、藩政改革を開始
  ↓
  天保二年(1831)
  二月十八日
  ロシア船が蝦夷に侵入、交戦
  天保三年(1832)
  七月三日
  帆足万里、
  豊後日出藩家老、藩政改革を開始
  八月十六日
  水戸藩、海防掛設置
  八月十九日
  鼠小僧、小塚原で処刑
  ↓
  天保四年(1833)
  十二月二十七日
  三河田原藩、
  渡辺崋山、格高制を推進、藩政改革を開始
  ↓
  天保五年(1834)
  十一月三日
  水戸藩主
  徳川斉昭、
  海防を目的とした
  蝦夷地開拓、
  大船建造を建言
  ↓
  天保六年(1835)
  十二月二十二日
  諸大名に
  国絵図の作成を指示
  ↓
  天保七年(1836)
  二月十四日
  水戸藩に
  大砲鋳造を指示
  ↓
  天保八年(1837)
  二月十九日
  大塩平八郎の乱
  元大阪町奉行所与力、
  大塩平八郎が乱
  三月二十七日
  老中、
  水野忠邦を勝手掛に任命
  大塩平八郎、死没
  六月一日
  生田万の乱
  生田万、越後柏崎の代官所襲撃
  六月二十八日
  モリソン号事件・アメリカ船モリソン号、浦賀港に侵入
  浦賀奉行が砲撃
  七月十日
  モリソン号、薩摩山川沖に出没
  薩摩藩家老・島津久風が退去させる
  九月二日
  徳川家慶、第十二代将軍に就任
  ↓
  天保九年(1838)・・・戊戌年(清国・道光十八年)
  二月三十日
  代官
  羽倉外記に伊豆諸島の巡見を指示
  三月十日
  江戸城、西の丸炎上
  四月十七日
  江戸大火
  六月二十四日
  天保大判金増鋳
  十月二十一日
  高野長英、
  「戊辰夢物語」脱稿・・・戊辰戦争は三十年後のユメ?
             (慶応四年
              明治元年~明治二年
              1868年~1869年)
              1868-1838=30・・・?
   「辰(たつ・シン)」では無く
   「戌(いぬ・ジュツ)」である・・・脱稿したのは、
  「戊戌夢物語(ボジュツゆめモノガタリ)」である・・・
  十月二十六日
  中山みき、天理教を創始
  緒方洪庵、大阪に適々斎塾を開く
  天保国絵図完成
  ↓
  天保十年(1839)
  一月
  渡辺崋山、
  慎機論を執筆
  五月十四日
  蛮社の獄
  渡辺崋山、捕縛
  五月十八日
  高野長英、自首
  十二月一日
  江戸大火
  十二月六日
  水野忠邦、筆頭老中
  十二月十八日
  渡辺崋山が蟄居
  高野長英が永牢の処分
  ↓
  天保十一年(1840)
  三月二日
  勘定奉行、
  遠山景元(金四郎)を町奉行に任命
  三月五日
  七代目市川団十郎、
  河原崎座で勧進帳を初演
  五月二十七日
  長崎奉行へ
  オランダ風説書に原書を添えるように指示
  六月二十七日
  代官
  羽倉外記に房総の海岸警備を指示
  七月七日
  長州藩、藩士、
  村田清風の藩政改革を取り上げる
  七月二十日
  水戸藩、領内の総検地を断行
  九月
  長崎町奉行。
  高島秋帆、西洋軍備についての意見を上書
  十一月三日
  長州藩、下関の越荷方を増強
  十一月八日
  阿部正弘、寺社奉行となる
  十一月二十三日
  三方領地替反対一揆
  庄内藩など三藩に領地替え
  庄内の領民が一揆
  ↓
  天保十二年(1841)
  三月二十三日
  堀田正睦、老中に任命される
  三月
  高島秋帆、西洋式軍備の教授に任命
  五月九日
  高島秋帆、
  江戸西郊の徳丸原で西洋式軍備の実演
  七月十二日
  庄内藩などの三方領地替中止
  八月一日
  水戸藩、弘道館を創設
  十月七日
  江戸で大火
  十月十一日
  渡辺崋山、
  三河田原で自刃
  十一月
  伊豆代官
  江川英龍、
  韮山で西洋式鉄砲を鋳造
  十二月二十八日
  江川英龍に江戸湾岸の巡見を命じる
  薩摩藩家老、
  島津久風、西洋式軍備の演習
  横井小楠、実学塔を結成
  ↓
  天保十三年(1842)
  六月二十二日
  七代目市川団十郎、奢侈で江戸追放
  七月一日
  水戸藩、偕楽園構築
  七月二十三日
  異国船打ち払いの方針を、
  薪水を与えて立ち去らせるように指示
  八月三日
  川越、忍、今治三藩に江戸湾岸の警備を指示
  十月二日
  高島秋帆、
  外国人との交友の罪で入牢する(冤罪)
  十一月二十四日
  佐久間象山、
  老中、
  真田幸貫・・・・・「真田雪村」は「真田ま留」?
  に
  海防八策を上書
  十二月二十四日
  羽田、下田に奉行所設置
  十二月
  水戸藩、大砲鋳造により梵鐘徴発
  ↓
  天保十四年(1843)
  四月
  長州藩藩士
  村田清風、藩政改革を開始
  六月十七日
  新潟奉行所を設置
  七月
  水戸藩、
  神仏分離を行い神道政策を展開
  摂津で上知反対一揆
  八月十三日
  上知令
  江戸、大阪周辺が上知になる
  八月二十日
  医師
  佐藤泰淳、
  佐倉に
  順天堂設置
  閏九月八日
  老中・堀田正睦解任
  閏九月十一日
  阿部正弘、
  老中任命
  閏九月十三日
  老中
  水野忠邦解任
  十月十日
  イギリス船
  サマラン号
  八重山に上陸し測量強行
  ↓↑
 テンポ・・・填補・・・「キ(木材・植物)」の「デス・マス」調、「ダ・デアル」調・・・特殊個別的な元素の「海水分離器」が出来たら・・・無限な資源とエネルギー・・・「ハスキル人(高木琳光氏のSF作品です)」は「キルキル人」では無かった。「ルーマニア生まれのピアニスト、クララ・ハスキル(Clara Haskil・1895年1月7日生まれ)でもなかった」・・・「モーツァルト」の漢字表記が「莫扎特」ですか・・・クララが弾いた「モーツァルト(莫扎特)音盤(記)」があるらしい・・・
ーーーーー
  ↓↑
 だ調・・・・・・・・・だ・でない・せぬ・ならぬ・だろう・だから
        駝鳥・拿調
 である調・・・・・である・でない・しない・ならない・であろう
        であるから
        出蛙留張
 です調・・・・・・・です・ないのです・しません・ならないのです
        でしよう・ですから
        出素(弟素)帖
 あります調・・・あります・ありません・いたしません
        なりません・ありましょう
        有益諜
ーーーーー
 ・・・???・・・

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地震・・・ earthquake(アース・クウェイク)・・・蛙阿素句(矩・玖)得重意苦?

2016-01-15 05:05:57 | 古事記字源

 ・・・北海道でかなりの揺れの地震でした(12時25分)・・・ガンガンの寒い晴れ日だったが・・・朝から家の周りの除雪、その後、二階の屋根の除雪、屋根に固くへばり付いたツララのハッタ氷雪を残したが、屋根から下りて家に入ってコンピュータに向かった直後、地震・・・屋根に頑固にへばり付いていた氷雪が一気にドドッと落ちた・・・みなさん、屋根からの落雪には注意です。1週間は余震もあるらしい・・・
 むかし、学生時代、上野駅の地下で飲料水に入れる氷屋でアルバイトをしたことがあるが、デッカくて重い氷を冷凍室から取り出し、それを鋸(のこ)で切り刻んで、更に砕き、ズックの袋に詰め込み、階段を上ってホームに停車中の電車の飲料水のタンクに入れ込む。異なった発車電車のタイムテーブルが結構混んでいて忙しい作業であったが・・・アルバイトの時間帯(24時間)配分と、他のアルバイトの人選は会社の担当者からスベテ任され、学生仲間を誘ってのローテーション。同じ時間帯を原則二人だが、仲間と相談し、アルバイトの時間帯を分轄し、担当時間の作業を独り(一人)でやるコトにした。時間給は高給・・・一括で貰うアルバイト料は公平に分配したが、アルバイトの「金額記入無しの領収書」を書かされた記憶がある・・・
 その重くて、デッカイ氷だが・・・ブログ記事で調べたら、「角氷 (Block of ice)は135kg(36貫)」、当時と同じかどうかは?・・・兎に角、縦に立てられた角氷を冷凍室から引っ張り出すのが至難の業(技)で、二回に一回は長方形の角氷柱をコンクリートの床に倒してしまい、壊してしまうコトだった・・・それに、上野駅の地下に造られた小さな勤務室は簡易にベニヤ板で仕切られモノで、氷会社の人間は存在せず、仕事はスベテ任されたが、「蚊」に喰われる場所でもあった・・・
 で・・・地震で落下した屋根にへばり付いていた氷の分厚い板とツララの重いコト・・・ガレージと同じ高さになった庭の積雪の上に除雪した場所にスロープを造って、捨て場所にしたが、運ぶのに大変で、日没まで重労働・・・このボロ屋敷の生活空間を守る為、人生が終わってしまうカモなどと妄想してしまう・・・
 また、インドネシアで自爆テロですか・・・テロもせず、戦争もせず、他人を殺傷もせず、「天国」にも期待せず、貰った命を「寿命」までマットウしようとは考えない「人間」達をドウシタものか・・・
 ・・・「自分たちの三歳の女児」を殺してしまう「両親」・・・飢饉、飢餓で口減らしでもないハズなのに・・・「妊娠中の命を堕胎」してしまう理由・・・戦争での満州から引揚者中の家族を殺した「日本兵」・・・生きている限り、生き残っている限り「人間」は「罪深い」・・・が・・・確かにオレやアンタの「エゴ」でもあるカナ・・・恐ろしい・・・
 ・・・物置小屋に家の二階の換気扇に巣食っていたらしいスズメが凍えて死んだのか雪の中にウヅモッていた・・・
ーーーーー
 「スズメ(雀)のオンガエシ(音替えし)」・・・
 「仁徳天皇の免税」と、「舌切雀(したきりスズメ)の爺と婆」・・・ココはナゼ「舌切スズメ?」かと、ナゼ「茅=艸(くさ・くさかんむり・ソウ)+矛(ほこ・ム→矛盾)」なのかを妄想してみたい・・・
  ↓↑
 仁徳天皇
 神功皇后摂政五十七年~仁徳天皇八十七年一月十六日
 第十六代天皇
 在位は
 仁徳天皇元年一月三日~同八十七年一月十六日)
 三年間租税を免除・・・?
 宮殿の屋根の
 茅(かや・ち・ちがや・かやぶき・ボウ・ミョウ)
 ↓ 「茅」の通仮字・・・茆(じゅんさい・かや・ちがや
              その・ぬなわ
              すすき等の総称
              エン・ボウ)
            苗(なえ・ミョウ)
    かやぶきの・粗末な
   「茅屋・茅舎・茅門」
   「茅萱(ちがや)・白茅(ちがや)
    茅渟鯛(ちぬだい)・茅花(つばな)
   「茅蜩=蜩=ひぐらし」
     ・・・蝉(せみ)の「日暮(ひぐらし)・ひねもす」
         林や森で早朝や夕方に
        「カナカナ」と鳴く・・・仮名かな?
 ↓       かなかな・くつわぜみ
 ↓      「日暮の門」=日光東照宮の
 ↓               「陽明門」・・・?
 の「葺(ふ→譜・符・賦)き替え」をしなかった・・・?
   ↓↑             ↓↑
  天 津 日高 日子 波限 建 鵜草葺 不合命(古事記)
 (あまつ ひこ ひこ なぎさたけうがや ふきあえずのみこと)
   ↓↑           ↓↑
  彦  波瀲  武  鸕鶿  草葺 不合  尊(日本書紀)
 (ひこ なぎさ たけ うがや ふき あえずのみこと)
ーーーーー
 「茅」
  ↓
 以下は「jigen-net・字源」から参考、参照として少々改作して添付・・・
  ↓
 呂望非熊(巻之一)
 六韜曰。(六韜にいう)
 文王将㆑田。(文王が狩猟に出かけようとした)
 史編布㆑卜曰。(史編が占って言った)
 田㆓於渭陽㆒。(渭陽の地に狩をすれば)
 將㆓大得㆒焉。(大いに得るものがありましょう)
 非㆑龍非㆑彲。(龍でも彲(みずち)でもなく)
 非㆑虎非㆑羆。(虎でも羆でもなく)
 兆得㆓公侯㆒。(兆しには公侯たる人物を得ると)
 天遺㆓汝師㆒。(天があなたに師たる人物をおくり)
 以㆑之佐㆑昌。(これを以てあなたを補佐し)
 施及㆓三王㆒。(その恩恵は三代に及ぶ、と)
 文王曰。(文王が言った)
 兆致㆑是乎。(兆しがコレになるのだろうか、と)
 史編曰。(史編が言った)
 編之太祖史疇。(編の太祖である史疇(シチュウ)は
 為㆑舜占得㆓皐陶㆒。(舜の為、占って皐陶(コウヨウ)を得)
 兆比㆓於此㆒。(この兆しは、それと同じである、と)
 文王乃齋三日。(文王は三日にわたって身を清め)
 田㆓於渭陽㆒。(渭陽(イヨウ)の地に狩りを行い
 卒見㆓太公坐㆑茅以漁㆒。(ついに太公望が
             茅葺(かやぶき)に座して
             釣りするを見つけた)
 文王勞而問㆑之。(文王は労(ねぎら)ってこれに問い)
 乃載與歸。(御車に載せて共に帰り)
 立為㆑師。(立てて師とした)
 舊本非熊作㆓非羆㆒。(旧本に、非熊(ヒユウ)を
           非羆(ヒヒ)に作るは
 疑流俗承㆑誤。(誤りを俗に受け継いで)
 後世莫㆑知㆓是正㆒耳。(後世、コレを正さなかったからだ)
 按後漢崔駰逹旨辭曰。(思うに、後漢の崔駰(サイイン)の
            達旨(タッシ)の言葉にいう)
 或以㆓漁父㆒見㆓兆於元龜㆒。(あるいは釣り人を以て
                兆を大亀にあらわした、と)
 註曰。(その注にいう)
 西伯出獵。(文王は出でて狩りせんとし)
 卜㆑之曰。(これを占って曰く)
 所㆑獲非㆑龍非㆑螭。(獲る所は龍に非ず、
            螭(みづち)に非ず)
 非㆑熊非㆑羆。(熊に非ず、羆に非ず)
 所㆑獲覇王之輔。(獲る所は、覇王の輔ならん、と)
 所謂非熊蓋本㆓諸此㆒。(非熊に改めるは
             ここに本づくのである)
ーーーーー
 仁徳天皇
 ↓ 
 名は
 大雀命(おほさざき の みこと・古事記)
 大鷦鷯尊(おほさざき の みこと・日本書紀)
 大鷦鷯天皇(おほさざき の すめらみこと・日本書紀)
 聖帝(ひじり の みかど・日本書紀)
 難波天皇(なにわてんのう・万葉集)
 異母弟・・・異なる母のオト?
 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ
       うぢのわきいらつこ)
       生年不詳~壬申(みずのえさる・ジンシン)?
壬申の乱
       兄と皇位を譲り合い
       兄に皇位を譲るべく自殺
       三年間、皇位が空位
 ↓
 応神天皇の第四皇子
 母は
 品陀真若王の女
 仲姫命(なかつひめのみこと)
 ↓
 皇后(前)
 磐之媛命(いわのひめのみこと)
 石之日売命・葛城襲津彦の女)
 ↓  ↓
 ↓  子供
 ↓  大兄去来穂別尊
   (おおえのいざほわけのみこと、履中天皇)
    住吉仲皇子
   (すみのえのなかつみこ、墨江之中津王)
    瑞歯別尊
   (みずはわけのみこと、反正天皇)
    雄朝津間稚子宿禰尊
   (おあさつまわくごのすくねのみこと、允恭天皇)
 ↓  酒人王 - 岡崎市坂戸の酒人神社の祭神
 皇后(後)
 ↓ ↓
 ↓ 子供
   八田皇女(やたのひめみこ)
   矢田皇女・応神天皇の皇女)
 ↓
 妃
 日向髪長媛(ひむかのかみながひめ。
       諸県君牛諸井の女)
 ↓      子供
 ↓       ↓
 ↓     大草香皇子(おおくさかのみこ、
 ↓     大日下王・波多毘能大郎子)
 ↓     草香幡梭姫皇女
 ↓    (くさかのはたびのひめみこ、
 ↓       橘姫皇女・若日下部命
 ↓       雄略天皇の皇后)
 妃
 宇遅之若郎女(うじのわきいらつめ、
        菟道稚郎姫皇女
        応神天皇の皇女)
 ↓
 妃
 黒日売(くろひめ
     吉備海部直の女)
 ↓
 仁徳天皇陵
  百舌鳥耳原中陵?
 (もずのみみはらのなかのみささぎ)に治定?
ーーーーー
 「したきりスズメ(舌切雀)」
  ↓
 宇治拾遺物語の「腰折雀」
 腰の折れた
 雀を助けた
 婆は瓢の種をもらう、
 実が成ると中から
 白米や金銀財宝が出てくる。
 うらやんだ
 隣の婆はわざと
 雀の腰を折り真似をするが
 瓢から
 蛇や蜂が出て刺されて死ぬ。
 ・・・二人の婆同士の「雀の恩返し」の経緯である・・・
  ↓↑
 別なハナシの
 「舌切り雀」は
 ジジとババの経緯である
 糊(のり)を舐めた
 爺の飼っていた
 雀の「舌」を・・・・・ナゼ「舌」なのか?
 婆は
 チョン切ってしまう
 爺は
 雀を求める渡中で
 無理難題を吹っ掛けられながら
 (馬の尿・牛の糞・薔薇の荊)
 やっと愛しい雀に逢え、
 その雀の恩義を得、
 小さい葛籠(つづら)を
 貰って帰ってくるが
 婆は意地悪、欲張りで
 貰った
 大きい葛籠(つづら)の
 蓋を開けてしまい
 出てきた
 化け物に
 喰われてしまう、と云うハナシ・・・
 その他の話もあるらしい・・・
 「孝行雀」、
 「雀の粗忽」、
 「雀の仇討」、
 「雀酒屋」
 などがあり、
 米・穀物の
 招来・管理に
 雀が関わっている場合が多い・・・
ーーーーー
 ・・・雀が「大蔵省の官吏」ならば、「仁徳天皇の三年間の免税」である・・・しかも彼の名は漢字では「大雀(おほスズメ・おほサザキ)」で、「大(おほ・ダイ)-鷦(みそさざい・ショウ・セウ)-鷯(リョウ・レウ)」であり、異なっているが・・・「ショウリョウ、セウレウ」・・・舌切スズメ・・・下切(したきり)・絶説(ゼッセツ)・・・絶鞨(かわぐつ=革靴・ガチ・ゼチ・ゼツ・カツ・セツ)・・・窃(窃盗)・・・天智天皇(中大兄皇子)は靴を残して行方不明との説(扶桑略記)・・・「山科に行幸した際山林に入ったまま還御せず、崩所を知らず」・・・?・・・「藤ノ木古墳は、法隆寺の記録には、ミササキ・ミササキ山と記され・・・(崇峻天皇陵)と記すものも・・・出土した金銅装 鞍金具などの馬具類、金銅製の冠や沓(くつ=靴・履・鞨)」・・・「大雀」が「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)に治定」とは「?」であるカナ・・・
 ・・・一月十四日が過ぎて、今現在は十五日の金曜の未明の4時55分・・・本州茨城県北部でまた「地震(4時29分)」のニュース・・・

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「サル」の漢字・・・申不害・・・

2016-01-13 18:55:25 | 古事記字源

 

・・・「申-不害(シン-フガイ)」と云う「漢字名」の人物は実在、存在したのか?・・・名前からして「申(さる)は害(そこなう・ガイ)モノでは不(ない)」か、「害では不(ないこと)を申す」・・・古代中国には「示唆的、恣意的な漢字名」の「人物の名」の記録が多いが、記録的には「申不害」は「法治主義者」であったらしい・・・「申命記(モーゼの十戎・律法)」・・・「申(さる=沙流・猿・猨・猴・もうす・シン)」が重なっているのだが・・・漢字使用には何ら不思議ではないが・・・?・・・
 以前にも書き込んだが、不思議に思う「姓」は「何皇后(カコウゴウ・?~189年)」の「何?」である・・・
 ↓↑
 「後漢の十二代霊帝(劉宏)の
  何皇后、諱は不明」、
 諡は「思」、
 諡号夫の諡を重ねた
 「霊思(何)皇后」・・・例史何?・・・交合・咬合・乞合
 「荊州南陽郡宛県(河南省南陽市)」の出身
 父は「何真」・・・・・・眞とは何?
 母(舞陽君)は
 「何真の後妻」
 子は少帝「弁」・・・・・弁(わきまえる・ベン)
 異母兄は「何進」・・・・進むのは何処
 異父兄は「何苗(朱苗)」・・・何のナエ・・・アカ苗
                朱苗=牛木艸田
                   ギュウモクソウデン
                   義有記相伝?
                   疑(欺・戯)
                    鰞(鶖=秋鳥)
                     記紀宋伝
                   主記日下伝?
                   うしきくさかんむりた
                   得史記日下無理多?
                      久坂玄瑞?
 妹は
 「張譲・・・譲って張る?→高野長英の諱は
  の          「譲(ゆずる)」?
  子           張譲=弓長言襄?
 (養子?→とり子)     諭見重言襄?・・・福沢諭吉?
  の妻」         重聶(耳)?=文公(晋公)
              元は晋の分家筋
              武公の代に本家を
              滅ぼして自ら晋公
              武公の子
              献公と北方遊牧民族の
              狄(白狄)の娘
              狐姫の間に生まれた
              献公には太子であった
              異母兄の
             「申生」・・・サル生まれ?
              驪姫に父毒殺未遂の
              罠にはめられ
              自殺させられた
              異母弟の
             「夷吾(恵公)」
              がいた
 ・・・これって「ナニ?」であるのか・・・?
 「光和元年(178年~184年)・・・光和→比借理和(話)
熹平七年を光和と改元・・・・・熹(あぶる・キ)
                 平(たいら・ヘイ)
                 七年
  光和は霊帝時代の
  三番目の元号
  三月、
  西邸・・・・・・・・・・・西氐(氏一)の邑
  で            西周(あまね)の家?
  売官開始=銅臭政治」・・・金+同が臭(自一人)い?
               混同・近藤(勇)?
 「光和三年
 (180年=庚申年?)・・・第十三代・・・壱拾参臺→壱與?
              成務天皇五十(伍拾)年?
              稚足(チソク)彦尊?
              若帯(ジャクタイ)日子天皇?
↓↑
              第十三代征夷大将軍=徳川家定
              文政七年(1824年 )四月八日
             「甲申」年 
              第十二代将軍=徳川家慶の四男
              家慶は14男13女の子持ちだが
              生き残ったのは徳川家定のみ
              嘉永六年(1853年)
              家慶が黒船来航後に病死し
              徳川家定が
              第十三代征夷大将軍に就任
↓↑
             1800年=「庚申」年?
                   日本=寛政十二年
                   中国清=嘉慶五年
             白蓮教徒の乱=紅巾の乱
             1796年~1804年
             乾隆帝が
            「劉之協」の捕縛を命じ
            「ヘシェン(和珅)」の兄弟の
            「ヘリェン(和琳)」を派遣
             白蓮教を鎮圧
            (劉之協の束縛)?
             フランス革命戦争真只中
            (French Revolutionary Wars)
             1792年4月20日~1802年3月25日
             革命フランスvs反革命対仏大同盟
             一連の戦争
  霊帝(劉宏)の・・・・例定・例綴?
最初の皇后であった
  宋氏が廃されると、・・宗=ウ+木
               宋史・双史・装史
               創始・相思・総氏・草子?
  何氏が皇后
  父に車騎将軍と爵位が追贈、
  母に舞陽君の称号が贈られた」
 「光和六年(183年)・・・・・和の光・話項?
  熹平石経=儒学七経
      (一字石経・・・・・「壱時・李知事」籍経?
       今字石経とも)・・「坤字・恨事」世記経?
  が完成(最古の石に刻んだ儒教の碑)」
 「光和七年(184年)十二月、中平元年に改元」
  ・・・「霊思(何)皇后は霊帝の寵妃であった王美人が劉協(献帝)を生んだコトに嫉妬し、王美人を毒殺。霊帝が激怒、宦官の取りなしでその罪を免れた」・・・
 「霊帝」とは「黄巾の乱(光和七年・184年」・・・
 ↓↑
 184年
 (光和七年、干支甲子年)・・・甲子夜話(正続編各百巻)
                肥前国平戸藩第九代藩主
                松浦清(号は 静山)の
                随筆集
                平戸藩主隠居後
                62歳に
                1821年12月11日
               (文政四年十一月十七日)
               「甲子の夜」
                に書き起こされたもの
 冀州・・・・・・・・・紀州
 鉅鹿(キョロク)・・・虚録?
 の
 張角(チョウカク)は
 『太平清領書』に基づく
 道教的な
 悔過(懺悔)による治病(治療)で
 大衆の信心を掌握し、
 「太平道」は、・・・・「太平天国の乱=長髪賊の乱」
             1851年1月11日
            (道光三十年十二月十日)
             金田村で拝上帝会は
             国号を太平天国とし、
             洪秀全は天王と称した
             道光三十(1851・辛亥) 年末から
             同治三(1864・甲子)年
             14年間・・・
 数十万の信徒を
 三十六個に分け、
 一単位を「方」とし
 軍事組織化し
 武装蜂起
 「蒼天已死・・・蒼天すでに死す
  黃天當立・・・黄天まさに立つべし
  歲在甲子・・・歳は甲子に在りて
  天下大吉」
 (『後漢書』七十一巻
  皇甫嵩、朱儁列傳・・・コウフスウ・シュシュン
             皇(おう)
             甫(はじめ)
             嵩(かさ・たかい)
             朱(あかい)
             儁(すぐれる)
  第六十一皇甫嵩伝)
  役所の門に
 「甲子」の
 二文字を書いて蜂起を扇動
 「荊・揚州」で兵を集めさせていた
 「馬元義(バゲンギ)」・・・馬(マタイ・マチュウ)
                 馬太→司馬遷・司馬江漢?
                    斯波撰・司馬交換?
               の
               原義
 を洛陽に送り込み、
 中常侍の
 封諝
 徐奉
 等を内応させ
 3月5日に
 内と外から蜂起するよう約束
 張角
 の弟子の
 「唐周(トウシュウ)」・・・踏襲
 が
 宦官達に密告し
 蜂起計画発覚
 馬元義
 は車裂き
 霊帝は
 三公や司隸に命じ、
 宮中の衛兵や民衆を調べさせ
 千人余りを誅殺し、
 張角捕縛の命を下した。
 2月
 張角は一斉に蜂起
 天公将軍と称し、
 弟の
 「張宝(チョウホウ)」
 「張梁(チョウリョウ)」
 をそれぞれ
 地公、
 人公
 将軍とした
 3月
 霊帝は
 「何進」を大将軍とし
 将兵を都亭に駐屯させ、
 八つの関(セキ)に
 都尉(トイ)を置き
 洛陽を守護
 「皇甫嵩」
 「呂強(ロキョウ)」
 等の進言によって
 「党錮の禁」を解き、
 官界から追放されていた
 「清流」知識人が
 黄巾賊に合流するのを防ぎ、
 且つ、これを利用
 また宮中の
 倉の銭と
 西園の馬を出し
 人材を募り、
 「盧植」を・・・・盧+植→鸕(鸕野讃良)
 張角がいる・・・・張政+壱與・・・黄旗(幡)
 冀州方面へ、・・・紀周・紀州・既習・季秋・奇襲
 皇甫嵩
 朱儁
 に
 「豫州」・・・・・伊豫
 「潁川」・・・・・潁川(エイセン)=潁水隠士
          隠士の
          許由(キュユ)が
          帝尭(ぎょう)に
          召されたが栄達を望まず、
          その話を
          耳の汚れとして
          この川で洗い清めた・・・
          潁=ヒ+水+頁
 方面へと、
 黄巾の勢力が強い所へ派遣
 ↓↑
 桓帝と霊帝の間(146年~189年)の「倭の大乱」・・・「桓帝在位は146~167年、霊帝在位は167~189年」・・・「倭の大乱=黄巾の乱」・・・?・・・「キリスト教徒の乱」?
 ↓↑
 中平六年(189年)
 霊帝崩御
 少帝弁(劉弁)が即位
 何氏は
 摂政皇太后
 政敵であった
 董太后との争いに勝ち、
 洛陽から追放
 何氏の政権を支える
 何進と
 宦官(十常侍)が争い、
 何進が
 「袁紹(エンショウ)」
 たちと共に
 宦官(十常侍)の殺害を計画すると、
 宦官とも結託していた
 何苗と共に
 何進の計画に反対
 何進と十常侍が政争で共に滅び、
 何苗も殺害された
 ↓
 洛陽に入った
 「董卓(トウタク)」・・・董卓=サ(艸)+重+卓(ト+日+十)
 が権限を手中にし
 董卓は董太后と同族
 董太后の報復として
 何氏を排除しようと
 董卓は何太后を脅迫して
 少帝(劉弁)・・・・・・・少帝は「弘農王」に
              代わって
             「陳留王(献帝・劉協)」が
              皇帝に擁立
 の廃位を実行し、
 董太后が養育していた
 献帝
 (劉協・董侯・陳留王→渤海王)・・・
                 皇后の姓は
                「伏氏・曹氏(曹操の娘)」
                 青龍二年(234年)死亡
 を帝位に就かせた・・・・・・・・後漢最期の第十四代皇帝
 董卓は
 何太后に対し、
 董太后に対する振る舞いが
 「孝の道」に叛くと問責し
 永安宮に幽閉、殺害
 何太后は霊帝の陵に合葬され
 董卓は霊帝の陵の副葬品を
 ことごとく奪い取った・・・
 (董卓伝)
 ↓↑
 ・・・「東漢氏一族(応神天皇の条に渡来したと記されている漢人系の阿知使主を氏祖とする帰化系氏族集団
 坂上氏
 大蔵氏
 丹波氏
 等は
 霊帝の末裔を自称?」
 しているらしい・・・ナゼ?・・・
 「東漢氏(やまとのあやうじ)」
 「倭漢直(やまとのあやのあたい)」の先祖、
 「阿知使主(あちのおみ)」が子の・・・阿を知る使い主?
                    阿は使い主を知る?
                    阿部は使い主を知る?
                    阿毎は主の使い?
 「都加使主(つかのおみ)」と・・・・・都は使い主を加える?
 「十七県の人々」を率いてきた・・・・・拾七=拾漆?
 「東漢氏は渡来系氏族の筆頭格」・・・・唐巻歴史?
 ↓↑
 漢字使用の目的は「視覚による情報伝達」である・・・その妄想は読み手の勝手であるが・・・予(預・与)見出・・・?
 ↓↑
 「申・何」・・・ふざけ(巫山戯)るなッ、である・・・悪巫山戯・・・「巫山(フザン)」=中国四川・湖北両省の境にある山。長江が山中を貫流し、巫峡を形成。山が重なって天日を隠蔽」・・・「戯れる(ザレル)」は、古くは「サレル・ザレル・ふざける」で、「サレル・サル」は「猿」の語源でもある(YAHOO知恵袋)・・・らしい・・・?
 「サル事」ですか・・・「孫悟空」・・・「猿楽=申楽」・・・「田楽=デンガク=伝学」です・・・その他は「猿(猴・猨・沙流・然る・去る・狙・申)田彦」と「猿女=宇受女」である・・・日光の「三サル」は「みざる・きかざる・いわざる」である・・・左甚五郎の「三毛のニャんコ」は寝ている(寝たふり)らしいが・・・「見(ケン)ざる、聞(ブン・モン)かざる、言(ゴン・ゲン)わざる」は「庚申信仰の講(サンシチュウ=三尸虫を封じる為の徹夜の集会・江戸時代)」であるらしいが・・・「隠れキリシタンの生き方」だろう・・・そもそも、「猨田彦」の「子孫が大田命(おおたのみこと)→宇治土公(うじのつちぎみ)で伊勢神宮の玉串大内人」とは「?」であるが、「猿田が戯人(さるど)」、一般的な別名が「道祖神(ドウソジン)=インドの神の青面金剛(しょうめんこんごう)」である。個々特殊であった「神々」が「同祖(ドウソ)」とされ、「習合されやすいサルタヒコ(サルタン・スルタン・サルタン ・Sultan・天狗猿)」なのである・・・容貌は「中東・西洋の胡人、南蛮」である。伴天連(バテレン・神父・宣教師)の「泣いた青鬼」である・・・幕末、明治初期でプロテスタンの「牧師」も加わった・・・「墨子(ボクシ)=墨翟(ボクテキ)=道教」の発見は「清時代」であった・・・?・・・一般的に「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像と共に「青面金剛像」が表されている・・・
 「石申」は「甘徳とともに、世界最古級の星表を制作」、「石申=一名石申夫・紀元(公元)前4世紀魏国人・战国(時代の)天文学家、占星家,著有に(天文)八卷」、
 「石申
 121個の星の位置を決めた
  最も早く太陽の黒点を観測
  彼は
  黒点は
  太陽の中心で起きる日食で、
  外に広がると考えた」
 ・・・黒点の拡大=日食・・・
 ↓↑
 日食を
 陽と月が重なる現象としてはいなかった・・・?
 ↓↑
 「彼の本には
  八巻からなる「天文」
  一巻からなる「星図 (浑天图, 渾天図)
  一巻からなる「石の星表」 (石氏星経) がある
  後の二冊の本は、
  彼の学派の支持者によって書かれた・・・
  彼の本はほとんど残っていない
  重大なもののいくつかは
  「開元占経」に保存されている」
 ↓↑
 「唐代成立の占星術書『開元占経(中国語版)』には、
  甘徳(史記天官書には斉の人
    徐広は史記注釈で魯の出身
    書誌学者
    阮孝緒の七録では楚の人)
  の
  『天文星占』と、
  石申
  の
  『天文(別名、石氏星経(中国語版)』
  をまとめたとされる文献が収録され
  「甘石星経(中国語版)」の名で呼ばれている」
  「甘徳の
   『甘氏四七法(一巻)』、
   『歳星経』
   などの著書があったが現存しない」・・・らしい・・・
 以上も以下も参照、参考は「ウイッキペデア」や、その他のブログ・・・
ーーーーー
 ↓↑
 馬王堆漢墓に
 副葬された
 帛書に
 天文に関する記録(五星占)
 が含まれ記述の一部が
 「甘石星経」と共通
 『隋書文志・晋書』天文志に
 3世紀
 晋の武帝・司馬炎の頃に・・・司馬である
 呉の太史令
 陳卓が、・・・・・陳卓=卓に陳列(並べる)
 石申・甘徳
 および
 殷の
 占星術師
 巫咸の星図を総合し、
 その後
 星官の標準を定めた
 さまざまな
 星表・星図が、
 「石申・甘徳・巫咸」の名を掲げて制作された・・・
 579年
 「甘石星経(星の手引書・参考書)」は
 「馬顯(バケン) によって書かれ、
  暦の本の付録・・・
 甘徳は
 紀元前364年
 木星近傍に暗い星があることを記録
 木星の衛星を発見・・・?
ーーーーー
 ↓↑
 申不害(シン フガイ)
 ?~紀元前337年
 中国戦国時代の韓の政治家
 昭侯に仕えた宰相
 申不害は下級身分
 才能を見込まれ師匠に推挙され、
 昭侯に拝謁
 昭侯は弱国である
 韓をよく治めるための方法を問うと
 申不害は
 「君たるものよく為さじ、
  よく知らず」
 と答え
 法を整備し
 公平な論功行賞を行えば
 国は自然に治まると説いた・・・
 ↓↑
 韓
 戦国七雄のうち
 最弱国
 隣国の
 魏と秦に怯えていた
 申不害が宰相の間は
 国勢は安定し、
 領土も少しずつ拡張
 ↓↑
 申不害の
 法律至上主義は
 韓非に継承され
 その思想は
 始皇帝によって
 国政に用いられた
 著書に
 『申子』二篇があったとされるが、
 現存していない・・・?
 ↓↑
 アレクサンドリア図書館
 (Βιβλιοθήκη τῆς Ἀλεξανδρείας
  Bibliothḗkē tês Alexandreíās)
 紀元前300年頃
 プトレマイオス朝の
 ファラオ(パロ)、
 プトレマイオス1世によって
 エジプトの
 アレクサンドリア
 に建てられた
 世界中の
 文献を収集することを
 目的として建設
 古代最大にして
 最高の図書館・・・・石上宅継(大納言)の
           芸亭=芸亭院(うんていいん)
              藝(ゲイ・技)ではなく
              芸(ウン・香草・植)で
              本(巻物・書籍)の紙の
              害虫駆除、
              虫除けの香草の意味
           平城京(奈良県奈良市)に設置
           自宅のとした
           阿閦寺(あしゅくじ)の
           内の東南隅に建てた
           日本最初の公開図書館
           武蔵国-金沢文庫(横浜市金沢区)
           鎌倉幕府執権
           北条実時(北条義時の孫)が設立
           公開図書館
           江戸時代、
           徳川家康は
           金沢文庫の蔵書を
           大量に江戸城
           紅葉山文庫(1602年)へ移転
           江戸幕府の図書館
           紅葉山文庫=「御文庫」
           仙台藩で
           青柳文庫創設
 図書館には
 多くの
 思想家や作家の著作、
 学術書を所蔵
 当時、所蔵文献は
 パピルスの巻物
 蔵書は
 巻子本にして・・・・「巻子の本」
 およそ
 70万巻・・・
 アルキメデス
 エウクレイデス
 ら世界各地から学者が集まった
 一大学術機関で
 薬草園が併設・・・江戸幕府の
         「1855年(安政二年)
         「洋学蕃書調所」
         「蕃書調所」
          幕府が設けた洋学研究機関
          蕃書調所(蛮書調所)
          1856年(安政三年)発足
          江戸幕府の
          直轄洋学研究教育機関
          ペリー来航後、
          従来の
         「天文台-蛮書和解御用掛」
          を拡充・・・
          当時の兵学書
             造船技術書
             軍事関係書
             医学書
          などの洋書や外国新聞の翻訳
          諸外国の
          調査の為に設けられた機関
          安政二 (1855) 年
          洋学所設置の決定に基づき,
          安政四(1857)年開校
          洋学の教授、外交文書の翻訳などを司った
          文久二 (1862) 年
          洋書調所
          洋書調所を経て
          開成所・・・
         「東京外国語学校(東京外国語大学)」
         「東京大学」・・・
 ↓↑
 マケドニア
 の
 アレクサンドロス3世(大王)
 は
 アケメネス朝ペルシアを侵略し
 アナトリア
 と
 シリア
 エジプト
 を併合
 紀元前332年
 エジプト支配の中枢都市として
 アレクサンドリアの建設を命じ
 短期間の滞在後
 東方への遠征
 アレクサンドリアに戻ることはなかった
 紀元前323年
 彼の死期
 後継将軍(ディアドコイ)の一人
 プトレマイオス1世
 が
 ファラオを名乗って
 エジプト支配
 プトレマイオス朝の
 首都として
 アレクサンドリアを建設
 図書館
 学術研究所の
 ムセイオン
 ファロス島の大灯台を建造
 アレクサンドリア図書館
 ↓↑
 「船舶版」
 ガレノスによれば、
 当時のアレクサンドリアに入港した船は、
 積荷に含まれる書物をすべて
 一旦没収された上で
 所蔵する価値があるかどうか精査された
 所蔵が決定された場合には、
 写本を作成して
 原本の代わりに持ち主に戻し、
 同時に
 補償金が支払われた・・・
 これらの書物が
 「船舶版」と呼ばれた
 図書館は
 写字生を多数抱え
 組織的に写本を作った
 当時の写本は、
 ナイル川の
 デルタで栽培されていた
 パピルスを原料とした
 パピルス紙を利用
 同様に
 他の図書館の蔵書を強引に入手した
 アテナイの国立図書館は
 三大悲劇詩人
 アイスキュロス、
 ソポクレス、
 エウリピデス
 の戯曲台本を
 門外不出のものとして所蔵していたが
 プトレマイオス3世は
 担保金をかけて
 それを借り出すことを認めさせた後、
 それを返還する代わりに
 銀15タレントという
 違約金とともに
 写本のみを返した・・・
 ↓↑
 アレクサンドリア図書館は
 世界中から
 文学、地理学、数学、天文学、医学
 などあらゆる分野の書物を集めた
 研究
 幾何学の
 エウクレイデス、
 地球の直径を計測した
 エラトステネス、
 天動説の
 プトレマイオス
 などは、この図書館で研究
 古代最高の科学者の一人
 アルキメデス
 は主に
 シチリアのシラクサで活動したが、
 一時的には
 アレクサンドリアに滞在・・・したらしい
 大図書館
 と併設の
 ムセイオンなどの学術施設は
 プトレマイオス朝の手厚い保護を受け、
 滅亡後はローマ帝国に保護された
 その後、
 虫害・・・・虫の害デス
 や
 火災によって
 図書館の莫大な蔵書のほとんどは、
 併設されていた
 薬草園
 共々灰燼に帰した
 そして
 後世の略奪や侵略による度重なる破壊で、
 建物自体も失われた・・・
 アレクサンドリア図書館の火災
 プトレマイオス朝末期
 ユリウス・カエサルの侵攻時
 (ナイルの戦い ・紀元前47年)
 港の艦隊の火災が延焼して焼失・・・
 後
 ローマ帝国の下で復興
 270年代の
 アウレリアヌス帝時に
 内戦による被害
 最悪の打撃は
 4世紀末以降の
 キリスト教徒による
 継続的な攻撃・・・
 5世紀には
 当時の
 キリスト教徒大司教の使嗾のもとで
 ヒュパティアの虐殺(415年)
 大図書館やムセイオンを破壊
 ↓↑
 アレクサンドリア図書館の分館
 ラコティス地区の
 セラピス神の神殿
 (セラペイオン、セラペウム)
 には、
 本館をしのぐ規模の分館が存在していた
 391年
 異教徒の集会所と見なされ
 神殿もろとも破壊・・・
ーーーーー
 「サル」・・・遣り出したらキリガナイので本日はコレまで・・・

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