・・・今日、ETV13:00、「こころの時代~宗教・人生~共にわかちあう日々を(再放送)」でバイオリニストの「黒沼ユリ子」さんを観た。「黒沼健」は知っていたが、ボクとしては全然知らない人で、初めてTV画面で知った人物・・・ブログ検索で紹介記事を調べてみたらかなりの有名人。しかも、おばぁチャン、「日本、チェコスロバキア、メキシコ、3つの国に暮らし、世界40カ国で演奏活動を続けてきたバイオリニスト」だった。
小さいころ、やっぱ、オフクロに連れらて街の劇場で観たのは「天才バイオリニスト」といわれた「鰐淵晴子」さん。彼女は「ノンちゃん雲に乗る」や「伊豆の踊り」主演の女優だったが・・・「黒沼ユリ子」さんはマッタク知らなかった。だがTVのユリ子さんは魅力的で、なんか、その生き方には感動した・・・
当時、彼女の旦那さんと、
チェッコスロバキア(チェコ-スロバキア・捷克-斯拉仏克・撒克-斯洛伐克)から
ハンガリー(Hungary・匈牙利・洪牙利)、
ルーマニア(羅馬尼亜・Rumania)、
ブルガリア(勃牙利・布爾加利亜・Bulgaria)、
そして、
ギリシャ(Greece・希臘)の
パルテノン(Parthenon・帕台農神廟)を訪ねた時に、その彼が「古代ギリシャ文明が、現今の悪の根元になっているんだ」と言ったとか・・・旦那さんは「メキシコ(Mexico・墨西哥)」の「文化人類学者」だった。メキシコでの生活はムカシ、山奥に逃げ込んだ原住民の人々の山村の街。そこで、「バイオリン学校の開設」と「世界をマタにかけた演奏旅行」・・・そうですか・・・
そして、黒沼の家は戦前東京空襲、戦後、倉庫にあったゼンマイ捲きの蓄音機を引っ張り出して、クラッシック(classic)レコードを子供の頃から聴いていたとか・・・父親が誕生日にバイオリンをプレゼントしてくれたのがバイオリストの切っ掛けになった、とか・・・
おかげで、ボクは「メキシコの歴史」をコンピュータ検索で勉強するハメになっているが、複雑怪奇の「メキシコの歴史」・・・
ボクが知識と知っているのは「マヤ文明」や、「慶長十八年(1613年)伊達正宗のサン・ファン・バウティスタ号(San Juan Bautista)による支倉常長のヨーロッパ派遣のノビスパン(濃毘数般)、新イスパニア(新意斯巴尼亜)・ヌエボ・メヒコ(Nuevo México」、そして、映画の「アラモ」、「リオ・ブラボー」・・・そして「トロツキー暗殺」・・・
・・・小学校5年生頃、オフクロがボクの誕生日にクラスの好きな友達を二人よんで誕生祝いをしてくれると云うので親友と云うほどでもなかったが、ボク同様の母子家庭で父親がいない友だち二人を誘った。モチロン、3人共、家庭は母親が炭鉱の会社で働く長屋住まいで、みんな、生活レベルが一緒で、親の苦労も知らず、貧乏とも思っていなかったが・・・その「S君」の家には「蓄音機」があって、クラッシックのレコードを聴かせてもらったコトがある・・・戦前は裕福な家庭だったのカモ・・・当時の炭鉱は敗戦で職を失った人々が、集まって来た場所で「喰える巨大な職場」があった・・・
東京での学生生活、アルバイトで手に入れたモノが「卓上のステレヲ」だった・・・だが、クラッシックレコードの値段が高額で、トテモジャぁ~ないけれど、だった・・・タマァ~には喫茶店では聴いたが、コーヒーも高く、飲むモノはミルクだった。まったく聴いたコトのない古典音楽は、イイとも思わなかったが、モダンジャズなどは耳が拒絶反応で、モチロン、ヘビーメタル、ロックなんかはまったくダメ・・・好きなのは「映画音楽」と「歌謡曲・演歌・艶歌・怨歌」のタグイ・・・贅沢に音楽を聴くようになったのは名古屋在住の時からだった・・・なんせ、手に入れたのがソニーの真空管の四チャンネルスピーカーのステレヲで、今現在も持っているが・・・今も昔も、狭い空間じゃぁ、イャーホーンからのオト・・・
自分で楽器を演奏して唄いたかったが、「音符オンチ」で・・・「T・S」さんがギターの弾き方を教えてくれなかったら自分の作詞作曲の歌も唄えんかっただろう・・・「T・S」さんには感謝しています・・・
音楽、ホトンドがTVか、「ユウチューブ」で、演奏会場で生で聴いたコトは指で数えるほどだが、「バイオリン」の演奏者も、「ピアノ」の演奏者も、トランペットの演奏者もスゴイナぁ~と思う・・・もちろん、歌手も・・・ただ、オーケストラの「指揮者」の存在が、未だに「?」である・・・居なくてもイインじゃァないの、って・・・「絶対音感の指揮者」・・・耳が聴こえなくなった「ベートーベン」・・・不思議に思う・・・
・・・日本ハム、今日は勝ったけれど・・・
・・・気持ち・・・ワリりキれないモノは「ブンスウ」にするって?・・・円周率 「π(パイ)」は「超越数=連続無限数=±∞」で、「超越数」も入れた「数直線全体」のことを実数「R」といい、実数「a」と「b」によって「z=a+biz=a+bi」と書かれるものを「複素数(i)」とされた・・・「i(アイ=愛・哀・逢・遇・姶・合・会・相)」は「複素諏得」なんだ・・・?・・・「アビぃ」・・・「円周」を「直径=2r」で割っても、割り切れない数の連続で「∞=8の横倒しの字」である。類字記号は「∽=Sの横倒し」・・・江州・・・「s(エス)」は英語の「's(ス)」で複数・所有格」である・・・「重素(エス)」・・・spy、singerの頭文字・・・
↓↑
π=(円周・l) ÷ (直径)=円周/直径=円周:直径=3.1415・・・
π=(面積・S) ÷ (半径・r)²=3.1415・・・
「サン、テン、イチ・ヨム・イチ・ゴ」である・・・
ーーーーー
分数の割り算
逆数をかける
2÷2=1=2/2
3÷3=1=3/3
4÷4=1=4/4
である
1=2/2=3/3=4/4・・・
2=4/2=8/4=6/3・・・
3=3/1=6/2=9/3・・・
2(1/3)=7/3
分数の分子と分母に
0以外の同じ数をかけても、
分数の大きさは変わらない・・・
↓↑
ーーーーー
文数の和理の纂
「逆(ギャク・さからう)=屰+辶」の
「数・數(スウ・かず)=米+女+攵」を
カケる
弐(二)÷弐(二)=位地・位置・逸・佚・意知・壹・壱
参(三)÷參(三)=位地・位置・逸・佚・意知・壹・壱
肆(四)÷肆(四)=位地・位置・逸・佚・意知・壹・壱
である
イチは「二文の二」
と「サン文のサン」
と「ヨム文のヨム」・・・
二は「ニ文のヨム」
と「ヨム文のハチ」
と「サン文のロク」・・・
サンは「イチ文のサン」
と「ニ文のロク」
と「サン文のク」・・・
ニ、カッコ、サン文のイチ、カッコは
「シチとサン文のイチ」
文数の文子と文母に
ゼロ(零・例)以外の同じ文をカケても、
ブンスウ(文素得)の大きさは変わらない・・・
ーーーーー
↓↑
・・・「ブンスウのガク」・・・
「アイ(ai)」は
「ム(mu)」の
「ク(ku)・7(nana・シチ・シツ・seven→施文)」・・・
「ム」→「ク(7)」→「マ」
ム→む→25度→→70度→ク(7)←反転→→マ
↓↑
「ム=よこしま=シ・私」
「ク=く=苦」
「7=なな=陀・斜・質・疾・失・嫉・漆・悉」
「マ=ま=眞・魔・倍・萬」
「予の異体字=舍(三体石経)」・・・予=マ+了(ア)
「予=与(與)える」
↓↑
「現代市民社会」の基本原則もこれに尽きる・・・
「人間社会の共同体の論理学の帰結」も、この概念化された、抽象化された「コトバ」に事実として、その現実的な「生活形態」が合致せねばならないのは言うまでもないだろう・・・
そして「盗むな」が「論理の要」で「盗むコト」が「他のコトバ=観念=観念」に置き換えられて、その意味がアイマイにボカされているのだ・・・
そのサイたるモノが
「私(ム)的所有=疎外された富の蓄積」、
「資本=疎外された労働」
「自由=疎外された選択」
と言うコトバの肯定である。
そして「騙す」も「殺す」も、
生きている人間が「盗むため」の手段である・・・
「新約聖書」に語られている「愛(アイ)」・・・
「愛」と言う概念の歴史的発生とその論理性は、
「殺すな、騙すな、盗むな」の共同体の原則破綻から発生した「コトバ」である。
人間にとって「愛」と言うコトバが必要とされる「人間社会」は「論理学」からみれば「人間の疎外された社会」である。
当然にも「愛」は「天国」と言う観念幻想に止揚されてしまうから・・・
「愛」は、漢和辞典には、
「愛=爪+冖+心+夂(夊)」の合字で、
「爪」は「掴みとる・衛る」、
「冖」は「覆う」、
「心」は「こころ」、
「夂・夊=すいにょう」は「夂=チ・ついていく」で、
「夊=スイ・ゆっくりといく・やすらかにゆく」である。
類字は「攵(たたく・ボク・ホク)=攴」で、
「叩く、打つ」である・・・
「愛」は、
・・「キ=既(皀旡)+心」=感歎、悲喜
・・・「アイ=旡+心」=元気のない足取り
が変形したモノとある。
「皀」は食べ物で、
「旡」は喉につまる、むせぶ、息が詰まるの意味である。
「皀」の上下の文字交換したモノが
「旨(うまい)」である。
また「旡」は「たらふく食って後ろにのぞけっている象形」とある。食べるものが充分に確保されているコトだ。
「愛」の本義は「食える・食わせる」と言うことらしい・・・なるほど、デートには食事に誘うのが常道で、親は子供に餌をやらねばならない・・・
「旡」は
「牙(ガ・ゲ・きば)」
にも
「无(ム・ブ・無い)」にも類字し、
「牙」は「武器」であり、「象牙」であり、「歯牙(ことば)」、「毒牙」であり、
「仲介料、手数料をとる者」であり、
「植物発生時の芽生えるコト」であり、
「牙籤(ガセン・書名分類の象牙の札)」である。
「无妄(ムボウ)」は
「真実でいつわりの無い象」である、と記されている。
また、「愛」は、
仏教では「異性や物をむさぼり求めるコト・十二因縁の一」で、
キリストの「愛」は「神が人類に幸福を与えるコト。また、人類すべてを兄弟としていつくしむコト」
とある。
仏教では「愛」は「欲望・愛欲」と同義語であるが
「理諏経」は「セックスの歓喜の方法理論のお経」である・・・
キリスト教では幸福の場所は「天国」か、未来的な「千年王国の蘇生」に於いてである。そして「人類すべてを兄弟としていつくしむコト」の延長には「汝の敵を愛せ」と言うことだが・・・
自分自身に対して「殺す、騙す、盗む」者として存在する「敵」を「愛」しては、やはり行き場所は「天国」しかないのは自明であるが・・・自分自身がダレかのタメに「殺す、騙す、盗む」は「アイ」の根源かも・・・「活殺」は相対としての事情によるカモ・・・兎に角、生きているモノは、「生きているモノ(動植物を含む)」を喰っている・・・「愛」は「爪を隠すワの心」の「攵(ボク)」なら打ちの
そして「愛」は抽象観念であるから、人間諸関係の事象を基礎として、その「心的観念」、「心情的観念」として意味説明され、語らねばならない言葉である・・・
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(新約聖書、マタイ福音書、5章44節)
「敵(リバル)を愛するコト」は理解できる。
その諸能力と知恵が優れているならば、「敵」であっても「学ぶためにその長所を愛する」だろう。
「迫害する者のために祈れ」とは、「何を祈る」のか?・・・「祈れ」は「呪え」ではないよな・・・「迫害しない者」として「神への回心を祈るコト」なのか・・・当然である。
だが、一般的に理解するならば「迫害する者」であっても、「祈れってヤレ」である。その現実的な「迫害」は「祈る者」に対してなされているハズである。「迫害されて祈る者」には救われて「死後の天国」があるからだ。「迫害した者」には「天国」はない。あるのは「死後の地獄」である。だが生きている両者にある「関係」は「迫害と被迫害の現実」があるだけである・・・死んで、生きカエッて天国、地獄を観たモノはイナイ・・・死者は蘇(甦)えるコトは無い・・・「臨死体験」は死者ではない生きている者の体験である。「幽霊」は死んだモノの「現象?」である。
「愛=現実的に迫害を許す」と言う「被迫害者」の「観念」は、現実社会に於いては「諦め=死後の天国」と言う「観念」に止揚されるのだ・・・脳ミソだけが知っている・・・?
・・・パウロ(サウル・キリキア地方タルソスに生まれたユダヤ系ギリシャ人?)は「キリストの教え」を人類の観念として改竄した・・・?・・・「愛(アイ)のブンスウ」・・・
・・・「価値」ですか・・・「使用価値」でしかない・・・「価格」とは異なる・・・「世の中の価値?」は「共有財産」にしたくない奴らがワンサカ「犇(ひしめ)」いている。個々人が個人的に「私有」として儲けたいんだからアタリマエの世の中で、呑み代に「政務活動費」をチョロマカシテいた富山議会の辞任の元市議会議員と「アマリ」のチガイはナンなんだか?
「バカと正直と狡さ」の違いか・・・
マスゾエの言行不一致、そのセコさにはワラッたが、言行一致の「竹中平蔵」とセコさは同類だろう・・・今現在の築地市場の豊洲移転問題、石原・猪瀬・舛添らの元東京都知事、コレを監督してた?
東京都の小役人にもアキレル・・・「新銀行東京の赤字破綻(1000億円+400億円)」は石原だった。都庁には出勤もせず「小説」でも書いていたんだろ・・・借りて「法人企業」を倒産させたヤツの個人的な給料でのフトコロ具合はドウなったんだか?・・・
それよりも「官房機密費=内閣官房報償費」はドウナッタンダか?・・・「報償費や調査費の名目で領収書も不要のカネ」・・・過去的には首相クラスの政治家が「外遊?」すれば一回、「1000万円」って?・・・
思い出したが、某政治屋が新築で官房機密費から「3000万円」くれって・・・当時の「民主党」も「官房機密費=内閣官房報償費」はそのマンマ・・・
そして、沖縄、地震、大津波、原発事故、尖閣列島での「指導力のハタン」・・・
ダレもが?、「民主党やめた、ヤメレ」だったろう・・・あの「Shadow Cabinet」とかで意気込んでいた奴等。「タケシ」も雑魚を応援してたョなッ。そして、「みのもんたは働き過ぎだ、あのやろうッ」って、タレントも競争相手との金銭商売だから・・・
そして民主党、権力を握ってナニをしてたんだか・・・高校教育費無償、羽田空港建設は民主党がやったのに・・・手柄は自民党の如く流布されている、だってか・・・確かに狡さは上である・・・
だが、「プチブル国家主義者?(空缶・泥鰌・策士)」と「ブルジョア国家主義者?(鳩)」の右往左往、烏合の衆・・・それらの「国家-主義」の理念も立場も無く、「第二自民党」でもない・・・ここは漢字の「民」を調べろである。漢字の本義は「目を潰された奴隷」である・・・
「連坊、前原、玉木」各氏の「ヒッシの旨い弁舌?」には聴いていて拍手を贈りたいが、会場では、C国、N国、アメリカ大統領選のような熱狂性も、迫力も無い音のパチパチパチ・・・あれは「お行儀がヨイ」のとは違う・・・前原の時は彼の仲間の拍手が少し強かったが・・・「富山議会の民進党議員の辞任」と重なる・・・同じ穴のムジナ・・・
連坊さんがカタッた「人気がタカイ自民党」とはネッ?・・・ぶら下げられたニンジンは美味しい匂いのモノがイイ。だが、それを喰えるのはダレなんだか・・・喰えるかどうかは早いモノがカチか・・・
「国家社会の全階層が好循環」になるとはナニなんだか?・・・具体的なモノは自民党が小刻みにヤッテは大きく見せている。「おんぶ」には呆れたが・・・
プチブル意識極貧のボクとしては「連坊」氏には期待したいけれどネッ・・・「財源(カネ)」は市場に溢れているが・・・カネ以外の方法があるんだら聴いてみたい・・・
・・・164キロ(投速=移動距離・時速・時間→速度=距離÷時間)の「大谷」と、打者の「糸井」の息詰まるような対決・・・「速度=距離÷時間」の割り算の「商」ですか、「球速=マウンド→ホームbaseの距離÷時間」・・・逆転した・・・20時30分、8回表4-2・・・TV中継が結果を報じずに途中で終わった・・・勝った・・・「丙申ー丁酉―戊戌」・・・旭川で殺人事件・・・台風も連発で襲ってくるらしい・・・「歌うのはデーモン閣下、『toi toi toi』とは、ドイツに伝わる幸運を呼ぶ小さなおまじないの言葉」であるらしい。調べてみたらドイツ語で、「上手くいくよ・大丈夫、しっかり、がんばって」、「相手の成功や幸せを祈り、日本語で言えばクワバラ、クワバラのように災いや忌むべきことを避けるために唱える呪(まじな)い」、「Teufel(悪魔)祓(はら)いで『toi toi toi』と3回唱え、コンコンコンと3回、木を叩くコト」、会話でのお返しの返事は「Danke schön(ダンケシェン)」・・・桑原(くわばら)には雷電、雷鳴、落雷?・・・雷の実体は「大蛇」・・・雄略天皇の「小子部栖軽」=「小子部蜾蠃」=「取雷栖軽」・・・小子部蜾蠃=「蜾蠃」=螟蛉(メイレイ)=桑虫の子・・・扶桑國です・・・
ナルホド、日本語での同音のコトバは「問い=とい=訪い・樋・土居・土肥」で「訳意(とイ)」であるかな。ナニを「問うのか?」って、割り算の「商」であるが・・・
↓↑
その「商=ショウ=背負う(?)」は「古代中国の商王朝」?・・・「周王朝は先代の王朝名として殷(イン)を用い、殷後期の首都は出土した甲骨文字では商(ショウ)」と呼ばれたらしい。「商年うくるか・・・」の「甲骨文字が殷墟で発見され、殷(イン)を商(ショウ)と呼んでいた」らしい・・・「商」は「割り算・分轄」の「答え」である・・・商殷(ショウイン)・・・
松陰・・・承引・・・勝因・・・証印、樟蔭・・・吉田寅次郎・・・「寅(とら・イン)の次の郎(侍郎・尚書郎・次官)は卯(う・ボウ)」?、「虎(とら・コ)の爾漏」であるかな・・・
「郭務悰(忄+宗)…唐の使節で位は朝散大夫(文官)」、
じゃぁ「郎」は、
「百済鎮将の
劉仁願(右衛将軍・魯城県公)=郎將=蘇定方の配下の武将」
「檢校帶方州刺史の
劉仁軌」
「左衛中郎將の
王文度」
「右威衛将軍の
孫仁師」・・・
「白水郎(あま)」・・・海女・海人・贏
海部→阿部・阿毎(王朝)
「郎子(いらつこ)・郎女(いらつめ)」
「いらつめ=郎女・女郎・娘子」
「郎=中央の中級役人
地名は春秋時代の
魯の近郊の邑・山東省」
「菟道稚-郎子(うじのわき-いらつこ)」→「王仁」
「王仁=応神天皇時代に百済より論語・千字文を伝来」
・・・クサカぁ~・・・
↓↑
「商」は領土を分割、分与、分奪(ブンダツ)したんだろう・・・モチロン、「財産、領民」も・・・
「分奪(ブンダツ)」?・・・文脱(ブンダツ)?・・・「脱文(ダツブン)は抜け落ちた文句・文章」・・・「平文 (ヒョウもん・ひらもん)」の一つ・・・
「脱文(ダツブン)=平文(ヒョウブン)・評文
平脱(ヘイダツ)=平文 (ヒョウもん)の一つで
中国での呼称
↓↑
漆器の加飾法の一
金銀などの薄板を文様に切って漆面にはり、
漆で塗り埋めてから、
その部分を研ぎ出し文様を表す
奈良時代に唐から伝わり、平安時代に盛行
ひらもん・・・」
「装束に用いた、
彩色や刺繍 (シシュウ) による
種々の色の組み合わせ文様」
↓↑
「秦(シン)には
殷(イン)墟」の伝承があり、
西方の周に急襲され、
牧野で敗れて壊滅・・・・「商=殷」は最近の語
「三監
(サンカン・サンケン)の乱」
↓↑ ・・・監(カン・ケン)→藍(あい・ラン)
肝心な処、日記の更新で
「監≠ラン」を修正しなかった・・・
監=監督の「監=カン・ケン」です
↓↑ ↓↑
藍山蜂起(ラムソンほうき)
黎利(レ・ロイ)による
中国明朝からのベトナム独立の
1418年から1428年にかけての闘争
↓↑
宇和島藩八代藩主
藍山=伊達宗城・・・「藍山公記」
明治十六年(1883年)12月26日
修史館副総裁に就任
↓↑ ↓↑
1869年(明治二年)
明治政府は
「修史の詔」を発し
「六国史」を継ぐ
正史編纂事業の開始
旧和学講談所内に
史料編輯国史校正局が設置
国史編輯局
太政官歴史課を経
1875年修史局と改称
史料の収集と
『復古記』
『明治史要』の編纂を行い
1877年
↓↑ 「修史館」と改称・・・修史=改竄・・・?
後、
「殷人が全国に分散し、
互いの居住地を行き来し
物々交換を始め、
商人・商売・商業の名の語源になった」、
「詩経の商頌」篇には
始祖
契(セツ)・・・・・・契約の「契」である・・・
の事績が記されている
周王朝初期にはこの王朝の名が
「商」であった」・・・
↓↑
ーーーーー
周公旦(シュウコウタン)?~前249年
中国周王朝の一族
「爾雅(辞書)」の著者
「爾疋(ジガ)」とも書く
「爾=邇は、近の意
雅=疋は、正の意
五経を読むための字書・・・
姓は姫
諱は旦
周の
西伯昌(文王)
の四男
母は太姒・・・・・太姒=「太+女+以」→似=イ+以
武王の弟
↓↑
武王が・・・武王
↓↑ 初代周王
諱は発
文王の長子
姜子牙(太公望・呂尚)を師父とし
紂王の東征に乗じて
朝歌を攻略し
牧野で紂王を撃滅
戦後、洛邑を行宮として
東方の鎮撫に注力
殷の遺民に対しては
紂王の遺児の
武庚を
朝歌に封じ
弟の叔鮮・叔度を管・蔡に封じて
武庚の監国とし
姜子牙と甥の伯禽を
斉・魯に封建して
東夷・淮夷を警戒
↓↑ が、3年程で病死・・・
殷を滅ぼした後
周公旦は
魯に封じられ
首都
鎬京にとどまり・・・鎬=しのぎ・なべ・コウ
刀剣で、刃と峰との間に
刀身を貫いて走る稜線・鎬筋
鎬を削る
武王を助け
次代の
成王
即位後は
摂政とし、国事にあたった・・・
「周公」は称号
公旦は周の故地である
岐山に封じられて
周の公(君主)となった
・・・「織田信長」の
岐阜の名称由来?・・・
↓↑
三監の乱・・・監(カン・ケン)→藍(あい・ラン)
肝心な処を修正しなかった・・・
を鎮定し
封建制度を確立
東方経営に力を注ぎ
洛邑に東都成周を建設
↓↑
魯
周公旦が始祖
山東省
曲阜(キョクフ)に都
初代の
「公」・・・・・公=ハ+ム
である
伯禽の父・・・周公旦は都、鎬京で摂政
呂尚(太公望・姜子牙=キョウシガ)
・・・尖閣列島で釣り?・・・
や
燕の
召公奭
など
周建国の功臣の一人
↓↑
周建国後
殷の
帝辛の子の
武庚(禄父)は
周公旦の
三兄の
管叔鮮
と
五弟の
蔡叔度
八弟の
霍叔処
ら
三監
に監視されていたが
霍叔処を除く
二人は
公旦が成王の摂政に就いたのは
王権簒奪の目論見とし
武庚を担ぎ、反乱
公旦は
武庚と
同母兄の
管叔鮮を誅殺
同母弟の
蔡叔度は流罪
霍叔処は庶人に落とし、
蔡叔度の子の
仲胡に
蔡の家督を継がせた
↓↑
7年後
公旦は
成王に政権を返し
臣下の地位に戻った
後、
雒邑(洛陽)を
周の副都とした
↓↑
「殷の王族」
王の選出資格を持つ
十干に対応した
十氏族の連合によって構成
「干内婚と族外婚の禁止」
によって純血を保ち、
殊に甲・乙・丁族が有力だった・・・?
系譜上の血縁は、
甲骨文の解釈によれば
部族全体を一家族と見做した
↓↑
周初に興殷を唱えた「三監の乱」
遺殷勢力の呼応で容易に鎮圧されず、
戦後に
殷の遺民は
王族の
微子と、
周の王族の
康叔に分割支配
↓↑
康叔は
即位当初は素行がワルく
伊、尹によって
湯王の殯宮である
桐宮に放逐され、
改心し3年後に復位・・・
↓↑
周初に興殷を唱えた
三監の乱・・・監(カン・ケン)→藍(あい・ラン)
肝心な処を修正しなかった・・・
武王は東方支配の
洛邑(洛陽市西郊)を
建設しようとしたが果たせず
鎬京に帰還し死亡
位を継いだ
成王が幼少のため
叔父の
周公旦(武王の弟)が摂政政治
殷の監視のため東方に派遣されていた
管叔(武王弟)らが
周公旦が王位を奪うと疑って反乱を起こし
殷の旧領を支配していた
紂王の子の
武庚
が加担し大動乱
周公旦はこれを鎮圧
殷の残存勢力を一掃
↓↑
戦後に殷の遺民は
殷王族の
微子と、
周王族の
康叔に分割支配
周の支配を拒む勢力は定住せずに
交易=行商に従事
商人の語源になった・・・あきんど・・・
・・・まるで、「旧約聖書」の丸写し・・・?・・・
ーーーーー
で、「デーモン閣下」・・・「toi toi toi」・・・
英語では「toy(トイ)=玩具(ガング)・おもちゃ・役に立たない、使いものにならないモノ・つまらないモノ・toysは学校などで使用する机・勉強部屋の小部屋」であるらしいのだが、「玩具(ガング)」、「玩ぶ=もてあそぶ=弄ぶ」、「愚弄(グロウ)」・・・「悲しき玩具→仮名詞記玩具」は「石川啄木の個人歌集(明治45年(1912)刊)」・・・モテアソブのコトバ・・・樋は雨樋・・・空が泣いたナミダ(涙・泪・涕)・・・
ーーーーー
http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/815_20544.html
↓↑
一握の砂以後・・・いたく錆(さび)しピストル出でぬ
砂山の砂を指もて掘てありしに
・・・かなしきは
飽(あくな)き利己の一念を
持てあましたる男にありけり・・・
↓↑
・・・
ボロオヂンといふ露西亜(ロシア)名が、
何故ともなく、
幾度も思ひ出さるる日なり。
いつとなく我にあゆみ寄り、
手を握り、
またいつとなく去りゆく人人!
友も妻もかなしと思ふらし――
病も猶(なほ)、
革命のこと口に絶たたねば。
やや遠きものに思ひし
テロリストの悲しき心も――
近づく日のあり。
かかる目に
すでに幾度会へることぞ!
成るがままに成れと今は思ふなり。
月に三十円もあれば、
田舎(ゐなか)にては、
楽に暮せると――
ひょっと思へる。
今日もまた胸に痛みあり。
死ぬならば、
ふるさとに行きて死なむと思ふ。
いつしかに夏となれりけり。
やみあがりの目にこころよき
雨の明るさ!
病やみて四月(しぐわつ)――
そのときどきに変りたる
くすりの味もなつかしきかな。
病みて四月――
その間まにも、猶、目に見えて、
わが子の背丈のびし、かなしみ。
すこやかに、
背丈のびゆく子を見つつ、
われの日毎にさびしきは何なぞ。
まくら辺べに子を坐らせて、
まじまじとその顔を見れば、
逃げてゆきしかな。
いつも子を
うるさきものに思ひゐし間(あひだ)に、
その子、五歳になれり。
その親にも、
親の親にも似るなかれ――
かく汝(な)が父は思へるぞ、子よ。
かなしきは、
(われもしかりき)
叱(しか)れども、
打てども泣かぬ児の心なる。
「労働者」「革命」などといふ言葉を
聞きおぼえたる
五歳の子かな。
時として、
あらん限りの声を出し、
唱歌をうたふ子をほめてみる。
何思ひけむ――
玩具(おもちや)をすてておとなしく、
わが側(そば)に来て子の坐りたる。
↓↑
インターネットの図書館、青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/
ーーーーー
・・・ムムム、ムッ・・・
・・・なんか、ここは朝から小春日和りってカンジだが、赤とんぼ・・・昨日は5センチくりらいの膨らんだキュウリがぶら下がっていたが、まだ伸びるだろうと思って採らなかったが、今朝は黄色くなって腐っていた。梨は大量に地面に落っこちているが喰い物にはならないか・・・カラスが群れて飛んでいく・・・京都の夏は暑くて、冬は寒い所だったな・・・熊野寮の前にはレストラン「じじばば」と「ソフトクリーム屋」があったが、ムカシ、むかしのハナシ・・・「M」も今頃、苦労してんだろうな・・・誕生日までには「カネ」もどうやら底を尽きそうだ・・・
今現代の世界的状況は「方丈記」である・・・戦争、天変地異・・・何時の時代も同じか・・・
「烏丸(からすまる)」の地名由来だが、「地名は、かつてあったとされる川に由来」・・・「京都には、東に鴨川と、西にある桂川。昔には今出川や夷川(えびすがわ)もあった」、「鴨川の一支流とみられる烏丸川という小川が流れ、烏丸通に沿って、もうひとつ川が流れ、河原の中洲を、河原の洲=かわらのすと呼び、それがカラスとなり、中州一帯を、河原の洲の間=かわらのすのまと呼ぶようになった」?・・・「烏丸綾小路で弥生時代の住居の遺跡が発掘された」・・・
「烏丸川の方は応仁の乱後から渇水しがちになり、天正年間までに埋め立てられその姿を消した」、「渇水」は「涸(か)らす」か?・・・「烏丸は、平安遷都の当初はまだ字面通りに「からすまる」と読まれていた」・・・
「撥音便化」で「からすまん」、
「語尾音が脱落」して「からすま」に転じた・・・?
「今日では烏丸を含む名称のほとんどが
カラスマと読まれているが、
旧堂上公家の
烏丸家とその家系に連なる者に限っては
今日でもこれを
カラスマル
と読んでいる」・・・「からす-まる」だろう?
江戸時代の「烏丸家(からすまるケ)」から・・・
「烏丸=karasumaru」
マルの発音は、平安末期迄の人達にとって
発音し難いモノだった・・・」・・・?
「後ろの ar が落ちる形の
カラスム、或いは ru が n に変化して仕舞う
カラスマン、発音に成った・・・
イロハで、
チリヌルの nu-ru を続けて発音して居る事からも、
ン、ナ行とラ行は必要に応じて入れ替わった・・・?
所謂。音便です・・・」
・・・色々な説があるらしいが、やっぱ、ココは「漢字」から、その地名由来を考えるべきであるカナ・・・「マル」が発音しずらいってのも「?」である。
「円・圓」は「まる」じゃぁなく、「つぶら」で「都夫良意美(つぶらおみ)」は「葛城 円(かつらぎ の つぶら)・?~安康天皇三年(456年)」の人物で「眉輪王・目弱王」を守った人物であるが・・・
「丸」は「真田-丸」や、「西の丸」の「丸」で「陣地」や、「城」や「砦」の「敷地・領域・区画」だろう・・・
そしては「さる丸」は「猿丸大夫(さるまるのたいふ・さるまるだゆう)」の記録がる。「三十六歌仙の一人。生没年不明・大夫とは五位以上の官位を得ている者の称」らしいが、遊廓(遊郭)、廓(くるわ)の遊女の階級でもあった・・・
小倉百人一首では
「おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき」
菅原道真の「新撰万葉集」では
「奥山丹 黄葉踏別 鳴鹿之 音聆時曾 秋者金敷」
「あきやまの もみぢふみわけ なくしかの こゑきく時ぞ 物はかなしき」
地名の「金敷」とは「大和町の金敷城山(佐賀県)←乙文殊→巨石パーク」、そして和歌が詠まれた場所が「宮妻峡、三重県四日市と鈴鹿市に跨る鈴鹿川支流、内部川上流の渓谷。鈴鹿宮妻峡」?
「鴨長明(南大夫・菊大夫)」の「方丈記(?)」には
「・・・アハヅのハラをワケツヽ、
セミウタのヲキナ-ガ-アトを-トブラヒ、
タナカミ河をワタリテ、
サルマロ-マウチ-ギミ-ガ-ハカヲタヅヌ」
というのは、「猿丸大夫の墓をたづぬ」ことで、「サルマロ」は「猿丸」、「マウチギミ」は「大夫」に当たるとの説があるらしい・・・原文は「カタカナ」なのか?以下は「青空文庫」からの抜粋添付であるが・・・
「もし日うらゝかなれば、嶺によぢのぼりて、はるかにふるさとの空を望み。木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。勝地はぬしなければ、心を慰むるにさはりなし。あゆみわづらひなく、志遠くいたる時は、これより峯つゞき炭山を越え、笠取を過ぎて、岩間にまうで、或は石山ををがむ。もしは粟津の原を分けて、蝉丸翁が迹をとぶらひ、田上川をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ」
「方丈記」、アマリにも名文で出来過ぎであるカナ?
で、「大夫」はカタカナが原文なら「マウチ-ギミ」・・・?
「猿丸-大夫(大臣・側近・内大臣?)」が「サルマロ-マウチ-キミ」と読むなら、「真打(まうち・しんうち)」ですかネッ?・・・「大、中、小」の「納言」であるならば、「マウチ」は「モウス=もうす=申す」ではないのか?「ス」を「チ」との読み違いか、写し違い?・・・それに「セミウタのヲキナ」とは、
第十番(百人一首)の
蝉丸(せみまる)なら、
「これやこの 行くも帰るも わかれては 知るも知らぬも あふ坂の関」・・・「あふ坂の関」と「アハヅのハラ(粟津の原)」って・・・?・・・
兎に角、「百人一首」は「藤原定家」の撰である。彼の履歴は、
応保二年(1162年)
~
仁治二年八月二十日(1241年9月26日)
法名 明静
別名 京極殿、京極中納言
官位 正二位・権中納言
主君 二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇
↓↑
後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇
↓↑
後鳥羽天皇
治承四年七月十四日(1180年8月6日)
午時・五条町亭で誕生
~
延応元年二月二十二日(1239年3月28日)
隠岐で死亡
↓↑
仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇
「後鳥羽天皇」の「承久の変」・・・承久三年(1221年)に、「後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権、北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱」の宮廷人であった。後鳥羽上皇は隠岐に流され、関係資料を持って隠岐で「隠岐本新古今和歌集」を作り上げた・・・「鴨長明」は「藤原定家」と同時代の「久寿二年(1155年)~建保四年閏六月十日(1216年7月26日 )」で、七歳年上・・・「後鳥羽天皇」より二十五歳年上・・・
1118年生・・・平清盛・・・1184年死
永久六年一月十八日(1118年2月10日)
~
治承五年閏二月四日(1181年3月20日)
↓↑
1155年生・・・鴨長明・・・1216年死
1162年生・・・藤原定家・・1241年死
1221年・・・・承久(三年)の変
1180年生・・・後鳥羽天皇・1239年死
↓↑
「後鳥羽天皇(上皇)」の
「後(あと・のち・ゴ)の
鳥(とり・チョウ)の
羽(は・ウ)」である・・・
「百人一首」の「歌留多」としての普及は「江戸時代」からであるらしい・・・
↓↑
「定家から蓮生に送られた色紙、いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は、蓮生の子孫にも一部が受け継がれた。室町時代に茶道が広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。戦国時代の武将・宇都宮鎮房が豊臣秀吉配下の黒田長政に暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房が豊前宇都宮氏に伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因とされる。小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった」・・・「贋作(ガンサク)」には需要があった・・・
↓↑
「猿丸大夫=さるまるだゆう=猿丸太夫)は「江戸時代」の読み仮名であるらしいく・・・日光山の伝承では「小野猿丸ことは猿丸大夫」とかがあるらしい・・・「沙留・沙流」の名前の記録もあるらしいが、問題は「丸・まる・マル・満留・萬留・〇」である・・・そして、「丸=九+ヽ」は「ガン」である・・・
↓↑
烏丸家(からすまるケ)
藤原北家
日野氏流の公家
家格は名家
室町時代の
権大納言
日野資康(裏松資康)の三男
贈内大臣豊光を祖
家業は歌道
江戸時代の石高は1153石
豊光の子
資任は准大臣
室町幕府
八代将軍
足利義政の寵臣
↓↑
烏丸光広
藤原北家
内磨流
日野家支流
烏丸家
父=烏丸光宣
正室
鶴姫(江戸 重通の女、結城晴朝の養女)
側室
村上頼勝女
子
光賢、
勘解由小路資忠、
六角広賢
ほか
烏丸光広(からすまる みつひろ)
江戸時代前期の
公卿・歌人・能書家
准大臣
烏丸光宣の長男
官位は正二位権 大納言
細川幽斎から
古今伝授を受けた・・・古今の伝授?
↓↑
名家(めいけ、めいか)
鎌倉時代以降に成立した
公家の家格のひとつ
羽林家と同列
半家の上の序列に位置
例外
日野家は左大臣
烏丸家
と
万里小路家・・・・・「萬理」?
は
内大臣、
柳原家は准大臣に進んだ
日野流は侍従を初任とするが
勧修寺流は
廷中佐(衛門権佐)を
初任とする場合が多く
新家の場合には
弁官のみで
蔵人を兼ねず、
途中で
四府佐や八省輔
↓↑
烏丸家(からすまるケ)
藤原氏
北家冬嗣・・・・北の家の冬を嗣ぐ?
の流れ
家格は名家
家名は京都の
烏丸に住したのによる
烏丸を名のった
公卿は少なくないが
子孫が
世襲して
称するようになるのは
室町時代
権大納言
日野資康の二子
豊光・・・・・・豊光・・・豊後(ぶんご)?
から・・・
烏丸家
藤原北家の
日野氏流の公家
家格は名家
室町時代の権大納言
日野資康(裏松資康)・・・裏の松の資の康?
の三男・贈内大臣豊光を祖
家業は歌道
江戸時代の石高は
1153石
豊光の子
資任は准大臣
室町幕府八代将軍
足利義政
の寵臣
↓↑
烏丸光亨・・・・烏の丸の光の亨(とおる)?
1865年 誕生
1884年 伯爵
1909年 死去
↓↑
烏丸藤四郎
短刀の銘 吉光
名物は「烏丸藤四郎」
8寸5分半
享保名物帳
所載 烏丸藤四郎
日野資康の三男
豊光(烏丸家祖)が、
院の執権となり、
検非違使の別当を兼ね、
勢力を張る
↓↑
「丸」と「桓」の漢字の相異(相違)はなにか?・・・
↓↑
小烏丸(こがらすまる)
現存する日本刀の中で最も古い時代の物の一
平家一門の家宝
刀工「天国(あまくに)」作と伝えられる日本刀の名
↓↑
桓武天皇の時代
伊勢神宮より遣わされた
八尺余りある
大鴉
「八咫烏」が空より舞い降り
その羽から出てきたという伝承
「小烏丸」
という名はこの伝承に由来
後に
平貞盛が
平将門、
藤原純友
らの反乱を鎮圧する際に
天皇より拝領した・・・
↓↑
その後、
壇ノ浦の合戦後行方不明
天明五年(1785年)
平氏一門の流れを汲む
伊勢家で
保管
が判明し、
伊勢家より
刀身及び刀装と伝来を示す
「伊勢貞丈家蔵小烏丸太刀図」
の文書が幕府に提出された
一度は伊勢家により
徳川将軍家に献上されたが
将軍家はそのまま伊勢家に預け、
明治維新後に伊勢家より
↓↑
対馬の
宗家に買い取られた後、
明治十五年(1882年)
宗家当主の
宗重正伯爵より
明治天皇に献上・・・
現在はこれが皇室御物
「小烏丸」として、
外装ともに宮内庁委託品として
国立文化財機構で保管
刀工「天国」作という説があるが、
現存するものは
生ぶ茎、すなわち
無銘である・・・
↓↑
からすまる→からすま
↓↑
「烏丸(ウガン)」
漢代から魏の時代にかけ
中国北方に勢力を張った遊牧民族
「烏桓(ウガン)」の別表記
中国の正史・二十四史の中で
「三国志」が
「烏丸」と記し、
他は
「烏桓」と記している・・・
↓↑
「丸」と「桓」の漢字の相異(相違)はなにか?
↓↑
「丸」=まる・まるい・まるめる・たま・ガン・グヮン
まるい粒・塊
一丸・睾丸・弾丸・砲丸・弾丸・飛丸
丸剤・丸薬・丸太
ひとかたまり・そのまますべて
人・イヌ・刀・船などの名に添える語
丸薬=地黄丸・長命丸
幼名=・・・丸・牛若丸
船名=・・・丸
丸顔・丸首・丸腰・丸太・丸裸
丸子(まりこ)
丸雪(あられ)
まる=輐・槫・摶・圝・團・圓・圌
団・円・丸・球
弾丸雨注
弾丸黒子・・・黒子=ほくろ・くろこ
弾丸黒痣
弾丸之地
一瓜実に二丸顔
親方日の丸
胡椒の丸呑み
四角な座敷を丸く掃く
上戸めでたや丸裸
弾丸黒子の地・・・・狭い小さな土地
鼻糞丸めて万金丹
本丸から火を出す・・・本の丸からヒを出す?
坊主丸儲け
丸い卵も切りようで四角
丸くとも一角あれや人心
↓↑
「桓」=異体字は「楦=木+宣」
めぐる・うれえる・カン・ガン
桓=郵亭(宿場)の「しるし」として、
宿場の周りにたてた木
棺を墓穴におろすために
四すみに立てる柱
盤桓(バンカン)=うろつく
(徘徊・彷徨)
ぐずる
(未練がましい)
鯢桓之審=大海の水深が深い場所
牝クジラ(鯢)
久志羅・久地楽・櫛羅
↓↑
桓因
と子の
桓雄
は下界に興味を持ったので、
桓因は桓雄に下界を治めるよう命じ
桓雄は太伯山(三國遺事で妙香山、白頭山)の
神檀樹に部下3,000人と共に天下って
「神市」という国を築いた
桓雄は
ある
「熊」の願いをかなえて・・・「熊・球磨・久万・隈・阿」
女にし、この
熊女(ユウジョ・ウンニョ)との間に子をもうけた
これが
檀君王倹(檀君)・・・・・談(譚・探・椴)の訓の応研?
檀君朝鮮を築いた人物・・・
↓↑
桓範
(?~249年)
中国後漢末期から三国時代の
武将、政治家 、文学者
魏に仕えた
字は
元則
豫州
沛国の人・・・・沛(氵+亠+巾)の国
妻の名は
仲長・・・・・・仲(イ+中)の長
↓↑
魏の家臣
建安年間の末期
曹操に仕え、
丞相府に入り
延康年間に
羽林左監に任じられた
曹丕(文帝)が・・・・・文帝・・・文綴?
禅譲により即位
曹丕(文帝)の命令で
王象達と共に
『皇覧』の編集に従事
↓↑
曹叡(明帝)の時代・・・明帝・・・酩酊?・明綴?
中領軍・尚書
征虜将軍・東中郎将、
使持節都督
青徐諸軍事に昇進
下邳に駐屯
徐州刺史であった
鄭岐と争い
節を利用して
鄭岐を斬ろうとしたが
鄭岐が上奏し
裁定の結果
桓範は免職
後、
兗州刺史として復帰
冀州牧に転任させられるという噂を聞き
鎮北将軍の
呂昭は桓範より下位の人物で
才能と実績により
桓範を凌ぐ地位を得ていたが
桓範は
呂昭の配下になることを嫌い
妻に愚痴をこぼし、
妻が桓範の失敗を揶揄したため
桓範は妻の腹を剣の柄で突き
妻は流産
桓範は病気と称して
冀州への転任を辞退
↓↑
曹芳(斉王)の時代・・・斉の王
正始年間
大司農に任命
司馬懿と共に
実権を握っていた
曹爽は、
司馬懿を退けた後、
側近達に政治を任せ悪政
王粛は悪政として
桓範の名を挙げた
↓↑
桓範は
『漢書』を研究し、
『世要論』という書を著し
桓範は、
太尉であった
蒋済と同席し
『世要論』を
蒋済に見せたが
蒋済はそれを見ようともせず
桓範は蒋済に怒りをぶちまけたが
蒋済は返事もしなかった・・・
↓↑
正始政変
249年・・・・・・・・卑弥呼(175年~247年、248年頃)
「魏志倭人伝」
曹爽が
曹芳(斉王)に同行して、
曹叡の陵墓の
高平陵を参拝しようとした時
桓範は
首都洛陽を空けることの危険性を説き
その同行を諫めたが、聞き入れられなかった
曹爽が都を留守にした隙をついて、
司馬懿が
曹爽打倒のクーデターを決行
洛陽を占拠
司馬懿は
桓範を高く評価しており、
中領軍を任せようとし
桓範がそれに応じようとしたが、
子はそれに反対し、
曹芳(斉王)の下に赴くべきと主張
桓範は
部下の反対を無視し
子の意見に従い、
南の平昌城門・・・平の昌の城の門・・・定紋・条文?
まで行ったが
門は閉鎖されていた。
門番の
司蕃に・・・・・・司の「蕃=茂り増える
蕃殖・蕃息
未開の異民族
蕃夷(バンイ) ・蕃俗
外国
蕃茄(バンカ)
蕃書調書・・・洋書調書
1856年(安政三年)発足
洋書調書に改名
文久二年(1862年)
蕃神
諸蕃=三韓の朝鮮半島の国々
高句麗・百済・新羅
訓は「となりのくに」
「もろもろのえびす」
陛下の
詔勅であると
偽って開門させ
桓範はかっての部下
司蕃に対し、
司馬懿の謀反を報せ
同行することを求めたが、
司蕃はこれに応じなかった
↓↑
桓範は洛陽から脱出し
司馬懿は
「曹爽は内心で桓範を疎んじており、智恵も足りない。
『駑馬短豆を恋う
(凡人は、目先の利益にあり付こうとする)』
必ずやその献策を採り上げないだろう」
と言って、相手にしなかった
・・・「駑馬十駕」のコトワザもある・・・
曹爽の元に
辿り着いた桓範は、
彼に対し
許昌で曹芳(斉王)を擁して
再起を図るよう献策
曹爽は決断せず
桓範は曹爽の弟
曹羲にも決起を勧めたが、
曹爽兄弟は二人とも決断しなかった
曹爽は
司馬懿から、
解任のみを条件にして放免にすると言われ
戦意をなくし
桓範の進言を聞き捨てた上で、
曹芳(斉王)に上奏して
自分達を罷免するよう要求
曹爽兄弟のこの有様を見た
桓範は罪に問われることを覚悟し、
連座により一族が滅亡すると嘆いた・・・
曹爽が
「自分達は実権を失っても
富貴でいられる」・・・・・なるほど、富貴?
と、発言し
桓範は絶望のあまり
「曹子丹(曹爽の父、曹真)は優れていたが
お前ら兄弟は
子牛同然ではないか・・・・子牛
孔子・高氏・公(孫)氏
子丑
お前たちのせいで、
族滅の憂き目にあうとは思いもしなかった」
と言い捨てた(「魏氏春秋」)・・・
曹芳(斉王)が元の御所に戻り
桓範は元の官職に復帰
司蕃が言上し、
桓範が
司馬懿を
誣告したことを告発
司馬懿は激怒し、
役人に刑罰法制を聞いた上で
桓範の罪を確認、桓範を逮捕
曹爽とその一族が
謀反の罪を着せられ処刑
桓範もまた同調したとして
三族とともに誅殺された・・・
ーーーーー
・・・「桓武天皇」って?・・・平家の始祖だが・・・「日本書紀」改竄の張本人か?・・・・
↓↑
桓武天皇
天平九年(737年)
~
延暦二十五年三月十七日(806年4月9日)
第五十代天皇
在位
天応元年四月三日(781年4月30日)
~
延暦二十五年三月十七日(806年4月9日)
名は
日本根子皇統弥照尊
(やまとねこすめろぎいやてりのみこと)
「桓」とは
『逸周書』謚法解に曰く
「辟土服遠」を表す・・・
「辟土服遠、曰桓」=武力によって四夷を征服
辟土は僻地
「克敬勤民、曰桓」
「辟土兼國、曰桓」
辟土服遠、克敬勤民、皆曰桓。
又《方言》桓、憂也。
又 木名。
《郭璞云》葉似柳、子似楝。
郭璞(カクハク)
276年~324年
中国西晋・東晋の
文学者・卜者
経学・詩文・暦数に通じ、
「爾雅 (ジガ)・方言・山海経」
に注をつけた
字は景純
本籍地
河東聞喜(山西省)
志怪小説では、
超人的な予言者・妖術師
《玉篇》 皮黃白色。
《山海經》袟周之山木多桓。
又
《酉陽雜俎》無患木、一名桓。
又
盤桓、髻名。・・・髻(もとどり)=髪の毛を束ねた頭
《古今註》長安婦人、好爲 盤桓 髻。
又姓。
《姓苑》望出譙郡、漢、有桓榮
↓↑
山部(やまのべ・サンブ)皇子
光仁天皇の
第一皇子
母は高野朝臣新笠(和史乙継の女)・・・和史の乙継の女?
794年
平安京遷都
坂上田村麻呂を征夷大将軍とし
東北地方に派遣
ーーーーー
・・・?・・・「鴉丸・雅丸」でも、「香良洲丸」でもない、「烏丸」で「ウガン」である・・・「マリア・カラス」は・・・
「Maria Callas
Μαρία Κάλλας」
1923年12月2日~1977年9月16日
ギリシャ系アメリカ人のソプラノ歌手・・・