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コジキジゲン

あまぞねす=「海女・尼・天女」+「曾根州・曾禰州」

2019-04-09 02:45:20 | 古事記字源

 曽根崎心中 


 元禄十六年四月七日(1703年5月22日)早朝 
 大坂 
 堂島新地 
 天満屋の女郎 
 「はつ(本名妙、21歳)」 
 と 
 内本町 
 醤油商 
 平野屋の手代 
 「徳兵衛(25歳)」 
 が 
 西成郡 
 曾根崎村の 
 露天神の森で情死・・・ 
 心中した事件・・ 
 ・・・西国三十三所巡礼を終えた 
 お初は 
 醤油屋の手代 
 徳兵衛と最後の 
 観音巡礼の地 
 「生玉の社」で偶然の再会・・・ 
 ・・・ 
 「此の世のなごり。夜もなごり。 
  死に行く身をたとふれば、 
  あだしが原の道の霜」 
 道行の最後の段 
 「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」 
 ・・・事件以降 
 露天神社は 
 「お初天神」とも呼ばれる・・・ 


 ↓↑ 
 ・・・「海女・尼・天女」+「曾根州・曾禰州」 
 ↓↑ 
 アマゾーン(Ἀμαζών、Amazōn、複数形 Ἀμαζόνες、Amazones) 
 ギリシア神話に登場する女性だけの部族 
 ピンダロスなどにアマゾニス(Ἀμαζονίς、Amazonis)の別形がある 
 日本では長音記号を省略し 
 「アマゾン(亜馬森)」と呼ばれる 
 地名などに使われ 
 アマゾネスと呼び分けられる・・・ 
 アマゾン(南アメリカ)河・流域・・・ 
 フランス 語=アマゾーヌ(Amazones) 
 ポルトガル語=アマゾナス(Amazonas) 
 スペイン 語=アマソナス(Amazonas) 
 日本   語=あまぞねす・・・亜馬森 
            ・・・「海女・尼・天女」+「曾根州・曾禰州」 
ーーーーー 
 遣唐使「随員の女」・・・「Α+子」・・・女の権威・権力組織・・・? 
 ↓↑ 
 「α+子」が女性の呼称だったなら・・・おんな・オンナ・・・ 
 ↓↑ 
 稲目(いなめ=稲女・十七女・稲見・否め・辞め) 
 ↓↑ 
 韓子(蘇我) 
 馬子(蘇我) 
 妹子=大禮-蘇因高 
 天子=推古天皇 
    諱  額田部(蘇我) 
    別称 豊御食炊屋姫尊 
       豊御食炊屋比売命 
       炊屋姫尊 
    称号 額田部皇女 
 太子=聖徳太子=厩戸皇子(蘇我) 
 鎌子(中臣)=鎌足(藤原) 
 ↓↑ 
 『万葉集』には 
 「縵子(かずらこ)」・・・ 
 万葉集3789番歌 
 「あしひきの 
  山縵の児 
  今日行くと 
  我に告げせば 
  帰り来ましを」 
 ↓↑ 
  古今和歌集の真名序 
  原万葉集の歌集は 
  この 
  巻十六の 
 「乞食者二首」 
  大和心を謳う大和歌が 
  仏教の説話や 
  東大寺建立の労働唄になって 
  万葉集の歌の終焉とした 
  万葉集 
  巻十六は 
  奈良時代の人々の生活の歌の巻 
 ↓↑  
 「古本」万葉集の最後の巻 
 ↓↑ 
 古今和歌集 真名序より抜粋 
 原文 
 至有好色之家・・・・色を好む家 
 以此為花鳥之使・・・これを以ちて花鳥の使ひとなし 
 乞食之客・・・・・・食を乞ふ客 
 以此為活計之謀。・・これを以ちて活計の謀りと為すに至る 
 故、半為婦人之右・・故に、半ば婦人の右と為し 
 雖進大夫之前。・・・ただ大夫の前に進むのみ 
 ↓↑ 
 万葉集巻十六を鑑賞 
 ↓↑ 
 有由縁并雜謌・・・由縁ある并せて雜(くさぐさの)謌 
 櫻兒と縵兒 
 櫻兒(さくらこ)と縵兒(かづらこ)とは 
 旧暦で三月の花と四月の花をそれぞれに代表する 
 ↓↑ 
 昔者有娘子・・・昔者(むかし)娘子(をとめ)ありき 
 字曰櫻兒也・・・字(あざな)を櫻兒(さくらこ)と曰ふ 
 于時有二壮子・・時に二(ふたり)の壮子(をとこ)あり 
 共誂此娘・・・・共にこの娘を誂(あとら)ひて 
 而捐生挌・・・・生(いのち)を捐(すて)てて挌(たたか)ひ 
 竟貪死相敵。・・竟(つひ)に死を貪(むさぼ)りて相敵(あた)る 
 於是娘子戯欷曰・ここに娘子戯欷(なげ)きて曰はく 
 従古来于今・・・古より今に来(いた)るに 
 未聞未見・・・・未だ聞ず未だ見ず 
 一女之見・・・・一(ひとり)の女の見(あとら)ひの 
 徃適二門矣。・・二(ふたり)の門(かど)に 
         徃適(ゆ)くといふことを 
 方今壮子・・・・方今(いま)、壮子の 
 之意有難和平。・意(こころ)和平(にぎ)難きものあり 
 不如妾死・・・・妾(わ)が死にて 
 相害永息。・・・相(あひ)害(そこな)ふこと 
         永く息(や)まむには如(し)かず 
 尓乃尋入林中・・すなわち林の中に尋ね入りて 
 懸樹經死。・・・樹に懸りて經(わなな)き死にき 
 其兩壮子・・・・その兩(ふたり)の壮子 
 不敢哀慟・・・・哀慟(かなしび)に敢(あ)へずして 
 血泣漣襟・・・・血の泣(なみだ)襟に漣(なが)れ 
 各陳心緒作謌・・各(おのおの)心緒(おもひ)を 
         陳べて作れる謌 
 ↓↑ 
 二首 
 ↓↑ 
 集歌3786 
 (其一) 
 春去者・・・・・春さらば 
 挿頭尓将為跡・・挿頭(かざし)にせむと 
 我念之・・・・・我が思(も)ひし 
 櫻花者・・・・・桜の花は 
 散去流香聞・・・散りにけるかも 
 ↓↑ 
 集歌3787 
 (其二) 
 妹之名尓・・・・妹が名に 
 繋有櫻・・・・・繋(つ)ぎたる桜 
 花開者・・・・・花咲かば 
 常哉将戀・・・・常にや恋ひむ 
 弥年之羽尓・・・弥(ひ)さ年のはに 
 ↓↑ 
 或曰・・・・・・・或は曰はく 
 有三男・・・・・・三(みたり)の男(をのこ)有りき 
 同娉一女也・・・・同(とも)に一(ひとり)の 
          女(をみな)を娉(よば)ふ 
 娘子嘆息曰・・・・娘子(をとめ)嘆息(なげ)きて曰はく 
 一女之身易滅如露・一の女の身は滅(めつ)し易く露の如く 
 三雄之志難平如石・三(みたり)の雄(をのこ)の志(こころ)は 
          平(にき)び難く石(いはほ)の如くといふ 
 遂乃彷徨池上・・・遂に池の上(ほとり)に彷徨(たもとほ)り 
 沈没水底・・・・・水底(みなそこ)に沈没(しづ)みき 
 於時其壮士等・・・時に其の壮士(をのこ)等 
 不勝哀頽之至・・・哀頽(かなしび)の至(きはみ)に 
          勝(あ)へずして 
 各陳所心作謌三首・各(おのおの)所心(おもひ)を 
          陳(の)べて作れる謌三首 
  (娘子字曰縵兒也)・(娘子、字(な)を 
          「縵兒(かづらこ)」と曰ふ) 
 ↓↑ 
 集歌3788 
 (一) 
 無耳之・・・・・耳成の 
 池羊蹄恨之・・・池し恨めし 
 吾妹兒之・・・・吾妹子が 
 来乍潜者・・・・来つつ潜(かづ)かば 
 水波将涸・・・・水は涸(か)れなむ 
 ↓↑ 
 集歌3789 
 (二) 
 足曳之・・・・・あしひきの 
 山縵之兒・・・・山縵(やまかづら)の兒 
 今日徃跡・・・・今日行くと 
 吾尓告世婆・・・我れに告(つ)げせば 
 還来麻之乎・・・帰り来(こ)ましを 
 ↓↑ 
 集歌3790 
 (三) 
 足曳之・・・・・あしひきの 
 玉蘰之兒・・・・玉蘰(たまかつら)の 
 如今日・・・・・今日の如(ごと) 
 何隈乎・・・・・いづれの隅(くま)を 
 見管来尓監・・・見つつ来(き)にけむ 
 ↓↑ 
ーーーー 
 「善信尼」 
 ↓↑ 
 司馬達等の 
 娘である 
 「嶋」を得度させて 
 「善信尼」とした 
 善信尼はわが国最初の 
 女性留学生として 
 百済におもむき・・・「百合(ゆり)の花」=「lily」・・・百済 
 ↓↑           ユリアス・シーザー 
               ユリアス・カエサル(変え申) 
          ガイウス・ユリウス・     カエサル 
         (Gaius    Iulius       Caesar) 
          臥意   百合碓・由理得素  替え作留 
           「ビャクゴウ(百合)」 
          ・・・倭国は百済と白百合(小百合・早百合) 
                   新羅・・・紗友里・小由里・・・ 
           「 Lilies grow from bulbs. 百合は球根から育つ」 
 ↓↑       「漢字の『百合』は、鱗茎(百合根)の重なり合い」 
 仏教を学んで帰国して活躍した 
 (『日本書紀・扶桑略記』の記録 
 ↓↑ 
 702年(大宝二年)・壬寅 
 大宝律を全国に頒布 
 度器、量器を初めて全国に頒布 
 薩摩の隼人征討 
 粟田真人 
 山上憶良 
 を遣唐使に派遣 
 第八次遣唐使派遣 
 執節使 
 粟田真人 
 が 
 則天武后 
 に謁見 
 ↓↑ 
 善信尼は 
 587年 
 百済に行って仏教の戒律を学ぶ 
 翌588年に百済の使節が来日し 
 帰りの船に乗って百済に渡り 
 590年に帰国 
 善信尼は桜井寺に住まい 
 11人の女性に得度した 
 ↓↑ 
 第一次遣唐使 
 ↓↑ 
 舒明天皇二年(630年) 
 犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)の派遣 
 「唐の文化や舞いを学ぶ為の 
  若い女性も乗っており・・・???・・・? 
  財宝、命もろとも略奪された」 
 ↓↑ 
 寛平六年(894年) 
 遣唐大使 
 菅原道真 
 の建議により停止 
 遣唐使が廃止 
 唐での内乱 
 遣唐使の遭難で人材喪失 
 ↓↑ 
 遣唐使船には 
 唐の文化や舞いを学ぶ為の 
 若い女性も乗船・・・???・・・? 
 ↓↑ 
 遣唐第四回派遣 
 ↓↑ 
 斉明五年(659年) 
 斉明七年(661年) 
 坂合部石布(大使) 
 津守吉祥(副使) 
 伊吉博徳 
 7月3日出航 
 8月11日に博多出帆、江南路 
 10月1日 
 第2船の副使 
 津守吉祥 
 越州(浙江省紹興)に入港 
 駅馬で 
 長安に入り洛陽にて皇帝に拝謁 
 大和朝廷の 
 服属国民としての 
 蝦夷人 
 男女を伴って・・・「男と女」・・・奴隷? 
 皇帝に献上 
 ↓↑ 
 同年11月1日 
 冬至の儀に参加 
 その後 
 韓智興 
 の従者(東漢草足嶋か西漢大麻呂か?) 
 による讒言 
 唐と百済の戦役などで 
 暫く長安に幽閉・抑留 
 韓智興 
 は唐の政府によって 
 三千里の外に流罪 
 ↓↑ 
 660年8月 
 百済滅亡 
 9月12日 
 抑留は解かれ 
 19日に洛陽へ向かった 
 ↓↑ 
 9月13日 
 第1船は往途で 
 百済の南の島に到着 
 9月15日日没後 
 逆風で遭難 
 南海の島 
 「爾加委」に漂着し略奪に遭い 
 大使の 
 坂合部石布が殺害され 
 東漢長阿利麻 
 坂合部稲積 
 ら生き残った5人は 
 島の船を奪って 
 大陸に至り 
 役人に護送されて洛陽に運ばれた 
 長安の2船の一行同様、洛陽にて抑留・・・ 
 監禁が解け洛陽に移動した 
 津守吉祥らと 
 翌 
 660年10月19日に再会 
 11月1日に捕虜となった 
 百済の義慈王ら 
 王族・貴族の50人(『旧唐書』では58人)が 
 唐の朝廷に護送されるのを目撃 
 24日、長安を出発 
 翌 
 661年4月1日 
 越州から帰国の途 
 7日 
 舟山郡島の 
 須岸島南岸に到着 
 翌 
 8日夜明けに出発 
 暴風に遭い9日間漂流 
 耽羅(済州島)に漂着 
 耽羅国王子の 
 阿波伎等9人を伴って帰国 
 東漢草足嶋は 
 帰路で落雷により死亡 
 『伊吉博徳書』 
 『難波吉士男(津守吉祥)人書』 
 が日本書紀に引用 
 ↓↑ 
 『延喜式』大蔵省式による 
 遣唐使一行 
 ↓↑ 
 大使、副使、判官、録事、知乗船事 
 訳語生、請益生、主神 
 医師、陰陽師 
 絵師、史生、射手、船師 
 音声長 
 新羅・奄美訳語生 
 卜部、留学生、学問僧、従、雑使 
 音声生、玉生、鍛生、鋳生、細工生 
 船匠、柂師、人、挟杪、水手長 
 水手など 
ーーーーー 
 ・・・・???・・・日本女性は「大陸(隋唐)」に渡った、か・・・? 

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モジの真空パック・・・旧(舊=艹隹臼)カンジ

2019-04-05 21:43:27 | 古事記字源

 「意識改革」ではなくて、「認識変革」・・・ジポン・・・
 「夢の真空パック」・・・福井県鳥浜貝塚(約12,000~5,000年前の集落)
          ・・・緋い漆塗りの
            「かみさし(髪差し・髪挿し)
                  赤漆塗の櫛」・・・
          ・・・三方湖の水陸の接する地の集落・・・
          ・・・はす(鰣)川とその支流高瀬川の合流地点一帯・・・
          ・・・投棄物は
             貝殻、動物骨、木や種子、葉
             土器、石器、骨角器、木製品
             漆製品、繊維製品
             など・・・「漆=七=7」・・・  
          質=斦+貝=斤+斤+目+八
            もと・たち・ただす・シチ・シツ・チ
            通仮字「致」
            異体字「质・櫍・礩・儨・劕・貭・鑕・锧」
            斦=あきらか・ギン・ゴン・シツ・シチ
              朱駿声の説
             「銭を以て物を受くるを贅と曰く
              物を以て銭を受くるを質と曰く
              この字、まさに斦声を従える」
              斦=椹質の質・「木+質」の字
                椹=木+甚
                  さわら・あてぎ・くわのみ
                  チン・ジン
                  ヒノキ科の常緑高木
                  あてぎ・木をきるときに下にあてる台
                 「椹質」
                  くわ(桑)のみ(実)・椹(さわら)
            もとになるもの・ものの内容
            中身・実体・品質・質量・物質
            生まれつき・もちまえ・たち
            資質・体質
            きじ(生地)・ありのまま
            質素・質実
            問いただす
            質疑・質問
            しち
            約束や取り引きの保証、担保物権
            かた・抵当・質屋・言質
            悪質・異質・気質・均質・言質・硬質
            材質・資質・実質・性質・素質・体質
            地質・特質・品質・物質・変質・本質
            質(シチ)質草・質種(シチぐさ)
            質感・質疑応答
            質実剛健(シツジツゴウケン)
            質素質朴・質樸(シツボク)
            質(ただす)・質(たち)
            躓=足+質
              足が物質につかえて躓(つまずく)・蹉跌
              浮(き)足立つ=うきあしたつ
              不安や恐れで落ち着きを失う・逃げ腰になる
              夢中で逃げる
              夢中=物事に熱中して我を忘れること
              無我夢中=何かに心を奪われ、われを忘れること
 ↓↑              ↓↑
 夢=善夢・悪夢・・?・・・「夢⇔希望・志望・願望」=望みの質量?可能性
              「夢⇔幻想・幻視・幻聴」=妄想の質量?不可能性
 夢(ゆめ)=睡眠中に
       現実の経験であるかのように
       五感として感じ、認識され
       目覚めた後に
       それらが一連の観念や心像であったと認識されるコト
       睡眠中の幻覚のこと
       夢を見る理由=現在のところ不明・・・脳機能性?
       明晰夢=睡眠中でも夢であるコトを自覚し
           夢の内容をコントロールすることも可能・・・
           睡眠中の夢を客観視でき
           その進行形の夢のシナリオのストリーを編集可能・・・
           白昼夢・・・覚醒時に非現実的な幻想にふけること
           dream(ドリーム)
            ・・・取理意務?
            ・・・鳥居務・鳥異夢・・・
               鳥居強(すね・脛)右衛門=名は勝商(かつあき)
               奥平家の足軽
               長篠城を脱出し援軍情報を籠城の味方に伝えた
               鳥居耀蔵(ヨウゾウ・諱は忠耀)
               甲斐守
               胖庵(号)・蝮の耀蔵、妖怪(渾名)
               蛮社の獄
 ↓↑
 リリー(Lily、Lili、Lille、Lilley、Lilli、Lillie、Lilly、"Rilly")
 ↓↑
 rely on one―
 count upon one―
 lean on one―
 trust to one's honour
 look to me for assistance
 hope for ... 
 Do you know of any person for me to rely on in Canada?
 ↓↑
 depend on・depending on
  pend⇔pendant・・・ぶら下がる・依存する・頼る
     ~次第・状況に左右される
  rely on=信頼する・頼る・信頼して頼りにする
 I Rely On You (feat. Taylor Breen)
  Lily is on the table
 リリース(release)・・・英語・「release」
 束縛を解いて放つこと・解放すること
 「釣った魚をリリースする」
 音楽アルバムや
 アプリケーションソフトなどを発売すること
 情報や記事などを発表すること
 ↓↑
 レリーズ(release)
 カメラのシャッターを遠隔操作するための器具
 ↓↑
 企業情報やサービス、プロジェクトが
 はじまる(公開・開始・始まる)こと
 「リリース」「プレスリリース」「キックオフ」「ローンチ」
 ↓↑
 監禁や束縛からの釈放、救出、解放
 苦難や精神的重荷の取り除き、除去
 固定した物の取り外し、切り離し
 《機械》 機器の始動(装置)
 出版物や映画などの公開、発売、封切り
 封切り映画、公開[新発売の]作品
 熱や放射能の放出、放射
 《法律》 権利や主張の放棄(証書)、譲渡(証書)
 riliːs(リリース)
 releases releasing released
 re・lease
 ↓↑
 catch and release
 釣った魚を食べずに逃がしてやる
ーーーーー
 ・・・???・・・

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隋の軍人「乞伏慧(キツプクケイ)」=慧を伏すを乞う?

2019-04-03 17:16:58 | 古事記字源

 「不文律(ふぶんりつ)」・・・不分立・・・聞理通では無い?
 ↓↑
 明文化されていない法・成文法の逆
 不文法に同じ・慣習法
 明言されていない規則や仕来たりのこと
 不文律=「不文法」に同じ。⇔成文律
      互いに事前に了解し合っているきまり
      明文化されていない法律や規則
      お互いに心の中で了解し合っている決まり事
      暗黙のルール ・ 暗黙の掟 ・ 暗黙の決まり ・ 暗黙の約束
      公式に文書化されていないが当然にも厳守すべきルール・・・?
ーーーーー
 ・・・ウメ(梅・宇女)追う桜花(櫻花・おうか・謳歌)・・・
 ↓↑
 令和(レイワ・リョウカ)・・・れいな=例和・零和・例話・・・礪名?
 ↓↑
 万葉集歌序文
 ↓↑
 万葉集巻五、梅花(うめのはな)の歌
 ↓↑
 三十二首の序文(「梅花の歌三十二首并せて序」)

 「于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」

 「令月」=「仲春令月、時和し気清らかなり」
      めでたい月・「嘉辰(カシン)令月」
      陰暦二月の異称
      如月・衣更着・来更来・葱更生・気更来
 「於是、仲春令月、時和氣淸、原隰、鬱茂百草滋榮」
  原隰( ゲンシツ・ゲンシュウ)
   隰=阝+日+絲
    さわ・シツ・シュウ
    澤・低くしめった土地
    新墾(にいばり)・新たに開拓した土地
 (後漢・張衡「帰田賦・文選巻十五)

 「初春(しょしゅん)の
  令月(れいげつ)にして、
  気淑(きよ)く
  風和(やわら)ぎ、
  梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き、
  蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」
    玉佩=珮(字通)=呪能の魂振りとして腰に玉佩を用いた
     珮=佩=おびる・佩(は)く・ハイ
 ↓↑
 字名が「令和」の人物
 ↓↑
 南朝宋の官僚
 江謐(コウヒツ・431年~482年)
 ↓↑
 北魏の官僚
 趙邕(チョウヨウ・?~525年)
  邕=巛+邑・・・広西チワン族自治区南寧の別称
          中国南部やベトナム北部の原住民族
         「撞・僮・獞」=「壮族」
    異体字「𡿷=巛+口+口」
 ↓↑
 隋の軍人
 乞伏慧・・・乞伏慧=慧を伏すを乞う・・・?乞食=こじき=古事記
 (キツプクケイ   ↓↑          乞巧奠(キッコウデン)
  生没年不詳)   ↓↑
 ↓↑        定慧=定慧上人(定恵・貞慧)
          定慧(じょうえ)上人
          皇極天皇二年
         (西暦643年)に生まれ・・・645年=大化の改新
                           乙巳の変
          藤原鎌足の長男・・・・・・不比等の兄?
          慧隠法師に弟子入りし出家
          大念寺開山上人となった
          白雉四年(西暦653)年
          11歳で・・・十一・拾壱・拾壹・重位置・重意知?
          遣唐使に従って唐へ留学
          長安の慧日道場において
          神泰法師(三蔵法師玄奘の弟子)について学ぶ
          天智天皇四年(西暦665)年・・・663年白村江海戦
          唐の劉徳高の船に乗って帰国
          白雉四(西暦653)年12月23日
          大和国(奈良県)大原で23歳の若さで
          百済人・・・・・ナゼ、百済人?敵は新羅人or唐人?
          にその才能を妬まれ毒殺された(藤氏家伝)・・・?
 ↓↑         ↓↑
          定慧=定慧上人(定恵・貞慧)は
          『元亨釈書』や
          大念寺の寺伝・・・大(おほ)の
                   念(おもう・二十)の
                   寺(十一寸)
                ・・・字・時・事・持・児
          『大織冠縁起』によれば
          和銅一年(西暦708)年に帰国
              ・・・和銅五(西暦712)年=古事記上奏
 ↓↑         ↓↑        ↓↑
          留学中の夢のお告げに従って
          藤原鎌足の遺骸を
          摂津国阿威山から
          奈良県の
          多武峰(とうのみね)に・・・多(おほ)の
                        武(たける)の
                        峰(峯)
                       ・・・岑(みね)⇔岺・苓・峇
                          涔=氵+岑=したす・シン
          寺院を建立し墓所を改葬
          和銅七年(西暦714年)6月25日
              ・・・和銅五(西暦712)年=古事記上奏
  ↓↑       70歳で死亡・・・
  乞 伏 慧
 (キツプクケイ・生没年不詳)
 東魏~隋にかけての軍人・政治家
 字は「令和」
 本貫は馬邑郡・・・馬の邑の郡=621年(武徳四年)
          山西省北西部・・・露天掘りの石炭の採炭
          唐朝は馬邑郡を「朔州(サクシュウ)」と改称
 金紫光禄大夫
 第一領民酋長の
 乞伏纂・・・・・・纂に伏せることを乞う?
 の子として生まれた
 若い頃から
 弓や馬を得意とし
 鷹や犬を好んだ・・・タカやイヌ
 東魏の
 高登の時
 行台左丞、蕩寇将軍の位を加えられ
 右衛将軍
 太僕卿・・・太(おほの)僕(ぼく)の卿(きょう)
 に累進
 爵位
 永寧県公~宜民郡王
 兄の
 乞伏貴和・・・貴(とうとい)和(わ)人を伏せるコトを乞う?
 が軍功により
 王に封ぜられ
 一門に「二王」を出し
 貴顕と称された
 北周が北斉
 を平定すると
 乞伏慧は北周に降って
 使持節・開府儀同大将軍に任ぜられ
 佽飛右旅下大夫の位を受け
 後に
 熊渠中大夫・・・熊(くま・ユウ)の
  ↓↑      渠中(水堀の中・キョウチュウ)の大夫
          渠=みぞ・キョ
           人工の水路・掘り割り・みぞ
           渠中=乾ドック(dock)=船渠の中
             =船を建造、修理、係留するための溝
             =港湾ドック・造修ドック
             =乾(カン・dry)ドック
        海から陸へ掘り込んだ掘割で
              船を入れたあと水門を締めて排水し
              船の造船、修理作業をするもの
        「暗渠・河渠・函渠(カンキョ)・溝渠・船渠」
          かしら・首領
  ↓↑     「渠魁(キョカイ)・渠帥(キョスイ)」=頭領・棟梁
 に転じた
ーー↓↑ーー
 580年
 楊堅が丞相となると
 乞伏慧は
 韋孝寛
 の下で
 尉遅惇
 を
 武陟に討ち、位は大将軍
 尉遅迥が平定され、位は柱国
 西河郡公の爵位を受けた
 ↓↑
 581年
 隋が建国
 曹州刺史
 に任ぜられ
 曹州の戸籍帳簿に数万戸を新たに登録
 涼州総管に転じた
 突厥の侵入に烽火台による合図連絡、斥候を派遣
 斉州刺史に転じ、戸籍を調査して数千戸を登録
 寿州総管に転じ
 寿州刺史に左遷
 数年後、徐州総管に転じた
 荊州総管・・・「いばらき=茨木・茨城=荊記」総巻
              水戸⇔「大日本史」
 に転じ
 潭桂二州・・・・・譚系似集?
 総管三十一州・・・総巻三十一収⇔日本書紀三十一巻?
 諸軍事を兼務・・・書訓示、建武・・・?
 ↓↑
 あるとき簺に
 魚(まな=真名=漢字)を捕らえた者がいるのを見て
 絹を出してこれを買って放してやった
 その場所を西河公簺といった
 秦州総管に転じた・・・・神州総巻?
 ↓↑
 604年・・・・600年=干支=庚申
            日本=推古天皇八年・遣隋使
              皇紀1260年
           中国=隋=開皇二十年・三階教弾圧
           朝鮮=新羅=建福十七年・聖徳太子の討伐
 煬帝(広)が即位
 乞伏慧は
 天水郡太守・・・甘粛省天水市一帯に設置
 ↓↑       583年(開皇三年)
         隋が郡制を廃し
         天水郡は秦州と改められた
         607年(大業三年)
         州が廃止されて郡が置かれ
         秦州は天水郡と改称
         619年(武徳二年)
         唐が薛挙を平定し
         天水郡は秦州となり総管府設置
         742年(天宝元年)
         秦州は天水郡と改称
         758年(乾元元年)
         天水郡は秦州と改称
 ↓↑       天水郡の呼称は消えた
 609年
 隋軍が
 吐谷渾を攻撃したとき
 西方の民衆は労役に苦しんでいた
 煬帝が西巡すると
 道路は整備されておらず
 献上された食事は粗末で
 煬帝は怒って、側近に命じて
 乞伏慧を斬らせようとしたが
 乞伏慧
 の髪がないのを見て
 一命を許し
 官爵を剥奪して民とした
 後に
 乞伏慧は家で死去・・・
 『隋書・巻五十五 列伝第二十』
ーーーーー
 ↓↑
 614年に
 遣隋使
 犬上御田鍬・・・犬上音伝習⇔乞(𠂉乙)伏(人犬)慧(恵)
         鍬(金秋)=くわ=句和・玖倭・九話
 渡航
 ↓↑
 600年(開皇二十年)
    (推古八年)
 第一回遣隋使派遣
 『隋書・東夷傳俀國傳俀國伝』
 は高祖
 文帝・・・・・・・・文綴?
 の問いに遣使が答えた
 「開皇二十年
  俀王
  姓 阿毎・・・・・・阿倍
  字 多利思北孤・・・多くの利を思う北の孤立
                  ・・・狐=稲荷
  號 阿輩雞彌・・・阿波のケイミ
  遣使詣闕
  上令所司訪
  其風俗
  使者言
  俀王
  以天爲兄・・・天文観察
  以日爲弟・・・天候観察
  天未明時出聽政 跏趺坐
  日出便停理務 云委我弟
  高祖曰
  此太無義理
  於是訓令改之」
 ↓↑
 第二回遣隋使
 607年(推古十五年)~608年(推古十六年)
           『隋書(煬帝紀)』
 小野妹子(蘇因高)が
 大唐国(隋)に国書を持って派遣
 倭王から隋皇帝煬帝に宛てた国書
 『隋書・東夷傳俀國傳』
 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
 煬帝は立腹
 外交担当の鴻臚卿に
 「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」
 と命じた
 裴世清が持参した返書は「国書」
 小野妹子が持たされた返書は「訓令書」
 ↓↑
 第三回遣隋使
 608年(推古十六年)~609年(推古十七年)
 小野妹子(蘇因高)
 吉士雄成
 学生
 倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)
 奈羅訳語恵明(ならのおさえみょう)
 高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)
 新漢人大圀(いまきのあやひとだいこく)
 学問僧
 僧旻
 南淵請安
 ら8人留学
 隋使
 裴世清
 帰国
 (『日本書紀』、『隋書・俀國伝』)
 ↓↑
 第四回遣隋使
 610年(推古十八年)~?
 (『隋書・煬帝紀』)
 ↓↑
 第五回遣隋使
 614年(推古二十二年)~615年(推古二十三年)
 犬上御田鍬
 矢田部造
 百済使、犬上御田鍬に従って来る
 (『日本書紀』)
 ↓↑
 618年(推古二十六年)
 隋滅亡
 ↓↑
 第一次遣唐使
 舒明天皇二年(630年)~舒明四年(632年)
 犬上御田鍬・・・建條音伝集・・・?
  ・・・乾(いぬい・北西⇔北斉)ドッグ=溝渠・船渠?
     ドライドック(dry dock)
     乾=𠦝+乞・・・𠦝(旗竿)を乞う
         壱與・黄幡・𠂉(かみさし)の乙(きのと)
      =十+日+十+𠂉+乙
       かわく・かわかす・ほす
       カン・ケン
       異体字「乹・干」
      「乾燥・乾田・乾杯
       旱(カン)
       うわべだけの・義理の
      「乾笑」
       易の八卦(ハッケ)の一
       天、天子を表す
      「乾元・乾像・乾徳」
       坤(コン)
       いぬい(戌亥・犬猪・狗猪)
       北西の方角
      「乾位」
 の派遣
 薬師 恵日(くすし えにち)
 医師
 難波薬師奈良の先祖
 ↓↑
 帰国の際
 唐の送使
 高表仁
 来日
 僧旻
 帰国
 新羅の送使も帰国に同行
 八月に対馬に帰着
 高表仁
 は十月初に難波津に着き、翌年一月末に帰国
 ↓↑
 小野 岑守(おの の みねもり)・・・岑(山今)を守る
 公卿・文人
 征夷副将軍
 小野永見の三男
 官位は従四位上・参議
 ↓↑
 小野 篁(おの の たかむら)
 小野岑守の長男
 弘仁六年(815年)
 陸奥守に任ぜられた
 父
 岑守に従って
 陸奥国へ赴任
 弘仁十三年(822年)
 文章生試に及第
 天長元年(824年)
 巡察弾正
 後、弾正少忠・大内記・蔵人
 天長九年(832年)
 従五位下・大宰少弐に叙任
 天長七年(830年)
 父
 岑守が死没
 天長十年(833年)
 仁明天皇即位
 皇太子・恒貞親王の東宮学士、弾正少弼を兼ねる
 同年完成の『令義解』の編纂にも参画し、序文を執筆
 ↓↑
 承和元年(834年)
 遣唐副使に任ぜられる
 承和二年(835年)
 従五位上
 承和三年(836年)
 正五位下と俄に昇叙
 承和三年と翌承和四年(837年)
 2回に亘り出帆するが
 いずれも渡唐に失敗
 承和五年(838年)
 三度目の航海にあたって
 遣唐大使
 藤原常嗣の乗船する第一船が損傷漏水
 常嗣の上奏により
 篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船
 篁は、己の利得のために
 他人に損害を押し付けるような
 道理に逆らった方法が罷り通るなら
 面目なくて
 部下を率いることなど到底できないと抗議
 さらに自身の病気や老母の世話が必要と
 乗船を拒否
 遣唐使は篁を残して六月に渡海
 篁の恨みの漢詩に
 嵯峨上皇は激怒
 同年十二月に官位剥奪
 隠岐国への流罪
 承和七年(840年)
 罪を赦されて平安京に帰り
 翌
 承和八年(841年)
 本位(正五位下)に復され
 刑部少輔に任ぜられた
 承和九年(842年)
 承和の変
 道康親王(文徳天皇)が
 皇太子に立てられ
 東宮学士、式部少輔も兼ねた
 承和十二年(845年)
 従四位下・蔵人頭
 承和十三年(846年)
 権左中弁
 左中弁と要職を歴任
 権左中弁の官職にあった
 承和十三年(846年)
 当時審議中であった
 善愷訴訟事件において
 告発された弁官らは
 私曲を犯していなくても
 本来は弁官の権限外の裁判を行った以上
 公務ではなく私罪である、と
 右少弁・伴善男の主張に同意
 告発された弁官らを弾劾
 後年
 篁はこの時の判断は誤りであったと悔いた・・・
 承和十四年(847年)
 参議に任ぜられて公卿
 後
 議政官として
 弾正大弼・左大弁・班山城田使長官・勘解由使長官などを兼帯
 嘉祥二年(849年)
 従四位上に叙せられ
 五月に病気により官職を辞す
 嘉祥三年(850年)
 文徳天皇の即位に伴い正四位下
 仁寿二年(852年)
 左大弁に復帰
 再び病を得て参朝が困難
 同年十二月には在宅のまま従三位
 間もなく薨去
 享年51
 最終官位は参議左大弁従三位
ーーーーー
 ?・・・岺(レイ)=みね=岑(ジン・シン)・・・?
 小野 岑守(おの の みねもり)・・・岑(山今)を守る
ーーーーー
 580年
 楊堅が丞相となると
 乞伏慧は
 韋孝寛の下で
 尉遅惇を
 武陟に討ち、位は大将軍
 尉遅迥が平定され、位は柱国
 西河郡公の爵位を受けた
 581年
 隋が建国
 曹州刺史
 に任ぜられ
 曹州の戸籍帳簿に数万戸を新たに登録
 涼州総管に転じた
 突厥の侵入を烽火による合図連絡をし、斥候を派遣
 斉州刺史に転じ、戸籍を調査して数千戸を登録
 寿州総管に転じ
 寿州刺史に左遷
 数年後、徐州総管に転じた
 荊州総管に転じ
 潭桂二州総管三十一州諸軍事を兼務
 ↓↑
 あるとき簺に魚を捕らえた者がいるのを見て
 絹を出してこれを買って放してやった
 その場所を西河公簺といった
 秦州総管に転じた
 ↓↑
 604年
 煬帝が即位
 乞伏慧は
 天水郡太守
 609年
 隋軍が
 吐谷渾を攻撃したとき
 西方の民衆は労役に苦しんでいた
 煬帝が西巡すると
 道路は整備されておらず
 献上された食事は粗末で
 煬帝は怒って、側近に命じて
 乞伏慧を斬らせようとしたが
 乞伏慧の髪がないのを見て
 一命を許し
 官爵を剥奪して民とした
 後に
 乞伏慧は家で死去・・・
 『隋書・巻五十五 列伝第二十』
 by https://ja.wikipedia.org/wiki/令和
ーーーーー
 ・・・???・・・

 隋の軍人「乞伏慧(キツプクケイ)」=慧を伏すを乞う・・・?

コメント
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念合・・・

2019-04-01 16:54:54 | 古事記字源

 「怜=聡い・聰い・賢い・怜質・怜悧」
 「玲=玲玲・玲瓏・玉、金属が触れ合って鳴る音
     トライアングルの音」
 「伶=「わざおぎ
     (こっけいな動作をして歌い舞い、神や人を
      慰め楽しませること)」
    「楽師・俳優」
    「小物・小間使い・召使い」
    「かしこい(さかしい)」
 「冷=氷+令」
 「零=雨+令」
 「苓=艹+令
   =艹+亼+龴
   =艹+人+一+龴
   =香草
   =みみなぐさ(ナデシコ科の二年草)
   =かんぞう(甘草・マメ科の多年草)
   =おちぶれる・おちぶる」
 「岺=山+令
   =みね・尾根・山頂」
   異体字「岭」

 冷泉=摂氏25度未満の水が湧き出す鉱泉
    平安京における小路の1つ・夷川通
    冷泉家・天皇。→冷泉天皇
ーーーーー
 年号(元号)とは「年につける称号」
 「漢の武帝の時(西暦紀元前140年)に
 『建元』
 と号したのに始まる
 これまで247個
 新元号
 4月1日(11時半) 発表
 「令和」・・・
 律=彳+聿=刑法・官吏懲戒法
 令=𠆢+一+刀
  =今+丨(棒)
  =𠆢+ラ+亅(鉤・鈎・鍵)
  =亼+卩
  =𠆢+一+卩
  =行政法・訴訟法・民事法・一般行政に関する規定・手続き
 ↓↑
 701年(大宝1)制定・施行
 大宝律令についで編纂
 藤原不比等(ふひと)
 矢集蟲麻呂(やずめのむしまろ)
 陽胡真身(やこのまみ)
 大倭小東人(やまとのこあずまひと)
 塩屋古麻呂(しおやのこまろ・吉麻呂とも)
 百済人成(くだらのひとなり)
 ↓↑
 が編纂従事
 不比等の私的事業・・・
 律令の編纂・公布に
 新しい国家体制を創造するという
 目的主義的な場合と
 その制定・公布権を自己の皇統に伝えるという
 個人的な目的による場合とがあり
 養老律令は後者の立場から
 元明太上天皇
 と
 不比等
 が
 文武天皇の皇子であり
 不比等の孫でもある
 首(おびと)皇子(聖武天皇)
 のもとで
 新律令を公布させるために編纂された・・・学説
 ↓↑
 東アジア古代統一国家の法典
 格式(きゃくしき)とあわせ
 律令格式の4語が成文法の体系
 律令格式
 律は刑法
 令は行政法
 格は補足法
 式は施行細則
 ↓↑
 刑法である律
 行政法などからなる令
 単行法令である格
 これらの施行細則である式
 の四者を総合し律・令を中心とする成文法の体系
 ↓↑
 律(リツ)
 行動を秩序づけるための掟・さだめ
 「律令・格律・規律・軍律・法律・不文律」
 物事の法則・「因果律・矛盾律」
 仏教で、僧の守るべき規則・「律師・律宗・戒律」
 ある基準に照らして処置する・「自律・他律」
 音楽の調子
 「律動・一律・韻律・音律・楽律・旋律・調律」
 雅楽などで、陽の調子
 「律呂(りつりょ)」
 漢詩の一体
 「律詩・排律」
 おきて・きまりに従う
 「律儀」
 ↓↑
 律
 おきて・法律
 犯罪・刑罰について定めた刑法典
 令とともに
 秦・漢時代に発達
 隋・唐時代に大成
 日本では唐律を模し
 天武朝期の
 飛鳥浄御原律
 701年
 大宝律として制定
 718年
 改定し
 養老律とした
 ↓↑
 「律詩」の略
 〘仏〙〔梵 vinaya〕 出家した者が守るべき規則
 律宗のこと
 楽音の絶対音高・音律・ピッチ
 「調-・平均-」
 日本・中国音楽で、音程の単位
 十二律の一段階の差を示し
 洋楽の半音(短二度)に相当
 「第三弦を二-下げる」
 十二律の各音のうち陽の(奇数番目にあたる)六音⇔ 呂
 相対的音程関係が
 レ・ミ・(ファ)・ソ・ラ・シ・(ド)の
 五声または七声
 中国の五声・七声を「呂りよ」とするのに対していう
 「唐土は呂の国なり、-の音なし/徒然」⇔呂
 「律旋」の略⇔呂
 「律管」の略
 ↓↑
 音階
 十二律のうち奇数番目
 陽性をもつ「六律」
 陰性の「呂 (りょ) 」に対する
 音の高さ
 旋律構成音の高さ
 音程
 音程の単位語の
 半音を1律
 全音を2律
 音階の種類の名称
 雅楽や声明 (しょうみょう) など
 三分損益法によって生じる
 普通の音階を「呂の音階」というのに対して
 それと異なる日本独自のものを「律の音階・律旋」
 両者の中間的なものを「半律半呂」、「呂旋」
 雅楽・唐楽では六調子を律と呂に分け
 平調 (ひょうぢょう)
 黄鐘 (おうしき) 調
 盤渉 (ばんしき) 調
 は律の音階に属する
 催馬楽 (さいばら) などの楽曲分類法
 2分した結果
 呂でないものを
 律という
ーーーーー
 安土・桃山
 天 正 てんしょう 1573~1591 
 文 禄 ぶんろく  1592~1595・・・文録(ぶんろく)
 ↓↑
 江戸
 慶 長 けいちょう 1596~1614 
 元 和 げんな   1615~1623・・・元名(な・那・納・拿)
 寛 永 かんえい  1624~1643 
 正 保 しょうほ  1644~1647 
 慶 安 けいあん  1648~1651 
 承 応 じょうおう 1652~1654 
 明 暦 めいれき  1655~1657・・・明暦の大火
 万 治 まんじ   1658~1660・・・万字
 寛 文 かんぶん  1661~1672・・・漢文
 延 宝 えんぽう  1673~1680
 天 和 てんな   1681~1683・・・天名(な・那・納・拿)
 貞 享 じょうきょう1684~1687 
 元 禄 げんろく  1688~1703・・・言録
 宝 永 ほうえい  1704~1710 
 正 徳 しょうとく 1711~1715 
 享 保 きょうほう 1816~1735 
 元 文 げんぶん  1736~1740・・・元文(げんぶん)
 寛 保 かんぽう  1741~1743 
 延 享 えんきょう 1744~1747 
 寛 延 かんえん  1748~1750 
 宝 暦 ほうれき  1751~1763 
 明 和 めいわ   1764~1771 
 安 永 あんえい  1772~1780 
 天 明 てんめい  1781~1788 
 寛 政 かんせい  1789~1800 
 享 和 きょうわ  1801~1803・・・共和(きょうわ)
 文 化 ぶんか   1804~1817・・・文化(ぶんか)
 文 政 ぶんせい  1818~1829・・・文政(ぶんせい)
 天 保 てんぽう  1830~1843・・・天保(てんぽう)
 弘 化 こうか   1844~1847 
 嘉 永 かえい   1848~1853 
 安 政 あんせい  1854~1859 
 万 延 まんえん  1860     ・・・万延(まんえん)
 文 久 ぶんきゅう 1861~1863・・・文久(ぶんきゅう)
 元 治 げんじ   1864     ・・・元字(げんじ)
 慶 応 けいおう  1865~1867 
 ↓↑
 近代
 明 治 めいじ   1868~1912 
 大 正 たいしょう 1912~1926 
 昭 和 しょうわ  1926~1988 
 平 成 へいせい  1989~ 
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 令 和 れいわ   2019~
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 ・・・???・・・「令和(のりかず)」さん・・・
 四月馬鹿日・・・「令和(れいわ)」・・・命令にナゴム・・・?

コメント
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