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コジキジゲン

サラセン(Saracen)・・・大食いを「さらすなッ、あばくなッ・曝せ、暴け」?

2019-11-12 22:36:34 | 古事記字源
 W(ダブリュウ)之・・・奥州・欧州・桜洲・応酬・押収?
 酔う路通端(ようろっぱ)⇔讃良選・沙羅染(サラセン)・・・
 サラセン(Saracen)
      ・・・「さら・晒・曝・曬」せん・・・
      ・・・「さらすなッ、あばくなッ・曝せ、暴け」?
          曝=日+暴・・・曝露(ばくろ)・暴力
            日+日+㳟
            日+日+共+氺・・・日々、共に水の中?
            日+日+龷+八+氺
            日+日+卄+一+八+氺
            日+日+一+丨+丨+一+八+氺     
 古代ローマ人が
 シリア付近の
 アラブ人に対して用いた呼称
 中世ヨーロッパではイスラム教徒をさす
 「イスラム=サラセン=大食(タージ)=caliphate)と呼ばれる政権・・・
            大食=アラブ部族
              =タイイ族 (Tayy)
              =タジク人・・・・太肉・多字句・截字句?
 アッバース朝=エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にし
        インド、アラビア、ペルシア、中華、ギリシア
        などの諸文明の融合させた「サラセン文化」・・・
    「ウンマ」=「イスラム共同体」のアラブ人支配階級の文化・・・
    「ウンマ =アラビア語で母と同義」
         現代では民族・国民・共同体などを意味
    「ウンマ・イスラーミーヤ=イスラーム共同体
                 イスラーム国家」
ーーーーー
 応県(オウケン)・・・応じて懸ける?
 中国
 山西省・・・賛成・三世・参政・産生・酸性・纂成
 朔州市・・・朔(ついたち・サク)の・・・壱日・作・昨・咲
         朔=屰+月
           䒑+屮+月
           丷+一+屮+月
           䒑+凵+丿+月
           丷+一+凵+丿+月
           サク
           きた
           ついたち
           陰暦の月の最初の日
           朔(new moon)
           月と太陽の視黄経が等しくなること
           (本来
            月の始まりを
            日没時に見える
            月が
            観測される時点
            その時刻のことで
            観測出来るのは
            陰暦「三日月=朏」が「新月」)

          「現今新月」と同義なのは
           暗月=闇夜=地球⇒月←太陽
           月の形は観測できない
           皆既日食や金環日食時に
          「新月」の輪郭を見ることができる
           第一日
           天子が諸侯に与えたこよみ
           きた・方位の北
           十二支の第一番の子が北に位
           月食(lunar eclipse)
           太陽→地球→月
           地球の影が月にかかり
           月が欠けて見える現象=月蝕

       州(くに・ス・シュウ)の・・素・周・集
       市(いち・シ)・・・・壹・位置・史・詞
 唐朝
 により設置された
 金城県・・・・・金(かね)の城(しろ)を県(懸ける)?
 が前身
 五代十国時代・・・醐代拾故句字戴?
 後唐の・・・・・・語当・語等・語問(答)
 応州の州治・・・・応酬
 明朝
 が成立すると
 洪武初年に
 金城県は廃止
 応州直轄とされ
 1913年(民国二年)・・・民の国の二の年 州制廃止で
 応県と改称
 1949年~1952年
 察哈爾省
  ・・・察哈爾省(チャハル-ショウ)
     中華民国にかつて存在した省
     モンゴル族の部族名チャハルに由来
     塞北四省の一

 ↓↑ ↓↑
 察=宀+祭
   サツ
   あきらか
   しる
   みる
   あきらか
   あきらかにする
   よく見る
   くわしく知る・くわしく調べる
   見分ける・区別する
   さっする・おしはかる・思いやる
   忖度?
   御明察
 ↓↑ ↓↑
   仰観俯察・・・行間譜冊?
     目に入る様々なものや、現象を観察すること
   察言観色・・・察元鑑識?
     人の言葉や表情
     顔の様子から相手の性格や考え方を見抜くこと
    「色」は表情や顔つき言葉を観察する
    「言を察して色を観る」とも読む
   彰往察来・・・照皇殺等意?
     昔の出来事を明らかにし
     先のことを予測すること
    「彰」は明らかにする意
    「察」は様々な事情を考えること
    「往を彰かにして来を察す」とも読む
   明察秋毫・・・名刹集合(習合)?
     どんな小さなことも見逃さない
     非常に優れた洞察力
    「秋毫」は秋に生え変わる獣の細い毛
     その細い毛さえも見分ける意
 ↓↑ ↓↑
 哈=口+合
   口+亼+口
   口+人+一+口
   コウ
   ゴウ
   ソウ
   ハ
   すする
   魚が数多く集まるさま
   魚が口をぱくぱく動かすさま
   すする・すすり飲む
   外国語の「ハ」の音訳
 ↓↑ ↓↑
 爾=一+八+冂+丨+㸚
   一+八+冂+丨+爻+爻
   一+八+冂+丨+㐅+乂+爻
   一+八+冂+丨+爻+㐅+乂
   一+八+冂+丨+㐅+乂+㐅+乂
 爾=尓=𠂉+小(亅+ハ)・・・髪挿しの鍵は葉?
   ジ
   ニ
   その
   なんじ
   おまえ・あなた
   二人称の代名詞
   その・それ
   この・これ・ここ
   かれ・指示代名詞
   しかり・しかく
   かくのごとし・そのとおり
  「のみ」と読み、「~だけ」の意
   他の語の下に添えて、状態を表す
 ↓↑ ↓↑
 の管轄
 1958年に廃止
 山陰県に編入・・・纂の韻(音)に懸ける
 1960年に再設置
 ↓↑ ↓↑
  中 井 桜 洲
 (なかい おうしゅう)
 幕末・明治の政治家・鹿児島藩士
 幼名は休之進
 通称は弘
 十八才で・・・拾捌差異?
 脱藩・・・・・奪葉務?
 諸藩の
 志士と・・・・詩史・詩誌・史誌・誌紙?
 交遊
 後藤象二郎
 の知遇を得て
 英国に留学・・・イングリッシュ (English)
 ↓↑      英語(English language)
         イングリッシュ (Engrish)
         非英語圏の人が使う奇妙な英語
         音愚(具・倶・禺)理通諏?
         イングランドの
         イングランド人
        (English people
 ↓↑      Englishman or woman)
 帰国後
 宇和島藩
 伊達宗城
 に招かれ仕えた
 滋賀県知事
 元老院議官
 京都府知事
 等を歴任
 詩文を能くした
 明治二十七年(1894)歿、57才
 ↓↑ ↓↑
 中井 弘(なかい ひろし・ひろむ)
 天保九年十一月二十九日
 (1839年1月14日)
 ~
 明治二十七年
 (1894年10月10日)
 薩摩藩士
 外交官、政治家
 号は桜洲(桜州山人)
 別名
 横山休之進、鮫島雲城、後藤休次郎
 田中幸介、中井弘蔵
 「鹿鳴館」
 の名付け親
 著書に
 『合衆国憲法略記』
 『西洋紀行-航海-新説』
 『魯西亜-土耳其-漫遊記程』
 明治の怪傑、奇人、滑稽家
 ↓↑ ↓↑
 犬上県(いぬかみけん)⇔長浜県
 1872年(明治四年)
 近江国北部を管轄するために設置
 滋賀県北部や東近江市の大部分
 ↓↑ ↓↑
 犬上(いぬがみ)神社
 琵琶湖のほとり
 湖東の犬上郡中央部、豊郷町に鎮座
 犬上郡のある近江の国は
 百済から入植した帰化人が開いた土地
 犬上郡の地名にもなっている
 犬上氏は
 天日槍(あめのひぼこ)
 ↓↑ ・・・・『日本書紀』で
        「天日槍」
        『 古事 記』で
        「天之日矛」
        他文献では
        「日桙(ひぼこ)」
        「天日槍命・天日桙命」
        「海檜槍(あまのひぼこ)」
        『日本書紀』の
         垂仁天皇三年三月条
         新羅王子と名乗る・・・・新羅
         天日槍が渡来し
         羽太の玉
        (はふとのたま) 1箇
         足高の玉
        (あしたかのたま) 1箇
         鵜鹿鹿の赤石の玉
        (うかかのあかしのたま) 1箇
         出石の小刀
        (いづしのかたな) 1口
         出石の桙
        (いづしのほこ) 1枝
         日鏡
        (ひのかがみ) 1面
         熊の神籬
        (くまのひもろき) 1具
 ↓↑      などを献上
 とともに
 百済から・・・百済
 渡来した豪族
 犬上郡の県主(あがたぬし)だった
 神社は犬上氏の祖を祀っている
 ↓↑ ↓↑
 犬族が蛇族を征伐?
 ↓↑ ↓↑
 王脩(王修)
 叔治
 魏. 生まれ
 青州北海郡営陵県
 王脩(オウシュウ)
 字は叔治(シュクジ)
 魏書列伝
 袁紹(エンショウ)始め
 北方の群雄への忠誠を誓い
 清廉忠直
 司空掾・行司金中郎将・魏郡太守を歴任
 賞罰を厳格に定めた法を制定
 建安二十一年(216年)
 大司農兼郎中令
 ↓↑ ↓↑
 アムル人
 紀元前2000年期前半
 中東各地で権力を握った諸部族
 アッカド語はアムル(Amurrū)
 シュメール語はマルトゥ(mar.tu)
 旧約聖書は
 アモリ人=エモリ人
 ハムの子である
 カナンの諸部族の一
 アラム人と混同されるが
 全く別ものである
 ↓↑ ↓↑
 (Margat、Qalaat al-Marqab)
 ↓↑ ↓↑
 桜島
 古代に「鹿児島」と呼ばれていた
 1334年(建武元年)
 頃の記録では
 「向嶋」と呼ばれ
 1476年(文明八年)以降
 「桜島」の名称が記録に現れ
 その後
 「向嶋」と「桜島」の名称が併存
 1698年(元禄十一年)
 薩摩藩の通達で
 桜島の名称に統一
 「向嶋」の名称は
 東西南北どの方向から眺めても
 こちらを向いているように
 見えることに由来
 御岳は
 「筑紫富士」とも
 ↓↑ ↓↑
 「桜島」の名称由来
 三説
 島内に
 木花咲耶姫命を祭る神社が在った
 島を「咲耶島」と呼んでいたが
 転訛して「桜島」となった
 『麑藩名勝考』『三国名勝図会』
 10世紀中頃
 大隅守を勤めた
 桜島忠信の名に由来
 ↓↑ ↓↑
  桜  島  忠 信
 (さくらじま ただのぶ)
 平安時代中期の官人
 姓は宿祢
 官位は外従五位下・大隅守
 姓は櫻嶋
 文章生
 大学寮の
 字(あざな)では
 櫻藝と称され
 文章生の年長者としての堂監を務めた
 4年にわたり堂監
 除目で任官の機会に恵まれず
 一方で大学寮に属していない者が
 財力を背景に
 文人職を得
 憂いた忠信は
 官位の売官が横行していると
 批判し
 官吏社会の腐敗を鋭く諷刺した
 落書を出した
 本朝文粋には
 『桜島忠信落書』として収録
 この落書によって
 忠信の大隅守が決まった・・・
 ↓↑ ↓↑
 大隅守となった忠信は
 在庁官人らの職務怠慢を糾問するため
 郡司を召した
 白髪の翁が出てき
 白髪の翁を見て憐れに思った忠信は
 翁に一首詠ませた
 『老いはてて
  雪の山をばいただけど
  霜と見るにぞ
  身はひえにけり』
 と返した
 忠信は、翁の罪を赦した・・・
 逸話は
 『今昔物語集』
 『宇治拾遺物語』
 にも収録
 地名の桜島は忠信の姓から由来・・・
 『麑藩名勝考』
 ↓↑ ↓↑
 海面に
 一葉の桜の花が浮かんで「桜島」ができた・・・
 『麑藩名勝考』
 ↓↑ ↓↑
 「鹿鳴」=『詩経(小雅)』
     「鹿鳴の詩」に由来・来客をもてなす語
     「呦呦鹿鳴、食野之苹
     (呦呦と鹿は鳴き
      野の苹〈よもぎ〉を食う)」
ーーーーー
 ・・・???・・・

コメント
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鹿鳴館の名付け親=中井桜洲=横山休之進、鮫島雲城、後藤休次郎 、田中幸介、中井弘蔵

2019-11-09 20:10:45 | 古事記字源
 「鹿鳴」=『詩経(小雅)』・・・
 小雅=子カラス=小烏?
 カラスの赤ちゃんナゼ鳴くの?・・・
 コケこっこのオバさんに・・・
 「阿毎王朝・俀王姓-阿毎-字-多利思北孤-號-阿輩雞彌」
 「王妻-號-雞彌・後宮有女六七百人・名-太子爲-利歌彌多弗利」
   妻は雞彌            太子の名は利歌彌多弗利
 ↓↑
 こけこっこの おばさん(雞彌)に
 あかいお帽子(ぼうし) ほしいよ
 あかいお靴(くつ)も ほしいよと
 かあかあ なくのね
 カラス?・・・加羅州・香良洲・・・「韓・漢・唐」
 カラス?・・・マリア・カラス(Maria Callas)
       (ギリシア語 Κάλλας=カラス=美しい
 クロウ(crow)
 クロス(cross)・・・cloth(クロス・tablecloth・wall cloth)
               タペストリー(tapestry)
 カラス?・・・敵船を引き寄せ、乗り込むための・・・
 ガレー船に備え付けた先端に爪カネ(フック)を取り付けた
 「耳字」状の渡し板、梯子「架橋(艦上桟橋)」・・・
 ・・・海戦に有効な武器だったが
    重い梯子は船体のバランスが取れず
    強風などで転覆、沈没もした?
 ↓↑
 エウロパ・・・重卯(兎・鵜・烏)蘆(葦・芦・呂)葉?

 ギリシア神話の女性
 フェニキアの王
 ↓↑ ・・・フェニキア=ポエニ
 ↓↑   (Phoinikē・ポイニーケー
      羅 Phoenices
       Poeni・・・補重似・保重爾・補繪丹?
       ポエニ・・・「ポエニ戦役」
              補繪丹染液?
              補重爾選易?
              吠回邇・吼・咆?
              啼・哭・呼号?
                  古語織・凝織?
      英 Phoenicia)
      古代の地中海東岸に位置
      シリア・・・知理蛙・史理蛙・私利悪・後蛙(雅)?
           (叙利亜・叙里亜・西利牙・西里亜
            尻屋・敘利亞・敘利亞)
      の一角
      北は現シリアの
         タルトゥース(Tartus)
         ・・・樽(木尊)当有珠(臼・碓・渦)?
         アンタラドゥス(Antaradus)
         アンタルトゥス(Antartus)
         トルトーザ(Tortosa)
         とも呼ばれ
         同心円状の
         二重の城壁で囲まれた
         コンセントリック型の城を
         築いた・・・
         近郊に
         アムリット(Amrit)・・・編理通訳?
         の遺跡があり
         アレクサンダー大王・・・亜暦山
         以降
         ギリシャ語で
         マラトゥス(Marathus)
           ・・・真羅訳有諏(碓・臼)?
         十字軍の拠点
         マルガット城・・・丸(円・球)臥通訳?
        (Margat・Qalaat al-Marqab)
         ヨハネ騎士団の拠点
        ↓↑シリア西部の港湾都市
          ラタキアに次ぐ
          シリア第二の港湾都市
          地中海に面する
          沖合約2.5キロメートルにある
          アルワード島とともに
         (ある倭蛙土・word?)
          フェニキア人の植民都市
        ↓↑ 交易の要地
           のあたりから
           南はパレスチナの
           カルメル山に
 ↓↑         ↓↑  ↓↑
          「珂瑠=軽
              刈・乂
              借・仮・狩
              雁」める
            ・・・軽(蝦瑠)女留
               孝徳天皇(珂瑠=軽)
               文武天皇 (珂瑠=軽)
               木梨軽皇子
 ↓↑         ↓↑
           至る海岸沿いの南北に細長い地域
           現在のレバノン領域
            ・・・例葉之(埜)務?
                 詞(記紀壱拾壱)ム(武)?
           フェニキア人名称は自称ではなく
           ギリシア(希臘)人による呼称
           ギリシア人は、交易などを目的に
           東から来た人々をこう呼んだ
           フェニキアという名称は
           フェニキア人
           の居住地が
           ギリシャ語で
           Φοινίκη(Phoinikē; ポイニケー)
           と呼ばれたことに由来
           フェニキアが
           ミュレックス=Mulex(法螺貝・骨貝)
           と呼ばれる
           貝から取れる
           紫色の染料(貝紫)
           を特産としていたことから
          「紫色」(または「緋色」)
           という意味の
           ギリシア語を語源・・・?
           南部の
           サイーダ
            ・・・「齋・歳・祭・差異・賽」意拿?
           などの町中で
           この貝殻の山が存在する
           フェニキア人の
           母体となったとされる
           カナン・・・仮名務?
           という呼称も
           アッカド語で
           ・・・「赤・紅・朱・丹・緋」化土?
           染料・・・・・・・・占領・選良?
           を意味する
 ↓↑         キナッフに由来・・・記名通附?
 ↓↑    ↓↑    ↓↑
      カルタゴ=加留多語・歌留多語・骨牌語・carta語
      フェニキア語
      Kart‐Hadasht(新都市)
      その国民をローマ人は
      ポエニ(Poeni)と呼んだ
      テュロスからの植民(前814)により
      誕生したカルタゴ市は
      西への海上交通の要衝を占め
      肥沃な後背地の
      シドラ湾以西・・・支寅?
      大西洋岸に至る
      フェニキア系植民市群の
      西地中海交易網を手中に収めた
 ↓↑
 フェニキア=旧約聖書中のカナン人の語源
       前14世紀の
      「アマルナ文書」・・・
       ・・・「天・海人・海部・海女・海士」留名?
          「余る名」・「阿毎留名=阿毎王朝」?
          「尼留名=北条政子」?
       などにみえる
       キナフ(Kinaḫḫu)・・・記(紀)名附?
       である
       これは
       深紅色or赤銅色を意味し
        ・・・和銅=元明天皇の年号
           慶雲五年(708)一月十一日
           ~
           和銅八年(715)九月二日
       この地方特産の
       染料の色
       住民の肌の色に由来する・・・
       フェニキア人
       という名称は
       ギリシア語
       フォイニケス(Phoinikes)
       ラテン語の
       カルタゴ人
       ポエニ(Poeni)で
       キナフと同義
 ↓↑     ↓↑
       テュロス王
       アゲノル(Agēnōr)の子の一人
       フォイニクス(Phoinix)の名が
       フェニキアという地名になった
       フォイニクス・・・?
       ギリシア神話の英雄
       ボイオチアの
       アミュントル王・・・蛙観諭(由)務採?
       の息子
       母に頼まれ
       父の愛妾を誘惑し
       父によって
       目をつぶされ・・・・・・盲目
       ペレウス・・・・・・・・経例碓(うあす・臼)
       のもとに亡命した
       ペレウスは
       彼を医術者
       ケンタウロスの・・・建(健)太郎州?
       ケイロン・・・・・・形論・景論=景行天皇
                  高橋景保
                 (シーボルト事件)
       のところへ連れていき
       視力を回復させ
       ドロペス人・・・泥経諏?
            ・・・泥=氵+尼=水野尼?
                水野~尼ヶ坂?名鉄瀬戸線
                水野常倫尼?
                1848~1927
                明治-大正時代の
                愛知県尾張の尼僧
       の王にし
       息子
       アキレウス・・・アキレス⇔アキレス腱
       の教導を依頼
       トロイ戦争に
       彼は
       アキレウスとともに参加
       アキレウスの死後は
       その遺児
       ネオプトレモス・・・
       の後見役となり
       トロイ落城後
       ネオプトレモス
       と一緒に帰国する途中で死亡・・・
 ↓↑     ↓↑
       紀元前320年or紀元前319年
       アレキサンダー(亜歴山)Ⅲ大王
       ↓↑・・・ロシア捕鯨用貨物船
          「アレキサンドル(260総トン)」
           日露戦争開戦で
           1904年(明治三十七年)2月10日
           捕獲
           7月10日に汽船
          「歴山丸」と命名
           翌年に拿捕の抗議が棄却され
       ↓↑  7月4日に雑役船(潜水艇母船)となった
       死後
       オルキュニアの戦い
      (Battle of Orcynia)
       エウメネス
       ・・・重梅(埋め・倦め・宇目)音諏?
       と
       アンティゴノス
       との間で戦われた会戦
       エウメネスは
       テネドス人・・・ギリシアの
       ↓↑     「テネドス(Tenedos)島の人」
               現在
               ギリシャ‐トルコ戦争後
               1923年よりトルコ領
               ダーダネルス海峡の入口付近にある
               面積40平方キロほどの
               トルコ北西部の島
                ボズジャ島=Bozcaada
                     猫の島
               古代には「レウコフィリス」島
               トロイアは
               大陸側のボズジャアダ(テネドス)の
               対岸の丘に造られた都市
               トロイの木馬


               テネドスの海戦(Battle of Tenedos)
               紀元前86年
               ルキウス・リキニウス・ルクッルス
               デマゴラス
               率いるローマ・ロドス艦隊
               と
               ネオプトレモス
       ↓↑      率いるポントス艦隊の間の海戦
      「フォイニクス」・・・不死鳥=火の鳥
       を急派し
      「フォイニクス」は
       ペルディッカスに夜襲を仕掛け
       彼を生け捕りにし
       エウメネスの許まで連れて行き
       エウメネスは
       首謀者を処刑して事態を収拾
 ↓↑     ↓↑
       紀元前321年
       ヘレスポントスの戦
       小アジア北西部
       ヘレスポントス近郊の
       ディアドコイ戦争の会戦
 ↓↑     ↓↑
       エウメネス
       と
       クラテロス       
       ネオプトレモス
       連合軍が戦い
 ↓↑     ↓↑
       エウメネスが指揮
        麾下(キカ) の・・・帰化・幾何・気化・奇禍?
          麾=广+林+毛=指図旗・指揮旗
       ファルナバゾス=アケメネス朝ペルシアの提督
       と
      「フォイニクス」・・・不死鳥=火の鳥
       が勝利した
 ↓↑    ↓↑

   フォイニクス
   英語フェニックス(Phoenix・不死鳥)
   鷲に似て
   羽根は赤と金
   500年に一度
   父鳥の遺骸を
   ヘリオポリスの太陽神の神殿に葬るため
   アラビアからエジプトに来る聖鳥
   自ら焼け死んで甦るという伝説は
   ローマ期以降のもの
   イエス・キリストの復活の象徴ともされた
   エウロペ
   の兄で
   フェニキア
   の名祖の人物で
   英雄アキレウスの養育者
 ↓↑    ↓↑

   フォイニクス(Phoinix)
   深紅色を意味する古代ギリシア語
   神話・伝説中の
   2人の人物
   1羽の鳥が有名
   ↓↑
   フェニックス(Phoenix)
   ↓↑
   フェニキア王
   アゲノル(Agēnōr)の子
   ゼウスにさらわれた妹
   エウロペの捜索を父に命じられ
   兄弟の
   カドモス・・・化土模す?
   らと旅に出たが
   発見できず故国には帰らず
   シドン(orテュロス)に定住し王となった
   フェニキア人の民族名の名に由来
 ↓↑    ↓↑
   フェニキア人
   ギリシア語
   フォイニケス(Phoinikes)
   ラテン語
   ポエニ(Poeni)
   カルタゴ人を意味
   意味は
   キナフと同義
   テュロス王
   アゲノル(Agēnōr)の子の一人
   フォイニクス(Phoinix)
 ↓↑    ↓↑
   カルメル山の山腹の洞窟に
   旧石器時代後半から
   ナトゥフ時代(ナトゥフ文化)
   にかけて狩猟民が住み
   原始的な定住農耕に向かった・・・
 ↓↑    ↓↑
   ほうおう座(鳳凰座)=Phoenix
   晩秋の地平線近く
   南天の星座
   不死鳥(フォイニクス)
   500年ごとに火中に身を投じ
   生命を新たに蘇(よみがえ)らせる
   ドイツの天文学者
   J.バイヤーが
   星図「ウラノメトリア・Uranometoria」
   で新設した南天12星座の一
   α星ザウラクが光度2.4等
   ほかには目につく輝星はない
   概略位置は
   赤経1h0m,赤緯-48゜
   午後8時の南中は12月上旬
 ↓↑    ↓↑
   フォイニクス(Phoenix)
  「やしの木=なつめやし=棕櫚・棕梠・椶櫚」
   を意味する語根に由来
   地名
   囚人のパウロがローマに行く時に
   乗った穀物船は
   冬の停泊地を求めて
   良い港から
   フォイニクス・・・クレタの南側
   に向けて出帆
   船は嵐に遭って
   マルタ島で難破
 ↓↑ ↓↑
 エウロパ
 フェニキアの王
 アゲノルの王女

 ポエニ戦争(羅 Bella Punica)
 共和政ローマ
 と
 カルタゴ
 との間で
 地中海の覇権を賭けて争われた一連の戦争
 ポエニとは
 ラテン語で
 フェニキア人(カルタゴはフェニキア系国家)
 を意味
 紀元前264年
 ローマ軍による
 シチリア島上陸から
 紀元前146年
 カルタゴ滅亡まで3度にわたる戦争
 ↓↑
 紀元前264年~紀元前241年
 シチリア島をめぐる
 一連の戦闘と海戦
 シチリア島
 西半分がカルタゴ領
 東半分がギリシア人勢力の
 シラクサ
 北東の
 メッシーナは
 カンパニア人の傭兵部隊
 マメルティニが占領
 シラクサの僭主
 ヒエロン2世は
 マメルティニに対して攻撃を開始し
 マメルティニは
 ローマとカルタゴ
 の両方に助けを求めた
 ↓↑
 カルタゴ出兵
 ローマも
 マメルティニと同盟を結び
 紀元前264年
 出兵
 マメルティニは
 カルタゴ軍を追い出して
 ローマ軍を市内に入れた
 カルタゴ軍は城外には出たが撤退せず
 シラクサ軍も近くに陣を構えていた
 ローマ軍が両軍を攻撃
 カルタゴ・シラクサに勝利
 紀元前263年
 シラクサは
 ローマと講和して同盟
 ↓↑
 紀元前262年
 ローマは
 カルタゴが守る
 アグリゲントゥム(アグリジェント)
 を攻略
 ローマは
 カルタゴの補給を断つ
 大艦隊を建造
 カラス装置(コルウス)
 ↓↑     ↓↑

 ・・・コルウスorコルバス (corvus)
    ガレー船に備え付けられた
    渡し板、梯子
    「コルウス」はラテン語で
    「カラス」を意味
    日本語訳で「カラス」が使われる・・・?
    「カラス」が餌を啄む姿に似ている・・・?
    ポリュビオスによれば
    幅1.2メートル、長さ10メートル程度の
    「架橋(艦上桟橋)」
    滑車により通常は
    船体の甲板上に折りたたんである
    架橋の先端には
    鋭い爪が下方に伸びており
    海戦で船体がぶつかった時に
    滑車を使って架橋を降ろし
    先端を敵船の
    甲板に打ち込ませて固定し
    敵船に乗り移る
    ローマの軍団兵は
    カルタゴ兵よりも
    白兵戦に長けていたので
    「コルウス」によって
 ↓↑  海戦でも有利に展開した・・・
 を用いた
 接舷戦闘で海戦に勝利
 ローマは
 アフリカ上陸
 紀元前255年
 スパルタ人傭兵隊長
 クサンティッポ
 率いるカルタゴ軍に
 チュニスの戦いで大敗
 撤退の最中に海難事故で
 6万の兵を失った・・・
 紀元前249年
 カルタゴは
 ハミルカル・バルカ将軍(ハンニバルの父)
 をシチリアに送った
 ハミルカル
 は勝利を重ね
 シチリア島全土の支配を獲得
 紀元前244年
 カルタゴで権力を握った
 大ハンノは
 海軍を縮小し
 ローマは艦隊を再建
 紀元前241年3月10日
 アエガテス諸島沖の海戦で
 ハミルカルは補給を失い降伏
 「第一次ポエニ戦争」決着
 ↓↑
 「第二次ポエニ戦争」
 紀元前219年~紀元前201年
 ハンニバル
 によるローマ侵攻
 ハンニバル戦争
 カルタゴは
 シチリアを失い
 ハミルカル・バルカ
 イベリア半島を制圧し
 諸部族の軍隊を養成
 ハミルカルの死後、長男の
 ハンニバル
 はローマとの戦争を決意
 ローマと同盟していた
 イベリア半島の都市
 サグントゥム(サグント)
 を陥落させ
 第二次ポエニ戦争開戦
 ハンニバルは
 5万の兵と37頭の戦象を連れ
 アルプス山脈を越えて
 イタリア半島各地で
 ローマ軍を撃破
 紀元前216年
 カンナエの戦い(カンネーの戦い)
 馬蹄型の陣形で
 ローマ軍を完敗させた
 補給に不安を抱えていたハンニバル軍は
 イタリアの諸都市を
 ローマから切り崩す戦略を優先
 敗北したローマは
 ファビウス・マクシムス・クンクタトルの
 「持久戦法」を採用
 マルクス・クラウディウス・マルケッルスは
 ハンニバル軍に対して
 会戦は避けながら戦闘を仕掛け
 ハンニバルを悩ませ
 ローマへ進軍は許さず
 イタリア半島では
 一進一退の膠着が続いた
 ハンニバルは
 本国との連携や補給を取ることができず
 ローマ軍の
 スキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)に
 ハンニバルの本拠地
 スペインを攻略され
 北アフリカへ逆に侵攻された
 カルタゴ本国での敗戦に
 ハンニバルは本国に召還
 その後
 大スキピオに
 ザマの戦い(紀元前202年)で
 第二次ポエニ戦争は
 カルタゴの敗北
 ↓↑
 ローマを裏切り
 ハンニバル側についた
 シチリア島の
 シラクサ防衛で
 アルキメデスも参加
 発明した兵器は
 マルケッルス
 ローマ軍に損害を与えた
 シラクサ陥落に際し
 マルケッルスは
 アルキメデスを殺すなとの命令
 だが
 配下の兵によって殺された
 アルキメデスは
 地面の上に図形(円周率の計算)
 を描いて計算
 ローマ兵がこれを踏み
 「わしの図形を踏むな」と叫び
 怒った兵士に殺されてしまった
 ↓↑
 第三次ポエニ戦争
 紀元前149年~紀元前146年
 カト・ケンソリウス(大カト)
 が
 スキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)
 をしてカルタゴを滅亡させた
 カルタゴ
 と
 ヌミディア
 との紛争を条約違反とし
 ローマは
 カルタゴに対し内陸への遷都を要求
 拒否したカルタゴを攻囲し、破壊
 ローマ軍は
 住民のほとんどを殺すか奴隷にした
 さらに
 土地を塩で埋め尽くし
 不毛の土地にしようとした・・・
 ↓↑
 ポエニ戦争
 海外領土(シチリア)は安価な穀物を
 ローマに流通させ、食料供給を向上させたが
 自作農の窮乏を招いた
 イタリア半島の農地は荒廃
 大規模農家が農地を集約させ
 商用農作物を奴隷に栽培させた
 ↓↑
 第二次ポエニ戦争
 元老院の指揮権を拡大
 ↓↑ 
 第三次ポエニ戦争
 シチリア、コルシカ、サルディーニャ
 ヒスパニア、アフリカ(カルタゴ)
 をローマの属州とした
 ローマ軍の主力
 中小の自作農を没落させ
 軍団を弱体化した
 裕福な平民層(プレープス)は
 新たに獲得した利権を利用し
 従来の貴族(パトリキ)に合流して
 新貴族(ノビレス)と呼ばれる層を形成
 貧富の格差の拡大
 古代地中海の文明化が
 ヨーロッパに渡された
ーーーーー
 「伊予之二名島の顔の一つ(古事記)」
 伊豆・伊曽保=伊蘇普(イソップ)
 伊太利(イタリア)
 伊吹(イぶき)
 伊予柑(いよカン)
 伊呂波(イロハ)
 伊部焼(いんべやき)
 伊(かれ)・伊(これ)
 伊達(だて)
 伊達巻(だてまき)
 伊藤 
 ↓↑
 伊=亻+尹
   イ
   かれ
   これ
   ただ
   かの
   第三人称
   この
   語調を整える助詞
   河南省n川の名=伊水
   伊太利
   人名名のり
   いさ・おわむ・ただ・よし
   地名
   伊串(いくし)和歌山県
   伊丹(いたみ)兵庫県
   伊井(いい) 福井県
   伊仙(いせん)鹿児島県
   伊佐(いさ) 沖縄県
 ↓↑
   尹=ヨ+丿
     イン
     おさ
     おさめる
     ただす
     長官
     安定させる
     乱れないようにする
     かみ
     四等官(シトウカン)
     弾正台の第一位
ーーーーー
 ・・・ダブった・・・?
  中井桜洲
 (なかい おうしゅう)
 幕末・明治の政治家・鹿児島藩士
 幼名は休之進、通称は弘
 18才で脱藩
 諸藩の志士と交遊
 後藤象二郎の知遇を得て英国に留学
 帰国後
 宇和島藩
 伊達宗城に招かれ仕えた
 滋賀県知事・元老院議官・京都府知事
 等を歴任
 詩文を能くした。明治27年(1894)歿、57才
 ↓↑
 中井 弘(なかい ひろし・ひろむ)
 天保9年十一月二十九日(1839年1月14日)
 ~
 明治27年(1894年10月10日)
 薩摩藩士
 外交官、政治家
 号は桜洲(桜州山人)・・・桜島のある国?
 別名
 横山休之進、鮫島雲城、後藤休次郎
 田中幸介、中井弘蔵
 鹿鳴館の名付け親
 著書に
 『合衆国憲法略記』
 『西洋紀行航海新説』・・・・・?
 『魯西亜土耳其漫遊記程』・・・?
 明治の怪傑、奇人、滑稽家
 ・・・「西洋史」を研究した人物・・・鹿児島人・・・
 ↓↑
 桜島
 古代に「鹿児島」と呼ばれていた
 1334年(建武元年)
 頃の記録では
 「向嶋」と呼ばれ
 1476年(文明八年)以降
 「桜島」の名称が記録に現れ
 その後
 「向嶋」と「桜島」の名称が併存
 1698年(元禄十一年)
 薩摩藩の通達で
 桜島の名称に統一
 「向嶋」の名称は
 東西南北どの方向から眺めても
 こちらを向いているように
 見えることに由来
 御岳は
 「筑紫富士」とも
 ↓↑
 「桜島」の名称由来
 三説
 島内に
 木花咲耶姫命を祭る神社が在った
 島を「咲耶島」と呼んでいたが
 転訛して「桜島」となった
 『麑藩名勝考』『三国名勝図会』
 10世紀中頃
 大隅守を勤めた
 桜島忠信の名に由来
 ↓↑
  桜  島  忠 信
 (さくらじま ただのぶ)
 平安時代中期の官人
 姓は宿祢
 官位は外従五位下・大隅守
 姓は櫻嶋
 文章生
 大学寮の
 字(あざな)では
 櫻藝と称され
 文章生の年長者としての堂監を務めた
 4年にわたり堂監
 除目で任官の機会に恵まれず
 一方で大学寮に属していない者が
 財力を背景に
 文人職を得
 憂いた忠信は
 官位の売官が横行していると
 批判し
 官吏社会の腐敗を鋭く諷刺した
 落書を出した
 本朝文粋には
 『桜島忠信落書』として収録
 この落書によって
 忠信の大隅守が決まった・・・
 ↓↑
 大隅守となった忠信は
 在庁官人らの職務怠慢を糾問するため
 郡司を召した
 白髪の翁が出てき
 白髪の翁を見て憐れに思った忠信は
 翁に一首詠ませた
 『老いはてて
  雪の山をばいただけど
  霜と見るにぞ
  身はひえにけり』
 と返した
 忠信は、翁の罪を赦した・・・
 逸話は
 『今昔物語集』
 『宇治拾遺物語』
 にも収録
 地名の桜島は忠信の姓から由来・・・
 『麑藩名勝考』
 ↓↑
 海面に
 一葉の桜の花が浮かんで「桜島」ができた・・・
 『麑藩名勝考』
 ↓↑
 犬上県(いぬかみけん)⇔長浜県
 1872年(明治四年)
 近江国北部を管轄するために設置
 滋賀県北部や東近江市の大部分
ーーーーー
 ・・・???・・・

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「エウロペ」は欧州・・・奥州・桜洲・応州・王修?じゃあ「イヲ(イヨ)」は?

2019-11-07 17:49:22 | 古事記字源
 「伊予を愛比売といひ(古事記)」・・・
  讃岐国
  南海道
  香川県
 「飯依比古」
 「伊予之二名島の顔の一つ(古事記)」
 ↓↑
 エウロッパ (Europa)
 エウローパ (ヨーロッパ)

 仮名草子・伊曾保物語(1639頃)上
 「イソホといふ人ありけり。
  其時代、エウラウハの国中に
  かほどの見にくき人なし」
 六大州の一
 アジア大陸の西部に連なる半島状の大陸と付属の島々からなる
 北は北極海、西は大西洋に面し
 南は地中海を隔ててアフリカ大陸に接する
 北西部にゲルマン民族
 南西部にラテン民族
 東部にスラブ民族
 が居住し、
 大小「四四」の独立国がある
    ・・・四十四=四拾四=肆拾肆=肆足肆・・・「四国=二面」
 イギリス、ドイツ、フランス、ロシア、イタリアなど
 セルヴィアの新石器時代の土偶と日本の土偶

 ビンチャの女性像は左右、他は日本の土偶

 マルタの巨石神殿群
 ジュガンティーヤ神殿
 建造は紀元前4500年から前2000年頃
 ↓↑
 サルマタイ・・・?・・・座留馬帯=鞍(くら)
 (ギリシア語Sarmatai
  ラテン 語Sarmatae
  英   語Sarmatians)
 紀元前4世紀~紀元後4世紀
 ウラル南部から・・・・・裏留?
 黒海北岸で活動した・・・古句回補句願?
 イラン系遊牧民集団・・・ペルシャ=波斯
 ↓↑  ・・・伊朗 ・伊郎?
    ・・・意覧・伊乱⇔伊都・意図・異図
    伊豆・伊曽保=伊蘇普(イソップ)
    伊太利亜(イタリア)
    伊吹(イぶき)
    井伊・伊井
    伊賀(イが)
    伊予柑(いよカン)
    伊呂波(イロハ)
    伊部焼(いんべやき)
    伊(かれ)・伊(これ)
    伊達(だて)
    伊達巻(だてまき)
    伊蘭=クマツヅラ科の高木・悪臭⇔煩悩?
            伊弉諾尊・伊邪那岐命
            伊弉冉尊・伊邪那美命
 ↓↑ 伊藤
    伊=亻+尹
      イ
      かれ
      これ
      ただ
      かの
      第三人称
      この
      語調を整える助詞
      河南省n川の名=伊水
      伊太利
      人名名のり
      いさ・おわむ・ただ・よし
      地名
      伊串(いくし)和歌山県
      伊丹(いたみ)兵庫県
      伊井(いい) 福井県
      伊仙(いせん)鹿児島県
      伊佐(いさ) 沖縄県
    尹=ヨ+丿
      イン
      おさ
      おさめる
      ただす
      長官・監督
      安定させる
      乱れないようにする
      かみ
      四等官(シトウカン)
 ↓↑   弾正台の第一位
 イラン・・・・要らん・入らん・炒らん・煎らん?
 紀元前7世紀末から
 ウラル南部にいた
 サウロマタイに
 紀元前4世紀頃東方から
 移動してきた遊牧民が加わって形成
 サルマタイはギリシア語
 ラテン語ではサルマタエ
 黒海北岸地域をその名にちなんで
 サルマティアと呼ぶため
 サルマティア人とも・・・
 ↓↑
 欧=歐
   区+欠
   匚+㐅+欠
   区+丿+乛+人
   匚+㐅+丿+乛+人
 歐=區+欠
   匚+品+欠
   區+丿+乛+人
   匚+口+吅+欠
   オウ
   体を曲げてかがむ
   はく・吐く・吐きもどす=嘔
   なぐる・うつ・たたく =殴
   うたう・歌をうたう  =謳
   欧羅巴(ヨーロッパ)の略
   エウロパはゼウスが恋に落ちた
   テュロスの王女
   エウローペーが語源
   エウローペーは
   フェニキアの古代都市
   ティルスの王の娘
   『エウロペの略奪』

 エウロパ
 ギリシア神話の女性
 フェニキアの王・・・フェニキア
 ↓↑        (Phoinikē・ポイニーケー
           羅 Phoenices
           Poeni
           ポエニ
           英 Phoenicia)
           古代の地中海東岸に位置
           シリアの一角
           北は現シリアの
           タルトゥースのあたりから
           南はパレスチナの
           カルメル山に
           至る海岸沿いの南北に細長い地域
           現在のレバノン領域
           フェニキア人名称は自称ではなく
           ギリシア人による呼称
           ギリシア人は、交易などを目的に
           東から来た人々をこう呼んだ
           フェニキアという名称は
           フェニキア人
           の居住地が
           ギリシャ語で
           Φοινίκη(Phoinikē; ポイニケー)
           と呼ばれたことに由来
           フェニキアが
           ミュレックス(en)
           と呼ばれる貝から取れる
           紫色の染料(貝紫)
           を特産としていたことから
          「紫色」(または「緋色」)
           という意味の
           ギリシア語を語源・・・
           南部の
           サイーダなどの町中で
           この貝殻の山を見ることができる
           フェニキア人の
           母体となったとされる
           カナンという呼称も
           アッカド語で
           染料を意味する
 ↓↑         キナッフに由来
 エウロパ
 フェニキアの王
 アゲノルの王女・・・上げ乗る?・・・蛙解之留?
 雄牛に変身した
 ゼウス・・・・・・・是卯州(臼・碓・有珠・渦)⇔宇佐・大分?
 によって拐われ
 その背に乗ったまま海を渡って
 クレタ島・・・・・・呉田・呉太?
 に連れていかれ
 ゼウスの子供
 ミノス・・・・・・・美濃州?
 サルペドン・・・?・沙流(差留・猿)部譚?
 ラダマンチュス・・・羅拿萬註諏
 の3人を生んで
 クレタの王
 アステリオス・・・・明日照里尾州?
 の妃になった
 ↓↑
 フェニキア王
 アゲノルの娘
 カドモスの姉妹・・・火度燃・加渡摸・河図摸図?
 浜辺で
 白い雄牛となった
 ゼウスにだまされ
 その背に乗って
 海を渡ってクレタ島へ運ばれ
 ゼウスの子供
 ミノス(クレタ王)
 ラダマンテュス(冥府の裁判官)
 サルペドン(リュキア王)
 を生んだ
 後
 クレタ王
 アステリオスの妃となり
 死後は女神なった
 ↓↑ 
 エウロペ・・・欧州・・・奥州・桜洲・応州・王修?
 えうろぺ
 Eurp
 テロスの
 アゲアノル王
 と
 テレパサ
 の娘で
 カドモス
 と
 キリクス
 の姉妹
 ゼウスは
 エウロペに惚れて
 白い牡牛に変身して近づき
 初めは恐れていた
 エウロペが
 戯れにその牡牛の背にまたがると
 牡牛は疾走して海を渡り
 クレタ島に上陸
 2人は
 ゴルティンの泉・・・語留出音(韻)
 の畔(ほとり・湖畔)で交わり・・・畔・滸=姫
 エウロペ
 は
 ミノス
 ラダマンティス
 サルペドン
 を生んだ
 ゼウスは彼女に
 青銅人間タロス、猟犬、投槍
 を与えた
 後に
 彼女はクレタ島の
 アステリオン王
 の妻となり
 3人の子を養子とした
 死後神格化され
 牡牛は星座の
 おうし座となった
 エウロペが牛に乗ってやってきた地域が
 ヨーロッパになった・・・
 ↓↑         ↓↑

 イーオー・・・伊緒⇔伊豫⇔壹與・壱与?
 (希臘語Īō=イヲ・ラテン語Io=イヲ)・・・イヨ
 ゼウスの恋人
 牝牛に姿を変えられて
 ギリシアから
 エジプトまで各地をさまよった
 ↓↑
 アイスキュロスら悲劇詩人の多くや
 オウィディウス
 ヒュギーヌス
 年代記作者の
 カストールらは
 ↓↑
 河の神
 イーナコスの娘
 ↓↑
 ヘーシオドス
 アクーシラーオス
 によれば
 ペイレーンの娘
 アポロドーロスは
 イーアソスの娘との説も紹介・・・
 ↓↑
 イーナコスは
 アルゴス地方(アルゴリス)を流れる河で
 アルゴスは
 ゼウスの妃
 ヘーラー信仰の中心地
 イーオーは
 アルゴスで
 ヘーラーに仕える女神官
 ↓↑
 アポロドーロス(II巻1.3)
 イーオーは
 ヘーラーの神職にあったが
 ゼウスがこれを犯し
 ヘーラーに発見されそうになった
 ゼウスは
 イーオーを
 白い牝牛の姿に変え言い逃れた
 ヘーラーは
 ゼウスから牝牛を乞い受け
 全身に眼がある
 「普見者(パノプテース)アルゴス」
 に見張りさせた
 アルゴスは
 牝牛を
 ミュケーナイの森の中に連れて行き
 一本のオリーブの木につないだ
 ゼウスは
 ヘルメースに
 牝牛を盗むよう命じた
 ヒエラクスがこのことを漏らし
 ヘルメースは
 石を投げつけて
 アルゴスを殺した
 ヘルメースは
 「アルゲイポンテース(アルゴスの殺戮者)」
 と呼ばれた

 牝牛(イーオー)
 は解放されたが
 ヘーラーが
 虻(あぶ)を送って耳の中に入れ
 牝牛は逃げ惑って
 イオーニア湾(イオニア海)
 イリュリアー
 を通過し
 ハイモス山を経て
 トラーキア海峡・・・・虎紀(記)亜・寅起亜?
 (ボスポラス海峡)
 を渡った
 この海峡は
 スキュティアー
 キメリアー
 ・・・决めり蛙(ア=鴉⇔からす=烏=ウ=兎)
    加羅州・カラス=船体寄せのフックが付いた梯子
 などの地をさまよい
 エジプト(埃及)
 に至り
 イーオー
 は元の人間の姿に戻った

 ↓↑
 後
 イーオーは・・・女神イシス(Isis)になった
        ・・・石州?・医師素・・・磐州=奥州
           石見・岩手・磐城・岩木・岩見沢
 ナイル川・・・尼羅・尼児・内留・尼罗河・尼羅河・the Nile
        萎える・葦える・名重瑠・綯いる・名意留?
 の河辺で
 ゼウスとの子
 エパポス・・・エパポス(Epaphos) ・・・?
 ↓↑
 を生んだ
 ヘーラーが
 クーレースたちに命じ
 エパポスを隠したため
 ゼウスは
 クーレースたちを殺し
 イーオーは息子を捜しに出かけ
 シリアの
 ビュブロス王
 の下で養育されていた
 エパポスと巡り会った
 エジプトに戻った
 イーオーは
 この地の王
 テーレゴノス・・・弖(氐)重例語之素?
 と結婚した
 ↓↑
 イーオーは
 デーメーテール・・・出重女(目)重出得留?
 の像を建て
 エジプト人は
 デーメーテール・・・出目照?
 と
 イーオー
 を
 イーシス
 と呼んだ
 エパポスは
 エジプト王となり
 ナイル川の娘
 メムピス・・・
 と結婚し
 メムピス市を創建
 二人の娘
 リビュエー・・・
 と
 ポセイドーン・・・
 との間に
 アゲーノール・・・・
 ベーロス・・・
 の双子が生まれた
 ↓↑
 プロメーテウスの予言
 アイスキュロス
 の悲劇
 『縛られたプロメテウス』
 では
 イーオーは
 ヘーラーの
 虻に追われて逃亡するうちに
 スキュティアー
 の岩山に縛り付けられた
 プロメーテウスに出会う
 プロメーテウスは
 イーオーがさらに各地をさまよった末に
 エジプトで元の姿に戻り
 エパポスを生むこと
 イーオーの子孫の
 13代目の末裔が・・・・宗女の壱與、十三歳?
 プロメーテウス
 を解放するだろうと予言・・・
 ↓↑
 アピス (Apis)
 古代エジプトの都市
 メンフィス
 で信仰された
 聖なる牛
 エジプト神話の創造神である
 プタハ神の化身
 別名ハピス (Hapis)
   ハピアンク (Hapi-ankh)
 ↓↑
 オシリスの牡牛
 メンフィスでは
 プタハの牛には
 全身に29の特徴があるとされ
 その全てを満たす牛を
 アピスとして飼育し、崇拝
 もし誰かが
 新しいアピスを見つけた時には
 前のアピスは
 ナイル川に沈められた・・・
 ↓↑
 イーナコス(Īnachos)
 アルゴリス地方を流れる
 イーナコス河の河神
 イナコスとも
 ソポクレースは
 悲劇『イーナコス』を書いたが散逸
 オーケアノス
 と
 テーテュース
 の子
 姉妹の
 メリアー
 との間に
 ポローネウス
 アイギアレウス
 をもうけた
 ゼウスに愛された
 イーオー
 や
 ミュケーナイ
 の名の由来になった
 ミュケーネー
 百眼の巨人
 アルゴス
 も
 イーナコス
 の子といわれる
 ↓↑
 ヒュギーヌスによれば
 イーナコスは
 ポローネウスの娘
 ニオベーの子
 アルゴスの子
 ピラントスの子
 トリオパース
 と
 オレーアスの子で
 クサントス
 と兄弟であり
 アルゲイアー
 との間に
 イーオー
 をもうけた
 ↓↑
 オーケアノスの子で
 姉妹の
 アルゲイアーとの間に
 ポローネウスをもうけた
 ↓↑
 ヘーラー
 と
 ポセイドーン
 が
 アルゴリス地方の
 領有をめぐって争ったとき
 イーナコスは
 河神
 ケーピーソス
 アステリオーン
 とともに
 アルゴリスを
 ヘーラーのものと判定
 ポセイドーンは
 怒って河を干上がらせ
 夏になると河から水が消えてしまう
 ポセイドーンは怒ってこの地を
 洪水で沈めてしまったので
 ヘーラーは
 ポセイドーン
 に水を引かせるよう頼んだ
 ↓↑
 イーナコスはこの地の最初の王で
 自分の名にちなんで河を
 イーナコス河と名付け
 ヘーラーを祭祀した
 イーナコスは
 エジプトからの植民者・・・・
 ↓↑
 イーナコスを
 イーオーの父とする説では
 イーナコスは
 キュルノスに命じて
 イーオーを探させたが
 キュルノスは発見できなかったので
 カーリア地方の
 ケロネーソス地方に移住した
 イーナコスは
 ゼウスを糾弾しようとしたが
 イーナコスは
 ゼウスの送った
 エリーニュスに苦しめられ
 ハリアクモーン河に身を投げた
 このためその河は
 イーナコス河と呼ばれるようになった
ーーーーー
 ???・・・伊予(伊豫)・・・四国・・・愛媛・・・
 「伊予の二名之島(古事記)」
 「伊豫=伊予=伊与=伊與」・・・
 「伊予を愛比売といひ(古事記)」・・・
  讃岐国
  南海道
  香川県
 「飯依比古」
 「伊予之二名島の顔の一つ(古事記)」
 「讃岐=讃伎=賛支」
 ・・・

コメント
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蘇定方(592年誕生~667年 死没 七十五歳)の生きた時代・・・

2019-11-05 22:57:19 | 古事記字源
 蘇我・・・蘇因・・・蘇鉄・・・蘇軾・・・蘇州夜曲

 蘇定方・・・???・・・蘇我・・・???
 蘇       定  方
 よみかえる・・・ジョウホウ・テイホウ
 ↓↑       ↓↑     綴 方=『貞観政要』?
         定法・常法・浄法・情報
         乗法 (multiplication・掛け算) ?
         乗法の結果の答えは
         積(セキ・つむ・product)
         n × m = n times m=n multiplied by m
         multiply=mʌ'ltəplɑi
            =マァルタァプ   ラァイ
             真阿留多有譜   羅合意?
            =マ ルティプ   ラィ
             丸  太 浮(符・付・普=暜・譜)
                      等意?
             円(圓)=まろ=磨呂・万侶・萬侶
                太(ふとい・おほ・タイ)
         multi-ply(-plied, ~・ing)
          …を掛ける
          …を増やす・増大、増加させる
          …を多様、多面的、複合的にする

     蘇鉄=ソテツ(蘇鉄、学名:Cycas revoluta)
        裸子植物ソテツ科の常緑低木
        ソテツ類の中で
        日本で自生する唯一の種
        自然分布では日本固有種
        鉄蕉
        鳳尾蕉
       「蘇鉄」
        枯れかかった時に
       「鉄釘」を打ち込むと
        蘇るという伝承に由来・・・?
        ・・・鉄=金+失(うす・うしなう・あくび・シツ)
               失=𠂉(髪挿し・櫛)+一(イチ)+人
                 神指しの壱(壹・臺)のヒト
           釘=金+丁
               丁=一+亅
                チョウ
                テイ
                トウ
                あたる
                ひのと
                十干四番目
                五行の火
                方位は南
                つよい・さかん
                働き盛りの男性・壮年の男性
                しもべ・下働き、雑用の男性
                出遭う・遭遇する
                よほろ(よぼろ)
                公用に徴発された男子
                斧などで木を切る音
                書物の枚数を数える語
                町を細かく分けた区分
                ~丁目
                長さ・面積の単位
               「町」
             一丁=六十間・約109メートル
             サイコロの目の偶数
             丁か半か?
             丁抹(デンマーク)
             豆腐・拳銃などを数える語
             飲食物を数える語
             一丁あがり

 ↓↑           
 蘇定方(592年~667年) ↓↑
             蘇我 馬子
             欽明天皇十三年
             551年
             ~
             推古天皇三十四年五月二十日
             626年6月19日
 蘇定方(645-592年=52歳)
       ↓↑↓     ↓↑ 
       645・・・「乙巳の変(645年)」
             蘇我入鹿・・・・・大王(鹿)に入る?
             推古天皇十九年
             611年
             ~
             皇極天皇四年六月十二日
             645年7月10日
             ↓↑
             蘇我蝦夷・・・蝦夷(えみし・えぞ・カイ)
             用明天皇二年
             586年
             ~
             皇極天皇四年六月十三日
             645年7月11日
 蘇定方(592年~667年)
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 貞観(貞觀)
 日本元号の一
 天安の後、元慶の前
 859年~877年
 天皇は清和天皇、陽成天皇
 ↓↑
 貞観(貞觀)
 唐代
 太宗の治世の元号
 627年~649年・・・・・蘇定方(592年~667年)
 突厥との防衛戦に勝利
 後世の治政の範とされ
 『貞観政要(全十巻四十篇)』
 ・・・「呉兢」が編纂
 (太宗と名臣たちの論議の記録書
  唐王朝
  二代目の
  太宗(李世民)の治世)
 ↓↑
 『貞観政要(全十巻四十篇)』
 中宗の代に上呈したもの
 玄宗の代にそれを改編したもの
 2種類
 第四巻の内容が異なる
 伝本には
 元の
 戈直(カチョク)
 が
 欧陽脩
 司馬光
 による評を付して整理し
 明代に発刊された
 「戈直本」
 唐代に日本に伝わった
 旧本の二系がある
 朝鮮・女真・西夏
 の周辺諸語に訳された
 ↓↑
 太宗
 と
 臣下
 魏徴・房玄齢・杜如晦・王珪
 ら重臣45名との政治問答
 ↓↑
 編纂
 呉兢
 による
 太宗の死後40~50年
 武則天(周王朝)
 が退位し
 中宗が復位
 唐朝が再興した頃
 貞観の政道の手本とし
 『貞観政要』を編纂し
 中宗に上進
 後
 玄宗の宰相
 韓休(672年~739年)
 が後世の手本となるように
 呉兢
 に命じて改編上進させた
 中宗に上進した
 初進本は
 中宗個人を対象とした
 天子が心得るべき篇
 輔弼篇
 直言諫諍篇
 があり
 玄宗
 への再進本は
 後世の手本とするものなので
 太子や諸王を
 戒める篇に改められている
 ↓↑
 鎌倉時代
 北条政子が
 菅原為長
 に命じて和訳
 日蓮
 もこれを書写した
 江戸時代初期
 徳川家康
 が
 藤原惺窩
 を召して講義させ
 足利学校の
 閑室元佶
 に命じて
 活字版を発刊させて普及に努めた
 明治天皇も
 侍講の
 元田永孚
 の進講を受けた
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 蘇定方(592年誕生~667年死没 七十五歳)
 592年(壬子) 蘇我馬子が崇峻天皇を殺害
        推古天皇即位
 593年(癸丑) 聖徳太子が二十歳で摂政
        難波に四天王寺建立
 594年(甲寅) 仏法興隆の詔が出される
 596年(丙辰) 法興寺(飛鳥寺)が完成
 600年(庚申) 隋に使いを送る(第一回遣隋使)
 601年(辛酉) 聖徳太子が斑鳩宮を作る
 603年(癸亥) 秦河勝が蜂岡寺(広隆寺)を建立
 604年(甲子) 十七条憲法、冠位十二階の制定
         隋の煬帝即位
 607年(丁卯) 小野妹子を隋に派遣し、国書を届ける
 608年(戊辰) 隋が大軍をもって高句麗を攻める
        「小野妹子=蘇因高」が
         隋使
         斐世清らを伴い帰国
         妹子は8人の留学生を連れ再び隋へ
 610年(庚午) マホメットがイスラム教
         高句麗の僧
         曇徴が来日
         紙・墨・彩色などの製法を伝える
 611年(辛未) 聖徳太子の『三経義疏』の
        『勝鬘経義疏』ができる
 613年(癸酉) 聖徳太子の『三経義疏』の
        『維摩経義疏』ができる
 614年(甲戌) 犬上御田鍬を遣隋使として派遣
 615年(乙亥) 聖徳太子の『三経義疏』の
        『法華経義疏』ができる
 618年(戊寅) 隋が滅び唐が興る
 620年(庚辰) 聖徳太子、蘇我馬子らによって
      『天皇記』『国記』
       などができる
 622年(壬午) 迫害のマホメット
         メッカからメディナに逃れる
         聖徳太子死没
 624年(甲申) 唐が「租庸調」の税制を布く
 626年(丙戌) 蘇我馬子没
         蘇我蝦夷が跡を継いで大臣
 629年(己丑) 玄奘三蔵が経典を求めてインドに向かう
         舒明天皇即位
 630年(庚子) 犬上御田鍬の第一回遣唐使派遣
 642年(壬寅) 皇極天皇即位
 643年(癸卯) 山背大兄王らが
         蘇我入鹿に攻められ
         斑鳩宮で自害
 645年(乙巳)
 大化一年    中大兄皇子、中臣鎌足ら
         蘇我入鹿を大極殿で暗殺
        蘇我蝦夷は自害(乙巳の変)
         孝徳天皇即位
         中大兄皇子が皇太子
         初めて年号(大化)制定
 646年(丙午)
 大化二年    改新の詔を宣する
 647年(丁未)
 大化三年    冠位改正、七色十三階とする
 651年(辛亥) イスラム帝国が
         ササン朝ペルシアを滅ぼす
 652年(壬子)
 白雉三年    班田の終り・戸籍を作成
         難波長柄豊碕宮が完成
 653年(癸丑) 孝徳天皇と中大兄皇子の対立
         皇子は母妹を連れて大和に帰る
 655年(乙卯) 斉明天皇即位
 658年(戊午) 阿倍比羅夫が蝦夷討伐
         有間皇子が謀反の疑いで殺害
 661年(辛酉) ウマイヤ王朝が
         イスラム帝国確立
 663年(癸亥) 上毛野稚子が
         新羅に向い
        「白村江の戦い」で
         唐・新羅の連合軍に敗北
 664年(甲子) 冠位二十六階制定
         九州に防人を置き
         水城を築き防御
 667年(丁卯) 近江の大津京に遷都
         蘇定方死亡(592年~667年)
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 668年(戊辰) 中大兄皇子=天智天皇として即位
         中臣鎌足が近江令を作る
 670年(庚午) 全国的に戸籍を作る(庚午年籍)
         法隆寺が炎上
 671年(辛未) 近江令の施行
         天皇が漏刻を元に
         鐘楼を鳴らし時を知らせる
 672年(壬申) 天智天皇没
         大海人皇子が
         大津京の大友皇子を滅ぼす
        (壬申の乱)
         飛鳥浄御原宮に遷都
 673年(癸酉) 大海人皇子=天武天皇として即位
 676年(丙子) 新羅が朝鮮半島を統一
 681年(辛巳) 浄御原律令の編纂開始
 684年(甲申) 八色の姓、制定
 686年(丙戌) 天武天皇没
         大津皇子が
         謀反の疑いで捕らえられ自害
 687年(丁亥) ピピンがフランク王国の実権を握る
 690年(庚寅) 持統天皇即位
         飛鳥浄御原令が施行
         高市皇子が太政大臣
         戸令により庚寅年籍
 694年(甲午) 藤原京に遷都
 697年(丁酉) 東ローマ帝国がイスラム軍と戦う
         持統天皇譲位し、文武天皇即位
 700年(庚子) 刑部親王、藤原不比等らが律令を作る
 701年(辛丑) 大宝1年大宝律令の撰定完成
 702年(壬寅)
 大宝二年    遣唐使、粟田真人、山上憶良らを派遣
 707年(丁未)
 慶雲四年    文武天皇没
         元明天皇即位
 708年(戊申)
 和銅一年    武蔵国から銅を献上
         和銅と改元
         始めての貨幣「和同開珎」発行
ーー↓↑ーー↓↑ーー
 蘇定方
 唐の軍人・・・唐(トウ・当・問答)の意句差(いくさ)の比斗
 名は烈・・・・烈=列+火
 字は定方・・・蘇(読み替える)定方(定め方)?
 諡は荘
 本貫は
 冀州・・・・・冀(北の異なる)州(國・国)
        紀州・既習・奇習・季秋・貴秋
 武邑県・・・・武の邑の県=「武遊・武勇」を懸ける
ーーーーー
 「太秦わたりに
  大輔が侍りけるに
  つかはしける」

 「限りなく
  思ひ入り日のともにのみ
  西の山べを
  ながめやる哉」
 ↓↑
 売買=賣買⇔讀=言+賣・續=糸+賣
 賣=士+四+貝
   坴の上部⇒士+囧(窓)⇒四⇒續
 売=バイ・ショク・トク・イク
 ↓↑
 小野道風(894~966年)
 木工頭(きくのかみ)に任ぜられ
 弟
 小野頼風は武士となった
 ↓↑
 小野道風(894~966)
 遣隋使の小野妹子を祖
 藤原純友の乱を鎮圧した
 小野好古の弟
 小野小町の従姉妹
 ↓↑
 尾張藩の国学者
 天野信景(1663~1733)は
 『塩尻』に
 「春日井郡松河戸の村民伝云
  松河の里は道風の生れし地なりと云云」
 と記録
 松平君山が
 「張州府志」に
 誕生地と伝え
 尾張藩諸学者の通説・・・
 誕生地と伝えられる
 松河戸町に
 尾張藩の儒学者である
 秦鼎(はたかなえ)
 (1761~1831)撰文の
 「小野朝臣(道風)遺跡之碑」
 が
 文化十二年(1815)に建てられ
 「松河戸の村民はみな道風がここで生まれた」
 ということ伝をえている・・・
 (観音寺所蔵)
 伝承で
 「父の小野葛絃(くずお)が
  何らかの理由で
  松河戸に滞在していたとき
  里人の娘との間に生まれたのが道風で
  幼少時代を松河戸で過ごし
  十歳ころ
  父とともに京に上り、書で身を立てた」
 ・・・
 小野氏
 遣新羅使に任命された者
 大宰府の官人となった者
 外交に携わったと目される人物
 文化の面でも人物を輩出
 奈良時代
 大宰大弐に任ぜられた
 小野老(おののおゆ)
 の詠んだ万葉歌
 「青丹(あおに)よし
  寧楽(なら)の
  京師(みやこ)は
  咲く花の
  薫(にお)ふが如く
  今盛りなり
 (『万葉集』3―328)」
 ↓↑
 小野篁(たかむら)
 勅撰漢詩集
 『経国集』
 などに多くの漢詩を残し
 孫の
 小野道風(とうふう)は
 藤原行成
 藤原佐理(すけまさ)
 と共に「三蹟」と称され
 和様の能書家
 指定されている
 ↓↑
 小野妹子が2度目に隋に渡った6年後
 614年
 犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)
 が最後となる遣隋使に任命され
 隋から唐に替わった後
 最初の遣唐使に任命され
 630年
 唐に渡ったのも
 犬上御田鍬
 斉明天皇元年(655)
 「犬上白麻呂」
 が
 遣「高句麗使」に任ぜられ
 近江国犬上郡(滋賀県犬上郡、彦根市)
 を本拠とした
 同郡豊郷(とよさと)町に
 犬上神社があり
 犬上氏の祖とされる
 稲依別(いなよりわけ)王
 (日本武尊の子)を祭っている
 犬上氏は百済からの渡来人・・・
 隣接する愛知(えち)郡に
 依智秦氏(えちのはたうじ)
 渡来系氏族が居住し、湖東の地域を開発
 ↓↑
 第十一首
 参議篁(小野篁)
 「わたの原
  八十島かけて
  漕ぎ出でぬと
  人には告げよ
  海人の釣り舟」
 ↓↑
 太秦(うずまさ)
 雄略天皇の御世
 渡来系の豪族
 秦氏(秦酒公)が
 絹を
 「うず高く積んだ」ことから
 「禹豆満佐=うずまさ」の号を与えられ
 「太秦」の漢字表記を当てた・・・?
 秦氏は機織りの技術者集団
 絹布を租税としていた
 この地には絹布が
 「うず高く」積み上げられ
 朝廷から
 「兎豆満佐(うずまさ)」の姓を与えられた
 「うずまさ」に
 「太秦」の文字に当てた・・・?
 ↓↑
 奈良時代
 716年
 旧高句麗(高麗)の
 遺民1,799人が
 武蔵国に移住し
 高麗郡が設置
 日高市
 と
 飯能市
 の一帯が
 高麗郡
 ↓↑
 冀州(キシュウ)
 中国の行政区分の一
 山西、遼寧、河北、北京、天津
 フフホト(呼和浩特)
 ウランチャブ(烏蘭察布)
 等七つの省市に分属
 ↓↑
 隋朝
 開皇初年に
 設置された
 長楽県を前身
 隋の時代は
 西部が
 沢城県と呼ばれていた
 606年(大業二年)
 信都県が廃止
 ↓↑
 紀元前106年(元封五年)
 漢の武帝が
 全国十三州に分割し
 各州に
 刺史を置いた
 河北省を中心とする地域を
 冀州刺史部とし
 魏・鉅鹿・常山・清河・趙
 広平・真定・中山・信都
 の九郡国を属させた
 ↓↑
 前漢滅亡後
 軍閥の
 王郎が
 邯鄲に拠って冀州を支配
 光武帝の侵攻により敗死
 後漢に入って
 高邑を州治とした
 ↓↑
 北魏
 皇始二年
 定州
 太和十一年
 瀛州
 熙平二年
 滄州
 に分割
 劉宋の代に
 山東省の領域内に
 僑州として
 「冀州」
 あるいは
 「南冀州」
 の省置が繰り返された
 ↓↑
 隋代
 当初は二郡を管轄
 607年(大業三年)
 郡制施行に伴い
 冀州は信都郡と改称
 下部に12県を管轄
 ↓↑
 唐朝
 信都郡は冀州と改称
 河北道の管轄
 662年(龍朔二年)
 冀州は魏州と改称
 同時に魏州が冀州と改称
 672年(咸亨三年)
 冀州と改称
 742年(天宝元年)
 郡制施行で
 信都郡とされ
 758年(乾元元年)
 再び
 冀州と改称・・・???
ーー↓↑ーー
 蘇邕の子
 隋末
 蘇邕は郷里の数千人を率いて
 叛乱の討伐
 定方は15歳で父の下で従軍
 蘇邕の死後
 部衆を引き継ぎ
 劇県の叛乱軍の
 張金称・・・金を張(葉瑠)る称
 楊公卿・・・楊(やなぎ・栁・柳)の公卿⇔小野道風
         ヤナギにカエル・・・八名義を変える?
          「太秦(うずまさ)わたりに
           大輔が侍りけるに
           つかはしける」
          「限りなく
           思ひ入り
           日のともにのみ
           西の山べを
           ながめやる哉」
 らを撃破
 後に
 竇建徳・・・竇=穴+賣・・・穴の売(賣)
               売買=有償契約・双務契約の典型
         穴+士+買
         宀+八+賣
         穴+士+罒+貝
         宀+八+士+買
         宀+八+士+罒+貝
         宀+八+十+一+罒+目+ハ
         トウ
         トク
         ドク
         ズ
         あな
         あなぐら
         みぞ
         物をたくわえておく穴
         くぐり戸
         みぞ・水道・水路
       建=廴+聿(イツ・イチ
             筆・書く
             とうとう・ついに
             自分から・自ら
             修める・述べる
             すばやい・すばやく走る
             共に・従う)
         廴+肀+二
         廴+肀+一+一
         廴=引き伸ばす・延長
         ケン
         コン
         たつ
         たてる
         くつがえす・・・・?・・・覆す
         たてる・定める
         おこす
         はじめる
         建物をたてる・建物がたつ
         申し立てる・意見を出す
         北斗七星の柄が指すある方向
         十二支のいずれかの方向
         陰暦・月建(朔)
         一月は「建寅(寅の方向)」
         二月は「建卯(卯の方向)」
         など
         くつがえす・・・覆す
         こぼす・・・・・溢す・零す
       徳=德=悳・・・得
 の麾下
 竇建徳の部将の
 高雅賢の養子となった
 高雅賢
 劉黒闥
 が死ぬと
 定方は郷里に帰った。
 ↓↑
 貞観初年
 匡道府
 折衝
 李靖
 の下で二百騎を率いて
 突厥を攻撃の先鋒
 霧の中で
 牙帳を襲撃
 突厥の
 頡利可汗
 は逃亡
 李靖が到着すると
 突厥の一党はことごとく降伏
 凱旋すると
 定方は
 左武候中郎将
 永徽年間
 左衛勲一府中郎将
 程名振・・・・・・程の名の振?
 とともに
 高句麗出兵し破った
 右屯衛将軍
 臨清県公
 に封ぜられた
 ↓↑
 656年
 程知節・・・・・・程の知の節?
 に従って
 前軍総管をつとめ
 阿史那・・・・・・
 賀魯・・・・・・・
 を攻撃
 鷹娑川にいたった
 阿史那賀魯
 が2万騎を率いて対陣
 定方は
 総管の
 蘇海政・・・・・・
 とともに連戦
 突厥の別部の
 鼠尼施・・・・・・
 らが2万騎を率いて敵方に来援
 定方は騎兵の精鋭500を率い
 山嶺を越えて敵陣に討ち入って破り
 1500人あまりを殺害
 多くの武具や牛馬を鹵獲
 唐の軍中では
 副大総管の
 王文度
 が味方の疲労と士気の低下を見て
 深入りを諫め
 定方は追撃を主張
 程知節が
 怛篤城にいたり
 胡人を降伏させると
 王文度は
 降胡を殺して財貨を奪うことを主張
 定方はこれに反対
 王文度は奪った財貨を分配したが
 定方はひとつも取ることがなかった
 高宗がこのことを知ると
 程知節
 らが帰還した後
 王文度
 を庶民に落とした。
 ↓↑
 657年
 定方は
 伊麗道
 行軍
 大総管
 再び
 阿史那
 賀魯
 を攻撃
 任雅相
 と
 回紇の
 婆閏
 が副大総管をつとめた
 定方は
 アルタイ山の北に出て
 処木昆部を撃破
 俟斤の
 嬾独禄を降した
 定方は
 麾下の1000騎と
 回紇の1万人を率いて
 曳咥河に進軍
 阿史那賀魯と会戦
 定方の兵が少ないのをみて
 左右両翼を伸ばして包囲
 定方は歩兵に高所に拠らせ
 自らは精鋭の騎兵を率いて
 北原に陣した
 阿史那賀魯の軍は
 三たび唐の歩兵の陣を
 突き崩そうとしたが崩すことができず
 定方は
 騎兵で三十里をめぐって戦うと
 阿史那賀魯の軍は崩れて潰走
 唐軍が追撃
 数万の人馬を殺した
 翌日、定方が兵を進軍させると
 五弩失畢が部族こぞって唐に降伏
 阿史那賀魯
 と
 処木昆の
 屈律啜の数百騎は西方に逃走
 定方は副将の
 蕭嗣業
 と
 回紇の
 婆閏に
 邪羅斯川
 に向かわせて追撃
 定方
 と
 任雅相
 は新たに帰順した兵をまとめて、後詰め
 大雪で
 軍吏に進軍の中止を求められたが
 定方は兵を
 雙河まで進め
 阿史那弥射
 や
 阿史那歩真
 の軍と合流し
 阿史那賀魯の陣に迫った
 阿史那賀魯は狩猟の最中で
 定方はこれを襲撃して破った
 阿史那賀魯
 は
 石国・・・・?
 に逃れたが
 阿史那弥射の子の
 阿史那元爽が
 蕭嗣業と合流し
 阿史那賀魯を捕縛
 定方は
 左驍衛大将軍に任ぜられ
 邢国公に封ぜられた
 子の
 蘇慶節も
 武邑県公に封ぜられた
 ↓↑
 659年
 思結闕俟斤都曼が
 諸部を扇動し
 疏勒・朱倶波・渇槃陀
 の三カ国が唐に叛くと
 定方は
 安撫大使となって討伐
 葉葉水
 にいたり
 都曼が
 馬頭川
 を守ると
 定方は歩兵の精鋭1万と騎兵3000を選抜し
 昼夜分かたず三百里を駆け抜け
 都曼の陣の前に現れ
 都曼は驚いて城に逃げ込んだ
 唐軍がこれを攻め
 都曼は自らを縛って降伏
 パミール高原より
 西の地方も唐の勢力圏に入った
 定方が捕虜を
 乾陽殿に献上
 邢州鉅鹿の
 三百戸の食邑を加えられ
 左武衛大将軍
 ↓↑
 660年
 熊津道大総管
 百済の征討
 城山から海をわたって
 熊津口に上陸
 百済軍を撃破して
 真都城に進軍
 百済に勝利
 百済王
 義慈や
 太子の
 隆は北方に逃走
 定方が
 泗沘城を包囲すると
 義慈の子の
 泰が自立して王を称した
 泰は抗戦を続けようとしたが
 義慈は開門し降伏
 百済の将軍の
 禰植
 と
 義慈
 は唐軍に降り、泰も捕らえられ
 百済王
 義慈や
 隆・泰
 らは東都洛陽に送られた
 ↓↑
 定方は
 三カ国を滅ぼし
 子の
 蘇慶節
 は尚輦奉御の位を加えられた
 ↓↑
 663 年
 3月 阿倍比羅夫ら、新羅征討のため出発
 6月 百済の余豊璋
   謀反心の
   鬼室福信を斬り
   首級を塩漬けにする
 10月5日(天智天皇二年八月二十八日)
 白村江の戦い
 (唐・新羅連合軍 対 百済・日本連合軍)
 10月13日(天智天皇二年九月七日)
 百済が降伏
 百済人民が日本へ逃亡
 唐が
 単于都護府を
 雲中に設置
 ↓↑
 663 年10月
 天智2年8月
  白村江の戦い
 (はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかい)
 天智2年8月(663 年10月)
 朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)
 日本・百済遺民の連合軍と
 唐・新羅連合軍との戦争
 ↓↑
 定方は
 遼東道行軍大総管となり
 平壌道行軍大総管に転じた
 高句麗の軍を
 浿江で破り
 馬邑山の敵営を落とし
 平壌を包囲
 大雪で包囲を解いて帰還
 涼州安集大使に任ぜられ
 吐蕃
 吐谷渾
 と戦った
 ↓↑
 667年
 76歳で死去
 高宗は
 左驍衛大将軍
 幽州都督
 の位を追贈
 ↓↑
 伝記資料
 『旧唐書』巻八十三 列伝第三十三
 「蘇定方伝」
 『新唐書』巻百十一 列伝第三十六
 「蘇定方伝」
 ・・・原文は「ウィキペディア(Wikipedia)」・・・
 ↓↑
 蘇(ソ)=チーズ
 流蘇(ふさ)・鳥の尾や糸でつくった垂れ飾り
 屠蘇(トソ)
 蘇士(スエズ)
 蘇芳・蘇方・蘇枋(スオウ)
 蘇民書札(そみかくだ)
 蘇葉(ソヨウ)
 蘇婆訶(ソワカ)
 ↓↑
 甘栗=天津栗=板栗
    平安時代、大臣に新任の大饗(たいきよう)などのさい
    朝廷から蘇(そ)と甘栗を賜るならわしがあった
    それを届ける勅使を
    蘇甘栗使(そあまぐりのつかい)と呼んだ
    この甘栗は干栗(ほしぐり)・・・
    「延喜式」に搗栗(かちぐり)・平栗(ひらぐり)
    と記録・・・
 ↓↑
 蘇=ソ(漢)・ ス(呉)
   よみがえる・ 生きかえる・よみがえる
   「蘇生」
   草の名
   紫蘇 (しそ)
   蘇 (コケ・苔)
   蘇芳(すおう)
   蘇格蘭(スコットランド)
   蘇維埃(ソビエト)
   耶蘇(ヤソ)
 ↓↑ ↓↑
 蘇軾
 景祐3年12月19日
 (1037年1月8日)
  ~
 建中靖国元年7月28日
 (1101年8月24日)
 北宋の政治家・文豪・書家・画家・音楽家
 ↓↑
 東坡居士
 蘇東坡(ソトウバ)
 字は子瞻(シセン)
 坡公・坡仙
 諡は蘇文忠
 蘇洵の長子
 弟は蘇轍
 ↓↑
 「古文」の唐宋八大家
 蘇文忠
 蘇洵
 蘇轍
 韓愈・柳宗元・欧陽脩・曽鞏・王安石
 ↓↑
 子に
 蘇邁、蘇迨、蘇過、蘇遯
 曾孫は
 蘇公弼(威州刺史)
 玄孫娘は
 耶律楚材の夫人
 (蘇公弼の娘、耶律鋳の生母)
 ↓↑
 眉州眉山(四川省眉山市東坡区)の出身
 嘉祐二年(1057年)22歳
 弟・蘇轍とともに
 進士となる
 科挙試験委員長は
 欧陽脩
 蘇軾、蘇轍、曽鞏の3名のみ合格
 ↓↑
 神宗時代
 唐末五代の混乱後の国政の改革
 王安石
 改革「新法」の施策
 具体的に
  ↓↑
 『周礼』の
 「一国万民の政治理念」・・・日本人的発想?
 「万民を斉しく
  天子の公民とする」
  ↓↑
 斉民思想に基づき・・・「日本人的発想」?
 均輸法・市易法・募役法・農田水利法
 など
 経済政策
 科挙改革
 学校制度整備
 などが行われた
  ↓↑
 蘇軾は
 欧陽脩・司馬光
 らとともにこれに反対し
 二度、流罪、追放・・・左遷
 元豊二年(1079年)
 蘇軾44歳
 湖州の知事
 国政誹謗罪で逮捕、尋問調書
 御史台の取り調べの際に
 蘇軾が残した供述書は
 「烏台詩案」
 と呼ばれた
 神宗の取り計らいで
 黄州(湖北省黄州区)へ左遷
 左遷先の土地を
 東坡と名づけ
 東坡居士と名乗った
 黄州生活は5年
 黄州時代の傑作が
 『赤壁賦』
 赤壁=三国時代の古戦場
    西暦208年
    呉と蜀の連合軍が
    魏の水軍を破った場所
    黄州~長江を遡った
    南岸の嘉魚県の西にあった
 元豊八年(1085年)
 神宗死去
 哲宗が即位
 幼い哲宗に代わって
 宣仁太后の
 垂簾朝政が八年間続き
 彼女の後押しで
 旧法党の官僚は要職に就き
 元豊九年(1086年)
 司馬光が宰相
 蘇軾も名誉を回復され
 五十歳で中央官界に復帰し
 翰林学士を経て
 礼部尚書に昇進
 ↓↑
 司馬光=新法を全て廃止方針に対し
 新法でも募役法のように
 理に適った法律は存続
 旧法派の内部の分裂・・・
 ↓↑
 司馬光の死後
 蜀党=蘇軾、蘇轍兄弟
 と
 洛党=程頤、程顥兄弟
 が党争
 ↓↑
 紹聖元年(1094年)
 再び新法派が力を持つと
 蘇軾は再び左遷(59歳)
 恵州(広東省)に流刑
 62歳
 海南島に追放
 66歳
 哲宗が死去し
 徽宗が即位
 新旧両党の融和で
 許され
 都に向かう途中病を得
 常州(江蘇省)で死去
 ↓↑
 蘇軾は北宋最高の詩人
 『蘇東坡全集』に纏められている
 ↓↑
  題西林壁
 (西林壁に題す)

  横看成嶺側成峰
 (横より見れば嶺を成し、傍らよりは峰となる)
  遠近高低各不同
 (遠近・高低いつも同じきは無し)
  不識廬山真面目
 (廬山の真面目を知らざるは)
  只縁身在此山中
 (ただ身のこの山中にあるによる)
 ↓↑
 王安石とは政治的に対立していたが
 詩文を通じた交流
 要職を退いた後
 王安石は
 蘇軾に対して七言絶句を送った
 ↓↑
 北山
  北山輸緑漲横陂
  (北山緑を輸横陂漲る)
  直塹回塘艶艶時
  (直塹、回塘、艶艶たる時)
  細數落花因坐久
 (細かに落花を數ふるは
坐すること久しきに因る)
  緩尋芳草得歸遲
 (緩やかに芳草を尋ねて
歸ること遅きを得たり)
 ↓↑
 蘇軾はこれに対して
  次荊公韻
 (荊公の韻に次す)
  騎驢渺渺入荒陂
 (驢に騎って渺渺として荒陂に入る)
  想見先生未病時
 (想見す先生の未だ病まざりし時を)
  勧我試求三畝宅
 (我に勧めて試みに三畝の宅を求めしむ)
  従公已覚十年遅
 (公に従うこと已に十年遅きを覚ゆ)
 と、答えた

 「荊公」=「王安石」のこと
 ↓↑
 書家として
 米芾・黄庭堅・蔡襄
 とともに
 宋の四大家
 蘇軾は
 二王(王羲之と王献之)を学び
 後に
 顔真卿・楊凝式・李邕を学んだ
 「赤壁賦」
 『黄州寒食詩巻』=『寒食帖』
 ↓↑
 蘇軾=祖父
 蘇序=父親
 蘇洵、唐宋八大家の一人
 
 母親=程夫人
    眉山の富豪、程文応の娘
    程濬の妹

 妻妾=王弗、16歳の時に19歳の蘇軾と結婚
    結婚後11年で死別
    王閏之、王弗の妹
    王弗が逝去三年後、蘇軾に嫁いだ
    王朝雲、蘇軾の妾
    紹聖三年、享年34で逝
ーーーーー
 ・・・???・・・今フユーズ・・・
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失笑噴飯(蘇軾)・・・漆章(7章)旧版(旧約)・テンシへの嘲笑と自嘲

2019-11-03 21:31:08 | 古事記字源
 まわサ・まわシ・まわス・まわセ・まわソ・囬・回・囘
 ↓↑
 メロンパン
         2015年10月(17)丁巳 比肩 帝旺
           2019年(21) 冲
 戊寅(戊丙甲)傷官・印綬  死⇔己亥 食神
 己未(丁乙己)食神・食神 冠帯⇔甲戌 印綬
 丁丑(癸辛己)  ・食神  墓⇔甲辰 印綬
 丙午(丙 丁)劫財・比肩 建禄⇔庚午 正財
 ・・・ミミ美形・・・
ーーーーー
 2019/11/02/17:36
 硫黄島 噴火・噴煙・・・憤慨・糞系・墳墓・・・
 噴=口+賁
   口+十+卄+貝
   口+十+一+丨+丨+貝
   フン
   ホン
   ふく
   はく
 ↓↑ ↓↑
  賁・憤・濆・墳・蕡・噴・膹・蟦・羵・豶
  轒・饙・䩿・鱝・黂・僨・獖・㿎・歕・鐼
  幩・馩・䒈・燌・隫・㱵・橨・翸
 ↓↑ ↓↑
 失笑噴飯(蘇軾)・・・漆章(7章)旧版(旧約)
            第7章アブラハムとサラ・笑いが夢をかなえる
            蘇 軾
           (景祐三年十二月十九日(1037年1月8日)
                ~
            建中靖国元年七月二十八8日(1101年8月24日)
            北宋の書家・政治家
            号は蘇東坡・・・・・東の坡=つつみ・堤防・土手
            字は子瞻(シセン)・瞻=見上げる・あおぎ見る
            諡は蘇文忠・・・・・蘇る文の忠?
            蘇=よみかえる・・・読み替える?
            軾=しきみ・・・・・史記を観て?
            車の前部の横木・・・句留万の膳部の與古記?
                      車持=藤原氏の部下の
                         膳部=高橋膳部?
                ・・・それにつかまり敬礼
                      ・・・景例=景行天皇?
 ↓↑ ↓↑        ↓↑ ↓↑       ↓↑ ↓↑
                      磐 鹿六 鴈
                     (いわかむつかり)
                      六 鴈  臣
                     (むつかりのおみ)
                     『日本書紀』
                      他文献で
                     「磐鹿六獦命」
                     「磐鹿六雁命」
                     「伊波我牟都加利命」
                「大彦命孫の伊波我牟都加利命の後」
                「抄録、高橋朝臣(左京皇別)は
                    大稲輿命の後」
                     『新撰姓氏録(抄録)』
              『古事記』に記載はない・・・???
              天武天皇十二年の時に
              六獦命十世孫の
              膳国益が
             「高橋朝臣(高橋氏)」を賜った
 ↓↑ ↓↑        ↓↑ ↓↑
 噴薄激盪(フンパクゲキトウ)・・・分場句解記当?
 噴火山の上で踊る
 ↓↑
 賁=ヒ
   フン
   ホン
   あや
   かざり
   かざる
   つわもの
   かざる・かざり
   模様が美しい・あざやか
   易の六十四卦の一
   大きい
   わく(湧・沸)・わきたつ
   いきどおる(イキドオル)・・・意気通る?
   走る
   賁育之勇(戦国策・燕策)
   孟賁と夏育=秦の武王に仕えた怪力
   連璧賁臨(レンペキヒリン)
   「連璧」=二人共に
   「賁臨」=人が訪れる敬称
 ↓↑ ↓↑
   蟦=虫+賁
     ヒ
     ホン
     黄金虫の幼虫・すくもむし(蠐螬=セイソウ
                  蝤蠐=シュウセイ
                  地虫=じむし)
            蠐=中+厶+齊(齋・斎・斉)
            螬=中+厶+曹
                (曹=一+曲+日
                   ソウ
                   ゾウ
                   つかさ
                   ともがら
                   つかさ・役人・役所
                   ともがら・やから・なかま
                   へや・役所の部局)
           「蝤蠐(シュウセイ)=カミきり虫の幼虫」
            枯れた葦=「すくも」
            宿毛(すくも)=州窪(すくぼ)
            宿毛無私?・・・無視・無死
           「草刈りトッポさく」
           「とっぽさく=大法螺吹き・大袈裟な噺」
            高知県南西部に位置し
            愛媛県と境を接する市
     水母(くらげ・海月)
     貝の牡蠣(かき)
 ↓↑ ↓↑
   羵=羊+賁
   フン
   土の中に住む怪物の名
 ↓↑ ↓↑
   豶=豕+賁
   フン
   おすの豚
   去勢した雄豚
   去勢する
 ↓↑ ↓↑
   鱝=魚+賁
   フン
   えい
   魚の名・エイ科の総称
   軟骨魚の一種
 ↓↑ ↓↑
   濆=氵+賁
   フン
   ふく
   ほとり
   みぎわ
   わく
   水際・岸
   わきたつ・水がわき出る

 ↓↑
 ザ・グラジエーター(The Gladiator)・・・
 ↓↑
 2019/11/02/18:02~18:54
 ラグビー
 Wカップ決勝戦
 イングランド(3+3)VS(3+3+3+3)南アフリカ
 ↓↑
 2019/11/02/18:02~19:54
 ラグビー
 Wカップ決勝戦
 イングランド(6+3+3)VS(12+3+3+5+2+5+2)南アフリカ
 ↓↑
 2019/11/02/15:57
 Jリーグ
 ドサンコ (3)VS(0) 名古屋 G
 ↓↑
 まわサれ・まわシ・まわス・まわセ・まわソ・・・?
 ↓↑
 囬(目をまわす)
 回(口をまわす)
 囘(とぐろ・蜷局・戸愚呂をまわす)
 ・・・トイレ(冂・便座・虎子)の中の
    糞便(巳・うんこ)
    虎穴に入らずんば虎児を得ず・・・フンばる?
 「Gare a l'eau!(水に気をつけろッ)」
 ↓↑
 「虎児(コジ・おまる)」
 ↓↑   ↓↑
 胡字・古字・古事・固辞・固持・古寺・故事・居士・誇示
 「糞塊=fecaloma・fecalith・fecolith・fecal pellet
 ・・・・ガチガチの固糞(コフン)便秘療法?
    ・・・前方後円墳=古墳の弁の開閉秘法
            =二重環濠水郷・灌漑堤防と水門
 ↓↑
 ある程度固まって排出される糞
 糞塊
 鳥類・爬虫類・昆虫
 の糞の中の白い粘液は尿


 色
 人間の便は
 通常時
 黄土色~茶色の混合色
 ↓↑
 Shit   (英語)
 Scheise (ドイツ語)
 Merde  (フランス語)
 !Mierda (スペイン語)miercoles(水曜日)
 Merda  (イタリア語)
 ↓↑
 スカトロジー(Scatology・糞便学)
 糞石(coprolite)
 糞石研究
 福井県若狭町の
 縄文時代前期(約5,500年前)の遺跡
 鳥浜貝塚において2,000点をこす糞石
 粟津湖底遺跡第3貝塚
 (滋賀県大津市、縄文時代中期)
 唐古・鍵遺跡
 (奈良県田原本町、弥生時代中期)
 青谷上寺地遺跡
 (鳥取県鳥取市、弥生時代)
 ↓↑
 考古学
 トイレ遺構の
 トイレ跡から得られる残留物が
 当時の食生活を推察する資料となっている
 ↓↑
 糞(屎)
 動物の消化管から
 排出される固体状の排泄物(屎尿)
 糞便・大便・便
 うんこ・うんち・ばば
 人間の便
 食べ物の残滓はおよそ5%
 水分(60%)
 腸壁細胞の死骸(15%~20%)
 細菌類の死骸(10%~15%)
 ↓↑
 糞の量・形・色・臭い
 動物種、個体、体調によって様々
 人間は1日に平均して100~250gほどを排出
 下痢
 便秘(宿便)
 ↓↑
 形状
 人間
 楕円形から棒状
 太さや長さは体調などで変化
 食物繊維、炭水化物を多く摂取すると便は
 太く大きくなる
 幼少時
 括約筋の調節が利きにくく
 体格に対して便は太く形成
 年齢を重ねると括約筋の弛緩により
 相対的に便は
 縄状に細くなる
 ↓↑
 人と似た便を出す動物
 イヌ・ネコ・サル・ウシ・ウマなど
 固形物状の糞を出す
 ウサギ・ヤギ・シカなど
 ウサギは円盤状
 シカは楕円形
 草食性の昆虫はペレット状
 ↓↑
 ある程度固まって排出される糞
 糞塊
 鳥類・爬虫類・昆虫
 の糞の中の白い粘液は尿
 ↓↑
 圖=囗+啚
   囗+口+㐭
   囗+口+亠+回
   囗+口+亠+囗+口
 ↓↑
 㐭=穀物を収める倉
   啚の口は領域を示し
   穀倉(㐭=亠+回)のある地域
   鄙は穀倉地帯(啚)
   邑(むら)で地域全体(行政区画)
 圖(図)=その所在を記した図面(地図)
 ・・・ナゼ、「丶丶」+「㐅」なんだか・・・「斗」?
    図々しい奴・・・
   「口(くち)・囗(國・国・圀)」を
    ハカル(斗)=柄杓・液体や穀物の量を
           はかる枡(升・桝)
   「北斗の拳」?
   「北斗七星」は宇宙をまわる・・・
   「南斗六星(なんとろくせい)」は
    射手座の上半身と弓の一部からなる6つの明るい星の集まり
    位置とその形から北斗七星に対して名前が付いた
    南北は天球上の南北
    地平から見える方位ではない
    二十八宿の「斗宿」の別名
 ↓↑
 図=囗+丶+丶+㐅
 图=囗+冬(夂冫)
  =囗+厶+ナ+囬(回・囘)
   ず・絵・形を描かいたもの
圖案・圖画・圖形・圖表・圖面
   縮圖・製圖・地圖・版圖・略圖
   と・はかる・考えを巡らす
   計画・謀
   意圖・企圖・壮圖・雄圖
   書物・本・圖書
 ↓↑
 按図索驥(アンズサクキ)⇔杏子作記(紀)?
  役に立たない意見ややり方
  名馬を絵や書物の知識だけで判断
 「図を按じて驥を求む」
  出典『漢書(梅福伝)』
 按図索駿(アンズサクシュン)⇔杏子作諏務?
 ↓↑
 河図洛書(カトラクショ)⇔蝌蚪(蚊取・家兎)楽書?
  珍しい価値のある書物
 「河図」=易経の八卦の元図
      伏羲の世に黄河から現われた
      竜馬の背中の
      渦巻いた毛を写したもの
 「洛書」=『書経(洪範伝)』の元文
      夏の禹王の時代
      洛水川の洪水治めた後に現われた
      神亀の背中に
      書かれていた文字の書き写し
  出典『易経』
 ↓↑
 左図右史(サトユウシ)⇔差訳有詞?
  所蔵している書物が多いこと
  左右のどちらを向いても本ばかり
 「図」=書籍
 「史」=史書。
  出典『新唐書(楊綰伝)』
 ↓↑
 図南鵬翼(トナンホウヨク)⇔都南方與句?朱雀?
  大事業計画
  大目標の達成計画
 「図南」は南の海へ行こうと計画
 「鵬」は大鳥
  鵬が南の海を目指して飛びたった説話
  出典『荘子(逍遥遊)』
 図南之翼(トナンのヨク)
 ↓↑
 稟=㐭+禾
   亠+回+禾
   亠+囗+口+禾
 ↓↑
 廩=广+稟
   广+㐭+禾
   广+亠+回+禾
   广+亠+囗+口+禾
 ↓↑
 懍=忄+稟
   忄+㐭+禾
   忄+亠+回+禾
   忄+亠+囗+口+禾
 ↓↑
 凜=冫(氷)+稟
   冫(氷)+㐭+禾
   冫(氷)+亠+回+禾
   冫(氷)+亠+囗+口+禾
 ↓↑
 檁=木(十八)+稟
   木(十八)+㐭+禾
   木(十八)+亠+回+禾
   木(十八)+亠+囗+口+禾
ーーーーー
 ・・・???・・・

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