アワのクニ・・・運河の國・・・蘇州夜曲・・・呉島?
↓↑
うたかた・・・?
↓↑
・・・歌(唄・唱・吟・詠・詩・謳・謠・謌・哥・雅樂)方(片)・・・
・・・宇多・宇田
・・・宇多天皇=源定省・阿衡事件・仁和寺建立・内覧制度
寛平(かんぴょう)の治
『寛平御記(日記)』・・・愛猫の黒猫自慢
菅原道真・遣唐使廃止
・・・後宇多天皇=世仁(よひと)・大覚寺統
文永十一年(1274年)一月
亀山天皇から譲位
八歳で践祚
「元・高麗」軍の
「文永・弘安・元寇襲来」
↓↑
・・・泡沫(うたかた)
水泡(水のあわ・みなわ=水沫
消えやすいことからはかないこと
無駄になること)
幻=まぼろし(まもなく消えるはかないもの
実際にはないのに
あるように見えるもの)
「しぶき、粉、灰、針」とも・・・
泉鏡花「雪霊続記 」. ・・・
「すべての間違いは
泡沫のように消えて
真なもの のみが
生き残る」・・・?
「邪悪なるモノが長生き、延命する」・・・だろうッ!
シャボン玉ホリデー・・・?
↓↑
石鹸=セッケン=接見・席巻・席捲・節倹・拙軒・・・
切迫接見・・・選挙、選別、監視員・・・検査員
目付、大目付
六波羅探題
六波羅弾正台
弾正台(彈正臺)=律令制下の太政官制
監察・警察・治安維持などを
業務とする官庁の一
天暦元年(947年)
検非違使=律令制下の令外官の役職
非違(不法、違法)を検察する天皇の使者
軍事・警察の組織として創設
当初は門衛府の役人が兼務
検非違使庁
司法担当の
刑部省、警察、監察
担当の
弾正台=都の司法、治安維持と民政を所管
統括していた京職の権限に浸透
地方派遣の官庁にも拡大
創設の原因
「桓武」天皇の軍団廃止・・・軍事の放棄・・・治安の悪化
???「軍隊廃止」・・・望むのはダレか・・・?
日本の軍事力=兵士の能力、兵器の最新性・・・恐るのはダレ・・・?
↓↑ ↓↑
条約・契約・約束・・・暴力次第でアワになる・・・
↓↑
泡(あわ・ホウ)になって彈けるモノはシャボン玉・・・
・・・「アワ」の栽培ではなく、「クリ」の栽培だったのは
「青森県」の「三内丸山縄文遺跡」の集落だった・・・・
約5500年前~4000年前
約1500年間にわたって存在した・・・
集落は
住居、墓、捨て場
大型掘立柱建物、掘立柱建物
貯蔵穴
墓・土坑墓
粘土採掘穴
盛り土、道路
などが、計画的に配置・・・
↓↑
古代
徳島県の
北の地域は
粟(あわ)=西+米・・・栗(くり)=西+木
の生産地で
「粟国」
南の地域は
「長国」
と呼称
『古語拾遺』
神武東征で
忌部氏
を率いて
「木国」の材木を採取し
畝傍(うねび)山の麓に
橿原(かしはら)宮を造営した
「天富命(あめのとみのみこと)」
・・・阿波国に続いて房総の開拓
が
当地の開拓をし
穀(コク・がら)
麻(マ・あさ)の
種を植えた・・・
律令制において
「長国造(ながのくにのみやつこ・ながこくぞう)」
の領域を含め
令制国の
「粟国」が成立
↓↑
和銅六年(713年)
元明天皇
佳字、好字令で
地名を二字で表記する
「阿波」
に変更された・・・
↓↑
麻植郡(おえぐん)
呉島、忌部、川島、射立
呉島=くれしま・ごしま・ごとう
↓↑
沖縄県 石垣市
呉
↓↑
呉国の首都
蘇州=長江の南側・長江デルタの中心部
太湖の東岸
陽澄湖は東北側
略称 蘇・呉
別称 姑蘇・呉都・呉門・呉中・平江
運河による水運生活
蘇州夜曲
↓↑
「諸樊」・・・ 樊=棥+大
木+爻+木+大
十+八+乂+乂+十+八+一+人
ハン
まがき・かご・とりかご・みだれる
かこい
樊(まがき)・垣根。生垣
樊籬(ハンリ)
藩=王室を護衛する諸侯・その領地・蕃国
日本では明治時代に初めて公称とした
かご・とりかご
樊籠(ハンロウ)
みだれる
樊然・
が
この地を本拠とし
諸樊の子孫の
「闔閭」が
呉の都として整備した
「臥薪嘗胆・呉越同舟」
秦 以後
「会稽」郡
「呉」郡、「呉」県の役所が設置
隋 代
「蘇州」の名、呼称が始まった
南朝最後の
「陳」末の民衆反乱(589年)で
町が破壊
再建は役所を蘇州に戻した
唐の
「太宗」時代以後
五代十国時代
「呉越国」の都
北宋
「神宗」時代に
府(首都に准じる)への昇格
平江府
「元」時代
平江路
「金」の南宋遠征軍が
平江府を攻撃(1130年)
南宋によって再建
「元」末の
「張士誠」が
呉王を称して蘇州に都した
「明」時代
蘇州府が置かれて以後
「蘇州」の名称が固定化
↓↑
絹織物産地
南宋時代
木綿栽培が広まり
綿織物の生産を図った
アヘン戦争後
「上海」開港にともなって
経済的地位が低下・・・
↓↑
現在
江蘇省の省都は
南京に置かれている
清代
江蘇布政使が蘇州に駐在
「太平天国」は
蘇州を蘇福省の首府とした
「南京」に都した
中国国民党時代
蘇州に
江蘇都督行署を置き
日本軍占領期にも
江蘇省会であった
安房(あわ)=上總(総)・下總(総)
ボウソウ
=房総半島=千葉
↓↑
鎌倉時代
幕府により
佐々木氏
小笠原氏
が守護
室町時代
三管領家の一つ
細川氏が支配
↓↑
戦国時代
小笠原氏の庶流
三好氏が支配
三好之長
三好元長
の代に
京都に進出
管領細川氏の重臣として
阿波を本国とし
畿内で権勢
↓↑
1540年代
三好長慶
の代で最盛期
長慶の次弟
三好実休
が阿波を
三弟
安宅冬康
が淡路を
末弟
十河一存
が讃岐を統治
↓↑
三好長慶
自身は
京都の幕府の元で
管領代として中央政治に関与
本国である阿波の他
弟達の統治する
讃岐、淡路、
和泉、摂津、
河内、山城、大和、丹波
若狭、播磨の一部をも支配下に置いた
1561年
十河一存が急死
1562年
三好実休が戦死
1563年
長慶の嫡男
三好義興が病死し
長慶も病気がち
1564年
安宅冬康を誅殺し
自身も病死
↓↑
家督を継いだ
三好義継は
飯盛山城
若江城を本拠に勢力保持しようとするも
三好三人衆や
重臣
松永久秀
らの主導権争いで弱体化
↓↑
1573年
三好義継は
京都を追放された
室町幕府第15代将軍
「足利義昭」を保護して
「織田信長」に
若江城にて滅ぼされた
↓↑
三好実休の嫡男
阿波三好家の家督を継いだ
「三好長治」
が本国のる阿波を統治
長治は
阿波全土の国人や領民に
「法華宗」を強要し、支持を失い
土佐国の
「長宗我部」氏の侵攻にあい
1584年
阿波は
「長宗我部元親」の支配下となった
長宗我部元親は
1585年
讃岐
伊予の河野氏を制圧
四国統一・・・
その直後、
1585年6月
羽柴秀長
10万の軍勢が四国へ送られ
羽柴秀長
羽柴秀次
らの兵は阿波から上陸し
宇喜多秀家は
讃岐へ
小早川隆景は
伊予へと攻め込んだ
↓↑
元親は
阿波の
白地城を本拠地に対抗したが
羽柴軍上陸の2ヶ月後に降伏
元親は
土佐一国を安堵され
土佐以外の三カ国は没収された
↓↑
後
「蜂須賀正勝(子六)」
に
阿波国
淡路国
を加増することを伝えたが固辞
息子の
「蜂須賀家政」が阿波に封ぜられた
正勝と義兄弟の契りを結んだ
「稲田植元」
を客将として招き
「淡路国」と県北部を知行地として任せた
蜂須賀氏は改易されることなく
江戸時代を通じて
阿波国
徳島藩・富田藩(徳島藩支藩)
淡路国の国主として
阿波・淡路の二国を治めた
稲田氏は独立を志向
↓↑
明治
廃藩置県で
阿波は
名東県となり
名東県は
淡路国(淡路島)も範囲とし
1873年(明治六年)2月20日
香川県も編入
第二次
府県統合により
1875年(明治八年)9月5日
旧 讃岐国部分が
香川県として
分立再置県
1876年(明治九年)8月21日
康午事変で
敵対した
淡路国は兵庫県に編入され
阿波国部分は
高知県に編入
1880年(明治十三年)
旧 名東県が
高知県から分離されて
徳島県が発足
四国は旧国の形のまま
県へと移行した・・・
ーーーーー
「庁例(使庁の流例の慣習法)」・・・?
↓↑
刑事事件に関する職権行使のため
律令とはちがった性質のを適用法
↓↑
別当
911年(延喜十一年)・・・?
藤原忠平が
大納言に転任
検非違使別当をそのまま兼帯
↓↑
序文・・・別当・・・十一年・・・?
「古事記序文」・・・?
↓↑
十一年・・拾壱歳
拾壱撚
↓↑
延喜・・・延期・延麒・煙鬼
円喜・遠忌・厭忌
↓↑ ↓↑ ↓↑
この兼帯した例のみで
他の例は無い
五位以下から兼帯した例も無い
検非違使別当
検非違使を統轄する最高責任者で
自身は検非違使ではない
検非違使別当を
兼帯した権中納言
従三位
兼行
左衛門督
柳原量光
が14 86年(文明十八年)に辞職以降
16 55年(明暦元年)十月二十六日
参議
従三位
行
左衛門督
油小路隆貞が
兼帯するまで
兼帯者不在・・・?
ー↓↑ーー↓↑ーーー↓↑
『巡り合わせの理論』
ド・モアブル
度・母阿武留?
↓↑
π は
『超越数』
円積
与えられた
長さを
半径とする円
と
等積の
正方形を作図
は
解くことができない
↓↑
フェルディナント
増える出意難 度?
フォン
不穏・訃音?
リンデマン
輪 出萬?
↓↑
1600年代前半~
円を対象とした
「円理」
『美しい理論』
毛利重忠・・・3,16=π
↓↑
円軌道・楕円軌道
円周率=パイ(π)=Pi
円周÷直径=3,14159265
π=C/d
円の 面積=πr²
半径 r の
球の 体積=4/3πr³
球の表面積=4πr³
ー↓↑ーー↓↑ーーー↓↑
半径 r の円の周長 =2πr
半径 r の円の面積 =πr²
半径 r の球の体積 =4/3πr³
半径 r の球の表面積=4πr³
長半径 a
短半径 b
の楕円の面積=πab
180° =π ラジアン
↓↑ ↓↑ ↓
拾八是賂 等字 案
↓↑ ↓↑ ↓
1663年
村松茂清が
『算爼(サンソ)』で
「円の内接多角形の
周の長さを計算する方法」
で「3.14…」値を算出
『算爼』では
円に内接する
正八角形から角数を順次2倍していき
内接215=32768角形の
周の長さで
「3.1415 9264 8777 6988 6924 8」
と小数点以下21桁まで算出
小数第7位まで同じ
1680年代
円周率の値を
「3.16」とする数学書はなくなり
「3.14」に統一
1681年頃
関孝和が
内接217角形の計算で
小数第十六位までの数値を算出
1712年
『括要算法』刊行に記録(記呂久?)
江戸時代
三大和算書
『塵劫記』
『改算記』
『算法闕疑抄』
増補改訂版で
1680年代に
「3.14」に統一
↓↑
逆行の値
江戸時代後半
「3.16」に逆行
文政年間(1818~30年)
大衆向けの小冊子の中で
「3.16」が普通に用いられていた
↓↑
「橘南谿(1754-1806年)」
は「3.14」はまだ確定していない
「荻生徂徠」
「3.14」の根拠に納得しなかった
円に内接する
多角形の周を計算し
円周率を出した
内接多角形の角数を増やすほど
求まる円周率の桁は増えていく
値が増大無限
「それがいくら増えても
3.1416
を超えない」
ということを
和算家たちは
納得させることができなかった
↓↑
「万人」に納得させる
「理」に基づいての
「計算」
「円を
内接多角形
と
外接多角形
ではさんで
円周率の
上限
下限
を示すこと」
↓↑
宅間流
和算の円周率
「鎌田俊清(1678~1747年)」
享保七年(1722年)
『宅間流 円理』の著書で
唯一
「円周を
内接・外接
多角形で挟み込んで
円周率の
上限
下限
を示す」
鎌田は円周率の
小数点以下24桁までの
円周率の値を算出
↓↑
「無限級数」展開
円周率の
無限級数による公式
「蜂谷定章」
松永良弼、坂部広畔
川井久徳、長谷川寛閲
らによるものがある
↓↑
「建部賢弘」は
円周率の二乗を求める
日本初の公式を考案
↓↑
和算の限界
『塵劫記』の古い円周率「3.16」
が残存
『塵劫記』の重版(1694年)
古い
円周率「3.16」
のまま出版され続け
大衆的な通俗算数書で出版
↓↑
江戸時代後半の和算家
秘密主義
保守主義
権威主義
が在野の独創性を無視
学問の進歩を妨げた
↓↑
コンピュータ計算
1973年
100万桁
を超えた
2020年
円周率は
小数点以下
50兆桁まで計算
↓↑
π(Pi)は・・・ピ⇔ヒ=比・非・日・卑
超越数・・・越を超える數・崇・枢・樞
樞・枢⇔柩=棺=日嗣・・・継体
樞=拾+八+匚+品
・・・品=ほん・しな・ヒン
であるため
コンパス(ぶん回し)=分回し(ぶんまわし)
(規・䂓・椝・槼)
と
定規
の有限回の操作だけで
円
と
等面積の
正方形を作図することは
不可能である
ー↓↑ーーーー↓↑
圓
円大使主(つぶらのおほみ)
『日本書紀』
履中天皇二年条
円大臣(つぶらのおおおみ)
『日本書紀』
雄略天皇元年条
都夫良意富美(つぶらのおほみ)
『古事記』
安康天皇の部分
↓↑
葛城 円(かつらぎ の つぶら)
履中天皇二年(401年)
国政参加
↓↑
安康天皇三年(456年)
眉輪王(目弱王)が
安康天皇を殺害時
↓↑
眉輪王
と
坂 合 黒 彦 皇子
(さかあいのくろひこのみこ)
を屋敷にかくまい
雄略天皇に
屋敷を包囲され
娘の韓媛(からひめ)
と
葛城の屯倉(みやけ)
七ヶ所を差出し
許しを乞うたが
焼き殺された
『日本書紀』
↓↑
坂合黒彦皇子は
逃げこむ前に討たれ
差出した屯倉も五ヶ所
焼殺されたのではなく
眉輪王を殺し
自害した
『古事記』
安康天皇三年(456年)
ーーーーー
・・・???・・・
月間の日干支サイクル
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
年月日時×大運干支命式表の組織化
http://meisiki.bake-neko.net/meisikau/meiww35a1.html
http://meisiki.bake-neko.net/meisikau/meiww35a2.html
↓↑
うたかた・・・?
↓↑
・・・歌(唄・唱・吟・詠・詩・謳・謠・謌・哥・雅樂)方(片)・・・
・・・宇多・宇田
・・・宇多天皇=源定省・阿衡事件・仁和寺建立・内覧制度
寛平(かんぴょう)の治
『寛平御記(日記)』・・・愛猫の黒猫自慢
菅原道真・遣唐使廃止
・・・後宇多天皇=世仁(よひと)・大覚寺統
文永十一年(1274年)一月
亀山天皇から譲位
八歳で践祚
「元・高麗」軍の
「文永・弘安・元寇襲来」
↓↑
・・・泡沫(うたかた)
水泡(水のあわ・みなわ=水沫
消えやすいことからはかないこと
無駄になること)
幻=まぼろし(まもなく消えるはかないもの
実際にはないのに
あるように見えるもの)
「しぶき、粉、灰、針」とも・・・
泉鏡花「雪霊続記 」. ・・・
「すべての間違いは
泡沫のように消えて
真なもの のみが
生き残る」・・・?
「邪悪なるモノが長生き、延命する」・・・だろうッ!
シャボン玉ホリデー・・・?
↓↑
石鹸=セッケン=接見・席巻・席捲・節倹・拙軒・・・
切迫接見・・・選挙、選別、監視員・・・検査員
目付、大目付
六波羅探題
六波羅弾正台
弾正台(彈正臺)=律令制下の太政官制
監察・警察・治安維持などを
業務とする官庁の一
天暦元年(947年)
検非違使=律令制下の令外官の役職
非違(不法、違法)を検察する天皇の使者
軍事・警察の組織として創設
当初は門衛府の役人が兼務
検非違使庁
司法担当の
刑部省、警察、監察
担当の
弾正台=都の司法、治安維持と民政を所管
統括していた京職の権限に浸透
地方派遣の官庁にも拡大
創設の原因
「桓武」天皇の軍団廃止・・・軍事の放棄・・・治安の悪化
???「軍隊廃止」・・・望むのはダレか・・・?
日本の軍事力=兵士の能力、兵器の最新性・・・恐るのはダレ・・・?
↓↑ ↓↑
条約・契約・約束・・・暴力次第でアワになる・・・
↓↑
泡(あわ・ホウ)になって彈けるモノはシャボン玉・・・
・・・「アワ」の栽培ではなく、「クリ」の栽培だったのは
「青森県」の「三内丸山縄文遺跡」の集落だった・・・・
約5500年前~4000年前
約1500年間にわたって存在した・・・
集落は
住居、墓、捨て場
大型掘立柱建物、掘立柱建物
貯蔵穴
墓・土坑墓
粘土採掘穴
盛り土、道路
などが、計画的に配置・・・
↓↑
古代
徳島県の
北の地域は
粟(あわ)=西+米・・・栗(くり)=西+木
の生産地で
「粟国」
南の地域は
「長国」
と呼称
『古語拾遺』
神武東征で
忌部氏
を率いて
「木国」の材木を採取し
畝傍(うねび)山の麓に
橿原(かしはら)宮を造営した
「天富命(あめのとみのみこと)」
・・・阿波国に続いて房総の開拓
が
当地の開拓をし
穀(コク・がら)
麻(マ・あさ)の
種を植えた・・・
律令制において
「長国造(ながのくにのみやつこ・ながこくぞう)」
の領域を含め
令制国の
「粟国」が成立
↓↑
和銅六年(713年)
元明天皇
佳字、好字令で
地名を二字で表記する
「阿波」
に変更された・・・
↓↑
麻植郡(おえぐん)
呉島、忌部、川島、射立
呉島=くれしま・ごしま・ごとう
↓↑
沖縄県 石垣市
呉
↓↑
呉国の首都
蘇州=長江の南側・長江デルタの中心部
太湖の東岸
陽澄湖は東北側
略称 蘇・呉
別称 姑蘇・呉都・呉門・呉中・平江
運河による水運生活
蘇州夜曲
↓↑
「諸樊」・・・ 樊=棥+大
木+爻+木+大
十+八+乂+乂+十+八+一+人
ハン
まがき・かご・とりかご・みだれる
かこい
樊(まがき)・垣根。生垣
樊籬(ハンリ)
藩=王室を護衛する諸侯・その領地・蕃国
日本では明治時代に初めて公称とした
かご・とりかご
樊籠(ハンロウ)
みだれる
樊然・
が
この地を本拠とし
諸樊の子孫の
「闔閭」が
呉の都として整備した
「臥薪嘗胆・呉越同舟」
秦 以後
「会稽」郡
「呉」郡、「呉」県の役所が設置
隋 代
「蘇州」の名、呼称が始まった
南朝最後の
「陳」末の民衆反乱(589年)で
町が破壊
再建は役所を蘇州に戻した
唐の
「太宗」時代以後
五代十国時代
「呉越国」の都
北宋
「神宗」時代に
府(首都に准じる)への昇格
平江府
「元」時代
平江路
「金」の南宋遠征軍が
平江府を攻撃(1130年)
南宋によって再建
「元」末の
「張士誠」が
呉王を称して蘇州に都した
「明」時代
蘇州府が置かれて以後
「蘇州」の名称が固定化
↓↑
絹織物産地
南宋時代
木綿栽培が広まり
綿織物の生産を図った
アヘン戦争後
「上海」開港にともなって
経済的地位が低下・・・
↓↑
現在
江蘇省の省都は
南京に置かれている
清代
江蘇布政使が蘇州に駐在
「太平天国」は
蘇州を蘇福省の首府とした
「南京」に都した
中国国民党時代
蘇州に
江蘇都督行署を置き
日本軍占領期にも
江蘇省会であった
安房(あわ)=上總(総)・下總(総)
ボウソウ
=房総半島=千葉
↓↑
鎌倉時代
幕府により
佐々木氏
小笠原氏
が守護
室町時代
三管領家の一つ
細川氏が支配
↓↑
戦国時代
小笠原氏の庶流
三好氏が支配
三好之長
三好元長
の代に
京都に進出
管領細川氏の重臣として
阿波を本国とし
畿内で権勢
↓↑
1540年代
三好長慶
の代で最盛期
長慶の次弟
三好実休
が阿波を
三弟
安宅冬康
が淡路を
末弟
十河一存
が讃岐を統治
↓↑
三好長慶
自身は
京都の幕府の元で
管領代として中央政治に関与
本国である阿波の他
弟達の統治する
讃岐、淡路、
和泉、摂津、
河内、山城、大和、丹波
若狭、播磨の一部をも支配下に置いた
1561年
十河一存が急死
1562年
三好実休が戦死
1563年
長慶の嫡男
三好義興が病死し
長慶も病気がち
1564年
安宅冬康を誅殺し
自身も病死
↓↑
家督を継いだ
三好義継は
飯盛山城
若江城を本拠に勢力保持しようとするも
三好三人衆や
重臣
松永久秀
らの主導権争いで弱体化
↓↑
1573年
三好義継は
京都を追放された
室町幕府第15代将軍
「足利義昭」を保護して
「織田信長」に
若江城にて滅ぼされた
↓↑
三好実休の嫡男
阿波三好家の家督を継いだ
「三好長治」
が本国のる阿波を統治
長治は
阿波全土の国人や領民に
「法華宗」を強要し、支持を失い
土佐国の
「長宗我部」氏の侵攻にあい
1584年
阿波は
「長宗我部元親」の支配下となった
長宗我部元親は
1585年
讃岐
伊予の河野氏を制圧
四国統一・・・
その直後、
1585年6月
羽柴秀長
10万の軍勢が四国へ送られ
羽柴秀長
羽柴秀次
らの兵は阿波から上陸し
宇喜多秀家は
讃岐へ
小早川隆景は
伊予へと攻め込んだ
↓↑
元親は
阿波の
白地城を本拠地に対抗したが
羽柴軍上陸の2ヶ月後に降伏
元親は
土佐一国を安堵され
土佐以外の三カ国は没収された
↓↑
後
「蜂須賀正勝(子六)」
に
阿波国
淡路国
を加増することを伝えたが固辞
息子の
「蜂須賀家政」が阿波に封ぜられた
正勝と義兄弟の契りを結んだ
「稲田植元」
を客将として招き
「淡路国」と県北部を知行地として任せた
蜂須賀氏は改易されることなく
江戸時代を通じて
阿波国
徳島藩・富田藩(徳島藩支藩)
淡路国の国主として
阿波・淡路の二国を治めた
稲田氏は独立を志向
↓↑
明治
廃藩置県で
阿波は
名東県となり
名東県は
淡路国(淡路島)も範囲とし
1873年(明治六年)2月20日
香川県も編入
第二次
府県統合により
1875年(明治八年)9月5日
旧 讃岐国部分が
香川県として
分立再置県
1876年(明治九年)8月21日
康午事変で
敵対した
淡路国は兵庫県に編入され
阿波国部分は
高知県に編入
1880年(明治十三年)
旧 名東県が
高知県から分離されて
徳島県が発足
四国は旧国の形のまま
県へと移行した・・・
ーーーーー
「庁例(使庁の流例の慣習法)」・・・?
↓↑
刑事事件に関する職権行使のため
律令とはちがった性質のを適用法
↓↑
別当
911年(延喜十一年)・・・?
藤原忠平が
大納言に転任
検非違使別当をそのまま兼帯
↓↑
序文・・・別当・・・十一年・・・?
「古事記序文」・・・?
↓↑
十一年・・拾壱歳
拾壱撚
↓↑
延喜・・・延期・延麒・煙鬼
円喜・遠忌・厭忌
↓↑ ↓↑ ↓↑
この兼帯した例のみで
他の例は無い
五位以下から兼帯した例も無い
検非違使別当
検非違使を統轄する最高責任者で
自身は検非違使ではない
検非違使別当を
兼帯した権中納言
従三位
兼行
左衛門督
柳原量光
が14 86年(文明十八年)に辞職以降
16 55年(明暦元年)十月二十六日
参議
従三位
行
左衛門督
油小路隆貞が
兼帯するまで
兼帯者不在・・・?
ー↓↑ーー↓↑ーーー↓↑
『巡り合わせの理論』
ド・モアブル
度・母阿武留?
↓↑
π は
『超越数』
円積
与えられた
長さを
半径とする円
と
等積の
正方形を作図
は
解くことができない
↓↑
フェルディナント
増える出意難 度?
フォン
不穏・訃音?
リンデマン
輪 出萬?
↓↑
1600年代前半~
円を対象とした
「円理」
『美しい理論』
毛利重忠・・・3,16=π
↓↑
円軌道・楕円軌道
円周率=パイ(π)=Pi
円周÷直径=3,14159265
π=C/d
円の 面積=πr²
半径 r の
球の 体積=4/3πr³
球の表面積=4πr³
ー↓↑ーー↓↑ーーー↓↑
半径 r の円の周長 =2πr
半径 r の円の面積 =πr²
半径 r の球の体積 =4/3πr³
半径 r の球の表面積=4πr³
長半径 a
短半径 b
の楕円の面積=πab
180° =π ラジアン
↓↑ ↓↑ ↓
拾八是賂 等字 案
↓↑ ↓↑ ↓
1663年
村松茂清が
『算爼(サンソ)』で
「円の内接多角形の
周の長さを計算する方法」
で「3.14…」値を算出
『算爼』では
円に内接する
正八角形から角数を順次2倍していき
内接215=32768角形の
周の長さで
「3.1415 9264 8777 6988 6924 8」
と小数点以下21桁まで算出
小数第7位まで同じ
1680年代
円周率の値を
「3.16」とする数学書はなくなり
「3.14」に統一
1681年頃
関孝和が
内接217角形の計算で
小数第十六位までの数値を算出
1712年
『括要算法』刊行に記録(記呂久?)
江戸時代
三大和算書
『塵劫記』
『改算記』
『算法闕疑抄』
増補改訂版で
1680年代に
「3.14」に統一
↓↑
逆行の値
江戸時代後半
「3.16」に逆行
文政年間(1818~30年)
大衆向けの小冊子の中で
「3.16」が普通に用いられていた
↓↑
「橘南谿(1754-1806年)」
は「3.14」はまだ確定していない
「荻生徂徠」
「3.14」の根拠に納得しなかった
円に内接する
多角形の周を計算し
円周率を出した
内接多角形の角数を増やすほど
求まる円周率の桁は増えていく
値が増大無限
「それがいくら増えても
3.1416
を超えない」
ということを
和算家たちは
納得させることができなかった
↓↑
「万人」に納得させる
「理」に基づいての
「計算」
「円を
内接多角形
と
外接多角形
ではさんで
円周率の
上限
下限
を示すこと」
↓↑
宅間流
和算の円周率
「鎌田俊清(1678~1747年)」
享保七年(1722年)
『宅間流 円理』の著書で
唯一
「円周を
内接・外接
多角形で挟み込んで
円周率の
上限
下限
を示す」
鎌田は円周率の
小数点以下24桁までの
円周率の値を算出
↓↑
「無限級数」展開
円周率の
無限級数による公式
「蜂谷定章」
松永良弼、坂部広畔
川井久徳、長谷川寛閲
らによるものがある
↓↑
「建部賢弘」は
円周率の二乗を求める
日本初の公式を考案
↓↑
和算の限界
『塵劫記』の古い円周率「3.16」
が残存
『塵劫記』の重版(1694年)
古い
円周率「3.16」
のまま出版され続け
大衆的な通俗算数書で出版
↓↑
江戸時代後半の和算家
秘密主義
保守主義
権威主義
が在野の独創性を無視
学問の進歩を妨げた
↓↑
コンピュータ計算
1973年
100万桁
を超えた
2020年
円周率は
小数点以下
50兆桁まで計算
↓↑
π(Pi)は・・・ピ⇔ヒ=比・非・日・卑
超越数・・・越を超える數・崇・枢・樞
樞・枢⇔柩=棺=日嗣・・・継体
樞=拾+八+匚+品
・・・品=ほん・しな・ヒン
であるため
コンパス(ぶん回し)=分回し(ぶんまわし)
(規・䂓・椝・槼)
と
定規
の有限回の操作だけで
円
と
等面積の
正方形を作図することは
不可能である
ー↓↑ーーーー↓↑
圓
円大使主(つぶらのおほみ)
『日本書紀』
履中天皇二年条
円大臣(つぶらのおおおみ)
『日本書紀』
雄略天皇元年条
都夫良意富美(つぶらのおほみ)
『古事記』
安康天皇の部分
↓↑
葛城 円(かつらぎ の つぶら)
履中天皇二年(401年)
国政参加
↓↑
安康天皇三年(456年)
眉輪王(目弱王)が
安康天皇を殺害時
↓↑
眉輪王
と
坂 合 黒 彦 皇子
(さかあいのくろひこのみこ)
を屋敷にかくまい
雄略天皇に
屋敷を包囲され
娘の韓媛(からひめ)
と
葛城の屯倉(みやけ)
七ヶ所を差出し
許しを乞うたが
焼き殺された
『日本書紀』
↓↑
坂合黒彦皇子は
逃げこむ前に討たれ
差出した屯倉も五ヶ所
焼殺されたのではなく
眉輪王を殺し
自害した
『古事記』
安康天皇三年(456年)
ーーーーー
・・・???・・・
月間の日干支サイクル
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
年月日時×大運干支命式表の組織化
http://meisiki.bake-neko.net/meisikau/meiww35a1.html
http://meisiki.bake-neko.net/meisikau/meiww35a2.html