とかって書いたからって、腰を抜かさないように、ね。
「東京大学へ進学しよう」って意味じゃなくて、
東京大学構内へ「入ってみよう」ってだけのことだからさ。
うしし。
それはさておき。
城好きの友人と一緒に先月から東京の庭園
(もとは大名屋敷の名残)を巡っているのだけど。
今回は、旧古河庭園・六義園などを回ることにして、
友人のご母堂のリクエストが、「東大行きたいわ、東大」
ってことで、東京大学赤門(元は、加賀前田家の殿様んちの門)を見に。
おお、赤門だ~で写真パチパチ。
んじゃ次は安田講堂をチラ見して、三四郎池へ行こうか~。
大学の真ん中にこんな池があるなんてすげー。
奈良大じゃせいぜい噴水プールだもんなあ(←失礼な)。
その後、上野公園へ抜けるというので、ついでといってはなんだが、
せっかく東大まで来たんだし、あれが見たいわとアタクシ。
あれとは何ぞやといえば、あれですよアレアレ。
「弥生土器」の名前の元となった壷の出土地「弥生二丁目遺跡」。
考古学徒ですもん。ここへ来たからには見てみたい。
実は何の予備知識も持たずに行ったんだけど、
それほど有名な場所ならば、看板や矢印の一枚くらい出ていると
思ったら…どこにもそんなものはないではないか。
ええ?いくら工学部の中とはいえ、考古学に興味ないんか?
東京大学は!
(んなわけないでしょう、ちゃんと研究もされているよ)
友人が持っていた地図を頼りに、工学部の9号館10号館あたりに
あるはずって踏んで、行ってみたところ、該当するような場所は行き止まり。
はて、道を間違えたか?とグルッと別のルートを歩いていたら、
いきなり門の外に出てしまって、あれれのれ?
いや、やっぱり9号館と10号館の間にあるはずだよと取って返す。
一度はその前まで行った9号館へ思い切って侵入して(をい)、
10号館へ抜ける廊下を渡ったその右手奥に、
草ぼうぼう場へ抜ける階段があり、そこが、問題のソレでした。
絶句。
おいおい、雑草生い茂るこんな校舎の裏が、あの場所だというのか?
ウソだろう、ウソだと云ってくれ~(大袈裟)
(→証拠写真)
いや、びっくりざんす。
こんなところにひっそりと、石碑も立て看板もなく、
強いて云えばこれ自体が看板で、誰も見に来ないのにぽつねんと、
よくもまあご無事で(謎)『弥生土器』もこんなところで、
こんな風に、ひっそりと埋まっていたんだろうな。
しかし、びっくりといえば、「それが何処なのか、今となっては判らない」
という下りでございます。
明治17年といえば1884年。たかだか百年と四半世紀前です。
考古学って学問も学ばれるようになっていて、記録や保存の重要性っての
判っていただろうに。それが今ではどこだったか判らなくなってしまうなんて。
法隆寺創建時の記録がなくてもしゃーないかって気分にさせられます。
とりあえず、今現在、弥生二丁目遺跡のアタリは、百年前の発見時のように、
草ぼうぼうで、誰も行かないような場所にひっそりと存在しています。
そこらへんは「手付かず感」があっていいのだけど、
せめて「ここだよ~ん」って矢印看板くらいは欲しかったなあ。
あんなもん、誰も見に行かないってことですか?
そうですか、そうなんでしょう。
東大生でも見たことが無いような「珍しい」ものを見たってことで。
らっき~。
「東京大学へ進学しよう」って意味じゃなくて、
東京大学構内へ「入ってみよう」ってだけのことだからさ。
うしし。
それはさておき。
城好きの友人と一緒に先月から東京の庭園
(もとは大名屋敷の名残)を巡っているのだけど。
今回は、旧古河庭園・六義園などを回ることにして、
友人のご母堂のリクエストが、「東大行きたいわ、東大」
ってことで、東京大学赤門(元は、加賀前田家の殿様んちの門)を見に。
おお、赤門だ~で写真パチパチ。
んじゃ次は安田講堂をチラ見して、三四郎池へ行こうか~。
大学の真ん中にこんな池があるなんてすげー。
奈良大じゃせいぜい噴水プールだもんなあ(←失礼な)。
その後、上野公園へ抜けるというので、ついでといってはなんだが、
せっかく東大まで来たんだし、あれが見たいわとアタクシ。
あれとは何ぞやといえば、あれですよアレアレ。
「弥生土器」の名前の元となった壷の出土地「弥生二丁目遺跡」。
考古学徒ですもん。ここへ来たからには見てみたい。
実は何の予備知識も持たずに行ったんだけど、
それほど有名な場所ならば、看板や矢印の一枚くらい出ていると
思ったら…どこにもそんなものはないではないか。
ええ?いくら工学部の中とはいえ、考古学に興味ないんか?
東京大学は!
(んなわけないでしょう、ちゃんと研究もされているよ)
友人が持っていた地図を頼りに、工学部の9号館10号館あたりに
あるはずって踏んで、行ってみたところ、該当するような場所は行き止まり。
はて、道を間違えたか?とグルッと別のルートを歩いていたら、
いきなり門の外に出てしまって、あれれのれ?
いや、やっぱり9号館と10号館の間にあるはずだよと取って返す。
一度はその前まで行った9号館へ思い切って侵入して(をい)、
10号館へ抜ける廊下を渡ったその右手奥に、
草ぼうぼう場へ抜ける階段があり、そこが、問題のソレでした。
絶句。
おいおい、雑草生い茂るこんな校舎の裏が、あの場所だというのか?
ウソだろう、ウソだと云ってくれ~(大袈裟)
(→証拠写真)
いや、びっくりざんす。
こんなところにひっそりと、石碑も立て看板もなく、
強いて云えばこれ自体が看板で、誰も見に来ないのにぽつねんと、
よくもまあご無事で(謎)『弥生土器』もこんなところで、
こんな風に、ひっそりと埋まっていたんだろうな。
しかし、びっくりといえば、「それが何処なのか、今となっては判らない」
という下りでございます。
明治17年といえば1884年。たかだか百年と四半世紀前です。
考古学って学問も学ばれるようになっていて、記録や保存の重要性っての
判っていただろうに。それが今ではどこだったか判らなくなってしまうなんて。
法隆寺創建時の記録がなくてもしゃーないかって気分にさせられます。
とりあえず、今現在、弥生二丁目遺跡のアタリは、百年前の発見時のように、
草ぼうぼうで、誰も行かないような場所にひっそりと存在しています。
そこらへんは「手付かず感」があっていいのだけど、
せめて「ここだよ~ん」って矢印看板くらいは欲しかったなあ。
あんなもん、誰も見に行かないってことですか?
そうですか、そうなんでしょう。
東大生でも見たことが無いような「珍しい」ものを見たってことで。
らっき~。