城郭探訪

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真田幸村の書状

2016年10月26日 | 文化財

真田幸村の書状、100年ぶり発見 京都で公開、幽閉や老い嘆く

真田幸村自筆とみられる書状の原本(24日午後3時5分、京都市の表具店)

 戦国武将の真田幸村(信繁、1567?~1615年)直筆とみられる手紙で、所在不明だった幻の書状が約100年ぶりに発見され、24日、京都市内で関係者に公開された。関ケ原合戦(1600年)に敗れ、和歌山県の九度山に幽閉されていた時に書いたとみられ、幽閉生活や老いへの嘆きがつづられ、戦国時代の英雄の意外な一面が垣間見られる。

 書状は、徳川家康から高野山での謹慎を命じられた幸村が、幽閉先の九度山から、姉の夫で家臣の小山田茂誠(しげまさ)に出した手紙。

 内容は、新年の祝儀としてサケをもらったことへの感謝とともに、見舞いや便りの少ない生活ぶり、老いや病への嘆きなどがつづられている。花押(署名)や文面などから、幸村が戦死した大坂の陣が始まる約9カ月前の1614年2月の手紙とみられる。

 明治期に実業家が所有し、1904年に東京帝国大が筆写した影写本は現存するが、原本はその後、所在が分からなくなっていた。三重県の個人収集家がこのほど古書店から入手した。

 幸村の直筆や代筆の書状は、影写本を含め計17点が確認されているが、現存する原本は今回の書状を含め10点。書状を鑑定した慶応大非常勤講師の丸島和洋さんは「30代の若さで追放され、武家社会に戻ることなく九度山で一生を終えるのは嫌だという本音が、字の力強さから伝わってくる」と話している。

京都新聞【 2016年10月25日 06時21分 】


「彦根屏風」は12代井伊直亮が購入

2016年10月24日 | 文化財

国宝「彦根屏風」は12代井伊直亮が購入 千両を値切って

京都新聞 2016.10.21

【上】近世初期風俗画の代表作、国宝「彦根屏風」。寛永年間に京の遊里を描いたとされる。作者は不詳=彦根城博物館所蔵【下】「屏風之覚」の揚屋之図のページ。3行目中ほどに「金初メ千両」などと記されている(彦根城博物館提供)

 彦根藩井伊家に伝わり、江戸時代初期の風俗を描いた傑作として知られる国宝「彦根屏風(びょうぶ)」を購入したのは、12代藩主の井伊直亮(なおあき)(1794~1850年)だったと彦根城博物館(彦根市金亀町)が20日発表した。直亮が自ら記した収集品の目録から判明、現在の金額で1億円もの売価を値切って入手していたことも分かった。

■自筆目録修復で判明、13代直弼購入説を否定

 これまでは13代藩主直弼(なおすけ)が購入したという井伊家伝来の説と、直亮以降の江戸後期とする説の二つがあり、はっきりしていなかった。目録は「屏風之覚(びょうぶのおぼえ)」で、古文書の修復と判読の過程で明らかになったという。

 屏風之覚は茶道具や楽器、書画など井伊家の収集品を直亮自らが整理、作成した20冊近くある目録の一冊。縦28・5センチ、横18センチ、96ページで、所蔵する屏風120件の名称や筆者などを記しており、彦根屏風購入の経緯や値段も記されていた。

 そこには「浮世又平筆、極彩色(中略)揚屋之図」「格外之高金、初メ千両□及懸合□百参拾両ニ而取入」(□は判読不能)などとあった。筆をとったとする「浮世又平」は伝説上の風俗絵師で、真の作者は不詳。千両と高額だったのを交渉の結果「□百三十両」で購入した、と経緯を説明している。

 千両は現在の1億円に相当し、「当時の絵画としては破格の高額」(同博物館)という。彦根藩では財政難から倹約令を出したり、藩士の給与カットをしたりしている時期だが、「(藩主の小遣いである)御手元金が潤沢で、直亮にとっては清水の舞台から飛び降りるほどでもなかった」(同)という。

 「彦根屏風」と「屏風之覚」は28日から始まる特別展「コレクター大名井伊直亮」で公開される。11月27日まで。会期中無休。有料。


常念寺(永原氏の菩提寺) 近江国(野洲)

2016年09月17日 | 文化財

室町時代に地域で勢力を誇った永原氏の菩提寺です。

常念寺概要

 常念寺の創建は不詳ですが平安時代に慈覚大師円仁によって開かれたのが始まりと伝えられています。当初は天台宗の寺院でしたが貞治年間(1362~67)に火災により多くの堂宇、記録、寺宝が焼失し一時衰退し、応永3年(1396)、常誉真巖上人が再興した際浄土宗に改宗します。

 中世以降、当地の領主となった永原氏の菩提寺として庇護され永正3年(1506)に堂宇を再建、戦国時代には織田信長が帰依し天正8年(1580)には安土城の城下に境内を移しています。

 信長が本能寺の変で没すると庇護者を失い、天正13年(1585)に現在地で再建されました。

 江戸時代には幕府から庇護され寺領5石が安堵されていました。

寺宝は多く木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代後期作、像高80.6cm、寄木造)が国指定重要文化財に永原重頼画像、永原重頼側室画像、永原重虎画像が野洲市指定文化財にそれぞれ指定されています。又、境内に建立されている石造五重塔(正応元年の銘、高さ2.55m)が国認定重要美術品に認定されています。室町時代に地域で勢力を誇った永原氏の菩提寺です。

鎌倉後期作である本尊の木造阿弥陀如来立像は国の重要文化財になっています。境内の石造五重層塔は国指定の重要美術品です。

お問い合わせ

常念寺

TEL:077-588-1791

 

  

室町時代に地域で勢力を誇った永原氏の菩提寺です。鎌倉後期作である本尊の木造阿弥陀如来立像は国の重要文化財になっています。境内の石造五重層塔は国指定の重要美術品です。

所在地 野洲市永原690
アクセス
駐車場
普通車 5 台
お問い合わせ

常念寺

TEL:077-588-1791

参考資料:常念寺http://www.sigatabi.com/yasu/jyounen.html

 本日の訪問ありがとうございす!!


真田信繁直筆の書状発見

2016年08月19日 | 文化財

真田信繁直筆の書状発見
署名入りで最古か

京都新聞

 真田信繁(幸村)の直筆とみられる書状(玉城司氏提供)

 NHK大河ドラマ「真田丸」の主人公で戦国武将の真田信繁(幸村)の直筆とみられる書状が、真田家ゆかりの長野県上田市で見つかっていたことが18日、分かった。発見した清泉女学院大(長野市)の玉城司客員教授(63)は「現存する直筆文書の中で、信繁という署名が確認できる最古の史料」としている。

 玉城氏が同日までに発表した。

 玉城氏によると、書状は豊臣秀吉が北条氏を滅ぼした小田原合戦があった1590年のもので、信繁は当時20代前半だったとされる。戦で活躍した武将宛てに「安中」という姓と、領地などを与える旨が記されている。


多彩な才能、信長家臣団を紹介

2016年05月14日 | 文化財

多彩な才能、信長家臣団を紹介 滋賀・安土城考古博物館

2016.5.12 京都新聞
多彩な資料で信長の家臣たちを紹介する展示(近江八幡市安土町下豊浦・安土城考古博物館)

 織田信長の家臣たちの働きや人物像を伝える資料を通してその多彩さや、信長の人材登用を紹介する企画展「信長の家臣たち」が、滋賀県近江八幡市安土町下豊浦の安土城考古博物館で開かれている。

 譜代の尾張衆や美濃攻略の過程で加わった美濃衆、上洛(じょうらく)を契機に仕えるようになった近江衆など、信長は権力掌握の各段階で家臣を増やし政権の形を変化させていて、4章に分けてその関係を解き明かす。

 高木叙子学芸員によると、信長は前例のない早さで権力を拡大する中で現地の人間を抱え、裏切った者も登用して家臣間で競わせ、現実的かつ柔軟に対応したという。一方で「粛正や追放に明確な理由がないことも多く、仕えにくい上司だったのではないか」とみる。

 展示では、信長に加え羽柴秀吉、柴田勝家や蒲生氏郷など18人の肖像画が一堂に会するほか、それぞれが残した文書を間近に見ることができる。信長の文書や記録を執筆する役職「右筆」でありながらブレーンを務めた明院良政や、信長の記録を残し「信長公記」を著した太田牛一についても紹介している。

 高木さんは「勢力が大きくなるうちに家臣間や信長との関係に矛盾が生じ、裏切りや謀反につながった。その結末が本能寺の変だった」と話している。

 6月5日まで。月曜休館。一部展示替えあり。有料。

22日午後1時半から歴史研究家谷口克広氏による記念講演会「信長の部将たち」を行う。

問い合わせは同館TEL0748(46)2424。

 


千草街道15kmを踏破)

2016年05月07日 | 文化財

先人の軌跡をたどりながら千草街道15kmを踏破

=東近江市から三重県菰野町へ=

杉木立の道を歩く参加者

◇東近江
 東近江市甲津畑町から鈴鹿山脈を越えて、三重県菰野町へ抜けるフィールドワーク「千草街道を往く」(永源寺地区まちづくり協議会主催)が、このほどに開かれた。毎年人気の企画で、今年も市内外からスタッフを含めた百十五人が参加。歴史ある街道を辿り、豊かな自然に触れた。
 かつて、織田信長や多くの商人が行き通いした千草街道には、様々な歴史と伝承、文化が残る。近代には甲津畑鉱山として栄えたほか、炭焼きも盛んで、登山道脇のあちこちに、石を積んだ炭焼きの竈跡と集落跡が点在している。
 杉峠(標高千四十二メートル)を目指し、地元スタッフの案内のもと、杉の木が綺麗に立ち並ぶ林道を抜けると、信長が杉谷善住坊に狙撃された「善住坊の隠れ岩」や、蓮如が比叡山衆徒に追われ、難を逃れたとの伝承が残る石碑「蓮如上人遺跡」などが、街道の初めに存在する。

 

炭窯・・・生業の証と人々の往来を感じさせる街道

 遺跡のほか、歴史を感じさせるブナ並木、巨樹の「一反ぼうそう」、武田信玄が植えたと伝えられる「かいしんの杉」など、自然が織りなす雄大な風景も魅力の一つで、咲き頃を迎えたイワウチワやヤマツツジなどの花といっしょに、参加者はカメラに収めていた。
 杉峠を越え、真っ白な石灰岩が広がり、澄んだ水が流れる川沿いを下りながら、滋賀と三重の県境になる根ノ平峠(標高八百三メートル)を通過。全長約十五キロメートルにもなる街道を約八時間かけて、ゴール地点の朝明キャンプ場に到着した。
 キャンプ場では、達成感を分かち合う参加者らに、菰野町観光協会による同町の名産「まこも汁」が振る舞われ、疲れを癒した。(古澤和也)


芹川が付替えられた歴史

2016年05月07日 | 文化財

芹川が付替えられた歴史

芹川の付替えと後三条村

《後三條今昔ものがたり》薗田昭三氏平成5年11月発行より引用

 築城や城郭の工事とともに芹川を付替え、家臣の居住区割りや町民居住区の町割が行われました。石田三成以前の芹川の本流は、猿尾付近から上川原町・久佐の辻を通り、川原町裏で中央公園の方へ曲がり護国神社前の堀に流れ込んでいました。久佐の辻には芹川大橋が架かっていたと言われています。此の流れを猿尾から西の方へ直流させて琵琶湖に注ぐようにしました。また、長久寺山の北側は大部分切りか欠かれてその土で堤を作りました。最初の計画ではもう少し南の方へ寄るはずでしたが長久寺山の岩盤が堅いため恵比寿橋の東で少し曲がった現在の川筋になりました。計画からはずれた土地は余所と呼ばれ、現在の後三条の小字名として残っています。
‐中略‐

 この芹川堤は水害を町方に及ぼさないように北側を高く堅固に築き、南側の後三条村の方は低く築きました。このために大水の時は南側の堤から溢れ、家屋や農作物に大きな被害を受けることが幾度もありました。
‐中略‐

三島由紀夫は小説”絹と明察”の一節に芹川の情景を次のように書いています。

「彦根の町の南を流れる芹川は、築城のため川筋をまっすぐに、あたかも運河のように規矩正しく直され、多数の百姓・町人に赤土を運ばせ踏み固めさせてできた美しい堤には欅並木がつづいている。殊に青葉時の西日に欅の枝々がこまかく透かす夕影の美しさは比べるものがない。」

このように書かれている美しい芹川堤も築城当時に後三条村が被った大きな犠牲によって完成したことや、先住者の苦哀を私達住民は今一度思い出してみようではありませんか。

芹川の付替えによって後三条村の旧領域は芹川の北側が町方となり、河原町・橋本町・袋町などに町割をされ、芹橋一丁目から八丁目迄を足軽組屋敷として元和3年(1617年)善利組八組が設置されました。その後、この組屋敷は池州町通りまで拡大しました。
 また、芹川の南側の一部も町方として橋向町や後三条町(新町)に町割りされました。新町は明暦3年(1657年)に町並みが出来たそうです。これらの新しく出来た町並みは、川原町手組として町奉行の支配するところとなり、後三条村は村方として筋奉行の支配下に属することとなりました。

問い合わせ先

〒522-8501 彦根市元町4番2号
彦根市道路河川課河川係
電話 0749-22-1411(代表)内線231,239
電話 0749-30-6122(直通)
ファックス 0749-24-5211


秘話探訪 ふるさと報知随想 東近江“狛犬ものがたり”

2016年05月03日 | 文化財

滋賀報知新聞■平成25年1月6日(日) 第16467号

=江戸末期の作品は3例「供出」された狛犬も 中島 伸男=

(写真1)天神社(東近江市佐野町)

■狛犬の原型は「獅子」
 狛犬は「高麗から渡って来た犬」という意味でその名があるが、原型は獅子である。百獣の王・獅子が霊獣として造形化され、はるばる西方からシルクロードを経て日本に渡ってきた。 
 昔は宮中の帷(かたびら=隔ての布)や御簾(みす=竹の「すだれ」)が風で揺れるのを押さえるために使われていたという。
 やがて狛犬は、霊力をもつ神宝として神社本殿の奥に納められるようになり、時代を経るにしたがい魔除けの役割を担って内陣から外陣へ、さらに社殿前へと進出していった。
 風雨に晒されることから石造の狛犬があらわれ、形態も大型化した。江戸時代には「魔除け」「招福」を祈願する庶民が、狛犬を寄進するようになった。これら神社境内に寄進された狛犬を、一般的に「参道狛犬」とよんでいる。
■江戸末期の作品三例
 東近江市内でもっとも古い参道狛犬は、佐野町・天神社の本殿前一対(写真1)である。その台座には「弘化四歳丁未十一月」(西暦一八四七年)と刻まれてあり、いまから一六六年前に奉納されたことが判明する。たて髪を長く彫った雄渾な作品で、歳月を経たにもかかわらず風化が少ない。台座には「奉納・朝日講」、「功徳者」として戸田久右ヱ門ら十一名の名前が読み取れる。同社・氏子総代を長くつとめておられる大澤勇さん(佐野町)に、「朝日講」についてお尋ねしたが、このような名称の講は現存せず狛犬の由緒は不明である。阿形・吽形ともに、右足を少し前に出したポーズが珍しい。


(写真2)日吉神社(東近江市今崎町)

 御代参街道に面した今崎町・日吉神社二ノ鳥居前の狛犬一対も古い(写真2)。「文久三亥年正月吉日」(一八六三)の銘がある。願主は「向善五良」。向かって右の台座には「初老厄除」、左の台座には「海陸安全」と彫っている。願主・向善五良は、「万善」向井一生さん(八日市金屋一丁目)の五代前に当たる人物で、薬種商として北海道松前に渡った経歴をもつ。狛犬はずんぐりした体型で、全体に細工が少ない。尻尾が短いが、これは江戸期につくられた狛犬の一つの特色である。
 江戸末期の狛犬が、東近江市にはもう一対ある。大浜神社(伊庭町)本殿前のものである。狛犬の高さは五十四センチと小振りで、石灰角礫岩(地元では美濃赤坂産大理石とも)が使われている。阿形・吽形ともに右足を上げているが傷みが激しく、阿形の右足は根元から折れている。台座の銘から「文久四年甲子年正月吉日」(一八六四)「寄進かねいち中村氏」と読み取れる。地元の歴史に詳しい村田恒治郎さんは、伊庭の有力者であった中村金一郎(中村博さんの曽祖父・嘉永元年生れ)によるものであろうと推定される。
 東近江市内の狛犬で江戸期製作と判明しているのは、現段階では以上の三例である。
 明治期に入ると、参道狛犬の寄進が増えてくる。中野神社(東中野町)鳥居前の一対が明治八年(一八七五)、野々宮神社(八日市金屋一丁目)本殿前の一対が明治九年(一八七六)、松尾神社(八日市松尾町)本殿前の一対が明治十一年(一八七八)とつづき、その後も明治期の作例は多い。
■「供出」された狛犬
 台座と、台座の上の狛犬の製作年代が異なっているケースもある。
 中野神社社頭の狛犬は、台座に「明治四十四年亥十月建之」と刻まれ、東京・灰谷儀助、大阪・灰谷善太郎ら灰谷家一族の名前が彫っている。
 しかし台座の上の狛犬の台には「昭和三十二年二月」として初老を記念した小梶正二郎ら十名の氏名が彫り込まれている。狛犬と台座に年代・寄進者の食いちがいが生じているのである。


(写真3)大森神社(東近江大森町)

 神社近くで理髪店を営む藤井季夫さんに、その理由を尋ねた。藤井さんは「子どものころ、狛犬に乗って遊んでいたが…」と記憶を辿られた結果、「狛犬に乗ったときの冷たかった感触」から、もとは青銅製の狛犬であったことを思い出された。太平洋戦争が激化した昭和十七年前後、金属類供出命令により撤去され、台座のみが残った。
 戦後十二年、当時、初老を迎えた人たちが再建されたものが現在の石造狛犬である。
 竹田神社(鋳物師町)本殿前狛犬の台座には、「昭和四十三年十二月再建」と彫られている。同社の場合は元の石造狛犬が風化し傾きがひどくなったので、「初代狛犬」寄進者の孫たちが再建されたものだという(外池文次さんのお話)。
■可愛い仔狛犬の姿
 向かって右側が阿形(口を開ける)、左が吽形(口を閉じる)であることは、すべての狛犬に共通する。しかし、どちらが雄でどちらが雌か、あるいは雌雄があるのかどうかについては「諸説」がある。
 狛犬とともに、玉石と仔犬(子獅子)を彫った作例がある。その多くは、右の阿形が玉石を押さえ、左の吽形側に仔犬が彫っている(五個荘奥町・奥村神社、八日市松尾町・松尾神社、八日市金屋一丁目・野々宮神社など)。そのことから、阿形が雄で吽形が「雌」とも考えられる。


(写真4)春日神社(東近江市妹町)

 しかし、右側の阿形狛犬に仔犬を彫った例もある。
 大森神社(大森町)鳥居前の狛犬(昭和十年三月)は、阿形側の足元に仔犬(子獅子)を彫っている。この仔犬は、首をひねった形でじつに愛らしい姿をしている(写真3)。高さが三〇センチもあり、親狛犬(九〇センチ)の三分の一である。親狛犬製作と同じ集中力を仔狛犬にも感じさせる。
 さらに、左側・吽形狛犬が押さえている玉石の細工も珍しい。手鞠型になっていて中にさらに小さな玉石が入っている。残念ながら石工の名が彫られていない。
■白布を巻いた狛犬
 春日神社(妹町)の鳥居前狛犬は、北海道有数の木材商として成功した中戸町出身の奥村徳蔵が、大正十一年、郷里の氏神さまに寄進したものである。この狛犬は大きな玉石に両の前足を載せ、腰を上げている(写真4)。このようなスタイルは尾道の石工が製作したもので、「尾道型狛犬」とよばれる。台座には「石工尾道市向島・恵谷喜一」の銘がある。
 筒井神社(蛭谷町)の一対(大正十三年、親王講および茨川・筒井円次郎奉納)は、狛犬が円形の台座に座している。木地師発祥の地として、轆轤挽きを意識した台座が製作されたのであろう。
 河桁御河辺神社(神田町)の狛犬(大正九年奉納)は、立派な石の玉垣に囲まれて鎮座している。
 兵主神社(野洲市五条)の本殿前狛犬(昭和三年奉納)は、阿形・吽形ともに細い白布でぐるぐる巻きになっている(写真5)。宮司さんに尋ねると、身体に不具合を抱えた人たちがその治癒を祈願し、患部にあたる場所に氏名を書いた布を巻いてゆくのだそうである。狛犬の頭や肩にも布が巻かれているが、やはり膝や腰に巻いた白布が目立つ。
■狛犬はいまも手造り
 狛犬台座に製作者名(石工名)が彫られている場合がある。
 布施神社(布施町)の狛犬(昭和三年八月)には「南五個荘・石寅作」とあり、昭和初期までこの地域に狛犬を彫る石工が存在したことを伺わせる。

(写真5)兵主神社(野洲市五条)

 多賀大社境内にある摂社・日向神社の狛犬(昭和六十年)には、長浜市・竹原石材店の銘がある。同石材店に照会してみると、狛犬製作は岡崎に発注し総仕上げを竹原石材店が行ったとのことである。狛犬製作には特別の技術が必要で、近年はほとんどが岡崎産になっている。
 岡崎石工団地共同組合・和出秀巳さんのお話によると、岡崎で切り出される花崗岩(三州御影石)に墨で狛犬の輪郭を描き、ベテランがいまも鑿と鎚で刻んでいくのだという。一対製作にふつう一ヶ月から二ヶ月を要するという。
■庶民の文化財―狛犬
 国や地方自治体が「文化財」に指定していなくても、私たちの周囲には、地域住民の暮らしや集落のちいさな歴史を物語るさまざまな石造品・建造物が存在している。それら「庶民の文化財」こそが、地域の雰囲気を醸し出しているといって過言でない。
 参道狛犬には、庶民のさまざまな祈願・祈念が秘められている。私は今後も神社参拝をかね、狛犬との愉しい出会いをつづけたいと願っている。
(注)上杉千郷著『狛犬辞典』・小寺慶昭著『京都狛犬巡り』を参照しました。
(野々宮神社宮司、八日市郷土文化研究会会長)


茶会参加求める秀吉直筆の書状    滋賀県草津市芦浦町の芦浦観音寺(国史跡)

2016年05月03日 | 文化財

茶会参加求める秀吉直筆の書状 滋賀・草津で一般公豊臣秀吉が芦浦観音寺の住職に、茶道具持参で茶会への参加を求めた書状=芦浦観音寺提供

 滋賀県草津市芦浦町の芦浦観音寺(国史跡)が4、5日に一般公開される。茶会や花見などに関する資料7点を本堂で紹介する。

 通常の拝観は予約のみだが、市観光ボランティアガイド協会の主催で年に2回一般公開している。同寺は琵琶湖の船奉行として栄え、数多くの文化財を所有しており、昨秋に続いて一部資料を展示する。

 「北野湯茶道具目録」(県指定文化財)は、豊臣秀吉から当時の住職に送られた書状。筆跡から秀吉直筆とされる。1587年の北野大茶会に向けて、茶道具を持参して参加を求めている。江戸時代の蝶文蒔絵(ちょうもんまきえ)の弁当箱や、野だてで使われた茶釜など、当時の行楽の様子がうかがえる。

 午前10時~午後3時。拝観料300円。問い合わせは市観光ボランティアガイド協会TEL077(563)3700。

参考資料:京都新聞


標(しめ)の松塚(蒲生貞秀の墓所)   近江国(日野)

2016年04月29日 | 文化財
 
お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町村井 map:http://yahoo.jp/1KdkYZ

現 状:畑地

区 分:墓所

築城期:室町期

築城者:蒲生氏

遺 構:廟・墓石

標 高:200m   比高差:13m

目標地:標の松塚

駐車場:標の松塚横空き地に駐車

訪城日:2016.3.27

お城の概要

日野町村井の信楽院の西(往古日野川対岸=1547(天文17)年まで日野川の河床だった田園地帯)に位置する、又、現在は館の上部は墓地に造成されている。墓地への参道を挟んで西丘陵城に詰め城と思われる遺構が現存する。

また、参道の脇には、『標の松塚』が祀られいる。蒲生氏14代・貞秀の墓所。(氏郷は19代)
永正元年(1504)、蒲生貞秀は自分が死去してからの墓所を自ら定め、一本の松を植えました。それが「標の松塚」。

お城の歴史

蒲生氏14代・蒲生貞秀の墓所。(氏郷は19代)
1504(永正元)年、貞秀は自分が死去してからの墓所を自ら定め、一本の松を植えました。それがここ「標の松塚」。

 現地説明板
『標(しめ)の松塚』
 蒲生貞秀は蒲生家をおこした英主といわれ戦国の武将としてもその名が高い。貞秀は和歌にも優れ、新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)に収録されているほどの文化人でもあった。貞秀は永正元年(1504)自分が亡くなってからの墓所を決め、一本松を植えて和歌を詠んだ。
「引うへし 松の下はに世をへれは 千とせの後の人もたつねむ」
 この松を標の松と呼び、文化8年(1811)碑が建てられた。この碑文は、信楽院住職が作り、西大路藩士小串同行が敬書している。
                          『日野観光協会・日野公民館』

  

  永正11年3月5日(1514年3月30日)死去。貞秀戒名「信楽院殿大弐法眼知閑大徳」

  「標松塚」の石碑   

「武芸はいふに及ばず、歌道にも達したり」(『蒲生軍記』)と記述のある貞秀。

『新撰菟玖波集』(室町時代後期の准勅撰連歌撰集)に5首が選ばれ、また、『蒲生貞秀詠草』『貞秀朝臣集』等を残しています。

墓所背後の井戸 

蒲生家菩提寺・信楽(しんぎょう)院から南西の畑を越えたところの竹藪には、蒲生貞秀(さだひで)廟所(遠景)

・信楽(しんぎょう)院

音羽城を築いた貞秀は、戦いに出る時何時も、槍の先に冠子に入れた阿弥陀仏にを槍の先に引っ掛け、念仏をとなえながら戦ったといわれ、こんなことからこの仏を「槍かけ本尊」とも呼び、今もこの寺に安置されている。

参考資料:現地説明板

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京都守護職の上屋敷跡発見 三つ葉葵紋の瓦出土///京都新聞

2016年04月27日 | 文化財

画像に含まれている可能性があるもの:食べ物安土桃山時代の大名屋敷を飾ったとみられる金ぱく瓦(左)と幕末の京都守護職上屋敷跡で見つかった三つ葉葵紋の瓦

 幕末に会津藩主・松平容保が務めた京都守護職の上屋敷の遺構が京都市上京区の京都府庁北側の発掘調査で見つかった、と府埋蔵文化財調査研究センターが26日発表した。京都守護職の屋敷遺構は初確認で、長屋の状況が当時の藩士の暮らしをしのばせる。

 自動代替テキストはありません。調査地は上京区下長者町通新町西入ルの府庁北側の中立売署跡。古地図では、容保が京都の治安を守る守護職の就任に伴い、1865年に完成した京都守護職上屋敷の北辺で、藩士が寝泊まりした長屋群があった場所とみられる。

 画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外建物跡の柱穴は、3棟分見つかった。宿舎のような長屋風で、重さに耐えられる基礎工事がなされ、2階建てだった古地図の記述と合致する。徳川や松平家の家紋である「三つ葉葵」の軒丸瓦も出土している。

 調査地は安土桃山時代にさかのぼると、豊臣秀吉の聚楽第造営に伴い、大名屋敷が建設された地域でもある。発掘では「剣花菱」の金ぱく瓦の一部も出土したが、古地図に記載がなく、どの大名の屋敷跡かは断定できないという。

 同センターは「京都守護職の屋敷跡が古地図の記述通りと分かり、長屋が2階建てだったことが実証された意義は大きい。容保はあまり宿泊しなかったようだが、当時の藩士の生活の様子を知る史料ともなりうる」と話している。


明王寺  近江国(甲賀)

2016年04月08日 | 文化財

庭園が美しい、城郭のような高台に建つ山寺

      2016年1月31日

所在地:520-3312 滋賀県甲賀市甲南町磯尾1972

開 祖: 延暦年間(782-806)伝教大師

 当寺は、最澄が延歴年中(785年)に比叡山中堂建立に先だち桧木材調求のため当地を訪れた時、災厄に苦しんでいた人々を五大明王に一切衆生の守護を祈り助かったことより、その報恩のため彫刻した。その後、811年に開山し安置された。近辺には人家がなく、細い一本道のみ。
庭園は、最近改修されたばかりなので、苔むした落ち着きまでにはまだ至っていない。 近くの岩附神社に、巨木の「夫婦杉」がある

由 来:

 人皇50代桓武天皇の御宇延暦年中(782-806)、宗祖伝教大師が比叡山諸堂建立の用材調達のため当谷へ入られ、大勢の杣人(地元民)を用し用材を整えた。その折、杣人らの間で悪病が流行し、憂い悲しむ人々を愍む伝教大師は、ある夜、此の山上に浄光棚引き聲高らかに『五大明王を安置すべし』との夢をみられた。すぐさま、8月3日の暁より一刀三礼の五大明王の御尊像を7日7夜の間に彫刻された。すると、悪病も平癒し、その年の五穀は豊作となり、村人は、歓喜し、報恩のため、一宇の寺を建立して、五大明王を安置し、天下泰平、風雨順時、五穀成熟、諸人快楽の祈願道場とした。

弘仁5年(814)円瑞 中興

明王寺の施設紹介

 庭園が美しい、城郭のような高台に建つ山寺

東海自然歩道沿いの高台に位置する「明王寺」は、庭園が美しい天台宗の山寺。811年に円瑞によって開創されたと伝えられています。本尊五大明王は、最澄が衆人の病災を除くために彫刻して安置したものだそうで、地元では祈祷祈願の寺として知られています。手入れの行き届いた庭園を眺めながら、ホッとひと息。境内の前庭からは三重県境の油日岳や鈴鹿連峰、雨乞岳、岩尾山など、素晴らしい風景を臨むことができます。親子で散策するのも楽しいお寺です。

 

東海道自然歩道が境内を通じる明王寺は、庭園の美しい天台宗の山寺で、祈祷祈願と憩いの寺として親しまれています。本尊五大明王は、最澄が衆人の病災を除くために彫刻し安置したとされています。

参考資料:甲賀市観光ガイド

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北向岩屋十一面観音   近江国(能登川)

2016年04月08日 | 文化財

北向観音から、観音正寺まで【繖山ハイキングコース】になっています。

2016年2月27日

くりぬいた岩の奥に安置された北向岩屋十一面観音

磐座に安置された北向岩屋十一面観音

北向岩屋十一面観音  所在地:東近江市(旧・能登川町)猪子山

JR能登川駅南方の猪子山(268m)山頂の堂の奥に岩屋があり、その中の像高55cmほどの石造の観音が、北向観音と呼ばれています。

東近江市(旧・能登川町・旧五個荘町)と安土町にまたがる繖山(きぬがさやま)山系の北にある猪子山の山頂に、赤いお堂が岩にへばりつくように立ってぃます。中に入ると、奥の岩をくりぬき、高さ55cmほどの石造りの観音さまが安置されており、北向岩屋十一面観音と呼ばれています。


 奈良時代に安置されたといわれ、平安時代には坂上田村麻呂が東国平定のためにこの岩屋にこもり、観音に祈願したとも伝わります。
 古くから土地の人の信仰を集めている観音さまで、7月17日の千日会には京阪神・中京方面からも多くの信者が訪れます。この日だけでなく、毎月17日には信者の参拝でにぎわいます。

お堂から見た伊庭内湖など湖東平野のながめ観音堂からは、琵琶湖・比良の山並みが眺められます。

また、夜の眺めも素晴らしいとか!

問合せは、

一般社団法人 東近江市観光協会

TEL:0748-48-2100

FAX:0748-48-6698

E-mail:info@higashiomi.net

神岩に文字 【福丸大神 豊盛大神】

参考資料:東近江市観光協会、愛らしきもの

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大坂夏の陣 伊達政宗ら証言約束

2016年04月06日 | 文化財

松山市内で見つかった松平定実の大坂夏の陣での活躍を伝える書状。左は伊達政宗からの書状で、政宗の花押が確認できる=28日午後、県庁

松山松平家初代藩主の弟 定実の軍功リアルに 子孫宅 書状発見 大坂夏の陣 伊達政宗ら証言約束

愛媛新聞2016年03月29日(火)

  松山松平家初代藩主・定行の実弟、定実(さだざね、1597~1632年)の大坂夏の陣での活躍を伝える伊達政宗らの書状8通が松山市内にある定実の子孫宅で見つかり、28日に初公開された。調査した伊予史談会役員らは「県内で1600年代初めの古文書は非常に少なく、大名らの書状が残っていることは意義深い」としている。

 定実は、徳川家康の異父弟にあたる松平定勝の四男。1615年、大坂夏の陣では家康の旗本として出陣した。軍功を挙げたが、持ち場を離れたとして家康の怒りを買い、定行の所領があった静岡・掛川に蟄居(ちっきょ)した。
 夏の陣での定実の軍功は、松山藩松平家の系譜書「久松家譜」で「伊達政宗・片倉重綱(中略)横田尹松等書ヲ以テ其効ヲ証ス」と記されており、8通はその原文書にあたる。定実やその家臣宛てで、定実の活躍を家康に証言することなどを記している。
 伊達政宗からの書状(推定16年)は、道明寺の戦いで政宗の家臣・片倉小十郎が定実の活躍を目撃しており、家康から問い合わせがあれば証言すると約束。高取藩主本多政武の書状は、夏の陣最後の戦いとなった天王寺の戦いで、真田信繁に攻め込まれ徳川方が大混乱となった際、定実がその場にとどまって手柄を挙げたことを覚えており、誰に尋ねられてもそのように答えると述べている。
 所有する松平定理さん(86)によると、書状は同市中心部にあった本家の蔵に預けられていたが、1945年7月の松山空襲の10日ほど前に実家へ移したため、戦災を逃れたという。
 伊予史談会常任委員の柚山俊夫、井上淳さんの2人が解読した。井上さんは「大坂夏の陣に参加した名だたる武将の史料がまとまって出てくることはなかなかない。戦場の様子をリアルに伝える史料としても重要だ」と話した。

松平定実 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

松平 定実(まつだいら さだざね、慶長2年(1597) - 寛永9年3月21日(1632.5.16)は江戸時代の旗本。官名は従五位下、信濃守。

松平定勝の四男、母は奥平貞友の娘(たつ、二之丸殿)。徳川家康は父方の伯父にあたる。慶長10年(1605)、家康に初めて拝謁。家康の命により駿府城に召され、13歳まで駿府城大奥で養育される。同17年(1612)、従五位下信濃守に叙任。同19年(1614)、大坂冬の陣では家康に従う。翌年、夏の陣では大功績を挙げるが、軍令に違反し持ち場を離れたとして、家康の怒りを買い、兄・定行の領地に蟄居した。しかし、大和高取藩主・本田正武や伊達家家臣・片倉景綱が、松平定実が天王寺の戦いで真田信繁に攻め込まれ徳川方が大混乱となった際、定実がその場にとどまって活躍したところを見届けており、伊達政宗らは「家康公より問い合わせがあれば、定実のために弁護する用意がある」と定実やその家臣に書状を送っている。元和年間には書院組頭を命ぜられるが、病により辞退。さらに、寛永元年(1624)長島7千石、翌年には長島城2万石を賜うが、いずれも病により辞退する。同9年(1632)、桑名で卒去。永照院殿徳誉西巌道徹大居士と贈られ、照源寺(三重県桑名市東方)に葬られる。

室は井上松陰の女。延宝3年(1675)卒去。松寿院殿永誉馨庵貞玉大姉と贈られる。子に定之、定寛がいる。


大西城(大西館)   近江国(栗東)

2016年03月18日 | 文化財

お城のデータ

所在地:栗東市手原 map:http://yahoo.jp/UaQIvT

別 称:大西館

現 状:宅地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:大西氏

目標地:JR手原駅、真慶寺

駐車場:手原赤坂会館

訪城日:2016.3.17

お城の概要

大西氏代々の居城。 築城時期など、詳細不明。

JR手原駅の南西部に「大西市上右衛門屋敷」と伝わる土地があり、かつては堀や土塁の跡があったとされる。 現在は区画整理によって遺構は消滅している。

 三雲山 真慶寺 520-3047 滋賀県栗東市手原4-4-2 http://yahoo.jp/2dzuFe

浄土宗。本尊の阿弥陀如来像は 仏師、春日の作と伝える。地蔵 菩薩立像は弘法大師の作とい う。

寺伝では、もとは栗本寺と いう大きな寺であったと伝え る。中興の大西大和守再建


お城の歴史

大西大和守は、近江守護佐々木承禎に仕えた当地出身の武士。

城郭分布調査に、「『近江栗太郡志』は、手原駅西南に「大西市上右衛門屋敷」と伝える地があり、周囲の堀・土手が残存するとしている。薮地あったが、現在は区画整理により消滅。」 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、栗東市地域資源活用ビジョン、遺跡ウォーカー

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