連続講座
日 時 2013年6月1日(土)13:30~
内 容 「高島の城を探る」横井川博之氏(高島市教育委員会)
連続講座 【おおてみち】より抜粋
場 所 安土城考古博物館(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678)
定 員 140名
参加費 300円
問合せ 安土城考古博物館 TEL0748-46-2424
安土考古博物館に、平成25年4月20日(土)~6月16日(日)
平成25年春季特別展「しのぎをけづり 鍔をわり-近江の城、信長とかく戦えり-」
特別展「しのぎをけづり、鍔(つば)をわり」~信長と戦う城の知恵を紹介 近江八幡で特別展
横山城の戦いで使われた石礫などを見る来場者(近江八幡市安土町下豊浦・安土城考古博物館)
滋賀県近江八幡市安土町下豊浦の安土城考古博物館で、近江の各城が織田信長とどう戦ったかを紹介する特別展「しのぎをけづり、鍔(つば)をわり」が開かれている。絵図や武器など約250点で戦国時代の城の攻防戦を伝える。
浅井氏が立てこもった小谷城(長浜市)の展示では、城跡から出土した刀や鉄砲玉が並ぶ。「小谷城跡絵図」は、山の尾根伝いに本丸や郭(くるわ)が連なる城の堅牢(けんろう)ぶりを伝え、織田軍がなぜ苦戦したかが分かる。
小谷城近くにあった横山城についても、城跡から出土した石礫(つぶて)3点を展示。直径約10~30センチで、城を守る浅井軍が城から織田軍に投げ落としたと考えられており、ありとあらゆる物を用いた戦いのすさまじさを伝える。
6月16日まで。月曜(祝日の場合は翌日)休館。4月30日は開館する。午前9時~午後5時。大人860円。4月28日から関連の連続講座も始める。同館TEL0748(46)2424。【京都新聞】
レジュメ
◆はじめに
・近江は城の国⇒1329ヶ所にのぼる城館跡の存在と確認【滋賀県教育委員会が1982年から10ヶ年かけて実施した分布調査の結果】
・近江は城郭の宝庫⇒ただ分布数が多いだけではなく、様々な機能や構造をもつ城館が分布【甲賀郡中惣の城郭群、巨大な守護・戦国大名の居城、寺院の要塞化、近世城郭の始祖安土城est・・・】
◆信長が見た近江の城
◆信長侵攻団塊の近江の城
◆石垣の系譜
◆安土築城と近江の築城技術
◆おわりに
・近江の城の先進性⇒土の城から石の城へ【しかし信長の築城にはその技術は採用されなかった】
・観音寺城の石垣と建物⇒戦国時代の到着点を示す【しかし、従来の観音寺城の評価は屋敷の集合体であり、軍事的評価は低い】
石垣築く財力【肥沃なな近江】と家臣を山上に集住させる権力⇒はたして守護六角氏はの権力は脆弱だったのか?
・信長はなぜ、近江安土に新たに築城したのか⇒岐阜・京都間の中間、街道の要衝?【答えは出ていない】
連続講座
日 時 2013年4月20日(土)13:30~
内 容 「甲賀郡中惣の城を探る」長峰透氏(甲賀市教育委員会)
続きは明日・・・・!
連続講座
日 時 2013年3月9日(土)13:30~
場 所 安土城考古博物館(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678)
内 容 「佐和山城を探る」小島孝修氏(滋賀県文化財保護協会)
定 員 140名
参加費 300円
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。
滋賀県教育委員会 文化財保護課 記念物担当
〒520-8577 滋賀県大津市京町四丁目1-1
電話:077(528)4674 FAX:077(528)4956 E-mail:ma07@pref.shiga.lg.jp
★問い合わせ
滋賀県教育委員会では、水と大地に刻まれた歴史遺産に光をあて、その価値を高
め、全国に魅力を情報発信していくため、「近江水と大地の遺産魅力発信事業」に
取り組んでいます。その一環として、平成24年度は大河ドラマ「平清盛」の放映
にあわせ、平清盛とその時代に光をあて、歴史探訪事業等を実施して参りました。
このたび、この事業のまとめとして、下記の講座を開催することとしました。多
くのみなさまのご参加をお待ちいたしております。
【講座】 平清盛とその時代
講座 ①
日時:平成25年2月17日(日)
場所:野洲市歴史民俗博物館研修室
(銅鐸博物館、野洲市辻町57-1)
定員:120名(当日受付、先着順)
参加費:200円 (博物館入館料)
日程
12:30~ 開場
13:00~ 開会挨拶
13:05~ 「平清盛とその時代」
滋賀県教育委員会文化財保護課 木戸雅寿さん
14:00~ 「近江の緑釉陶器と日宋貿易」
滋賀県教育委員会文化財保護課 畑中英二さん
14:55~ 休憩
15:05~ 「平家物語と祇王
-妓王寺と祇王井-」
野洲市歴史民俗博物館
行俊 勉 さん
16:25~ 閉会挨拶
16:30~ 常設展および
テーマ展「木部天神前古墳と御明田古墳」見学解説
野洲市教育委員会文化財保護課 花田勝広 さん
★その他:両日とも当日、ガイドブック「平清盛とその時代」、および
清盛とその時代や中世近江の戦いに関するブックレットを配布します。
講座 ②
日時:
場所:長浜市高月公民館大ホール
(長浜市高月町渡岸寺141-1)
定員:120名(当日受付、先着順)
参加費:無料
日程
12:30~ 開場
13:00~ 開会挨拶
13:05~ 「平清盛とその時代」
滋賀県教育委員会文化財保護課
木戸雅寿さん
14:00~ 「己高山の開発と余呉川の水運」
滋賀県教育委員会文化財保護課
北村圭弘さん
14:55~ 休憩
15:05~ 「平安時代の塩津湊
-塩津港遺跡出土木簡を中心に-」
長浜市長浜城歴史博物館
太田浩司さん
16:30~ 閉会挨拶
日 時 2013年2月24日(日)13:30~
場 所 安土城考古博物館(滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678)
内 容 「安土城に込められた統治戦略」大沼芳幸氏(安土城考古博物館)
定 員 140名
参加費 300円
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。
金森城(かねがもりじょう)(滋賀県守山市金森町)
金森は、寛正6年(1465)山門が東山大谷御堂を破壊した「寛正の破却」により、京都を逐われた本願寺第八世宗主蓮如が拠ったところです。それ以前から当地には金森惣道場があり、江南地域における真宗の拠点として知られていました。金森は東山道と琵琶湖とを結ぶ志那街道沿いの要地であり、戦国期にはこの道場を中心として寺内町が形成されていました。
元亀元年(1570)に始まる石山合戦では、大坂本願寺の宗主顕如の檄文に呼応するように、金森・三宅(守山市)を中心として一向一揆勢が蜂起します。本願寺からは坊官の川那辺秀政が送り込まれ、各地の門徒・武士たちが金森・三宅の両城に集まりました。元亀2年、織田信長軍の攻撃が開始されると一揆勢は籠城して戦いますが、同年9月遂に人質を出して降伏します。しかし翌元亀3年正月再び一向一揆勢が蜂起します。これに対し、信長は湖南周辺の村々から一揆に参加しない旨の起請文を取り、懐柔を図ります。元亀の起請文と呼ばれるこの起請文の徴集によって一向一揆は解体し、同年9月には金森宛の楽市楽座の織田信長朱印状が出されます。金森は織田政権下の都市として再生することになるのです。
金森寺内町については資料が少なく、また現地も大きく改変されているため、その構造は不明です。しかしながら、天保7年(1836)の村絵図が残されており、この絵図をもとに寺内町の構造を推測することは可能です。それによると、「善立寺」「因宗寺」「御坊」の三つの寺院を中心とし、町の中央を街道が通り、周囲が堀と土塁に囲まれていたことがうかがえます。善立寺・因宗寺は現在も当地に残り、御坊は現在金森懸所として知られています。
金森村絵図(『滋賀県中世城郭分布調査報告書3(旧野洲郡・栗太郡の城)』滋賀県教育委員会 1985)
金森城は、寺院を中心とした集落を囲う堀の南側に「城ノ下」という小字名があり、そこが城の伝承地ではないかと考えられています。現在は住宅地になっており、城の痕跡はまったく残っていません。しかしながら、集落の中を水路が何本か通っており、堀の痕跡ではないかと考えられます。
金森の集落内を通る水路
金森城については、構造だけでなくその歴史についても明らかではありません。寺内町に隣接することから見て、おそらく善立寺の開基と伝えられる川那辺道西の一族が居住していたものと思われます。
金森城へはJR守山駅から近江鉄道バス下物線または杉江循環線に乗り、金ヶ森のバス停下車です。そこから西の路地に入っていくと善立寺・因宗寺・金森懸所に至ります。その西に広がる住宅地、「城ノ下団地」と呼ばれるところが金森城の伝承地です。(松下)
金森寺内町の中核 善立寺
・「平家物語と祇王-妓王寺と祇王井-」
野洲市歴史民俗博物館 行俊 勉
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。
近江水と大地の遺産魅力発進事業【講座】平清盛とその時代
滋賀県教育委員会では、水と大地に刻まれた歴史遺産に光をあて、その価値を高めて、全国に魅力を情報発信していくため、「近江水と大地の遺産魅力発信事業」に取り組んでいます。その一環として、平成24年度は大河ドラマ「平清盛」の放映にあわせ、平清盛とその時代に光をあて、歴史探訪事業等を実施して参りました。
このたび、この事業のまとめとして、下記の講座を開催することとしました。多くのみなさまのご参加をお待ちいたしております。
講座1.
- 日時:平成25年2月17日(日曜日)
- 会場:野洲市歴史民俗博物館研修室(銅鐸博物館、野洲市辻町57−1)
- 日程:12:30~ 開場
13時00分~ 開会挨拶
13時05分~「平清盛とその時代」
滋賀県教育委員会文化財保護課木戸雅寿さん
14時00分~「近江の緑釉陶器と日宋貿易」
滋賀県教育委員会文化財保護課畑中英二さん
14時55分~休憩
15時05分~「平家物語と祇王-妓王寺と祇王井-」
野洲市歴史民俗博物館行俊勉さん
16時25分~ 閉会挨拶
16時30分~常設展およびテーマ展「木部天神前古墳と御明田古墳」見学解説
野洲市教育委員会文化財保護課花田勝広さん - 定員:120名(当日受付、先着順)
「近江の緑釉陶器と日宋貿易」
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。
近江水と大地の遺産魅力発進事業【講座】平清盛とその時代
滋賀県教育委員会では、水と大地に刻まれた歴史遺産に光をあて、その価値を高めて、全国に魅力を情報発信していくため、「近江水と大地の遺産魅力発信事業」に取り組んでいます。その一環として、平成24年度は大河ドラマ「平清盛」の放映にあわせ、平清盛とその時代に光をあて、歴史探訪事業等を実施して参りました。
このたび、この事業のまとめとして、下記の講座を開催することとしました。多くのみなさまのご参加をお待ちいたしております。
- 日時:平成25年2月17日(日曜日)
- 会場:野洲市歴史民俗博物館研修室(銅鐸博物館、野洲市辻町57−1)
- 日程:12:30~ 開場
13時00分~ 開会挨拶
13時05分~「平清盛とその時代」
滋賀県教育委員会文化財保護課木戸雅寿さん
14時00分~「近江の緑釉陶器と日宋貿易」
滋賀県教育委員会文化財保護課畑中英二さん
14時55分~休憩
15時05分~「平家物語と祇王-妓王寺と祇王井-」
野洲市歴史民俗博物館行俊勉さん
16時25分~ 閉会挨拶
16時30分~常設展およびテーマ展「木部天神前古墳と御明田古墳」見学解説
野洲市教育委員会文化財保護課花田勝広さん - 定員:120名(当日受付、先着順)
- 参加費:200円(野洲市歴史民俗博物館入館料)
昨年の大河ドラマ・・・
「平清盛とその時代」滋賀県教育委員会文化財保護課
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。
淡海の城(おうみのしろ) 第32号 平成25年(2013)2月14日発行
近江の真宗と寺内町金森~連続講座第4回にむけて
近江の寺院勢力を語る上で、中世に大きく台頭した浄土真宗は無視できない存在です。浄土真宗は現在までの歴
史の中で、複数の流派に分派していきます。その流れの中で親鸞の廟堂を始原とする本願寺を本山とする流派(現
本願寺派・大谷派)が大きな勢力を持つことになります。
近江の地に浄土真宗がいつ伝播したかははっきりとは判明していませんが、真宗系寺院の伝承等から13世紀頃に
は伝わっていたものと思われます。最初は本願寺以外の教えを受けた門徒衆が興隆し本願寺の寺勢は余り振るいま
せんでしたが、七世存如および八世蓮如が布教に努めた結果、教団を大きくすることに成功します。惣村組織を本
願寺の教団組織に取り込むことで近江各地に門徒集団の拠点となる地が出現し、「寺内町」と呼ばれる寺院を中心
に構成される集落も形成されました。
代表的な「寺内町」として近江では金森が挙げられます。この金森では浄土真宗を巡る騒乱が二度引き起こされ
ました。最初のものは真宗を自教団の一員とする山門(天台宗のうち、延暦寺を本山とする一派)と戦った「金森
合戦」(1466)、二度目は本願寺と織田信長の抗争に連携した「一揆」(1570~2)です。
ただし、この様な騒乱は「宗教」のみを問題にして引き起こされたわけではなさそうです。金森は野洲川の旧流
路に沿った微高地に立地した町で、港湾がある志那へ向かう街道が通過し、琵琶湖に注ぎ込む中小河川がいくつも
分流する地点に近接しており、水陸両方の交通の要衝ともいえます。山門の圧力行使は、真宗門徒が町を掌握して
しまうことにより在地領主としてこの交通の要衝が自らの思うようにならなくなることに対する不満が大きな原因
となっているものと思われます。信長との抗争の場合、対抗する政治権力に加担することがその原因になっていま
す。また、一揆との和睦の後金森に対し楽市楽座令を出していることから、信長はこの地を交通の要衝・物流の拠
点と評価していることがうかがえ、土地の支配に関わる問題も内包している可能性があります。
このように、中世において度々引き起こされた寺社勢力が関わる抗争は、その背景にある政治や土地支配をめぐ
る様々な問題をはらんでいるものといえるでしょう。(上垣)
○連続講座「近江の城郭」第4回 近江一向一揆の拠点~金森・三宅 開催のお知らせ
寛正6年(1465)、山門による本願寺破却(寛正の破却)によって京都大谷の地を逐われた蓮如は、近江金森に身
を寄せます。金森の地は土豪川那辺氏が支配してきた場所ですが、14世紀に本願寺に帰依して惣道場(金森御坊)
が開かれ、これを中心として寺内町が形成されていました。
元亀元年(1570)9月、天下統一を目指す織田信長を倒すため本願寺顕如は諸国の門徒に檄文を発しました。これ
を受けて、近江湖南でも一向一揆が蜂起しましたが、その中心となったのが金森とそのとなりの寺内町三宅でした。
一揆はその後、降伏と再蜂起を経て元亀3年(1572)7月、一揆勢の楯籠もる金森・三宅が開城し、終焉を迎えます。
その後、金森には織田信長より楽市楽座の掟書が下され、織田政権のもとに組み込まれていきます。
現在、金森の地には寺内町を囲う堀の名残を思わせる水路があり、三宅にも土塁や水路の痕跡が残ります。今回
の講座では、文化財専門職員の案内で金森・三宅の寺内町跡を訪ね、現地に残る遺構をたどります。
1.日時 平成25年2月23日(土) 10:30~16:00 ※10:00受付開始
集合:JR守山駅西口広場 全行程約6km(平地・舗装道)
※守山駅到着時刻 上り 10:21(普通) 10:24(新快速)
下り 10:18(新快速)10:23(普通)
解散:守山宿にぎわい広場(JR守山駅まで徒歩10分)
※希望者は、JR守山駅まで職員がご案内します。
2.場所 講義:守山市中心市街地活性化交流プラザ あまが池プラザ(守山市勝部1-13-1)
現地見学:金森寺内町跡・三宅寺内町跡(守山市金森町・三宅町)
4.主催 滋賀県教育委員会
5.共催 守山市教育委員会
6.内容 講義「近江の真宗と寺内町金森」 講師:上垣幸徳(滋賀県文化財保護課)
金森寺内町跡等現地見学 解説:守山市教育委員会文化財保護課専門職員
7.定員 90名(事前申込制)
8.参加費 50円(保険料等実費分)
9.参加申込方法
(1)FAX・電話・メールに住所・氏名(ふりがな)・連絡先(携帯推奨)をお書きの上、下記までお申し込み
ください。
(2)申込締切 平成25年2月21日(木)午後5時
10.持ち物 健康保険証、弁当、水筒、タオル、ウォーキングに適した靴・服装
11.その他
(1)講座資料(A4 8頁程度)を無料で配布します。
(2)単独回のみの参加も可能です。
(3)受講された方には修了証を発行します。
(4)悪天候等による中止の場合は22日(金)午後5時までに参加者に連絡します。
(5)集合場所付近には駐車場はありません。公共交通機関をご利用ください。
11.参加申込・問い合わせ
滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査担当
〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678 城郭調査事務所
TEL0748-46-6144 FAX0748-46-6145 E-mail ma16@pref.shiga.lg.jp
今後の予定
【第5回】湖賊の自治都市~堅田
日時:平成25年3月23日(土) 13:00~16:30 JR堅田駅集合・解散
場所:堅田市民センター(講義)/大津市本堅田(現地)
講義:諸浦の親郷・堅田 仲川靖(滋賀県文化財保護課)
現地解説:大津市歴史博物館専門職員
シリーズ「淡海の城」(33)
-水茎岡山城(おかやまじょう)(滋賀県近江八幡市牧町)
岡山城は琵琶湖の東岸に位置する標高187mの岡山に築かれた城です。岡山は古来和歌に「水茎の岡(みずぐき
のおか)」として詠まれた名勝の地で、城は別名水茎岡山城(すいけいおかやまじょう)とも呼ばれています。
岡山城は、南北朝期に近江守護佐々木氏が湖上の監視所として築いたとされていますが、室町期には在地領主九
里氏の居城となっています。永正5年(1508)、将軍足利義澄が京都を逐われ、近江に逃亡しました。坂本から長命
寺をへて、最終的に岡山城に入ります。応仁の乱の後、足利将軍家も分裂し、将軍が京都を逐われる事態がしばし
ばおこります。この時は周防の大内氏のもとに身を寄せていた前将軍足利義尹が、京都で権力を握っていた細川高
国と結んで軍勢を率いて上洛しようとしており、高国と敵対する細川澄元と結んでいた義澄は六角氏を頼って近江
へと逃れたのでした。その3年後、足利義澄は岡山城中に没します。
一方、六角氏と対立を深めていた守護代伊庭氏は九里氏と結んでおり、永正15年(1518)六角氏と結んだ細川高国によって岡山城は攻撃を受けます。永正17年(1520)岡山城は陥落し、伊庭氏・九里氏は退城しましたが、その後も戦いは続き、最終的には大永5年(1525)、六角氏の江北出陣の隙を突いて挙兵した伊庭氏・九里氏の残党が、観音寺城の留守居であった後藤氏と戦った黒橋の戦いに敗れ、伊庭氏は歴史の表舞台から姿を消します。岡山城もこの段階で廃城したとされています。
岡山は三つの小丘陵が連なってできて山です。琵琶湖に近い方から頭山(標高147m)・尾山(標高187m)・後
山(標高113m)と呼ばれていますが、このうち頭山・尾山に城の遺構が見られます。また現在は干拓によって失
われていますが、かつては城の南面に内湖が広がり、湖上の浮城のような城でした。頭山は城の本丸といわれてい
ますが、山頂部は造成工事によって城の遺構は破壊されており、わずかに山復部に帯郭状の平坦部が見られるだけ
です。一方、尾山山頂部には城の遺構が良好に残されています。山頂部に二つの郭が並んで築かれ、両者は土橋で
つながっています。また郭の周囲を帯郭が取り巻き、琵琶湖側の外周には土塁が巡っています。南斜面には山麓へ
と延びる竪堀があります。
頭山と尾山との間の鞍部は現在湖岸道路が通っていますが、道路建設に伴う発掘調査で建物礎石と石垣が発見さ
れました。永正5年に岡山城に入った足利義澄の御殿跡ではないかといわれています。
岡山城へは、近江八幡駅より近江鉄道バス野ヶ崎行きで牧町西口下車、湖岸道路までしばらく歩き、湖岸道路を
左に折れて老人ホーム水茎の里の前を過ぎると、左手に「名勝水茎岡」とかかれた石標と階段があります。これを
登ると、尾山山頂部へといたる山道へとつづいています。頭山へは湖岸道路の琵琶湖側を山の方に進み、山裾の道
を琵琶湖方面に進むと山に登る道があります。道は山頂部までは延びていませんが、「高御座のほらす年のよろこ
ひをしるしととめよ水くきの岡」という御歌所長入江為守の和歌を刻んだ石碑と、その下に「水茎岡山城」と墨書
された木の看板が置かれた所に行くことができます。(松下)
城郭伝言板
全国で実施される城郭関連の催し物についてお知らせします。
※ここに掲載した情報は、各機関のホームページやポスター・チラシから転載したものです。詳細についてはそ
れぞれの機関にお問い合わせください。
※淡海の城友の会ではここに紹介した催し物への参加申込のあっせんや取り次ぎは一切行っておりません。
各催し物の申込先を御確認のうえ、直接お申し込みください。
○大阪歴史博物館特別展「天下の城下町 大坂と江戸」
会期:平成25年2月2日(土)~3月25日(月)
会場:大阪歴史博物館 〒540-0008 大阪市中央区大手前4-1-32
TEL06-6946-5728 FAX06-6946-2662
講演会「大坂と江戸」
日時:平成25年3月10日(日) 13:30~15:00
講師:脇田修氏(大阪歴史博物館館長)
会場:大阪歴史博物館四階講堂
定員:250名(当日先着順)
参加費:300円(ただし、特別展の観覧券もしくは半券提示の方は無料)
シンポジウム「近世の二大城下町 大坂と江戸 その姿と都市景観をさぐる」
日時:平成25年2月24日(日) 10:15~16:45
会場:大阪歴史博物館四階講堂
定員:250名(当日先着順)
参加費:無料
参考URL http://www.eventscramble.jp/e/tenka/
○滋賀県立安土城考古博物館連続講座「シリーズ 近江の城を探る」
日付・テーマ・講師:
④2月23日(土)「日野の城を探る」 振角卓哉氏(日野町教育委員会)
⑤3月9日(土)「佐和山城を探る」 小島孝修氏(公益財団法人滋賀県文化財保護境界)
⑥3月23日(土)「長浜の城を探る」 牛谷好伸氏(長浜市教育委員会)
会場:滋賀県立安土城考古博物館2階セミナールーム
時間:13:30~
定員:140名(事前申込不要)
参加費:300円(資料代)
問い合わせ 滋賀県立安土城考古博物館
〒531-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678
TEL0748-46-2424 FAX0748-46-6140 E-mail gakugei@azuchi-museum.or.jp
湖賊の自治都市・堅田~連続講座第5回に向けて
「堅田におつる雁がねの たえまに響く三井の鐘 夕くれさむき唐崎の 松には雨のかかるらん♪♪」明治33
年(1900)に大和田建樹が作詞した「汽笛一声新橋を・・・」の『鉄道唱歌』の43番です。 この頃、湖西
には鉄道は走っていないのですが、大和田は鉄道唱歌に「近江八景」をすべて歌いこみ、今で言うコマーシャルソ
ングの先駆けのようなものでしょうか、全国に近江の紹介をしています。平成24年度連続講座「近江の城郭」の
最終回では、この「堅田」を取り上げます。
昭和39年に琵琶湖の最狭部(約1300m)を使って対岸の守山市今浜と結ぶ琵琶湖大橋が出来、今では1日
平均34100台の車の通行量がある交通の要衝です。JR湖西線堅田駅周辺、琵琶湖大橋西詰めまでの旧国道1
61号沿いは、休日ともなれば、車の渋滞が出来、通過するのに1時間ほどかかります。しかし、昭和49年に江
若鉄道に代わって湖西線が開通した後も昭和60年頃までは、琵琶湖大橋の西詰めに「びわこタワー(現在イズミ
ヤ)」、国道沿いに「平和堂堅田店」と「さくらスーパ(現在アクト)」の大型店があるぐらいで、駅のホームか
ら内湖の真珠養殖棚が見渡せるような所でした。今回お話する堅田は、江若鉄道時代に繁栄していた「本堅田」と
言われているところで、駅前の賑わいからはやや外れた場所です。「浮御堂」がある場所と言えばピンとくる方が
いるのではないでしょうか。
堅田は、古代から漁猟集落として成り立っていましたが、平安時代に京都下鴨社の御厨となったあたりから、た
だの漁師町でなくなってきました。また、比叡山延暦寺の膝元にあるため延暦寺の荘園にも組み込まれてきました。
転機となるのは、嘉禄3年(1227)佐々木信綱が承久の乱の恩賞に「和邇・堅田」の地頭職を賜った頃からで
す。これまで下鴨社は御厨の供御人ということで堅田の住人を、延暦寺は荘園領主として堅田の土地を支配してき
たのですが、佐々木信綱という管理人が登場したことで勝手気ままに搾取できなくなったわけです。対抗措置とし
て延暦寺は新たに「湖上関」という通行する舟から「関銭」を取る、今で言う「税関」を設けます。下鴨社は「漁
業権」「航行権」の保証をし、堅田の前を通る舟に他所のものが海賊行為を働かないよう乗り込んで安全を図る
「上乗り」という権限を与え、それぞれ資金を得る画策をします。幸いにも佐々木信綱の和邇・堅田の地頭職は名
前だけで終わり、以後、幕府の守護が入ることもなく、国人領主に支配されることもなく織田信長時代まで推移し
ていきます。
さて、京都の大徳寺瑞峯院(大友宗麟の墓がある)の檀那の間(堅田の間)には、行方不明になっていた「片田
景図」の襖絵が日本ヒューレットパッカード(日本HP)のプリンティングテクノロジーで高精細複製され公開さ
れています。屏風仕立てにしたものが見つかり、日本HPが襖に再現復元したということですが、この絵を見ると
鄙びた漁村にしか思えません。講座の前に見に行かれてはどうでしょうか(拝観料400円)。
こんな鄙びた漁村を応仁2年(1468)延暦寺の山門衆徒が襲撃する「堅田大責」が起こります。その2年後、
堅田衆は多額の礼銭を延暦寺に払い、なおかつ坂本三津浜衆に奪われた「湖上関」「上乗り」の権限を力づくで取
り返します。鄙びた漁村がどう変貌していくのか、さらに織田信長が目を付けたものとは何か講座で迫っていきた
いと思います。(仲川)
事務局からのお願い
城郭伝言板に掲載する情報について会員の皆様からの提供をお待ちしています。展覧会・講演会・現地説明会な
どご存じのことがありましたら、事務局までお知らせ願います。
編集後記
連続講座「近江の城郭」もいよいよ大詰め、残すところあと2回となりました。第4回近江一向一揆の拠点~金
森・三宅の案内を1頁の載せていますので、参加ご希望の方はお申し込み願います。
このところ発行が遅れがちな会報ですが、今年度はこれが最後になります。また来年度も様々な情報を掲載して
いきますので、これからもどうぞよろしくお願いします。
「淡海の城」友の会事務局
滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査担当気付
〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678 城郭調査事務所
TEL0748-46-6144 FAX0748-46-6145
E-mail:ma16@pref.shiga.lg.jp URL:http://www.geocities.jp/nobunaga9999castle/
Wikipedia参照
独立丘鶴翼山、通称八幡山(標高283m、比高100m)の南半分山上に築城された。急峻な山城である。現在の八幡山は独立丘となっているが、築城当時は東西に内湖があり、南の平野部に城下町を配した構造は、安土城と類似した占地に築城している。城下町は安土城下町を移住させて形成された。かつての城下町の一部は日牟禮八幡宮境内地、八幡堀とともに近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区の名称で重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
八幡堀は琵琶湖の水を引いて作られた堀で戦闘の用をなすだけでなく運河の役割も果たしていた。
1582年(天正10年)の本能寺の変により灰燼に帰した安土城は、山崎の戦いの後の清洲会議によって織田秀信を城主に、織田信雄を後見人として再興することとなった。しかし翌1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い以降、政情が豊臣秀吉の天下へ移行する中で、1585年(天正13年)の紀州攻め、四国征伐で副将格で戦陣に入り武勲を立てた豊臣秀次は8月23日の論功行賞で近江八幡43万石(豊臣秀次は20万石、宿老に23万石)を与えられると安土城の隣地に八幡山城を築き、安土城の建物や城下町を移築することにした。
豊臣秀吉は安土城に替わる近江国の国城として、豊臣秀吉自身が普請の指揮をとり、山頂の城郭と麓にある居館、そして安土城から移築した城下町の造営に力を注いだ。しかし、八幡山は安土山と違い険しい山で、山の斜面を十分活用できず麓の居館が城の中心となった。(ここから多数の桐紋の金箔瓦が出土している。金箔瓦には安土城、大坂城とよく似た形状の巴紋瓦もある。)
豊臣秀吉の八幡山築城の狙いは、豊臣秀次の宿老に田中吉政、水口岡山城に中村一氏、長浜城に山内一豊、佐和山城に堀尾吉晴、竹ヶ鼻城に一柳直末を配して、近江国を軍事的、経済的要衝として万全な体制にすることにあった。
豊臣秀次は18歳で入城したが、1590年(天正18年)に尾張国清洲城へ移封。
代わって京極高次が2万8千石で入城したが、1595年(文禄4年)秀次事件で羽柴秀次は切腹、聚楽第と同時期に八幡山城が廃城となると京極高次は大津城へ移った。築城から10年で廃城となった。
本丸跡には秀次の母・豊臣秀吉の姉の日秀(智)が開基の村雲門跡瑞龍寺が1963年(昭和38年)に移転されている。
城郭
城跡は大きく分けて2つから成り立っている。一つは山頂部の山城と、2本の尾根に挟まれた谷筋の空間に居館を配置する。このように防衛空間としての山城部分と、居住空間の居館を分離する構造は、戦国期の城郭に数多く見られるが、近世城郭では珍しく、時代に逆行した二次元分離形態をとっている。これは築城時が小牧・長久手の戦いの翌年で、しかも徳川家康との講和以前の段階となっており、東国に対して臨戦態勢の緊張下にあり、防衛線として八幡山城が機能したことに起因する。
1967年(昭和42年)に山頂の本丸から山麓の居館部分に集中豪雨によって大規模な土砂崩れが発生している。近江八幡市では土砂工事に対応し 史跡指定も視野にいれた遺構の残存状態の確認のため発掘調査が行われている。
山城
山城部分は総石垣作りで、本丸、二の丸、北の丸、西の丸、出丸がY字形に延びる放射状に配置され、それぞれに高石垣で構築されている。1963年(昭和38年)に京都より移築された瑞龍寺の門が八幡山城の本丸虎口となっている。また瑞龍寺の移築に伴い事前の発掘調査が行われ、建物礎石、鬼板、軒丸瓦などの多くの遺物が検出された。
また礎石の中には五輪塔や宝篋印塔、層塔などの流用礎石を用いたものがあり、石垣の中にも含まれていることから、短期間で築城を目指したと考えられている。
本丸と西の丸に接する西北隅に、15m四方の天守台があり天守がそびえていたと推定されている。本丸の西側の2ヵ所は1953年(昭和28年)の台風13号の影響で石垣が崩壊してしまい、現在はコンクリートで固められている。この部分は西の丸方向に埋門があり、通称「弁慶橋」といわれている埋門の上をかかる櫓の土台石があったと言われているが、これらも崩壊し全く跡をとどめていない。
埋門の例(松山城)
各曲輪の石垣の隅部分は算木積みになっており、加工された石材が使われている。隅部分の石垣以外は粗割石か自然石が積まれており、本丸の石垣は比較的大きめの石材を使用している。石垣の傾斜も直線的で積まれ反りが見られない。本丸を取り巻くように帯曲輪があり、これは本丸を通らず各曲輪を往来できるバイパスの機能を兼ねている。西の丸、北の丸の地表面には建物礎石跡が露出しており、この曲輪にもなんらかの建物が建っていたと思われている。山城の大手は不明だが、二の丸にあるロープウェー八幡城址駅付近の石垣が大きく崩れており、この付近に存在していた可能性が指摘されている。
この城の石垣は『岩倉石工文章』によると、南方約4kmの地にある岩倉山より石材を運んだという記載がある。
PR(安土城)
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日野 富子(ひの とみこ、永享12年(1440年) - 明応5年5月20日(1496年6月30日))は、室町時代後期から戦国時代前期の女性。室町幕府8代将軍足利義政の正室。父は蔵人右少弁・贈内大臣日野重政、母は従三位北小路苗子(北小路禅尼)。兄に勝光、妹に足利義視室。9代将軍足利義尚の母。従一位。
生誕と結婚
山城(京都府)の生まれ。室町幕府の足利将軍家と縁戚関係を持っていた日野家の出身で、義政の生母日野重子は富子の大叔母にあたる。富子も康正元年(1455年)8月27日に16歳で義政の正室となり、長禄3年(1459年)1月9日には第1子が生まれるが、その日のうちに夭折。それを義政の乳母の今参局が呪いを掛けたせいだとし、彼女を琵琶湖沖島に流罪とし(本人は途中で自刃)、義政の側室4人も追放した。
応仁の乱
富子は寛正3年(1462年)と翌4年(1463年)に相次いで女子を産むが、男子を産むことは出来なかった。寛正5年(1464年)に義政は実弟で仏門に入っていた義尋を還俗させ、名を足利義視と改めさせ細川勝元を後見に将軍後継者とした。しかし翌寛正6年(1465年)に富子は義尚を出産、富子は溺愛する義尚の擁立を目論み、義尚の後見である山名宗全や実家である日野家が義視と対立した。これに幕府の実力者である勝元と宗全の対立や斯波氏、畠山氏の家督相続問題などが複雑に絡み合い、応仁の乱が勃発した。
富子は戦いの全時期を通じて東軍側にいたが、東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け、米の投機も行うなどして一時は現在の価値にして60億円もの資産があったといわれる。
文明3年(1471年)頃には室町亭(京都市上京区)に避難していた後土御門天皇との密通の噂が広まった。当時後土御門天皇が富子の侍女に手を付けていたことによるものだが、そんな噂が流れるほど義政と富子の間は冷却化していた。
文明5年(1473年)に宗全・勝元が死去、義政が隠居して義尚が元服して9代将軍に就任すると、兄の日野勝光が新将軍代となった。義政は完全に政治への興味を失い、文明7年(1475年)には小河御所(上京区堀川)を建設して1人で移った。文明8年(1476年)に勝光が没すると、富子が実質的な幕府の指導者となった。「御台一天御計い」するといわれた富子に八朔の進物を届ける人々の行列は1、2町にも達した。11月に室町亭が焼失すると義政が住む小河御所へ移る。しかし、富子と義尚が移った直後に義政は長谷聖護院の山荘に移ってしまった(その後長らく義政とは別居)。
文明9年(1477年)にようやく西軍の軍は引き上げ、京都における戦乱は終止符を打ったが、この翌日、富子は伝奏広橋兼顕に「土御門内裏が炎上しなかったのは、西軍の大内政弘と申し合わせていたから」という趣旨の発言をしている。
応仁の乱後
長禄3年以降、京都七口には関所が設置され関銭を徴集していた(京都七口関)。この関所の設置目的は内裏の修復費、諸祭礼の費用であったが、富子はほとんどその資金を懐に入れた。これに激高した民衆が文明12年(1480年)に徳政一揆を起こして関所を破壊した。富子は財産を守るために弾圧に乗りだし、一揆後は直ちに関の再設置に取りかかったが、民衆だけでなく公家の怨嗟の的となった。
義尚は成長すると富子を疎んじ始め、文明15年(1483年)には富子をおいて伊勢貞宗邸に移転し酒色に溺れた。このため富子は一時権力を失った。しかし延徳元年(1489年)に六角高頼討伐(長享・延徳の乱)で遠征中の義尚が25歳の若さで没した。息子の急死に意気消沈したが、富子は義視と自分の妹の間に生まれた足利義材(後の義稙)を将軍に擁立するよう義政と協議し、同年4月に合意が行われた。延徳2年(1490年)正月に義政が没すると、義材が10代将軍となった。しかし後見人となった義視は権力を持ち続ける富子と争い、富子の邸宅小河邸を破壊し領地を差し押さえた。翌年の義視の死後、親政を開始した義材もまた富子と敵対した。
明応2年(1493年)、義材が河内に出征している間に富子は細川政元と共にクーデターを起こして義材を廃し、義政の甥で堀越公方足利政知の子足利義澄を11代将軍に就けた(明応の政変)。その3年後、明応5年(1496年)に57歳で死亡した。
備考
- 戦乱で苦しむ庶民をよそに巨万の富を築いた「悪女」「守銭奴」と評される事も多く、夫の義政が東山山荘の造営のため費用捻出に苦心していたときは、一銭の援助もしていない。一方で、火災で朝廷の御所が焼け、修復するため膨大な費用が必要になったときは自身の蓄財から賄ったりしていた。幕府財政は贈答儀礼や手数料収入などに頼ったものに切り替わりつつあり、富子の蓄財もその文脈で考える必要があるとも指摘されている。
- 学問にも熱心であり、関白一条兼良に源氏物語の講義を受けている。将軍家御台所とはいえ、関白が女性に講義をするのは異例であるが、富子はこのために莫大な献金を行っている。
- 遺産は7万貫(約70億円)に達していたという。だが、その活動に対する庶民からの評価は決して高くなく、お金儲けに熱中した悪妻と囁かれた。
- 義尚の急死とそれに続く義政の病没によって、幕府内部が動揺する中で40年近く幕府とともに歩んできた富子は「御台」として引き続き幕府内部に大きな影響を与えてきた。明応の政変における将軍追放も「御台」富子の支持があって初めて可能であったと言われている。
- 応仁の乱の原因として義尚の後見人を宗全に頼んだことが挙げられるが、近年の研究で応仁記が記した虚構ではないかとされている。理由として、富子が宗全に依頼した出来事は応仁記以外の記録には見当たらず、義尚が生まれる前に宗全が諸大名と連携、その中に義視がいたことが挙げられている。
- 近年ではフェミニズムの影響を受けた女性史家や女流作家によって、実状とかけ離れた有能な女性政治家として表現されることもある。いずれにせよ、公正な評価が難しい人物と言える。
墓所等
- 墓所:京都市上京区の華開院に富子のものと伝わる墓が存在する。
- 木像:京都市上京区の宝鏡寺所蔵。
戦国武将 後藤但馬守と柴田勝家
1.はじめに
・近江の城郭 立地としての特質、街道と郡、生産性
・中世城館の在り方と区分 山城と平地館 在地領主(荘域支配)と村落領主(村落支配)
2.後藤氏館跡
・立地と現状から見た特徴 規模からみた性格(100m×120m・堀幅8m)、蒲生野の用水など
・発掘調査結果について 平安から鎌倉初の遺構、遺物は室町後期中心
3.後藤氏について
・後藤氏の系譜 記録類から見た後藤氏
・後藤但馬守とは 職としての国司名、複数の但馬守
4.後藤氏の活躍とその背景
・蒲生野の開発 羽田の跳ね井戸
◇東近江
東近江市の平田地区まちづくり協議会の「まなび塾」は、十九日午後二時から平田コミュニティセンターで元滋賀県安土城郭調査研究所長の近藤滋氏を講師に迎えて「戦国武将 後藤但馬守と柴田勝家」をテーマに開催する。
佐々木家筆頭家老の後藤但馬守賢豊(たかひろ)の力を恐れた佐々木義弼(よしすけ)による謀殺を発端に、佐々木氏は衰退して織田家に滅ぼされる。同市中羽田町に残る後藤館跡、長光寺城などの話を交えながら地域の歴史について語ってもらう。