城郭探訪

yamaziro

近江の甲良庄 三大偉人

2012年09月19日 | 歴史講座・フォーラム

甲良三大偉人

http://www.kouratown.jp/town/town01_03.html

■足利尊氏の知将として活躍したバサラ大名 http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/40b8f0c49ba72cfb2aec28490f401d1e

                              http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/0ab108c06826ee7c334b67d7f99aaa9f
■津城32万石余の大大名となった名築城家 http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/06decefc9ab523b577634296817fd857
■日光東照宮の寛永大造替の大棟梁      http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/05dbe3801c189a4fd64e3afc33f0cfdf

 

足利尊氏の知将として活躍したバサラ大名

佐々木道誉(1296~1373) 勝楽寺

佐々木道誉今から約700年前に滋賀県坂田郡山東町(現米原市)に生まれた道誉は、41歳の時甲良町勝楽寺に移り住み勝楽寺城を築いた。
理由は京都の事変にすぐ応えるためであり、勝楽寺城は戦闘体制に適した土地であったからだ。
以降、鎌倉幕府の滅亡と南北朝、足利尊氏の室町幕府擁立に 活躍し、78歳で生涯をとじるまで勝楽寺を拠点とした。

エピソード1  ~ バサラ大名といえばこの人 ~
バサラ=婆娑羅とは、室町時代の流行語で「遠慮なく勝手気ままに振る舞う、派手な人」のことをいう。
この時代道誉はどんちゃん騒ぎを好み、自由奔放でバサラ大名の典型といわれていました。
特に京都の妙法院事件は有名である。
道誉の部下がこの寺の紅葉の美しさに思わずその枝を折ったことを理由に、僧に痛めつけられた。
これをきいた道誉は怒り、自ら200余りの兵を引きつれて、寺に火を放ったのである。

エピソード2  ~ じつは教養ある文化人、道誉 ~
バサラ大名といえども道誉はけっして無節操に勝手な振る舞いをしていたわけではない。
一見自由奔放に見えても道誉の行動には一本の筋が通っていた。

そのひとつが足利尊氏に対する忠実心で、もうひとつは日本の古典芸術・茶道、華道、能楽、連歌などを奥深く極めたことである。
歌集では最初の連歌撰集に道誉の81首が入り、茶の世界では道誉が選んだ茶器の中には近世になって信長や秀吉によって受け継がれた名器がある。
また能楽や狂言の保護と育成に力をそそいだ。バサラ大名道誉は、後世日本芸能の元祖といわれる教養文化人でもあった。

 
 

津城32万石余の大大名となった名築城家

藤堂高虎(1555~1630) 在士

藤堂高虎天文24年(1555)、現在の甲良町在士に生まれる。
45歳の時、関ヶ原の戦いで家康に従軍し、功績をたて今治(現愛媛県)20万石の城主となる。
以後、 丹波篠山城・亀山城(京都府)の普請奉行に任ぜられ、59歳で江戸城の普請奉行となる。
62歳の時、東照宮(栃木県)の縄張りの功績で32万石余の大大名 となる。
75歳でその生涯を終え、三重県津市に葬られる。

エピソード1  ~ 15歳にして191センチの体格 ~
生まれたとき乳母一人の乳だけでは足りず、家来の女房から乳をもらった。
3歳には餅を食べ、6歳で大人の食事をし、7歳で40キロの荷物を持ち、元服の15歳には背丈が191センチもあったたくましい子どもであった。

エピソード2  ~ 誠意ある人柄 ~
生涯を通じて誠意を尽くす人であった。
若い頃仕えていた浅井家の滅亡後、豊臣秀吉の異父弟秀長に仕えたが、秀長とその子秀俊の死後、出家(僧になる)まで しようとした。
また、特に尽くした徳川家康にも、死後も奉公すると家康と同じ天台宗に宗派をかえたのも見事な献身ぶりといえる。

エピソード3  ~ 築城土木の天才 ~
高虎は築城工事にも優れていた。
秀吉時代は伊予大洲城、宇和島城、家康時代にはヨーロッパの技術を取り入れた今治城、二条城、石垣技術を生かした大坂城 (再建)、そして城主となった津城、日光東照宮などである。
家康の命で日光東照宮の大棟梁(責任者)になった甲良豊後守宗廣は高虎と同じ甲良町出身であ る。高虎45歳、宗廣28歳の時であった。

 
 

日光東照宮の寛永大造替の大棟梁

甲良豊後守宗廣(1574~1646) 法養寺

甲良豊後守宗廣豪華壮麗、世界に誇る近世日本建築を代表する日光東照宮は、寛永の大造替によって完成したもので、甲良豊後守宗廣を大棟梁(責任者)として造営したもので ある。
その甲良宗廣は甲良町法養寺で生まれ、甲良家はもともと社寺の建築を担う大工をしていた。
30歳の時、宗廣は幕府に呼ばれ、江戸の僧上寺造営の棟梁 をはじめて務め、その後彼の業績が後世に伝えられる日光東照宮造営の大棟梁となったのである。

エピソード1  ~ 宗廣と甲良大工一門の匠の粋 ~
東照宮ははじめ、宗廣と同じ甲良出身の藤堂高虎が作事奉行として造営されたが、その後徳川家光の命により大造替工事の大棟梁に宗廣が呼ばれた。
総工費56万8千両、1日総延べ参加人数453万人、まさに徳川幕府の威信をかけた大工事は、わずか1年5ヶ月で絢爛豪華な現在に見る日光東照宮として完成した。
宗廣をはじめ、その子、その孫、そして甲良大工一門が総力を挙げて参加し、造りあげた匠の粋で群を抜いた才能の現れである。
ときに宗廣63歳のことである。

エピソード2  ~ 宗廣のとりもつ縁で・・・ ~
宗廣と藤堂高虎がとりもつ縁で、甲良町は昭和52年日光市と姉妹提携を結び、以来教育・文化・経済などの交流を通じ、お互いの友好と理解を深めている。
甲良町役場隣に建立されている宗廣の銅像と同じ像が日光市東照宮境内に建立されている。

本日も訪問ありがとう、ございます!


湖灯塾「近江・三成伝説~県内に残る足跡をたどって」20120915

2012年09月17日 | 歴史講座・フォーラム

 石田三成の実像語る 佐和山城研究会・田附代表

石田三成の肖像画をスクリーンに映して話す田附さん(近江八幡市出町・湖灯ホール)

 「近江・三成伝説~県内に残る足跡をたどって」京都新聞湖北・湖東総局(近江八幡警察所のななめ向かい)で、佐和山城研究会代表田附清子氏の講演会!13:30~無料 。

京都新聞滋賀本社主催の講演会「湖灯塾」(滋賀中央信用金庫協賛)が15日、近江八幡市出町の京都新聞湖東・湖北総局湖灯ホールで開かれた。滋賀県にゆかりの深い武将石田三成の実像を「佐和山城研究会」代表の田附清子(たづけすがこ)さん(50)が語り、大河ドラマや小説で悪人に描かれがちな三成のイメージに疑問を呈した。

 三成が領内に発布し、地域で現在まで大切に保管されてきた掟書(おきてがき)を紹介。年貢を代官が農民と一緒に決め、直訴も許していた点を挙げ、「農民の生活の安定をまず考えていた」と名君だった側面を紹介した。

 また、三成が失敗して「戦下手」と評される根拠になった「忍城(おしじょう)の水攻め」について、豊臣秀吉の水攻め指示に三成が当初反対していたとする説を紹介。「賤ケ岳の戦いでも一番槍(やり)の戦功を挙げている」とし、戦下手説を疑問視した。

 最後に、関ケ原の戦いで敗れた三成が逃走した滋賀県北部の足跡をスライド写真でたどり、「(三成の悪いイメージは)江戸時代の徳川家中心の史観で形成された。地域に残る三成の逸話、伝説の中に本当の歴史があるのでは」と結んだ。

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20120915000099

湖灯塾「近江三成伝説」20120915

 

 

古記の伝える三成像は「色白く、痩せしなり。目大きくまつ毛長し‥髪は女のごとし(淡海日記)」

関ヶ原合戦にて敗れた石田三成‥京都・六条河原で打ち首となり、三条大橋のたもとにさらされたあと、大徳寺三玄院に埋葬されました。
その遺骨が見つかったのはそれから307年後の明治40年(1907年)10月でした。

大徳寺の墓地改装の際に三成の墓が発掘され、頭蓋骨、大腿骨、上腕骨などの骨が出てきました。同時に1本の「小づか」も発見されました。小づかとは打ち首にあった人を埋葬する時に首と銅をつなぐためのものです。
京都大学で、破損のひどい頭骨をたんねんにつなぎ合わせて復元し、同時に、頭蓋骨の石膏模型を作りました。「復願」をする為にです。復顔と呼んで字のごとく顔を復元する作業で、西洋では有名な人物達で行った例があったそうです。しかしこれはこの時は行われなかったのです‥
石膏模型が展覧会中に行方不明となってしまったのです(盗難にあったものと思われます)。ただ救いは頭蓋骨の計測値と写真などの資料が残っていたことです。月日は流れ復顔が行われたのは昭和51年の事でした。それによると石田三成の特徴は‥
■骨格は女性と間違う位華奢で線病質と思われる。
■顔は細顔で頭は前後にでた木槌頭である。
■鼻は高い。鼻筋の通った優男タイプ。
■反っ歯(そっぱ)であった。
■試算によると身長は156㎝。

石田会館

[1]三成の顔

①津軽・杉山家所蔵(江戸期)

【三成の次男・重成が佐和山落城を¥ご、津軽藩を頼って青森に落ち延び杉山家を興す。その杉山家に伝わる三成の肖像画】

裃(かみしも)の家紋が「大一大万大吉」の紋である

②彦根・龍潭寺所蔵(明治期)

「関ヶ原合戦300年後の法要で、三成を捕縛した田中吉政の末裔が供養のために描かせたもの」

③三成の頭骸骨と復顔像

【京都・大徳寺三玄院にある三成の墓を明治40に発掘した時の頭蓋骨】

※出土骨の鑑定より

  1. 優男の骨格(女性の骨のようである)
  2. 頭の形は木槌頭(さいづちあたま)=長顔
  3. 反り歯で歯は腺病質(神経質)をあらわしている
  4. 没年齢41歳相当
  5. 四肢骨より資算すると身長156Cm

 【頭蓋骨を元に昭和51年に復顔された三成の顔】

[三成の出目]

関ヶ原で敗れた三成は、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。

しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。

石田三成隠岩窟探訪 1

 

 

 

石田三成関ヶ原の合戦で敗れて、母の実家へ・・・オトチ洞窟探訪京へ護送される休止の際につながれた樹で、樹齢600年超の大津・膳所の和田神社のいちょう

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


紫香楽宮フォーラム20120909

2012年09月09日 | 歴史講座・フォーラム

聖武天皇と紫香楽宮の985日」 ~朕、近江国甲賀郡紫香楽村ニ行幸セン~

今年は、天平14年(西暦742年)に聖武天皇が紫香楽に行幸してから1270年にあたり、また、発掘調査が開始されてから30年目を迎えます。紫香楽宮では奈良の東大寺に先駆けて「大仏建立の詔」が発せられ、天平17年には正式な首都とされましたが、その後短期間で役割を終えた幻の宮です。30年にわたる地道な発掘調査による考古学的成果と文献資料の調査によって、その規模・内容は想像をはるかに超えたものであり、万葉歌木簡の発見など数多くの歴史的成果があがっています。
今回の企画展では出土品やパネル展示によりそれらの成果を紹介します。普段目にすることのできない大型の展示品(北黄瀬遺跡出土井戸枠・柱根・模型等)も一堂に会しますので、この機会にぜひ足をお運びいただければ幸いです。
期間中、歴史フォーラムや特産品PR展、和同銭造りの体験学習も開催します。  →チラシはこちら

鍛冶屋敷遺跡(甲賀市信楽町)出土の梵鐘鋳型(中子)が新たに滋賀県指定有形文化財になりました。ご来館の際にはご覧下さい。当館で展示しております。(2003年8月~)


石垣から構造が見えた 観音寺城跡の調査 報告と考察

2012年05月12日 | 歴史講座・フォーラム

=7メートル級の高石垣など まるでマチュピチュのよう=

観音寺城石垣調査の報告と新説を含めた研究発表を行った講座――県立図書館大会議室で――

◇近江八幡
 県教委文化財保護課はこのほど大津市瀬田南大萱町の県立図書館で開いた講座「観音寺城の石垣を探る 史跡観音寺城跡石垣基礎調査の成果」で、平成二十年度から二十三年度まで四年間の石垣基礎調査の成果と、それを元にした観音寺城の構造についての新しい見方を報告した。

 上垣幸徳副主幹は「観音寺城の石垣――史跡観音寺城石垣調査の成果――」で、観音寺城の大きな特徴の一つである石垣の場所・形態・数量などの調査結果を報告した。
 調査は、今後の研究のベースとなる基礎データづくりのためのもので、観音寺城跡約二百五十九万平方メートルで踏査と発掘調査を行った。
 観音寺城跡のある繖(きぬがさ)山全山で九百四十八か所の石垣を確認。山塊中央部分に約五十五%(五百二十二か所)が集中し、桑実寺・宮津口付近に約二十九%(二百七十六か所)、意外だったのが繖山南側の鳥打山西側斜面の約十六%(百五十か所)。石寺地区は史跡指定外で今回の調査では対象から外れた。

 鳥打山西斜面には一段高い道「すばせ」の両側に石垣をもつ造成地を確認することができた。ここは桑実寺から遠く、観音寺城からからの延長とも考えにくい。「信長公記」に鳥打山に屋敷地造成の記述があり、安土城の時代のものと評価できなくもないが、石垣の状態から安土城のものよりは古いので、観音寺城の出城ではないかと推考した
 発掘調査は二十―二十二年度に埋没した石垣の掘り起こしを行った。本丸付近で平坦地や通路の石垣、観音正寺から本丸への通路の石垣などを確認することができた。
 今回の調査では、対象外となった石寺地区や繖山南側斜面の石垣の把握や、新しい石垣の中に古い石垣など今まで想定していなかった部分に石垣が出てくる可能性など、今後の課題も見えてきた。
 踏査・発掘調査の成果を今後どのように 観音寺城跡を保存して、管理して、活用していくかを考える上での第一歩にしたいと締めくくった。

 仲川靖主幹は「観音寺城の構造――主として石垣よりみて――」で、今回の調査成果から、繖山にそびえ建つ観音寺城の姿を浮かび上がらせた。
 これまで観音寺城は「攻めやすい城」「城らしくない城」などと評価を受けていたが、その築城課程を眺めるとそうではなく、城郭のセオリーを守って防御に徹している城であることがわかった。
 観音寺城の石垣の特徴は、同じ大きさの石を縦に重ねる「重ね積み(重箱積み)」、城や郭の防御機能をもつ入り口となる「虎口」外側隅角に大石を使う、三メートルを超える高石垣の分布(最大七メートル)などにあり、縄張りの外郭ラインを東山道から見ると石垣がそびえ建つ「ペルーの世界遺産マチュピチュ」のように見えたのではないかと、視覚的にとらえた。

 虎口・石垣・尾根筋の郭をつなぐとその構造は、三国丸を中心(ピーク)とする馬蹄形で、従来の城の形に合致することを強調した。
 また、各郭に虎口があって、それぞれが独立していることから一見「梯郭(ていかく)式」(本丸を城郭の片隅に配置し、周囲の二方向、三方向を他の郭で囲む縄張)に見えるが、「六角氏式目」を踏襲した独立した配置になっているとした。

 東端には布施淡路丸を中心とする出丸郭群があり、南側に続く造成団地のような一番おかしな構造体部分は、ある時期に後藤・進藤邸などが順次追加され、信長の時代にこのような形になったと考える。

 天下の名城とうたわれる安土城の築かれた安土山を見下ろす繖山に、安土城より先に石垣をもって築かれた観音寺城。そのスケールと歴史は安土城の比ではない。中世五大山城に数えられるだけに、その調査研究が日本城郭史研究にもたらす影響は大きい。
 講座参加者は今回の報告が、今後の調査・研究へのひとすじの光明となることを確信した。


織田家の菩提寺 見寺 所蔵名品で信長しのぶ

2012年05月10日 | 歴史講座・フォーラム

 

=安土城考古博物館でテーマ展=

近江国蒲生郡安土古城図

◇近江八幡
 織田信長が安土城築城時に建立し、その後も織田家菩提寺として信長ゆかりの品々や関係資料などが伝えられている見寺の所蔵品を通して、信長をしのぶテーマ展「そう見寺所蔵名品展」が、近江八幡市安土町下豊浦の県立安土城考古博物館で、信長の命日の六月二日に合わせて、開かれている。六月五日まで。
 国の重要文化財「永楽据紋銀象眼鉄鐔(えいらくすえもんぎんぞうがんてつつば)」をはじめ、市指定文化財では信長のものと伝えられている「陣羽織」や、安土城跡の一番古い絵図とされる「近江国蒲生郡安土古城図」など、十点を展示する。
 同館は月曜日休館。入館料は大人四百円、高校大学生二百五十円。問い合わせは、安土城考古博物館(TEL0748―46―2424)まで。

http://www.shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0010171ファイル:Azuchi Town Sokenji Tower.jpg

安土城の見寺の三重塔(重要文化財)
所在地 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6367
位置 北緯35度9分15.20秒
東経136度8分22秒
山号 遠景山
宗派 臨済宗妙心寺派
創建年 天正年間(1573年 - 1591年
開基 織田信長、剛可正仲(伝・開山)
札所等 江州三十三観音25番
文化財 三重塔、二王門、金剛力士立像、鉄鐔(重要文化財)

 


「城跡から探る永源寺の戦国時代」

2012年02月24日 | 歴史講座・フォーラム

ふるさと文化体験学習館(市原野町)で二十四日午後七時半から歴史講演会「城跡から探る永源寺の戦国時代」が開かれる。中井均・県立大学准教授を講師に招き、一色城、和南城、高野城を中心に同地区の戦国時代を読み解く。受講料百円(資料代)。

中井均・県立大学准教授を講師

レジュメ・・・

城跡から探る永源寺の戦国時代・・・一色城・和南城・高野城を中心に・・・

◆はじめに

・今、お城が白い⇒14世紀から17世紀の300年間に日本列島で約3~40,000カ所も築かれる【中世は大築城】

・古代の城は国家が築城、中・近世は武士階級が築城

・戦国時代の城は「土」から「成」もの⇒土木(普請)施設

◆近江の城 

永源寺町内の中世城館跡分布図

城跡周辺図・高野館遺跡(お鍋の方の屋敷=信長の側室)の石垣

高野館遺跡検出遺構平面図

和南城跡の縄張り概要図「石井 均作図」2012.1.12踏査

 講聴者約60名

     本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!