城郭探訪

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草津宿本陣    近江国(草津)

2014年09月19日 | 陣屋

草津宿本陣<昭和24年7月31日 国史跡に指定>

お城のデータ 

所在地:草津市草津1丁目2   maphttp://yahoo.jp/JFZdrG

現 状:草津宿本陣

区 分:本陣

築城期:江戸期

築城者:徳川幕府

遺 構:草津宿本陣 

目標地:草津宿本陣

駐車場:草津宿本陣駐車場

訪城日:2014.9.18

 

草津市は、日本で唯一江戸時代の主要な5街道(日光・奥州・甲州・中山道・東海道)の内の東海道と中山道の分岐合流点にある重要な宿場であり、大勢の人々や物が行き交う賑わいを見せていました。

 この草津宿本陣は田中七左衛門の本陣で寛永12年(1635年)から明治3年(1870年)までの間幕府の公用の役人、大名、宮家、門跡、公卿、高僧などの休泊施設でした

 宿帳には元禄12年(1699年)7月4日に浅野内匠頭が7月14日には吉良上野介が宿泊、慶応元年(1865年)には新選組の土方歳三など総勢32名が、文久元年(1861年)には14代将軍徳川家茂に嫁ぐことになった皇女和宮さまが、江戸へ向かう途次、御昼休をとられたほか、ドイツの博学者シーボルトが宿泊した記録が残っています。


JR草津駅東口より徒歩約10分

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!

 


高木陣屋  近江国(甲西)

2014年09月15日 | 陣屋

お城のデータ

所在地:湖南市(旧甲賀郡甲西町)平松    map:http://yahoo.jp/sgduar

現 状: 宅地

遺 構::曲輪跡・J

区 分:陣屋

築城期:江戸 期

築城者:

城 主 

目標地:平松公民館

駐車場:平松公民館無料駐車場

訪城日:2014.9.13

高木陣屋(個人宅) 裏門

お城の概要

旧東海道に面した、高木陣屋跡、今は個人宅だが周囲と違い関門に石垣塀(近年の造作)、また裏門にも石門が。

旧東海道

天然記念物美松(うつくしまつ)自生地・・・平松公民館敷地内平松公民館

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、

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朽木主膳陣屋   近江国(近江八幡)

2014年08月24日 | 陣屋

お城のデータ 

所在地:近江八幡市玉木町2丁目     map:http://yahoo.jp/DRtBAL

現 状:民家

遺 構:

区 分:陣屋(代官所)

築城期:江戸期 元禄11年(1698)以降

築城者:朽木主膳

城 主:朽木則綱・直綱・紀綱・長綱・綱弘

城 域:南北約70m×東西約50m四方

目標地:玉木バス停

駐車場: 路上駐車場

訪城日:2014.8.20

お城の概要

名門朽木氏一族、旗本の代官所。朽木主膳陣屋は、江戸中期に置かれた旗本の代官所である

秀次の城下町(玉木町)に、江戸期に飛び地の陣屋が置かれ、現在は民家が建替えの工事中、遺構や街並みも更新される。

場所は玉木バス停西側の一画で、規模は南北約70m×東西約50m四方と考えられている

福知山藩朽木氏庶流の代官所。
1698年、朽木則綱が近江国内に6千石の代官地を与えられ、その頃の築城と考えられる。
則綱以降、歴代の領主である直綱・紀綱・長綱・綱弘は代々「朽木主膳」を名乗った。

1825年に同地一帯が天領となったため、廃城となる。

城域は、現在の玉木町バス停付近とされる。 南北約70m×東西約50mの規模があったと考

歴 史 

朽木主膳陣屋は、福知山城主朽木氏から派生した分流朽木氏が旗本として代官所を構えた地である。

朽木氏は、近江守護佐々木氏から六角氏や京極氏と共に分かれた高島氏から、更に派生した高島七頭の1つに数えられ、朽木庄を本拠として代々将軍家に仕えた。

戦国末期には朽木元綱が信長・秀吉・家康の三英傑に従い朽木藩を維持した。元綱の死後の遺領は3子に分知されたため、朽木宗家を継いだ嫡男宣綱は大名の資格を失ったが、交代寄合の旗本として6470石で朽木庄を継いだ。

そのうち3男稙綱には1100石余が与えられたが、のちに将軍家光に重用されて、下野鹿沼藩や常陸土浦藩を与えられ宗家を上回る大名に取り立てられた。
稙綱の子稙昌の時、福知山32000石に移封された。

稙昌の死後、遺領の一部である3000石が次男則綱に分与され、則綱は将軍家綱・綱吉に仕えて元禄11年(1698)近江国蒲生・栗太・野洲3郡内に6000石を与えられた。

朽木主膳陣屋が築かれた時期は定かではないが、則綱ののち直綱・紀綱・長綱・綱弘は代々主膳を名乗っている。また代々朽木氏は、旗本として江戸芝の西久保に屋敷を構えていたので、陣屋では代官が政務を司っていた。

文政8年(1825)綱弘の子綱常の時に陣屋のあった八幡町の中心地は天領となり、その代償として郡内木村及び下小房村を与えられ、陣屋は信楽代官所に引き渡された。

宝永五年から文教九年まで全市が朽木領となった

朽木綱常は天保年間(1830-43)、同じ八幡町内の北ノ庄村に新たに朽木和泉守陣屋を築き、陣屋に代官を配置し明治に至った。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、日本城郭体系11

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大徳寺(家康宿所) 近江国(水口)

2014年08月14日 | 陣屋

家康も上洛の際に水口に宿泊する時は大徳寺に宿泊。

画像

お城のデータ

所在地:滋賀県甲賀市水口町本町 map:http://yahoo.jp/RvcV9B

現 状:寺院

遺 構:家康が腰掛け石、甲賀騒動義民慰霊五輪石塔

区 分:御茶屋御殿

開 創:1588年

築城者:豊臣氏(中村式部少輔一氏)

開 基:中村式部少輔一氏

開 山:叡誉上人 

目標地:大徳寺

駐車場:水口大徳寺駐車場http://yahoo.jp/33mkhD

訪城日:2014.8.13

山門画像本堂

お城の概要

元は禅宗の林慶寺と言ったが天正16年岡山城主中村一氏が同寺を香花院と定め、小田原の大蓮寺の僧叡誉に寺の建造を依頼し、浄土宗に改め浄慶寺と号しました。

  その後、僧叡誉が家康の幼児の学問の先生だった関係から、関が原の戦いの後、この寺に来て寺領29石余と金品等を寄付し、家康の「家」と松平の「松」の各1字をとって「家松山」と号せしめ、堂の増築もさせました。

 家康も上洛の際に水口に宿泊する時は大徳寺に宿泊をしました。慶長7年(1602)家康が当寺の2世岌誉の法話を聞き香木と法服を与え大徳寺と改めさせました。

 慶安2年(1649)三代将軍家光前例により寺領の永代免除朱印を与えました。江戸時代に2度、昭和に1度火災の難にあっています。

 山門の前の石垣はめずらしい積石法(植石伏)で小堀遠州の作といわれています。

 門を入って右の鐘楼前にある石は、家康が腰掛け叡誉上人といろいろ話し合ったと伝えられています

また境内左隅に大きな五輪塔は第17代僧光誉が刑死者の霊を憐れみその冥福を祈ろうとして弘化元年(1844)に建立したもので「世に尽くす甲賀の民のまごころのかたきしるしの石のあららぎ」と詠まれています。

なお、水口岡山城主長束正家と正妻栄子姫の遺児は、仏門に入って大徳寺の3世の還誉上人(岌閑)に栄進し、北脇に栄照寺を建て父母の霊を弔ったといわれています。

鐘楼前にある石は、家康が腰掛け叡誉上人といろいろ話し合ったと伝えられています

1842年に起こった甲賀騒動の義民の慰霊石塔があり、甲賀の民の赤心に現在も追悼会が営まれている。
<世につくす甲賀の民の赤心のかたきしるしの石のあららぎ>

画像甲賀騒動義民慰霊五輪石塔

歴 史

最初は禅宗の林慶寺であったが天正16年8岡山城主中村一氏が同寺を香花寺と定め、小田原の大連寺の僧「叡誉」に寺の建造を依頼し、浄土宗に改め浄慶寺と号した。
大徳寺と徳川家康との縁は深く、開山の叡誉住職が家康の重臣本多平八郎の伯父だった関係から、家康は上洛に際して水口に宿泊し家康の「家」の字と松平の「松」の字をとって「家松山」の山号を賜り、また慶長7年(1602)、第二世叡誉のとき大徳寺の寺号や香木、寺領等を寄進して大徳寺と改めさせた。大徳寺の寺紋は、徳川家の定紋である葵(あおい9を入れた立ち葵であり、山門には徳川家紋の三葉葵が刻まれている。
また、山門の前の石垣は珍しい積石法で、小堀遠州の手法といわれる。
境内には、鐘楼の傍らには「家康の腰掛石」、天保義民を弔う「五輪塔」が建つ。
1585年秀吉の命により中村一氏が甲賀支配の拠点として水口岡山城を築き、3代にわたって岡山城は続いたが1600年関ヶ原の戦いで西軍が

敗れると同時に廃城となっている。
1588年中村氏の菩提寺として浄慶寺が開創され、以降3代の岡山城主の菩提寺となっている。
1600年徳川家康が上洛の際、家康幼少時に教えた叡誉上人に会うべく浄慶寺に立ち寄り、家松山の山号を与えている。
1602年大徳寺と改名している。


寺名:大徳寺(だいとくじ)

山号:家松山 

宗派:浄土宗

開山:叡誉上人 

開創:1588年 

本尊:阿弥陀如来

石 塔:甲賀騒動義民慰霊五輪石塔

参考資料:甲賀市誌

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羽田陣屋 近江国(八日市)

2014年08月05日 | 陣屋

 

仙台藩代官屋敷の大庄屋敷の長屋門が現存。

 

仙台藩代官屋敷…羽田陣屋近くに長屋門『大庄屋久保屋敷』

長屋門の内側門を入ると、正面に止め石!

長屋門『大庄屋久保屋敷』の表札(読めませんが)

 

 

羽田陣屋跡と遠景(雪野山城=木の向こう・・・後藤屋敷の詰め城)

お城のデータ

所在地:東近江市上羽田町 (旧八日市市上羽田町)    map:http://yahoo.jp/hjPmgf

現 状:田畑、宅地

遺 構:長屋門・大庄屋屋敷(末裔がお住まい)

区 分:陣屋

築城期:江戸期

築城者:仙台藩伊達氏

 

目標地:羽田神社

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.7.31

お城の概要

近江の羽田陣屋は江戸期に仙台藩の飛び地の管理の為に、羽田南方に寛文四年(1664)に創建された仙台藩屋敷で陣屋。敷地は東西54m・南北133.2mの煙硝蔵を持つ大規模なもの。

正保年間に近江国内の陸奥仙台藩領を管理するため置かれた陣屋で、明治初年に廃止された。

30間余、横70間余の敷地は矢来で囲まれ陣屋のほか兵具蔵・焔硝蔵・囲穀蔵・大庄屋会所・門番宅があった。現在は宅地や田畑になっている。

現在は集落の羽田神社より跡地は宅地・田畑の改変され、往時を偲ぶことは出来ない。

 

 

【万石堤と50年の森】

遺 構:土塁状の万石堤・現地説明板

駐車場:八日市福祉センター(ハートピア)の駐車場

ハートピア入口に説明板

今崎と今堀の村境を流れる蛇砂川は天井川で何度も反乱を起こしていました寛政三年(1791)八月の水害では、多くの家屋や田畑が浸水したため、住民は仙台藩に救助を願いでました。そこで、川の北側にある森を遊水地として、これを取り囲む五尺(約1.5m)、長さ三百六十間(約650m)の土手が築かれました。

  六十二万石の仙台藩が造ったので万石堤と呼ばれています。太平洋戦争中、八日市飛行場が拡張されたため、堤の大半は壊されて、今はその一部は八日市福祉センター(ハートピア)の北側に残っています。 中野地区まちづくり協議会(現地説明板)

  尚、仙台藩の陣所は東近江市(旧八日市市)上羽田に置かれいました。

残された万石堤と50年の森(川の北側にあるを遊水地)は荒廃・ゴミ捨て場と化していたが、2013~4年に中野地区まちづくり協議会によって整備され市民の憩いの場として生まれ変わりました。

歴 史 

仙台藩の陣所は東近江市(旧八日市市)上羽田に置かれいました。

江戸時代、仙台藩(62万石)伊達氏の飛び地(領地)であったため、万石堤と呼ぶ。  ハートピア入口に説明板 仙台藩は、江戸時代に主として現在の宮城県全域と岩手県南部(北上市まで)および福島県新地町を領地とした藩である。旧字では[仙臺藩。 居城は現在の仙台市にある仙台城で、石高は62万石。江戸時代全期を通じて外様大名の伊達家が治めた。知行地には茨城県・滋賀県に数か所の飛び地があった。

江戸時代を通じて外様大名の伊達氏本家が治めた藩であり、伊達藩と呼ばれることもある。

関ヶ原の戦いの功績により、慶長5年(1600年)に刈田郡3万8000石の加増を受けるが、政宗は不服を訴え続け、慶長6年(1601年)には近江国蒲生郡内5000石、慶長11年(1606年)には常陸国信太郡、筑波郡、河内郡内1万石、寛永11年(1634年)には近江国蒲生郡内5000石の加増を勝ち取った。この結果、陸奥国内の一円知行地に60万石、陸奥国外の飛び地として近江国に1万石、常陸国に1万石で合計62万石となり、これが幕末までの仙台藩の基本的な石高となった。

飛び地の近江国

旧  国郡     名継目判物旧高旧領取調帳
村数石高(表高)村数   石高(内高)
近江国 蒲生郡之内 18 8,842.794 18 12,220.49600
野洲郡之内 2 1,157.206 2 1,157.20600
小計 20 10,000.000 20 13,377.70200

近江国 - 蒲生郡と野洲郡とに9,999石2斗4升4合

蒲生郡内18ヶ村

  • 現・滋賀県東近江市の一部(青葉町石塔町市辺町今崎町今堀町沖野2丁目春日町上羽田町小今町幸町栄町昭和町聖徳町聖和町中野町西中野町東今崎町東中野町ひばり丘町蛇溝町八日市金屋1~3丁目八日市清水3丁目八日市野々宮町八日市東本町
  • 現・滋賀県近江八幡市の一部(桜宮町末広町鷹飼町出町友定町西生来町八幡町安土町内野安土町西老蘇安土町東老蘇
  • 現・滋賀県蒲生郡日野町の一部(北脇
  • 現・滋賀県蒲生郡竜王町の一部(橋本
  • 野洲郡内2ヶ村
    • 現・滋賀県野洲市の一部(市三宅小篠原) 

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、万石堤説明板

 

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宮荘清水ヶ井(しずがい)城 近江国(五個荘)

2014年07月10日 | 陣屋

近世には金堂陣屋の米倉が置かれていたお城。

お城のデータ

所在地:東近江市宮荘町     (旧神崎郡五個荘町宮荘)   map:http://yahoo.jp/cc79HD

築城期:

築城者:

現 状:グランド・宅地

区 分:平城(居館)

遺 構:

目標地:宮荘集落の北の表示板

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.7.9

内屋敷の周辺に

お城の概要

 清水ヶ井(しずがい)城は、中世城館調査報告書には「宮荘地区の西端にあるL字形に土塁が残ってる。」とあるが、現在は「宮荘草の根広場」となっていて、遺構は消滅していた。 

佐々木六角の居城観音寺城・和田山城・箕作山城・佐生城の本貫地の真ん中位置した居館。

周辺は、田地に改変され、グランド、宅地、田地に。

西に観音寺城、東に和田山城北に伊庭山(佐生城・仮称北須田山城・仮称伊庭山城)

歴 史

 清水ヶ井(しずがい)城、築城年代や築城者など詳細なことは定かではないが、

江戸時代に五個荘を領した大和郡山藩金堂陣屋の米藏が置かれていたと云われいる。地元では、「藏屋敷」と呼んでいた。今は位置の確認すらできない。

明治6年作成の「北荘村地券取調絵図」には、宮荘清水ヶ井遺跡南北1/3町・東西1/2町の長方形に土塁で囲まれ、西を除く三方には二重の、西には三重の濠を巡らせ形で表し、内部に建物二棟米藏。

神崎郡誌、宮荘村史より

三人衆塚

佐々木六角の近臣、宇野因幡守・辻伊賀守・川副兵庫助は北荘(現宮荘)に居住いた。

「野良田の戦い」に勝った浅井氏は赤田信濃守とはかり三人衆の寝返りを誘い、応じた三人衆と共に六角氏に敵対するも赤田信濃守と共に屋敷に籠城した浅井合戦について記している。

後に、大和国郡山藩の所領となり、米蔵があったと伝えられ、地元では「蔵屋敷」と呼ばれいた。

宮荘集落の北の表示板

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、五個荘町史

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


権吉屋敷 近江国(中主) 

2014年06月16日 | 陣屋

 

お城の概要

所在地:野洲市比江   (旧中主町)

現 状:比江自治会館・集落

遺 構:堀痕(集落水路)、土塁痕

区 分:

訪城日:2014.6.15

 

お城の概要

 

調査中

 

 

 

歴 史

 

調査中

 

  

集落の西部の土塁上に祠あり (物見櫓カ?)

     古い石積も、削岩です。

比江正蓮寺(真宗木部派) 下積石垣   

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 


服部陣屋 近江国(守山)

2014年06月14日 | 陣屋

壊れかけの移築門までは訪城者の歩いた道が。(門前に自転車・リヤカーが)

お城の概要

所在地:守山市服部町    map:http://yahoo.jp/g6gCtP

区 分:陣屋

現 状:空家敷、東側は竹林

遺 構:土塁、館跡、堀跡、移築門

築城期:江戸期【寛永12年(1635)】

築城者:上田重秀

城 主:上田氏

目標地:法泉寺、守山市埋蔵物センターの南約500m

訪城日;2014.6.13

服部陣屋は、高級旗本上田家5000石の采地陣屋である。

 服部の地は野洲川東岸に位置し、元々は野洲川本流と支流に挟まれた中洲であったが、近年支流は埋め立てられた。

服部町は、大きくは津田集落と服部集落に分かれていて、陣屋は服部集落あった。この集落全体が陣屋地であったと思われ、現在も三方を水路に囲まれた平方形をとどめている。遺構は土塁がらしきものは見当たらないが、外周の水路は堀跡、津田集落内に壊れかけた移築門が残っている。

林の中に建物は見えるが無住で荒れ放題で

  堀痕が周囲に残るが、宅地化で異形化している。

東側に土塁が残るが、土塁の内部は竹林(放置林)で確認出来ない

        

北東から遠景(林部に建物、竹林部に土塁が残る)南から南から遠景

服部陣屋は、高級旗本上田家5000石の采地陣屋である。

 初代・重秀が寛永十二年に賜った知行所は、近江国野洲郡内八ヶ村でした。

現在、守山市域に含まれる森川原、服部、立花、小浜、中主町に含まれる木部、比江、小比江、吉川の各村で、そのうち、木部、小比江は他の領主と相給でした。この辺りは、大名領や旗本の知行地が錯綜していた土地でしたが、拝領高が五千石、三千石、五百石というように整数で表されているのが特徴でした。

 別表の上田氏の知行所でも、斗、升、合まで細かい数を組み合わせて整数に仕上げていることに驚かされます。 また、幕末にはこの辺りの開発が進んで、表高に比べ実高が増加していました。上田氏場合でも天保二年の時点で、実高が五千四百四十石ほどになっており、四百四拾石の剰余がありました。軍役、助郷役をはじめ土木工事のに人夫などは、表高によって負担することになっていたので、領主、村人にとつても表高をずっと据え置くことは有利でした。そたのめ、この辺りでは新規開発された田畑を帳簿外としておく例が多くありました。

 

知行地

寛永高帳

元禄郷張

天保郷帳

旧高旧領帳

近江国野洲郡

森川原

555.213

555.213

555.213

555.213

服部

825.753

814.000

935.785

935.785

立花

369.328

369.328

370.324

370.324

小浜

586.250

586.250

587.470

587.470

木部の内

703.922

703.922

703.922

703.922

比江

1061.740

1061.740

1061.740

1127.346

小比江の内

164.154

182.340

182.340

182.340

吉川

733.640

744.457

1043.000

 服部の地は野洲川東岸に位置し、元々は野洲川本流と支流に挟まれた中洲であったが、近年支流は埋め立てられた。

服部町は、大きくは津田集落と服部集落に分かれていて、陣屋は服部集落あった。この集落全体が陣屋地であったと思われ、現在も三方を水路に囲まれた平方形をとどめている。遺構は土塁がらしきものは見当たらないが、外周の水路は堀跡、津田集落内に壊れかけた移築門が残っている。

 上田氏の場合も近江国野洲郡服部村に陣屋をおき、江戸から派遣した家来と現地採用の者で、その統治を行っていました。陣屋跡地は畑、民家、雑木林、産土神社の境内地などになっていました。そこには手水鉢、鏡石などが残されており、往事を偲ばせてくれま す。 また、近くにある法泉寺境内には上田家に仕え、この地で亡くなった家来の墓が数基残されています。

上田家服部陣屋跡地(2000年頃) 

歴 史

 上田氏の出自は、甲斐武田氏の支流盛義が信濃上田郷に住み、上田氏を名乗ったのが始まりとされる。

戦国期には丹羽長秀の家臣となり、長秀が没した重安(宗箇)の時に豊臣秀吉に仕え、越前国にて1万石を給わった。関ヶ原合戦は西軍に与したため領地を没収されるが、紀伊和歌山城主浅野幸長に招かれ、浅野氏が安芸広島移封後は亀居城17000石を与えられた。

上田重安の嫡男重秀は、将軍家光に召し出され、寛永12年(1635)近江野洲郡森川原・服部・立花・小浜・木部・比江・小比江・吉川の8ヶ村にて5000石の旗本に取り立てられた。次男の重政は浅野家に残り、その子孫は安芸浅野氏の家老職を世襲して明治維新を迎えた。

旗本上田氏は、のちに上地令により吉川村の替わりに武蔵国高麗郡に分地を拝領した。
以後旗本上田家は、江戸幕府の西丸御留守居・大目付・御留守居・御小性組番頭などを歴任し、高級旗本として10代続いて明治維新を迎えた

法泉寺駐車場(門前) 正面の林が「服部陣屋」

 法泉寺  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


守山城(守山陣所) 近江国(守山)

2014年06月13日 | 陣屋

江戸期の中山道守山宿、かつてはこのお城の城下町守山。

城郭の概要

 守山城は砦を持つ陣屋と考えられ、現在の大光寺と守山幼稚園から金森川にかけて、昭和30年代(1955)頃まで、土塁や竹藪、深い掘割がもこっていたが、今は不詳。(守山市志-地理論より)

所在地:滋賀県守山市守山1丁目 map:http://yahoo.jp/iHgjnZ

現 状:大光寺・守善寺・守山幼稚園・集落

遺 構:大光寺の石垣、内堀・外堀(用水路)

区 分:平城

城 域:5500坪

築城者:宇野一元

築城期:応永8年(1401)

目 標:大光寺

城 主:佐々木の一族種村道成、最後城主稲葉一鉄

訪城日:2014.6.14

 

 守山城は、現在の大光寺と守山幼稚園から金森川にかけての一帯に築かれていた。 城の遺構は何も残っていないが、城域は周囲より一段高くなっていて、昭和の中頃まで土塁跡や堀跡が残っていたとか。

  守山城は、現在の守山1丁目の大光寺・守膳寺・守山幼稚園とその東方集落一帯にあったとされている。ここ一帯は東方から流れてきた金森川が、大きく南方に弧を描き守膳寺西方へ抜け、城域の北側以外三方を囲むように流れている。
昭和40年以前までは付近に土塁や掘割が残っていたというが、現在は市街地化し遺構は確認できなかった。

 守山城という城名は全国各所にあり、尾張・越中・陸奥・伊豆・肥前・肥後などにも確認できる。
    (余談だが、大光寺は第75代首相宇野宗佑氏の墓がある)

歴 史

守山城は、応永8年(1401)に宇野一元によって築かれた。宇野氏は承久の乱(1221)以降栗太郡関津城を本拠として草津・守山地域に勢力を誇っていた。

 やがて六角氏の台頭により、一族の主流で神崎郡種村城主種村氏が城主となっていたが、永禄11年(1568)種村道成の時、織田信長勢の木下藤吉郎・池田信輝によって攻められ落城した。

 織田信長は近江平定後、京と岐阜との通路確保のため守山城を修築したと考えられる陣所を築き、美濃曽根城主稲葉一鉄を守将とした。この時、勝部城に稲葉貞通、浮気城に佐久間信盛が居城したという。 

 鐘楼の下石垣は遺構! 門前の石垣は、算木積みで整然と積んであり笑い積が三ヶ所も、見事でした。

大光寺・・・西側より

大光寺は第75代内閣総理大臣の宇野宗佑元首相の墓所にもなっている寺院。

守山城ですが、日本城郭大系でも軽くしか触れられておらず、天文年間(1532~1555年)に近江で勢力を張っていた佐々木六角氏が築城したとされ、永禄10(1567)年頃に稲葉右京貞通が守備をしていた頃に滅んだとされています。

時代的に、恐らく翌年の織田信長の上洛の際に攻撃されたものだと思いますが、この稲葉右京貞通は信長に仕え本能寺まで一緒にいたとされる人物のはずですが、いかがなんでしょうか・・・

恐らくは信長の命で、貞通が守山城を攻撃したとの誤記、もしくは説明不足だとは思いますが。

元亀元(1570)年に信長が本願寺衆徒と対立すると、勝部城、浮気(ふけ)城とともに信長が奉行を配置したと「金森日記抜」に記されているとのことです。

  現在は城の遺構は残されておらず寺院内も軽く見回しましたが、石碑、解説板はおろか、由緒書きのようなものも見つからず、本当に城跡だったのか。

 この守山駅西側は近代的に開発も進み、地形も変わっているが、現在は完全な平地。地図などを見れば水路なども多いので、往時は防御で強化されていた。

周辺に城跡が多い一帯ですので、それらと連携しあうことで軍事的な治安を維持していた。

中堀

中堀

中仙道道標

   

外堀

 

 


六条城 近江国(中主)

2014年06月08日 | 陣屋

お城の概要

所在地:野洲市六条町 (旧中主町六条)   map:

現 状:水田

区 分:平城

遺 構:堀(現在、用水路)地割図から。

築城期:

築城者:

訪城日:2014.6.7

 

城域西隣りの三之宮神社

: :城域よりも三之宮神社の方が城らしい。

六条城は、三之宮神社の道を挟んで東側の小字「政所」にあったと考えられる。

城域部分は周囲と地割りが異なっているが、定かではない。

どちらかと云うと、三之宮の周囲を取り囲む「神社土塁」の方が城らしい遺構に見える。旧中主町は、遺構が明確に確認できる城は少ない。近世に野洲川・日野川の下流域で、穀倉地帯。新田開拓で破壊されたカ?。

駐車は三ノ宮神社の参拝者用を利用

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』 、淡海の城

 本日も訪問、ありがとうございました。感謝!

 


今宿堀田陣屋 (甲賀・土山)

2014年05月29日 | 陣屋

八幡神社から東の「ホッタヤシキ」を望む・・・空き地。

所在地:甲賀市土山大野

現 状:空地

遺 構:なし(私有地で破壊カ)

築城者:堀田氏

築城期:江戸期

築城者:堀田伯耆守

訪城日:2014.5.27

今宿城の南、野洲川段丘沿いにある、八幡神社の東側は「ホッタヤキシ」と呼ばれる。「ホッタホウキノカミ」の屋敷と伝えられる。それは、元今宿城にあったものを、八幡神社の東に移ったと伝えられる。

         

 今宿堀田陣屋は、土山町大野のうち、今宿集落の国道を挟んだ南側にあったとされる。八幡神社が建つ東隣りで、現在の空き地である。

遺構らしきものはなく規模なども不明である。

歴 史

当初は北側にあった中世今宿城の跡地に屋敷を構えていたが、のち(江戸期)にこの地に移転したと伝わる。

宮川藩(長浜市)堀田氏13000石は、蒲生郡や甲賀郡に所領が点在していたため、各地に陣屋が設けられていた。

今宿村は、『元禄郷帳』に近江宮川藩領をあり、このホッタヤシキは、宮川藩堀田氏の陣屋である。

 

近江宮川藩は、近江国坂田郡宮川(現在の滋賀県長浜市宮司町)に存在した藩。藩庁は宮川陣屋。

藩史

藩主家は堀田家である。第3代将軍・徳川家光の時代に老中となった堀田氏初代正盛は、継祖母・春日局が乳母を務めた徳川家光が3代将軍となると近習に取り立てられ、家光から重用されて下総国佐倉藩12万石の大名にまで栄進した。正盛は家光の死去に伴って殉死し、子の堀田正信が跡を継いだ。

しかし正信は、万治3年(1660年)に老中・松平信綱と対立したため、所領を没収され改易となった。

 正信の嫡男・堀田正休は父の罪を許されて天和2年(1682年)3月に1万石の大名として復帰を許され、上野国吉井藩に封じられた。正休は元禄11年(1698年)3月7日に吉井から近江国坂田郡宮川に移封となり、宮川藩が成立した。

第3代藩主・堀田正陳は若年寄となって寛延元年(1748年)10月15日に3000石の加増を受け、1万3000石を領することになった。第5代藩主・堀田正穀の時代には所領のうち3600石が近江国蒲生郡から播磨国に替えられたが、新たな領知は生産性が近江よりも高かったため、実質的な加増であった。この実質加増は文化4年(1807年)2月7日に元に戻された。第6代藩主・堀田正民は絵画に造詣が深かった文化人である。幕末期に入ると、宮川藩は佐幕派として活動したが、やがて近江国内における諸藩が新政府側に与すると、やむなく新政府側に与した。

歴代藩主の多くが大番頭や奏者番、そして若年寄など幕府の要職を務めているが、藩政における治績はほとんど見られない小藩だった。

歴代宮川藩主

堀田家 譜代。1万石→1万3000石。
  1. 堀田正休(まさやす)【元禄11年(1698年)3月7日藩主就任-正徳5年(1715年)6月29日隠居】
  2. 堀田正朝(まさとも)【正徳5年6月29日藩主就任-享保4年(1719年)8月20日死去】
  3. 堀田正陳(まさのぶ)【享保4年10月18日藩主就任-宝暦3年(1753年)10月4日死去】
  4. 堀田正邦(まさくに)【宝暦3年11月25日藩主就任-安永元年(1772年)6月2日死去】
  5. 堀田正穀(まさざね)【安永元年7月25日藩主就任-文化12年(1815年)2月6日隠居】
  6. 堀田正民(まさたみ)【文化12年2月7日藩主就任-天保9年(1838年)8月19日死去】
  7. 堀田正義(まさよし)【天保9年10月11日藩主就任-天保12年(1841年)8月3日(または9月27日)死去】
  8. 堀田正誠(まさみ)【天保12年9月25日藩主就任-文久3年(1863年)5月12日死去】
  9. 堀田正養(まさやす)【文久3年7月4日藩主就任-明治4年(1871年)7月14日免官】

幕末の領地

近江国

    • 滋賀郡のうち - 4村
    • 野洲郡のうち - 3村
    • 甲賀郡のうち - 5村
    • 蒲生郡のうち - 5村
    • 愛知郡のうち - 3村
    • 坂田郡のうち - 16村
 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 
 
 
 
 

山上藩(やまかみ)近江国(永源寺) 藩庁は山上陣屋。

2013年12月28日 | 陣屋

山上藩(やまかみはん)は、近江国(現在の滋賀県東近江市山上町)に存在した藩。藩庁は山上陣屋。

山上藩・陣庁=紅葉橋西詰

山上は近江と伊勢国を結ぶ『八風街道』の要衝地帯であった。豊臣氏時代には杉原家次や浅野長政、織田信高らが領していた。

徳川氏の時代に入ると元和5年(1619年)10月21日に譜代の家臣である高崎藩主安藤重信の領地となった。元禄8年(1695年)5月1日、安藤重博が老中に栄進したため備中松山藩に移封され、ここに山上は天領となった。

元禄11年(1698年)3月7日、若年寄であった稲垣重定が常陸国から移封されたため、山上藩が立藩した。所領石高は1万3000石であった。重定の時代に奉行制度などの藩政が確立したが、第3代藩主・稲垣定享の時代には江戸の大火で上下両屋敷が焼失して出費が相次いだため、定享は質素倹約や新田開発を主とした藩政改革を断行したが、効果が見込めず、また定享自身が若死にしたため、失敗に終わった。その後は天明の大飢饉による寒冷で凶作・飢饉が相次いで藩財政は窮乏していった。また、歴代藩主の多くが若年寄や大坂加番、大番頭や奏者番などの要職を歴任したことも、かえって藩財政の出費を著しいものとする遠因となった。

幕末期、第8代藩主の稲垣太清は大番頭や大坂定番、海軍奉行などの要職を歴任して佐幕派の立場を貫いた。

幕末の領地

 近江国

    • 野洲郡のうち - 5村(うち1村を大津県に編入)
    • 甲賀郡のうち - 9村
    • 蒲生郡のうち - 4村
    • 神崎郡のうち - 8村
    • 坂田郡のうち - 1村
    • 浅井郡のうち - 1村(朝日山藩に編入)

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


鈎陣所(鈎陣屋・真宝館・永正寺館)  近江国(栗東)

2013年12月16日 | 陣屋

お城のデータ

所在地:栗東市下鈎町  map:http://yahoo.jp/Z_5iS4

別 称:鈎陣屋・真宝館・永正寺館

区分:陣所

現状:寺院

築城期:室町期

築城者:足利義尚

遺 構:土塁・堀跡・現地説明板

目標地:永正寺

駐車場:永正寺に駐車

訪城日:2013.1.28

 

お城の概要

室町幕府第九代将軍足利義尚が構えた陣所。 六角氏を追って鈎の山徒真宝坊の居館だった真宝館に陣を敷いた。現在の永正寺の地にあった。

 この「鈎の陣」の石碑は、永正寺ではなく上鈎池西側の公園にあります。

 鈎陣所跡には、現在永正寺が建っています。寺の周囲には土塁と堀跡が残っており、広さからみて主郭であると思われます。鈎陣所は、複数の曲輪をもった、およそ120間四方のほとんど城郭といってよい規模を有していたとされています。
ただ、これら土塁の痕跡と小さな説明版。京都の外で将軍が没した重要な史跡である。

お城の歴史

長享元年(1487)、将軍足利義尚は、領地の横領を繰り返し幕府への反抗姿勢をとり続けていた六角高頼を討伐するため、近江に親征し鈎に陣を構えた(鈎の陣)。これに対し高頼は、居城観音寺城を放棄し甲賀へ逃れた。高頼は、甲賀山中でゲリラ戦を展開し、義尚軍は高頼勢を攻めきれず膠着状態となった。
義尚はそのまま鈎に長期間とどまることになり、鈎陣所はさながら仮の御所として機能した。京より公家が訪れ、陣中で歌会なども催されたが、同時に義尚は酒色に耽るようになった。そして、鈎着陣から約1年半後の長享三年(1489)三月に、鈎陣中で25歳の若さで病没した。なお鈎在陣中の同二年(1488)、義尚は名を義煕と改めている。

現地には今も土塁の痕跡が残されています。

一時義尚が陣を置いた場所については、史料には「真宝館」と書かれており、現在の永正寺(栗東市上鈎)付近に比定されています。

また周囲には「寺内」の地名が残り、真宗寺内町との関連も指摘されています。

 

  

現地には今も堀の痕跡が残されている。

長享・延徳の乱とは、室町時代後期の長享元年(1487)と延徳3年(1491)の2度に亘って室町幕府が行った近江守護・六角行高(後の六角高頼)に対する親征で、六角征伐とも称される。なお、1度目の出陣は近江国栗田郡 鈎(まがり)(現:栗東市)に在陣したため、別に鈎の陣とも称される。

  1467年から10年続いた「応仁・文明の乱」の争乱の最中、諸国では国人や地侍といった層が室町幕府の近習・奉公衆や公家・寺社の荘園を押領し、近江国でも守護の六角高頼みずからが荘園を押領することによって勢力を拡大していた。正確には、六角氏は近江国内の国人・地侍に荘園を押領させることによって彼等を六角家臣団として取り込もうとしたのである。応仁の乱がどうやらおさまると、幕府はそれらの押領地の奪回をはかることになる。近江に領地を持つ奉公衆(幕府の直轄軍)は46人いたが、その中には六角に領地をとられたせいで餓死する者もいたという。

 長享元(1487)年9月12日、第9代将軍足利義尚が自ら六角討伐の軍勢を率いて京を出陣した。兵力は391騎8000人、赤地金襴に桐唐草の模様の直垂、重藤の弓、吉光の太刀……と、美々しく着飾った義尚を一目見ようと見物人が群れ集まった。幕府軍は一旦は琵琶湖の西岸の坂本に入って諸大名の軍勢の合流を待つ。参陣する大名は細川・斯波・畠山・山名・一色・冨樫・京極・武田といった面々である。まず細川勢が琵琶湖を渡って山田・志那(草津市西部)に上陸、別軍が琵琶湖の南の瀬田を経由して六角の本拠湖東を目指す。六角方は去る9月11日には南近江の各地にて布陣を終えていた。幕府軍は24日には八幡山・金剛寺を攻めるが六角方は退却、野洲河原で合戦が起こったが大したものではなく、六角高頼も本拠の観音寺城を出て甲賀郡に退却した。高頼本人は赦免の道を探っていたが、せっかく押領した土地を手放すつもりのない家臣団は交戦の構えを崩さなかった。

 将軍義尚は10月4日に坂本から琵琶湖を渡って栗太郡の鈎(まがり)の安養寺に陣を構えた。ここは甲賀郡の入り口近くである。諸大名の軍勢も現在の栗東・草津・守山その他の地域に分散して布陣する。この戦役を「鈎の陣」と呼ぶ。義尚が父の義政に歌をおくる。「坂本の浜路を出て浪安く養ふ寺にありと答へよ」。義政の返歌は「やかてはや国収りて民安く養ふ寺を立ちぞ帰らん」。

 まず浦上則宗の軍勢が甲賀郡に侵入するが六角高頼はやはり正面切った抵抗をせずに姿をくらました。義尚は27日には手狭な安養寺から少し北東にある上鈎の真宝館に移動した。12月2日夜、六角に加担する甲賀衆が義尚の陣所に夜襲をかけた。いわゆる「甲賀忍者」が有名になるのはこの時からである。「鈎の陣」に参加した甲賀武士は53家、特に活躍したのが21家あったというが定かでない。この前後に幕府方大名の陣地で火事が続発し、それらも甲賀忍者の仕業であるという。具体的には閏11月に伊勢貞誠の陣で、12月に織田広近の陣で、翌年5月浦上則宗の陣で出火している。

 六角高頼の行方を掴めない幕府軍は持久戦の態勢に入ったが、将軍義尚はかなり立派なつくりの陣所「大樹御所」に籠り、京からかわるがわるやってくる公家や僧侶と和歌や連歌や蹴鞠や学問に耽る生活を送るようになる。長享2(1488)年の8月に義尚が内大臣の位をもらった時には大勢の公家が参賀にやってきた。ちなみに義尚の父の義政はこのころ東山山荘の庭づくりに夢中である。

 しかし政治的には義尚は六角が押領していた寺社や公家の荘園を側近に与えて反発を招き、長引く滞陣のため幕府軍全体の志気も衰えた。結城兄弟や二階堂政行といった側近は義尚を遊興に耽らせることによって実権を握り、周囲に滞陣する大名の部将の中には六角側に内通する者もいた。実は幕府第一の実力者である細川政元その人が六角と密かに連絡をとっており、これは将軍義尚の権勢があまり拡大しないようにするための策略であった。そして、将軍の陣所から1里か2里のところに六角方の軍勢がいたにもかかわらず、側近に騙された義尚はそのことを全く知らない有り様であった。

 長享2(1488)年秋、義尚は病に倒れた(少し前に「義煕」に改名)。しばらく前に側近の二階堂政行を通じて陰陽博士から「六十人の刀鍛冶に六十本の刀を打たせれば敵を誅滅出来る」との話を聞き、陣中にて打たせていた六十本の刀が完成した翌日であったという。母の日野富子が看病に駆けつけ、一旦回復したので(富子は)京に戻ったが、翌年3月16日に重態に陥り、26日にわずか25歳の若さで陣没した。最後は水と酒しか受け付けなかったという。甲賀忍者に刺殺されたとの俗説もある。

 諸大名の軍勢も近江から退却した。六角高頼は押領した荘園を返還することで幕府と和睦しようとしたが、家臣の反対によって果たせず、延徳3(1491)年には再び幕府軍の討伐を受けることとなる。今回も将軍みずからの出陣であるが、第10代将軍義材本人はあまり近江の奥には入らず京にほど近い園城寺(三井寺)に本陣を置き、今回は六角の将を謀殺したり戦闘で300人ほど討取る等の戦果を挙げた。またしても甲賀郡に逃れた六角高頼を捕えることは出来なかったものの、それなりの成果をあげたと判断した義材は京に凱旋するが、明応2(1493)年には細川政元のクーデターにあって失脚した。それまで潜伏していた六角高頼が勢いを取り戻す。幕府は再々度の討伐軍を派遣するも撃退され、その後二度と近江に侵入することが出来なくなったのである。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、ウィキペディア

本日も訪問、ありがとうございました。


三上陣屋 近江国(野洲)

2013年12月09日 | 陣屋

堀跡と思われる小川が残る他は宅地

お城のデータ

所在地:滋賀県野洲市三上 マップ:http://yahoo.jp/TOkW6n

区 分:陣屋(現状個人宅地)

遺 構:堀・石積・移築門

城 主: 遠藤胤親,遠藤胤将,遠藤胤忠,遠藤胤富,遠藤胤緒,遠藤胤城

訪城日:2013.12.5

堀跡と思われる小川が残る他は宅地

三上陣屋(みかみじんや)は滋賀県野洲市野洲町三上(近江国野洲郡)にあった三上藩の藩庁である。

堀跡と思われる小川が残る他は宅地

歴史

元禄11年(1698年)、譜代大名の遠藤胤親が近江国内で1万石を与えられ、野洲郡三上に陣屋を構えた。遠藤氏は美濃国郡上八幡城主であったが、元禄5年(1692年)に常久没後に改易とされたが、親族の旗本白洲氏の子息を一旦大垣藩戸田氏の養子とした上で、改めて遠藤氏相続としてお家再興が実現した。

その後、遠藤氏は大番頭として、二条城、大坂城の城定番を勤めている。元禄13年(1700年)近江三上に移封され、陣屋を構えた。

第5代藩主で若年寄の遠藤胤統は功績を認められて2千石の加増をうけた。第6代藩主の胤城(たねき)の時、明治維新を迎えている。明治3年(1870年)に和泉国吉見に移っている。

遺構

陣屋址は現存しない。滋賀県湖南市岩根の常永寺山門に陣屋表門が移築現存している。また、民家に陣屋裏門が移築現存している。将軍上洛御殿の一つである、永原御殿が草津市の芦浦観音寺書院に移築されている(重要文化財)。

 

歴 史

元禄11年(1698年)遠藤胤親によって築かれた。 元禄5年(1692年)3月郡上八幡城主遠藤常久が7歳で嗣子なく没し、幕府によってお取り潰しとなったが、先祖の遠藤慶隆の功績が認められ、一族の遠藤胤親を大垣新田藩主戸田氏成の養子とし、常陸国・下野国に一万石を与えられて存続した。この胤親の所領が近江に移され三上陣屋を構えて三上藩となった。

嘉永5年(1852年)遠藤胤緒のときに二千石の加封があり一万二千石となった。 慶応4年(1868年)新政府に敵と見なされて所領を没収されたが、同年罪は許され領地は返還された。明治3年(1870年)遠藤胤城のとき、和泉国吉見へ移された。

三上陣屋は通称近江富士と呼ばれる三上山の西麓に築かれていた。 現在は堀跡と思われる小川が残る他は宅地となり、明瞭な遺構は残っていない。

陣屋の門と伝えられるものが、湖南市岩根にある常永寺と陣屋跡の直ぐ近くの民家に移築されている。

現状 

三上陣屋は通称近江富士と呼ばれる三上山の西麓に築かれていた。 現在は堀跡と思われる小川が残る他は宅地となり、明瞭な遺構は残っていない。

陣屋の門と伝えられるものが、湖南市岩根にある常永寺と陣屋跡の直ぐ近くの民家に移築されている。

 車は三上山裏登山口駐車場(天保義民碑前)

車は三上山裏登山口駐車場(天保義民碑前)・・・約10台可

 

本日も訪問、ありがとうございました。


仁正寺陣屋(西大路藩) 近江国(日野)

2013年07月14日 | 陣屋

 

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町西大路  map:http://yahoo.jp/W2g8gq

別 称:西大路藩

区 分:陣屋・藩庁

現 状:運動場

築城期:江戸期 元和6年(1620)

築城者:市橋長政

遺 構:城跡碑・説明板・移築本殿

標 高:200m  比高差:ー

目標地:日野城(中野城)

駐車場:日野城(中野城)駐車場

訪城日:2013.7.6

お城の概要

西大路陣屋は中野城の城域にあり、案内板と共に石碑が建つだけで、陣屋の藩庁跡はゲートボール場となっている。

 唯一京都の相国寺の塔頭である林光寺の本堂に陣屋の御殿が移築されている。

 京都相国寺の塔頭 林光寺の本堂に陣屋御殿を移

お城の歴史

 大永3年(1523)蒲生氏が日野の地に日野を築城した。賢秀の代に織田信長の臣下となった。天正12年(1584)蒲生氏郷は伊勢国松ヶ島12万石に移封し、その後田中吉政、長束正家と城代が入り、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降廃城となった。

元和6年(1620)市橋長政が越後国三条より2万石で入封し、日野城(中野城)の一部に陣屋を構えた。元和8年(1622)、長吉に2千石分知し、慶安元年(1648)、市橋政信の弟政直に1千石分知し、1万7千石となった。文久2年(1862)仁正寺を西大路藩に改称した。

以降江戸時代を通じて、市塙氏は日野を離れる事もなく10代長和の代に明治維新を迎えた。

  

仁正寺藩は、近江国蒲生郡仁正寺(現滋賀県蒲生郡日野町)に存在した藩。別名を西大路藩とも言う。藩庁は仁正寺陣屋。

 西大路陣屋は西大路藩市橋家1万7千石の陣屋で、元々仁正寺と記していたものを文久2年(1865)に改称したものである。

 西大路藩は元和6年(1620)市橋長政が野洲郡,蒲生郡などに2万石を封され、この地に入部し、築城したことに始まる。
市橋家は元々織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いや大阪両陣での活躍により、元和2年に越後三条に4万石をを封された。同6年3月藩主長勝が死去し、養子の長政は減封され近江国に移り、戦国期の蒲生氏の居城・中野城に注目し仁正寺陣屋を構えた。

 元和8年幕命により所領2千石を同族の市橋長吉に分与し、2代目政信は弟・政直に1千石を分与し、1万7千石となる。その後11代続き幕末を迎えた。明治4年の廃藩置県により西大路藩は廃された。

 陣屋は明治7年に朝陽小学校となり、建物はそのまま使用されたが、大正5年に小学校が移転・新築され陣屋の建物は京都相国寺の塔頭である林光院に移築された。

藩史

元和6年(1620年)、市橋長政が近江国蒲生、野洲両郡と河内国内に合わせて2万石を与えられたことから、仁正寺藩が立藩した。長政は元和8年(1622年)1月、幕命により市橋長吉(三四郎)に2,000石を分与したため、所領は1万8,000石となった。長政は徳川家光のもとで奉行として功を挙げている。慶安元年(1648年)に長政が死去すると、後を長男の市橋政信が継ぐ。このとき、弟の市橋政直に1,000石を分与したため、1万7,000石となった。政信は徳川家綱、徳川綱吉のもとで功を挙げている。その後の藩主は第5代藩主・市橋直挙が第8代将軍・徳川吉宗に認められた教養人であるということくらいで、特筆すべき事柄はない。

幕末期、最後の藩主であった市橋長和は幕末の動乱の中で国防のために火薬の製造、武芸奨励などに尽力した。文久2年(1862年)4月28日には仁正寺を西大路と改名したため、以後は西大路藩と称された。長和は当初は佐幕派であったが、次第に新政府側に傾いてゆき、明治天皇が東京へ行幸するときには天皇の奉送や京都守衛などで功績を挙げている。

現存する建物

  • 旧藩邸の大半は大正初年に京都相国寺の塔頭林光院として現存。
  • 旧藩邸の勘定部屋は町内に移築。現在大字西大路衆議所として使用。
  • 市橋家の菩提寺である清源寺書院は文久元年の新築前の藩邸の一部を移築。
  • 大字西大路聖財寺、法雲寺も藩邸の一部が移築または部材が転用されている伝承がある。

歴代藩主

市橋(いちはし)家

外様。2万石→1万8,000石→1万7,000石。

  1. 市橋長政(ながまさ) 元和6年(1620年)藩主就任-慶安元年(1648年)2月11日死去
  2. 市橋政信(まさのぶ) 慶安元年6月4日藩主就任-宝永元年(1704年)1月1日死去
  3. 市橋信直(のぶなお) 宝永元年2月29日藩主就任-享保5年(1720年)3月26日死去
  4. 市橋直方(なおかた) 享保5年4月26日藩主就任-元文元年(1736年)5月25日隠居
  5. 市橋直挙(なおたか) 元文元年5月25日藩主就任-宝暦8年(1758年)11月24日隠居
  6. 市橋長輝(ながてる) 宝暦8年11月24日藩主就任-天明5年(1785年)10月6日死去
  7. 市橋長昭(ながあき) 天明5年12月7日藩主就任-文化11年(1814年)9月27日死去
  8. 市橋長発(ながはる) 文化11年11月29日藩主就任-文政5年(1822年)1月30日死去
  9. 市橋長富(ながとみ) 文政5年9月1日藩主就任-天保15年(1844年)10月7日隠居
  10. 市橋長和(ながかず) 天保15年10月7日藩主就任-明治4年(1871年)7月14日藩知事免官

幕末の領地 近江

    • 野洲郡のうち - 3村
    • 蒲生郡のうち - 27村
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、ウィキペディア
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