城郭探訪

yamaziro

織田信長の本陣は「陣杭(じんご)の柳」

2013年07月04日 | 陣屋

①姉川古戦場・血原・本陣

姉川古戦場

『日本戦史』によれば、合戦は28日未明に、この西方に陣した朝倉・徳川軍の間で始まり、最初朝倉軍が優勢でしたが、榊原康政らが側面から朝倉軍を突き形勢は逆転しました。一方、この一帯では浅井・織田軍の間でも戦闘が開始され、最初浅井軍が優勢でしたが、西美濃三人衆の側面攻撃や徳川軍の加勢により、浅井軍も敗退したと伝えられています。

 

ただ最近、姉川合戦は浅井軍の信長本陣への奇襲作戦であり、通常言われるような大規模なものではなかったとの説も唱えられています。

合戦後、織田信長は本陣を横山城や虎御前山城におき浅井氏攻撃を続けましたが、最終的に浅井氏が滅亡したのは、3年後の天正元年(1573)9月1日でした。

なお、合戦があった太陰暦6月28日は、28日未明に至り、浅井・朝倉軍が約3キロ北方に当たる大依山から前進し、姉川北岸に布陣するのを見た織田軍は、援軍に来た徳川家康軍と共に、姉川南岸に軍を展開しました。この時、織田信長の本陣は「陣杭(じんご)の柳」に、徳川家康の本陣は岡山(勝山)に置いたと伝えられています。浅井軍と信長軍との戦いは、最初は浅井軍が優勢でしたが、

  遠藤直経の討死の墓(圃場整備で移設)

それを象徴するのが遠藤直経の討死です。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝

 


姉川の合戦 徳川家康の本陣と岡山(勝山)

2013年07月01日 | 陣屋

④徳川家康と岡山

 

この背後の山は、元来「岡山」といいましたが、姉川合戦の時に徳川家康が陣を敷き、戦いに勝ったことに因んで「勝山(かつやま)」と呼ばれるようになったとされます。

徳川家康軍は激戦の末に朝倉軍を敗走させ、それにより劣勢の織田軍も盛り返し、勝利を得たと伝えられています。江戸時代以来「流岡(ながれおか)神社」が鎮座していましたが、明治41年に上坂神社(東上坂町)に合祀されました。

この「流岡神社」には織田信長が勝利祈願をしたとの社伝があり、境内の大杉の上部が枯れているのは、合戦の折、両軍の矢が飛びかって枝を折ったためと伝えられています。一方、上坂神社には織田信長が寄進した金燈籠(かなどうろう)が現存しています。

  

勝山(岡山)遠景

茶臼山本陣・・・遠景

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝


姉川の合戦 織田信長の本陣は「陣杭(じんご)の柳」

2013年06月29日 | 陣屋

①姉川古戦場・血原・本陣

姉川古戦場

『日本戦史』によれば、合戦は28日未明に、この西方に陣した朝倉・徳川軍の間で始まり、最初朝倉軍が優勢でしたが、榊原康政らが側面から朝倉軍を突き形勢は逆転しました。一方、この一帯では浅井・織田軍の間でも戦闘が開始され、最初浅井軍が優勢でしたが、西美濃三人衆の側面攻撃や徳川軍の加勢により、浅井軍も敗退したと伝えられています。

合戦検証”姉川の戦い1”

 

ただ最近、姉川合戦は浅井軍の信長本陣への奇襲作戦であり、通常言われるような大規模なものではなかったとの説も唱えられています。

合戦後、織田信長は本陣を横山城や虎御前山城におき浅井氏攻撃を続けましたが、最終的に浅井氏が滅亡したのは、3年後の天正元年(1573)9月1日でした。

なお、合戦があった太陰暦6月28日は、28日未明に至り、浅井・朝倉軍が約3キロ北方に当たる大依山から前進し、姉川北岸に布陣するのを見た織田軍は、援軍に来た徳川家康軍と共に、姉川南岸に軍を展開しました。この時、織田信長の本陣は「陣杭(じんご)の柳」に、徳川家康の本陣は岡山(勝山)に置いたと伝えられています。浅井軍と信長軍との戦いは、最初は浅井軍が優勢でしたが、

  遠藤直経の討死の墓(圃場整備で移設)

それを象徴するのが遠藤直経の討死です。

 直経は信長本陣深くまで攻め入り、味方の首級を一つ提げ、織田勢に偽装して信長の首をねらいましたが、竹中重矩(しげのり、半兵衛の弟)に見破られ討死したと伝えられています。現在、直経の戦死した場所には、その墓が残りますが、信長本陣の「陣杭の柳」の後方300メートルに当たり、織田軍が一時は後退し劣勢を強いられていたことを示すと考えられます。

 ここは姉川合戦の際、浅井長政の重臣である遠藤直経が討死した場所と伝えられ、小字も「円藤(遠藤)」といいます。遠藤直経は「喜右衛門」と名乗り、坂田郡須川(米原市須川)出身で、一時同郡宇賀野(米原市宇賀野)にも居住していたことが知られる浅井氏の重臣です。

 多くの古文書にも登場しますが、『浅井三代記』などの俗書にも多く取り上げられ、浅井氏家臣中でも逸話が多い武将と言えるでしょう。姉川合戦の際、自軍の敗色が濃くなると、味方の武将首一つを携え敵軍に偽装、信長の陣中深く忍び込みましたが、竹中重矩(しげのり、半兵衛の弟)に見破られ討ち死にしたと言われています。

 かつて当地の約40メートル程北の畑の中に、「遠藤塚」と呼ばれる塚があり、直経の墓と伝えてきましたが、昭和54年に墓標が建てられました。平成9年、圃場(ほじょう)整備事業のため、現在地に移転しています。なお、毎年7月には、その追悼法要が現在も執り行われています。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝

 


永原御殿跡 20120709

2012年07月09日 | 陣屋

永原御殿の石垣

御殿跡の西側には石積みが残り、御殿の門が同町の浄専寺に移築されているが、この門の管理状態はあまり良いとはいえない。
また、草津の芦浦観音寺に貞享2年(1685)に移建された一棟が観音寺書院(重要文化財)として残されいる。

城館跡の南東部に立つ碑 永原御殿は、江戸期に将軍が上洛する際の宿舎として造られたもので、近江国内では永原御殿以外に柏原御殿伊庭御殿,水口御殿(水口城)がある。

 将軍家が中山道を通って上洛する場合、永原御殿の次の宿舎は京都二条城であった。
この永原御殿も、貞享3年(1686)、幕府の命によって廃城となった。

 

  永原御殿は、慶長6年 (1601)に徳川家康が最初に宿泊し、以後、家康が6回、二代秀忠2回、三代家光が寛永11年(1634)に泊まったのを最後として、 計10回利用されました。

 

浄専寺に移築された永原御殿の移築門  

永原御殿は御茶屋御殿の遺構です。御茶屋御殿とは徳川将軍が上洛の際に整備した宿泊所を指し、近江には東海道に水口城が、 中山道に柏原御殿、朝鮮人街道に伊庭御殿が、そして中仙道と朝鮮人街道の近くに、この永原御殿が整備されました。
1国に4ヶ所も御茶屋御殿が整備されたのは近江だけです。これは近江が京都に近く、朝廷を牽制するのに最も適した所だったためでしょう。
永原御殿を始め各御殿は、いずれも石垣や土塁を用いた城郭の構造を示しており、御殿が、単なる将軍の宿泊施設だけではなく、 有事に備えた軍事施設の性格を併せ持っていたことを示しています。
幕藩体制が確立した三代将軍以降、将軍上洛の必要性がなくなり、これらの御殿は役目を終え、廃されることになります。 

 

 

遺跡の概要

 永原御殿は、江戸時代前期に将軍が上洛する際の専用宿泊所のことで、お茶屋御殿とも呼ばれた。近江には4箇所お茶屋御殿がある。京都から東海道を経て、朝鮮人街道を北上し、彦根から中山道に入る道筋に永原御殿、伊庭御殿、柏原御殿と東海道を通るときのために水口御殿が設けられていた。 永原御殿は、成り立ちは明確ではないが、慶長6年(1601年)に徳川家康が江戸へ向かう途中に宿泊しているのが最初である。 以降、慶長19年(1614年)までの間に家康・秀忠が7回宿泊し、元和元年(1615年)と元和9年(1623年)に秀忠が宿泊している。寛永11年(1634年)、第3代将軍家光が永原御殿の最後の宿泊となり、貞享2年(1685年)に廃止される。

 発掘調査の結果 

 今回の発掘調査地は、三之丸の馬屋跡推定地で、現況では水田となっている。三之丸は、二之丸の東側に寛永11年(1634年)の御殿改修工事によって付加される。三之丸には「御馬屋」「御米蔵」「伊賀衆之家」「番所」等が置かれていた。 検出した遺構は、17世紀中頃の馬屋跡の礎石と溝跡、土坑跡である。遺構面は表土下30cmである。

検出遺構

 溝跡(SD1)は幅1.0m、深さ0.4mで、瓦が数点出土する。溝跡(SD2)は幅1.1m、深さ0.2mで、遺物の出土はない。

 溝跡(SD3)は幅1.8m、深さ0.15mで、多数の瓦が出土している。

 土坑跡(SK1)は不定形の土坑跡で、深さ0.1mで、瓦が数点出土する。

 馬屋跡(礎石建物)は礎石を8基検出した。礎石は、縦30~60cm、横20~40cmの方形か長方形で、石仏を転用したものもある。

出土遺物 

 礎石(SP1)は花崗岩製の石仏(阿弥陀如来)である。高さ39.4cm、幅26.5cm、厚さ13.4cmをはかる。SD3からは江戸時代初頭の平瓦や唐草紋の軒平瓦が出土している。

その後の永原御殿

 永原御殿は、寛永11年(1634年)の大改修、寛文元年(1661年)の改修、寛文10年(1670年)の修理を経て、その役目を終え、貞享2年(1685年)に取り壊されることになる。

 永原村は、代官支配地として草津市芦浦観音寺の支配下にあり、御殿の維持・管理は、寛永11年以降も代官観音寺が行ってきた。貞享2年には芦浦にて入札が行われ、建物等が取り壊しとなり、本丸、二之丸、三之丸の土塁部分に竹を1467本を植える入札も行われ、この時の植栽が現在に続く竹林となっている。

 三之丸は、元禄三年(1690年)以降は農地と化す。宝永2年(1705年)にはすべて焼き捨てられ、空地となる。その後、御殿跡の管理は、永原村の庄屋から村役人を経て明治になると御殿は払い下げとなる。

発掘調査の成果

       

 ポイント1 永原御殿の建築設計図(指図)とおり「御馬屋」を発掘調査で、確認することができた。この建築指図は、寛永11年の改修工事に膳所城主・菅沼織部正と代官観音寺のもと、幕府大工頭中井正純が設計したものである。

 ポイント2 「御馬屋」は、指図では梁行き3間×桁行き50間の長大な建物であるが、その建物が礎石建ちであることがわかった。礎石1は石仏(阿弥陀如来1対)を転用した珍しい事例で、仏面を上にして設置されていた。

 ポイント3 SD1とSD3から出土した瓦は、馬屋の棟瓦の可能性がある。寛文元年(1661年)の改修の際には、馬屋の棟瓦370枚を補修している。(御殿内の瓦葺建物は、本丸の南矢倉門・玉薬蔵、二之丸南門、三之丸米蔵のみで、大半の建物は板葺で棟にだけ瓦を置いていた。)

参考文献 『近江の山城 ベスト50を歩く』中井 均 2006 サンライズ出版 

『野洲市歴史民俗博物館研究紀要』第12号 2007  野洲市歴史民俗博物館

永原御殿跡現地説明会資料2007.10.20 野洲市教育委員会

 

 参考:HP、現地説明板、 近江 永原御殿(永原城)/近江の城郭永原御殿跡現地説明会資料 野洲市ホームページ

 

 

3代将軍・家光も使った?

馬屋跡を検出

=将軍宿泊施設「永原御殿跡」から=

参考:HPhttp://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=eee5160671c76b752ccb89872a8d536f 

▲三の丸の馬屋推定地



 野洲市教委文化財保護課はこのほど、同市の永原御殿跡調査結果を公表した。

 永原御殿は、江戸時代前期に将軍が上洛する際の専用宿泊所のことで、お茶屋御殿とも呼ばれた。近江には四箇所のお茶屋御殿がある。京都から東海道を経て、朝鮮人街道を北上し、彦根から中山道に入る道筋に永原御殿、伊庭御殿、柏原御殿と東海道を通るときのために水口御殿が設けられていた。

 永原御殿は、成り立ちは明確ではないが、慶長六年に徳川家康が江戸へ向かう途中に宿泊しているのが最初である。以降、慶長二十年間までの間に家康・秀忠が七回宿泊し、元和元年と元和九年に秀忠が宿泊している。寛永十一年、第三代将軍家光が永原御殿の最後の宿泊となり、貞享二年に廃止される。

 今回の発掘調査地は、三之丸の馬屋跡推定地で、現況では水田となっている。三の丸は、二の丸の東側に寛永十一年間の御殿改修工事によって付加される。三の丸には「御馬屋」、「御米蔵」、「伊賀衆之家」、「番所」などが置かれていた。検出した遺構は、十七世紀中頃の馬屋跡の礎石と溝跡、土坑跡である。馬屋跡(礎石建物)は礎石を八基検出した。礎石は、縦三十~六十センチ、横二十~四十センチの方形か長方形で、石仏を転用したものもある。

 発掘調査の成果は、次の通り。

 永原御殿の建築設計図(指図)とおり「御馬屋」を発掘調査で、確認することができた。この建築指図は、寛永十一年の改修工事に膳所城主・菅沼織部正と代官観音寺のもと、京都大工頭中井正純が設計したものである。「御馬屋」は、指図では梁行き三間×桁行き五十間の長大な建物であるが、その建物が礎石建ちであることがわかった。礎石1は石仏を転用したもので、仏面を上にして設置されていた。出土した瓦は、馬屋の棟瓦と推定される。寛文元年の改修の際には、馬屋の棟瓦三百七十枚を補修している。御殿内の瓦葺建物は、本丸の南矢倉門・玉薬蔵、二之丸南門、三之丸米蔵のみで、大半の建物は板葺で棟にだけ瓦を置いていた。


大溝陣屋 近江国(高島)

2012年03月14日 | 陣屋

Ōmizo_Jinya大溝陣屋

お城のデータ

所在地:県高島市(旧高嶋郡)高島町勝野 map:http://yahoo.jp/WS0p4n

現 状:宅地

区 分:陣屋

築城期:江戸期

築城者:分部光信

遺 構:惣門・家臣屋敷・菩提寺・墓所

目標地:JR高島駅

駐車場:JR高島駅駐車場

訪城日:2012.3.10

お城の概要

大溝陣屋は近江高島駅の北側一帯に築かれていた。 陣屋の遺構は余り残されていないが、陣屋の惣門が現存しており、武家屋敷(笠井家)が一軒残されている。高島駅の東側に分部氏を祀った分部神社。高島小学校の南側にある圓光禅寺が分部氏の菩提寺である。、陣屋・武家屋敷を構築し、背戸川を境として石垣・土塁を巡らせてこの地に総門を設けた。宝暦5年(1755)秋、大修理して今に至る。
 棟瓦には分部氏の定紋(丸の内に三引)が残り、両袖に部屋のあるこの長屋門は大溝城関係建造物でただ1つ現存する貴重な遺構である。<現地案内板より>

陣屋の扉は失われているものの、「総門」と呼ばれる長屋門が現存している。武家屋敷地への出入り口の正門であったと考えられている。宝暦5年(1755)の大改修を経て、近年まで民家として使われていた。現在は高島市が買い上げ、高島市の有形文化財にも指定されている

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大溝陣屋 長屋門

大溝陣屋は近江国高島郡(現在の高島市勝野)にあった大溝藩の藩庁。

お城の歴史

元亀3年(1572)織田信長が高島郡を進攻すると、天正7年(1579)津田信澄が高島郡を領し、明智光秀の縄張りで大溝城が築かれた。天正10年(1582)本能寺の変で信澄は明智光秀の娘を正室にしていたことから、大坂で殺害されてしまった。信澄の後には、丹羽長秀・加藤光奏・生駒親正・京極高次と目まぐるしく城主が替わったが、京極高次が近江八幡へ転封となった後は無城主となっていた。

江戸期の元和5年(1619年)分部光信によって築かれた。分部氏は藤原南家工藤氏の後裔で、伊勢国安濃郡長野の地頭職であった長野氏の庶流である。初代は光久で安濃郡分部村に住んで分部氏を称したことに始まる。 伊勢国上野城一万石の領主であった分部光嘉は、関ヶ原合戦では富田信高に協力して伊勢国安濃津城に籠城し、東軍の攻撃に奮戦した。戦後、その功によって伊勢国上野より二万石に加増され入封した。

元和の一国一城令の対象となり、三の丸を残して大溝城を破壊してしまった。

分部氏は三の丸に陣屋を構え、11代(分部光信・嘉治・嘉高・信政・光忠・光命・光庸・光賓・光邦・光寧・光貞)続き明治維新を迎えた。

大溝藩分部家墓所は園光寺境内墓所(ジャパン・ジオグラフィックは日本を深く学ぶ非営利教育研究機関より)

400年近く分部家累代の墓が守られている。

江戸時代を通じて一藩の歴代藩主の墓がたどれるとともに、近世墓制を考える上でも重要であり、貴重である。 

参考資料:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』園光寺境内墓所(ジャパン・ジオグラフィックは日本を深く学ぶ非営利教育研究機関より)

   本日の訪問ありがとうございす!!