城郭探訪

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小谷城  近江国(湖北)

2011年03月13日 | 平山城

   小谷城址登り口

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)湖北町伊部 map:http://yahoo.jp/hax-k
築城期:大永4年(1524)

築城者:浅井亮政

廃 城:天正3年(1585)
区 分:山城
遺 構:曲輪・空掘・土塁・堅堀・石垣
城 域:1000mx1800m

標 高:332m  比高差:230m

駐車場:小谷城戦国歴史館

訪城日:2011.3.11

戦 い: 大永5年(1525) ○六角定頼 VS ●京極高清・浅井亮政
    天文7年(1538) ○六角定頼 VS ●浅井亮政
    元亀3年(1572)  △織田信長 VS △浅井長政
    天正元年(1573) ○織田信長 VS ●浅井長政・朝倉義景

お城のデータ

小谷寺の西から山道を登る。この道は広く車でも安心して登れ、中腹まで車でn20~30分ほどで本丸。
 この間、番所跡~馬洗池~首据石を経て、浅井長政が小谷城落城時に自刃したと伝えられる赤尾美作守の屋敷、本丸櫓台、山王丸の石垣等の見所がある。
 

小谷山曲輪配置図小谷山曲輪配置図

 山王丸の東側の石垣は、小谷城内では最も大きな石垣(高さ約4~5m、長さは約30m)で、この地方特有の石灰岩質の白濁色の石を用いた野面積みで積まれている。
当時は山中にもっと大きな石垣があったとされるが、羽柴秀吉によって破壊されたとも云われている。
 体力に自信のある人は六坊を経て、月所丸,小谷山山頂(標高495m)の大嶽城へ登るのも良い。月所丸は六坊から約10分、大嶽城は約30分の距離。

北国脇往還を眼下に治め、大嶽城を北方の押さえとして、小谷山全山にわたり造られた曲輪は一千カ所にのぽり、近江の数ある城郭の中でも観音寺城と共に屈指のものである。
 また、 上杉謙信の居城・春日山城、能登畠山氏の居城・七尾城、尼子氏の居城・月山富田城、および観音寺城とともに日本5大山城の1つ。

歴 史

 浅井亮政の3代前の重政が明応5年(1491)に京極持清に仕えた時から歴史に登場する。
 大永3年(1523)15代当主京極高清の跡目相続について、浅井町野瀬の梅本坊で家臣団の協議(梅本坊公事)が行われるが、長男・高広を立てようとする浅井亮政、今井越前守等と、次男・高慶を立てようとする父高清、上坂信光、多賀四郎左衛等が対立する。
 梅本坊公事の結果、跡目は次男高慶に決定するが、次男高慶派の中心となっていた上坂氏の横暴に反感を持っていた長男・高延派の浅井亮政、今井越前守は尾上城に寄って次男・高慶派を排除することを画策する。
 大永4年(1524)六角氏の援助を受けて、上平寺城
の京極高清、上坂信光を攻め、高延を救出する。上坂氏の今浜を攻略した浅井亮政は小谷京極丸に高清,高延を迎え入れる。この時点で名目はともかく、江北の実権は浅井氏が握ることとなる。
 大永4年(1524)に小谷城を築城する。

 亮政・久政・長政と三代にわたって湖北を納め、栄華を誇った小谷城であったが、元亀元年(1570)姉川の戦いで織田・徳川軍に敗れた後、天正元年(1573)8月、清水谷から攻め上った織田軍によって落城した。
 浅井氏滅亡後、木下籐吉郎が湖北三郡を与えられ、天正3年(1585)に今浜の地に新たに長浜城を築いた後は廃城となる。

 

浅井の小谷城跡探訪


                  

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭

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