昭和40年代の牧野造成で貴重な城郭遺構が消滅したが、この場所に四ッ谷城という中世の城があった。 室町時代の初期嘉吉3年(1433)に築城してと伝えられるこの城は上下二段に分かれ東西約40m、南北約50mで周囲を高い土塁で囲み、城内に井戸を設ける等雄大な本格的中世城郭であった。 小倉氏の本城佐久良城に対する支城であり、一時期蒲生氏も領有していたという。一部の残存もあるが姿を消したのは惜しい。 現地説明板 (日野観光協会・東桜谷公民館)
四ツ谷城
- お城のデータ
- 所在地:滋賀県蒲生郡日野町中之郷奥師 マップ:http://yahoo.jp/RjBGGu
- 築城期:室町時代の初期嘉吉3年(1433)
- 築城者:小倉実隆
- 遺 構・池・土塁・土橋
- 区 分:平山城(丘陵)。林・牧場。
- 訪城日:2013.12.25 2012.01.1.9
お城の概要
四谷城は、日野町東桜谷奥師地区の背後の小高い山の尾根上に築城されている。
東桜谷・奥師地区へ入る手前の空き地に車を置いて歩くと、すぐに「四ツ谷城址」を示す標識ある。
丘陵沿いに進むと、テレビ塔の建っているところが「四ッ谷城」だということで約15分、林道の右手に谷が現れる。
しばらく進むと平削地・土塁・武者隠し・・・・・。
この林道が2つに分かれ、谷側を進み林道先が矢竹で・・・左手斜面に登ると曲輪(テレビ共同アンテナ)に出た。
曲輪内部は草が刈られていたが、曲輪周囲は背丈1~2mの矢竹が生い茂る。周囲には谷側に浅い堀跡が確認できたが?
ここが主曲輪と思いきや、下山途中の中腹に脇道があり、その先には高い土塁で虎口を設けた25×35mの曲輪があった。
山肌を10m近く掘り下げて造った削平地である。構造からしてここが主曲輪。
奥師若宮八幡神社
集落入口・・・前川・西口橋渡った所の空き地に駐車
四つ谷城(遠景)
お城の歴史
四ツ谷城(遺構消滅・伸明寺文書にある実隆によって築かれた「奥師城」)。ごの支城として築かれたといわれる。享保年間
に刊行された『淡海温故録附巻 古城之図』の「蒲生郡奥津保四ツ谷古城全国」には削平地が四ヵ所描かれ「砦」とのみ記されているという。
『近江蒲生郡志』全10巻に「蒲生郡日野町の旧東桜谷村にある小倉氏が築いた5つの城」『近江の城』第15号 )
小倉実隆 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
生涯
南近江の国人小倉氏の当主である小倉実光が実子無く死亡した為、蒲生定秀の意向で養子として小倉氏に入り名籍を継いで佐久良城主となる。
しかしながら当時、小倉氏は庶流家との内訌状態が続いており、特に領を接する山上の小倉西家は独立志向が強く、お互いの領の用水の権利などをめぐっても対立して時折小規模な武力衝突を繰り返しており、西家の兵に永源寺が焼かれるなど緊張状態が続いていた。
永禄7年(1564年)、小倉西家の山上城主小倉右京大夫が延暦寺領山上郷の年貢を横領。
これに怒った六角義治は小倉宗家の当主である実隆に右京大夫の討伐を命じた。実隆は直ちに速水氏・寺倉氏など蒲生郡の諸氏を従えて右京大夫の討伐に出る。これに対し右京大夫は、山田城・和南城・八尾城・相谷城ら支城の小倉西家一門たちに応援を要請。戦闘域は山上だけに留まらず、小倉宗家と小倉西家全体の戦に発展した。
実隆側は速水勘六左衛門尉が和南城主の小倉源兵衛を討つなどしたが、後に実隆自身が西家側の兵に討たれてしまい、小倉宗家方は敗北してしまう。勢いづいた右京大夫は奥津保の辺りを制圧し勢力を拡大した。
この事態に蒲生定秀も介入し、兵を率いて小倉西家の所領へ侵攻し右京大夫ら小倉西家を討伐した。沈静化には成功したものの一連の内訌は小倉氏の力を大幅に衰退させ、以後の小倉氏は蒲生氏の麾下のような存在になっていく。
参考資料・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、滋賀県中世城郭分布調査3(旧野洲・栗太郡の城)
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