横山城「姉川の合戦と城郭」
中川氏の挨拶、松下氏のレクチャーが始まった「姉川の合戦と城郭」・・・・!参加者60余名は、レジュメを見ながら聴講!
石田会館から、雪の横山の現場検証へ
日吉神社の鳥居横から、横山城跡へ
見晴台で、積雪35cm
まるで「横山城跡スノートレイル」のように、参加者60余名は進む!
まるで「横山城跡スノートレイル」のように、参加者60余名は進む!
琵琶湖・田村山(JR田村駅)
城址見学終了「石田バス停」
姉川の合戦図
姉川の合戦の戦場の現場へは????
元亀元年(1570)4月20日織田信長は3万の大軍を率い西近江街道を北上し若狭経由で越前・朝倉攻めに発進。25日には手筒山城を落とし、翌26日には手筒山城に隣接する金ケ崎城、および引壇城(疋田城)を開城させ、木ノ芽峠を越えて朝倉氏の居城・一乗谷にまさに攻め入ろうとした28日、同盟関係にあった浅井長政の裏切りの情報が入った。
信長は殿軍を木下籐吉郎に命じ、同日中に朽木越えで京に戻る。京に戻った信長に対し、観音寺城を追われ甲賀に潜伏していた六角承禎は、この時とばかりに一揆衆を蜂起させ、信長を討ち取ろうとするが、信長は蒲生の桜谷の佐久良城城主・小倉右京亮実房の道案内で千種越えで美濃の岐阜城に帰陣する。
岐阜に帰った信長は兵を整え、6月5日には岐阜を出発。浅井・朝倉軍が中山道沿いに築いた長比城、北国脇往還道沿いに築いた刈安尾城を落とし、小谷城へと攻め寄せた。この頃には信長の軍勢は2万5千人を数えるまでになっていた。
信長は小谷城を目前に竜ヶ鼻に陣を構え、小谷城の支城である横山城を包囲。この時点で織田軍は、徳川の援軍5千人と合わせて3万4千人の大軍にふくれあがっていた。浅井・朝倉連合軍1万8千人は小谷城を出て大依山に陣を構え、6月28日未明野村・三田に移動し、姉川を挟んで対峙。(現在の野村橋付近)
戦いは徳川軍の酒井忠次,小笠原長忠の隊が朝倉軍に突入して火蓋が切られ、緒戦は朝倉軍の攻勢で進んだ。一方、織田軍も浅井軍の先方磯野員昌のすさまじい攻撃に第一陣を破られ苦戦をしいられるが、朝倉軍が榊原康政の側面攻撃をうけて崩れだし、浅井軍も左側面から稲葉一鉄、右側面から氏家ト全等の攻撃に耐えかね、織田軍の13段の構えのうち11段まで崩し、信長の本陣を目の前にしながらも潰走してしまった。
こうして午前5時頃に始まり、午後2時頃までにもおよんだ戦いによる戦死者は、浅井・朝倉軍が1,700余人、織田軍も800余人とみられ、負傷者はその3倍にもにもなると云われている。
参照 近江の城郭 織田信長と織田一族ゆかりの地