お城のデータ
別 称:宇山城
所在地:湖南市正福寺 (旧:甲賀郡甲西町正福寺) http://yahoo.jp/yhc357
目標地:正福寺(大日寺)
区 分:平山城 比 高:30m
現 状:山林・寺跡
遺 構:堀・関連説明板
築城期:室町期
築城者:青木氏
駐車場:正福寺駐車場
訪城日:2013.5.6
お城の概要
「正福寺(大日寺)」の東側、寺より小道が続いています。5分ほどで永巌寺跡の宝塔のある場所に着きます。この周辺、古墳もありますが、この一帯が城址です。寺跡は整備されていますが、周囲は竹薮・雑木林で、古墳を巡る横堀は城址の遺構なのか?です。寺跡から少し小道(参道)を降りていくと、左手にも郭を隔てる堀のような箇所があります。
【歴史】
青木氏の城と伝えられますが、永巌寺関連遺跡とも考えられます。
永巌寺跡宝塔
墓地
歴 史
奈良時代、聖武天皇の勅願により良弁が開山したと伝えられる浄土宗寺院。平安期にかけて隆盛を誇っていたが、2度の火災があったが、木造大日如来坐像、木造十一面観音立像仏像は残った。木造地増菩薩半跏像などの貴重な文化遺産は難を逃れた。 5月下旬から6月上旬には、境内に並ぶ石仏を取り巻くサツキの花群の風景に出会います。
大乗山正福寺と称し、今を去ること1250年、聖武天皇の勅願所として、良弁大僧正の開基である。
本尊胎蔵界大日如来は、金粛大菩薩一刀三礼の彫刻になる秘仏であり、当時は七堂伽藍を完備して、僧坊18、公衆12人を属し、官符を賜わりし後、弘仁8年檀林皇后の綸命により、願安大師貞観10年伽藍を再建されたのである。
聖武帝以来800有余年の間歴代の勅願所国家鎮護法灯の道場として、永く寺門の隆盛を極めたが、惜しい哉、元亀年間織田信長の兵火に遭い一山諸堂僧坊ことごとく焼失。
しかし本尊大日如来、薬師如来、十一面観世音菩薩、子安地蔵菩薩(いづれも国指定重要文化財)は火難をさけ、一草庵に安置して素朴な村人の信仰をあつめ其の後、明暦年間ときの住僧寂誉上人により浄土宗に転宗されたのである。
降って正徳3年4月霊誉上人により堂宇を再興されて以来、念仏の道場として教化四方に遍く繁栄を見たものの、不幸にも亦々宝暦6年3月16日の夜半、本堂、山門、鐘楼、悉く焼失したので、翌年には、無徳上人願主となり諸堂の復興に着手され、浄財勘募に日夜御苦労の甲斐あって、宝暦12年、本堂山門、鐘楼を最後としてようやく完成を見ることが出来た。
爾来、230年、時代の変遷と共に、栄枯盛衰は世の常と言うものの寺運衰微して、無檀、無縁の荒廃した寺となり、一時は住職もなく、兼務寺院となったこともあり其の当時の模様を、゛寒沈人なく黄鳥しきりにさへづる法華経”と、荒廃した山寺の実状を詠じたものらしい。
真明寺を貞享のころ再興したのは四世俊応であるが、この僧は正福寺村(甲西町)の青木庄助の子であるが、正福寺にもまた青木氏がいた。『寛政重修諸家譜』(巻665)には「先祖近江国甲賀郡正福寺の人にして、もとは上山を称す。美作守家がとき、同国青木の庄に住せしより称号とす」とあり、安の項の下に「近江国正福寺の城に住し、佐々木承禎が旗下なり。そのゝち織田右京(信長)に属し、右府生害のゝち青木左京進某に焼討せられ、つゐに所領を奪わる(下略)」と註記されている。
正福寺の青木氏も佐々木の幕下であった。菩提寺城、丸岡城(甲西町柑子袋)をまもっていたのも青木氏であった。このように青木氏は六角配下の土豪として当地方に勢力をもち、甲賀口を扼していたが、佐久間信盛らの来攻によって、菩提寺の青木氏、石部平野の青木氏も居城を捨て敗走したのである。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査報告、淡海の城、
本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!
現在の正福寺参道~