最高所(TVアンテナ塔)
万灯城踏査図(滋賀県中世城郭分布)
お城のデータ
所在地:東近江市(旧神崎郡)永源寺町相谷 map:http://yahoo.jp/Lk9zit
築城年:南北朝期
築城者:小倉右近太夫・小倉三河守良秀
城 主:安養寺(小辰)勝光・小辰勝徴
区 分:山城
城 域:頂部 東西50m×南北100m
標 高:370・8m 比高差:150m(旧街道~170m位)
遺 構:土塁・竪堀・物見櫓
目標地:相谷南バス停・手坂吉右エ門の墓所
訪城日:2015.4.23
国道421線相谷口の駐車場3~4台可(看板 食事と喫茶 古今)~電柱の右が登城口
登城口
山に入るとすぐ古屋敷の石垣、下屋敷カ?
先ずは、送電鉄塔を目指し、竪堀の様な?城道の様な?直登!
城への登城道は、北側山裾を走る道路が国道421号に出る所の山側に「火の用心」の看板が建っている所から山道がある。頂上手前は、テレビの共同受信施設の管理道で急坂が続く。
中腹に、石積・土塁痕・木場痕・土取り痕もあるが、城跡なのか?
送電鉄塔手前の削平地
お城の概要
相谷万灯山城は、八風街道沿いの相谷集落南の万灯山山頂に築かれている。相谷集落を過ぎると山深くなるが、万灯山はその山間部の入口に位置している。
城への登城道は、北側山裾を走る道路が国道421号に出る所の山側に「火の用心」の看板が建っている所から山道がある。頂上手前は、テレビの共同受信施設の管理道で急階段が続いているようである。
城の規模は、南北約80m、東西約20mで北と南に城域を区分出来る。北側中央に土壇があり東から北に幅の広い腰郭が取り巻いている。その南側は東縁部に土塁を伴う削平地が設けられた簡単な縄張りである。山頂から東西に延びる尾根の先端に位置しているが、ほとんど自然地形に近い。
城郭遺構としては、東端に切出してつくられた曲輪地形の虎口を固めるように竪堀がある。
南の尾根は細く削り出し、複数の竪堀も入れて守りを固めている。また、四方は急峻な斜面となって堅牢な山城。
頂部TVアンテナ
狼煙台
頂部から、南側へ下りるが獣道の様な斜度70度をジクザグに東に向かい下りる
小清水川を渡るとすぐ古屋敷の石垣、下屋敷カ?
古屋敷の石垣、下屋敷カ?
相谷万灯城(頂部)・・・(東側遠景)
お城の歴史
小倉氏は承暦年代(1077~1080)に清和源氏の後裔小倉景実が、背後に鈴鹿山脈を擁し、眼下に愛知川を望む天然の要害に築いた。
清和源氏の後裔である小倉氏は、南北朝期から室町期にかけて愛知川流域を支配したが、室町中期に3~4家に分家し、愛知川小椋庄を支配した小倉東家は高野城ならびに小倉城を居城とした。
また、神埼郡御園庄を支配した小倉西家は山上城を本拠とした。
小倉西家の小倉右近太夫、山田城主・小倉三河守良秀が支城として築いたのが相谷万灯山城と考えられている。
小倉右近太夫らが築いた支城には、和南城、山田城、九居瀬城、八尾山城等がある。
相谷万灯山城の築城は、城の形状が古いとして南北朝期に京極道誉の軍事行動と一体化して築かれた可能性が高いとされる。
後年には、山上城や山田城の出城であったことも事実のようである。
また、相谷の土豪小辰氏が残した「小辰家文書」によれば大永元年(1521)の江北合戦後に(現長浜市)安養寺城主の安養寺勝光の一族が相谷に移住し、小辰姓に改称して相谷万灯山城主となったとされている。
また、永禄2年(1559)に織田信長が守山から八風峠を越え清州に戻ったとき、小辰勝徴が道案内をしたと記されている。これは信長公記の記述と一致している。
目標地の相谷口バス停
永源寺町池之脇の長寿寺 池之脇城 近江国(永源寺)
赤穂神宮寺の僧俊惠が在住したことから、赤穂四十七士にまつわる「大石内蔵助」の書翰や関係文書が残されている。
赤穂浪士「寺坂吉右エ門」墓所
寺坂吉右衛門は、47士のなかで唯一、士分ではなく足軽の身分だった。身分の違いのために大石内蔵助良雄に逃げるよう命じられたという説や、あるいは自ら逃亡したという説など、吉右衛門が他の浪士たちと最後まで運命をともにすることがなかった理由には、諸説あるようだ。
吉右衛門は討ち入り後44年生き、延享4年(1747)に83歳で生涯を終えた。その墓が、東近江市・永源寺にある。
永源寺を愛知川の左岸に見ながら八風街道をダムに向かって行く途中、山手にひっそりと階段(相谷南口バス停)がある。その階段の先、「永源寺の末寺臨済庵の址」につくられた小さな墓地に、歴代の住僧の墓石とともに吉右衛門の墓は並んでいる。
墓とともに謂書があり、それによると、赤穂浪士に対する毀誉褒貶の真只中に生き残った吉右衛門は大石内蔵助の遺命により長寿寺(東近江市池之脇町)に入り、その後永源寺の四院曹源寺の仙霊祖竺和尚について得度したという。その末寺臨済庵で主家や藩士の菩提を弔いつつ寂しく生涯を終えた。僧名が刻まれた墓があったがいつしか盗難にあったので昭和55年有志により再建された旨が記されていた。
また、長寿寺には大石内蔵助の叔父が宿坊しており、大石内蔵助良雄が江戸へ行く際、長寿寺で一泊し千種越で湯の山(三重県)へ出たという由来も書かれていた。
参考資料:近江神崎郡志上巻・下巻、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、小辰家文書・信長公記
本日の訪問、ありがとうございました!!感謝