探訪 佐々木導譽の勝楽寺城跡 20120916
お城のデータ
所在地:坂田郡甲良町正楽寺/多賀町楢崎 map:http://yahoo.jp/SXqpLH
築城期:応安元年(1368)
築城者: 高筑豊後守
初城主:高筑豊後守
区 分:山城
遺 構:土塁・石垣・竪堀・見張り台・上謄おとし
城 域:430m×70m
標 高:300m 比高差:150m
目標地:勝楽寺
駐車場:勝楽寺駐車場
訪城日:2012.9.16
お城の概要
勝楽寺城は慶雲山勝楽寺の背後の山にあり、急峻なハイキングコースを登ること約20分で山頂の主曲輪に着く。
この間、眺望の開けた場所からは六角氏の居城・観音寺城が手の届くような距離に見え、近江半国を分け合う六角氏と京極氏が、かくも近いところに本城を構えていたことに、改めて不思議な感じがした。
山頂の曲輪は30m×30m程度の平坦部を利用してつくられ、主曲輪東側斜面には見事な石垣が約30mにわたって残っている。石垣の隙間からは裏込め石も確認され、京極氏段階で近世城郭に用いられる石積み技術が使われているとは考えにくく、京極氏以降の石垣であろう。
勝楽寺山の山頂より西方は甲良町字正楽寺に、東方は多賀町楢崎に属し、勝楽寺城の大手は楢崎側、勝楽寺側は搦手と考えられているが、六角氏と京極氏、および浅井氏の境目の城である以上、大手と搦手はその時々に支配する勢力によって変わっていたのは当然のことである。
勝楽寺の山門は勝楽寺城の上藹屋敷の城門で、勝楽寺山の中腹にあったものを天明年間(1781~1788)に山麓に移築したものであるといわれている。勝楽寺城が廃城となった後も、この門が何らかの形で使われていたのであろう。
勝楽寺は "ばさら大名" の異名で知られた京極道誉高氏が雲海和尚を請じて開山したものであり、道誉の菩提寺となっている。
道誉は晩年この地に隠棲し、応安6年(1373)に78歳の生涯を閉じた。境内には道誉の墓がある。
また、本堂には道誉が息子の高秀に還暦の時に描かせたという肖像画が保管されている。この肖像画は模写本で正本(国の重要文化財)は京都国立博物館に寄託されている。
お城の歴史
『嶋記録』には、勝楽寺城(甲良町)
今井一門連書之写シ「豊洲城、古ハヤツオ(八尾)又セイラクジ(勝楽寺)ナドにもありしよし申伝候」と掲載あり。
()内は、管理人が、解釈を漢字に・・滋賀県中世城郭分布調査5「旧犬上郡・愛知郡の城」49頁
お城の歴史
『嶋記録』には、勝楽寺城(甲良町)
今井一門連書之写シ「豊洲城、古ハヤツオ(八尾)又セイラクジ(勝楽寺)ナドにもありしよし申伝候」と掲載あり。
()内は、管理人が、解釈を漢字に・・滋賀県中世城郭分布調査5「旧犬上郡・愛知郡の城」49頁
勝楽寺城は、京極道誉(佐々木道誉)が館と領地を守護するために、応安元年(1368)高筑豊後守に命じて築城したものである。
この頃の江北の京極氏と江南の六角氏の国境は愛知川を境としていたが、六角定頼の代には六角氏の勢力が拡大し、国境は佐和山城、太尾山城、地頭山城辺りまで北上し、勝楽寺城も六角氏の支配下におかれた。
永禄3年(1560)野良田の戦いで六角義賢に勝利した浅井長政は、永禄6年(1563)観音寺騒動に乗じて愛知川以北を浅井領とし、勝楽寺城も浅井氏の支配下におかれた。
永禄11年(1568)には、足利義昭を奉じて上洛する織田信長によって落城し、麓の勝楽寺と共に炎上したとされ、当時勝楽寺城が六角氏の支配下であったことが窺える。
京極氏は江南・六角氏の観音寺城のように歴代城主が居城とした城はなく、太平寺城・柏原城・勝楽寺城・上平寺城・河内城と転々と居城を変る。
道誉の墓は京極家の菩提寺・清滝寺徳源院(米原市清滝)にもある。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江の城、日本城郭体系
本日の訪問ありがとうございす!!