城郭探訪

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杠葉尾城 近江国(永源寺・杠葉尾)

2015年10月21日 | 丘陵城
六角氏一門である佐々木定頼の弟で右近大夫・佐々木高実氏邸・杠葉尾(ゆずりお)城
 銚子ケ口岳登山口(標高340m)、駐車3台可
 
お城のデータ

所在地:東近江市永源寺杠葉尾町 (旧神崎郡永源寺町大字杠葉尾) map:http://yahoo.jp/3kngOHこの地図のURL

区 分:丘陵城(邸址)

現 状:山林 

築城期:室町期

築城者:佐々木高実(梅戸高実)

遺 構:曲郭、土塁、石積み、櫓台

標 高:360m   比高差:20m  

目標地:銚子ケ口岳登山口(標高340m)

駐車場:銚子ケ口岳登山口(標高340m)、駐車3台可

訪城日:2015.10.21
 
お城の概要

杠葉尾(ゆずりお)は、石榑峠、三重県へと続く八風街道の近江側最後の村である。

 八風街道は保内商人や山越え商人が街道と利用していた。(今掘日吉神社文書)織田信長も峠を越え、伊勢から京へ。

 杠葉尾(ゆずりお)城は、永源寺町杠葉尾集落(標高330m)の南側の舌状張出した丘陵中腹にあった。(国道421号線から杠葉尾の銚子ケ口岳登山口)

旧八風街道の『近江の城館の最東端」。近江の抑えに、六角氏一門である佐々木(梅戸)高実氏邸跡(銚子ケ口岳登山道)沿いに、曲郭、土塁、石積み、が残る。背後尾根から2mの掻揚げ土塁で遮断し、八風街道の監視の役割を担っていた。

新設された国号421号線で分断されたが、集落の南側の丘の頂部に、平削地(出丸・物見櫓)が比高差10mを図る。(茅葺屋根の西側・・・杉・竹・雑草)

 梅戸氏(梅戸城・・・いなべ市大安)は伊勢国における八風街道を抑えており、六角氏一門である佐々木高実氏【永源寺町杠葉尾(ゆずりお)住】を養子にすることによって戦略上でも重要視していたと思われる。

 
歴 史
 
「神崎郡志稿」(下巻)には、
梅戸氏邸 梅戸高実の邸址といて、杠葉尾(ゆずりお)に潤き一区があると記す。
 
梅戸城 伊勢国(大安町)

梅戸氏(うめどし)は、伊勢国の国人で北勢四十八家の内の一つ。田光隼則の後裔で、戦国時代に六角高頼の子高実が入嗣。永禄11年(1568年)、織田信長の北伊勢侵攻の時に攻め滅ぼされた。

梅戸高実は 佐々木定頼の弟で右近大夫と称し、伊勢の神戸家を継いだ」とある。詳細不明

 六角高頼
          ┃
    梅戸高実
          ┣━━━┳━━━┓
     高宗  実秀  高資 

梅戸 高実(うめど たかざね、 文亀2年(1502年)- 永禄4年(1561年))は、戦国時代の武将。六角高頼の子で梅戸氏に養子に入る。梅戸氏は伊勢国における八風街道を抑えており、六角氏一門である高実を養子にすることによって戦略上でも重要視していたと思われる。

後に梅戸城(現・三重県いなべ市大安町門前字天水。光蓮寺山公園として整備されている)を築城する。高実の死後は次男の実秀が家督を継いだが、1568年に織田信長に攻められて滅亡している。

 文献(角川日本地名大辞典)では、

 千種峠(根の平峠のこと?)などと共に、応仁文明の乱以降、警戒が厳重になったそうだ。盗賊などが出没する物騒な峠道でもあり、応仁2年(1468年)に尾張商人が八風峠を越えた時は、警固の武士数10名を率いて山上の宿に泊まったとのこと。また、連歌師宗長が桑名から近江へ越える折りにも、峠の旅宿で一夜を過ごしたと「宗長日記」にあるそうだ。大永6年(1526年)のことで、当時は「昔より馬・輿(こし)も通らぬという険しい八風峠」と言われたとのこと。ただ、険しいながらも峠に宿があったことに驚く。
 
<八風峠とし石榑峠>
 石榑峠の道が今でも八風街道と呼ばれるのは、やはり歴史的に八風峠の方が石榑峠より早くから通じていた道だったからであろう。ただ、その八風峠は江戸時代に入るとほとんど使われなかったようだ。一方、石榑峠は明治期まで、近江から伊勢参りをする近道として、また伊勢方面からは政所へと茶摘み女が越える道として使われたそうだ。旧永源寺町は政所茶の生産地として知られる。その延長として石榑峠に車道が通じ、遂には石榑トンネルが開通することとなったと言える。
 
 では何故、八風峠に代わって石榑峠が用いられるようになったのだろうか。一つは、標高かとも思った。八風峠は938m、石榑峠は689m(どちらも文献より)で、石榑峠の方がやや低い。近江から伊勢に通じるには、より南に位置する八風峠の方が近いが、全体的な道の容易さから、石榑峠のルートが選択されたのかと思ったのだ。

<八風峠>
 国道421号が八風街道と呼べるのは、この八風谷橋を渡った所までであろうか。
 
 以前は八風峠への分岐の角に、永源寺町教育委員会による「八風峠」と題した立札が立っていた(写真)。「八風の名は古く、伊勢風土記逸文、神武天皇東征神話に早くも八風の文字がある。」と始まる説明文は、最後に
「戦国時代を全盛とした峠道も、信長は安土城下に楽市を開いて山越商人を禁止、江戸幕府の関所徹底取締令などで八風越えは殆んど消滅したことは、慶安三年(1650)の黄和田文書が示しており、今も荒廃のままである。」と結んでいた。
上の画像をクリックすると拡大画像が表示されます

八風峠の看板 (撮影 1992.10.21)・・・(画像は不鮮明です)

背後を遮断、掻揚げ土塁背後を遮断、掻揚げ土塁

曲郭は三段

曲郭から国道421号線へ

集落背後の平削地(茅葺屋根の背後)

リンドウの花

佐々木高実氏邸【杠葉尾(ゆずりお)城】 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、ウィキペディア(Wikipedia)』、遺跡ウォーカーβ

     本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


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