政争に敗れた足利将軍を迎え入れた、近江の浮城
水茎岡山城祉石碑 頭山(主郭)
・別 名:水茎城・岡山城
・所在地:近江八幡市牧町 Map:http://yahoo.jp/Zl7zwU
・目標地点:牧水泳場
・形式:山城、水城 ・比高:70m
・現況:山林
・遺構等:堀切・竪堀・説明板・石碑
・築城期:室町期
・築城者:九里氏・伊庭氏 ・主郭までの所要時間:牧水泳場の駐車場より15分
・訪城日:2014.1.24
水茎岡山城は近江八幡城の西方、琵琶湖に面した頭山に築かれた山城である。
伝によれば、南北朝時代に六角氏の 湖上警備の城として築かれ、戦国時代最中の永正五年(1508)ころより本格的な築城が行われたようだ。かつては 琵琶湖に浮かぶ水城であったが、戦後の干拓事業によって周囲が埋め立てられてしまい、戦国時代に「湖中の浮城」と いわれた風情はない。戦国時代の城主は、六角氏の被官九里氏であった。
水茎岡山城が戦国史に大きな足跡を刻んだのは、幕府内における抗争に敗れた十二代将軍足利義澄をかくまったことで ある。当時、幕府は管領細川氏の内部抗争が続き、将軍はまったく政争の具ともいえる傀儡状態であった。 義澄は細川澄元にかつがれて将軍職にあったが、細川高国と大内義興のかつぐ前将軍足利義尹(のち義稙)に 京を追われ、近江に逃れて岡山城に入り再起を期したのである。しかし、京への復帰はならず、永正八年(1511年)、 むなしくこの城で病没した。
その後、六角氏と伊庭氏との間で抗争が起こると、 九里氏は伊庭氏に与して活躍したが、敗れて岡山城は廃城となった。
【水茎岡山城の縄張り】
縄張り図【頭山に本丸。大山に二の丸。亀山に三の丸
水城(昭和24年頃)・・・戦争の引揚者の為に干拓
発掘調査の遺構図
県道沿い・・・尾山(東)側に
ムベなるか・・・と天智天皇が
天智天皇がこの老夫婦に、「汝ら如何に斯く長寿ぞ」と長寿の秘訣を尋ねたところ、老夫婦は、「この地で取れる無病長寿の霊果を毎年秋に食します」と言いながら、ひとつの果実を差し出しました。それならば食べてみようと天智天皇もその果物を一口食べました。すると、「むべなるかな(もっともであるな)」と一言天皇は言ったのです。
そして、これより朝廷に毎年献上することになったのです
以後、北津田町は朝廷や幕府からの賦役の免除、献上の道中に帯刀するなどの恩典を受けました。献上は1982年まで続きました。天智天皇を祭神とする大津市の近江神宮へも1940年の創祀(そうし)以来、毎年献納を続けています。
主郭の石
「削岩のノミ跡」がはっきり三つ。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査 (蒲生郡の城)、淡海の城、城郭巡り備忘禄、
本日も訪問、ありがとうございました。