城郭探訪

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歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」 後編

2012年07月22日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

歴史ブロガーの「木曽殿最後の地・膳所を訪ねて」 後編

 

膳所城址(膳所公園)

縄張りは有名な藤堂高虎が担当。城普請大名「藤堂高虎」


築城に際しての興味深い話として、関ヶ原の合戦のあとの守備として、逢坂の関を復旧するか、大津城を再興するかという家康の相談に、信任の厚かった本多佐渡守正信は、その策には賛同できないといって、瀬田の山岡景隆(かげたか)の城跡と大江の窪江城跡、そして膳所崎(ぜぜがさき)の3ヶ所に幟(のぼり)をたて、城地としての地勢を判断した結果、膳所崎が最適であると提案しました。
大津城は大津籠城の際、守りのもろさを露呈しました。瀬田の地では東海道を押さえても、湖上水運を押さえられないことから、膳所の地に
膳所城は、東海道の名勝として、屏風や図絵にも描かれ、街道を行き来する旅人は、「瀬田の唐橋 唐金擬宝珠(からかねぎぼし) 水に映るは膳所の城」と唄われるほどでの雄姿でもありました。

鳥瞰図は正保城絵図を参考にして描かれている。                                                                               

 湖水に突き出す半島状の地形を利用して本丸と二の丸が置かれていた。本丸の脇には出丸と呼ばれる付属的な郭もあった。                               本丸の広さは36m×45m、二の丸が65m×92mほどの大きさで近世城郭としてはささやかな規模である。二の丸の南には馬出しのような郭もあるが、正保年間より以降、ここに三の丸が設けられていたという。

 城域はそれほど広大なものではないが、図を一見して気が付くように、この城には多層の建造物が多く建てられていた。本丸にある天守は珍しい四層構造で、本丸にはその他に三重櫓もあった。また2層櫓も多く建てられているが、なんと言っても目立つのは、虎口周辺の2層構造の多聞櫓の存在であろう。2層の多聞櫓が枡形を形成している様は他の城ではあまり見られないものであり、もしこれが現存していたなら、そうとうに見ごたえのあるものであったと思われる。

本多家の「立葵紋」 膳所城跡公園

 膳所城跡碑

三の丸(外観復元)膳所天守跡

膳所城祉 三角点

芭蕉の句二の丸跡は、ヨシが群生。 

「石鹿地蔵尊」

 城跡公園の一角にお地蔵さんが。 織田信長が比叡山を焼き払い坂本城を築城した際に石地蔵を礎石として使用。それが大津城、膳所城と使用され明治3年の廃城時本丸跡などから現れたものさんが祀られている。

膳所城跡~膳所神社門前参道に

膳所神社門前のうなぎ専門店(土用の丑の日近いためか、いい匂いが!)

天智天皇の大津宮時代、獲った魚を調達した陪膳浜(おものはま)といわれていた。                                                      

膳所神社

社伝によりますと、天智天皇の大津京遷都のとき、膳所の地が御厨(みくりや)の地と定められ、天武天皇の代に大和国から食物の神を移して祀ったのが膳所神社の始まりとされていますが、確かな資料は、平安時代、この一帯が天皇の食事としての湖の魚介類を献上する場所に指定されたことによると言われています。御祭神は、食物をつかさどる豊受比売命(とようけひめのみこと)です。
  江戸時代、膳所藩の領地になると、本多家歴代藩主に信仰され、神社の領地や社殿の寄進がたびたびありました。
正面に建っている薬医門は、もともと膳所城の城門を移築したもので北門や南門も膳所城の門ですが、南門は近年建て替えられた。

 

北門南門

 

 門前・宿場に旨いものあり「亀屋廣房の兼平餅」
兼平餅 : 湖都・近江膳所・亀屋廣房でございます膳所城のお膝元、中庄に瀟洒なお店を構える亀屋廣房さんの兼平餅。古くはこの地にあった三軒茶屋にて名物であったもので芭蕉、勝海舟も味わったとされるこの銘菓が一度は途絶えたものの、約30年前に復活させたという由緒正しい逸品です。蓬の餅に黒砂糖餡を包み、きなこをたっぷりとまぶした小粒の餅はしつこさも無く実に美味。赤く色づいた紅葉を見ながら舌鼓を打たせていただきました。

篠津神社

表門である高麗門はかつての膳所城の北大手の城門

 御祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)です。創始年代はわかりませんが、篠津神社にある康正(こうしょう)二年(1456)銘の棟札から、室町時代の中頃には鎮座していたことがわかり、地元の氏神として信仰を集めています。古くは、天王社、天王宮、のちに牛頭天王社と言われていました。
江戸時代に入って、膳所藩主本多家の崇敬を受け、神社の領地二十二石が認められていました。現在の社殿は、本多俊次が藩主の時代、万治四年(1661)に造営したものです。表門である高麗門はかつての膳所城の北大手の城門であったことが、発見された棟札から判明しました。

旧東海道を往く、勢多(瀬田)方面

 

 

若宮八幡神社

表門は膳所城の犬走門を移築

 

御祭神は仁徳天皇です。社伝によりますと和田神社と同じく白鳳四年の創建といわれ、天智天皇が宇佐八幡の神のお告げより、この地に行幸した時、紫の雲がたなびき、金色の鳩が飛来し、この近くの森の大木に止まりました。天皇は、それを、めでたいことの前兆として現れる不思議なこととして、神社の造営を決められ、仁徳天皇の木像を下賜されたことが、この神社の始まりだといわれています。
この神社は、延喜十七年(917)落雷のため憂き目を見ますが、再建後の平安時代末期、寿永三年(1184)、木曽義仲の粟津の合戦で焼失ののち、源頼朝により再興されました。江戸時代は、他の膳所の神社同様、藩主本多家に庇護されました。やはりこの表門も膳所城の犬走り門を移築したもの。

旧武家屋敷跡が続く・・・江戸時代徳川家康が大津城を廃城とし、膳所城を築城して以来軍事的な城下町として栄えた。家並みや屈折した小路など、往時の東海道の面影を偲ぶことができる。
また江戸時代、膳所藩の侍たちが暮らしていた屋敷は、すべて造り土塀をめぐらしていましたが、現在ではほとんど姿を消しています。それでも中ノ庄駅付近にはまだ何軒か土塀のある屋敷が残されています。


 京阪電鉄に平行している旧東海道の町並みは、家並のほか曲折した小路を持っているなど昔の面影を偲ぶことができ、特に旧武家屋敷跡の土塀などが今も残っている。縁心寺(えんしんじ)や膳所事件で犠牲者となって処刑された藩士11名のうちの数名が葬られている安昌寺(あんしょうじ)など、まさに街全体が歴史といえる。

粟津口番所

膳所の城下町の南の入口。

枡形街道で、防衛の役目)膳所城のの勢多口は家老常駐していた。

本多神社(浜御殿)膳所藩主を輩出した本多氏ゆかりの神社で、明治16年(1883年)に旧膳所藩士など有志により建立された。                祭神は本多氏中興の祖と仰がれる本多忠俊、忠次、康俊、俊次の4名で、このうち康俊、俊次は膳所藩主となった人物である。                    神紋も本多氏の「立葵」で、境内地は膳所藩主の別邸として江戸初期に営まれた瓦ケ浜御殿の跡にあたる。

  

 

粟津の晴嵐(通貨)

旧東海道の粟津の松並木(旧NEC石山工場~石山駅北口へ)

明治28年、粟津ヶ原、東海道の松並木・田植の絵図農業試験場発祥の地付近

(植物ウィルスが、昆虫を媒介によって伝染されることを発見した世界的な研究や、稲作史上はじめての人口交配により、新しい品種(近江錦)を育成、実用化に成功したことなどで、農業の発展に貢献した幾多の試験研究がこの地で行われた)

今井兼平墓・・・石山駅の北口を出て、大津方面に5分

今井兼平は平安後期の武将で、木曽(源)義仲の乳兄弟。義仲とともに源頼朝軍と戦い、粟津の合戦(1184年)で敗れ義仲が戦死すると、後を追い自刃した。現在の墓は今井家末裔により建てられたもので、もとは本多俊次が業平の自刃した地、中庄墨黒谷に墓碑を建立。兼平を尊敬していた膳所藩主本多康将が、参拝の便を考え、この地に移設した墓。

義仲の乳母子として共に育ち、兄の兼光と共に側近として仕える。鎌倉軍に追われ敗走する義仲に従い、粟津の戦いで討ち死にした義仲の後を追って自害した。享年33才、その壮絶な最期は、乳兄弟の絆の強さを示すとして知られる。

この碑は業平の末裔、木曽諏訪市の人から

 

 

石山駅の北口のガス灯

 平成19年には、JR石山駅北口広場にも1基設置されている。1640年、オランダの化学者

石山駅北口のガス灯の下で解散

・参考資料:現地説明の神主、語り部、文化財保護課(県)・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

次回Eコース:「歴史ブロガーの「瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて」・・・瀬田唐橋・近江国庁跡・堂ノ上遺跡など 」 お楽しみに!


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