十二将神社の鳥居から山寺城の前を通る道は、今でも「馬場」と呼ばれている。
城郭の概要
所在地:草津市山寺町
区 分:平城
城 主:宇野氏
遺 構:土塁、櫓台、虎口、空堀・水堀、西側郭跡
訪城日:2014.2.13
本殿の西側空堀(操作場を造る際に周辺の城郭遺構が壊されたカ?)
山寺城は十二将神社の東側、竹藪一帯である。
主曲輪の広さは南北30~35m,東西25m程度で、曲輪東側には土塁を築き、南側には土塁を利用した形で虎口、北東隅には5m四方の櫓台が設けられている。
主曲輪の西側にかけての緩やかな傾斜地の中に、幾つかの曲輪が確認できる。
山寺城は緩やかで入り組んだ谷地を形成する小丘の先端に築かれています。一見して、肥沃な谷地であったと推測されますが、城自体は居館程度の 域を出るものではありません。単郭方形の館城で、土塁と櫓台が残っているという、主郭部は矢竹や雑木で確認出来ず藪漕ぎしないと主郭にはたどり着けない、危険で登城は諦めた。
十二将神社の鳥居から山寺城の前を通る道は、今でも「馬場」と呼ばれている。この馬場と呼ばれる道の東側は帝産バス会社の操作場となっている。
この操作場を造る際に周辺の城郭遺構が壊されたカ、主要な遺構を残すような形で造成されている。
宇野氏の居城とされるが、詳細は不明
在地領主宇野氏の居城と伝わる。宇野喜十郎盛親の名が見られる。子孫宇野氏は、江戸時代も膳所藩の志津郷代官として栄えた。
山寺城の土塁
山寺城の土塁
西側の水堀(北~・南~)
大槻神社2の鳥居を背に登城口
主曲輪の西側にかけての緩やかな傾斜地の中に、幾つかの曲輪が確認できる。
山寺城の土塁
山寺城の土塁
山寺城の土塁
本日も訪問、ありがとうございました