お城のデータ
所在地:近江八幡市玉木町2丁目 map:http://yahoo.jp/DRtBAL
現 状:民家
遺 構:
区 分:陣屋(代官所)
築城期:江戸期 元禄11年(1698)以降
築城者:朽木主膳
城 主:朽木則綱・直綱・紀綱・長綱・綱弘
城 域:南北約70m×東西約50m四方
目標地:玉木バス停
駐車場: 路上駐車場
訪城日:2014.8.20
お城の概要
名門朽木氏一族、旗本の代官所。朽木主膳陣屋は、江戸中期に置かれた旗本の代官所である。
秀次の城下町(玉木町)に、江戸期に飛び地の陣屋が置かれ、現在は民家が建替えの工事中、遺構や街並みも更新される。
場所は玉木バス停西側の一画で、規模は南北約70m×東西約50m四方と考えられている
福知山藩朽木氏庶流の代官所。
1698年、朽木則綱が近江国内に6千石の代官地を与えられ、その頃の築城と考えられる。
則綱以降、歴代の領主である直綱・紀綱・長綱・綱弘は代々「朽木主膳」を名乗った。
1825年に同地一帯が天領となったため、廃城となる。
城域は、現在の玉木町バス停付近とされる。 南北約70m×東西約50mの規模があったと考
歴 史
朽木主膳陣屋は、福知山城主朽木氏から派生した分流朽木氏が旗本として代官所を構えた地である。
朽木氏は、近江守護佐々木氏から六角氏や京極氏と共に分かれた高島氏から、更に派生した高島七頭の1つに数えられ、朽木庄を本拠として代々将軍家に仕えた。
戦国末期には朽木元綱が信長・秀吉・家康の三英傑に従い朽木藩を維持した。元綱の死後の遺領は3子に分知されたため、朽木宗家を継いだ嫡男宣綱は大名の資格を失ったが、交代寄合の旗本として6470石で朽木庄を継いだ。
そのうち3男稙綱には1100石余が与えられたが、のちに将軍家光に重用されて、下野鹿沼藩や常陸土浦藩を与えられ宗家を上回る大名に取り立てられた。
稙綱の子稙昌の時、福知山32000石に移封された。
稙昌の死後、遺領の一部である3000石が次男則綱に分与され、則綱は将軍家綱・綱吉に仕えて元禄11年(1698)近江国蒲生・栗太・野洲3郡内に6000石を与えられた。
朽木主膳陣屋が築かれた時期は定かではないが、則綱ののち直綱・紀綱・長綱・綱弘は代々主膳を名乗っている。また代々朽木氏は、旗本として江戸芝の西久保に屋敷を構えていたので、陣屋では代官が政務を司っていた。
文政8年(1825)綱弘の子綱常の時に陣屋のあった八幡町の中心地は天領となり、その代償として郡内木村及び下小房村を与えられ、陣屋は信楽代官所に引き渡された。
宝永五年から文教九年まで全市が朽木領となった。
朽木綱常は天保年間(1830-43)、同じ八幡町内の北ノ庄村に新たに朽木和泉守陣屋を築き、陣屋に代官を配置し明治に至った。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、日本城郭体系11
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