「織屋」は国道3号線の路地を海側に入った所にあった。観光客がよく来るのだろう。入口の柱に「御宿おりや」の看板。庭にはベニアでできた後姿の山頭火。そして、例の木に書かれた句がたくさん掛けてある。「織屋」はすでに廃業していて、今は山頭火の泊まった宿ということで、内部を見ることができるようになっていた。しかし、鍵が掛かっている。諦めて写真だけ撮って帰ろうとしたら、どこからか管理の人がやってきて鍵を開けてくれた。
記帳して薄暗い中を見渡す。かなり老朽化している。しかし、現在山頭火の泊まった宿で残っているのはここだけだという。畳は六畳間が二つほど、広くはない。笠と法衣がぶら下げてある。二階へ上がる。床の間付きの部屋が二つ。窓の外は隣の屋根。景色が良いわけでもない。それでも、山頭火は昭和5年9月11日の日記の中で、「午前中行乞、午後は休養、此宿は夫婦揃って好人物で、一泊四十銭では勿体ないほどである」と「織屋」の主人夫婦によくされて、居心地がよかったのか、四泊もしている。昔の木賃宿というのは、本来、木銭つまり燃料費を払って自炊する宿のことで、下級の安宿だ。金波楼とは雲泥の差。しかし、行乞の山頭火にとっては泊めてもらえる宿があるだけでもありがたいことなのだ。
さて、部屋の中はというと、山頭火の句を書いたもので溢れていた。有名作家の版画、某書家の書、素人の作品まで様々で、ほほえましいという部分もあるが、俗っぽく、ブームにあやかって、といった感じで感心できず、残念ながら長居はできなかった。「終わったら鍵かけておいて」と言われていたので、助かった。それでも、木賃宿の雰囲気は十分に味わえた。
気分を変えて海に向かう。海岸線はかなり干拓されていて、海まで案外時間がかかった。干拓地は農地となっていて畑が広がる。農道を抜けて不知火海に出た。いつのまにか雪は止んで、眼前に島原の島が見えた。船も見えず、穏やかといえば穏やかだが、寂しい感じもした。
そろそろ帰りの列車の時間もあるので、まだ見ていなかった海側の温泉宿の前を通り、山頭火の石碑で、持ってきた2リットルのペットボトルに温泉水を詰めて帰路につく。食事と温泉以外は歩きっぱなしだった。流石に疲れたが、ニッケ飴をなめながら日奈久温泉駅に向かう。16時過ぎ、駅員のおばちゃんが声をかけてくれた。「いい旅ができました。ありがとうございます。」と返事して、列車に乗った。