海山の創作ノート

工房T 海山の書、印、絵、版画、工作、etc.日々の暮らしの中で出来た作品を紹介します。 さて、今日は何を作るかな。

No.339 旅行記 「山頭火を求めて」 日奈久その5

2009-02-12 | その他

● 八代へ
 八代で熊本行きに乗り継いで、熊本で下車する、ということも頭にあったけれど、なぜか八代駅で町を見てみたいと思った。改札を出るとすぐに観光案内所へ入った。地図をもらう。いつものお決まりのパターン。地図を見ていたら「山頭火句碑」を発見。そうか、そういうことだったのか。どうして八代で降りてみようと思ったのか。答えが出た。「山頭火を探す旅」なのだ。駅からすぐ目の前の国道を横切った大きな川の土手に、その石碑はあった。
 「昭和5年9月9日、熊本を発って八代から宮崎、鹿児島方面に旅に出ているのだが、出発直前に、それまでの日記を焼き捨てているため、今日我々が山頭火の日記を読むことができるのは、この新たな旅からである。そういう意味で八代は山頭火再生の地、と称して過言ではない。」と石碑横に解説がある。石碑には
 このみちや いくたりゆきし われはけふゆく
山頭火の決意のようなものが感じられる力強い句だ。
字は自筆の拡大だが、彫りも石もいい。2メートルほどの立派なもので、伊豫松山の青石という。球磨川を見下ろし様に立っている。これほど堂々としたものとは思わなかったので、とてもうれしくなった。この旅の終わりに一番いいものが残っていたように思った。土手道を時々車が通るが、セルフタイマーで写真を撮った。
 私にとって、「山頭火石碑めぐりの旅」のスタートとなる記念すべき碑となった。
川の向こうに、曇り空から夕方の太陽が筋となって輝いていた。
                  「山頭火を求めて」日奈久  (了)

No.338 旅行記 「山頭火を求めて」 日奈久その4

2009-02-10 | その他

「織屋」は国道3号線の路地を海側に入った所にあった。観光客がよく来るのだろう。入口の柱に「御宿おりや」の看板。庭にはベニアでできた後姿の山頭火。そして、例の木に書かれた句がたくさん掛けてある。「織屋」はすでに廃業していて、今は山頭火の泊まった宿ということで、内部を見ることができるようになっていた。しかし、鍵が掛かっている。諦めて写真だけ撮って帰ろうとしたら、どこからか管理の人がやってきて鍵を開けてくれた。
 記帳して薄暗い中を見渡す。かなり老朽化している。しかし、現在山頭火の泊まった宿で残っているのはここだけだという。畳は六畳間が二つほど、広くはない。笠と法衣がぶら下げてある。二階へ上がる。床の間付きの部屋が二つ。窓の外は隣の屋根。景色が良いわけでもない。それでも、山頭火は昭和5年9月11日の日記の中で、「午前中行乞、午後は休養、此宿は夫婦揃って好人物で、一泊四十銭では勿体ないほどである」と「織屋」の主人夫婦によくされて、居心地がよかったのか、四泊もしている。昔の木賃宿というのは、本来、木銭つまり燃料費を払って自炊する宿のことで、下級の安宿だ。金波楼とは雲泥の差。しかし、行乞の山頭火にとっては泊めてもらえる宿があるだけでもありがたいことなのだ。
 さて、部屋の中はというと、山頭火の句を書いたもので溢れていた。有名作家の版画、某書家の書、素人の作品まで様々で、ほほえましいという部分もあるが、俗っぽく、ブームにあやかって、といった感じで感心できず、残念ながら長居はできなかった。「終わったら鍵かけておいて」と言われていたので、助かった。それでも、木賃宿の雰囲気は十分に味わえた。
 気分を変えて海に向かう。海岸線はかなり干拓されていて、海まで案外時間がかかった。干拓地は農地となっていて畑が広がる。農道を抜けて不知火海に出た。いつのまにか雪は止んで、眼前に島原の島が見えた。船も見えず、穏やかといえば穏やかだが、寂しい感じもした。
 そろそろ帰りの列車の時間もあるので、まだ見ていなかった海側の温泉宿の前を通り、山頭火の石碑で、持ってきた2リットルのペットボトルに温泉水を詰めて帰路につく。食事と温泉以外は歩きっぱなしだった。流石に疲れたが、ニッケ飴をなめながら日奈久温泉駅に向かう。16時過ぎ、駅員のおばちゃんが声をかけてくれた。「いい旅ができました。ありがとうございます。」と返事して、列車に乗った。

No.337 旅行記 「山頭火を求めて」 日奈久その3

2009-02-06 | その他

山頭火の石碑


まさにあふれる湯


● この小さなエリアに、温泉旅館がなんと16軒もある。他にも、温泉センターは改築事中で見ることはできなかったけれど、共同浴場が3つ、「東湯」「西湯」「松の湯」がある。
パンフレットによれば「温泉センターを中心に円を描いてみると60メートル以内に7つ、60から100メートルの範囲に4つ、100から200メートル以内に5つ、合計16の泉源が、まさに一極集中している。温泉天国」とある。そして、すごいことに、どの温泉旅館でも立ち寄り入浴ができ、しかもほぼ掛け流しの湯なのだ。(温泉旅館16軒のうち15軒が掛け流し状態)「金波楼」というとても名高い旅館もある。(温泉の風情を味わうのにうってつけの宿、黒木瞳さんを起用したコマーシャルでも登場したらしいが、「日奈久」の名が出なかったそうで、そのことを地元の人は怒っていた。)
泉質は弱アルカリ単純泉。リウマチ、神経痛、創傷などにきくという。飲用もできる温泉だ。

 特に全部回ってみようなどとは思わなかったけれど、知らず知らずのうちに気づけば国道のこちら側は全部まわってしまった。それほど温泉旅館は密集している。共同浴場、ちくわ屋、竹細工屋、お土産屋、観光案内所、えびすさんの祠、などを見ながら、腹ごなしの散策の最後に、山頭火句碑の写真を撮り、飲用の温泉水を飲んで、いざ温泉へ。
ラーメン屋さんのお薦めに従って、○○○旅館へ。重厚な引き戸を開けて広い玄関で入浴をお願いした。案内された浴場には脱衣場の仕切りがない。二段の棚に脱衣籠が6個。さほど広くもないが、一段下りればもう溢れる湯だ。なんと消火栓から出るように、鯉の形をした彫刻からお湯がどーっと噴き出している。湯船からあふれ、洗い場は常に湯が流れている。豊かな湯だ。しかも、この湯を独り占め。何が気持ちいいかといえば、こんなに溢れる湯を一人で使うこと、これにまさるものはない。露天でもないし、造りが凝っているということでもない。一人で独占するということが今までになかったわけではない。しかし、こんなに豊な気持ちになったのは始めてだ。
約30分、至福の時を堪能した。ほどよく、次の方が入ってこられてので譲った。
帰りに、宿の主人に話を伺った。39.5度でそのまま湧き出し、湯船は20分ほどで全ての湯が入れ替わってしまうという温泉のこと、まだ50年しか経っていないという建物のこと、そして山頭火のこと。「うちの爺さんが知っていたが、ホイトウだ。きれいごとばかり言っている。」と少々批判的。山頭火が泊まったという「織屋」の場所を尋ねたら、「元はうちの夏の家だったのを宿屋に売った」と言うのだ。
 というわけで、あっさり織屋の場所もわかったので、早々に宿を後にした。「ホイトウ」という言葉が、喉にひっかかった魚の骨のように気になったが、それも事実、そんな見方もある、と気を取り直して迷路の中にまた入っていく。しかし、もはや迷路ではない。地図が正確、案内もしっかいしている。なんといっても限られた地域だ。迷うことはない。

No.336 旅行記  「山頭火を求めて」 日奈久温泉その二

2009-02-03 | その他



●思わず、心の中で「いいぞ!」と叫んだ。
 日奈久温泉駅のホームには、いきなり山頭火の句が目の前にでてきた。30センチ程の丸太の輪切りの板に書いた素朴なもので、「いつも一人で赤とんぼ」や「この旅果ても旅のつくつくぼうし」など。跨線橋を渡って、改札口では、ちょっと変だが、山頭火の格好をしたマネキンが出迎えてくれた。改札を出ると、今度はお土産や特産品のワゴンが並ぶ。JRの駅とは違う雰囲気にちょっと戸惑う。まあ、特徴があっていいか。駅員さんたちもみんな女性で、柔らかい感じもする。まず、改札で地図と名物のニッケ飴をゲットして歩き始めた。
 相変わらず小雪がちらついてはいるが傘をさすほどではない。左手に地図、右手にデジカメ、背中にはいつものリュックだ。地図は手書き絵のきれいなもので、とてもわかりやすい。駅の左手に向かって10分も歩けば日奈久温泉街だ。国道には車は走っている。なんといってもこれでも国道3号線だ。交通量は多い。しかし、一歩脇道に入ると道も狭くなり、人通りもなくなる。既にこの閑散とした、なんとも昔風のたたずまい、町の雰囲気、ムードがちょっと歩いただけで伝わってくる。子供のころに逆戻りしたような風景。いい感じだ。旅に出たということを実感する。もしかすると、タイムスリップしたのかもしれないぞ。そんな感じだ。軽快に足が進む。
 熊本県八代地域振興局発行の「日奈久物語」というパンフレットには、「日奈久は路地で迷うのが面白い」とある。確かに、狭い路地、そして味噌屋、白壁など、そこここに、「歴史の町」や「古いたたずまい」を感じさせる建物が並ぶ。旧薩摩街道を通っているらしい。民家の壁に例の山頭火の句。それに混じって子供の句も書いてある。どうやら俳句作りが盛んなようだ。酒屋の入口にはたくさん並べてあってほほえましい。高田焼の上野窯でガラス越しにちょっと見学、路地に入ったら、足手荒神という小さな神社…。
寄り道ばかりではなかなか進まないので、まずは温泉神社を目指した。立派な土蔵や温泉旅館、ちくわ屋、お土産やなどを横目に、10分程歩いて、鳥居をくぐって階段を上ると相撲の土俵、それを囲うように石でできた桟敷席、奉納相撲をやるらしい。この桟敷は安政年間のもので、ローマのコロシアムに匹敵する歴史遺産という。
 さて、日奈久温泉は、1409年、神のお告げによって発見されたというから、とても歴史ある温泉で、今年でちょうど600年ということになる。熊本と薩摩を結ぶ薩摩街道が日奈久の真中を通っているので、参勤交代で島津の殿様も通ったし、西郷隆盛も大久保利通もシーボルトも、きっと通った道。当然人通りが多いから、温泉も藩の直営の温泉場として江戸、明治、大正、昭和と隆盛を極めたらしい。
温泉神社はまさにその神をまつってある。ここは見晴らしもよく、日奈久の町並みが海の方へ広がり、不知火海もよく見える。晴れていれば天草の島が見えるらしいが、まだ小雪がちらついているので見ることができず、ちょっと残念。
 階段を下って温泉街まで戻った。懐かしい感じのお土産屋さんをのぞいてみた。いかにもお似合いのおばあちゃんが店番をしていて、つい竹の箸を買ってしまう。名物のちくわの焼けるにおい、そろそろお腹もへったので、目抜き通り?のラーメン屋で体を中から温めた。
 さて、いよいよ温泉だ。ラーメン屋の主人に単刀直入「どこの湯がいいですか?」と訪ねてみた。なんといっても地元の人に聴くのが一番なのだ。夫婦そろって三湯程の名前が出てきた。というわけで、その三湯を探しながら、いよいよ本格的に「路地に迷う」とするか!