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江州中原氏の崇峻天皇から始まる系図を調べてみる。(2)泊瀬王

2023-07-30 | 中原氏バラバラ情報
 

系図綱要 より


聖徳太子の第二子に長谷王がいる。
泊瀬王とも、泊瀬仲王とも、言われている。


崇峻天皇の同母の妹(穴穂部間人皇女)に池辺天皇大后 後嫁多米王 とある。聖徳太子の母親である。

池辺天皇とは、用明天皇ではないか?と言われている天皇であり、多米王は用明天皇の息の「田目皇子」のことであろうと思われる。

この崇峻天皇姉の息が聖徳太子という事で、崇峻天皇が歿した後にその息たちを匿ったのだろうと思う。

さらに、用明天皇が歿した後に多米王に嫁いだ穴穂部間人皇女は、佐富女王を産み、聖徳太子の第二子長谷王の妻としている。

暗殺されてしまった崇峻天皇(泊瀬部という諱)を思う穴穂部間人皇女が、崇峻天皇の息の【定世親王】の名前を【長谷王】と付け替えたとも考えられるのではないだろうか?

そこに長谷王の息や娘に【波知乃古王】【錦代王】がいることも
泊瀬王の息に蜂子皇子がいて、ココが混乱の源でもあるのだが、ココは後日に考えようと思う。

蜂子皇子は592年に崇峻天皇が暗殺された際に聖徳太子が匿い‥‥とあった。
蜂子皇子の兄弟とも思われる【定世親王】

崇峻天皇ー定世親王(改め長谷王)ー常世となったのではないだろうか?

ここに一つの共通点があることがわかる。
崇峻天皇は蘇我氏に暗殺され、長谷王は蘇我氏と闘っている最中に突如没したのである。

その子孫たちは、其の蘇我氏のテリトリーから離れ、身を隠す必要があったと思う。それが、秦氏の許に入る事だったのではないかと思うのである。

聖徳太子の娘に【波止利女王】がいる。
そして、長谷王の息に【波知乃古子王】がいる。

ハタオリと蜂。

蜂丘寺も603年に出来ている。

つまり、江州中原氏の祖となった定世、常世はこちらの【長谷王】とのつながりがあるのではないだろうか?と思っている。

長谷王の実の父は崇峻天皇で、長谷王=定世親王であって、
穴穂部間人皇女に育てられていたのかもしれない。

近江国愛智郡ほか七郡を賜ったと言われている「中原成行」も、秦氏のテリトリーで、多々の依知秦氏の文書の残っている場所である。

そこに開発領主として入った江州中原氏である。
秦氏とのつながりは密であったとみて良い。








この『上宮記』は古事記・日本書紀よりも古いと言われているそうである。


私的memo

長谷王の息に【葛城王】がいる。
何人か葛城を冠した人物はこの時代にいるようなのだが、
欽明天皇の皇子(つまり崇峻天皇の兄弟)の葛城王
敏達天皇と推古天皇の息の葛城王
天武朝の葛城王






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