壬生藩の関係で何度か鳥居氏を調べていたが、見落としていらたしい。
壬生鳥居藩側近には…の件。
壬生藩のwikiでは寛永年間は「鳥居氏」が藩主となっていない。
我が家の別紙には「寛永年間壬生城云々」とある。
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今日、鳥居忠政のwikipediaを見ると「壬生藩鳥居家初代」とあり、忠政は寛永5年まで生きていた人物なのだ。
きっと手紙の主である九里孫三郎は鳥居忠政の壬生城で働いていた!と思う。
思い込みかも知れないが‥このブログ自体が思い込みの連続でもあるのでご容赦を。
鳥居氏の出自は紀伊国熊野権現の神職の家柄である。
鳥居氏の祖である熊野新宮第19代別当行範(重氏)は平清盛から平氏の姓を賜り平氏と称し、通称「鳥居法眼」と呼ばれた。
承久の乱以降の行忠の代には、三河国矢作庄に移り、土着して忠氏と改名したと伝わる。
いやはや、こんなところにつながって。
でも九里氏は鎌倉から紀伊国に遷っているメンバーもいるので、納得はできる。
以前こだわっていた佐々木氏の行範も本当に鳥居氏だったのかもしれないぞ・・・と。ぐるりと一周してきた感じでもある。最初の頃は、佐々木氏の中にも平姓を持っていた者もいたのだから。
佐々木氏、壬生では「壬生城護衛方」であったそうだ。
岡田氏を調べていて九里氏との接点があるという事は、やはり大和宇陀松山藩の九里氏は、岡田氏でもあり九里氏でもあるのだ。