もしも源経頼の子孫が久経であったなら、嬉しい。
Wikipediaではその源経頼の兄が成頼という事になっているが、宝賀先生の著書では(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会) 扶義の二人の息、兄経頼 弟成頼 となっている系図もある(尊卑分脈)。
また亀井家譜の系図の註には『権記』成頼の没年(長保五年 1003年)があり、それによると尊卑分脈(康平七年 1064年)の成頼の没年は違う事になる。
権記の記載の成頼が【源成頼】で佐々木氏の祖と言う事になると、28歳で亡くなった人物となる。
(この権記が正しければ、佐々木氏の祖の成頼とは異名異人となる…とのことだ。)
その後に経頼は1018年より兼務で近江守になっている。
扶義ー経頼・成頼ー義経(初名章経)ー経方 となる。
ここからは私の仮の想像であるが、
義経が3歳の時分に父であった成頼を亡くしたため、経頼が義経と兄弟(宗頼・成経)を育てた可能性も感じた。(あるいは、前述のようにもう一人の成頼がいた。)
また成頼の系に佐々木経久がいる。「経」がついている。
この人物は、経頼の流れを背負っているのではないだろうか。
其の経方の他の系図を見ると
こちらの系図では、経頼ー章経ー高経ー高信ー経方…となる。
これでは、代が多すぎではないだろうか?
私が思い描いている年代は、
成頼 長保5年(1003年没)
経頼 長歴3年(1039年没)
義経(章経)1021年ー1082年(永保元年没61歳)…1000年生まれの説もある
経方 1053年ー1115年(永久三年没62歳)
季定(為俊)1081年ー1131年(天承元年没 50歳)
秀義 1111年ー1184年(天暦元年没 73歳)
である。
以前因幡国の服経方(長田経方)を調べていたが、同じ時代である。
今、思いつくことを書き留めておいたので、後々役に立つ時が来るかもしれない。
もう一つ、長治二年1105年の資料がある。これは、経方52歳の時である。
*****
上記のアドレスにある情報は、貴重なので、下記に貼っておく。
私は、中原久経が中原親能と近い場所で育ったのではないかと思っている。だからこそ、源頼朝に呼ばれたのだと思う。
中原親能 ( なかはらちかよし)
大友能直の養父
1143-1208 鎌倉時代初期の京下りの幕府文官御家人。幕府 公文所寄人(くもんじょよりうど)、 公事奉行人(くじぶぎょうにん)、京都守護、 明法博士(みょうぼうはかせ)、美濃権守、式部大夫、 掃部頭(かもんのかみ)、 穀倉院別当(こくそういんべっとう)、正五位下、法名 寂忍(じゃくにん)。康治2年(1143)生まれ。承元2年(1208)12月18日没。享年66歳。出自については諸説あり。明法博士中原 広季(ひろすえ)の子で、 大江広元(おおえのひろもと)と兄弟とするもの(『 尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』中原系図)、右京大夫藤原 光能(みつよし)の三男であるが、外祖父(母の父)中原広季の養子となったとするもの(『 大友家文書録 』)等あり、定説がない。 大友 能直(よしなお) の養父。
〈生立から関東下向まで〉
親能は何かの事情で、幼少のころ相模国住人に養育され、そこで生長した。湯山学は、相模国足柄上郡の 波多野経家(はたのつねいえ)の 所領(しょりょう) 大友郷 ではなかったかと推定する(『地方史研究』第144号)。『 玉葉(ぎょくよう) 』には 源 頼朝(よりとも) と「年来の 知音(ちいん)」とか「甚深の知音」とある。親能が生まれた康治2年ころ、源 義朝(よしとも)は鎌倉に居り、4年後の久安3年(1147)に 熱田大宮司季範(あつただいぐうじすえのり)の娘との間に頼朝が生まれた。義朝の次子 朝長(ともなが)は波多野 義通(よしみち)の妹との間の子で、彼は相模国松田郷に居館を構えていた。親能と頼朝との交友関係は、監視つきの伊豆 流謫(りゅうてき)中は不自然で、それ以前の幼少時代の事であろうという(湯山学説)。これに対し瀬野精一郎は流人時代と主張する。
親能はいずれのころからか上京、中納言源 雅頼(まさより)の 家人(けにん)となり、 後白河院(ごしらかわいん)の 院仕(いんじ)として仕えていた。治承4年(1180)8月の頼朝挙兵の4か月後の12月4日夜半、宿直中の主雅頼の家から逐電した。頼朝との親交関係を探知して、平 時忠(ときただ)の命令で讃岐少将 時実(ときざね)を派遣して親能を召し尋問しようとした平家の動向を察知して、逃亡したのである。頼朝の許に走って彼を 援(たす)けたと推定するが、瀬野精一郎は確証がないと述べている。
〈平家討伐に活躍〉
『玉葉』に、親能を「漢字を読まざる人也」と評しているのは、東国で育った生活環境が就学の便を与えなかったことを示し、これが京都の公家生活を断念し、頼朝の許に走らせた原因であろう。寿永2年(1183)彼は義経の軍勢と共に西上して伊勢に入り、翌元暦元年(1184)正月入京、旧主雅頼宅に止宿、頼朝代官として万事を奉行した。2月の 一の谷の合戦 では、 搦手(からめて) 源 義経(よしつね) 軍に属し、同月16日後白河法皇の使として、頼朝の上洛を促すため鎌倉に下り、4月29日平家追討軍の奉行として上洛。まことに席の温まる暇のない活躍である。同年10月公文所 吉書始(きっしょはじめ)には、大江広元が別当、 寄人(よりうど)には中原親能 藤原 行政(ゆきまさ) 藤内遠元(とうないとおもと) 甲斐四郎 大中臣秋家(おおなかとみあきいえ) 藤判官代邦通(とうのほうがんだいくにみち)が任命された。ただし9月2日平家追討のため京都を立って西下した 源 範頼(のりより) 軍には、平家追討奉行として親能も従軍しているので、それは彼の出陣中の事である。厳寒中食糧 兵船もなく進退窮した範頼軍は、 緒方 惟栄(これよし) の提供した82 艘(そう)の兵船によって渡海し、九州の平家残党を平定し文治元年(1185)4月帰京した。
〈大友能直が中原親能の養子に〉
文治元年4月1日波多野経家が 鎮西(ちんぜい)から帰東したが、彼を中原親能の 舅(しゅうと)と記している。「 波多野系図 」によると経家の次女が中原親能の妻となっており、その妹が 近藤( 古庄(ふるしょう)) 能成(よしなり)の妻となっており、その所生が大友能直である。能直の父能成は早世したか、経済的 社会的に微力のためか、歴史の表面に出ない。こうした関係からか、頼朝の信頼 篤(あつ)い中原親能に 托(たく)するのが、武士としての将来性に最も適しているとされたのではなかろうか。能直が「 無双(むそう)の 寵仁(ちょうじん)」として頼朝から愛されたのは、中原親能を介せずには理解することはできない。
〈京都守護 政所(まんどころ)公事奉行 鎮西奉行〉
文治2年(1186)京都守護に任じて上洛、建久2年(1191)政所の公事奉行に任じられた。その後 天野遠景(あまのとおかげ) が建久4~6年(1193~95)の間に 鎮西奉行 を解任され、その跡に中原親能と 武藤資頼(むとうすけより) が任命され、その鎮西奉行職が各国 守護 職(しき) に分化し、親能は豊後 筑後 肥後の守護職を兼ねたらしい(石井進説)。正治元年(1199)頼朝が死し、政子が将軍独裁を廃し北条 時政(ときまさ)ら13人の合議制としたが、親能はその一人に選ばれた。この年、頼朝の娘三幡が死んだが、 乳夫(めのと)である彼は入道し寂忍と号した。元久元年(1204)3月、親能が「鎮西 乃具(ないぐ)(年貢)」の勘定を命じられたのは、在職の証拠ではなかろうか。ただし瀬野精一郎は、彼の鎮西奉行は職権行使の裏付けがなく、これを否定する。建永元年(1208)ころ所領 所職(しょしき)を大友能直に譲り、承元2年(1208)12月京都で死去した。
参考文献 瀬野精一郎『鎮西御家人の研究』 石井進『日本中世国家史の研究』 渡辺澄夫『増訂豊後大友史の研究』
[渡辺 澄夫]
大友能直の養父
1143-1208 鎌倉時代初期の京下りの幕府文官御家人。幕府 公文所寄人(くもんじょよりうど)、 公事奉行人(くじぶぎょうにん)、京都守護、 明法博士(みょうぼうはかせ)、美濃権守、式部大夫、 掃部頭(かもんのかみ)、 穀倉院別当(こくそういんべっとう)、正五位下、法名 寂忍(じゃくにん)。康治2年(1143)生まれ。承元2年(1208)12月18日没。享年66歳。出自については諸説あり。明法博士中原 広季(ひろすえ)の子で、 大江広元(おおえのひろもと)と兄弟とするもの(『 尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』中原系図)、右京大夫藤原 光能(みつよし)の三男であるが、外祖父(母の父)中原広季の養子となったとするもの(『 大友家文書録 』)等あり、定説がない。 大友 能直(よしなお) の養父。
〈生立から関東下向まで〉
親能は何かの事情で、幼少のころ相模国住人に養育され、そこで生長した。湯山学は、相模国足柄上郡の 波多野経家(はたのつねいえ)の 所領(しょりょう) 大友郷 ではなかったかと推定する(『地方史研究』第144号)。『 玉葉(ぎょくよう) 』には 源 頼朝(よりとも) と「年来の 知音(ちいん)」とか「甚深の知音」とある。親能が生まれた康治2年ころ、源 義朝(よしとも)は鎌倉に居り、4年後の久安3年(1147)に 熱田大宮司季範(あつただいぐうじすえのり)の娘との間に頼朝が生まれた。義朝の次子 朝長(ともなが)は波多野 義通(よしみち)の妹との間の子で、彼は相模国松田郷に居館を構えていた。親能と頼朝との交友関係は、監視つきの伊豆 流謫(りゅうてき)中は不自然で、それ以前の幼少時代の事であろうという(湯山学説)。これに対し瀬野精一郎は流人時代と主張する。
親能はいずれのころからか上京、中納言源 雅頼(まさより)の 家人(けにん)となり、 後白河院(ごしらかわいん)の 院仕(いんじ)として仕えていた。治承4年(1180)8月の頼朝挙兵の4か月後の12月4日夜半、宿直中の主雅頼の家から逐電した。頼朝との親交関係を探知して、平 時忠(ときただ)の命令で讃岐少将 時実(ときざね)を派遣して親能を召し尋問しようとした平家の動向を察知して、逃亡したのである。頼朝の許に走って彼を 援(たす)けたと推定するが、瀬野精一郎は確証がないと述べている。
〈平家討伐に活躍〉
『玉葉』に、親能を「漢字を読まざる人也」と評しているのは、東国で育った生活環境が就学の便を与えなかったことを示し、これが京都の公家生活を断念し、頼朝の許に走らせた原因であろう。寿永2年(1183)彼は義経の軍勢と共に西上して伊勢に入り、翌元暦元年(1184)正月入京、旧主雅頼宅に止宿、頼朝代官として万事を奉行した。2月の 一の谷の合戦 では、 搦手(からめて) 源 義経(よしつね) 軍に属し、同月16日後白河法皇の使として、頼朝の上洛を促すため鎌倉に下り、4月29日平家追討軍の奉行として上洛。まことに席の温まる暇のない活躍である。同年10月公文所 吉書始(きっしょはじめ)には、大江広元が別当、 寄人(よりうど)には中原親能 藤原 行政(ゆきまさ) 藤内遠元(とうないとおもと) 甲斐四郎 大中臣秋家(おおなかとみあきいえ) 藤判官代邦通(とうのほうがんだいくにみち)が任命された。ただし9月2日平家追討のため京都を立って西下した 源 範頼(のりより) 軍には、平家追討奉行として親能も従軍しているので、それは彼の出陣中の事である。厳寒中食糧 兵船もなく進退窮した範頼軍は、 緒方 惟栄(これよし) の提供した82 艘(そう)の兵船によって渡海し、九州の平家残党を平定し文治元年(1185)4月帰京した。
〈大友能直が中原親能の養子に〉
文治元年4月1日波多野経家が 鎮西(ちんぜい)から帰東したが、彼を中原親能の 舅(しゅうと)と記している。「 波多野系図 」によると経家の次女が中原親能の妻となっており、その妹が 近藤( 古庄(ふるしょう)) 能成(よしなり)の妻となっており、その所生が大友能直である。能直の父能成は早世したか、経済的 社会的に微力のためか、歴史の表面に出ない。こうした関係からか、頼朝の信頼 篤(あつ)い中原親能に 托(たく)するのが、武士としての将来性に最も適しているとされたのではなかろうか。能直が「 無双(むそう)の 寵仁(ちょうじん)」として頼朝から愛されたのは、中原親能を介せずには理解することはできない。
〈京都守護 政所(まんどころ)公事奉行 鎮西奉行〉
文治2年(1186)京都守護に任じて上洛、建久2年(1191)政所の公事奉行に任じられた。その後 天野遠景(あまのとおかげ) が建久4~6年(1193~95)の間に 鎮西奉行 を解任され、その跡に中原親能と 武藤資頼(むとうすけより) が任命され、その鎮西奉行職が各国 守護 職(しき) に分化し、親能は豊後 筑後 肥後の守護職を兼ねたらしい(石井進説)。正治元年(1199)頼朝が死し、政子が将軍独裁を廃し北条 時政(ときまさ)ら13人の合議制としたが、親能はその一人に選ばれた。この年、頼朝の娘三幡が死んだが、 乳夫(めのと)である彼は入道し寂忍と号した。元久元年(1204)3月、親能が「鎮西 乃具(ないぐ)(年貢)」の勘定を命じられたのは、在職の証拠ではなかろうか。ただし瀬野精一郎は、彼の鎮西奉行は職権行使の裏付けがなく、これを否定する。建永元年(1208)ころ所領 所職(しょしき)を大友能直に譲り、承元2年(1208)12月京都で死去した。
参考文献 瀬野精一郎『鎮西御家人の研究』 石井進『日本中世国家史の研究』 渡辺澄夫『増訂豊後大友史の研究』
[渡辺 澄夫]