富木常忍の母が1185年生まれという処から、常忍の父であろうと思われる蓮忍入道の歳を考えていたのだが、秀重という人物が唐崎合戦で討ち死にをしている(1331年)事と上手く結びつかない。
父子ではなく、叔父甥の関係だったのかもしれないと思う。または、養子もどこかに挟まっているのかもしれない。
困ったなぁ===
これまでのことは全部忘れて、心機一転!
唐崎合戦から進めたい。といっても此の後二代分しか系図にはないのであるが。。
ともかく「唐崎合戦討死」と系図にあるので、そこは守っていきたい。
唐崎合戦は、どのような合戦だったのだろうか。
下記の
「太平記」読み~その現実を探りながら さんの素晴らしい頁!より部分を拝借致します。
http://taiheiki.blog.jp/archives/8767857.html
この紫にした部分の中に「九里秀重」がいたように思う。
「搦め手へは、佐々木三郎判官時信、海東左近将監、長井丹後守宗衡、筑前前司貞知、波多野上野前司宣道、常陸前司時朝に美濃、尾張、丹波、但馬の軍勢を添えて七千余騎、大津、松本を経て、唐崎のあたりまで攻め寄せた。」
「佐々木三郎判官時信が、後ろに備えていて、
「味方を討たすな、続け」と命令したので、伊庭、目賀多、木村、馬淵が、三百余騎で大声を上げて攻めかかる。快実がいよいよ討たれると見えたところに、桂林房の悪讃岐、中房の小相模、勝行房の侍従竪者定快、金蓮房の伯耆直源の四人が左右からかかっていって、切っ先を揃えて切って回る。讃岐と直源が同じ所で討たれたので、後に続く五十余人が揃ってまた討ってかかる。」
「武士はまったく土地不案内なので、堀や崖を無視して馬を走らせ倒れさせて逃げおおせかねたので、最後尾を落ちていた海東の若党八騎、波多野の郎党十三騎、真野入道父子二人、平井九郎主従二騎が谷底で討たれてしまった。佐々木判官も馬を射られて乗り換えの馬を待っている時に大勢の敵が左右から取り巻いて、いよいよ討たれそうになったところを、名を惜しんで命を軽んずる若党たちが、次々に引き返してきて、あちらこちらで討ち死にしているその間に、今にも死ぬところを逃れて命拾いして昼頃に京へ引き返す。」
こちら側(鎌倉幕府側)だとすると、以前片岡八郎(大塔宮側)を調べた時とは反対側となる。
または、両方に関わっていた九里氏かもしれない。
中原時代は院ともかかわりがあり、その仕事を踏襲している者もいたかもしれない。
また、千葉氏とも関わりがあるとすると幕府側、二手に分かれていた可能性もある。
「唐崎合戦討死」という情報だけでは、どちらについていたのか、また、誰のもとで働いていたのか、がわからない。
判らないことだらけの「秀重」の時代の九里。
文官であったはずの中原から、すっかり武士になってしまっている九里。
そう言えば九里の祖 経久も「左衛門」と書かれていたので武士になっていたのだと思う。