藤原公清の母親=公光の妻、兼光の娘である。
https://office-morioka.com/myoji/genealogy/genpei/fujiwara_hidesato.html
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41_40.html
森岡先生の系図拝借しております!
佐藤・波多野・伊賀・首藤・山内氏等につながる【公光】
妻が足利・小山・下河辺・結城・長沼・皆川氏等につながる【兼光】の娘であった。
この系図には九里にとって大切な後藤氏や太田氏の記載がない。
しかし、公清の母が兼光の娘であることとは、九里氏にとっても重要な部分と思う。
公清も、養子説もあるのだが、調べても良くはわからなかった。
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中原久経の母の情報は少ないが、
①波多野義通の実妹
義通の妻の妹(義妹)という説によると、
妻は何人かいたようなので、判っている人物だけを考えてみよう!
②中河辺清兼の娘、
③宇都宮宗綱の娘、
④伊勢守光定の娘、
のどれかが、母となる可能性がある。
久経の父はいまだわからず。
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②の清兼は、私の予想では 中原清兼・佐藤清兼のことではないかと思う。
波多野氏と佐藤氏のつながりという事になる。
③は、宇都宮氏なので、「中原」の名乗りもあり、非常に近い。清原氏にも、紀氏にも通じている。
宇都宮氏は宗綱の娘寒河尼が小山政義に嫁いでいる。つまり宇都宮氏と秀郷流は繋がっている。
④伊勢守光定は、以前の調べでは「波多野義職の母」で、「深栖光重の息」という説もある。
深栖光重=「波多野御曹司」であり、頼政の義兄弟で、頼政の父「仲政の養子」なので、近い感じがする。
①はどうだろう。
本当の妹であったとすると、父:波多野遠義(筑後守號佐藤)、母:藤原師綱娘 となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E7%B6%B1
https://nakuyo-neuneu.com/keizu/102019001/#toc6
波多野遠義と藤原師綱、これから調べてみます!
「義通の家系は代々従五位下を継承し、祖父秀遠は鳥羽院蔵人所衆で、父遠義は筑後守である。義通も従五位下であり、『群書系図部集』所載の荒木系図には、母鎮守府将軍藤原師綱女。保元元年三月二日辞京相州下向。平治乱上洛。高名。敗北之後又下向。」
佐藤となる以前の公光(文行の息とも)の妻は太田氏の祖の兼光娘ともいえると思う。
怖ろしくアバウトな計算だが、
公清の娘1050年生まれ位 季清1070年位 清兼1090年位 の想定で、おおむね予想の清兼1100年に合いそう。
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41_40.html
もちろん、小山氏、下河辺氏が、すごく近く感じている。
しかし、久経の外祖父の名前が清兼という記載が多いので、それを手掛かりにすると佐藤か?となる。
下河辺にも清親と「清」が付いていたので、こちらにも清兼がいたかもしれない。
ただし、年代的には1100年位に生まれた方である。1120年代の娘がいるのだから。(源義朝妻=朝長母)
堀河天皇の時代で、中原成行・経行(経憲)の時代と重なっている。
成行の系図の註に
「(号愛知大領 堀河院御宇近江国七郡賜之始下国住愛知郡長野郷と或 朱雀院御宇□)」
中原清兼=佐藤清兼であると、私的にはやっと秀郷流と深くつながる部分が出てきた感じである。
清兼のいた時代は、近江では佐々木荘もやっとでき、経方が下司であったような時代である。