先日【中原資清】という人物に出会った。
この人は天永三年(1112年)に亡くなっている。役職は以下のとおりである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/bf/7b210a005a0dca180b94daf6805136b3.jpg)
もしかすると【山内首藤資清】かもしれない…と急に思い立って、調べてみた。
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_62.html
上記の方の文章からピックアップしつつ、加筆して、進めてみようと思う。
山内氏の祖は美濃国席田郡の郡司を務めていた守部氏の後裔であると考えられている。
平安時代後期に藤原氏を名乗り、藤原秀郷 の後裔を称するようになる。
資清の代になって首藤氏を名乗り、源氏の郎党となった。
資清の子資通は源義家に従って後三年の役で活躍したが、資通の曾孫・俊通が相模国鎌倉郡山内庄(現・神奈川県鎌倉市)を領した際に山内を名乗り、山内首藤氏と呼ばれるようになった。
守部の「守」と藤原の「藤」で、「守藤」、そしてそこから「首藤」となった説もある。(私)
俊通の妻山内尼は源頼朝の乳母となり、その子・経俊は頼朝の乳兄弟となった。
経俊は一時平家に味方したものの、山内尼の願いで許され、その後の治承・寿永の乱においては有力御家人の一人として活躍し、
伊勢・伊賀の2カ国の守護となった。しかし三日平氏の乱で経俊が 守護所から逃亡したために守護を罷免された。
そして、この山内首藤の
守藤大夫・主馬首資清の子、守藤権守こと首藤資通は源義家の側近として知られ、
少年の頃から「奥州後三年記」にも登場。
源義家の側近として仕え、京の義家の屋敷の隣に家を持っていた。
その子には平治の乱で義朝の側近として登場する蒲田正清の父鎌田通清。
『寛政重修諸家譜』では、俊通の子経俊から山内氏を名乗る、とあるようだ。
この経俊こそ、愛甲庄・畔蒜庄に名を残している藤原山内首藤清俊の曽祖父である。
この人は天永三年(1112年)に亡くなっている。役職は以下のとおりである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/bf/7b210a005a0dca180b94daf6805136b3.jpg)
もしかすると【山内首藤資清】かもしれない…と急に思い立って、調べてみた。
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_62.html
上記の方の文章からピックアップしつつ、加筆して、進めてみようと思う。
山内氏の祖は美濃国席田郡の郡司を務めていた守部氏の後裔であると考えられている。
平安時代後期に藤原氏を名乗り、藤原秀郷 の後裔を称するようになる。
資清の代になって首藤氏を名乗り、源氏の郎党となった。
資清の子資通は源義家に従って後三年の役で活躍したが、資通の曾孫・俊通が相模国鎌倉郡山内庄(現・神奈川県鎌倉市)を領した際に山内を名乗り、山内首藤氏と呼ばれるようになった。
守部の「守」と藤原の「藤」で、「守藤」、そしてそこから「首藤」となった説もある。(私)
俊通の妻山内尼は源頼朝の乳母となり、その子・経俊は頼朝の乳兄弟となった。
経俊は一時平家に味方したものの、山内尼の願いで許され、その後の治承・寿永の乱においては有力御家人の一人として活躍し、
伊勢・伊賀の2カ国の守護となった。しかし三日平氏の乱で経俊が 守護所から逃亡したために守護を罷免された。
そして、この山内首藤の
守藤大夫・主馬首資清の子、守藤権守こと首藤資通は源義家の側近として知られ、
少年の頃から「奥州後三年記」にも登場。
源義家の側近として仕え、京の義家の屋敷の隣に家を持っていた。
その子には平治の乱で義朝の側近として登場する蒲田正清の父鎌田通清。
『寛政重修諸家譜』では、俊通の子経俊から山内氏を名乗る、とあるようだ。
この経俊こそ、愛甲庄・畔蒜庄に名を残している藤原山内首藤清俊の曽祖父である。
鎌田さんの女系が気になりましたよ。
鎌倉行ったなあ。