源満仲の三男である頼信が石見国国司補任が1019年。
その後、頼義ー義家ー義親ー為義ー義朝ー朝長・範頼
久利氏との接点を探してみたい。
源頼信は1048年に歿しているため、頼義の時代に清原氏(久利氏)との接点を持っていたようにも思われるのだが・・・。
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『朝廷の命令に失敗した平直方(たいらなおかた)は、武人としての名誉を失い、将来に悲観して思わぬ行動に出た、自分の娘と源頼信の息子・頼義の婿取りである。招請婚(しょうせいこん)と言われる平安期独特の婚姻制度は、娘に自分の領地・郎党などを譲る婿取りである。これにより、源氏は相模(鎌倉)に東国進出の足がかりを得た。』
何時、清原・中原・九里・久利氏とのつながりができたのだろうか。
①頼信の母が藤原巨勢麻呂流黒麻呂の裔であっとことが繋がるのか、
②常陸介在任時(1008年頃〜)、平忠常を制圧する際に内海の浅瀬を選んで突切り居宅へ急迫した時か、
③招請婚のため、桓武平氏とのつながりもでき、東国にも足掛かりができたその時か、
④頼義の「前九年の役」の時の清原氏と関係のある人達であったとか?
文書に出てくる「頼」があるため、源氏との関係が有力のように思っているのだが、
1063年 清原頼行
1084年 清原則房、清原正宗、清原近俊、入道学源
1126年 清原長房
1169年 清原行房
出羽清原氏は、中原氏(江州中原)と同じく「天武天皇ー舎人親王」である。
後、清原祐安(有安)が中原祐安も名乗るように、この二系は近い。