石見守 拾い出し (すべてではなく、眼に入った分。)
長徳二年 996年 石見守 藤原実明
寛弘四年 1007年 石見守 清科保重
嘉承 1108年 石見守(藤原)定仲
保延三年 1137年 石見守 藤原宗長
文治五年 1189年 (葉室)石見守能頼(顕隆・重方の裔)
元仁二年 1225年 石見前司義行 (この方はどなた??)
寛元元年 1243年 石見前司(武藤)為佐
建長二年 1250年 石見前司友景朝臣 中原友景のこと
建長二年 1250年 石見前司 能行 (大江能行) 大江兵衛尉能範 能範の息カ?
後藤基政の母親が大江能範の娘
建長六年 1254年 石見前司友重
建長七年 1255年 石見前司大江範行
弘安八年 1285年 重氏
徳治二年 1307年 右衛門督吉田定房 石見前司殿(手紙?)
嘉暦二年 1327年 和田前司女子跡付原宗三郎入道…
吾妻鑑・・・大江能行(兵衛尉・判官・廷尉・石見前司)脱漏嘉禄3年(1227)8月18日。27巻安貞2年(1228)7月23日、10月15日。32巻嘉禎4年(1238)2月17日、4月16日、6月5日。34巻仁治2年(1241)8月18日。35巻寛元1年(1243)7月17日、寛元2年(1244)6月13日。36巻寛元2年(1244)8月15日、寛元3年(1245)8月15日・16日、11月10日。40巻建長2年(1250)3月1日
下の表は源頼義と久利氏 (本当に関係があったかどうかは定かではない。)
源頼信が石見国司であったことから、久利氏とも関係があったのではないだろうか?と。
清原頼行が石見国国司庁宣をもらっているのは、1063年なので、年代的には源頼義の時代。
国司庁宣(こくしちょうせん)とは、受領国司や知行国主が管轄下の留守所や郡司などに命令する際に用いた文書。略して庁宣とも呼称される。
正四位下に昇叙し、伊予守に任官。
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1063年 清原頼行
1084年 清原則房、清原正宗、清原近俊、入道学源 1126年 清原長房 1169年 清原行房
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平直方(源頼義の妻の父)
桓武平氏の中の石見守。
平公雅ー致光(兄は致頼=長田氏祖)ー致任(石見守)
1243年 石見守平繁氏
1193年 佐々木定綱が石見国守護補任となった。
1163年から次の文書が出てくる1336年の間の久利氏は…を探している。
東国にいたか、出雲国にいたか、因幡国にいたか、近江国にいたか、変わらず石見国にいたか…、