今、私の手許に「践祚大嘗祭と古事記」という本がある。(坂橋隆司 著書 大塚書店)
この本に「丸邇氏の伝承」があり、それを中心に丸邇=和邇について考えたいと思っている。
まず、第一節に「蟹の歌」が登場する。坂橋氏によると「右にあげた歌謡は、『日本書紀』には記載されていない『古事記』だけの独自歌謡なのである。」ということである。
許能迦邇夜 伊豆久能迦邇 毛毛豆多布 都奴賀野能迦邇 余許佐良布 伊豆久邇伊多流 伊知遅志麻 美志麻邇斗岐 美本杼理能 迦豆伎伊岐豆岐 志那陀由布 佐佐那美遅袁 須久須久登 和雅伊麻勢婆夜 許波能美知邇 阿波志斯袁登売 宇斯呂傳波 袁陀弖呂迦母 浪那美波 志比比斯那須 伊知比韋能 和邇佐能邇袁 波都邇波 波陀阿可良氣美 志波邇波 邇具漏岐由惠 美都具理能 曾能那迦都爾袁 加夫袁久 麻肥邇波阿弖受 麻用賀岐 許邇加岐田禮 阿波志斯袁美那 迦母賀登 和賀美斯古良 加久母賀登 阿賀美斯古邇 宇多多氣陀邇 牟迦比袁流迦母 伊蘇比袁加母(『記』43)
この蟹(かに)や 何處(いづく)の蟹 百傳(ももづた)ふ 角鹿(つぬが)の蟹 横去(よこさ)らふ 何處(いづく)に到る 伊知遲島(いちぢしま) 美島に著(と)き 鳰鳥(みほどり)の 潜(かづ)き息(いき)づき しなだゆふ 佐佐那美路(ささなみぢ)を すくすくと 我が行(い)ませばや 木幡(こはた)の道に 遇(あ)はしし 嬢子(をとめ) 後姿(うしろで)は 小楯(をだて)ろかも並(はなみ)は 椎菱(しいひし)如(な)す 櫟(いちひ)井(ゐ)の 丸邇坂(わにさ)の土(に)を 初土(はつに)は 膚(はだ)赤らけみ 底土(しはに)は 丹(にぐろ)き故(ゆゑ) 三(み)つ栗(ぐり)の その中つ土(に)を かぶつく 眞火(まひ)には當(あ)てず 眉畫(まよが)き 濃(こ)に畫(か)き垂(た)れ 遇はしし女(をみな) かもがと 我(わ)が見し子ら かくもがと 我(あ)が見し子に うただけだに 對(むか)ひ居(を)るかも い添(そ)ひ居(を)るかも (歌番号四十三)
http://panna.mydns.jp/kodaisi/kodaisi_04.html
読み下し文を「古代史を考える」さんのページよりコピーさせていただいた。
この「古代史を考える」の方の「和邇氏の遠い祖先が隠岐・因幡に住む航海技術を持った一族であった。」という論は、近江の和邇氏や九里氏・永田氏周辺の水運に関係してきた氏族に当てはめても納得がいき、うれしい知らせ!であった。
上記の本の著者である坂橋氏も蟹の歌の中にある都奴賀=角鹿が「神功皇后」とは特別に関係の深い土地柄である。と述べている。(神功皇后に関しては後にまとめて書こうと思う。)
「…神功皇后と血のつながっている丹波氏や葛城氏は、今更説明をするまでもなく、海部であり山部である。折口先生によれば、海部も山部も同一ものの異称なのだから、海部の一つの拠点である角鹿(つぬが)の地が、神功皇后と関係が深いのも当然である。それを証拠づけるものが『風土記』に載っている。」とあり、
この「海部であり山部である」の部分が私の気になった箇所であるのだが、このことは天皇の食卓とも関係がありそうである。
同じ本より書き出してみよう。
『古代においては、蟹は鹿と共に、食膳に常用されていた山海の珍味であった。…ここに採録されている「蟹の歌」も、酒宴の関で天皇が詠んだものだとされているのを見れば、宴席の食膳に蟹が供されており、それを見ていつも、こうした宴席で歌われたり、舞われたりする「蟹の歌」や舞が想起され、自然に口をついて出てきたとして想定し、構成されたものかもしれない。だからさしたる技巧もなく、…古事記の詠歌の型を踏みながら、スムーズに歌いはじめられ、歌いすすめられて、やがてはその場に相応しい丸邇氏の乙女の求婚の歌となっていったのであろう。』とある。
以下は、私の単なる想像なのだが…
まず私が思うに、天皇は周囲の緊張を取るために、このように乞食の歌(こちらも古事記と音が同じ)でくだけた調子で場の雰囲気を和ませ、やがて求婚する話へと持って行ったのではないだろうか。
更にこの蟹は丸邇氏である比布礼能意富美がで角賀(敦賀のことか。)からの直送で(途中から湖上を舟で)、蟹は鮮度よく供されたのだと思う。
このことから繙くと、丸邇氏が「御厨」の担当であったのではないか?と思われること、歌の中にも「三つ栗」という言葉があることも、その意味をちらりと込めたのではないだろうか?
本当に3つ「厨」があって、その真ん中に「日牟礼の厨」があったのかもしれない。
つまり、この山部・海部の丸邇氏一族は、其々に「御厨」があり、その場に担当となった「丸邇氏」たちが、守り、捧げ、祈ることを仕事としていた人々だったのではないだろうか、と思うのだ。
蛇足だが、食材をのせる器もつくっていただろうと思う。
~~~*~~~
さて、この歌の中の登場人物に注目して見たい。
この歌は女性に向けて天皇が詠んだ歌とされている。
女性の名は「宮主矢河枝比売」 天皇の名は「応神天皇」となる。
コトバンクによると宮主矢河枝比売(みやぬしやかわひめ)は
和珥(わに)氏の祖,日触使主(ひふれのおみ)の娘。応神天皇2年妃となり,菟道稚郎子(うじのわきいらつこ),矢田皇女,雌鳥(めとりの)皇女を生んだという。
ここで重要なのが「日触使主」(ひふれのおみ)である。
この人物は古事記では「丸邇比布礼能意富美」、日本書紀では「和珥日触使主」と書かれているそうである。
この人物は、tokyoblogさんの情報では
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%E5%92%8C%E7%8F%A5%E6%97%A5%E8%A7%A6%E4%BD%BF%E4%B8%BB%E3%80%81%E7%B1%B3%E9%A4%85%E6%90%97%E5%A4%A7%E4%BD%BF%E4%B8%BB%E3%80%81%E5%92%8C%E7%8F%A5%E6%B0%8F/
「和邇日触・・応神紀に応神天皇の大臣。丸邇之比布禮能意富美。系図・伝承では米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)の弟、または同一人物。」とある。
ではその米餅搗大使主はというと、孝昭天皇第一皇子の天足彦国押人命から7世代目の子孫にあたる古墳時代の人物で、父は武振熊命=建振熊(和邇の祖)。応神天皇に、しとぎ餅を奉ったとされる。子の人華(仲臣)は春日氏らの祖である。
この「武振熊命」とは、wikipediaによると https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%8C%AF%E7%86%8A
武振熊(たけふるくま)または和珥 武振熊(わに の たけふるくま)は、記紀に伝わる古代日本の人物。
『日本書紀』では「難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)」や「武振熊」、『古事記』では「難波根子建振熊命」や「建振熊命」と表記される。武内宿禰とともに忍熊皇子の反乱の際に遣わされたとする。
和珥臣(和珥氏)の遠祖。神功皇后摂政時における忍熊皇子の反乱の際、討伐に遣わされた人物である。
「しとぎ餅」とは…米餅搗大使主を小野氏(小野妹子や小野篁など)の祖神として祀る滋賀県大津市の小野神社の伝承によれば、餅の原形となるしとぎを最初に作った人物であり、これを応神天皇に献上したことがもとで米餅搗大使主の氏姓を賜ったとされる。(餅の起源の伝承として、その製造などに関わる者の信仰も篤い。毎年「しとぎ祭」には藁包(わらつと)に入れたしとぎが神饌とされる。)とある。
このしとぎは、以前記事に書いたが、アイヌの人々もつくっていてシト(団子)ともよばれ、現在でもその名を使っている。お祭りの際に私もいただいたが、丸く平たい円盤のようなものであった。
頂いた際の説明文では、イオマンテ、シンヌラッパ(先祖供養祭)といった重要な儀式のときに神々への供物、土産として供されるもので、白老地方ではシトキ・シトギとよばれている…とある。
~~~*~~~
この古事記の「蟹の歌」も坂橋氏が述べていたように、「神功皇后」につながってきたのである。
神功皇后は応神天皇の母か養母である。
そして息長の出身(近江国坂田郡)である。
さらに先ほど書いた「和爾氏の祖である建振熊命」の上司でもあったということになる。
さらに「久里双水古墳」の近く「鏡神社」で鏡を鎮めて祈ったという言い伝えも残っている。
ちなみに神功皇后の出身である息長氏の名義発祥の由来は、上古から持つ製鉄・鍛治に関する技術からこの氏が生じたとみられる・・・とあり、鏡と矛とも関係がありそうである。(九里氏もこの中から生まれたか?)
未だ疑問もある。和邇氏と応神天皇とのつながりは分かったのだが、では、その養母の出身である息長氏と和邇氏の関係はどうだったのだろうか。
実は、蟹を敦賀の海から琵琶湖の海(湖だが)に運び込む際に通る「塩津」という場所は息長氏の土地であったようである。
ということは、和邇氏と息長氏の関係もこの「蟹」が、この二つの氏族の関係が上手くいっている証拠となって示しているのかもしれない。
~~~*~~~
近江国の日牟礼神社に祀られている祭神は誉田別尊(ほんたわけのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、比賣神(ひめかみ)の三柱である。誉田別尊は応神天皇であり、息長足姫尊は神功皇后のことである。
この比賣神は宗像三女神の事であるかもしれない、と言われている。
なお、古事記には「胸形君」という漢字でも書かれている。
日牟礼神:・創建:伝131年 ・成務天皇が高穴穂の宮に即位の時に武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが草創とされている。・鎮座地:近江八幡宮内町257
wikipediaによると「宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である。記紀に於いてアマテラスとスサノオの誓約で生まれた女神らで宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。 」とある。
また「『古事記』神代上巻に「この三柱の神は、胸形君等のもち拝(いつ)く三前(みまえ)の大神なり」とあり、元来は宗像氏(胸形氏)ら筑紫(九州北部)の海人族が古代より集団で祀る神であったとされる。海を隔てた大陸や半島との関係が緊密化(神功皇后による三韓征伐神話など)により土着神であった三神が4世紀以降、国家神として祭られるようになったとされる。」
神功皇后の征伐に力を貸してくれたという女神である、という言い伝えもある。
更に日牟礼神社の社伝では「275年、応神天皇が奥津嶋神社から還幸の時、社の近辺に御座所が設けられ休憩した。その後、その仮屋跡に日輪の形を2つ見るという不思議な現象があり、祠を建て、日群之社八幡宮と名付けられたという。 」ということであったが、この行幸の際に出会ったのが「宮主矢河枝比売(みやぬしやかわひめ)」ではなかったのだろうか?(そこの神社の宮司の娘さんだったのでは?⇒あくまで想像)
この二人のなれそめに関しては、以下の論文の中に有り、↓を紹介させていただこうと思う。(7頁後半)
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/1496/1/0030_071_001.pdf
そして、「姓氏と家系」第16巻に古代の近江国のことに言及されている「ササキ氏を考える」があるのだが、その中に『九州の熊襲征伐に赴いた際、船の舵取りを務めた「倭国兎田人」の「伊賀彦」(仲哀紀)』とある。これもずっと気にかかっている部分である。
この人の孫「稚守山」がやがて「近江山君」となったそうで、イコール「佐々貴山君」とみなしてよかろう~と書かれているのである。
神功皇后の息子(養子かもしれない):応神天皇
比布礼能意富美の娘:宮主矢河枝比売
この二人から後に仁徳天皇の妻となる「矢田皇女」が生まれるのである。
昨日、仁徳天皇陵のことが話題になっていた。発掘で、また新たな展開があるかもしれず、楽しみでもある。
https://mainichi.jp/articles/20181015/k00/00e/040/220000c
この本に「丸邇氏の伝承」があり、それを中心に丸邇=和邇について考えたいと思っている。
まず、第一節に「蟹の歌」が登場する。坂橋氏によると「右にあげた歌謡は、『日本書紀』には記載されていない『古事記』だけの独自歌謡なのである。」ということである。
許能迦邇夜 伊豆久能迦邇 毛毛豆多布 都奴賀野能迦邇 余許佐良布 伊豆久邇伊多流 伊知遅志麻 美志麻邇斗岐 美本杼理能 迦豆伎伊岐豆岐 志那陀由布 佐佐那美遅袁 須久須久登 和雅伊麻勢婆夜 許波能美知邇 阿波志斯袁登売 宇斯呂傳波 袁陀弖呂迦母 浪那美波 志比比斯那須 伊知比韋能 和邇佐能邇袁 波都邇波 波陀阿可良氣美 志波邇波 邇具漏岐由惠 美都具理能 曾能那迦都爾袁 加夫袁久 麻肥邇波阿弖受 麻用賀岐 許邇加岐田禮 阿波志斯袁美那 迦母賀登 和賀美斯古良 加久母賀登 阿賀美斯古邇 宇多多氣陀邇 牟迦比袁流迦母 伊蘇比袁加母(『記』43)
この蟹(かに)や 何處(いづく)の蟹 百傳(ももづた)ふ 角鹿(つぬが)の蟹 横去(よこさ)らふ 何處(いづく)に到る 伊知遲島(いちぢしま) 美島に著(と)き 鳰鳥(みほどり)の 潜(かづ)き息(いき)づき しなだゆふ 佐佐那美路(ささなみぢ)を すくすくと 我が行(い)ませばや 木幡(こはた)の道に 遇(あ)はしし 嬢子(をとめ) 後姿(うしろで)は 小楯(をだて)ろかも並(はなみ)は 椎菱(しいひし)如(な)す 櫟(いちひ)井(ゐ)の 丸邇坂(わにさ)の土(に)を 初土(はつに)は 膚(はだ)赤らけみ 底土(しはに)は 丹(にぐろ)き故(ゆゑ) 三(み)つ栗(ぐり)の その中つ土(に)を かぶつく 眞火(まひ)には當(あ)てず 眉畫(まよが)き 濃(こ)に畫(か)き垂(た)れ 遇はしし女(をみな) かもがと 我(わ)が見し子ら かくもがと 我(あ)が見し子に うただけだに 對(むか)ひ居(を)るかも い添(そ)ひ居(を)るかも (歌番号四十三)
http://panna.mydns.jp/kodaisi/kodaisi_04.html
読み下し文を「古代史を考える」さんのページよりコピーさせていただいた。
この「古代史を考える」の方の「和邇氏の遠い祖先が隠岐・因幡に住む航海技術を持った一族であった。」という論は、近江の和邇氏や九里氏・永田氏周辺の水運に関係してきた氏族に当てはめても納得がいき、うれしい知らせ!であった。
上記の本の著者である坂橋氏も蟹の歌の中にある都奴賀=角鹿が「神功皇后」とは特別に関係の深い土地柄である。と述べている。(神功皇后に関しては後にまとめて書こうと思う。)
「…神功皇后と血のつながっている丹波氏や葛城氏は、今更説明をするまでもなく、海部であり山部である。折口先生によれば、海部も山部も同一ものの異称なのだから、海部の一つの拠点である角鹿(つぬが)の地が、神功皇后と関係が深いのも当然である。それを証拠づけるものが『風土記』に載っている。」とあり、
この「海部であり山部である」の部分が私の気になった箇所であるのだが、このことは天皇の食卓とも関係がありそうである。
同じ本より書き出してみよう。
『古代においては、蟹は鹿と共に、食膳に常用されていた山海の珍味であった。…ここに採録されている「蟹の歌」も、酒宴の関で天皇が詠んだものだとされているのを見れば、宴席の食膳に蟹が供されており、それを見ていつも、こうした宴席で歌われたり、舞われたりする「蟹の歌」や舞が想起され、自然に口をついて出てきたとして想定し、構成されたものかもしれない。だからさしたる技巧もなく、…古事記の詠歌の型を踏みながら、スムーズに歌いはじめられ、歌いすすめられて、やがてはその場に相応しい丸邇氏の乙女の求婚の歌となっていったのであろう。』とある。
以下は、私の単なる想像なのだが…
まず私が思うに、天皇は周囲の緊張を取るために、このように乞食の歌(こちらも古事記と音が同じ)でくだけた調子で場の雰囲気を和ませ、やがて求婚する話へと持って行ったのではないだろうか。
更にこの蟹は丸邇氏である比布礼能意富美がで角賀(敦賀のことか。)からの直送で(途中から湖上を舟で)、蟹は鮮度よく供されたのだと思う。
このことから繙くと、丸邇氏が「御厨」の担当であったのではないか?と思われること、歌の中にも「三つ栗」という言葉があることも、その意味をちらりと込めたのではないだろうか?
本当に3つ「厨」があって、その真ん中に「日牟礼の厨」があったのかもしれない。
つまり、この山部・海部の丸邇氏一族は、其々に「御厨」があり、その場に担当となった「丸邇氏」たちが、守り、捧げ、祈ることを仕事としていた人々だったのではないだろうか、と思うのだ。
蛇足だが、食材をのせる器もつくっていただろうと思う。
~~~*~~~
さて、この歌の中の登場人物に注目して見たい。
この歌は女性に向けて天皇が詠んだ歌とされている。
女性の名は「宮主矢河枝比売」 天皇の名は「応神天皇」となる。
コトバンクによると宮主矢河枝比売(みやぬしやかわひめ)は
和珥(わに)氏の祖,日触使主(ひふれのおみ)の娘。応神天皇2年妃となり,菟道稚郎子(うじのわきいらつこ),矢田皇女,雌鳥(めとりの)皇女を生んだという。
ここで重要なのが「日触使主」(ひふれのおみ)である。
この人物は古事記では「丸邇比布礼能意富美」、日本書紀では「和珥日触使主」と書かれているそうである。
この人物は、tokyoblogさんの情報では
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%E5%92%8C%E7%8F%A5%E6%97%A5%E8%A7%A6%E4%BD%BF%E4%B8%BB%E3%80%81%E7%B1%B3%E9%A4%85%E6%90%97%E5%A4%A7%E4%BD%BF%E4%B8%BB%E3%80%81%E5%92%8C%E7%8F%A5%E6%B0%8F/
「和邇日触・・応神紀に応神天皇の大臣。丸邇之比布禮能意富美。系図・伝承では米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)の弟、または同一人物。」とある。
ではその米餅搗大使主はというと、孝昭天皇第一皇子の天足彦国押人命から7世代目の子孫にあたる古墳時代の人物で、父は武振熊命=建振熊(和邇の祖)。応神天皇に、しとぎ餅を奉ったとされる。子の人華(仲臣)は春日氏らの祖である。
この「武振熊命」とは、wikipediaによると https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%8C%AF%E7%86%8A
武振熊(たけふるくま)または和珥 武振熊(わに の たけふるくま)は、記紀に伝わる古代日本の人物。
『日本書紀』では「難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)」や「武振熊」、『古事記』では「難波根子建振熊命」や「建振熊命」と表記される。武内宿禰とともに忍熊皇子の反乱の際に遣わされたとする。
和珥臣(和珥氏)の遠祖。神功皇后摂政時における忍熊皇子の反乱の際、討伐に遣わされた人物である。
「しとぎ餅」とは…米餅搗大使主を小野氏(小野妹子や小野篁など)の祖神として祀る滋賀県大津市の小野神社の伝承によれば、餅の原形となるしとぎを最初に作った人物であり、これを応神天皇に献上したことがもとで米餅搗大使主の氏姓を賜ったとされる。(餅の起源の伝承として、その製造などに関わる者の信仰も篤い。毎年「しとぎ祭」には藁包(わらつと)に入れたしとぎが神饌とされる。)とある。
このしとぎは、以前記事に書いたが、アイヌの人々もつくっていてシト(団子)ともよばれ、現在でもその名を使っている。お祭りの際に私もいただいたが、丸く平たい円盤のようなものであった。
頂いた際の説明文では、イオマンテ、シンヌラッパ(先祖供養祭)といった重要な儀式のときに神々への供物、土産として供されるもので、白老地方ではシトキ・シトギとよばれている…とある。
~~~*~~~
この古事記の「蟹の歌」も坂橋氏が述べていたように、「神功皇后」につながってきたのである。
神功皇后は応神天皇の母か養母である。
そして息長の出身(近江国坂田郡)である。
さらに先ほど書いた「和爾氏の祖である建振熊命」の上司でもあったということになる。
さらに「久里双水古墳」の近く「鏡神社」で鏡を鎮めて祈ったという言い伝えも残っている。
ちなみに神功皇后の出身である息長氏の名義発祥の由来は、上古から持つ製鉄・鍛治に関する技術からこの氏が生じたとみられる・・・とあり、鏡と矛とも関係がありそうである。(九里氏もこの中から生まれたか?)
未だ疑問もある。和邇氏と応神天皇とのつながりは分かったのだが、では、その養母の出身である息長氏と和邇氏の関係はどうだったのだろうか。
実は、蟹を敦賀の海から琵琶湖の海(湖だが)に運び込む際に通る「塩津」という場所は息長氏の土地であったようである。
ということは、和邇氏と息長氏の関係もこの「蟹」が、この二つの氏族の関係が上手くいっている証拠となって示しているのかもしれない。
~~~*~~~
近江国の日牟礼神社に祀られている祭神は誉田別尊(ほんたわけのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、比賣神(ひめかみ)の三柱である。誉田別尊は応神天皇であり、息長足姫尊は神功皇后のことである。
この比賣神は宗像三女神の事であるかもしれない、と言われている。
なお、古事記には「胸形君」という漢字でも書かれている。
日牟礼神:・創建:伝131年 ・成務天皇が高穴穂の宮に即位の時に武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったのが草創とされている。・鎮座地:近江八幡宮内町257
wikipediaによると「宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である。記紀に於いてアマテラスとスサノオの誓約で生まれた女神らで宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。 」とある。
また「『古事記』神代上巻に「この三柱の神は、胸形君等のもち拝(いつ)く三前(みまえ)の大神なり」とあり、元来は宗像氏(胸形氏)ら筑紫(九州北部)の海人族が古代より集団で祀る神であったとされる。海を隔てた大陸や半島との関係が緊密化(神功皇后による三韓征伐神話など)により土着神であった三神が4世紀以降、国家神として祭られるようになったとされる。」
神功皇后の征伐に力を貸してくれたという女神である、という言い伝えもある。
更に日牟礼神社の社伝では「275年、応神天皇が奥津嶋神社から還幸の時、社の近辺に御座所が設けられ休憩した。その後、その仮屋跡に日輪の形を2つ見るという不思議な現象があり、祠を建て、日群之社八幡宮と名付けられたという。 」ということであったが、この行幸の際に出会ったのが「宮主矢河枝比売(みやぬしやかわひめ)」ではなかったのだろうか?(そこの神社の宮司の娘さんだったのでは?⇒あくまで想像)
この二人のなれそめに関しては、以下の論文の中に有り、↓を紹介させていただこうと思う。(7頁後半)
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/1496/1/0030_071_001.pdf
そして、「姓氏と家系」第16巻に古代の近江国のことに言及されている「ササキ氏を考える」があるのだが、その中に『九州の熊襲征伐に赴いた際、船の舵取りを務めた「倭国兎田人」の「伊賀彦」(仲哀紀)』とある。これもずっと気にかかっている部分である。
この人の孫「稚守山」がやがて「近江山君」となったそうで、イコール「佐々貴山君」とみなしてよかろう~と書かれているのである。
神功皇后の息子(養子かもしれない):応神天皇
比布礼能意富美の娘:宮主矢河枝比売
この二人から後に仁徳天皇の妻となる「矢田皇女」が生まれるのである。
昨日、仁徳天皇陵のことが話題になっていた。発掘で、また新たな展開があるかもしれず、楽しみでもある。
https://mainichi.jp/articles/20181015/k00/00e/040/220000c
和邇氏は個人的に一番気になっている民族です。滋賀県と奈良県とで探ってます。大阪も関係ありそうですよね。
で治水と航海を出来るなら地形と天文との知識がないとあり得ません。今ままでちゃんと評価していればここ最近の天災による人災もかなり減っていたはずですよね。もったいないです。
ワニも色々な字がありますけど、丸邇もありますね。で今ちょっとインスピレーションで思い出したのがご馳走を載せる物。丸いハニって字から思ってしまいしたよ。いつへとは関係ないでしょうかね?
あと蟹については、かなりハマってましてハサミで金属加工の民族とも繋がりますし、山と海とをうまく生き抜ける民族だとは思いますね。
朝熊神社で沢蟹に出会ったあとお参り後、小雨が降ってきた思い出と勝手にくっ付けてます。
坂橋氏の隆の文字も身近で色々関わるんですよね。
あとなんだっけ?かなりいろいろな事が私の関連とも繋がってます。大津の小野神社も通った際地図で見かけて行きたかった所なのでとても意味ありそうです。
あと振熊王だっけ?熊の付く二人が戦うんですけど何でか闘う相手には思えず闘わされた?とも思ってます。あれ?朝熊と同じ熊付きますね。イオマンテとか熊の手とかおいてあったような神社あった気もしますね。
唐橋ですよね?坂橋と比べると唐と坂で言えば坂のが日本密着のように思いますけど、時代よってはカラが強くなってきますよね。
そうそう仁徳さんの古墳楽しみですけど、本当に信用出来る機関が関わらないといけないですよね。 少なくても日本の機関だと忖度しちゃうので荒らされちゃいそうにも思うので吉と出るか凶と出るか?気になりますよ。なら色々な国の外国人がミックスな機関なら安心です。
思い出した、しとぎの件なんだったかな?これもかなり凄い指摘でしたよね。今回の記事かなり凄いボリュウムの物が入ってますよ。神功皇后と武内宿禰はあまり得意ではないのですが、神功皇后のモデルは時代が違っているんではないか?と思ってます。そこが息長氏につながるなら大歓迎です。長ですから、結構お邪魔されてしまう一族なので応援もしたいですね。あくまでもその才能はその一族のみで代わりは出来ないのですから。
そう和邇でいくと大抵田原が付く所が怪しいと思うんですよね。木も大事。ただ木は残らないんですよね。ただ扱う物は種類がいっぱいあるはずなので金属や石辺りでも痕跡は見えてくるでしょう。ワニさんは今後楽しみですね。6133
コメントありがとうございました。
なんか、書いておきたいことが山盛りになってしまい、長くなってしまいました。
今後ともよろしくお願いいたします!
蟹とハサミ! ほんとうだ!
古事記を初めて読みました。難しいですね。万葉仮名と少し用字が違ってますので。
和歌の世界では、和爾は和歌元祖となっています。
難波津に咲くや此花冬ごもり今を春べと咲くや此花
と和歌の事を難波津と言います。
大阪には、此花区と浪速区があり、この歌が元になっています。今の大阪では、難波はなんばと読ませますので。
又お邪魔いたします。
拙句
難波津のビルの谷間に秋桜
難波津に咲くや此花冬ごもり今を春べと咲くや此花
何のお花を見つけて詠んだ歌なのでしょう。
声に出してもいい調子ですね。
そしてその王仁さんと古事記の和邇さんと同じ氏族だったのか…?
また謎が増えました。
シトギ餅作った方は、米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)さんみたいですけど応神天皇のお付きの方。お供物作ってお供えする役目なら関係ある一族っぽいですよね。
で昨日の別件でも使主(オミ)がね〜なんか違和感あって仕方なかったんです、渡来系に見えちゃうので。けど音だと丸邇之比布禮能意富美のオオトミがオミ(オオミ近江かも?)になっているように思うんですよね。意富ならこれは出雲とかヲオヒコとかでも出そうな昔からの字ですよね。出雲風土記ではオウって言ったんでしたっけ?なので島根や鳥取あたりの古代からの文字でもあります。少なくても大昔からいた方々ですよね。
あと日触って書くとこれもなんか違和感でしたけど丸邇之比布禮能意富美のヒフレは比布禮だと思うとこれってヒレですよね!確か魔除けだか虫除けだか袖振りみたいな動きを伴う布の事だっけなあ?サメが織るんだっけな?ヒレ発動出来るのウズメじゃなかったかな?ヒルコかな?
でちょっと北海道方面との関連もありそうなんで追加したいのが田道間守さんです。この方は長寿の薬を探し出した方なんですけど彼大好きでお菓子の神にもなっているので探しているんですけど米餅搗大使主さんの別名なんではないかな?同じことしてそうですよね。
で時代は垂仁さんの頃というのも、いい時代ですよ。相撲の野見さんと蹴速さんとの辺りの時代でもある。お墓は垂仁さんのお隣にあるようだと言われてますが円墳です。でこの前の写真見てびっくりしたのが群馬の少林山達磨寺の奥にある古墳みたくて行ったんですけど似てるんですよ。田道間守さんは青森にもなんか接点あった気がしますし、群馬は好都合でその先北海道アイヌとも接点あれば更に面白くなります。別件で奈良の甘樫丘で雷連れてきたスガルさんはツガルさんでこれも関係してきそうなんですよ、軽が付くので。
あと鎌足のお母さんなのか大伴夫人のお墓も行ったんですけど袖振りってなんだっけな?
大伴(オオトモ)じゃなく丸邇之比布禮能意富美(オオトミ)じゃないかのかな?近江氏っているのかな?そこも気になる。
そう思うと、鎌足は坂の関係者だと人間ウォッチと合ってくるんですよ、将門もですけど。でトミの一族もかぶってくるんですかね〜?垂仁さんは結構接点ありますよ、重用していたはず。その理由は崇神さんかなぁ?ただ判断間違ってない巫覡体質あるので和邇さんそこで絡んでいますね、仮説ですけどね。
それと今日5/12御阿礼神事ってのがありましてそこもなんか関係しそうですね。上賀茂神社なのか?雷も繋がる。石に降臨する神は古そうですし、父の関係では接点強い。大田神社もあるし、杉尾神社ってのもある。揃ってますよ。
神社のホームページによるとなんだか明治天皇の旧儀復興の仰せが出たのが三ヶ所で葵祭と春日祭りと石清水祭りですって。平城天皇と嵯峨天皇も神社の関係者なのもなんか納得なんですよ。
行けたら行きたいですね〜。
たくさん読んでくださってありがとうございます。
御阿礼祭、知らなかったので調べてみましたら、出雲と似ていませんか?
それにお相撲!これも出雲ですよね。
京都賀茂別雷神社の祭事。5月 12日夜に行われ,神霊が神籬 (ひもろぎ) に降臨し,本社に神幸して鎮座するまでの過程をいう。「みあれ」は出現,誕生の意で,神の出現,天降りをいう。
いろいろと刺激受けています。ありがとうございます!!
でこちらにきた理由なんですけど、岐阜の売木辺りで奈良の都に古代素材としてない物が揃っているようで調べてたんですよね。塩と馬と木は揃っちゃいそうで、それが田原本町へ移動したんではないかな?と思ってます。で残りの鉄なんですけど、近くの地名みたら川のうねった場所に為栗って地名あるんですよ。ここ九里さんと関係しないですかね?為栗の由来も調べてみてください、為(シテ)と読むようですから舞い関係ともなんか関連しますよ、きっと。意味は水っていう説もありそうなんで水+栗ってこちらに関係しそうですよね。
岐阜の氏族のに関係していたら多分こちらですぐに分かると思うので情報入れておきます。鉄の出てる遺跡も調べてみますね。栗は刳るって意味合いもあるようですね。製鉄は片目やられちゃうのでやっぱりなんか関係しそうだなあ。
九里さん関係が古代関わるなら奈良田原本町で岐阜からそこに行くなら尾張も通ってそうですし、伊賀や名古屋城とかも。まだまだ遡るはずですよ。
松本城の南の方に南栗遺跡ってあるようですよ。島立という地域みたいです。でちゃんと発掘調査書もあり縄文からの遺跡は形跡あるようです。長野で縄文は結構いいですよね。あとかまどの関係の住居もありますね。近く流れているのは奈良井川、松本城の南には源智の井戸からいいお水出てきてるようなのでお水の関係者好むでしょうね。
元は、栗の遺跡で検索かけたんですけど、大庭とか笹部とか奈良井川とかもうそれだけでなんか理解出来ますよね、こちらの関係の場所。
あとは旧石器のお水がない時代の遺跡があるか?どうか。ここも九里さん関係してそうですよ。