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中原師員 その周辺

2017-05-25 | 中原氏バラバラ情報
中原師員 【親盛流】http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01213a.htm#003

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kanokogi.html


生年:文治1(1185)-没年:建長3.6.22(1251.7.12)
鎌倉幕府の評定衆。中原師茂の子。朝廷では,明経道の教官として建仁2(1202)年に直講,建保6(1218)年に助教となった。その後,鎌倉に下って4代将軍藤原頼経の侍読となり,和漢の故事先例に通じた識者として将軍御所の行事を奉行し,様々な諮問に答えた。嘉禄1(1225)年,評定衆となる。寛喜3(1231)年藤原頼経の推挙によって,局務(太政官の外記の筆頭)の中原氏が独占していた大夫外記(五位の大外記)となる。同年摂津守に転任。貞永1(1232)年に御成敗式目が制定されると,評定衆として起請文に連署した。同年,明経博士となる。死の直前に出家,法名は行厳。<参考文献>永井晋「中原師員と清原教隆」(『金沢文庫研究』281号)
(永井晋)


清原教隆 きよはらの-のりたか

1199-1265 鎌倉時代の儒者。
正治(しょうじ)元年生まれ。清原頼業(よりなり)の孫。家学の明経(みょうぎょう)道をつぐ。鎌倉幕府につかえ,将軍九条頼嗣(よりつぐ),宗尊(むねたか)親王の侍講となる。金沢実時(さねとき)をみちびき,実時が金沢文庫を創設するうえで影響をあたえた。晩年京都にかえり,大外記(だいげき)となる。文永2年7月18日死去。67歳。初名は仲光。
追記(私)清原仲隆 三男

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では、中原師元 【大外記中原氏】中原師遠の息3人→ 師安・師清・師元


そして以前の記事

中原師遠の娘が藤原公重の妻である。

藤原公重
生年は元永二年(1119)とも。閑院流公実の孫。権中納言通季の息子。母は藤原忠教女。公通の同母弟。子に内大臣実宗・参議実明がいる。
父に早く死に別れ、叔父実能の養子となる。紀伊守・侍従・右少将などを経て、正四位下に至る。
『治承三十六人歌合』に選ばれる。家集『風情集』がある。詞花集初出。勅撰集入集歌は計六首。

通季の息に公通・公重の二人がいて、公通の息には九里と関係があるかもしれない実明がいる。
通季が亡くなったときには、公通は11歳。公重は10歳であった。
そこで、公重は叔父の徳大寺実能の養子となったのだ。

公重の妻に中原師遠の娘が嫁ぎ、中原と藤原家のつながりができていた。

そして、その師遠の娘は師元の姉である。
師元は、清原家から祐安を養子として入れた。
その中原祐安の義理の兄弟に平清貞がいる。

清原の実兄には頼業がいる。

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では師員と師遠は、どのような関係なのか。
これにはいくつもの系図が必要で、日本の苗字七千傑さんのページより列挙させていただきます。

この系図の中から「親盛流 師員」「大外記中原氏 師元」「祐安」「永井氏」「富来氏」がみえると思う。









系図では遠いように見える。wikipediaよりコピー↓ 年代も違う。もう一度詳しく見てみる。

中原 師員(なかはら の もろかず)は。鎌倉時代の御家人・吏僚。
生誕元暦元年(1184年)ー 没建長3年6月22日(1251年7月12日)
中原氏は明法道や明経道を司る家系。師員の家系はその傍流に当たり、中原師任の一子・貞親の子孫。なお、師員の父・師茂は中原親能(藤原親能)・大江広元(中原広元)兄弟の従兄弟にあたる

元暦元年(1184年)、中原師茂の子として誕生。その後、中原親能の養子となる。
師員は藤原頼経が鎌倉幕府4代将軍に推挙されて鎌倉に下向した際、随伴して侍読を担当し、そのまま幕府の吏僚となった。嘉禄元年(1225年)12月、中条家長や三浦義村、二階堂行村らと共に評定衆に任じられた[3]。
寛喜3年(1231年)、春の除目で大外記に補任、その直後の同年5月に摂津守に任官している。嘉禎2年(1236年)の12月26日条に「去る十八日の除目の聞書到着す。武州(北条泰時)左京権大夫を兼ね給う。師員主計の頭に任ず」とある。連署執権北条時房死後には政所下文に北条泰時の次に署判を加えている。
建長3年(1251年)6月15日、出家[4]。6月22日、死去。

師員は将軍・藤原頼経の側近でもあったが、その立場は、京と鎌倉、評定衆の評定と政所、恩沢奉行としては執権と将軍の結節点となっており、執権対将軍という中では中立的な立場がそもそもの役割だったのだろう。そのため寛元4年(1246年)の宮騒動においても、藤原定員のように連座することも、後藤基綱のように警戒されることもなく、政権中枢であり続け、子の資連も宗尊親王の御所奉行、評定衆として活躍し、その家系は鎌倉時代末期には摂津氏と呼ばれて幕府中枢の事務官僚を世襲した。子・師連と共に『吾妻鏡』に多数実名で登場することから、『吾妻鏡』編纂の原史料としてその日記・筆録の類が利用された可能性が高いとされている。

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師遠 、延久2年11月23日(1070年12月28日) - 大治5年8月7日(1130年9月11日))は、平安時代後期の貴族。大外記・中原師平の子。官位は正五位上・大外記。父・中原師平に続いて明経得業生から明経試に及第し、寛治2年(1088年)権少外記に任ぜられる。寛治4年(1090年)には中原氏の祖である中原有象以来の伝来の官職である大外記に任ぜられ、従五位下に叙爵。
寛治5年(1091年)父・師平の明経博士辞任に伴い直講に任ぜられると、寛治7年(1093年)に天文密奏宣旨を受け、初めて釈奠の座主役を務めて『孝経』を講ずるなど、儒学者としての経歴を重ね、承徳2年(1098年)には直講の功労により従五位上に叙せられている。またこの間、永長2年(1097年)に関白内大臣・藤原師通家の文殿に任ぜられているが、承徳3年(1099年)に師通が薨去した際に暇の上申なく服喪のために籠居したことから、短期間ながら勅勘を蒙っている。
康和3年(1101年)再び大外記に任ぜられると、没する直前の大治5年(1130年)まで、白河院政期から鳥羽院政期までのほぼ30年に亘ってこれを務める。この間、朝廷の官人として主計権助・主計頭を、儒学者として直講・助教・明経博士を、さらには摂関家(藤原忠実・忠通)の政所別当も務めている。なお、天永2年(1111年)に記録荘園券契所が再設置された際にはその寄人に任ぜられている。一方で、長治元年(1104年)正五位下、永久元年(1113年)正五位上に昇進した。
大治5年(1130年)正月に大外記から隠岐守に転じるが、同年8月6日卒去。享年61。最終官位は隠岐守正五位上兼修理左宮城判官主殿頭図書頭明経博士。

師元 天仁2年(1109年) - 承安5年5月20日(1175年6月10日))は、平安時代後期の貴族。中原氏師平流。大治3年(1128年)に家司として招かれた摂関家において、藤原忠実・頼長父子より厚い信頼を受け、その相談事に数多く与った。忠実との会話を師元が筆録した『中外抄』は、院政期の公家社会の様子を克明に伝える史料の一つである(同書の書名は中原の「中」と大外記の「外」から各々一字を取ったもの)。
保元元年(1156年)の保元の乱によって忠実が奈良の知足院に逼塞して後は、忠実の孫・基実の家司を務める傍ら、大炊頭や出羽守を歴任し、承安2年(1172年)には位階は正四位上に至った[1]。
著作として、『中外抄』のほか、日記『大外記中原師元記』、年中行事解説書『師元年中行事』、『雑外抄』などを残している。

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系図も遠く時代も違うが、清原頼業とその孫によって両者は繋がっているように感じる。
特に孫の仲光=教隆は、鎌倉幕府と密接に関係があり、師員と共に活躍をしているのだ。

鎌倉幕府では、清原清定という人物も登場する。図書允(ずしょのじょう),左衛門尉(さえもんのじょう)である。
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