万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

共産主義の理想は‘生産管理国家’

2024年07月04日 12時42分35秒 | 統治制度論
 1848年に世に現れた『共産党宣言』は、今日に至るまで共産主義のバイブル的な存在として読み継がれています。しかしながら、同書が掲げる政策綱領を見ましても、そこには、‘奴隷の平等’を想定しているとしか思えないような記述が見られます。そしてもう一つ、同書には、マルクス並びにエンゲルスが‘本音’が漏らしている箇所があります。

 マルクス主義にあっては、国家の消滅を予測しながらも、その後に現れるべき国家、あるいは、協同体についての明瞭かつ具体的なヴィジョンが示されているわけではありません。未来ヴィジョンにおける抽象性や曖昧性が、ソ連邦であれ、中国であれ、また、他の共産主義国家であれ、共産主義革命後に出現した国家体制が非民主的な全体主義体制とならざるを得なかった要因ともされています。このため、ソ連邦の崩壊についても、共産主義そのものの失敗ではなく(政治イデオロギーとしての共産主義はあくまでも正しいとする立場・・・)、その実現手段が誤っていたとする擁護論がまかり通る余地を与えてきました。マルクス並びにエンゲルスが具体的な設計図を提示しなかったために、国権を掌握した革命家達が設計を間違えたに過ぎない、とする説です。

 しかしながら、『共産党宣言』を読みますと、上述したように、共産主義国家のヴィジョンについて間接的に触れている記述があります。それは、同書第三章の「社会主義的及び共産主義的文献」の後半部分に現れます。同章では、過去や現在において唱えられてきたマルクス主義と競合する他の社会主義思想や共産主義思想を批判的に論じられているのですが、その中で、階級闘争の重要性を強調するに当たって、他の思想が提起する命題が、マルクス主義が主張する階級対立の消滅状態の別表現に過ぎないと述べている部分があります。そして、この命題の一つに、「国家を単なる生産管理に転換すること」という記述が見られるのです。

 この一文を読みますと、マルクス主義における国家ヴィジョンが、経済全体が政府によって一元的に管理される体制であることが理解されます。そしてこの記述に従えば、共産主義国家の統制経済や計画経済は、まさしく同ヴィジョンを具現化したものであったこととなりましょう。全世界のプロレタリアートに檄を飛ばす『共産党宣言』の末節では、「共産主義者は、自分の意見や意図を秘密にすることを軽蔑する」とありますが、‘奴隷の平等’を意味しかねない「全ての人々に対する平等な労働強制」といい、生産管理国家への転換といい、正直と言えば正直なのですが、何故、こうしたディストピア的な記述がありながら、同思想がかくも多くの人々を惹きつけたのか、全くもってこれは共産主義最大の謎なのです。

 以上に述べましたように、共産主義国家における経済の全面的な統制を伴う全体主義体制の出現は、既にマルクス主義が予定していたところとなるのですが、今日では、国家の生産管理が軍需優先に傾斜し、結果として自滅したソ連邦とは異なる方向から、共産主義国家の生産管理体制の脅威が迫っているように思えます。それは、一党独裁体制を堅持する共産主義国家である中国が、国家の総力を挙げて取り組んでいる、先端技術の研究・開発並びに同テクノロジーを搭載した製品の輸出攻勢です。かつてはハイテク製品の原材料としてのレアアースを経済的戦略物資に位置づけていましたが、今日では、太陽光パネルといった再生エネ発電装置、EV、ドローン、半導体などの製品や部品において大量生産を開始し、技術の先進性と低価格を武器に世界市場を席巻しようとしているのです。自由貿易主義、あるいは、グローバリズムは規模の経済が強く働きますので、政府が掲げるアグレッシブな産業戦略の下で特定の成長産業への集中投資や傾斜生産が可能となる共産主義体制にとりまして、競争上、極めて有利な状況にあると言えましょう。

 突出した輸出競争力をもつ中国製品につきましては、アメリカであれ、EUであれ、ようやく高率の関税をかけることで防波堤を築きつつありますが、関税並びに非関税障壁を問答無用に‘悪’と見なす自由貿易主義やグローバリズムが、経済大国のみならず、先端技術の転用も手伝って軍事大国にしてデジタル全体主義国家をも育て、諸国の安全まで脅かしているとしますと、人類にとりまして、この路線をそのまま歩み続けることが正しいのか、現実を直視した上で考えてみる必要があるように思えます。横暴な強者に無制限な自由を与えるとどうなるのか、人類は、既に歴史の教訓として学んでいます。そして、自由貿易主義もグローバリズムも、共産主義を誤認して好意的に解釈したのと同じように、多くの人々の誤解の上に推進されているかも知れないのですから。

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選挙公約は民主主義に対する封じ手?

2024年07月02日 10時01分53秒 | 統治制度論
 東京都知事選をはじめとして、目下、アメリカ、イギリス、フランス等において今後の政治を占う重要な選挙が目白押しです。普通選挙の実施は、民主主義のメルクマールでもあり、民主主義の制度化は、選挙制度に始まると言っても過言ではありません。このため、人々は、有権者が複数の政党や候補者から自由選択が可能な普通選挙の存在だけで、既に民主主義が実現しているものと安心しがちです。しかしながら、本当に、普通選挙の実施は、国民自治という意味において民主主義を具現化しているのでしょうか。

 何れの組織にありましても、決定機関の人事は極めて重要です。ましてや、それが政治的ポストの人事権ともなりますとなおさらのことです。有権者となった国民は、選任者として為政者の‘上部’に位置することとなるからです。この意味において、民主的選挙こそ、為政者と国民との旧来の上下関係をひっくりかえした‘革命’とでも表現すべき統治機構上の大転換、あるいは、画期的な大改革なのですが(暴力革命よりも遥かに平和的で理性的・・・)、国民は、選挙権並びに被選挙権を獲得した時点で、国民主権が遂に実現したものとして満足してしまったのも無理からぬことなのです。

 かくして民主的選挙の導入によって、国民は、政治ポストに対する人事権を得たのですが、近現代以降、政治における左右のイデオロギー対立を背景として、選挙における有権者の選択は、政党の選択、即ち、政治信条、価値観、あるいは、世界観をめぐるものへと比重を移してゆきます。否、‘人選び’から‘党選び’へと人々の投票の重点が変化したため、むしろ、前者への関心が低下してしまったとも言えるかも知れません(議院内閣制の国では、政権選びともなる・・・)。政治家の個人的な質が劣化したのも、選択の対象が政党へと移行したことに起因するのでしょう。そして、選挙には、さらに‘政策選び’が加わることとなります。‘政党選び’から派生して(各政党とも、政策綱領が作成されている・・・)、候補者の各々も、当選した暁にはその実現を有権者に約する選挙公約を掲げるようになったからです。今では、候補者が提示する公約は、有権者にとりましては投票先を決める重要な判断材料となりました。

 選挙に際して政策まで選べるようになったのですから、有権者が選択できる対象が広がり、間接的ながらも、国民が政策の決定権を握ったにも等しいようにも思えます。選挙に勝利してポストに就いた政治家は、もはや‘決定者’ではなく、公約を誠実に実現する‘実行者’に過ぎなくなるからです。この側面だけを切り取れば、確かに、民主主義の制度化がさらに進化・発展し、国民の参政権の内容はさらに充実したかのようにも見えます。

 しかしながら、統治制度全体を見ますと、各候補者や政党による選挙公約の提示が、必ずしも民主主義の進化・発展を約束するわけではありません。その理由は、公約とは、各候補者や政党側が作成するものであって、‘国民の声’ではないからです。極少数の国あるいは地方自治体レベルでは国民発案の制度が導入されているものの、現行のシステムでは、発案権は政治家や政党に半ば独占されており、‘国民の声’は同システムにあって遮断されているのです。

 この結果、どのような事態が起きたのかと申しますと、政治家や政党が、敢えて国民の要望や世論が支持する政策等を公約から外し、自らの利益となる政策や当たり障りのない政策のみしか公約に掲げないという、一種の民主主義封じの横行です。例えば、先日、自民党総裁選挙への出馬に意欲を示す自民党の茂木幹事長が、総理になって「やりたい仕事があるのは間違いない」と述べて、具体的な政策として「ライドシェアの全面解禁」と「副業の解禁」を挙げたそうです。同‘公約’は、SNSでは国民感情を逆なでしているとして批判を浴びたのですが、この発言も、茂木幹事長が、‘国民の声’ではなく、‘別の声’を聞いて政策を提示しているとすれば、‘さもありなん’ということとなりましょう。

 ‘別の声’とは、おそらく世界経済フォーラム等をフロントとする世界権力なのでしょうが、この一件は、‘国民の声’が無視され、政治家の大半がグローバリストの代理人となっている日本政治の現状をよく表してもいます。そして、現状における公約の悪用とも言うべき民主主義に対する逆行作用を考慮すれば、今日、民主主義国家の国民に必要とされている政治家とは、‘国民の声’を公約とすると共に、同問題を解決に導くべく制度改革を公約に掲げる政治家なのではないかと思うのです。

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『共産党宣言』は人類奴隷化宣言?-‘奴隷の平等’

2024年06月27日 10時24分00秒 | 統治制度論
 1848年に出版されたカール・マルクス並びにフリードリヒ・エンゲルスが執筆した『共産党宣言』は、人類の歴史の歩みに多大なる影響を与えた書物の一つです。出版から1世紀を経ずしてロシア革命を引き起こし、ソ連邦消滅後の今なおも、地球上には中国を筆頭に共産党一党独裁体制を維持する国家が存続しています。同書は、共産主義国家を仕切る共産党幹部のみならず、全世界の市井の共産主義者にとりましても‘バイブル’とも言えましょう。しかしながら、これらの人々が、『共産党宣言』を本当に読んだのか、疑問なところなのです。

 共産主義は、一先ずは労働者を資本家の搾取から解放し、平等な社会を実現することを目指す思想です。このため、共産主義運動の主たる働きかけの対象は、労働者=被搾取者であり、不条理な現状に不満を抱く人々を惹きつけたことは理解に難くありません。搾取側とされる資本家は少数派ですので、共産主義は、その他大多数となる‘被搾取者’を惹きつける魅力的な思想であったと言えましょう(マルクスは、‘医者、法律家、僧侶、詩人、学者’と言った専門的な職業の人々も、資本家が雇用する賃金労働者に過ぎないとしている・・・)。社会一般への浸透を目指す運動の大衆性は、共産主義の特色の一つです。このため、大衆運動の担手にして革命の実行勢力を育成すべく、‘共産党’という政党が世界各国において設立されるのです。

 搾取が好ましいと考える人は、少数の搾取できる立場にいる人以外にはおらず、理不尽な不平等をよしとする人も少数ですので、共産主義が掲げた看板を見て共鳴した人も少なくなかったはずです。しかも、『共産党宣言』の第二章の末文には、「階級と階級対立とを持つ旧ブルジョア社会に代わり、一つの協同体があらわれる。ここでは、ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件である」とあります。平等のみならず、個人の‘自由な発展’をも謳っているのですから、自由、平等、博愛(協同体)という三拍子を揃えた人類の理想郷を掲げたとも言えましょう。しかしながら、共産主義も、目的は正しくとも、手段が間違っている事例の一つのように思えます。何故ならば、『共産党宣言』をよく読みますと、背筋が寒くなる箇所が散見されるのです。

 その一つが、同書にあって、共産主義の実現に至るための手段について述べた部分にあります。同書では、‘もっとも進歩した国(共産化した国)’に適用しうる10の方策を、箇条書きに列挙しています。その一つ一つの問題点や矛盾点については掘り下げて考察する必要があるのですが、特に注目されるのが、第8番目に挙げられた方策です。何故ならば、「全ての人々に対する平等な労働強制、産業軍の編成、特に農業のために」とあるからです。驚くべきことに、ここでは、‘平等な強制労働’と明記されているのです。

 共産主義を信奉する人々が、『共産党宣言』を実際に読んでいるかどうかを疑うのは、まさにこの箇所にあります。仮に、熟読していたならば、共産主義を支持するとは思えないからです。‘特に農業のために’とありますので、マルクス並びにエンゲルスが描く共産主義の理想郷とは、全ての人々が集団農場で等しく強制的に農作業に従事させられる‘協同体’なのでしょう。確かに、この世界ではブルジョア階級も、同階級による搾取も消え去っているのかもしれません。しかしながらその一方で、共産主義の行き着く先は、植民地のプランテーションの光景に近く、広大な農園にあって、平等な人々、否、奴隷が、黙々と働かされている世界が見えてくるのです。奴隷は相互に上下関係のない平等な立場にありますので、これでは、‘奴隷の平等’となりましょう。

 奴隷こそ、何らの対価や報酬もなく労働を強いられるのですから、究極の搾取形態です。中国の現状を見れば分かるように、現実の共産主義国家は、結局は、共産党、あるいは、国家が資本家に代わる搾取者になったに過ぎないのかもしれません。共産党一党独裁体制の堅持が、‘搾取体制’の永続化を意味するとしましたら、共産主義とは一体、何であったのか、『共産党宣言』の出版から176年の年月を経た今日、共産主義者こそ、客観的かつ批判的な視点から同書に検証を加えるべきように思うのです。共産主義からの解放を目指して。

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ルソーが警告するNPTのリスク

2024年06月25日 09時58分56秒 | 統治制度論
 NPTには、核戦争の回避という人類共通の願いが込められています。核戦争は人類滅亡をももたらしかねませんので、同条約が高らかに掲げる核戦争回避の目的に対しては異を唱える人はほとんどいないことでしょう。実際に、全世界の大多数の諸国が同目的に賛同し、NPTの締約国となりました。しかしながら、目的が正しくとも、必ずしも、手段も正しいとは限りません。少なくともNPTに関しては、深刻なる逆効果が見られますので、1967年1月1日までに核実験に成功した締約国のみに核兵器の保有を認め、他の諸国には一切これを禁じるとする手法が適切であったのか、今一度、考えてみる必要がありましょう。それでは、何故、逆効果が起きてしまうのでしょうか。

この問題を考えるに当たって、興味深い見解があります。それは、1761年に出版された『社会契約論』に記されているジャン・ジャック・ルソーによる以下の考察です。

「社会が平和であり、調和が維持されるためには、すべての市民が例外なしに、ひとしくよきキリスト教徒であることを必要とするだろう。」

この文章にあって、ルソーは、社会における平和と調和の必要条件として、全構成員の善良性を挙げています。いわば、性善説が通用する世界を成立条件としているのであり、それは、人類の理想郷でもありましょう。この必要条件をNPTに当てはめますと、全世界の諸国が等しく国際法を誠実に遵守し、相互に友好と平和の実現に務める善き国家であることとなります。

 しかしながら、その一方で、同条件の成立が表層的なものに過ぎない場合のリスクをもルソーは指摘しています。

「しかし、もし不幸にして社会に一人でも野心家があり、一人でも偽善者があるとしたら、・・・このような人物が信心深い同国人を押さえてしまうことは、きわめて確実だ。」

この一文は、善良な人々の中に‘隠れ性悪者’が紛れていた場合には、上記の前提が崩れ、他の人々は、この人物に支配されてしまうリスクを述べています。NPTに照らしますと、拡張主義的な‘野心国’は、ロシアや中国、あるいは、イスラエル、北朝鮮、イランといった核保有国が当て嵌まりますし、アメリカ、イギリス、フランスは、後者の‘偽善国’であるかもしれません。次いでルソーは、こうも語っています。

「キリスト教の愛は、隣人を悪しざまに考えることを容易に許さない。・・・簒奪者を追い出すことは良心がとがめることだろう。・・・」

 これらの文章は、ルソーが「市民の宗教」について述べた章の一部ですので、キリスト教が主たるテーマとはなっているのですが、NPTもまた、‘全世界の非核化’や‘核なき世界’は、一種の信仰と化しています。すなわち、悲惨なる核戦争の回避という大義が、人類の共通善の実現を目指す絶対教理と化したからこそ、NPTは、客観的な検証や見直しに付されることなく、また、同条約のみならず核兵器禁止条約の成立までもが目標とされることとなったのでしょう。NPTへの懐疑を言い出すことは、ルソーが述べたように、一般の人々にとって良心がとがめることでもあったのです。

 この結果は、言わずもがな、核兵器を保有する野心国や偽善国による非核兵器国に対する横暴が生じ、非核兵器国の善意はむしろ自らをこれらの諸国の頸木の下に置き、かつ、安全も脅かされるという予測外のものとなりました。そもそも法とは、‘悪人’の存在を前提としているものですし、性善説を前提として制度設計しますと、一人でも‘悪人’が出現した途端に崩壊してしまうシステムもあるものです。

 ルソーの一文は、18世紀の記述でありながら、人類の善性に潜む悪用リスクを的確に分析している故に、今日の人類に警告を与えていると言えましょう。現実の国際社会には、‘野心国’も‘偽善国’も存在し、かつ、それらの背景には世界権力が潜んでいるのですから。むしろ、NPT体制の成立を積極的に推進した諸国こそ、これらの核保有諸国でもありました。NPT体制とは、一部の軍事大国や粗暴な国家による核の独占を許し、世界支配の装置として機能しているという深刻な現実から目を背けてはならないと思うのです。

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マルクスが語った‘宗教は麻薬’のパラドクス

2024年06月11日 09時40分26秒 | 統治制度論
 中国は、今日、習近平国家主席の‘指導’の下で、国民に対して習近平思想の徹底を試みています。国家が国民の内面に踏み入り、その思想まで強要する体制は、国家イデオロギーを定める共産主義国家の特徴の一つでもあります。そして、習近平思想にあっても、過去の5つの思想、即ち、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論、三つの代表、科学的発展を基礎としながらも、19世紀にカール・マルクスが唱えた共産主義を出発点としていることは疑いようもありません。

 ‘唯一思想’を国定する一方で、中国は、1949年10月10日の建国以来、宗教に対しては弾圧の姿勢で臨んできました。その主たる理由としてしばしば挙げられるのが、マルクスが残した‘宗教は麻薬(アヘン)’であるとする言葉です(その他にも、宗教弾圧の動機は多々ある・・・)。麻薬とは、人々の正常な判断力を狂わせる一方で、人々を安逸で夢見心地の境地に誘います。最期には、廃人と呼ばれた状態に至りますので、麻薬は、厳重に取り締まるべき対象と見なされてきたのです。その麻薬に共産主義の祖であるマルクスが宗教に擬えたのですから、共産主義者が宗教を嫌悪したのも理解に難くはありません。屈辱として歴史に刻まれたアヘン戦争を経験した中国であれば、なおさらのことでしょう。

 それでは、マルクスは、何故、‘宗教はアヘン’と断じたのでしょうか。その意味内容については、『ヘーゲル法哲学批判序説』において述べられています。宗教とは、現実において悲惨な状況に置かれている人々が、その苦しみから一時でも逃れるために天国を空想し、自己陶酔に浸る現実逃避に過ぎないとしているのです。言い換えますと、天国であれ、極楽であれ、精神的な逃避先である宗教がある限り、人々は、不条理に虐げられている現実を直視せず、その改善を求めようとしないのであるから、宗教は、麻薬と同様に存在しない方が良い、という主張なのです。

 宗教の役割を現実逃避のみに矮小化して理解している点については問題があるのですが、宗教が貧しき人々や弱き人々の心の支えとなってきたことは確かなことですので、マルクスの主張には一理はあるのでしょう。しかしながら、同主張は、宗教の全面的な廃止やチベットやウイグルで見られるような虐殺をも伴うような宗教弾圧を正当化できるのでしょうか。

 マルクスは、宗教弾圧の正当性を理論武装したようにも見えますが、よく考えても見ますと、マルクスの論理に従えば、中国共産党は、むしろ宗教を弾圧し得ない立場に置かれていることが分かります。何故ならば、革命によって共産主義体制が樹立されれば、旧体制が与えてきた、あらゆる抑圧や搾取から人々が解放され、現世にあって天国の如き理想郷が出現しているはずであるからです。現世が天国や極楽であれば、宗教にすがる人々は皆無となり、同時に、共産党が宗教を弾圧する必要も消滅するはずなのです。言い換えますと、中国共産党による宗教弾圧は、むしろ、‘この世の楽園’を約束した共産主義者の‘プロパガンダ’には偽りがあり、共産主義体制が、旧体制と変わらない、あるいは、それ以上に、国民にとっては過酷な体制であることを自らの行動で示すこととなるのです。理論上、必要がないはずのことを行なっているのですから。

 マルクス思想に不動の地位を与えている中国共産党は、マルクスの著作に遡れば遡るほどにその欺瞞性が明らかとなり、自らの墓穴を掘ることとなりましょう。そして、マルクス主義への強固な依存は、中国の自壊を招く一党独裁体制のアキレス腱ともなるかもしれないと思うのです。

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民主的選挙における三頭作戦の問題

2024年06月05日 10時42分50秒 | 統治制度論
 次期大統領選挙のただ中にあるアメリカでは、目下、異変が起きています。二大政党制を背景として共和党と民主党の候補者が対峙する伝統的な対立構図が崩れ、第三候補への支持率が伸びるという現象です。共和党のトランプ前大統領と民主党の現職バイデン大統領との一騎打ちとなるとされた事前予測が覆され、無所属で出馬したロバート・ケネディJr氏の勢いが増していると報じられているのです。

 バイデン大統領には、ウクライナや中国にて家族ぐるみで利権を漁ったとする重大な疑惑があり、片やトランプ前大統領も、抽選で選ばれた一般市民で構成されるニューヨーク州地裁の陪審とはいえ、5月30日に有罪評決を受けています。二者択一を迫られても、何れも選択できないとする有権者は少なくなく、ロバート・ケネディJr候補の支持率上昇は、いわば、膨大な数に上りつつある‘浮動票’の受け皿となっているとも言えましょう。

 しかも、ロバート・ケネディJr候補は、謀略(陰謀)の存在を認めております。CIAの名を挙げての陰謀実在の主張は、‘ディープ・ステート’という表現でそれを抽象的に批判するトランプ大統領よりも、むしろ具体性を帯びてさえいます。同主張の背景には、伯父のジョン・F,・ケネディー大統領や自身の父親であるロバート・ケネディー司法長官が凶弾に斃れつつも、真相が有耶無耶にされたという苦い実体験があるからなのでしょう。ケネディー家がアメリカの暗部を浮かび上がらせる存在であったからこそ、その一員による発言には信憑性も説得力もあるのです。

 かくして、ロバート・ケネディJr候補は、民主・共和両党の候補者に対する批判票を集めることで次期大統領選挙の台風の目となりそうなのですが、同候補の出現によって、アメリカ市民は、有権者に二者択一を迫る二頭作戦から晴れて抜け出すことができるのでしょうか。仮に、ロバート・ケネディJr氏に世界権力の息が全くかかかっていないとすれば、あるいは、同氏は、アメリカを救う現代のヒーローとなるのかも知れません。しかしながら、二頭ならぬ、三頭作戦である可能性もないわけではありません。否、二頭であれ、三頭であれ、数は関係なく(八岐大蛇やメデューサ・・・)、民主的な選挙が、外部、あるいは、上部の勢力に仕切られてしまうリスクへの懸念は払拭できないのです。

 不安材料としてあげられるのは、三人の候補者のイスラエルに対する基本姿勢です。実のところ、三人の候補者全員が、イスラエル支持を表明しているからです。対イスラエル政策については、ロバート・ケネディJr候補も他の二人の候補者と変わりはありません。少なくとも3月の時点では、同候補はイスラエル支持を表明すると共に、休戦に対してもその必要性に疑問を投げかけているのです。しかも、ロイター通信社の記者とのインタヴューでは、イスラエルを「道徳的な国家」とまで述べています。

 三候補者揃ってのイスラエル支持は、アメリカの市民には、大統領選挙にあって反イスラエル(イスラエルによる国際法違反行為への批判や支援の停止・・・)あるいはパレスチナ支持(パレスチナ国の国家承認・・・)という選択肢が存在しないことを意味します。イスラエルによる蛮行に心を痛め、反対するアメリカ人は、抗議活動に参加した大学生のみではないはずです。それにも拘わらず、これらの声は、何れの候補者が当選したとしても、政治の舞台には届かないのです。アメリカ大統領の職権において対外政策は中心的な政策領域ですので、大統領選挙の結果には関係なく、アメリカの親イスラエル政策は既に決まっています。逆から見ますと、イスラエルを支持しなければ、アメリカでは大統領候補にはなれない、とも言えましょう。

 マネー・パワーをもって全世界を仕切ろうとしている世界権力の中枢がユダヤ系である点を考慮しますと、イスラエルを支持するロバート・ケネディJr候補もまた、既に世界権力の配下にある、あるいは、選挙資金等の提供などを介して同勢力からの要請に抗えない立場にある可能性も否定はできなくなります。イスラエル支持が世界権力への‘臣従’と凡そ同義ともなりますと、対外政策のみならず、他の領域にあっても世界権力の意向や利益に資する政策を実現させようとするかも知れません。となりますと、民主的選挙制度は、国民に対して‘自らが選んだ’という幻想を与え、世界権力による‘支配’を納得させるための茶番劇に過ぎなくなりましょう。

 そして、この問題は、世界権力の支配網が全世界に張り巡らされている可能性を踏まえますと、アメリカに限られたものでもなくなります。東京都知事選も例外ではなく、何れの国あるいは首都であれ、民主的選挙を取り巻く現状は、現代という時代が、民主的制度が巧妙に悪用され、形骸化されていることを知らせる警鐘のように思えるのです。

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ウクライナに見る民主制から独裁制への体制移行

2024年05月24日 09時44分38秒 | 統治制度論
 ロシアと交戦状態にあるウクライナでは、今月5月20日に任期満了を迎えたウォロディミル・ゼレンスキー大統領が続投を表明しています。大統領職の継続は、同国では大統領選挙が実施されず、同国が民主制から戦時独裁体制へと移行したことを意味します。民主制から独裁制への移行は、戦間期におけるドイツのヒトラー政権の誕生にも見られましたが、今般のウクライナでの出来事は、戦争が体制移行を伴うことを示す同時代的な事例と言えましょう。

 ゼレンスキー氏が大統領選挙に当選し、圧倒的な支持率をもって同職に就任したのは2019年5月20日のことです。同氏は、ひょんなことから大統領となった人物が持ち前の正義感からウクライナを腐敗政治から救うという筋立てのドラマ、『国民の僕』に出演し、ヒーロー役、即ち、大統領役を務めたコメディアンでした。ウクライナ国民が同氏を大統領として歓迎したのも同ドラマを抜きにしてはあり得ず、いわばマスメディアが生み出した大統領であったとも言えましょう(なお、同ドラマを作成したテレビ局のオーナーは、ユダヤ系オリガルヒのイーホル・ヴァレリヨヴィチ・コロモイスキー・・・)。

 5年前の大統領選挙では、国民の大多数がゼレンスキー大統領に期待したのは、ドラマで演じた大統領の如く、長らくウクライナの政界に染みこんでいた汚職体質の一掃であったはずです。現実とフィクションとの区別がつかないまま、国民は後者のイメージで前者を大統領に選んだのであり、ロシア相手の戦時の指導者となるとは想定外であったことでしょう。つまり、ウクライナの民主体制にあって国民の主たる投票の判断基準は汚職対策への期待であり、決して戦争指導者ではなかったはずなのです。

 そして、このウクライナの事例は、民主的選挙制度の弱点を示してもいます。それは、国民は、選挙時点での内外の状況、あるいは、その時点で予測できる範囲においてしか投票先を選ぶことができず、その後に起きる不測の事態や予想外の変化に対しては無力となってしまう問題です。この側面は、ロカルノ体制を打破するドイツの‘救世主’としてヒトラーを積極的に支持する国民が少なくなかったドイツの歴史的事例とは異なっています。今日のウクライナのゼレンスキー大統領続投は、選挙後に重大なる事情の変化がありながら、大統領が居座ってしまう事例なのです。

 民主的な選挙制度は、状況に合わせた為政者の交換がそのメリットの一つです。ところが、いざ戦時下ともなりますと、権力の空白が生じる、国民が安全に投票所に向かうことができない、あるいは、職務の継承における混乱や不安定化が懸念されるといった理由から、選挙の実施が難しくなるのです。また、敵国による選挙干渉もリスクの一つとして指摘されています。かくして戦争は、民主主義体制の国家であったとしても、独裁体制への移行に口実を与えてしまうのです。

 国民の側も、有事にあっては戦時独裁体制への移行も致し方ないとして受け入れてしまう警告にあります。そして、この受容的心理が、むしろ、独裁体制を常態化し、戦争を長引かせるという結果を招いているとする見方もできるのです。もっとも、この国民の独裁容認は、心理作戦がもたらした一種の思い込みであり、実際には、大統領選挙の実施は不可能なことではないのでしょう。ウクライナであれば、国民が戦争の継続を望むのであれば、ゼレンスキー大統領が当然に再選されるでしょうし、戦争の早期終結を公約に掲げた候補者が当選すれば、民意は、戦争継続にはないこととなりましょう。

 日本国内で憲法改正の論点ともなっている非常事態条項の新設が危惧されるのも、上述した民主主義の弱点に因ります。目下、岸田内閣の支持率は20%台という低迷状態にありますが、予期せぬ緊急事態が発生し、有事ともなりますと、岸田首相に権限が集中すると共に、日本国でも戦時独裁体制へと移行します。そしてその体制は、グローバルな戦争利権が絡むことにより、長期化することが予測されるのです。国民の信頼なき指導者の長期独裁化のリスクを考慮すれば、むしろ、戦時こそ選挙を実施すべきとも言えるのです。

 なお、ブラウン管から現実の政治に飛び出してきたゼレンスキー大統領の登場は(今日ではブラウン管ではなく液晶画面でしょうが・・・)、同大統領と同じくコメディアンであったチャールズ・チャップリンが監督・主演を務めた『独裁者』を思い起こさせます。銀幕の世界に留まる同作品では、自由で平和な時代の到来を予測させるハッピーエンドで幕を閉じるのですが、現実のウクライナは、逆に、国民は戦時独裁体制という檻の中に閉じ込められてしまいました。5年前の就任式にあっては高揚感に満ちて笑顔を振りまいていたゼレンスキー大統領は、今では、陰鬱で疲れた表情を浮かべながら大統領の執務席に座っているそうです。喜劇俳優から悲劇俳優に転じたかのように。そして、あるいはこの現実こそ、世界権力が配置した俳優達が入れ替わり立ち替わり自らの役を演じる、壮大なる劇であるのかもしれないとも思うのです。

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アメリカは法廷でネタニヤフ首相等の無罪を主張すべき

2024年05月23日 10時31分23秒 | 統治制度論
 先日の5月20日、国際社会からの批判に耳を貸そうともせず、イスラエルがガザ地区第二の都市ラファ攻囲を進める中、国際刑事裁判所(ICC)のカリム・カーン主任検察官は、イスラエル並びにハマスの両指導者に対する逮捕状を請求したことを明らかにしました。同主任検察官は、ロシア・ウクライナ戦争に際しては露骨なほどに後者寄りの姿勢を見せていましたので、このときは、ICCの中立性に疑問が持たれたのですが、イスラエル・ハマス戦争については、紛争の両当事者を公平に扱っているようです。10月7日以降の行為に限定されているとはいえ、両サイドともに等しく、戦争犯罪並びに人道上の罪が問われたからです。

 もっとも、イスラエルとハマスとの関係は必ずしも敵対関係にあるとは言えない側面があります。そもそも、ヨルダン川西岸地区とガザ地区との分断を目的として、イスラエルがハマスを背後から支援し、ガザ地区を実効支配するまでに育て上げたとされます。このため、戦争の発端となったイスラエルの音楽祭に対する残虐極まるテロ行為も、大イスラエル主義に基づくガザ地区併合を狙ったイスラエルとハマスとの合作、あるいは、正当防衛の根拠を得るためのイスラエル側の意図的な黙認の可能性も指摘されています。イスラエルとハマスが共にユダヤ系世界権力が自らの世界戦略を実行させるための‘駒’であるならば、ICCが訴追しようとしているのは、背後に控えている‘真犯人’、即ち、両者を操ってきた世界権力であるのかもしれません。

 同逮捕状の請求が意味するところについてはより深い考察を要するものの、敵味方の関係なく(戦争の勝敗に関係なく)、戦争当事者の犯した罪を等しく裁くことは、司法の原則に叶っています。否、司法の使命そのものでもあります。戦争犯罪も人道上の罪も、その行為自体が罪なのであり、この点、ICCのカーン主席検察官の行動は、国際社会における法の支配の確立に向けて一歩、歩を進めたことにもなりましょう。実際に逮捕状が発行されるか否かは、今後の予審裁判部の判断に委ねられるのですが、それでも逮捕状の請求は、国際司法制度の発展において意義があるのです。

 ところが、ICCに対する反応として失望させられたのは、アメリカの態度です。逮捕状が請求されたイスラエルとハマス双方の責任者達、すなわち、イスラエル側はネタニヤフ首相とガラント国防相、ハマス幹部側はシンワル氏、デイフ氏、ハニヤ氏が、容疑者とされたのですからICCを非難するのは理解に難くありません。その一方で、両者に増して激しく反発したのが、これまで法の支配の確立を訴えてきたアメリカなのです。連邦議会では既にICCに対する制裁案が提出されており、アントニー・ブリンケン国務長官も、連邦議会議員との協力の下でICCへの制裁を検討すると述べています。バイデン大統領も、言語道断とばかりに怒りを露わにし、イスラエル支持の立場を貫こうとしているのです。

 こうしたアメリカの激しい拒絶反応の背景には、同国がイスラエルに次いで世界大二位のユダヤ人人口を抱える国であると共に、そのマネー・パワーによって、同勢力が実質的に米国の‘支配権’を握っているという由々しき現状があります。アメリカは、国際社会にあって決して中立・公平な立場にある国ではなく、少なくとも連邦政府レベルでは、凡そイスラエルと一心同体なのです。

 しかしながら、仮にアメリカの実態が‘拡大イスラエル’であったとしても、また、アメリカが国連の常任理事国にして世界屈指の大国であったとしても、それがICCの活動に対して同国が介入する正当な根拠とならないことは、言うまでもありません。否、国内の司法制度がそうあるように、司法の独立性こそ護られなければならず、公的であれ私的であれ、あらゆる介入は許されないのです。ましてや、アメリカは、ICCの締約国でもありません。

 仮に、アメリカがICCによるイスラエルの指導者を無罪であると主張するならば、それは、横やりを入れるのではなく、正当なる司法手続きに従い、法廷において争うべきです。アメリカは、ハマスの幹部の居場所に関する秘密情報を握っていたと報じられるぐらいですから(同情報の提供をラファ侵攻中止の取引条件としたとも・・・)、当事国であるイスラエル以上にガザ地区の状況に関する情報を入手しているはずです。ICCの締約国ではないものの、同事件の関係国として、イスラエルの指導者達の無罪を立証するための証拠を提出したり、法廷にて証言することはできるはずです。

 適切かつ合法的な手段がありながら、それを採らないとしますと、ネタニヤフ首相並びにガラント国防相の有罪を確信しているからこそ、裁判を妨害していると見なされてしまいます。このため、ICCに対する締め付けを強めれば強めるほど、アメリカの国際社会における信頼性が低下することだけは疑いようもありません。“有罪者”の擁護者に成り下がってしまうのですから。如何なる事情があろうとも、何れの国であれ、国際社会にあって犯罪行為を許してはならないのです。世界に先駆けて三権分立を確立した国家でもあるアメリカは、自らの理性や倫理性が問われていることに気がついているのでしょうか。

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‘法の支配確立’のための戦争の問題

2024年05月06日 12時41分49秒 | 統治制度論
 日本国政府は、事あるごとに国際社会における法の支配の確立を訴えてきました。中国、ロシア、北朝鮮さらには韓国など、お世辞にも高い遵法精神を誇る国とは言えない諸国に四方を囲まれているのですから、法の支配の確立が日本国の悲願であるのも当然のことです。日本国政府のみならず、アメリカやヨーロッパ諸国なども法の支配の重要性をアピールしており、先日、訪問先のアメリカで発表された日米首脳よる共同声明でも、日米同盟強化の文脈にあって法の支配の確立が共通の目的として謳われていました。

 平和的解決という人類普遍の価値を実現するためには、不安定で時にして気まぐれな任意の政府間合意に頼るよりも、法の支配の確立が最も望ましい形態です。全世界において法の支配が行き渡りますと、各国による国際法の誠実な遵守が戦争リスクを著しく低下させるからです。また、仮に国家間で何らかの紛争やトラブルが起きたとしても、国際司法制度が整備されていれば、武力に訴えることなく、中立公平な立場にある裁判を通して平和裏に解決することができます。法の支配を具現化する制度の構築こそ、国際社会に恒久的な平和をもたらすのです。

 法の支配の重要性は誰もが認めるところなのですが、その一方で、法の支配が主張される時、その目的についても、警戒心をもって注意深く観察すべきようにも思えます。人類の歴史を振り返りますと、平和の実現を口実として戦争が行なわれた事例が多々あるからです。日本国を見ましても、戦国時代にあって最終勝者となった徳川家康については、戦乱の世に終止符を打ち、天下泰平をもたらしたとする評価があります。‘戦争を終わらせるには戦争で勝たねばならない’、あるいは、‘戦争相手がいなくなれば戦争は起きない’という論理であり、戦争の勝者が平和の実現者として賞賛されるのです。

 力を解決手段としていた時代には、平和のための戦争にも一理があったと言えましょう。しかしながら、この理屈は、法の支配を確立するに際しても通用するのでしょうか。法という解決手段の有効性を人々が深く認識している今日にあって、‘法の支配の確立’が、戦争の正当なる根拠となるのか、これは、怪しい限りなのです。

 国際法の存在という面だけを見れば、確かに、侵略やテロ等の行為は国際法において禁じられ、多くの分野で法が制定されております。しかしながら、法の存在は、必ずしも法の支配とはイコールではありません。例えば、ウクライナ紛争やイスラエル・ハマス戦争では、違法性は開戦の口実として用いられています。国際法違反の行為に対しては、正当防衛権を発動することはできますので、国際法が戦争を正当化してしまうのです。つまり、このケースでは、国際法の存在は、司法解決に貢献するのではなく、むしろ、防衛戦争を合法化してしまう方向に作用してしまうのです。この側面は、枢軸国側の侵略行為を連合国側が戦争事由とした第二次世界大戦に既に見られ、国際法が戦争を‘合法的’に誘発しかねないリスクを示唆しています。いわば逆効果とも言えるのですが、この状態が続く限り、戦争をこの世からなくすことは難しくなります(戦争を望む側による相手側に違法行為をさせるがための挑発や工作もあり得る・・・)。

 そして、日米同盟の結束強化の目的が法の支配の確立に置かれている現状にも、同様のリスクを読み取ることができます。南シナ海問題において常設仲裁裁判所の判決を破り捨て、台湾の武力併合を公言しても憚らない無法国家である中国の脅威を考慮すれば、法の支配の確立は、両国民から理解を得やすい説明ではあります。しかしながら、このことは、‘平和のための戦争’と同様に、法の支配の確立を掲げた戦争もあり得ることを意味します。そして、戦争目的としての法の支配の確立は、第三次世界大戦並びに核戦争への導火線ともなりかねないのです。仮に対中戦争の勝利によって国際社会に法の支配を確立するならば、戦場は台湾に留まらず、中国全域を占領し、共産党一党独裁体制を崩壊させた上で、改めて国際司法制度に組み入れる必要があるからです(もっとも、現状では、組み入れるべき国際司法制度も十分に整備されていない・・・)。

 法の支配の価値とは、法の存在そのものにとどまらず、力に頼らずして平和的な解決を可能とするところにあります。武力による解決から脱するところに、真の人類史的な価値があると言えましょう。全ての諸国が信頼を寄せ、安心して利用できる中立・公平な司法システムを構築しないことには、国際社会において法の支配が確立したとは言えないように思えるのです。

 この意味において法の支配の確立を目指しているならば、日米両政府とも第一に取り組むべきは、軍事同盟の強化ではなく、武力を用いずに平和的な解決を可能とする国際司法制度の考案であり、具体的な制度構築なのではないでしょうか。台湾問題についても、台湾の法的な地位確認を国際司法機関に付すなど、中国を司法解決の方向に誘導する、すなわち、台湾侵攻を諦めさせる方法はないわけではありません。こうした努力なくして法の支配の確立を訴えても説得力に乏しく、むしろ、世界権力の戦争ビジネスのために同価値が悪用されているのではないかと疑うのです。

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マネー・パワー時代のマスメディアに見る主客逆転

2024年04月24日 12時08分50秒 | 統治制度論
 ネットニュースを見ますと、大手新聞各社や通信社、あるいは、出版社等が発信している記事と、商業的な広告は基本的には区別されています。後者には、‘広告!’や‘PR’といった表示が付されていますので、ユーザーは、瞬時にそれがニュースであるのか、コマーシャルであるのか判断できるのです。時々、うっかり見落としてしまいますが、ネットのニュース欄については、宣伝マークの表示のある記事が加えられていることによって、ネット広告が運営する事業者の収益源となっていることが分かります。もっとも、広告が収益源となるのは、テレビ局や新聞社などメディア事業者に共通していますので、とりたてて目新しいことでもないのかもしれません。しかしながら、今日、世界経済フォーラムに象徴される世界権力のマネー・パワーが猛威を振るい、人類の未来をも牛耳ろうとしている現状を考慮しますと、企業と消費者との間に見られる主客逆転が、マスメディアの世界にも起きているように思えるのです。

 マスメディアについては、三権分立を構成する立法、行政、司法の三つの権力と並ぶ‘第四の権力’とも称され、あたかも独立した権力としてのイメージがあります。中立・公平な立場から他の三つの権力をチェックすると共に、国民が政治、経済、社会等の問題を考えるたり、判断するに際して必要となる重要な情報を、独立的な立場から提供する機関として理解されていると言えましょう。民間企業が大半を占めながら、‘社会の木鐸’という表現も、こうした公的な役割に由来しています。また、憲法や法律が報道の自由を保障するのも、マスメディアの独立性、並びに、中立・公平性を保ち、国民が必要とする情報の提供者としての立場を護る必要があるからに他なりません。

 しかしながら、その一方で、 ‘革命を成功させるには、先ずは放送局を占拠せよ’と言われるように、権力を掌握した‘支配者’が直接に‘被支配者’に対して自らの意思を伝えようとすれば、その手段として通信システムを使わざるを得ません。メディアは、支配の道具でもあります。この点、現代におけるラジオやテレビの発明は、直接且つ瞬時に伝達を可能とする好都合な手段を権力者に与えたのであり、インターネットやスマートフォンが普及した今日にあっては、さらに利便性が‘アップ’しているのです。

 マスメディアの二面性は、情報を発信する側と受け取る側との主客逆転をも意味しています。多くの国民は、マスメディアを自らの情報ニーズに応える存在、即ち、人々が‘主’であってマスメディアが‘客’であるとする構図において信頼を寄せ、その報道内容を客観的な事実と見なしがちです。ところが、現実には、マスメディアとは、権力を握る者の支配の道具であって、情報の発信者が‘主’となって受け取る側は‘客’に過ぎなくなるのです。

 世界権力も、人類に対する支配権を握ろうとすれば、上述した政権奪取の‘マニュアル’の通りに行動することでしょう。つまり、全世界のマスメディアや通信システムを自らのコントロール下に置こうとするものと推測されるのです。否、既にそれは現実の物となっており、マスメディアにおける主客逆転は、今日、その‘主’がマネー・パワーを握る者であるために、様々な不可解な現象を引き起こしているとも言えます。世界経済フォーラム礼賛一辺倒の報道、地球温暖化懐疑論やコロナワクチンリスクに対する言論封鎖、視聴者から好感を持たれていない人物の頻繁なる起用、○○ハラスメントとも称される特定の人物に関する記事の過剰発信、世論を反映しない世論調査の結果、第三次世界大戦への誘導が疑われるウクライナ支持傾斜の報道姿勢等など、数え上げたら切がありません。

 こうした目に余る主客逆転は、テレビ離れや大手メディアに対する国民の不信感が募る要因でもあります。逆に、SNSといった民間におけるコミュニケーション手段が一定の信頼性を得ているのも、一方向性を特徴とする既存のメディアとは違い、前者にはある程度の相互方向性が成立する余地があるのみならず、個々の自由意志に基づく情報発信が可能であるからなのでしょう。後者には、主も客も基本的には存在しないのです。

 上述してきたマスメディアの現状を考慮しますと、情報通信インフラについては、民間の事業者の所有物ではなく、自由な言論空間を護るための国民の公共インフラとしての位置づけをより明確にする必要がありましょう。そして、マスメディアそのものを、マネー・パワーによる支配から解放する、すなわち、その独立性が保障されるべく、制度的な工夫を凝らすべきではないかと思うのです。

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原爆投下の違法阻却事由の問題

2024年04月10日 13時17分08秒 | 統治制度論
 20世紀初頭に成立した「陸戦法規慣例条約」等の条文を読めば、連合国側による国際法違反行為があったことは明白です。今日、イスラエルによるガザ地区に対する攻撃が国際法違反であるのと同様に、民間人を大量に殺害する行為は、当時にあっても国際法、即ち、戦争法に反していたと言えましょう。とりわけ、一夜にして都市を焼け野原にし、住民の命を奪った都市空爆は、弁明の余地がないように思えます(違法阻却事由がない・・・)。

 違法阻却の事由とは、主として(1)正当な行為、(2)正当防衛、(3)緊急避難の三点ですが、都市空爆は、何れにも当たりません。戦争法とは、戦時下にあっても人類が野獣の如き野蛮な状況に墜ちないように、人道的な配慮から制定されていますので、‘皆殺し戦法’が、正当な行為に当たるはずもありません。また、当時にあって、アメリカは既に日本国から制海権も制空権も奪っていましたので、開戦時の真珠湾攻撃とは違い、正当防衛と言える時期も過ぎています(そもそも、アメリカ側が‘防衛’を主張できる状況にもない・・・)。ましてや、緊急避難であるはずもありません。また、仮に戦争の終結を早め、日米両国民の被害を最小限に留めることが目的であったならば、日本国側からの終戦交渉の動きを察知した時点で、連合国側も、即座にこの動きに対応すべきであったと言えましょう(もっとも、この点においては、日本国側にも、‘国体の護持’への強固なまでの拘りがあり、全く責任がないわけではない・・・)。さらには、対ソ威嚇手段としての使用であれば、なおさらに違法阻却の事由とはならないはずです。

 アメリカが戦後国際軍事法廷の場で裁かれなかったのは、法そのものは存在していても、公平・中立的な立場から事実を確認した上で、裁判を行なう国際司法制度が、1945年の時点では整っていなかったからなのでしょう。このため、‘勝者が敗者を裁く’形となり、対日都市空爆は不問に付されたままに今日に至っているのです。なお、日本国に対する違法な攻撃については、日中戦争時における日本軍による違法行為の主張をもって正当化されることがありますが、今日のイスラエル・ハマス戦争にあってハマスによるテロ行為がイスラエルのガザ地区住民に対するジェノサイドを正当化できないように、違法阻却事由とならないことは確かなことです。なお、仮に、中国が‘南京大虐殺20万人説’を主張するならば、第二次世界大戦時に行なわれた‘裁かれざる罪’の全てに対する裁判の実施を主張すべきであり(もちろん、厳正なる証拠集め等も必要・・・)、それには、勝者となった連合国も含めなければ、近代司法制度の要件を著しく欠くこととなりましょう。

 かくして、都市空爆は‘裁かれざる罪’となるのですが、ここで一つ、考えなければならない点は、新型兵器の開発競争という核兵器のみが有する側面です。実のところ、同問題を複雑にしている要因は、まさにこの側面にあります。アメリカによる原爆投下を正当化するに際して、しばしば日本国も原子爆弾の開発に着手していた、とする指摘があるからです。自らも原子爆弾を投下する可能性があったにも拘わらず、先に開発に成功したアメリカばかりを糾弾するのはフェアではない、という主張です。この主張の先には、上述した違法阻却事由の否定を覆す根拠が持ち出されることも推測されます。即ち、日本国がアメリカよりも先に原子爆弾を製造し、それを使用するのを未然に防ぐための正当防衛行為である、あるいは、日本国による開発が目前であったために、緊急避難的な措置として開発に先んじて成功したアメリカが使用した、というものです。核兵器には、通常兵器とは桁違いの、戦局を逆転させるだけの破壊力が理論上予測されていましたので、こうした正当化論もあり得ないわけではないのです。

 原爆投下正当論の一角としての日本国による原子爆弾開発の主張については、戦争末期にあって、その‘脅威’がどの程度であったのか、すなわち、違法阻却事由の有無を判断するためには、日本国側の研究開発の進捗状況を事実として確認する必要がありましょう(一説に依れば、核兵器の運搬手段として、日本国は、潜水艦発射型すなわちSLBMの先駆けともなる技術も開発していたとも・・・)。何れにしましても、この問題は、核兵器の保有における非対称性という今日的な問いをも含んでおり、人類を核戦争から救ったとする、結果論としての見解とも繋がってくるのです(つづく)。

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現時点の民主主義の制度化は初期段階に過ぎない

2024年04月05日 14時33分48秒 | 統治制度論
 組織の基本モデルは、独裁のみならず、今日の諸国家における民主主義の制度化が、如何に不十分で初期的段階に過ぎないのかを説明します。否、今日、あらゆる諸国の国民を苦しめ、悩ませている問題の多くも、未熟な統治制度に起因しているのかも知れません。政治腐敗や権力の私物化、さらには、グローバルレベルで進行している世界権力による国家主権の侵害等も、元を訊ねれば、その原因は国民の声が届かない現行のシステムにあるとも言えましょう。

 統治機能の起源とは、分散、かつ、集団を成して生きてきた人類のニーズに求めることができます。危険に満ちた自然の中で生きてゆく、あるいは、他の集団からの攻撃に対処するためには、集団が結束して自らの安全を護る必要がありましたし、公共物の建設などは、資材や労力を分かち合いながら皆で協力しながら行なう必要もありました。また、個々の生命や身体等が相互に護られなくては、暴力が支配する‘この世の地獄’となってしまいます。統治機能とは、人々が生きてゆく上で必要不可欠であり、それは、一つではなく複数存在していたのです。統治の諸機能を人々に提供するために要する権力こそ‘統治権力’と言うことになりましょう。

 統治の諸機能の起源を振り返りますと、民主主義とは、机上の空論ともなりかねない特別の価値ではなく、理に適った当たり前のことなのです(民主主義は始まりであって終わりでもある・・・)。ところが、一端、統治権力が成立しますと、それを誰が行使するのか、という問題が生じます。古今東西を問わず、この統治権力は、実力、通常は武力に勝る者によって握られるのが常でした。この現象を、提案、決定、実行、制御、人事、評価の機能から成る組織の基本モデルに照らしますと、人事権は、力によって特定の個人により掌握され、決定権は、実力で統治者となった人物によって凡そ独占される形となります。そして、実行は、決定権を握る人物の配下の者達が務めたのでしょう。その一方で、当時にあっては、他の組織上の諸機能、即ち、提案、制御、評価については、その存在は意識にさえ上っていなかったかも知れません。つまり、人類史における統治システムは、昨日の記事で掲載した独裁モデルと同様に、決定機関と実行機関の二者からなるシステムが大半を占めてきたのです。

 統治権が建国や王朝の始祖からその子孫に受け継がれてゆく世襲制度もまた、統治者の座の獲得が武力に依らないという点において違いはあるものの、人事権は決定者、あるいは、その近親者の手にあり、両者は融合しています。民主主義が、何より先に選挙制度において制度化されたのも、人事権を介して決定権を国民の元に戻したいという、人々の願望があったからなのでしょう。そして、それは、決定権と人事権の分立をも意味したのです。

 かくして民主的な普通選挙の導入は、民主化のメルクマールとされたのですが、同制度をもって民主主義が十分に実現しているのか、と申しますと、そうではないようです。何故ならば、決定権をはじめ、提案や制御、そして、評価の機能に関する権限については、国民は蚊帳の外に置かれているのが現状であるからです。決定権については、国民投票制度が導入されている国は僅かですし(全ての政策や法案について国民投票に付すことは不可能であっても、国民全員が関わる重大な決定については国民投票が相応しい・・・)、提案権に関しても、たとえ国民発案の制度が設けられていても、この制度はほとんど機能していません。国民が提案し得るルートの欠如は、民主主義を実現する上で致命的な欠陥となりましょう(国民のニーズに応えることができない・・・)。また、国民による制御の相対的な脆弱さが、今日、権力の濫用や私物化、並びに、腐敗を招いていることも疑いようもなく、国民の評価が政治にフィードバックされる経路もありません。しかも、肝心の人事権さえも、不正選挙疑惑が持ち上がるように、常に、グローバルな独裁体制の樹立を志向するマネーパワーに脅かされているのです。

 組織の基本モデルに照らしますと、現行の統治機構の構造的な諸問題が自ずと明らかになってまいります。民主主義の制度化は、今日、初期的段階に過ぎないのです。このように考えますと、同モデルは、国民が未来に向けて国家体制や統治機構の改革や改善を志すに際して、その進むべき道をも示しているのではないかと思うのです。

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組織の基本モデルが説明する独裁体制が無理な理由

2024年04月04日 12時13分18秒 | 統治制度論
 世の中には、共産主義というイデオロギーをもって一党独裁体制を正当化する共産主義者や、カリスマ性あるいは卓越した指導力を備えた人物が救世主の如くに登場することを待望する人々がおります。また、近年、別格化された教祖をトップに戴く新興宗教団体の政治介入が公然と行なわれていますし、グローバリストによる隠れた世界支配も独裁体制の典型例と言えましょう。現代という時代にあっても、独裁体制は、陰に日向に蔓延っているのです。こうした独裁体制に心から憧れ、心酔している人々に対して、独裁体制の根本的な欠陥を説得する作業は困難を極めます。言葉を尽くしても、その頑な心を変えることはできないかもしれません。それでは、半ば信仰化した独裁擁護論に対しては、打つ手はないのでしょうか。

 古代ギリシャのポリス世界では、僭主(独裁者)の出現は、市民達が最も恐れた政治的な危機でした。アテネに至っては、僭主となりそうな危険人物を投票によって追放するという、陶片追放制度まで設けて僭主の出現を未然に防ごうとしたほどです。古代人のほうが、余程、一人の人物に公権力を独占されてしまう体制の弊害について熟知しており、陶片追放制度も、それが自由であるはずの市民達の身に迫る現実的な危険であったことをよく表しています。共和制ローマにあっても、独裁官は戦時における臨時のポストであり、しかも、独裁体制の固定化を防ぐために任期は半年に限定されていました。

 一人の人物に全メンバーの生殺与奪の権を握られてしまう恐怖は、古今東西を問わず、人類が経験してきた災難です。世界史の教科書でさえ、近世ヨーロッパの絶対主義体制は、君主が何らの拘束もなく絶対的な権力を振るい得る忌まわしき国家体制として記述されています。理性に照らして常識的に考えれば、独裁体制を擁護する理由も根拠も見出せないのですが、何故か、現代の政治の世界を見てみますと、上述したように右にも左にも独裁容認論が散見されるのです。

 洗脳等によって内面の価値として独裁が心を捉えている場合、確かに言葉で説得することは難しいのですが、一つ、効果的な方法があるとしますと、それは、分かりやすい図で説明することです。“視覚による認識と理解”という別の物事の把握ルートを使ってみるのです。この点、昨日の記事でアップしました組織の基本モデルは、独裁の問題を視覚おいて把握する上で役立つかも知れません。

 如何なる組織にあっても、その健全性と発展性を備えるためには、(1)提案、(2)決定、(3)実行、(4)制御、(5)人事、(6)評価の諸機能を分立させる必要があります。とりわけ、提案、制御、人事、評価の四者は外部に設けませんと、同組織のメカニズムは働かなくなります。この観点からしますと、独裁体制では、組織に備えるべき機能の内、健全性と発展性を保障する重要な外部的な諸機能が、一人の人物に溶け込むことで、消滅してしまうからです。つまり、独裁体制とは、‘決定’と決定事項の忠実な‘実行’の二者のみからなる、極めて単純なるシステムなのです。外部的諸機能の不在は、独裁者による暴走や権力の私物化等を、誰も止めたり、変更させたりすることができず、評価のフィードバックの経路がない以上、組織としての発展性も望めないことを意味します。その仕組みが欠けているのですから。

 ここに分立体制としての基本モデルと独裁モデルとを並べて掲載してみましたが、両者を比較した場合、圧倒的多数の人々が、分立モデルの方を支持するのではないでしょうか。両者を比較してみれば、共産主義者をはじめとした独裁擁護論者の人々でも、独裁者の無誤謬という現実にはあり得ない条件を挙げない限り(この条件を満たすことはできないので、他者を説得することはできない・・・)、基本モデルに対する独裁体制の優位性を論理的に述べることは難しいのでしょうか。


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最善の制度設計を求めて

2024年04月03日 11時22分42秒 | 統治制度論
 戦争であれ、政治腐敗であれ、貧困化であれ、世の中で何か良からぬ出来事が発生した際には、常々、その原因を当事者個人に求める見解とその出来事が起きた外部環境を問題にする見解とに分かれがちです。もちろん、原因が複合的であるケースも少なくないのですが、特に何らの罪もない人々が被害者となってしまう場合には、後者、すなわち、制度や仕組みに何らかの欠陥があるケースの方が多いように思います。

 ところが、制度設計の善し悪しがこの世の不幸の大方の原因となっているにも拘わらず、善き制度や組織の在り方が真剣に探求されてきたわけではありません。政治の世界では、むしろ、現状に対する人々の不満は、平等を掲げる共産主義といったイデオロギーが吸い寄せてきましたし、その反対に、国家主義や民族主義の高揚によって解消させようとする傾向もありました。伝統宗教、あるは、新興宗教を含めた思想による不満の解消方法は、得てして権力者に利用されがちであり、たとえその主張に傾倒して活動に協力し、革命やクーデタ等によってその‘理想’を実現したとしても、そこで直面するのは自らが目指していた理想とは逆の現実です。騙されたことに気がついても、‘後の祭り’となるのが常なのです。

 思想や宗教による解決の末路を知ればこそ、これらを歴史の教訓として、人類は、別の道を探るべきです。そして、その別な道こそ、力学的な視点を含めた構造全体のメカニズムを見据えた上での善き制度設計の探求ではないかと思うのです。そこで、ここに試案として、制度設計に際して役立つものと期待される基本モデルを作成してみました。決して難しいものではありません。

 同モデルは、組織の健全性並びに発展性を備えた組織に必要とされる諸機能によって構成されています。具体的な制度として実現可能であり、かつ、多くの人々が納得し得る合理性を追求している点において、上記の思想やイデオロギー等による解決方法とは大きく違っています。そして、こうした基本モデルがあれば、誰もが、同モデルに照らして制度の‘善し悪し’を判定できるようになるのです。

 ‘善き組織’にとりまして必要となる諸機能とは、およそ、(1)提案、(2)決定、(3)実行、(4)制御、(5)人事、(6)評価となります。掲載した図で示されますように、これらは一つのフローなシステムを構成しています。何れが欠けても組織は機能不全に陥ったり、何らかの問題を抱えることになるのですが、ここで強調すべきは、同モデルは、権力分立の必然性をも説明していることです。何故ならば、一人の人物、あるいは、一つの機関がこれらの機能に関する権限を独占した場合、同組織のメカニズムが働かなくなるからです。つまり、これらの機能に関わる諸権限は、諸機能間の相互作用が効果的に発揮できるようにバランスを考慮しつつ、それぞれ別の機関に配置する必要があるのです。

 組織上の機能が複数存在することは、今日にあって定式化されている‘三権分立’に拘る必要はないことを意味するのですが、これらの権限は、‘一機関一権限’を原則とする必要もありません。組織の目的や決定事項の内容、あるいは、組織のメンバーや利害関係者によって権限を複数の機関やポストで分有させることもできます。基本モデルとは、あくまでも組織上の諸機能の流れと各々の役割を抽象化して図として表したものであり、具体的な制度の詳細については、基本を押さえさえすれば、それぞれの組織の個別的な状況や条件に合わせて、如何様にも設計できるのです。

 この基本モデルは、政治分野における国家や国際機関等の制度設計のみならず、企業の組織形態を含めてあらゆる組織に適用できます。そして、今日における諸問題の解決に際しても、万能ではないにせよ、大いに役立つのではないかと思うのです。

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世襲権力としての世界経済フォーラム

2024年04月02日 10時53分42秒 | 統治制度論
 民主主義体制が一般化した現代という時代にあって、政治権力の世襲は極めて困難となりました。一党独裁制を堅持している中国等の共産主義国家でさえ、北朝鮮等の極少数の国家を除いては、公式には世襲制は否定されています。もっとも、普通選挙によって国民から選ばれなければならない民主主義国家にあっても、政治の世界では世襲が横行しているのが現実です。日本国内でも、親や親族から‘地盤、看板、鞄’を引き継ぐ世襲議員は多々見られます。そして、そのより御し難く極端な事例こそ、世界権力の世襲なのではないかと思うのです。

 世襲とは、相続によって組織における特定のポスト、通常は、トップの座が継承される制度です。資産の相続であれば、それは家族や親族、あるいは、縁者といった私人間における所有権の移動に過ぎません。その一方で、世襲という制度には、組織が関わるだけに、それが民間組織であれ、私的な領域に留まらない‘公的’な側面があります。この世襲の‘公的’な性質こそ、適性や能力を欠いた政治家の出現のみならず、特定の一族による公権力の私物化や権力の濫用の懸念が常に付きまとう要因であり、実際に、世襲議員が、自らの私的な利権のために利益誘導を試みる事例は枚挙に暇がありません。

 世襲議員の存在は、平等を原則とする普通選挙が実施されつつも、民主主義国家にあっても、国民の参政権、とりわけ、被選挙権が著しい制約を受けていることを意味します。そして、それは、事実上、大富豪や利権屋しか立候補することが出来ないアメリカの大統領選挙に象徴されるように、しばしば‘お金のかかる選挙’が原因として指摘されてきたのです。かくして、民主主義の阻害要因として選挙資金の問題に注目が集まるのですが、グローバル化した今日にあっては、もう一つ、盲点ともなる政治権力の世襲があるように思えます。それは、金融・経済財閥の一族による隠れた権力の世襲です。

 国家レベルでの政治権力の世襲は、民主的選挙制度をもって公的には否定されており、政治家の子弟や親族とはいえ、国民の選挙権、即ち、人事権の行使の結果に服する必要があります。上述したように、この選挙という高いハードルは、‘マネー・パワー’を持つ者であれば、容易に乗り越えることが出来るのですが、世界権力を構成する金融・経済財閥には、選挙の場で国民の評価を受けなくても済む立場にあります。株式を遺産として相続しさえすればよいのです。社内やグループ内選挙を通して選出される必要もありませんし、他の組織のメンバーから‘権威’の承認を求める必要もありません。ポストの無条件継承であり(唯一の条件は血縁関係・・・)、自動就任という極めて稀な形態となるのです。

 今日の株式制度は、経営権の全面的な掌握ではないにせよ、株主には経営への‘参加権’が伴います。この文脈においては、経済における事業組織としての株式会社の形態こそ、私人による経済支配が生じる主因とも言えましょう。そして、無条件継承であるからこそ、政治の世界で批判されてきた世襲の諸問題が、今日、世界権力という極端な形で表に現れているとも言えるのです。

 何故ならば、何と申しましても、資産の相続は他者の合意や承認を要せずして、世界権力のメンバー資格の‘無条件継承’を保障しますので、他者、即ち、非メンバーとなる他の人類を冷酷に扱うことができます。コロナ・ワクチンを利用した人口削減計画が信憑性を帯びるのも、ITやAI技術の普及によるデジタル全体主義化が懸念されるのも、所得格差が放置されるのも、一般の国民が望まない移民拡大策が推進されるのも、マスメディアが人類の低俗化を誘うのも、そして、戦争ビジネスのために戦争が画策されるのも、世界権力のメンバー達を外部から制御する仕組みが皆無に等しいからなのでしょう。しかも、他者から解任される心配もありませんので、終身の地位が約束されているのです。

 近年、大企業といえども、富裕層の道楽としか思えないような技術の開発に傾斜したり(空飛ぶ車や宇宙ビジネス・・・)、国民監視システムへの貢献が疑われるケースが増加したのも(顔認証やIoT家電・・・)、大株主としての世界権力の意向が強く働いたからなのでしょう(もっとも、株主の構成が分散している企業であるほどに、同リスクは低下する・・・)。あるいは、マネー・パワーによって、各国の政治家のみならず、‘一本釣り’のように企業のCEO等が取り込まれているのかも知れません。何れにしましても、経済の世界では、政治の世界を取り込みながら、無制御なパワーが猛威を振るっているのです。

 制度論並びに組織論からすれば、こうした暴走を許す仕組みは独裁体制の一種となりますので、人類にとりまして決して望ましいものではありません。今日、人類が直面している諸問題を解消し、世界権力の暴走を制御するためには、より個々人や各企業等の自律性や自由が活かされる組織形態や、制御可能な経済の仕組みを、未来に向けて考案する必要があるのではないかと思うのです。

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