本日の日経新聞朝刊の記事に、イスラエルの歴史学者であり、『サピエンス全史』の著者でもあるユヴァル・ノア・ハラル氏による寄稿文が掲載されておりました。同記事にあって、ハラル氏は、新型コロナウイルスに直面した人類の今後に進むべき方向性について指南しています。その際、ハラル氏は、二つの二者択一の問題を挙げて考察しています。その一つは、「全体主義的監視」か「市民の権利」かであり、もう一つは、「国家主義的孤立」か「グローバルな結束」かの選択です。
第一の二者択一である「全体主義的監視」と「市民の権利」との選択は、前者を中国の一党独裁体制、後者を自由主義体制と見なし、国家体制の選択として置き換えることもできましょう。この選択について、ハラル氏は、もう一つの二者択一を補助的に持ち出すことで、回答を得ようとしています。それは、中国が新型コロナウイルス対策として強力に推進している生体測定システムを念頭に置いた「健康の維持」と「プライバシーの保護」との間の二者択一です。今日のITの発展レベルをもってすれば、全国民にスマートウォッチ等の装着を義務付けることにより、体温、血圧、心拍数等々、身体に関するありとあらゆる個人データを収集することができます。この選択については、同氏は「健康の維持」と「プライバシーの保護」とは二者択一にすべきではなく、両者を両立させるべきとし、二者択一の選択を避けているのです。そして、両者の両立可能性を主張することにより、「全体主義的監視」と「市民の権利」の二者の間の選択については明確に後者、すなわち、自由主義体制を選択しているのです。
ハラル氏の論法は、‘二者択一を否定することで二者択一の選択する’というアクロバティックな手法なのですが、この訳の分からないような論法が説得力を有するのは、最初に提起した二つの二者択一が同質ではないからなのでしょう。「全体主義的監視」と「市民の権利」との二者択一は、善と悪との間の選択である一方で(もちろん、前者が悪で後者が善…)、「健康の維持」と「プライバシーの保護」は両者とも善であるからです。つまり、市民の情報を独占的に収集する全体主義的な国家が、人々の健康を人質にしてその基本的な自由や権利、そして人格やプライバシーを侵害することこそ悪なのであり、この悪を取り除くためには、「全体主義的監視」と市民の「健康の維持」との関係を切り離してしまえばよいということになります。この主張の先を予測するとすれば、ITが個々のプライバシーを害することなく健康維持に貢献するよう、情報・通信技術の発展の流れを変える必要があるということになりましょう。善悪の判別が比較的はっきりし得る場合には、二者択一の選択は難しくはありません。
その一方でハラル氏は、「国家主義的な孤立」か「グローバルな結束」かとの二者択一については、問答無用に後者、即ち、「グローバルな結束」を迷うことなく選択しています。しかしながら、上述したように、二者択一において選択が比較的容易なのは、善悪の区別が明確なケースに限られます。ところが、「国家主義的な孤立」と「グローバルな結束」の両者の選択にあっては、「健康の維持」と「プライバシーの保護」との間の選択のように、どちらが善でどちらが悪であるのか決めつけることは極めて困難なのです。
例えば、同氏は、「医用機器、特にウイルス検査キットと人工呼吸器の生産と配分についてはグローバルに協力する必要がある」とも述べていますが、供給量が絶対的に不足している状態にあって、自国民への供給を制限しても他国に供給する余力を持つ自己犠牲的な国が出現するとは思えません(国民から激しい批判と反発を買ってしまう…)。こうした国があるとすれば、他国に先駆けて生産活動を再開させた中国なのでしょうが、他国が窮乏する中で自国のみが余剰を有するのであれば、中国政府は、この状況を、世界支配を目的とした国家戦略として大いに利用することでしょう。あるいは、世界政府のように国家に対して強制的に特定の物資を供出させることができる権力体を創設すれば同氏の提言を実現できるかもしれませんが、WHOでさえ中国の出先機関と化しましたので、‘第二のWHO’を誕生させるに過ぎなくなるかもしれません。
予期せぬ危機に際しては、他国依存体質は国民の命を危うくしますし、特に中国への依存は国家の独立性までをも脅かしますので、無碍には「国家主義的な孤立」を否定することはできないはずです(スペインが、自国内で不足している医療検査キットを、中国に受注したところ、送られてきたキットが不良品であったがために返品した事件は、他国に頼ることの危険を示唆…)。中国を含めた「グローバルな結束」は、中国に覇権実現の舞台を提供することになりかねませんし、国際的な協力であれば、各国とも必要最低限の供給量を自国で製造できるよう、マスクや医療機器等の製造、医療体制の整備、人材の育成等に関する各種の支援を行った方が、他国依存のリスクを下げることができるかもしれません。
「健康の維持」と「プライバシーの保護」が両立する道を探ったように、「国家主義的な孤立」と「グローバルな結束」の選択についても二者択一の問題として捉えるよりも、より柔軟な思考から両者が両立する形態を模索した方が賢明なように思えます。二者択一を迫る手法は、しばしばどちらをとっても不利益となる隘路に追い込まれることにもなりますし、最も現実的であり、かつ、倫理・道徳にも適っている方向への道を塞いでしまう場合もあるのですから。