万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

世界平和統一家庭連合の‘政治資金’の流れの解明を

2022年09月30日 11時36分06秒 | 国際政治
先日27日に日本武道館で行なわれた安部元首相の国葬については、マスメディア並びに政府は、国民の関心を管前首相の弔辞に向けたいようです。この弔辞、事前の反対多数の世論を覆すほどの‘感動’を呼んだのかどうかは怪しい限りなのですが(私の心が冷たいのでしょうか?)、安部元首相をはじめ、日本の政党・政治家と世界平和統一家庭連合(元統一教会)との関係に関する疑惑解明に向けた機運がしぼむとしますと、弔辞礼賛報道は、国民の感情に訴える世論誘導作戦の一環なのかもしれません。

いずれにせよ国葬が終わっても、政治と宗教との癒着が重大な日本国の政治問題であることには変わりはありません。世界平和統一家庭連合であれ、創価学会であれ、これらの団体が内外にあって政治活動を行なっているところに、この問題の根源があります。日本国の伝統を重んじ、国際社会にあって戦後レジームを脱して日本国を守ろうとした保守派の政治家という安部元首相に対する保守層を中心とした高い評価も、‘相互依存関係’にあった宗教団体が反日的、あるいは、売国的な政治活動を行なっていたのでは、一瞬にして反転してしまうのです。政府並びに新興宗教団体は、‘宗教団体の政治活動は日本国憲法において認められている’と解釈しておりますが、政治活動が認められている、すなわち、宗教団体が同時に政治団体なればこそ、その活動の内容次第では、政治家も教団と一蓮托生となって政治生命を失いかねないのです。

世界平和統一家庭連合の常軌を逸したカルト的な反日極右思想については、既に日本国民の大多数に知れ渡っています。それにも拘わらず、国葬の演出効果によって反対から賛成に転じた国民が多かれ少なかれ存在することに危惧を覚えるのですが(新興宗教団体の洗脳技術の凄さ・・・)、宗教団体の政治活動は、政党や政治家と結びつくことで民主主義の迂回ルートとなり、一部の私的集団による権力や利権の私物化をもたらす高いリスクがあります。さらには、これらの教団が、外国、あるいは、世界権力の利益のために活動するとなれば、国をも傾けかねないのです。国葬賛成派の人々は、国葬に反対する人々を反日勢力と罵っていますが、実相はその逆なのかもしれません(もっとも、国葬反対デモを行なった極左組織も、外国や世界権力の走狗であるのかもしれない・・・)。

この観点から日本国を取り巻く国際情勢を振り返りますと、世界平和統一家庭連合や創価学会の影響が伺える事例は枚挙にいとまがありません。例えば、世界平和統一家庭連合は、冷戦期には反共組織として米CIAや日本国の政党と連携してきましたが、冷戦構造が崩壊した後には、新たな役割を求めて北朝鮮へも接近を図ったそうです。冷戦の終焉を機に、世界平和統一家庭連合は、グローバル時代における朝鮮半島の二国の橋渡し役への衣替えを試みたのでしょう。このため、韓国にも対北宥和政策に積極的な政権が誕生し、北朝鮮に対して財政面を含めて支援を行なっています。こうした対北支援の流れにあって、世界平和統一家庭連合が日本の信者から吸い上げた資金が含まれていた可能性も否定はできません。そして、韓国から北朝鮮に渡った資金は核やミサイル開発に投じられ、日本国の安全のみならず、国際社会の平和を脅かしているかもしれないのです。北朝鮮の核・ミサイル開発が急速に進展したのは、冷戦崩壊後のことです。

また、北朝鮮による日本人拉致事件についても、小泉純一郎元首相の‘サプライズ外交’の背後では表には出せない巨額のお金が動いたとされています。資金の提供元については、朝鮮半島と繋がりがある創価学会などの名も囁かれていましたが、世界平和統一家庭連合も関与していた疑いがあります。これらの教団と関係のある政党・政治家が、政府調達等に際して同教団の関連事業者に利益誘導を行ない、日本国民の納めた税金からキックバックを受け取る形で教団に資金を流す仕組みも創られているのかもしれません。こうした仕組みが存在するとすれば、教団の資金の問題は、教団の被害者とされる信者やその家族のみならず、全国民に関わる重大な政治問題となりましょう。

世論の批判を受けて、自民党は自党に属する政治家個人と教団との関係の調査のみでお茶を濁そうとしておりますが、その先の教団側内部の‘政治資金’の流れを解明することこそ、政治と宗教の癒着問題の深刻さを理解し、有効な対策を講じる上で必要不可欠な作業となりましょう。北朝鮮の核・ミサイル開発のみならず、韓国が国際社会を舞台に繰り広げてきてきた反日プロパガンダの資金源も、日本国内にあるのかもしれないのですから。また、日本国内におきましても、同教団から政党や政治家への金脈の解明は、慰安婦、元徴用工、竹島等の問題に関する対韓政策のみならず、対北政策における日本国政府の融和的な政策や不可解な譲歩を説明するかもしれません。そして、同作業は、世界権力、政界、新興宗教団体、マスメディア等を国境を越えて繋ぐ闇のネットワークの存在をも浮き彫りにするかもしれないと思うのです。

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国葬「黙祷」通達が語る河野デジタル相の実像

2022年09月29日 10時28分32秒 | 国際政治
河野太郎デジタル相は、政治家の人材不足が指摘される今日にあって、‘改革派の旗手’としてメディアが注目する政治家の一人です。その一方で、同大臣ほど、国民から不審の目で見られている政治家もいません。河野デジタル相をめぐっては、メディアと国民の評価が正反対なのです。数々の無責任発言や失言を重ね、国民からの信頼を再起不能なほどに失っても、何故か、メディアが何事もなかったかのように復活させてしまうのです。

かくして今日に至るまで、メディアは河野デジタル相を未来の首相候補として持ち上げ、デジタル化を大胆に進める改革者として祭り上げてきたのですが、先日の安部元首相の国葬は、同イメージとは逆に、同大臣が‘全体主義的思想’の持ち主であることを、改めて明らかにしてしまったように思えます。国葬前日の26日に開かれた閣議後のオンライン会見にて「民間人材を含むデジタル庁職員約750人に黙とうするよう求める通知を出した」というのですから。

第1に、河野デジタル相の通達は、日本国政府の方針に反しています。同政府は、内面の自由の侵害、即ち、違憲となる可能性を考慮してか、国民に対する弔意の強制は見送っているからです。つまり、河野デジタル相は内閣の方針に従わず、自らの職権をもって弔意強要へと一歩踏み出したことになるのです。このスタンドプレー、‘一人の改革者による、勇気ある内部改革’という美名で済まされるものではないように思えます。否、むしろ、逆に、多くの国民は、同デジタル相による独裁的で恣意的な職権行使や権力濫用と受け取ることでしょう。

第2に、「通達」という手法にも問題があります。日本国では、法令に基づかずに省庁が「通達」等をもって自らの管掌下にある事業者等に対して指導を行なう「行政指導」が頻繁に行なわれてきたため、法律に根拠を有する法治行政への転換が強く求められるに至った歴史があります。こうした経緯に照らしますと、今般の手法は、行政指導の時代への逆戻りとも言えましょう。同デジタル相は、今後、他省庁に勧告を出す権限、即ち、「勧告権」を積極的に活用してゆくと発言しておりますが、先が思いやられます。

第3に、同通達には、黙祷という心に関わる行為の要請だけに、否が応でも国民の内面に踏み込みます。憲法では内面の自由が保障されているため、河野デジタル相は、‘黙祷せよ’ではなく、強制力も罰則も伴わない‘黙祷するように求める’という‘お願い’の表現としたのでしょう。しかしながら、通達での要請に対して、どれだけの職員がこれを拒否、あるいは、無視できるのでしょうか。大臣からの通達となれば、職場全体に強い同調圧力がかかりますし、同僚の皆が黙祷している中で、一人だけ仕事を続けることは難しいはずです。しかも、厳密に言えば、安部元首相は、国会議員の一人ではあっても、デジタル庁との間には公的な関係はありません(元首相であれ、私人に対する国葬の実施そのものにも疑問が・・・)。民間人のみならず、公務員であるデジタル庁の職員に対しても黙祷を求めることに疑義が呈されてもおかしくはないのです。ここに、政治における官民あるいは公私の区別の曖昧性という全体主義的な要素が見えるのです。

第4に、内面の自由に関連して指摘し得るのが、デジタルというテクノロジーに対する河野デジタル相の意識です。メディア等が描くデジタル社会とは、人々がITやAIといった先端技術を使いこなすことで、自らの物理的な限界をも超えて自由な空間を享受する未来像です。メタバースが提供する仮想空間であれば、一人で部屋に閉じこもっていても全世界を周遊できますし、宇宙旅行も‘実体験’できます。このため、デジタル化=自由化と見なされがちですが、今般の通達は、同デジタル相が人々の内面を拘束することに対して全く躊躇していないことを示しています(逆から見れば、メタバースも、人々を狭い部屋に閉じ込めてしまうことに・・・)。この態度は、ITやAIの隠された目的が、全人類の管理であるとする説を裏付けているとも言えましょう。理系頭脳を有するIT関連の人々は、文系の河野デジタル相とは逆に、何者・何事にも縛られることを嫌う‘真の自由人’が多いので、大臣との認識のギャップに驚いたかもしれません(もっとも、ビル・ゲイツ氏のように自己の自由のみを無限大に拡大しようとする‘自由人’もおりますが・・・)。

河野デジタル相の実像とは、親全体主義であり、かつ、権力の濫用をも厭わない強権的な政治家であるとしますと、メディアは、何故、日本国の民主主義や国民の自由に退行をもたらしかねない河野政権の誕生を後押ししているのでしょうか。この不可思議な現象につきましては、新興宗教団体をも傘下に納め、政治とメディアの両者を操ることができる世界権力の存在を抜きにして説明がつかないのかもしれません。河野デジタル相の黙祷通達は、迫り来るデジタル全体主義の危機を、図らずも日本国民に知らしめているように思えるのです。

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安部元首相を評価する‘若者層’の謎

2022年09月28日 10時59分18秒 | 日本政治
 昨日、武道館で行なわれた安部元首相の国葬は、テレビで報道された画像を見る限り、軍服姿の自衛官の姿が目立ったこともあって、どこか北朝鮮のような一種異様な空気が漂っていました。とりわけ、勲章を並べた深紅の台の赤色がおどろおどろしく、白と黄色の菊とのコントラストの不調和もあって、日本らしさを全く感じさせないのです。もちろん、この違和感は個人的な印象なのですが、メディアやネットの報道ぶりはその逆です。「終わったら、反対していた人たちも、必ず良かったと思うはず。日本人なら」と述べた二階元幹事長の‘予言’が的中したと言わんばかりなのです。果たして、管幹事長の弔辞に全国民が心から涙し、安部元首相の国葬を評価する側に転じたのでしょうか。それとも、国民の7割以上とされた事前の世論調査の結果のほうが、調査主体であるメディアによる数字の操作であったのでしょうか。

一般献花台にも、事前の予想を超えて2万人以上の一般の国民から花束が供えられたとも報じられています。特に、高校生と言った若い人の姿も見られ、安部元首相に対する評価は若年層ほど高いというイメージを振りまいています。世論調査でも国葬反対のパーセンテージは年齢に比例して上昇するとされており、海外メディアからも、反対派には高齢者が多いとする指摘があります。もっとも、後者については、実際にデモを組織して反対しているのは社会・共産主義の活動家でしょうから、目に入るのは自ずと高齢者となるのでしょう。しかしながら、若者層=安部元首相支持者という定式化された構図には、疑問を感じざるを得ないのです。

第1に、若者層であっても、安部元首相と世界平和統一家庭連合(元統一教会)との関係を知っているという点です。ネット情報の収集に長けている若者層の方が高齢者よりも情報量が多く、かつ、詳細な情報を入手しているはずですので、日本国の政治家や政党と反日カルト教団との癒着を許すとは思えません。情報リテラシーのレベルが問われるフェイクニュースでもないのですから。仮に、同癒着を知りながらなおも国葬を支持するとなりますと、今日の日本国の若者は、理性を失っているか、半ば洗脳によって世界平和統一家庭連合の信者となっていることとなりましょう。あるいは、世界平和統一家庭連合や創価学会等の工作により、何らかの同調圧力がかかっているのかもしれません(なお、国葬における‘長蛇の列’には、SNSにおけるインスタ映えを狙った行為とも・・・)。

第2に、上述したように、今般の国葬の儀式は、現代的に洗練されているわけでも、シンプルさを好むとされる若者のセンスに応えるものでもありません。人情劇のような‘お涙頂戴’のナレーションに対しても、ドライで感情に乏しい面が懸念されている今日の若者が共感を覚えるのでしょうか。祭壇に仰々しく並べられている勲章を見ても、古老の議員達の弔辞を聞いても、心から感動する若者がそれほど多いとも思えないのです(なお、管前首相の弔辞に対して異例の拍手が起きたとされますが、葬儀における拍手は世界平和統一家庭連合の慣例とも・・・)。むしろ、日本の伝統とも異質なその妙な演出に、共産社会主義国の指導者の葬儀、あるいは、別世界にでもワープしたような感覚に襲われるかもしれません。

第3の疑問点は、安倍政権の政策は、必ずしも若年層にとりまして望ましいとは言い切れない点です。同政権が推し進めた新自由主義に基づく政策は、派遣業界への利益誘導の形で雇用の不安定化を招きましたし、少子高齢化の根本的原因も、突き詰めれば非正規社員の増加を伴う同政策に行きつきます。世界平和統一家庭連合の教祖が唱えてきた日本人の奴隷化に先鞭を付ける政策とも言えましょう。また、防衛面での評価は高い一方で、安倍政権が徴兵制導入への道を開いたとなれば、若者世代こそ、先ずもって徴兵の対象とされましょう(世界権力の‘鉄砲玉’、あるいは、‘捨て駒’にされる可能性も・・・)。日本国の若者も、近い将来、兵役が既に課されている韓国の若者と同じ境遇に置かれるかもしれません。

第4に、安部元首相は、自由、民主主義、法の支配等の価値観外交を展開しましたが、国葬自体の岸田政権の決定に至る経緯は、民主的手続きを無視した独断であるとする強い批判があります。国葬の式典も、伝統を継承したわけではない‘創作’でありながらも、上述したように権威主義的な色合いが濃いものでした。また、安倍政権自身も、日本国の民主主義を深化させたとも言いがたく(安倍政権の‘自由’も新自由主義の自由であったかもしれない・・・)、戦後教育にあって自由や民主主義といった諸価値に馴染んできた若者層が積極的に支持する理由に乏しいのです。

以上の諸点からしますと、マスメディアが描く若者層=安倍政権の支持者という構図には、どこか不自然さがあります。否、仮に熱烈な支持者が存在するとすれば、安倍政権を支持する若者には、若さ故にカリスマに惹かれるヒトラーユーゲント、紅衛兵、あるいは、かつてのSEALSの姿さえ浮かぶのです。言い換えますと、思考停止した一群の若者像です(いささか厳しい言い方ですが・・・)。もっとも、‘ユース’には(YとJの置き換え)、ユダヤに通じる響きがありますので、‘若者の支持’とは、ユダヤ勢力の暗喩なのかもしれません。何れにしましても、動員疑惑も含めて、若者層=安倍政権の支持者という構図につきましては疑ってしかるべしと思うのです。

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安部外交の評価が分かれる理由-真の目的とは?

2022年09月27日 12時36分57秒 | 国際政治
本日、9月27日、日本武道館では、安部元首相の国葬が行なわれます。国葬不支持が世論の大半を占める中、しめやかな葬儀とは言いがたく、国葬反対のプラカードを掲げた反対集会やデモも各地で起きています。国葬問題は世論を賛否両論に二分したとされていますが、現実は、国葬を強行する政府とそれに反対する国民との間の二分に近いのかもしれません(メディアでは、一般献花に長蛇の列、とする報道もありますが、世界平和統一家庭連合や創価学会との関係を考慮すると、世論誘導や印象操作のための信者の動員を自ずと疑ってしまう・・・)。

世論の反発を受けて、日本国政府は、国葬の意義を懸命に説明しようとしたのですが、その際に強調されているのが、2016年に安部元首相によって提唱された「自由で開かれたインド・太平洋」構想に代表される安部外交に対する高い評価です。特に同構想は、軍拡路線をひた走り、一帯一路構想を掲げて積極的な勢力拡大政策を追求してきた中国に対抗するために唱えられたため、米中新冷戦時代に相応しい画期的な構想とされています。自由、民主主義、法の支配と言った普遍的な諸価値を広め、これらを共有する諸国間の連携・連帯強化を基本方針とした安部外交は、高い倫理性を備えた「価値観外交」としても知られてきました。

しかしながら、「自由で開かれたインド・太平洋」構想とは、政府やマスメディアが主張するとおり、安部元首相のオリジナルなアイディアであったのでしょうか。本来であれば、インドやオーストラリア等を含めて中国を包囲するフォームとなる同構想は、米中対立構造の当事国となるアメリカが主導するのが自然です。そこで、同構想の起源を遡りますと、その原型は、第一次安倍政権時代に外相を務めた麻生現副総理が2006年に講演会にあって述べた「自由と繁栄の弧」構想に求めることができます。

何れの構想も、その戦略的思考の前提に大国間による勢力圏争いが置かれているのですが、こうした冷戦にも通じる二項対立的な発想には、極めて強い地政学の影響が窺えます。そもそも、‘弧’という表現は地政学用語であり、ハートランド理論で知られるハルフォード・マッキンダーも帯状の地帯を表す用語として使っています(「危機の弧」)。後には、アメリカ国防総省が作製した報告書などでも使用例が見られると言います。ここで注目すべきは、安部元首相も麻生現副総理も、アメリカの外交政策に多大な影響を与え、‘ネオコンのゴッドファーザー’とも称されたアーヴィング・クリストル氏の影響を強く受けていたという事実です。因みに、同氏は東欧から移民してきた正統派ユダヤ教徒の家系に生まれており、青年期には共産主義者の国際組織である第四インターナショナルのメンバーでもありました。

新保守主義(ネオコン)は、ブッシュ親子の両政権の思想面から支えたために、アメリカという国家に固有の政治思想と見なされがちです。しかしながら、その生みの親とも言えるクリストル氏がかつて共産主義者であったことは、ネオコンという存在自体に関しても更なる洞察と再検討を必要としているように思えます。トランプ前大統領の登場により、‘ディープステート’と称される‘世界権力’の存在が政治の舞台裏から表舞台に引き出された感がありますが、アメリカのネオコンもまた、‘世界権力’が手にしている‘駒’の一つに過ぎないかもしれません。

ここに、安部元首相を含む日本国のネオコン系保守政治家もまた、彼らが動かすことができる‘駒’の一つである可能性が浮上してきます。つまり、「自由と繁栄の弧」、並びに、「自由で開かれたインド・太平洋」のアイディアとは、そもそも全世界の支配を目指す‘世界権力’から発しているかもしれないのです(『1984年』に登場する分割統治のため?)。世界権力にとりましては、同構想の発案者が必ずしもアメリカである必要はなく、どの国が言い出しても構わなかったのでしょう。むしろ、米中対立の当事国となるアメリカが言い出すよりも、憲法第9条を有する平和国家として知られる日本国の政治家の方が風当たりが弱く、自らの構想を実現しやすいと考えたのかもしれません。

上述した仮説が事実であるならば、安部元首相に対する評価も自ずと反転します。日米同盟を基軸としながら対中包囲網を形成し、併せて日本国の防衛力を高めるとする安部外交、あるいは、安倍政権の安全保障政策も、その実、世界権力のシナリオに沿ったものにすぎなくなるからです。しかも、そのシナリオとは、将来的な米中戦争、否、世界を二分する陣営を形成することで、第三次世界大戦への導火線を引くというものであるのかもしれないのです。もちろん、中国やロシアをも裏から操って・・・。世界平和統一家庭連合(元統一教会)も、KCIAやCIAといった世界権力との下部組織と目される諜報機関と結びついているとしますと、同仮説は、いよいよもって信憑性が増してくるように思えるのです。

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安部元首相国葬をめぐる‘国民一丸発言’を考える

2022年09月26日 12時58分40秒 | 国際政治
今月27日に予定されている安部元首相の国葬については、批判的な世論が大半占めることとなりました。保守系の論者からは、反対多数の世論調査の結果は、それを実施したメディア各社による操作が加えられており、実際に反対しているのは、かねてより安部政治を糾弾してきた一部の左翼系の人々に過ぎないとする意見も聞かれます。しかしながら、今般の反対は、反日カルト教団で知られる世界平和統一家庭連合(元統一教会)との繋がりに起因しているだけに、むしろ、賛成の回答を水増ししている疑いさえあります(岸田政権に対する支持率にも同様の疑いが・・・)。国葬擁護論を張っている論者や識者も、安部元首相と同様に元統一教会から支援を受けていた偽装保守なのかもしれず、本一件で保守派が受けたダメージはそれが根深いだけに相当に深刻となる気配もいたします。

こうした中、日本国民の世論が反対に大きく振れたことを嘆いてか、駐日ジョージア大使のティムラズ・レジャバ氏がツイッターにて「たったひとりでも国外からの来賓があるならば、国民が一丸となって対応することが日本の懐ではないのでしょうか。」と呟く一幕もありました。同氏の発言に賛同する意見もないわけではないのですが、‘国民一丸’という表現に、引いてしまった国民も少なくないのではないかと思います。何故ならば、‘国民一丸’という言葉は、日本国民に先の戦争を思い出させることとなるからです。

ジョージア(旧グルジア)は、今日にあっては独立を回復したとはいえ、第二次世界大戦後、長らくソ連邦に組み込まれていた国です。このため、未だに全体主義に対する親和性が高く、‘国民一丸’という言葉も自然に口から出てきたのかもしれません。しかしながら、日本国民には、政府やメディアによる‘国民一丸’のかけ声の下で国民が一致団結して敵国に挑み、戦時の物資不足の中で窮乏生活を耐え忍んだものの、力及ばず敗戦した苦い経験があります。国民が一丸となることは、国家存亡の危機に直面した際には必要とはされるのですが、その結果については、必ずしも良いものと保障されないこともよく分かっているのです(そもそも、‘世界権力’によって世界大戦が誘導されたとする疑いもある・・・)。むしろ、駐日ジョージア大使に煽られている感すらあります。

しかも、同大使が日本国民が‘国民一丸’となるべきと考えたのは、日本国の防衛や安全保障上の理由ではなく、海外からの参列者に対する‘おもてなし’というものです。外部の敵に対して団結せよではなく、外部の賓客を不快にしてはならない、つまり、不満があっても黙って飲み込むようにと、客人に対するもてなす側の心得を説いているのです。ユーラシア大陸の中央部の草原を駈けてきた遊牧民族の間では、家族を挙げて客人を歓待する慣習がありますので、ジョージア大使も自らの‘常識’を述べたに過ぎないのかもしれません。しかしながら、以下の点から、対外的な礼儀を理由として国民一丸となるように求めるその感覚に、強い違和感を抱かざるを得ないのです。

第一に、世界平和統一家庭連合という異質性の高いカルトと癒着していた安部元首相に対して強い身内意識を持つ日本国民はそれ程多くはないかもしれません。今般の一連の事件に対しては、日本国民の多くは、比較的客観的、かつ、距離を置きながら見つめています(感情移入している人は少ないのでは・・・)。しかも、韓国系反日カルト教団が関わる問題なのですから、自民党議員からも国賊発言が飛び出したように、純粋に日本国の、そして日本国民のために尽くした政治家であるのか、多くの国民が疑っているのです(むしろ、外部者の立場から国民を騙そうとしたのでは?)。

第二に、対外的な礼節については、岸田首相も、国葬を二日後に控えて25日に「国葬が敬意と弔意に満ち、各国への礼節を尽くし、わが国への信頼を高めるものになるよう全力を尽くしたい」と述べています。この発言からは、安部元首相の国葬を自らの重要な‘外交の舞台(弔問外交)’として位置づけたい岸田首相の願望も読み取れます。それ故に、国民に対して、自身の面子を潰すような‘目障り’な反対運動を控え、海外の賓客を迎えた国家的儀式としての体裁を整えるように国葬に協力するよう求めているのでしょう。こうした岸田首相とレジャバ大使の先の発言とを考え合わせますと、日本国民が内外から圧力をかけられる構図にも見えてきます。それは、‘国民一丸となって外国人をもてなしなさい’という同調圧力でもあります(この発想、先の東京オリンピックにも見られ、どこか世界平和統一家庭連合を思わせる・・・)。

そして第三に、弔意の強制が個人の内面の自由を侵害するものとして問題視されたように、‘国民一丸’という言葉は、明らかに思考の統制を含意します。反対デモを繰り広げている人々は極一部の活動家であり、大多数の一般国民にとりましては、安部元首相の国葬は内面の問題なのですから。このため、7割以上が国葬反対とされる世論にあって、‘国民一丸’を求めるのは、ジョージア大使がジョージアという国を代表して日本国民に対して、心を一つにして弔意を表すように求めているに等しいのです(なお、反対意見が少数派であっても思考統制には変わりはない・・・)。しかも、国葬は既に日本国内にあって政治問題化していますので、内政干渉ともなりかねません。

 内心において反対していても、客人がいる前で内紛を見せるのは大人げない、あるいは、世間一般的な礼儀に反するとする反論もあることでしょう(確かに、来客の前で家族内での内輪もめは見せるのは見苦しい・・・)。しかしながら、この問題が政教分離の原則に関わる重大な政治問題であると共に、国葬の法的根拠を問う法律問題でもあり、かつ、新興宗教団体による反社会的活動をも問題領域に含んでいる以上、国家を家族に擬えた‘国家家族論’での国民に対する批判封じは、自由や民主主義といった諸価値が定着している現代という時代にあっては時代錯誤のように思えます。また、同大使の発言の威を借りて国葬に反対する一般の国民を‘非国民’扱いする保守?の人々にも、世界平和統一家庭連合との関係を事実として直視できない、倒錯したカルト的思考傾向が窺えるのです(もしかしますと、信者たちかもしれない・・・)。結局、日本国の世論を誘導しようとしながら、レジャバ大使、並びに、岸田首相の発言は逆効果となり、国葬反対の世論をむしろ強めてしまったのではないかと思うのです。

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日本政府の円買いドル売り介入の意図とは?

2022年09月23日 10時29分17秒 | 国際経済
 昨日、9月22日、日本政府は、一向に歯止めがかからない円安傾向を止めるために、外国為替市場において24年ぶりに円買いドル売り介入を実施しました。円安が物価高の一因となっているだけに支持する声も聞かれます。しかしながら、この介入、手放しに歓迎できるのかと申しますと、いささか慎重に見る必要があるように思えます。

 政府は、今般の市場介入の理由について投機による急激な円安に対抗するため、と述べています。この説明に従えば、現在の円安は、投機筋による積極的な円売りドル買いに主要な原因があることとなります。その一方で、円安傾向が止まらない理由は、日米間の金利差にあるとする有力な指摘があります。アメリカのFRBは、物価上昇を抑えるという名目でゼロ金利政策から脱却し、相次いで利上げを実施しています。日本政府の介入も、FRBが075%のさらなる利上げを発表した直後であり、このタイミングもこの説を裏付けているようにも思えます。3ヶ月の間で3%以上となるFRBの利上げは、そのまま日米金利差の拡大となりますので、円安の加速化と軌を一にしているのです。

日米金利差によるマネーの流れ、即ち、円を売ってドルで運用して3%以上の利ざやを得る戦略は、必ずしも投機家に限ったことではなく、一般の金融機関でも行なわれています。金利差主因説が正しければ、円安の是正には、むしろ日銀による利上げの方が効果的であるかもしれません。日米金利差が開くほどに、円売りが加速されて円の相場が下落してしまうからです。

このことは、日米金利差が長期化する場合、日本政府による介入効果は一時的なものに過ぎず、長期的な流れを変えることはできないことを意味します。言い換えますと、日本政府は、円安介入を繰り返すたびに積み上げてきた外貨準備を吐き出さなければならず、仮に、米ドル外貨が枯渇するまで継続するならば、より緩慢ではあれ、1992年のポンド危機と同様の事態に直面するリスクもありましょう。かの悪名高きジョージ・ソロス氏であれば、このチャンスの到来を虎視眈々と狙っているようにも思えます。ポンド危機から30年を経た今日にあって円危機が起きれば、今度は、イングランド銀行ならぬ「日本銀行を潰した男」と呼ばれるかもしれません。

以上に金利差主因説に沿って述べてきましたが、それでは、日本政府が説明するように、投機が主たる要因と言うこともあり得るのでしょうか。日米金利差による長期的な流れが円安に振れている限り、それを見越した資産家やヘッジファンド等が投機的な行動に出てもおかしくはありません。否、既に上述した‘円の売り浴びせ’を仕掛けている可能性もありましょう。となりますと、日本国は、既に通貨危機の淵に立たされていることとなります。

 その一方で、もう一つ考えられるのは、日本国政府が、政府介入はないとみて投機に走る投機筋の利潤獲得のチャンスを意表を突く形で阻止したというものです。先物の金融取引では、契約日から1ヶ月や半年後といった、ある一時点における相場に基づいて決済されます。この一時点の相場こそ重要なのですが、決済時の相場を政府が市場介入によって操作することができれば、投機筋の目論見を意図的に外すことができます。今回の介入は、将来的な円安の更なる亢進を見越して先物取引やヘッジ取引を行なった投資家やファンドに対して、日本国政府が、‘日本円を投機の対象にはさせない’という意思表示の意味を込めて敢えて損失を被らせる、あるいは、利益幅を縮小させたことになります(過去にも、財務省には投機筋を唖然とさせた伝説的な人物がいたとも・・・)。投機主因説が正しければ、今般の介入は円安を利用した投機が利益にならない前例となり、投機筋の動きを牽制したことにもなりましょう。仮にこの説が正しければ、今後は、円相場の下落は鈍化するかもしれません。

以上に金利差主因説と投機主因説の両者について述べてきましたが、魑魅魍魎も徘徊する金融界のことですから、別の思惑も絡んでいるのかもしれません。あるいは、これらの要因が複合的に作用した結果、あるいは、相乗効果とも考えられましょう。何れにしましても、今般の政府介入については、通貨危機を招くリスクも認識されるだけに、複雑かつ連鎖的な波及効果をも考慮しつつ、より掘り下げた多面的な考察や分析が必要なように思えます。そして、常々、海外の金融財閥勢力の顔色を伺っている岸田政権が、ゆめゆめ同勢力に利益を提供するために市場介入したのではないことを願うばかりなのです。

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日本人の‘逆ファクターX’はコロナ・ワクチンでは?

2022年09月22日 11時22分10秒 | 日本政治
新型コロナウイルスが全世界を未知の感染症の恐怖に陥れ、各国ではロックダウンなど強硬措置が続く中、日本人のみが同ウイルスへの感染率、重症化率、死亡率とも極めて低いという不思議な現象が起きていました。何故、日本人だけが新型コロナウイルスに対して耐性を備えているのか、医科学的な議論も盛んとなり、‘ファクターX’探しが始まったのです。BCG接種説、過去のコロナウイルスとの交差免疫説、高い無毒化遺伝子の保有率、あるいは、非接触性の慣習など様々な説が唱えられたのですが、今では、この時の‘日本人最強説’は、殆ど忘れられてしまったかのようです。

今日、新型コロナウイルス感染症に対する認識は、潮目が変わるかのように変化しています。かの悪名高いWHOのテドロス事務総長も、パンデミックには終わりが見えてきたと発言していますし、アメリカのバイデン大統領に至っては、‘アメリカのパンデミックは終わった’として、早々と終了を宣言しています。如何なる感染症も一定の時間が経過すれば自然に収束に向かうものですし(より致死率の高いペストでさえ収束している・・・)、実際に、度重なる変異の結果としてウイルス自体も弱毒化しています(通行人が当然にバタバタと路上で倒れ、病院のロビーにまで搬送されてくる感染者を寝かせなければならない光景は、今やどこにも見られない・・)。世界的に見れば、パンデミックが終わりを迎えているのは確かであり、先日、イギリスで行なわれたエリザベス女王の国葬にあっても、マスクを付けている参列者は一人もいませんでした。

仮に、パンデミック初期の状態のまま今日を迎えていたとすれば、日本人の多くは、殆ど何の変化も感じることなく、世界史年表に記載された凡そ2年半の‘コロナの時代’を過ごしたかもしれません。ところが、現状を見ますと、日本国は、今や世界で唯一、新型コロナウイルス感染症の恐怖が煽られ、未だに感染の波が襲ってくる国なのです。街ゆく人々は皆マスクを着装し、食事の時以外はそれを外そうとはしません。今冬における第8派の到来を予測する政府も、オミクロン株対応のワクチン接種については、5ヶ月間隔を3ヶ月に短縮する念の入れようです。松野官房長官が述べたように、現時点ではと断りながらも、終了宣言は論外のようなのです。それでは、何故、2年半の間に、日本国の感染状況は、真逆と言える程までに逆転してしまったのでしょうか。

その最大の要因として指摘されているのが、コロナ・ワクチンの接種です。mRNAワクチン(核酸ワクチン)については、遺伝子工学上の先端技術を用いて作製されたことから、当初から安全性に関する強い疑義がありました。しかしながら、感染拡大防止と経済活動の再開という政治的目的が優先され、急遽、その使用が承認されることとなったのです。日本国政府も、世界的な潮流となったワクチン接種推進政策に追随し、医療従事者や高齢者、並びに、基礎疾患のある人のみならず、接種対象者を段階的に広げてゆき、今では、5才から11才までの幼児や児童も接種対象に含まれるようになりました(通常、ワクチンというものは、免疫獲得に適した乳幼児期に接種するものであり、高齢者に奨励される理由や根拠の説明も不十分・・・)。ワクチン接種に対する異様なる日本国政府の熱意は、改めて一日100万人接種を目標に掲げる岸田首相の言葉からも窺えます。

その一方で、収集された感染データの解析や学術的研究等からワクチン接種の危険性が裏付けられてきたこともあり(有害性や自然免疫の弱体化等・・・)、欧米諸国ではワクチン接種者数が激減しています。同タイプのmRNAワクチンは回数を重ねるほど死亡リスクが高まることは、日本国内にあっても指摘がありましたが、イギリスでは、既にワクチン接種禁止へと舵を切り替えたとの情報もあります。全ての情報が国境を越えて自由に行き交うはずのグローバルな時代を迎えたはずなのに、日本国では、ワクチンに関する危険性については未だに怪しい陰謀論扱いされており、政府もマスコミも、コロナ・ワクチンの安全性に関する議論を封じているのです(厚労省の公式の発表でも、ワクチンとの関連が疑われる志望者数は1800人を越えている・・・)。

自由な言論空間が確保されているならば、先ずもって、ワクチン接種率の高い日本国のみ、何故、コロナ禍が収束しないのか、その要因を科学の視点から客観的に追及すべきです(百歩譲ってワクチンが主要要因ではないとしても・・・)。かつて、多くの人々が‘ファクターX’を、先を競うように見つけ出そうとしたように・・・。すなわち、ワクチン接種こそ、‘ファクターX’を消滅させ、現在に至って感染者を増加させている可能性もあるのです。超過死亡が戦後最高値を記録している今日、‘逆ファクターX’に関する議論に蓋をしようとしている政府やマスメディアの抑圧的な態度こそ、怪しんで然るべしと言えましょう。人口削減論がまことしやかに囁かれるのには、それなりの理由があるのです(状況証拠・・・)。

コロナワクチンメーカーの一つであるモデルナ社は、日本国をアジアにおける臨床試験の研究拠点にする方針を示していますが、同社の申し入れには、‘日本人をモルモットにするのか’との批判もあります。また、インドでは、日本国から「旭日大綬章」を授与されたビル・ゲイツ氏が、COVID-19ワクチンに関して殺人罪で訴えられています。果たして、日本国民は、今日の政府、否、岸田政権に自らの命を預けることができるのでしょうか。

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ウクライナ危機で露呈する電力自由化のリスク

2022年09月21日 10時46分32秒 | 国際経済
ウクライナ危機に端を発したエネルギー不足の問題は、今日、世界的な電力価格の高騰をもたらしています。電力価格の上昇は国民生活を圧迫するため、各国政府とも対策に乗り出しているのですが、もう一つ、欧州市場の統合に伴っていち早く電力自由化を進めた欧州では、思わぬ問題を引き起こしているそうです。それは、電力企業の財務危機です。

それでは、何故、エネルギー資源不足が電力企業に財務危機をもたらすのでしょうか。たとえ発電コストが上昇しても電力価格に上乗せすれば、深刻な危機には陥ることはないはずです(最終的に消費者に転嫁されるため、必ずしも望ましいわけではありませんが・・・)。実のところ、財務危機発生の要因は、欧州電力市場の自由化にあります。電力企業が直面している危機とは、ヘッジ取引における追加証拠金の調達難にあるからです。

電力の自由化とは、発電事業の新規参入の自由化のみを意味するわけではありません。自由化政策に伴い、発電した電力を売買する卸売市場、小売市場、並びに、先物取引市場における売買も自由化されるのです。この結果、電力価格は市場取引によって変動することになりますので、価格変動による損失を回避するために、電力事業者は、先物取引市場においてヘッジ取引を行なわざるを得なくなるのです。そのヘッジ取引に際して要する証拠金は、総額1兆5000億ユーロ(凡そ150兆円)を越えるとされており、簡単に調達できる額ではないのです。

ウクライナ紛争における戦局によって将来の電力価格が左右されるとなりますと、電力事業者のみならず、国民にとりましても電力の自由市場は脅威となりましょう。ヘッジ取引が絡むという点で、背後にジョージ・ソロス氏などの金融勢力の存在も疑われるものの、投機的なマネーも流入すれば、先物市場におけるバブル崩壊もあり得る展開となります。しかも、各国政府が電力事業者への支援を始めているともなれば、政府の‘介入’を見越した外国為替市場におけるポンドの売り浴びせに類似した事態が発生するかもしれません(1992年9月16日に発生したポンド危機・・・)。すなわち、その結末は、公的支援を行なった政府が巨額の損失を被る形で、ヘッジファンドが大儲けをするというものであったのです。金融・経済財閥連合がウクライナ紛争、つまり、ロシアとウクライナの両国を上部からコントロールしているとすれば、同シナリオは、予め仕組まれていた可能性も否定はできなくなります。

エネルギー資源産出国が当事者となる紛争は、電力市場を介して金融危機をももたらすリスクがあるのですが、これは、化石燃料を使用している電力事業者のみの問題ではありません。先ずもって、自由市場で自社の電力を取引している再生エネ事業者には、化石燃料部門での資源高騰の影響が波及してきます。現状では、電源をコスト・フリーの自然から得ている再生エネ事業者は‘棚ぼた状態’にあり、紛争利得者の一人に数えることができます。しかしながら、電力市場で売買を行なう限り、ヘッジ取引に要する証拠金は、これらの事業者にも求められます。また、再生エネ事業者への補助金制度であるFIP(Feed-in Premium)にあっても、市場価格と連動する参照価格が高くなるため、プレミアム単価は政府から受け取れないこととなります。なお、欧州ではカーボンニュートラルが世界に先駆けて強力に推進されながら、化石燃料部門における供給不足が甚大な危機をもたらしている現状は、図らずも、同地域の化石燃料資源への依存度の高さを露呈しているとも言えましょう。

日本国内にありましては、電力事業者の資金調達問題は海の向こうのお話として扱われていますが、近い将来、日本国も同様の危機に見舞われる可能性があります。電力自由化に伴い、日本国内でも90年代後半から自由化が進み、2003年11月には、電力のスポット取引や先渡取引などを行う日本卸電力取引所が開設されました。欧州をモデルとして上述したFTPも2022年4月から運用が開始されており、資源エネルギー庁も再生エネの自由取引拡大を基本方針としています。

しかしながら、江戸時代の飢饉の原因の一つが、米市場での取引を優先した藩政であった事例を思い起こしましても、人々の生命や生活の維持に必要となる‘必需品’を自由市場に委ねるのは危険です。今日では、金融勢力に絶好のビジネスチャンスの場を提供することにもなりかねないのですから。今日、ウクライナ危機に始まる電力価格の高騰は、電力自由化の是非、あるいは、限界をも問うているように思えるのです。

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安部政権のもう一つのアキレス腱-保守による新自由主義の推進

2022年09月20日 12時27分54秒 | 日本政治
 安部元首相の国葬に対する反対世論の主要な要因は、日本国の独立性を損ねかねない世界平和統一家庭連合との関係にあることは、多くの人々が認めるところではないかと思います。その一方で、経済分野におきましては、民主党政権下における日本経済の危機を、日銀による異次元緩和を主力の矢とするアベノミクスが救ったとする評価があり、同元首相の功績の一つに数えられています。しかしながら、8年8ヶ月に及ぶ長期安倍政権の全体を見ますと、アベノミクスが国民に幸せをもたらしたとは言い切れない負の側面もないわけではありません。そしてその負の側面こそ、新自由主義の強力な推進であったように思えるのです。

安倍政権にあって経済政策の指南役を務めていたのは、新自由主義者で知られる竹中平蔵氏です。国葬に対する風当たりが強まるのを見かねてか、同氏は、世界平和統一家庭連合をめぐる世論の批判に対して、‘統一教会=悪=自民党’という単純な構図は、法治国家ではあり得ないと述べ、国葬擁護論を試みています。氏の説を纏めますと、「日本にはフランスのようなセクト法が存在しないのだから、宗教の自由は完全に認められている。故に、統一教会を悪いと決めつけることはできない。法律に基づかないバッシングは、法治国家にあるまじき行為である。」ということになりましょう。‘法律がなければ何をしてもよい’というのですから、いかにも新自由主義者らしい発言です。それでは、竹中氏の擁護論には、国葬反対へと傾く世論を抑えるほどの説得力があるのでしょうか。

竹中氏は、自由を強調し、「宗教の自由があって、宗教をやりながら政治活動をするのは自由ですよ。」と述べ、日本では創価学会・公明党の事例を挙げて問題視しない姿勢を示しています。しかしながら、同氏は、政教分離を定めた憲法第20条を忘れてしまっている、あるいは、故意に無視しているようです。如何なる宗教団体も、政治権力を行使してはならないと憲法は明白に定めているのです。ですから、先ずもって、‘セクト法が存在しないからと言って、宗教団体には政治活動をする自由もある’と主張することはできないはずなのです。むしろ、憲法に違反する行為が白昼堂々と行なわれているのですから、公明党の存在が既成事実化している現実の方が、余程、‘法治国家にあるまじき行為’なのです。

第2に、竹中氏は、「宗教の自由、信仰の自由と政治の自由っていうのはちゃんと守らなきゃいけない」とも語っているのですが、政党とは、政治的信条や価値観、あるいは、政策方針を共にする政治家並びに国民の組織ですので、国民に対しては、自らの立場を明確に示す必要があります。ドイツのキリスト教民主同盟は、ヨーロッパの伝統宗教であるキリスト教の価値観に基づいて設立されており、それは誰もが知るところです。一方、自民党と世界平和統一家庭連合との関係は、それがたとえ政策に影響を与えていたとしても、国民に隠されてきました。公明党にしても、その利権体質や支配欲、名誉欲、金銭欲を是とする行動様式は、無欲や慈悲の心を説く仏教とは真逆と言っても過言ではありません(公明党が仏心を説いている姿を一度も目にしたことはない・・・)。しかも、世界平和統一家庭連合であれ、創価学会であれ、その政治思想は、独裁体制を容認する全体主義を特徴としていますので、いわば、自民党が、ナチスや共産党と密かに手を組んでいるようなものなのです(ドイツでは、キリスト教民主同盟は認められていても、ナチスは法律で禁じられている・・・)。既存の法律には触れないとしても、自民党並びに公明党共に、国民に対する秘匿性、隠蔽、あるいは、保守や仏教の偽装性において、国民を欺いた罪は問われて当然です。

以上に述べてきましたように、宗教並びに政治的自由を以てしても、今般の政党と新興宗教団体との癒着を擁護できないように思えます。竹中氏は、自らを重用してきた自民党に対する恩義から擁護論を張っているのでしょうが、むしろ、同氏の指南の元で実施されてきた数々の破壊的な自由化政策にも国民の関心が向き、世論は国葬反対に一層傾くかもしれません。自公保守政権の下で公約外の移民政策が推進され、非正規社員が劇的に増加し、中国企業が日本市場を荒らし、北海道をはじめ日本の土地が外国人に買い取られ、そして、今日、国民はスタグフレーションに見舞われているのですから(これらの他にも国民が被った不利益は計り知れない・・・)。安倍政権の真の姿が、世界権力が推し進めたグローバリズムと呼応した新自由主義政権であったことも、同政権を評価する上でのもう一つアキレス腱であったのではないかと思うのです。

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二階元幹事長の‘日本人なら’発言の危うさ

2022年09月19日 09時42分33秒 | 日本政治
二階元幹事長の安部元首相の国葬に関する傲慢発言は、さらにエスカレートしているようです。先の発言は、‘国民の批判など無に等しく、自民党は安泰’と高をくくったことで世論の批判を浴びたのですが、今度は作戦を変えています。無視を決め込むと火に油となることに気がついたのか、敢えて‘日本人なら’と表現することで、同調圧力を作り出そうとしています。両者には‘無視’と‘誘導’という違いはあるものの、政治家(権力者?)としての上から目線で‘国民世論など自らの発言でどうにでもできる’と見下している傲慢な姿勢においては共通しているのです。
 
 かくして、安部元首相の国葬に関連して二度目の炎上が起きてしまったのですが(通算では数え切れない・・・)、二階元幹事長は、‘日本人なら’という言葉の効果については熟知していたように思えます。かねてより、国際ジョークとなるくらい日本人は同調圧力に弱いとされてきました。他人を海に飛び込ませようとする場合、アメリカ人には‘あなたはヒーローになれます’、イギリス人には‘ジェントルマンとはこうするものです’、ドイツ人には‘法律で定められています’、そして、日本人には‘皆がこうしています’と言えばよい、というものです(いささか不正確かもしれません・・・)。おそらくワクチン接種促進においてその絶大なる効果を実感した元幹事長は、‘日本人なら’を魔法の呪文と考えたのかもしれません。

 それでは、‘日本人なら’の呪文は、世論誘導の効果を発揮したのでしょうか。結果はその逆であったと言わざるを得ません。安部元首相の国葬に対して疑問を抱くのは、全員とは言わないまでも、日本人に限らず、人としての当然の心の動き、あるいは、反応です。何故ならば、国葬反対の世論が圧倒的である最大の理由は、安部元首相を筆頭とする自民党と世界平和統一家庭連合との癒着にあるからです。

同教団は、『旧約聖書』を自己に都合よく曲解しつつ、過去の植民地支配による韓国人の‘恨’を晴らすためには日本を韓国に従属させるべき、と説いてきた反日カルトの新教宗教団体です。霊感商法や信者に対する高額の寄付要求も、‘アダムの国である韓国にエバの国である日本は貢ぐべし’、‘韓国人が日本人を搾取しても償いであるから神が許している’という発想に起因しているのでしょう。世界平和統一家庭連合とは、信者を動員して様々なサービスを提供するのと引き換えに、自民党に対して裏から教義に基づく反日政策を実行させようとしてきたのですから、いわば、日本人から見れば、日本支配を目論む‘敵性集団’なのです。

世界平和統一家庭連合が反日組織であることは明白な事実ですので、二階元幹事長が、日本人の特質である‘同調圧力’を以て安部元首相の国葬決定に従うよう恫喝したとしても、国民の多くは反発するのみです。何れの国でも、自国の支配を目的に掲げてきた隣国のカルト教団と自国の政権与党が密接な関係にあれば、国民は憤慨するでしょうし、公安上の外患誘致事件として刑法上の罪に問われるかもしれません。世界平和統一家庭連合が、日本国と同盟関係にあるアメリカのCIA、さらには中国をもコントロールする世界権力と繋がりがある故に、破壊活動防止法等の適用を逃れているのかもしれないのです。

半数をゆうに超える国葬反対の世論は、保守政党を装って長期にわたり日本国を‘支配’してきた自民党並びに公明党に対する国民の深い失望と政界に対する不信感の現れとも言えましょう。否、今般の一連の事件により、漠然として抱いてきた‘売国疑惑’は、ついに確信に変わったのかもしれません。人民解放軍を熱烈歓迎しかねない二階元幹事長ならば、中国に侵略され、日本人が大量に虐殺されたとしても、「終わったら(侵略が完了したら)、反対していた人たちも、必ず良かったと思うはず。日本人なら」と発言しそうなだけに(ここにも悪しき二重思考が・・・)、元幹事長の傲慢発言には、大いに警戒すべきと思うのです。

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統合の役割は人では無理なのでは?

2022年09月16日 18時31分10秒 | 統治制度論
今日に見られる君主の役割の統治(権力)の分野から統合(権威)の分野への一般的移行は、民主主義と伝統とを両立させる知恵の一つでもありました。伝統は、時間軸において国家の歴史を継承すると共に、その共有は国民を纏める求心力ともなるからです。たとえ民主主義とは相容れない世襲制ではあっても、伝統が宿す統合力は、国家にとりまして有益であったと言えましょう。

しかしながら、君主の統合力の源泉が伝統にあるとしますと、君主も人である限り、時の経過による変化というものから逃れることはできません。また、永遠に生き続けることもできませんので、代替わりを余儀なくされます。代換わり毎に王統や皇統の血統も凡そ半減し、かつ、妃や王配が育った家の家風や別系統の文化も流入するのみならず、マスメディア等を介して時代の変化にも晒されますから、王族も皇族も、伝統の継承者としての存在意義が薄らいでしまうのです。国民一般との差異が限りなく縮小しますので、超越的な権威を頂点とする求心型の構図が崩れ、統合の役割を維持することも難しくなります。

君主の求心力低下を防ぐために、日本国の皇室も含め、世界各国では様々な方法が試みられているようです。国民との距離を縮めるために親しみやすさを演出したり、国民に向けて直接に情報を発信するSNSも利用されています。日本の皇室では検討段階のようですが、英王室では、既にSNSは活用が開始されているのです。また、様々なイベントに積極的に出席するなど、公務に励む姿勢を見せて国民への奉仕をアピールするという方法もありましょう。何れであれ、こうした試みは、垂直型となる求心型の統合を半ば諦め、国民の中に自ら入ってゆくことで、国民との連帯意識に基づく水平的な統合への転換を目指す方向性として理解されましょう。

しかしながら、水平型の統合は位階制とは相容れませんので、完全に水平型に移行させますと、誰もが君主の権威を認めなくなり、自己否定となっていまいます。そこで、垂直と水平を両立させるという殆ど不可能な命題に取り組まなければならなくなるのですが、これは、簡単なことではありません。

例えば、国民と親しく接する機会を増やすために様々なイベントや行事に頻繁に臨席したとしても、一般国民の側からすれば、逆に垂直的な上下関係を否が応でも意識する機会が増えるに過ぎなくなります。言葉遣いや振る舞いに神経を使わざるをえず、熱心な王室・皇室支持者ではない限り、むしろ屈辱感が増長されてしまうからです。また、SNSの発信にしても、世間一般におけるお友達関係のコミュニケーションというわけにはいかないことでしょう(おそらく、有名人と大多数のフォロワーの関係となるのでは・・・)。結局、この取り組みは、‘垂直は水平なり’という二重思考を国民に強いる結果を招き、国民に心理的な圧迫感を与えかねないのです。そして、この構図における王族・皇族は、どこか、人民の一人を自認し、国民と同等ぶりを見せながら、自らが国民と同列であることは絶対に認めない共産主義国における独裁者の姿とも重なるのです。

こうした状態は、国民の精神に対して善い作用を及ぼすとは思えません。熱心な支持者も少なくないかもしれませんが、常に、外部から自己欺瞞を強いられますし、自らの心に正直であることが許されないからです。言い換えますと、表面的には国民と同じ目線を演じながら、実際には、国民の心理的犠牲、あるいは、‘内面の不自由’の下で求心型の統合が維持されるのであり、この統合の構図は、少なくない国民が内なる不満や疑問を抱えている以上、砂上の楼閣となるリスクが認められるのです。

君主を求心力とする統合体制が国民に苦痛、あるいは、卑屈な精神を強いるならば、君主と国民の双方にとりまして不幸であると共に、人々の理性、知性、そして伸びやかな心の持ちようをねじ曲げる要因ともなりましょう。また、君主も人ですので、個人的な好悪の感情によって国民の一部を贔屓したり、あるいは、逆に嫌悪の情にかられて迫害するかもしれません。さらには、英王室においては、目下、非英国系のメーガン夫人との婚姻を機に様々な騒動や闘争が起きていますが、世界平和統一家庭連合の韓国人教祖も日本の皇族との婚姻を本気で熱望していました(自民党との関係からしますと、不可能とは言えないのでは・・・)。今日では、皇族といえども個人の自由は尊重されるべきとされますので、王族や皇族の行動や選択次第では、統合どころか分裂や対立要因となりかねないのです。この流れからしますと、近い将来、国家全体のパーソナル・カルト化のみならず、国家としての独立性をも危うくする事態も予測されるのです。

長期的に見れば、特定の個人、あるいは、一家族に統合の役割を期待するには無理があり、統合の機能は、固有の人格を持つ人ではなく、他の非人格的な存在に求めるべきように思えます(非人格的なものであれば、利権も生じなければ、腐敗することも堕落することもない・・・)。例えば、日本国であれば三種の神器も候補となりましょうし、ハンガリーのように空位の王冠を象徴としている国もあります。非人格的な存在であれば、国民に精神的な苦痛や圧迫感を与えることはありませんし、個人的な気まぐれによって不利益を被ることもありません。また、人のように時間が経過するにつれて本質的な変化に直面させられることもないのです(血統のように婚姻によって希釈されることもない・・・)。

国家とは、国民あってのものなのですから、現代という時代では、国民の自由こそ最大限に尊重されるべきと言えましょう。知性や理性に堪えない制度については、将来に向けて見直しをはかるべきではないかと思うのです。未来の国民のために。

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国葬が問う内面の自由の問題-君主制の根本問題

2022年09月15日 12時39分08秒 | 統治制度論
安部元首相の国葬問題に揺れる中、イギリスにおけるエリザベス女王の逝去により、国葬という国家主催の葬儀が改めて人々の関心を呼んでいます。前者に対しては、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との癒着の表面化により国民世論の多数が反対に傾く一方で、後者については、エリザベス二世が国家の元首であった故に当然のこととする受け止め方が大半を占めているようです。しかしながら、その一方で、葬儀とは人々が共に弔意を示す行為ですので、否が応でも国民の内面の自由の問題と直結してしまいます。

国葬と弔意強制との関係は、日本国内にあっては安部元首相の国葬の差し止め訴訟において論点の一つとなりました。裁判所は、国葬は弔意の強制に当たらないとする判断を示し、原告の訴えを退けたのですが、この議論に際して、国葬を支持する人から反対する人々に対する一つの問いかけがありました。それは、天皇崩御に際しての‘大喪の礼であっても、同様の訴訟を起こすのか’というものです。

大喪の礼は、一先ずは法律に根拠がありますので(皇室典範第25条)、違憲や不法行為を訴因として裁判を起こすことはできないのですが、内面の自由の侵害についてはいささか慎重に考えてみる必要があるように思えます。もちろん、先の問いかけは、‘大喪の礼であれば、全国民が弔意を表すのは同然である’、あるいは、‘反対する国民などいるはずがない’という絶対的な確信や固定観念があってのことなのでしょう。しかしながら、この他者が人の内面を決定してもよいとする態度、あるいは、それに何らの疑問を感じない態度こそ、君主制が現代という時代と齟齬をきたしてしまう核心部分であり、根本問題なのではないかと思うのです。たとえ君主その人も、憲法尊重擁護義務を負う立憲君主制の形態ではあったとしても・・・。

現代の自由主義国にあっては、その多くが憲法において国民の内面の自由を保障しています。今日、内面の自由のみならず、その外部的な表出である言論の自由や表現の自由が憲法において厚く保障される理由は、過去にあって国民の自由が侵害され、自由が抑圧されてきた忌まわしき歴史があるからに他なりません。今日、多様性の尊重という言葉は、どちらかと言えば反差別の文脈で使われていますが、自由な社会とは、心の自由を相互に認める社会であり、一つの出来事、一人の人物、一つの国などに対する評価や感情が個々に異なってもそれを自然なこととして受け止める社会なのでしょう。

この点からしますと、国葬のみならず、儀式や式典にあっても、国民や参列者に対して同一の感情を持つように強要する君主制には、それが権力を持たない権威型君主制であったとしても、国民の基本的な自由と相入れない要素があります。否、程度の差こそあれ、国民の行動を統制する、あるいは、抑圧しないことには、君主制そのものが成り立たないかもしれないのです。皇族や王族が臨席するセレモニーにあっては、出席した誰もが、えてして貴賓席に対して頭を下げる、もしくは、低い立場に位置づけられざるを得ません。

そして、君主制と国民の自由との間の相克は、血統の高貴さや伝統に依拠した正当性が希薄化し、皇族や王族のパーソナルな側面が強調される現代という時代にあればこそ深刻さを増します。北朝鮮を思わせる個人崇拝が観察される今日、国民は、カルトへと誘導されている、あるいは、その国の国民であるというだけで自動的に信者にさせられているに等しくなるからです。因みに、凶弾に斃れた安部元首相については未だに森友学園や加計学園の問題が燻っていますが、同事件で驚かされたのは、上皇・上皇后夫妻の写真が御影として恭しく飾ってある森友学園の校内の様子でした。新興宗教団体に共通する、一種、異様な空気が感じ取れたからです。

一方、イギリスでは、エリザベス女王の棺が安置されているウェストミンスター宮殿に、一般国民が長蛇の列をなして弔問に訪れていると報じられております。エリザベス女王に対して示された国民からの哀悼の意は、日本国で喩えれば、戦争という激動の時代を共に生きた昭和天皇に対する国民感情に近いのかもしれません。時間軸からすれば、既に昭和天皇から二代を数えた日本国の方が、イギリスより先に権威型君主制の問題に直面していると言えましょう。

何れにしましても、‘現代化’した皇族や王族に対する国民感情の多様化は(神でさえ悪魔からは嫌われるのですから、全ての国民から好意を寄せられる人は存在しない・・・)、他者に対する尊敬心、忠誠心、奉仕の心、弔意といった感情が国民の内面の自由の問題であるだけに、人的権威に依拠して成立している君主制を揺さぶらずにはいられません。メディアや論壇では、自由と言えば、王族や皇族の自由に議論が集中していますが、国民の自由については等閑視されているのです。果たして、国民は、自らの心に嘘をつくことなく、君主を頂点とする権威主義体制をよしとするのでしょうか。同調圧力をかける集団や熱烈な皇室支者も存在する中、国葬をめぐる議論は、図らずも、将来における国家体制のあり方に関する問題をも提起しているように思えるのです。

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英王室問題に見る歴史問題の内在化

2022年09月14日 12時57分43秒 | 国際政治
 エリザベス2世の逝去に際して、一人の女性の発言が、アメリカにおいて思わぬ物議を醸しています。その発言とは、米カーネギーメロン大学教授でナイジェリア人のウジュ・アニヤ氏によるものであり、「略奪とレイプと虐殺の帝国の君主がついに亡くなると聞いた。彼女の苦痛が耐えがたいものでありますように」というのですから尋常ではありません。恐ろしいばかりの憎しみが込められているのですから。

 それでは、何故、アニヤ氏は、臨終の床にある人に対して呪いの言葉を投げかけたのでしょうか。氏は、人の心を欠いたサイコパスなのでしょうか。どうやら、そうではないようです。同発言は、所謂「大英帝国」に対する根深い怨恨に発しているようなのです。それは、近代以降、「大英帝国」によって植民地支配された諸国あるいは諸民族の多くが、今日なおも同国に抱き続けているものです。「大英帝国」の植民地支配とは、お世辞にも紳士的とは言い難いものでした。否、ジョージ・オーウェル流に二重思考的に表現すれば‘紳士は海賊なり’となりましょう。詐術的な権限の掌握、現地民の搾取、現地住民の二級市民化など、例を挙げましたら切がありません。「大英帝国」の頂点に君臨したヴィクトリア女王は、分裂状態にあったインドの封建関係を巧みに利用しながらムガール帝国の王冠をも被っています。

 かくして、「大英帝国」領に組み込まれた諸国には、「大英帝国」に対する積年の恨みが残ったようであり、アニヤ氏の発言は、いわば辛酸をなめた‘植民地代表’であったのかもしれません。恨みや嫌悪といった人の感情は関係性の中から生まれますので、エリザベス女王に対する呪いの言葉は個人的な理由によるのではなく、歴史を踏まえた「大英帝国」と植民地との間の穏やかならざる剣呑な関係を象徴しているとも言えましょう。

 このように、今日の立憲君主制にあっても、君主が国家の歴史を背負っているとしますと、ヘンリー夫妻をめぐる英王室の‘ごたごた’の理由も見えてくるように思えます。アフリカ系の血を引いているメーガン夫人は植民地側の立場にもあり、王室に対する破壊的で反抗的な態度は、その深層心理に発している可能性もありましょう。英王室の内部においてトラブルを起こし、その伝統を蔑ろにしつつ、英王室の一員として一般の英国民を睥睨することが、いわば植民地による復讐を意味するからです(メーガン夫人は、婚約が成立すると、職員の英国人女性を虐め始めた)。あるいは、英国の王座に座ることが叶わなくとも、旧植民地の諸国の支持を得て事実上のコモンウェルスのトップとして君臨できれば、‘下剋上’の願望が成就することともなります(この点、保守党の党首選においても、スナル氏の立場は興味深い・・・)。

 去年の12月頃から故エリザベス女王とヘンリー夫妻との間の亀裂は決定的となり、女王が同夫妻を追放する事態にまで発展したていたそうです(当初は、植民地勢力を取り込もうとしたものの、結局、失敗してしまったのでは・・・)。英国民の多くも女王の決断を英断として支持していたそうですので、同事態は、イギリスと旧植民地との関係が抜き差しならぬ状況に至っていたことを示しているのかもしれません。イギリスは、世界に誇る「大英帝国」であった歴史を有するだけに、王室の内紛は、世界史のパノラマで見る必要があるのです。

かくも不人気なヘンリー夫妻の暴露本を買う人がいるのかと不思議に思ってきましたが、こうした視点から見ますと、同夫妻には、旧植民地勢力という強力な‘応援団’が付いていると考えれば、なるほどということになります。そして、メーガン夫人の傍若無人ぶりは、その野心家という人柄のみならず、支援者の支持を得るためのパフォーマンスであるのかもしれません。英国に対する破壊行動がエスカレートするほど、‘応援団’の人々は喜ぶからです。

もっとも、「大英帝国」を成立させた真の勢力は、イギリスという国家ではなかった点には注意を要します。インドを植民地化したのは勅許会社であった東インド会社であり、金融・経済財閥勢力であるからです。東インド会社は、英国の軍隊とは別組織である軍隊を備えており、度重なる戦争を介して現地の国や勢力を武力でねじ伏せています。条約締結権も有しており、講和条約を含め、現地の諸国と締結した諸条約が不平等条約であったことは言うまでもありません。何れにしましても、東インド会社、否、民間の金融・経済財閥勢力こそ‘真犯人’なのですから、今日の国民国家としてのイギリス、並びに、同国国民に責任を問い、恨みの感情をぶつけるのはいささか酷なようにも思えます(植民地支配をされた諸国民は、英国という国家ではなく、東インド会社やその背後にある秘密結社を非難すべきでは・・・)。

そして、東インド会社の系譜を引く今日の金融・経済財閥勢力という私的な権力体は、ここでも、両頭作戦、並びに、上下挟み撃ち作戦を密かに遂行していることでしょう。愛国心を刺激しつつ保守層を操ると共に、グローバリズム推進の観点からヘンリー夫妻をも陰から支援していると推測されるのです。英国色の比較的強いチャールズ新国王からウイリアム王子へと王座の主が変わるとき、キャサリン妃はユダヤ系ですので、同作戦は、何れにしても最終段階を迎えることが予定されているのかもしれません。その時まで、イギリスが君主制を維持しているのかどうかは分かりませんが、この問題、日本国民にとりましても他人事のようには思えないのです。

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王室・皇室の権威の行方

2022年09月13日 14時03分32秒 | 国際政治
民主主義の時代の到来が、統治者であった君主の存在意義を失わせる結果を招いたことは、偽らざる事実です。それにも拘わらず、今日、イギリスをはじめ世界各国において君主が存在しているのは、多くの人々が、統治ではない別の領域における役割を認めてきたからなのでしょう。

もっとも、権力と権威の分離は、民主主義が広がった近現代に始まった訳ではありません。日本国の歴史を振り返りますと、『魏志倭人伝』の邪馬台国に関する記述は、大和朝廷成立以前にあって既に祭政二元体制が存在していたことを示唆しています。中世ヨーロッパにあっても、世俗の君主達が統治を行なう一方で、教皇は、国境を越えて宗教的な精神世界に君臨する権威でした。近代以降には、法の支配がいち早く確立した英国にあって、‘国王は君臨すれども統治せず’とする格言が生まれています。権力と権威との分離は、むしろ、人類の知恵に基づく上手な棲み分け方法、あるいは、国を纏めるための手段であったのかもしれません。

 このことは、現代にあっては、人類普遍の価値として民主主義が統治の正当性を与える一方で、権威については、統治の分野ほどには、民主化が徹底されている訳ではないことを示しています。世襲の立憲君主国の国王しかり、日本国の天皇しかり、そして、ローマ教皇しかりと言えましょう。立憲君主国の世俗の君主は、イギリスの格言の表現を借りれば‘君臨’すること、即ち、権威とし国家を代表し、国家や国民を纏めることに存在意義があるのであり、この役割を果たすためには、民主主義の原則を厳格に適用する必要性は低いと認識されているのです。なお、スコットランドでのエリザベス2世の葬送の様子は、イギリスという国が、一人の君主がイングランド王とスコットランド王を兼ねる同君連合であることを改めて思い起こさせます(国家統合の役割を果たすと共に、コモンウェルスの枠組みでは国際統合の役割をも担う・・・)。

 そして、権威というものが、たとえ制度化によって永続性を備えていたとしても、それが、権威を権威として認める側の心理に依拠しており、超越性に基づく救心型の構図を採る限り、その本質において不安定で脆弱な存在でもあります。言い換えますと、権威の失墜や喪失が制度そのものを根底から揺るがしかねないのです。とりわけ、君主は世襲のポストですので、この座に座る人のパーソナリティーや人格によって、人々の認識が大きく変わってきます。エリザベス2世亡き後、イギリスでは、共和制支持者による活動が活発化するとも予想されており、世論調査にあっても、若年層では王制の維持を望むのは凡そ3分の1程度に過ぎないそうです。

 王室であれ、皇室であれ、今日にあっては、婚姻によって代を重ねるにつれて血統による高貴さは薄れる一方であり、国民に対して絶対的な超越性を主張することは極めて困難となっています(この点、チャールズⅢ世の子息達の配偶者が明白にユダヤ系や黒人系となるために王統の希薄化はより深刻かもしれない・・・)。また、王族や皇族の個人的な振る舞いやスキャンダルに眉をしかめる国民も多く、これも日英共通の現象です。時代の流れにあって人々の意識が変化すれば、国家統合や国民統合の役割を果たすことも難しくなるのであり、伝統に由来する安定性の観点から民主主義に優先して認められてきた世襲による地位の継承、あるいは、権威そのものの存在に対しても、自ずと疑問符が付いてしまうのです。

 それでは、現代という時代にあって、政府あるいは王室や皇室は、権威の揺らぎに抗うことはできるのでしょうか。仮に国民に権威として認めさせようとすれば、メディア等を介したイメージ操作によって世論を誘導するか、強引に上から強制するしかなくなります。しかしながら、世論誘導であっても、自由主義国でこの手法を用いますと、報道がどこか北朝鮮風味とならざるを得ません。英国であれ、日本国であれ、王族や皇族について報じる際には、必ずや誇張された美辞麗句や暗に国民に共感を求める言葉が添えられており(‘国民から○○の声’という表現も多い・・・)、違和感や白々しい印象を与えています。また、新興宗教団体等を動員力として用いているとの指摘もあり、その不自然さに、国民は、お芝居を観せられているような感覚に襲われるのです。

 もう一つの方法は、今般、エリザベス2世を踏襲してチャールズ新国王が即位に際して述べたように、国民への奉仕を誓うというものです。中世の封建契約に際しては、主君に対して家臣が忠誠と奉仕を誓いましたので、現代では、主従関係が逆転していることとなります。近代にあっては、啓蒙君主として知られるプロイセンのフリードリッヒ大王が自らを「国家第一の僕」と述べましたが、民主主義が定着した現代では、君主は、自らを「国民第一の僕」、すなわち、国民の奉仕者として位置づけることにより、国民の支持を得るのです。もっとも、この方法でも、行動が伴わなければ、権威、否、超越性や求心力の低下は避けられないのかもしれません。

 何れにしましても、ネットが普及した情報化時代を迎え、権威一般の維持が極めて難しい時代にあって、君主制もまた、その維持が困難な状況に直面しているようです。‘民主制は共和制なり’、あるいは、‘君主は僕なり’といった、本来、悪しき二重思考となりがちな二律背反を曲がりなりにも両立させてきたイギリスの体制は、果たして、今後、どのような方向に向かうのでしょうか。それは、国王の権威がイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドによって構成される国家、並びに、コモンウェルスを束ねてきただけに、将来における同国の国家及び国家連合の統合の形態をも問うているように思えるのです。

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英女王国葬に見る国家間序列の問題

2022年09月12日 15時24分01秒 | 統治制度論
国際社会における重要な原則の一つは主権平等であり、表向きは、各国の立場は平等です。国際法における法人格としても、日本国と英国の関係も対応なはずなのです。しかしながら、現実の国家間には序列なるものが存在するようであり、とりわけ、歴史的経緯があったり、王室や皇室を維持している国の間では、おぼろげながら上下関係が浮かび上がってくるのです。

アメリカのバイデン大統領の故エリザベス女王の国葬への出席は、アメリカにはWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)とも称されてきたイギリス系の市民が多く、かつ、独立を勝ち取ったとはいえ、かつてイギリスの植民地であった州も少なくないという事情もあるのでしょう。あるいは、英国からの招待状が届いた以上、米英同盟の歴史的な絆からして断るという外交的な選択肢はなかったのかもしれません。英国ではなく、他のアジア・アフリカの途上国において元首が亡くなったとしても、全ての国葬にアメリカ大統領が出席するわけでありませんので、米大統領の出席は、イギリスがアメリカにとりまして特別な国であることを内外に示しています。

それでは、日本国はどうでしょうか。日本国の場合には、アメリカとはかなり様子が違っているように思えます。メディアでは、英王室と日本の皇室との親交や交流に焦点を当てて、その親密ぶりを積極的に報じています。家族同然のお付き合いであったことを強調するために、平成時代には、天皇がエリザベス女王宛ての手紙に‘ディア・シスター’と呼びかけたとする逸話を披露し、お互いに‘シスター’、‘ブラザー’と呼び合っていたのではないかと推測する記事も見られます(もっとも、この呼び方には、どこか修道会あるいは秘密結社的な響きがある・・・)。また、今上天皇夫妻をはじめ日本の皇族の多くが英国に留学し、同地で過ごした経験があることも、両者が親交を温める機会となったのかもしれません。

こうした王族と皇族との‘家族ぐるみのお付き合い’が、今般の英国国葬への天皇夫妻出席の理由としたいところなのでしょうが、相手国が常々二面性を併せ持つイギリスなだけに、日英関係にも表と裏があるようにも思えます。とりわけ、明治維新の経緯、並びに、明治天皇から上皇までの歴代天皇が英国王からガーター勲章を授与されている点からしましても、イギリスの王室と日本国の皇室との間が対等であるのか、極めて疑わしい限りなのです(仲良しのふりをした‘虐め’や‘手下化’も世の中には多々ある・・・)。因みに、イギリスは、かつて、植民地に対して現地の有力者の子弟を自国の学校や大学に留学させるという政策を推進していました。

そもそも死は穢れとされるために神道を司る天皇の葬儀出席は憚られることであり、これまで、日本国の歴代天皇が、君主の逝去といえども海外の葬儀に参列したことはなかったはずです。今般の今上天皇国葬参列は、それが実現するとすれば異例中の異例であり、イギリスは、皇室にとりまして‘特別の国’であることを示すこととなります。

天皇の国葬参列は、国際社会における日英間の‘序列’というものを意識しますと、いささか考えさせられてしまいます。昭和天皇の大喪の礼におけるイギリス側の出席者は王配のフィリップエディンバラ公であり、女王自らが出席することはありませんでした(先の大喪の礼では、欧州の君主としてはベルギー国王、スペイン国王、スウェーデン国王、ルクセンブルク大公が出席・・・)。この非対称性は、英国が日本国より格上であることを意味します。そして、今上天皇の即位直後に予定されていた訪英は立ち消えとなりましたが、同天皇が未だにガーター勲章を授与されていない状況にありますので、今般の国葬出席は、同時にチャールズ新国王からガーター騎士団の一員に叙される機会となるのかもしれません。

加えて、さらに深刻な問題は出席諸国同士の席次問題です。現代においては相当薄まっているとは言え、儀式には、否が応でも、席次における‘序列’というものを意識せざるを得ません。古来、国際的な外交儀礼では、上座や下座の位置などが厳格に定められており、様々なマナーを守るよう求められます。日本国でもそうあったように、位階秩序を基本形とする封建制、あるいは、冊封体制にあってはとりわけ上下への拘りが強く、その場に並ぶ人たちの立ち位置を見れば序列がすぐに分かるとも言います。席順については、必ずや不満を抱く参列者が現れますので、紛争の種を蒔くようなものなのです(国名のアルファベット順にするという方法もありますが、それでも、不満が残るかもしれない・・・)。

以上に、日本の皇室とイギリスの王室との関係から国家間の序列問題について見てきましたが、今般の天皇夫妻の国葬参列は、日本国は英国の下位、もしくは、席次によっては特定の外国の下位にあるとするイメージを国際社会に与えてしまうリスクがあります(席次が中国の下位に置かれる可能性も・・・)。‘世界’の王族や皇族から成る‘ロイヤル・ソサエティー’における序列が国家間の序列にも影響を与える現状は、下位に置かれる側の国、並びに、一般の国民にとりましては決して望ましい状況とは言えないように思います。

また、たとえ将来の大喪の礼にあってチャールズ新国王が参列し、日英間の対等性が実現したとしても、王族や皇族のメンバー間のパーソナルな関係が国家間の関係にも波及するとなりますと、これもまた政治問題となりましょう(天皇の対外的公平性の喪失、二重外交、並びに民主主義の否定に・・・)。仲の良い対等なお友達であればまだしも、長老の序や相性によっては外交関係にもひびが入りかねない事態となるからです。かくして国際社会における王室・皇室の序列問題は、位階制度を引き継いでいる君主制あるいは権威主義的位階秩序と、対等性や独立性を重んじる現代という時代との間の齟齬をも問いかけているように思えるのです。

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