万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

パリオリンピック開会式と‘世界政治’

2024年07月31日 17時41分34秒 | 国際政治
 目下、フランスの首都パリでは、スポーツの祭典であるオリンピックが開催され、参加各国の出場選手達がメダルを競っています。その一方で、同大会の開会式の演出が物議を醸しており、賛否両論の議論が続いています。とは申しましても、同演出をめぐる対立構図は、およそ主催者側となる世界権力対人類一般として描けるかも知れません。前者がパネー・パワーにおいて超絶している一方で、後者が人数において圧倒しており、この二つの極端な‘アンバランス’による‘バランス’において両者の支持が拮抗しているのです。

 人類全体からすれば極少数でありながら、他の全ての人類を抑圧できるほど、マネー・パワーの支配力は絶大です。そして、これら少数の陰の権力者達の思想や世界観は、パリオリンピックの開会式にあって見事なくらいに表現されています。批判を浴びることとなったグロテスクで倒錯した世界を全人類に見せつけようとするのですから、同演出は、世界権力の傲慢さの裏返しでもあるとも言えましょう。他の一般の人々が嫌悪感や不快感を懐こうとも、自分たちさえ楽しめればそれで満足であり、むしろ他者の不快な反応を見て楽しんでいるのかも知れないのです(嗜虐性の高いサディズム・・・)。

 オリンピックの開会式とは、今や世界権力が製作した自らの未来ヴィジョンを宣伝するプロモーションビデオと化しているのですが、この側面は、今日の政治を見れば一目瞭然です。何故ならば、日本国を含め、世界権力のネットワークに組み込まれた世界各国の政府の大半が、同権力が志向する未来ヴィジョンの実現に向けて一斉に動いているからです。とりわけ世界権力がマネー・パワーの鞭で叩いても各国政府に実行させようとしているのが、LGBTQ政策の推進です。パリオリンピック開会式の最大のテーマは、スポーツではなく、まさにこのLGBTQです。例えば、昨年の2023年6月に、日本国内にあってLGBT理解推進法が制定されたのも、背後から世界権力からの相当の圧力があったのでしょう。アメリカやヨーロッパ諸国の政治の現状を見ましても、同問題は、重要な政治課題の一つとされています。

 その一方で、防衛、安全保障、社会保障、税率、教育、治安の改善など、重大な政治問題が山積されています。LGBTQ問題は、直接に関係する当事者は少数ですが、一般の政治問題は全国民に直接的に関わるからです。それにも拘わらず。政府はマスメディアと結託し、同問題に国民の関心を集中させようとするかのようです。LGBTQに加えて、政府が熱心に取り組んでいるものがあるとすれば、デジタルや環境といった世界権力が利権を有すると共に、同勢力の人類支配体制の整備に役立つものばかりなのです(戦争推進政策もその一つ・・・)。言い換えますと、政治は、今や世界権力が決定した狭い範囲のアジェンダに閉じ込められ、民主主義は風前の灯火となっているのです。

 それでは、何故、かくも世界権力は、LBGTQに拘るのでしょうか。おそらく、この問題こそ、人類を野蛮な時代に回帰させ、自らの世界観を他者に強制するためには必要不可欠な要素と見なしているからなのでしょう。否、性別を否定するのですから、人類どころか、無性生物の時代にまで逆戻りさせたいのでしょうか。この問題については、より深い考察が必要なようなのです(つづく)。

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パリオリンピック開会式から読むグローバリストの理想

2024年07月30日 10時08分32秒 | 国際政治
 パリオリンピックの開会式は、それが余りにも狂気と冒涜に満ちていたため、全世界に波紋を広げることとなりました。かつてのオリンピックは、国威発揚に利用するほど、開催国が自国の歴史、伝統、文化のすばらしさをアピールする絶好の大舞台でもありました。過去と現在とを比較しますと、まことに隔世の感があります。逆に、開催国の国民感情を逆なでにし、愚弄しているようにも見えるのですから。

 開会式の演出に対する嫌悪感が広がる中、開催国フランスのマクロン大統領は弁明に追われることともなったのですが、同大統領による反省の弁を聞きますと、グローバリストの世界観がそれとなく伝わってきます。何故ならば、同大統領は、開会式を擁護するに当たって‘進歩的な演出’と表現しているからです。この言葉には、‘開会式は人類の未来を先取りする先進的な演出であったにも拘わらず、一般の人々はその価値が分からずに残念であった’とする認識が滲み出ています。つまり、批判が沸き起こった原因は、‘未来’を理解できない遅れた一般の人々にある‘と言わんばかりなのです。

 それでは、人類の‘未来’がパリオリンピックの開会式にあって表現されているとしますと、人類の多くはこの未来ヴィジョンを歓迎し、喜んで同意するのでしょうか。おそらく、大多数の人々は、‘NON’と応えるように思えます。何故ならば、この未来ヴィジョンは、人類の一般的な理性からも美意識からも道徳心からも逸脱しているため、同演出を楽しめるメンタリティーを持つ極一部の人々にしか共有されていないからです。仮に、同ヴィジョンが、人類がその実現を心待ちにする理想的な未来であったならば、同開会式への反応は賛意一色であったことでしょう。むしろ、その倒錯した病的な世界観に、キリスト教徒のみならず、多くの人々が言い知れぬ嫌悪感と拒否感に襲われたのです。

 そして、グローバリストの基本的な戦略モデルが‘メビウスの輪’であるとしますと、マクロン大統領の言う‘進歩’の先もうっすらと見えてきます。キリスト教への冒涜とされた最後の晩餐のパロディーでは、中央に座るイエス・キリストをはじめ、描かれている人物達は、古代ギリシャ神話に登場するオリンポスの神々に代えられています。このシーンは、オリンピック発祥の地は古代ギリシャですので、多神教の世界である‘古代に帰れ’というメッセージなのかもしれません。そして、殆ど裸に近い‘アーティスト達’の登場も、未来の世界が、文明以前の自然状態に近いことを表しています。旧約聖書の『創世記』には、禁断の木の実を食したアダムとイブが服を着るようになったとする記述がありますが、実際に、動物にはない人類の特徴の一つは被服です(人類に最も近いとされるチンパンジーやボノボでも服は着ていない・・・)。これらの演出は、‘進歩’という言葉とは、その実、人類が他の動物たちと同じ姿で生活をしていた野生時代への逆戻りであり、“未来志向”とは、文明亡き野蛮な時代への回帰であるのかも知れないのです(グローバリストは独裁好きですので、‘猿山’となるかも知れない・・・)。

 道徳や倫理とは、文明の発展と共に人類が共有するようになった、相互に安全を護り、利己的他害行為を抑止するための社会的な規範や知性の働かせ方ですので、グローバリスト達は、文明そのものを破壊してしまえば、犯罪を含む一切の非道徳的な行為や社会的な常識、マナー、慣習等も守る必要もなくなると考えているのでしょう。無秩序で混沌とし、家族制度もなく、殺人も暴力もお咎めなしの世界こそ、彼らの描く理想郷と推察されるのです。

 そして何よりも警戒すべきは、全人類が、グローバリストが理想とする世界に引きずり込まれる事態です。今日、絶大なマネー・パワーで各国の政府を自らのコントロール下に置きつつ、マスコミを介して世論を誘導し、社会全体を変えようとしているのは、これらの世界権力者達であるからです。この残念な現実は、仮に、世界権力が命じる通りに政府が政策を実施したり、法改正を行なった場合、その国の国民は、グローバリストの未来世界に連れて行かれてしまう、あるいは社会が一変し、気がついたときにその世界で生きざるを得なくなっていることを意味します。

 パリオリンピックの開会式は、グローバリストの未来ヴィジョンが披露されたことで、図らずも、人類にこの深刻な危機を知らしめることとなったのではないかと思うのです。あるいは、フランス一流のエスプリを利かせた暴露であったのでしょうか(つづく)。

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パリオリンピック開会式―冒涜を楽しむ狂った精神

2024年07月29日 09時02分15秒 | 国際政治
 オリンピックには、オリンピック憲章にも謳われているように、かつては全世界の諸国が集う平和の祭典にして、スポーツマンシップやフェアプレーを学ぶことを通して青少年の健全な身心の成長を支えるとする意義がありました。それ故に、開催国のみならず各国とも公費を投じて同イベントを支援し、選手の育成にも努めてきたと言えましょう。しかしながら、今般のパリオリンピックの開会式を見る限り、オリンピックは、既に曲がり角を通り越して奈落の底にむかっているようにも見えます。

 オリンピック見直し論は今に始まったわけではなく、既に前回の東京オリンピックなどでも議論されています。もっとも、過去の議論は、どちらかと申しますと、商業主義への過度な傾斜、オリンピック利権の肥大化、そしてこれらを背景とした腐敗体質が問題視されていました。ところが、今般のパリオリンピックは、オリンピックの存在意義を根底から崩壊させかねないレベルに達しているのです。

 先ずもって今般の開会式を見て、平和の祭典に相応しいと感じた人は殆どいなかったのではないでしょうか。フランス革命にあってギロチン台の露と消えた王妃マリーアントワネットの演出は、平和どころか、血なまぐさい暴力と無慈悲な虐殺を想起させます。しかも、同妃は、オーストリアのハプスブルク家からフランスのブルボン家に嫁いだため、フランス革命の最中、国王を含む家族と共に共にオーストリアに逃亡しようとして失敗しています。このヴァレンヌ逃亡事件が、その後、フランス革命が革命戦争へと国境を越えて拡大する契機ともなりました(1791年における神聖ローマ皇帝レオポルド2世とプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世によるピルニッツ宣言・・・)。フランス史の一場面としてフランス革命をアピールしたいのであれば、市民によるバスチーユ行進と言った他のよく知られた出来事でも構わなかったはずです(オリンピックはスポーツの祭典なので、‘テニスコートでの誓い’も一案・・・)。

 また、今日、アメリカ大統領選挙にあってカマラ・ハリス氏が女性候補として注目されていますが、同氏が大統領候補として選ばれた背景には、ジェンダーの平等が重要な政治問題と見なされてきたからです。オリンピックはグローバル色、つまり、リベラル色が強いイベントですので、この観点からすれば、女性が持ち上げられこそすれ、処刑された姿で現れてはならないはずです。ところが、今般の演出では、国王ルイ16世ではなく、女性である王妃の生首が強調されています。つまり、同演出は、表向きは女性の味方をよそおいながら、その実、自らの敵と見なせば女性であっても情け容赦のないリベラルの本質を表しているとも言えましょう。

 そして、パリオリンピックの開会式おいて多くの人々が眉をひそめることとなったのは、キリスト教を揶揄するような演出です。レオナルド・ダ・ビンチの名作、最後の晩餐は、女装でパフォーマンスを行なう「ドラァグクイーン」によって多神教の饗宴と化してしまったのですから。このため、同演出は、とりわけキリスト教に対する冒涜として批判を浴びています。マクロン仏大統領は、慌てて‘式典は多様性を意識した進歩的な演出’として懸命に擁護していますが、仮に、同演出が、イスラム教の教祖であるマホメットを題材としたのであれば、ただ事では済まされないことは火を見るより明らかです。フランスでは、2015年に、マホメットを風刺したばかりに雑誌の編集長や風刺漫画家等がイスラム過激派によって殺害されたシャルリー・エブド襲撃事件が起きています。特定の宗教に対する冒涜とも解される行為は流血のリスクを伴うのですから、常識的に考えれば、オリンピックの開会式にあって最も避けるべき表現であったと言えましょう。多様性をアピールしたいのであれば、他者を侮辱するのではなく、相互尊重の精神、あるいは、普遍的な人類愛を、誰の心をも温かくするような演出をもって表現すべきであったはずなのです。

 これらの他にも、同オリンピックの開会式の演出は、カルトじみた狂気に満ちていたそうなのですが、同開会式の映像を前にして奇声を挙げながら手を叩いて喜んでいる小悪魔達の姿が、どうしても頭に浮かんでしまいます(大悪魔はその後ろでほくそ笑みながら座っている・・・)。これを心から楽しめるとすれば、それは、神聖なるもの、健全なるもの、穏やかなるもの、心やさしきもの、こうした善きものの全てが疎ましく、これらを破壊することをもって喜びを感じる極少数の人々なのでしょう。そして、このことは、オリンピックもその開会式も、人類のためにではなく、グローバリストをはじめとした極少数の世界権力のために開催されていることを強く示唆しているのです(一般の人々には分からないメッセージが隠されている可能性も・・・)。

 パリオリンピックの開会式から漂うのは、冒涜を楽しむ狂った精神です。そして、この冒涜の対象は、今や冒頭で述べた近代オリンピックの精神にも及んでいるのであり、今日のオリンピックは、自ら船底に穴を開ける‘愚者の船’となりつつあるのではないかと思うのです。

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‘陰謀論’が崩壊した日―トランプ前大統領暗殺未遂事件

2024年07月26日 10時41分53秒 | 国際政治
 次期アメリカ大統領の選挙戦の中に発生したトランプ前大統領暗殺未遂事件の影響は様々な方面に及び、人々の認識をも変えつつあります。同事件を契機として変化した認識の一つとして挙げられるのが、多くの人々が陰謀の実在を実感するようになったことではないでしょうか。同事件の前と後とでは、陰謀肯定派と陰謀否定派の比率が逆転しているようにも思えるのです。

トランプ前大統領暗殺未遂事件については、政府とメディア、並びに、捜査当局も、クルックス容疑者による単独犯行として最初から決めつけているようです。しかしながら、この説明を鵜呑みにして素直に信じる人は、それ程には多くはないことでしょう。今日、ネット上では、誰もが組織犯罪説の傍証となるような情報を容易に入手することができます。

例えば、クルックス容疑者と世界最大の資産運用会社であるブラックロックとの関係がCM出演から明らかとなったのみならず、同社関連の投資会社が、事件の発生直前にトランプ関連企業株を大量に空売りしていたとする情報もあります。同社は単純なミスと弁明していますが、その動きが事件直前だけに、同事件を予め知っていた、あるいは、仕掛けたとする疑惑がもたれているのです。

 また、こうした金融勢力の不可解な行動やクルックス容疑者を取り巻く疑惑に加え、銃撃現場で記録された銃声音の分析は、同容疑者の銃以外からも発砲があった可能性を強く示唆しています。トランプ前大統領の耳に残る傷跡からしても不自然であり、別の所に潜んでいたプロの暗殺者による特殊な銃による射撃であったとする説も、あながち間違ってはいないのかも知れません。

 メディア各社の、いかにも世論誘導感を狙っている報道ぶりもむしろ怪しさが増す逆効果となっているのですが(‘隠れたるより現るるはなし’)、とりわけ、事件が発生したアメリカ以上に陰謀の実在性が実感したのは、日本国民であったようにも思えます。何故ならば、同暗殺未遂事件は、安部元首相暗殺事件に極めてよく似ていたからです。暗殺未遂事件発生直後から、クルックス容疑者と山上容疑者の服装まで酷似しているとの指摘があり、確かに、両者ともにグレーのTシャツとカーキ色のボトムという服装です。単なる偶然の一致とは思えず、前者が後者を模倣したとする説もありますが、両者に見られる共通性は、両者が、共に同一のグローバルな組織的な繋がりを持っていることを示しているとも言えます。否、人物像や生活パターン等にも共通点が見られますので、両者ともに、何らかの基準に照らして‘選ばれた’とする推理も成り立ちましょう。

 また、上述したようにトランプ前大統領は複数の暗殺者により別角度から射撃された可能性が高いのですが、安部元首相暗殺事件においても同様の不自然さが報告されています。この点については、後者の不自然さはより明確であり、山上容疑者による単独犯行は物理的に不可能と言わざるを得ない状況にあります。アメリカから元大統領暗殺未遂事件発生の一報が入ったとき、多くの日本国民の脳裏には、安部元首相暗殺事件が過ったことでしょう。そして、トランプ前大統領暗殺未遂事件にあって組織的犯行である可能性が高まるにつれ、日本国政府とメディアが結託し、必至になって押さえてきた安部元首相暗殺事件組織犯説の蓋も開いてしまった感があるのです。

 安部元首相暗殺事件が発生後にあって、メディアのみならずネットなどでも組織犯説は、フェイクニュースやデマに騙されやすい人々の戯言扱いされ、‘陰謀論’として嘲笑される嫌いがありました。しかしながら、アメリカにあって暗殺未遂事件が起きた今日、同事件が組織犯であったとする説の方が、余程、合理的に事件を説明することが出来ます。科学的分析結果も組織犯説を強く示唆しているのですから。そして、両者の共通性は、組織的に暗殺を計画し得る勢力が、グローバルなレベルで暗殺計画を実行し得ることを示してもいるのです。

 かくも陰謀の実在が明るみとなりながら、政府やメディア等による世論誘導に乗せられてしまうのでは、『裸の王様』に登場する、見て見ぬ振りをする大人達を笑えなくなります。政府やメディアが国民を騙し、害する存在であることが判明してしまった今日、これらの声を信じるよりも、自らにかけられた洗脳を解き、内なる理性や良識を信じる方がよほど自らの身も社会の安全も護られます。政府やメディアが世界権力の出先機関に過ぎない以上、‘信じる者は救われない’時代を生きているのですから。

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神はトランプ前大統領に味方したのか?

2024年07月25日 11時48分28秒 | 統治制度論
 次期大統領選挙の遊説中にあった7月13日に、トランプ前大統領が銃撃された暗殺未遂事件は、直後にガッツポーズをもって自らの無事をアピールしたことから、同候補のへの支持率を跳ね上げることとなりました。物理的な抹殺を狙う暗殺という暴力手段にも屈しない不屈の精神をアメリカ国民に見せつけたからです。トランプ前大統領の当選が確定したかの勢いを前にして、同事件の責任を問われている現職のバイデン大統領では選挙は勝てないと判断した民主党陣営は、急遽、現職のバイデン大統領からカマラ・ハリス氏に取り替え、マネー・パワーを動員し、総力を挙げてハリス候補を推しているようです(バイデン大統領の撤退は、本人の意思によるものかどうかは不明・・・)。

 ハリス氏が正式に民主党の統一候補者として指名されているわけではないものの、ロイター社やAFP社等の世論調査によりますと、現状にあっては、トランプ前大統領とハリス候補との支持率は逆転し、後者がリードしているともされます。もっとも、過去においてマスメディアがヒラリー・クリントン氏優勢を報じつつ、トランプ前大統領が勝利した前例もあります。マスメディアがマネー・パワーの世論誘導・情報統制機関と化している現状からしますと、同世論調査の信憑性は疑わしいのですが、日本国内のメディアも手の裏を返すようにハリス氏推しに転じていますので、グローバルレベルで巨額の‘選挙資金’が投入されているのでしょう。そもそも、どちらが優勢であれ、数パーセントの僅差で両候補の支持率が拮抗する選挙戦の構図自体に、どこか、不自然さが漂っているのです(不正選挙を誤魔化しやすい?)。

 さて、以上に述べてきたように、トランプ前大統領暗殺事件は、大統領選挙に民主党陣営の候補交代という多大な影響を与えたのですが、トランプ大統領の支持率が上昇した理由は、冒頭で述べたガッツポーズの画像のみではありません。もう一つ、要因を挙げるとすれば、それは、同候補の‘生還’が奇跡的であったことです。仮に、銃弾が僅かでもずれていれば、また、トランプ前大統領が首を斜め方向に傾けなければ、‘トランプ元大統領暗殺事件’として歴史の教科書に記されることでしょう。命が助かる確率は決めて低く、このため、神意によってトランプ元大統領の命が救われたとする見方が生じたのです。

 “神の御業”説は、アメリカにおける一大新興宗教団体にしてトランプ陣営の支持団体でもある福音派の信者の人々の信仰心を一層高めたことでしょう。その一方で、一般の国民に対しましても、一定の心理的な影響を与えたことは想像に難くはありません。何故ならば、トランプ前大統領は、‘ディープ・ステート’の名をもって、アメリカを裏からマネー・パワーでコントロールしようとする世界権力を批判してきたからです。‘ディープ・ステート’と言えば、グローバリズムの強力なる推進によりアメリカの中産階級を破壊した‘元凶’と見なされていますし、戦争ビジネスの最大の受益者でもあります。かつ、エプスタイン事件に象徴されるように人身売買、麻薬、汚職といったあらゆる犯罪の総元締めとも目され、嘘か誠か、しばしば秘儀的なカニバリズムも指摘されています。いわば、陰謀の巣窟にして悪魔的な存在として一般的にはイメージされていると言えましょう。

 アメリカの歴代大統領の大半が‘ディープ・ステート’の手先であり、同勢力に抵抗する大統領が暗殺などで排除されてきたとすれば、トランプ前大統領は、初めてその存在を認め、同勢力との戦いを表明した大統領と言うことになります(もっとも、アイゼンハウアー大統領が軍産複合体として示唆・・・)。トランプ前大統領に‘正義の味方’、あるいは、‘悪党に戦いを挑む英雄’の役割を期待するのは、今日、誰もが制御できない魔物と化した世界権力への批判の裏返しでもあります。言い換えますと、少なくない人々が、トランプ前大統領に、巨悪と戦う‘アメリカン・ヒーロー’のイメージを重ねているのです。

 今般、奇跡的に一命を取りとめたトランプ元大統領に神意が現れたとする見解は、トランプ大統領自身が神の如き不死身の存在であるというよりも、同氏を生かしめたのは、とりわけ民主党内に巣くっている‘ディープ・ステート’の成敗を神が望んでいる印、ということになりましょう。同見解に従えば、神が求めるトランプ元大統領の役割とは、人類の奴隷化を目論む拝金主義の権化でもある世界権力からアメリカ国民を救い出すことであり、それ故に神のご加護があったということとなるのです。

 神の存在証明が極めて難しいように(現在に至るまで誰も成功していない・・・)、今般の暗殺未遂事件における神意の証明も、殆ど不可能なことなのでしょう。しかしながら、トランプ元大統領に対する国民の期待がサタニックな‘ディープ・ステート’との戦いにあるとしますと、今後の同氏の言動は、支持率に少なくない影響を与えるかも知れません。仮に、巨額のマネー・パワーに籠絡され、その掲げる政策も軌道修正されてディープ・ステート寄りとなるならば、上記の神意説は急速に萎み、期待は落胆に変わるからです(なお、ハリス氏の夫はユダヤ系であり、トランプ前大統領にもユダヤ人脈が付いている・・・)。

 大統領選挙に関する主たる報道内容の一つが両陣営への‘寄付金’となる今日、果たしてアメリカ大統領選挙の結果が判明する日は、民主主義を巧妙に腐敗させるマネー・パワーから解放される日となるのでしょうか。本当のところは、アメリカを含め何れの諸国にあっても、マネー・パワーが事実上、決定権を握ってしまう現行の選挙制度こそ、国民が真剣に考え、全ての候補者が自らの具体的改革案を示し、見直しを急ぐべき最大の政治課題なのではないかと思うのです。

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国庫帰属相続財産を‘教育・研究支援基金’に

2024年07月24日 10時22分59秒 | 日本政治
 近年、日本国内では、‘おひとりさま’、すなわち、一人で暮らしている単独世帯が増加傾向にあります。2040年には全世帯の40%に達するとする予測もあり、戦後の急速な核家族化の流れを背景として、とりわけ高齢者の単独世帯が増えているそうです。このため、子や配偶者等の相続人がいない状態で亡くなるケースも少なくなく、昨年の2023年には、国庫に納められた国庫帰属相続遺産は凡そ768億円にも達しました。統計を取り始めた2013年には約336億円でしたので、わずか9年間で倍にまで増加したことになります。

 単独世帯の数と国庫帰属相続遺産の額が比例的に増加するとしますと、今後とも、後者の額は上昇してゆくものと予測されます。おそらく、1000億円を超える日もそう遠くはないことでしょう。現状では、これらの国庫帰属相続財産は歳入として政府の一般会計に含まれているのでしょうが、この国民が残した財産、より国民のための資金として活用することはできないのでしょうか。

 その一つのアイディアは、日本国の独立行政法人として、次世代のための教育・研究基金を設立するというものです。同基金は、奨学金制度、修学助成制度、並びに、研究支援制度等を兼ねており、政府から独立した機関として運営されるものとします。独立行政法人の形態が望ましい理由は、政治家が運営に拘わりますと、恣意的な予算配分や利権化、あるいは、利益誘導などが起きかねないからです。

 同基金から支援対象者に提供される奨学金や修学助成金については、原則として返済義務のない無償供与とします。今日、融資型の奨学金等には返済義務があるため、少なくない学生が卒業の時点で既に多額の借金を負うことになり、社会問題化していますし、目下、一部国立大学の授業料値上げの方針も波紋を広げています。給付型の奨学金であれば、全てではないにせよ、この問題を緩和することができましょう。

 また、日本国政府は、近年、世界経済フォーラムが目指す未来ヴィジョンに迎合するかのように、カルト風味のムーン・ショット計画を策定しており、研究・開発予算の配分にも著しい偏りが見られます。デジタルや環境関連等の分野への集中投資が他の分野における予算不足を招いており、ビジネスとの直接的な繋がりのない基礎研究に至っては、全く視野に入っていません。一見、無駄なように見えながら、後々、人類にとりまして有用な知識の発見となったり、別系統からの技術的発展の基盤となる事例は多々見られます。グローバリストの好むイノベーションも、既存の研究の延長線上にあっては起きないものですので、あらゆる可能性を残すためにも、研究環境は、集中型よりも裾野の広い分散型の方が適していると言えましょう。こうした研究費不足の問題も、年間の歳入が、数百から一千億円の額となる基金があれば、幾分かは軽減できます。むしろ、政府による支援対象から外されている分野が支援の対象となるのです。

 基金の運営方法については、資金をプールしてその運用益から給付金を支給する方法もありますし、毎年、一定額の運用資金が見込まれるのであれば、プールをせずに同資金をそのまま配分する方法もありましょう。何れにしましても、相当規模の基金が、日本国の教育と研究のために用意されることとなるのです。

 以上に述べましたように、国庫帰属相続財産を教育・研究支援基金とする案は、今日、教育や研究の場にあって直面している問題の解決に役立つのですが、もう一つ、利点があるとしますと、それは、誰一人として相続人、すなわち、身よりがおらず、一人きりでこの世を去る国民の心を慰めるという、精神的な安寧効果です。相続人が存在しないと言うことは、子供や孫といった子孫がいないことを意味します。‘おひとりさま’は、誰にも頼れないために不安に苛まされると共に、次世代に何も残せなかったのではないか、とする後悔や自責の念にかられやすいのです。しかしながら、仮に人知れずにひっそりと亡くなったとしても、自らの残した遺産が僅かばかりでも次世代に役立つと考えれば、何かしらの満足感や安心感をもってあの世に旅立てるかも知れません。基金運営の透明性を確保するためにも、支援対象のみならず、同基金に遺産を残した人々の氏名を貢献者として公表するのも、一案と言えましょう。

 もちろん、同基金は、国庫に帰属する相続人のいない人の遺産のみならず、生きている人々から寄付を受けることも出来ますし、相続人が存在する場合でも、遺言によって寄付先に指定することもできることとします。教育や研究に対する政府の冷遇を嘆く人々も、グローバリストの手先と化した政治家や文部科学省に批判的な人々も、同基金が設立されれば、これを支えてゆくことでしょう。自治としての民主主義の観点からしましても、同基金の設立は、民意に添っているのではないかと思うのです。

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国立大学授業料値上げの支離滅裂

2024年07月23日 11時41分38秒 | 日本政治
 つい数年前までは、高等学校の授業料無償化のみならず、大学の授業料をも無償化すべきとする議論が行なわれていました(2025年度から扶養対象となる子供が3人以上の世帯が無償化の対象に・・・)。ところが、昨今、降って湧いたように国立大学の授業料値上げ問題が持ち上がっています。報道によりますと、国立大学82校のうち、東京大学をはじめとして15校が値上げを検討中、あるいは、検討の可能性を示しているそうです。この流れ、どこか不自然であると共に、何らかの‘思惑’も潜んでいるように思えるのです。

 値上げを実施する主たる理由は、‘教育研究環境の改善’と説明されています。先端技術に関する研究ともなれば、高額となる実験装置や解析装置などを揃えるだけでも多額の資金を要することは想像に難くありません。しかしながら、その一方で、大学の独立法人化の流れと軌を一にして、産学一体化、即ち大学運営のビジネス化が図られてきました。政府の科研費も、‘選択と集中’のかけ声のもとで近未来技術の研究開発に重点的に振り向けられると共に、企業側も、多額の寄付を大学や特定の研究室に行なうことにより、自らの研究開発費を大学に‘外注’するという関係が築かれてきました。大学側は不足がちな研究費を獲得する一方で、企業側も、若くかつ優秀な大学生・院生を自らの‘人材’として利用し、開発コストも削減できるのですから、Win-Winの関係として持て囃されたのです。

 もっとも、同システムでは、企業による大学の私物化、並びに、人材や資材等の私的利用や特定分野への集中投資と言った問題が生じます。これは、学問の自由やあらゆる学問分野を公平に扱うという意味での‘学問の平等’に対する重大なる脅威ともなり得ます。このため、見直しを要する課題でもあるのですが、この傾向は、日本国の大学のアメリカナイゼーションをも示しています。日本国政府が目財しているのは、アメリカ型の大学、とりわけ私立大学なのでしょう。国立大学の独立法人化の実態とは、姿を変えた‘民営化’なのかも知れません。

 なお、入学に際してもマネー・パワーが発揮されるアメリカの大学は、学歴がお金で買える状況をも齎しています(特にハーバード大学などの名門私立大学・・・)。「ALDC(Athletes, Legacy, Dean’s interest list, and Children of faculty and staff)」といった特別枠の設置は、寄付金による他の学生の恩恵等を理由に正当化される向きもありますが、在学生ではない入学の時点で不合格となった若者達は一方的に不利益を被ります。また、イスラエル・ハマス戦争に際して明らかとなったように、大口寄付者が言論の自由を封殺する現象も見られ(学問の自由に加え、言論の自由の脅威にも・・・)、見習うべき制度でもないのです。

 日本国政府の描く大学像がアメリカの大学にあるとしますと、今般の授業料値上げには、理由らしい理由が見当たりません。仮に、大学がビジネス化し、独立採算が説明通りに実現しているとすれば、学生から徴収される授業料以外にも‘営業益’があるのですから、その収益をもって大学は運営されるべきです。それとも、大学と企業との共同開発等のプロジェクトによって生じた収益は、それに携わった特定の研究室のみの資金となるのでしょうか(仮に、大学内にあって研究分野間格差が拡大しているならば、授業料の値上げは、資金不足の状態にある研究分野を救済するため?)。また、アメリカの大学のように寄付金への依存度を高めるならば、大学は、授業料の値上げよりも、寄付金の獲得に務めるべきとなりましょう。

 何れにしましても、国立大学の授業料値上げは、近年の大学改革(改悪?)の方向性からしますと、誰もが納得するような根拠を備えているわけではないように思えます。そして、以上の支離滅裂ぶりに加え、同値上げには、国民的なコンセンサスも欠如しています。今日、日本国の衰退の原因として科学技術分野における予算不足や教育レベルの低下が指摘されています。現状の分析からしますと、国民の多くは、授業料の値上げ案よりもむしろ値下げ案を支持するのではないでしょうか。岸田首相が自らのポケット・マネーの如くに巨額の支援金をウクライナに約束する中、自国にあっては大学の授業料を値上げするともなれば、国民の多くが納得するはずもありません。

 授業料の値上げは、昨今、既に問題視されている奨学金の返済負担をさらに重くしますし、国立大学への進学も経済的な余裕のある富裕層がさらに有利となり、‘特権層’の固定化も予測されます。大学教育への入り口の経済的ハードルを高くすればするほど、日本国の知的レベルや科学技術のレベルも低下することでしょう(巨悪に騙されやすい国民ばかりとなる・・・)。教育は国家の礎でもあり、知性を育み伸ばすことは、延いては国民の心も生活をも豊かにします。誰もが学べる環境を整えることこそ、より広い意味における‘教育研究環境の改善’なのではないかと思うのです。

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人類が知るべきは政治制度の悪用

2024年07月22日 11時57分18秒 | 統治制度論
 ジャン・ジャック・ルソーといえば、根強い全体主義批判はあるものの、民主主義の理論化に貢献した思想家の一人に数えられています。そのルソーが、かのニコロ・マキャベリを評価していることを知ったら、多くの人々がその意外さに驚くことでしょう。マキャベリが執筆した『君主論』には、徹底した合理主義あるいは合目的主義の行き着く先の、目的のために手段を選ばない倫理なきリアルポリティークの世界が待っているからです。ところが、ルソーは、マキャベリは‘善人’であったと確信しているのです。‘君主’への指南書を装いつつ、人民に重大な警告を与えたとして。

 ルソーの表と裏を反転させた見方に因れば、『君主論』は、君主のためではなく、君主達による暴政や狡猾な手段に警戒すべく、人民に予防的な知恵を与えたために書かれた書物と言うことになりしょう。そして、この‘隠された意図’という側面において、ルソーの著作も共通しています。この点に注目しますと、富者の狡猾な誘導などの他に、もう一つ、ルソーの著作には、興味深い文章を見出すことができます。それは、政治制度に関する人類の側の弱点を指摘したものです。

 「だれもかれも自分の自由を確保するつもりで、自分の鉄鎖へむかって駆けつけた。何故ならば、政治制度の利益を感ずるだけの理性はもっていたけれども、その危険を見通すだけの経験を積んでいなかったからです。その弊害をもっともよく予感しえたのは、まさにそれを利用しようと思っている者たちであった。・・・」

以上の文章からしますと、ルソーは、‘自然に帰れ’という端的な標語で表されてきたように、原始時代を人類の理想郷と見なし(ただし、各自が自給自足の孤立状態にあると想定・・・)、政治制度そのものを堕落した人類の産物として完全に否定していたわけではないことが分かります(そもそも、‘社会契約’も、人類に理性が備わっていなければ成り立たない・・・)。理性を備えた人類がその有用性を認識してはいたけれども、同制度に隠されている危険性に気がつくには経験不足であったと述べているのです。そして、制度的欠陥に逸早く気がついたのが、むしろ、同制度の悪用を企てる人々であったが故に、人類は‘政治制度’の悪用者の餌食となり、奴隷的な状況に貶められていると論じたのです。

 ルソーの思想には、理性の評価からして一貫性に欠けるところがあるものの(『人間不平等起源論』では否定的であり、その後に執筆された『社会契約論』では肯定的・・・)、ルソーの作品は、マキャベリの『君主論』と同じように、‘裏読み’する必要があるのかも知れません。ルソーが執筆活動を通して真に人々に伝えたかったことは、善を装った悪への警戒を怠ってはならないこと、そして、人類は悪を見抜くだけの経験を積むべきことであったようにも思えてきます。制度の悪用を見破るだけの洞察力と経験知を持たないことには、人類は、何時まで経っても悪人に悪用されうる制度から抜け出ることはできないのですから。また、ルソーは、別の箇所でこうも述べています。

 「このような進歩の必然性を理解するためには、政治体が設立された動機よりも、むしろそれが実施に際して取る形態と、それが後に引き起こす様々な障害とを考察しなければならない。なぜならば、社会制度を必要とする悪徳は、社会制度の悪用を避けがたいものにした悪徳と同じものだからである。・・・」

 18世紀に執筆された書物でありながら、ルソーの指摘は、現代という時代にも十分に通用するように思えます。例えば、民主的選挙制度がむしろ国民を政治から遠のけているのは、世界各地で見られる極め残念な現象です。また、日本国政府を含む各国政府とも、グローバリズムの推進機関として、国民のためと称しながら様々な制度導入を試みていますが、その多くは悪用のリスクに満ちています。メリット面は説明されても悪用の余地や制度的欠陥については、取るに足りない陰謀論として排除したり、理解不足として片付けてしまおうとするのです。そして、人々は、制度が導入された後になって、後悔することになります。

 政治制度の悪用リスクについては兎角に国民の意識から外されがちですが、将来に向けて人類が必要とする有用な政治的な知識とは、案外、悪用に関するものなのかもしれません。悪用する者など存在しないとする性善説の前提こそ、悪用を狙う者達の誘導あるいは詐術的な‘プロパガンダ’であり、本当のところは、その存在を認め、悪用の手段や手法を知らなければ、改善のしようもないのです。政治制度が、全ての国民に対する統治機能の提供というその本来の存在意義を取り戻すには、グローバリストが振りまく行き先不明の‘未来ヴィジョン’に踊らされるよりも、悪用防止の制度改革という現実的な視点こそ必要なのではないかと思うのです。

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ルソーが語る富者の狡猾な誘導

2024年07月19日 10時18分42秒 | 国際政治
 ルソーの思想は、しばしばフランス革命に理論的な根拠を与える共に、全体主義への道を開いたとされています。ルソーに対する全体主義批判は、その著書、『社会契約説』にあって絶対不可分な‘一般意思’なる概念を提起したことに因るのですが、18世紀という時代を考慮しますと、その過激性や論理矛盾は致し方ない側面もあります。理論上の問題点は別に論じるとしましても、昨日の記事でも述べたように、ルソーの‘悪’に関する洞察は、時代を先取りしているように思えます。否、『人間不平等起源論』では、原始時代の終焉による人類の堕落と腐敗のプロセスを論じたが故に、その鋭い観察力は、表面には現れない内面的な‘悪’をも見逃さなかったのでしょう。何れにしましても、ルソーの著書に見られる指摘には、はっとさせられることが多いのです。

 さて、『人間不平等起源論』には、偽装戦略の他に、もう一つ、ルソーの鋭い観察力が発揮されている記述があります。これも富者による詐術的な手法の一つなのですが、今日、全世界で起きている由々しき現象をも言い当てているように思えます。その文章を以下にご紹介します。

「自分を攻撃した者たちの力そのものを自分のために使用し、自分の敵を自分の防御者にすることであり、自然法が自分にとって不利であるのとちょうど同じくらいに自分にとって都合のよい、別種の確立を彼らに吹き込み、別種の制度を彼らに与えることであった。」

同文章は、私有財産制度の始まりを富者による‘謀略’と見なす文脈において記述されていますので、個々人に対する権利保障の重要性に鑑みれば、ルソーの見解は首肯し得ないのですが、富裕な人々の狡猾さや計算高さはよく説明されています。18世紀のフランス革命を見ましても、‘アンシャン・レジーム’の頸木に縛られ、貧困と抑圧に喘ぐ市民による蜂起として捉えられがちですが、革命によって最も利益を得たのは、近代以降の産業化の波に乗り、商工業で財をなした新興ブルジョアでした(このため、フランス革命は、‘ブルジョア革命’と称されることにも・・・)。市民達の生活苦や貧困の原因は、当時の王制のみならず、他者を犠牲にしても自己利益の追求に走りがちな新興ブルジョアにもあるにも拘わらず、同革命では、富裕層の権利はより厚く護られることとなのです。

 今日のアメリカでも、トランプ前大統領暗殺未遂事件が起き、トランプ前大統領の当選がほぼ確定的となるやいなや、富裕層による同候補への支持の乗り換えが報じられています。例えば、EV事業で巨万の富を築き、総資産が42兆円ともされるイーロン・マスク氏は、事件発生から僅か30分後には、トランプ前大統領への支持を表明し、同候補の政治団体に対して毎月凡そ4500億ドル(約71億円)の寄付を約束しています。勝ち馬に乗ろうとする現象はバンドワゴン効果とも言われ、しばしば選挙では見られるのですが、トランプ氏の支持層は、リベラル派が推進するEVの普及には反対する人々ですので、マスク氏の変心は、同氏のEV事業にとりましては利益相反となるとする指摘があります(ただし、宇宙事業に重心を移すための布石とする説も・・・)。

 トランプ前大統領には、もとより親族を介したユダヤ人脈や大口の寄付者でもあるユダヤ系富豪層との関係もあり、二頭作戦を得意とする世界権力であれば、当然に、共和民主両党に対してマネー・パワーを浸透させていることでしょう。どちらが勝利しても、自らの利益となるように。労働者のための党であったはずの米民主党が、今や「お金持ちエリート政党」に変貌してしまったのも、富裕層による二頭作戦がもたらした当然の結果であったとも言えましょう。そして、新自由主義者が唱える‘自由’も、全ての人々の相互的な自由ではなく、極少数の富裕層の無制限な自由であるのでしょう。

 こうした現象を見るにつけ、上述したルソーの指摘は、なおも富裕層による狡猾な他者、すなわち、‘支持者’の‘使い捨て’が起き得る現代に生きる人々への重大なる警告のように思えてきます。飢える市民が革命の実行部隊として利用されたフランス革命と同様に、今日にあっても、水面下におけるマネー・パワーによって、労働者の怒りや不満は、結果として富裕な金融・産業財閥を護り、一般市民によるグローバリズムへの批判がグローバリストの盾となってしまうかもしれないのですから(目的地と終着地が逆さとなるメビウスの輪作戦でもある・・・。)。

 もっとも、トランプ前大統領については、アメリカ国民のために、同前大統領の言葉を借りれば‘ディープ・ステート’と本気で対決しようとしたため、排除されそうになった可能性はあります。暗殺が未遂に終わったため、計画が狂ってしまったとも推測されるのですが、真相は、未だ藪の中です。何れにしましても、ルソーの警告は、全ての人々が知っておくべき政治的知識なのではないかと思うのです。

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怪物化するグローバリスト-ルソーの洞察

2024年07月18日 10時17分00秒 | 国際政治
 今日、全世界で起きている不可解な出来事の背後には、怪物と化したグローバリストのシルエットが浮かび上がっているように思えます。13日に発生したトランプ前大統領暗殺未遂事件についても、クルックス容疑者と世界最大の資産運用会社であるブラックロック社との関係が取り沙汰されても、今や誰もが驚かないかも知れません。むしろ、点と点がつながり、線となったように感じた人の方が多いことでしょう。グローバリストの隠然たるマネー・パワーは暴力としても顕在化しており、テクノロジーによる強制力も加わって、誰もが手を付けられない‘暴君’と化しているようにも思えます。

 古代ギリシャの時代から、人々は暴君(僭主)の出現を恐れてきたのですが、民主主義の時代に絶対君主さながらの‘暴君’が出現したのは、余りにも皮肉なことなのです。今日に至るまで、多大なる犠牲を払いながらも民主的な制度が発展してきた理由の一つは、他者の生殺与奪の権を握り、権力の私物化と濫用により人々を苦しめる暴君の出現を防ぐ必要性があったからに他なりません。民主的選挙とは、国民が為政者の人事権を持つことによる暴君出現阻止制度としても理解されるのです。ところが、現代民主主義国家のモデルとされ、草の根デモクラシーが根付いてきたアメリカにあっても、知らず知らずの間にマネー・パワーに浸食され、民主主義は風前の灯火のような状態にあるのです。

 かつての暴君とは違い、現代の暴君は、政治の表舞台で君臨するのではなく、姿を見せずに忍び寄る‘ステルス暴君’でもあります。しかしながら、その貪欲な支配欲という本質は変わりなく、また、その支配の手段や手法も似たり寄ったりなところがあります。このため、同問題を考えるに際しては、過去に書き記された暴君を分析した書物や文献も大いに役立つのです。この点、最近、ジャン・ジャック・ルソーが残した『人間不平等起源論』という書物の中に、興味深い一節があることに気がつきました。同書自身は、ルソー自身は否定してはいるものの、“原始時代の自然状態を人類の理想郷と見なした”と解されたため、出版当初より批判を浴びています。また、その‘不平等の起源’そのものや、論理構成にも重大なる難があるのですが、人間社会に対するルソーの鋭い洞察力と分析だけは、人類に警告を与えたという意味で評価されるように思えます。

 それでは、このルソーの分析とは、どのようなものであるのかと申しますと、「・・・自分の利益のためには、実際の自分とはちがったふうに見せることが必要だったのである。あること(存在)と見えること(外観)がまったくちがった二つのものとなった。・・・そして、事実上または表面上、彼の利益のために働くことが自分たちの利益だと思わせるように努めなければならない・・・」というものです。この文章は、取り立てて暴君批判の文脈として書かれたわけではないのですが(人間の一般的な心理傾向として指摘している・・・)、今日のグローバリストの行動様式に照らしますと、まさしくこの指摘が当て嵌まっているように思えてきます。

 今日、日本国を含め全世界の諸国の国民の多くが、政府やマスメディアの誘導によってグローバリズム礼賛の風潮にすっかりと乗せられています。デジタル化は人類に幸福な未来を約束し、地球温暖化問題についても、再生エネルギーへの転換を促進し、ゼロ・エミッションを達成すれば、住みよい地球を人類に約束すると説いています。国連主導のSDGsも、未来に向けた人類の達成目標を設定しており、大きな流れを造っています。そして、何よりも、国境をなくし、あらゆる財、人、サービス、マネー、テクノロジー、情報などが行き交う世界こそ、人類の理想郷であるとアピールしているのです。

 しかしながら、ルソーの警告に耳を傾けますと、グローバルな近未来ビジョンの提示や全人類が協力して取り組むべきグローバル・イシューの設定こそが、グローバリストが自らに利益が転がり込むように経済の流れを誘導すると共に、自分たちが他の人類から礼賛を受けるように仕向けた偽装戦略なのではないか、とする疑いが生じてきます。現状にあって、多くの人々がグローバリストに共鳴し、自らこの目的達成のため自発的に協力しているのですから。

 歴史上の英雄とは、自らを犠牲にしても人々を圧政や魔の手から救う存在でした。ところが、今日、マスメディアが持ち上げる時代のヒーローは、IT大手の創業者やCEO達、あるいは、セレビティーと呼ばれる人々です。サービスの提供者ではあっても、人々のニーズに応えるサービスや製品は他にも数え切れないほどありますので、特別な存在ではないはずにも拘わらず・・・。マスメディアが特別の存在として扱う理由は、その資金力による莫大な‘宣伝費’の投入に加え、デジタル技術や環境・エネルギー利権等が、経済や社会全体を自らの未来ビジョン、すなわち、世界経済フォーラムが描くグローバリストへの集権・集利権構造を固定化する手段でもあるからなのでしょう。

 ルソーが指摘したように‘存在’と‘外観’は違うのであって、この違いを見抜かないことには、人類は、心理操作によってグローバリズムの信奉者にしてグローバリストへの奉仕者にされてしまうかもしれません。人類が大事に育ててきた民主的制度をも食い散らす怪物と化しているグローバリストの暴政から抜け出すには、強固に構築されてきた人類支配の仕組みを冷静に解明すると共に、人類そのものが、知性や倫理性においてグローバリストに優る必要があるのではないかと思うのです。

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トランプ前大統領暗殺未遂事件はやはり組織犯罪?

2024年07月17日 11時35分38秒 | 統治制度論
 本日のニュースによりますと、7月13日に米ペンシルバニア州の集会でドナルド・トランプ前大統領の暗殺未遂事件を起こしたとされるトーマス・クルックス容疑者は、過去において、世界最大とされる資産運用会社であるブラックロック社のCMに出演していたそうです。出演とは言っても、教師の背後にいる生徒の一人として映り込んでいるに過ぎないのですが、同情報から、事件の真相あるいは同事件と取り巻く背景の一端が垣間見られるようにも思えます。

 ブラックロック社とは、創業は1988年ですので老舗とは言えないまでも、今日では、世界最大の資産運用会社として知られています。日本国内にもブラックロックジャパンが設立されおり、世界30カ国70都市を拠点として全世界にビジネスを展開するグローバル企業です。先ずもって驚かされるのは、同社の運用資金の規模です。運用資産残高が日本国のGDPの凡そ2倍、即ち、1000兆円を越えるというのですから驚愕の資金力なのです。

 潤沢な資金力は、同社が絶大なるマネー・パワーを駆使し得る立場にあることを意味してもいます。同パワーが政治に及んでいるのは、民主党バイデン政権の顔ぶれを見ても容易に理解されます。現在、同社出身のブライアン・ディーズ氏が国家経済会議委員長に就任しており、アデワレ・アデエモ氏も財務副長官を務めています。前者のディーズ氏は、2008年にヒラリー・クリントン氏の大統領選挙への出馬に際しては同キャンペーンに参加していますし、オバマ政権時代にも、二期に亘り大統領上級顧問等に任命されるなど、筋金入りの民主党支持者でもあります。後者のアデエモ氏は、ナイジェリア生まれで南カリフォルニア育ちという異色の経歴の持ち主でもありますが、ディーズ氏と同様に、オバマ政権時代にポストを得ると共に、2014年にオバマ財団が設立された際には、初代理事長におさまっています。融合しているかの如き民主党政権との強い繋がりは、同社が民主党の大口寄付者、つまり資金提供者であることからも説明されましょう。

 さらに同社には、世界権力の中枢となるユダヤ系人脈のとの繋がりも見出すことができます。同社は、ローレンス・フィンク氏等がブラックストーン・グループの債権部門として設立したところに始まりますが、フィンク氏は、カリフォルニア州ファン・ナイズ市で生まれ育ったユダヤ系アメリカ人です。熱心な民主党支持者であり(2016年の打倒両選挙でヒラリー・クリントン氏が当選した場合、財務長官の職を望んだとも・・・)、温暖化ガス排出ゼロに向けた運動の推進者でもあります。その一方で、サウジアラビアにおける天然ガスのパイプライン事業への巨額投資や森林破壊などが、矛盾した行動として批判されており、ここにも、世界権力と共通する地球温暖化問題を利用した利益誘導が伺えるのです。因みに、フィンク氏と共に同社の共同設立者となったロバート・S・カピト氏やスーザン・ワグナー氏等もユダヤ系アメリカ人です。

 ブラックロック社の桁違いの資金力が、政界での猟官に使われたことは疑いようもないのですが、それは、アメリカ一国の公職の事実上の‘買収’のみではないのでしょう(アメリカ政治の現状は、猟官どころか買官制度のようにも見えてくる・・・)。日本国内でも与野党を問わずに政界がグローバリストの支配下にあるとする批判が起きているように、全世界の政府やメディアに対する‘買収資金’としても使われているのでしょうし、様々な歴史の転換点となるような‘事件’を起こすことも、その資金力からすれば不可能ではないように思われます。そして、ユダヤ系金融勢力によるマネー・パワーによるグローバルレベルの政治への介入は、ブラックロックに限ったことではなく、また、そのパワーは、共和党にも及んでいることでしょう(ユダヤ系金融勢力は、アメリカ政界全体に浸透している・・・)。

 今般のトランプ前大統領暗殺未遂事件にあって犯人とされるクルックス容疑者によるブラックロックのCM出演も、‘たまたま出演していた‘、すなわち、‘偶然’とは思えません。おそらく、同CMに出演した2022年時、もしくは、それに遡る高校時代に理数系優秀者として表彰されたときから、利用し得る‘要員候補’としてマークされていたのかも知れません(暗殺計画に協力して現行犯として逮捕されても、精神鑑定で無罪となると説明?)。あるいは、実のところ、安部元首相暗殺事件の山上容疑者のように、世界権力の下部組織でもある何らかの新興宗教団体の信者、あるいは、その家族であった可能性もありましょう(この場合、教団への批判や反発ではなく、教団の指令、あるいは、目的のために‘犯人役’を引き受ける・・・)。

 同容疑者のブラックロックCM出演は、同事件がクルックス容疑者による単独犯行ではなく、背後にあって世界権力が蠢く組織的犯行であった疑いをさらに強めています。そしてそれは、グローバルなマネー・パワーに易々と支配されてしまうという、今日の統治制度並びに社会の有り様の致命的な欠陥をも明らかにしているように思えるのです。

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トランプ前大統領暗殺未遂事件の目的は内乱誘発?

2024年07月16日 10時26分03秒 | アメリカ
 ドナルド・トランプ前大統領に対する暗殺未遂事件は、政治の場に暴力を持ち込んだとする批判を巻き起こしています。次期大統領選挙にあって最大のライバルにして、同事件のバックとして最も疑われる立場に置かれてしまった民主党のジョー・バイデン大統領も、翌14日には、ホワイトハウスの執務室から演説し、政治的暴力を強い口調で批判しました。「このような暴力はアメリカにあってはならならない。どのような暴力も絶対にあってはならない」と・・・。

 暴力が支配する時代は、既に過去のものとなったように見なされがちですが、現代という時代に生きる人類は、整えられた制度をもって暴力を上手に封じ込めているのでしょうか。過去の出来事であると信じているからこそ、人々は、謀略や陰謀などもあり得ないと思い込むのでしょう。しかしながら、グローバリズムの浸透による国家の統治システムが揺らぐ今日は、むしろ、謀略や陰謀を含めた政治的暴力の脅威が増しているようにも思えます。アメリカにおける政治的暴力は、リンカーン大統領やケネディー大統領の暗殺事件に見られるように今に始まったことではないのですが、今般のトランプ前大統領暗殺未遂事件は、第三次世界大戦の足音とも言える不穏な空気が流れている時期だけに、同事件の背景には、政治的意図を想定せざるを得ないのです。

 第一次世界大戦は、サラエボでの一発の銃声が引き起こした惨事でしたし、第二次世界大戦前夜あってヒトラーが政権を掌握する過程でも、陰謀めいた国会議事堂放火事件や水晶の夜などが発生しています。何らかの事件をきっかけに世界大戦に発展したり、国家体制が一変した事例は歴史に散見され、それは、偶然の出来事とは思えなないものばかりです。それでは、今般の暗殺未遂事件には、どのような政治的な意図があったのでしょうか。

 目下、ネットなどでは様々な憶測が飛び交っていますが、最も可能性の高い有力説は、民主党陣営によるトランプ前大統領の暗殺となりましょう。トランプ前大統領とバイデン現職大統領が一つしかない大統領の椅子を争っているですから、誰もが、自ずと民主党陣営による犯行を疑ってしまいます。しかも、バイデン大統領は、同事件に先立つ8日に、大口献金者との電話にて「トランプに照準を合わせる時だ」と発言したと報じられたため、共和党のマイク・コリンズ下院議員に至っては、ソーシャルメディアに「ジョー・バイデンが命令した」と書き込んだそうです。その一方で、共和党陣営による自作自演説もないわけではありませんが、演説会場で撮影された動画を見る限り、少なくともトランプ前大統領自身は、事前に銃撃が知らされていたとは考えられない反応を見せています。

 共和党対民主党の対立構図からすれば、民主党陣営が‘第一容疑者’となるのですが、もう一つ、政治的意図を推測するとすれば、それは、世界権力によるアメリカにおける内乱の誘発であるかもしれません。このように推測する理由は、事件発生後、先ずもってトランプ前大統領が訴えたのは、‘国民の団結’であった点です。この発言の背景には、同事件を切っ掛けとした国家分裂に対する危機意識があったことを示しています。また、バイデン大統領も、同発言に呼応するかのように「われわれは一つの国家として団結しなければならない」と述べて‘団結’を促す方向に転換しています。両者とも、対立のエスカレーションを避けるべく、事態の沈静化に動いているのです。

 以前より、アメリカは内戦の危機が指摘されていましたが、同事件は、内戦を誘発したい勢力にとりましてはまたとないチャンスとなったはずです。実際に、ネット上の掲示板等では、過激なトランプ支持者による「今こそ戦争だ」、「共存したくないのは向こうの方だ」といった報復を煽る投稿が相次いだそうです。今般の事件では、右耳の負傷に留まったのですが、仮にトランプ大統領が命を失う文字通りの暗殺事件となった場合には、仇打ちあるいは復讐戦としての内戦が引き起こされないとも限りません。一方、冤罪を主張する民主党陣営も、事件発生以前から‘闘争モード’でしたので、暴力の応酬となったことでしょう。南北戦争以来の内戦ともなれば、アメリカ国民は引き裂かれ、国民同士が武器を手に殺戮し合う地獄絵となります。そして、戦争ビジネスが繁盛する一方で、国土を更地にし、統治機構をも破壊してしまう内戦は、全世界を根底からリセットしたい世界権力が望むところなのでしょう(第三次世界大戦計画が頓挫しそうなので、アメリカ内戦計画に切り替えたのかも知れない・・・)。

 果たして、同事件に隠された政治的意図を内戦誘発とする憶測は、真相を言い当てているのでしょうか。もちろん、見当外れも甚だしいとする反論もありましょうが、グローバルレベルで不可解な事件が頻発している現状からしますと、安易には捨てられない説のように思えます。仮に、トランプ前大統領暗殺未遂事件の意図が内戦誘発であるとしますと、それが未遂に終わったことは、トランプ前大統領の命のみならず、アメリカ国民をも内戦の危機から救うことになったのではないかと思うのです。

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トランプ前大統領暗殺事件は推理の対象

2024年07月15日 12時28分41秒 | 国際政治
 一昨日の7月13日、次期大統領選挙の最中にあって、トランプ前大統領が銃撃されるという暗殺未遂事件が発生しました。銃弾は右耳を貫通しており、わずかでも同大統領の動きが違っていたら、おそらく演説の壇上で命を落とす事態に至ったことでしょう。同事件については、容疑者である二十歳の青年が既にシークレットサービスにより射殺されており、真相解明は困難な状態にあります。

 同事件にあって幾つかの疑問点や不審点があるとすれば、まずもって犯行の動機が分からないという点です。報道に因りますと、学業優秀であったトーマス・クルックス容疑者は、18歳の成人年齢に達した2019年の9月には、共和党有権者登録を行なっているそうです。ところが、前回大統領選挙の際に発生した国会議事堂襲撃事件後には、民主党の支援団体に寄付をしており、その政治的な立ち位置は曖昧です。このため、民主党陣営のために最大のライバルであるトランプ大統領を物理的に排除しようとしたとする説が最も有力ではあるものの、共和党陣営による自作自演説も囁かれることとなりました。否、クルックス容疑者の共和党と民主党との間を行き来するような‘コウモリ’的な行動からしますと、二頭作戦を得意とし、全世界の選挙を裏からコントロールしようとしている世界権力のメンバーであったとする見方もあり得ないわけでもありません。

 また、同暗殺未遂事件がクルックス容疑者の犯行であるのかも、100%確定しているわけでもありません。確かに、‘クルックス容疑者が倒れていた場所から殺傷能力の高い「AR15型」の半自動小銃を押収された’とは報道されています。同小銃からは8発の銃弾が発射されたとされますが、トランプ大統領の右耳を負傷させ、周囲の聴衆までをも死傷させたのが、同銃弾であったとも限らないのです。

 日本国にあって安部元首相暗殺事件が発生した際にも、銃弾は、山上容疑者が使用した手製の筒型散弾銃ではあり得ない軌道を描くと共に、身体の被弾状況も銃創にしては軽度であったとされています。こうした不自然さから、山上容疑者は、‘犯人役’を担ったに過ぎず、真の下手人は、ビルの屋上に潜んでいた高度な狙撃訓練を受けたスナイパーであり、使用された銃も、銃弾が極めて小さな特別な銃であったとする見解もあります。今般のトランプ前大統領暗殺未遂事件にあっても、100メートル以上離れた場所からの射撃であり、かつ、貫通したとされる同大統領の右耳の傷は、銃弾を受けたにしては小さく、かつ、破損の程度も軽いとの指摘があります。仮に、クルックス容疑者が使用したとされる自動小銃ではなく、別の方角からプロの手によって銃弾が極小化された特殊な銃器で撃たれたのであれば、不自然とされた創傷にも合理的な説明が付くのです。

 加えて、精神が不安的な状態にあった‘二十歳前後による青年の犯行’という犯人像も、山上容疑者とクルックス容疑者の両者に見られる共通点です。アメリカにあっては、しばしば銃乱射事件等が起きますが、その際、必ずと言ってもよいほど‘精神不安定な青年’が犯人として報じられています。同年代の青年は、特定の思想や宗教に心酔し、暗示や洗脳を受けやすいのでしょうが、そのためか、誰もが、このステレオタイプの犯人像に納得してしまいがちです(単独犯説に疑問が呈されない・・・)。言い換えますと、同年代の青年は、犯罪に際して‘ダミー役’として利用されやすい立場にあるとも言えましょう。

 仮に、暗殺用に開発されたと推測される特別な銃器が使用され、実行犯としてのスナイパーが存在していたとすれば、トランプ前大統領暗殺未遂事件は、組織性が強く疑われることとなりましょう。果たして、真犯人は別に存在するのでしょうか。かつて、ジョン・F. ケネディー大統領が暗殺された際に、公式見解とされたオズワルド単独犯説にも、今日に至るまで疑問が付きまとっています。否、同事件に関する情報の国家機密扱いこそ、同説が事実に反することの消極的な証拠かも知れません。事実であれば、非公開とする必要性など全くないのですから。そして、オズワルド容疑者もまた事件後に殺害された点からしますと(口封じのため?)、今般のトランプ前大統領暗殺未遂事件も、その背後には、ケネディー大統領暗殺事件と同様に、CIAのみならず、モサド、MI6、中国の国家安全部やロシア連邦保安庁等の他国の情報機関や工作組織が関わっているのかもしれませんし、その上部にあっては、計画の立案・決定者としての世界権力が潜んでいるとも推測されるのです。

 もっとも、現状にあっては、そもそも、同暗殺未遂事件が、失敗であったのか、成功であったのか、何れとも判別できない状況にあります。このため、何れにせよ、ケネディー大統領暗殺事件や安部元首相暗殺事件のように、今般の事件も迷宮入りとなったり、真相解明が妨害される可能性が高く、各国政府もマスメディアも、真相究明に務めるパフォーマンスを見せながらも、クルックス単独犯説で押し切ろうとすることでしょう。しかしながら、同事件は、組織的謀略や陰謀である可能性だけは極めて高いと言わざるを得ません。今後の大統領選挙の行方に少なくない影響を与えるのみならず、第三次世界大戦へと糸を引く世界権力の姿も見え隠れする今日、陰謀や謀略の可能性の否定は、誘導されるリスクを高めるのみとなりましょう。ここは、一般の人々こそ、冷静かつ客観的な立場から同事件の裏に潜む政治的意図を推理すべきではないかと思うのです。

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公設選挙広報サイトというアイディア

2024年07月12日 09時45分48秒 | 統治制度論
 今日の選挙制度は、国民のニーズに沿った政策を立案し、かつ、最も高い適性や資質を備えた政治家を選ぶ人事上の採用システムとして設計されているわけではありません。政治家の質の劣化、世襲議員やタレント議員の蔓延、露骨な利益誘導、権力の濫用や私物化、さらには、世界権力のマネー・パワーに釣られた政治家の傀儡化といった諸問題が生じる原因も、あまりにも杜撰で非合理的な現行の制度に求めることができましょう。民主主義並びに健全な政治を実現するためには、早急に制度改革に着手する必要があるのですが、斬新性をアピールし、政治改革を訴える候補者でさえ同問題を言い出さず、身動きがとれなくなっている政治の現状を示しています。

 本来であれば、広く国民的な議論に付し、国民からアイディアを広く募るべき重要な課題なのですが、本ブログでは、ささやかながら一つの案を提案してみたいと思います。それは、国政から地方自治体に至るまでの各々の選挙に際して、誰もが簡単に利用できる公設の選挙公報サイトを設けるというものです。具体的には、以下の仕組みとなります。

  1. ネット上に、検索や公共機関のホームページ等からも容易にアクセスし得る選挙用サイトを開設する。
*サイト開設・運営機関は、政治家や民間からの介入を遮断する必要があり、中立独立性が保障された機関が望ましく、選挙管理委員会、もしくは、司法機関が適しているかも知れません。
  1. 同サイトのトップとなるホームには、全ての立候補者のリストを掲載する。
*リストには、氏名のみでは不十分ですので、広報に記載されている程度の略歴や所属政党等がある場合には政党名なども記載すべきかも知れません。
  1. リストに記載されている立候補者氏名をクリックすると、同候補者専用の個別ページが開く。
  2. 割り当てられた個別ページは、基本的に候補者自身が作成する。
*同ページの内容は、‘採用’の判断材料となる情報です。履歴書のようなものであり、最低限、各候補者は、(1)候補者個人に関する情報(2)政治家を志望する理由、(3)実現を目指す政策あるいは解決すべき問題など(政策提言あるいは公約・・・)を記載することとなります。もっとも、公開する具体的な内容や情報量については、各候補者の判断に任されます。例えば、(1)の個人に関する情報については、写真などもアップして自らの生い立ち等について詳しく説明する候補者もいれば、殆ど白紙に近い状態の候補者も現れることでしょう。この場合、有権者は、前者に対してはオープンで実直な人柄を読み取るでしょうし、後者に対しては、その秘密主義的な姿勢を懸念するかもしれません。なお、学歴や経歴等の事実に関する記載内容については、運営機関が責任をもってその真偽をチェックする必要がありましょう。
  1. 候補者の個別ページには、文字情報のみならず、候補者の静止画像や動画等もアップする。ファイルによるダウンロードも可。
*静止画像はポスター、動画は政見放送の役割をそれぞれ担いますが、後者には時間制限がありませんので、自らをアピールするに十分な時間があります。
  1. 個別ページには、掲示板を設ける。
*掲示板機能により立候補者と有権者との間で質疑応答が可能となります。同掲示板は、立候補者と有権者間のみならず、候補者相互並びに有権者相互で議論する場としても使うことも出来ます。質問に対する返答の有無は立候補者の判断に任されますが、有権者は、掲示板上の質疑応答の内容を読んで同候補者の資質等を判断することとなりましょう(もっとも、一度に大量の質問が寄せられる場合には、個別回答ではなく、内容を集約する必要はありましょう・・・)。

 公設選挙公報サイト方式が導入されますと、選挙活動の主要な舞台は同サイトに移ることとなります。この移行により、従来型の選挙に要した立候補者の労力、費用、時間は大幅に軽減されましょう。もはや、街中や住宅地に選挙カーを走らせたり、資力体力気力を要する街頭演説等を行なう必要もなくなるからです。立候補に際しての負担が軽くなり、ハードルが下がれば、他の職に就きながら出馬することも不可能ではなくなります(利益誘導の疑いは有権者が判断・・・)。その一方で、他の候補者のページとの比較が容易となりますので、売名行為目的の立候補は抑止されましょう。しかも、競争条件が全ての候補者にとりまして凡そ公平、かつ、等しくなるのです。

 そして、’採用担当者’の立場となる有権者にとりまして、格段に投票に際しての判断が容易になることは言うまでもありません。候補者に関する情報量が飛躍的に増加すると共に、情報の質もアップしますし、判断に必要となる情報が不足する場合には、掲示板を介して追加情報を求めることもできるからです。また、政見放送のように放送時間が限られているわけでもありませんので、有権者は、何時でも何処でも同サイトにアクセスすることができるのです。

 現代は情報化社会と称され、日本国政府も、強引に上からのデジタル化を推進しています。それにも拘わらず、国民に対して政治家に関する十分な情報を提供しようとはせず、選挙制度にネット等を活用しようとしない旧態依然とした態度は矛盾しています。こうした矛盾した態度は、政治家ポストという‘既得権益’を守りたい一心からなのでしょうが、国民が必要としているのは、より国民が政治的権利を行使する場を広げ、民主主義の具現化に資する選挙制度の改革なのではないでしょうか。選挙期間中のメディア出演の規制など、他にも必要とされる対策はありますが、公設選挙公報サイトの開設は、民間の採用システムを応用したり、工夫を加えることで導入可能ですし、技術的にも決して難しくないのではないかと思うのです。

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全ての立候補者に平等・公平な公職採用システムを

2024年07月11日 12時13分47秒 | 統治制度論
 民主的選挙における投票とは、国民による人事権の行使に他なりません。最適の人材を選んで採用する制度でありながら、今日の選挙制度はあまりにもその目的から離れており、統治機構の政治ポストにあって、国民が適任者を選ぶことができない状況が続いています。国民は、いわば、‘採用担当者’の立場にありながら、蚊帳の外に置かれているようなものなのです。この問題は、‘採用担当者’である選ぶ側、すなわち、有権者のみが不利益を被っているわけではありません。本日の記事では、選ばれる側となる政治家を志す立候補者の立場からの制度改革の必要性について述べてみたいと思います。

 先日の記事でも触れておりますように、現行の制度では、一般の人々の負担能力を超えた莫大な選挙費用が候補者の肩に重くのしかかります。事前に選挙管理委員会に寄託する供託金の準備のみならず、雇用した選挙運動員やスタッフ等に支払う報酬(人件費)、事務所の経費、選挙カーの賃貸料金、チラシやビラの印刷代金、大型メガホンやのぼりなどの選挙道具一式の費用などは、合計しますと相当額に上ります(選挙費用は、人口規模等に比例して膨れ上がる・・・)。採用システムという観点からしますと、エントリーする側が費用を負担するというのは、本来、あり得ないことです。先ずもって、でき得る限り立候補者の負担を軽減すべきと言えましょう。

 もっとも、政党に所属している立候補者の場合には、通常、政党助成金等から選挙資金が‘軍資金’として支給されます。この場合、個人的な負担は軽減されるのですが、それでも、選挙資金の分配が政党の幹事長の‘党内パワー’の源泉になっているのが現状です。このため、政党所属の立候補者は、有権者よりも政党内の‘有力者’の顔色を伺わざるを得ません。言い換えますと、政党内部にあって候補者達は、予め‘ふるい’にかけられ、政党内の序列や利権を含めたしがらみ等に縛られてしまうのです。これでは、真に国民のための政治を目指す政治家が出現するはずもありません。

 政党内の資金配分を介した事前選別の問題に加えて、マスメディアの影響力も、知名度において選挙の公平性を著しく歪めています。この側面は、’マネー・パワーによる政治家支配をもたらす主要な原因でもあります。今日、全世界の諸国にあってグルーバリズムを強力に推進している世界権力は、大手メディアの事実上の‘支配者’でもあるからです。自らの配下にあるメディアを使って、世界経済フォーラムがヤング・グローバル・リーダー達をインフルエンサーとして育てるのと同様に、選挙の場も、自らが選んだ‘政治家’を、メディアを舞台に‘売り出す’場でもあるのでしょう。加えて、マネー・パワーによって動員された政治団体や振興宗教団体のメンバー達が、‘人気’や‘’○○フィ-バー‘を演出するのですから、‘選ばれし候補者’は、はじめから特権を付与されているようなものです。何れにしましても、マスメディアへの出演が選挙における当落に多大なる影響を与えている現状は、‘選外’となる他の立候補者にとりましては、最初から勝てないことが決まっている競争を強いられるに等しいのです。

 とは申しますものの、マスメディアについては、政見放送がありますので、特定の候補者のみが有利とは言えないとする意見もありましょう。しかしながら、日本国では、1996年以降、衆議院議員選挙における小選挙区制の導入に伴い、無所属の候補者や政党要件を充たしていない政治団体の候補者には政見放送のチャンスは与えられていません。しかも、放送の時間帯が決まっている上に、放送時間は一人当たり衆議院小選挙区で9分、比較的長くても参議院比例区で17分に過ぎませんので、その影響は限られているのです。

 採用システムであれば、本来、エントリー時にあっては、全応募者のスタートラインは同一にすべきです。しかしながら、上述したように事前のスクリーニングが働きますと、エントリー以前の段階で、一般の応募者も採用担当者達も与り知らぬところで、外部者による選抜が行なわれていることになります。採用システムの観点からしますと、選挙の現状は、‘適任者’が事前に排除され得る、あるいは、スタートラインの違いから不利な状況を強いられる不公平この上ない制度となりましょう。最初から勝ち目がないのですから、自ずと国民の立候補に対する意欲を失わせ、結果として、被選挙権を暗黙裏に制限してしまうのです。

今日、選挙権にあっては、憲法訴訟に発展するほどに一人一票同価値の原則に対しては厳密性が求められる一方で、被選挙権の不平等については関心が薄い傾向にあります。しかしながら、民主主義の国民自治としての本旨からしますと、参政権を有する国民の立候補のチャンスこそ、平等かつ公平に保障されるべきです。被選挙権に関わる制度的な欠陥を放置しますと、統治権力が一部の特権的な私人や外部者に掌握されてしまうのですから。むしろ、被選挙権に対する制度的な制限こそ、合憲性が問われるべきかもしれません(奇妙なことに、衆議院小選挙区における政見放送の不平等・不公平については、1999年11月10日の最高裁判所大法廷判決では合憲と判断されている・・・)。

しばしば、民主的選挙制度とは、‘誰でも平等に政治家になれる制度’として理解されがちですが(同定義であれば、むしろ、抽選の方が適している・・・)、人事制度なのですから、‘国民の誰もが平等・公平に政治家になる機会が保障された上で、国民が政治家としての適任者を選ぶ制度’として再構築すべきと言えましょう。そして、ネット上に公設の選挙候補者サイトを開設するという案は、候補者並びに有権者の双方に見られる諸問題を解決し得るのではないかと思うのです(つづく)。

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