世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。
個人崇拝は「知能レベル低い」…習近平主席母校の教授、共産党指導部に“反旗”
7月下旬、中国の習近平主席の母校でもある精華大学の教授が、同主席が構築した個人崇拝を痛烈に批判する論文を、民間シンクタンクを通じてインターネット上に公表したそうです。現在、同記事は閲覧できないそうですが、同論文を執筆した許章潤教授が‘体制派知識人’であった点を考慮しますと、米中貿易戦争を機に習近平独裁体制に揺らぎが生じているとする説は、あながち否定はできないのかもしれません。
予想外のお膝元からの反旗に習政権側も動揺を隠せないようですが、当局の厳格な情報統制や監視の下にあるネットやSNSの他に、中国社会には従来型の口コミのネットワークがあるのでしょうから、同論文の内容は、相当の範囲で国民の間に広まっていることでしょう。もっとも、同氏が書き残している点があるとすれば、それは、批判理由の論理的、かつ、明快な説明です。論文では、国家主席の任期撤廃を中心に罵詈雑言と言ってよい程過激な言葉で個人崇拝をこき下ろしており、特に印象深いのが、「なぜこのような知能レベルの低いことが行われたのか、反省する必要がある」とする件です。‘知能レベルが低い’というぐらいですから、現体制に腹を据えかねている筆者の心情が伝わるものの、個人崇拝が何故、‘知能レベルが低い’のか、その説明がないのです。
そこで、‘個人崇拝とは何か’という定義づけから始めなければならないのですが、考えても見ますと、‘個人崇拝’と表現する以上、それは、特定の個人のパーソナリティーに人々が心を動かされ、尊敬の念を寄せる状況を意味します。乃ち、強制力を働かせることなく、あるいは、演出や洗脳することなく人々の崇拝の対象となるのは、誰もが否定のし得ない程の高い徳や能力を備えた人物となります。現実の世界では、数百年に一度ぐらいしかこの世に現れないような徳性、カリスマ性、そして神性を帯びた人であり、しかもそれは、自然体でなければならないのです。個人崇拝を“本性からして有徳な人、あるいは、超人的な人への人々の自由意思による崇拝”と定義しますと、現在の習主席への個人崇拝は、この定義から外れていることは確かです。何故ならば、習国家主席に対する個人崇拝は、国家による強制、演出、そして洗脳の成果に過ぎないからです。つまり、‘まがいもの’を無理矢理に崇拝させる行為は、‘知能レベルが低い’ということになるのです。精華大学は、習主席の出身大学であるからこそ同氏の学生時代の成績や素行に関する記録が保管されており、その真の姿を知っているのかもしれません。
しかも、‘個人崇拝’の強制は、全体主義体制、あるいは、独裁体制を維持するための道具として利用されてきた歴史があります。こうした体制では、自らの権力を維持するために人々の心の自由までも縛ろうとするからです。この傾向は、‘個人崇拝’が、(1)抑制なき権力の暴走、(2)私利私欲による権力の腐敗、(3)公的利権の独占、(4)民意の無視、(5)独裁者の能力不足…といった枚挙に遑がないほどの、全体主義、あるいは、独裁体制の欠陥を隠し、国民からの批判を封じるために好都合であったことを意味します。国民による批判精神の発露は‘体制側’にとりましては脅威であり、それ故に、従順に指導者の命令に従うよう、神話化や奇跡の演出を含む様々な詐欺的手法を凝らして‘個人崇拝’を国民に強要するのです。ところが、一般的な知力を備えた人であれば、誰もがこの‘からくり’を容易に見抜くことができます。誰もが見抜くことができるようなレベルの使い古された手法を以って体制維持を図ろうとする行為は、やはり、‘知能レベルが低い’と言わざるを得ないのです。
全てとは言わないまでも、人とは、論理的な説明を受ければ納得するものです。中国の現体制が‘知能レベルが低い’理由をきちんと説明すれば、中国国民も現体制において何が間違っているのかをより明確に理解することでしょう(もっとも、詳しく説明せずとも、習氏の実像を知る中国の人々の間には暗黙の理解がある?)。何れにせよ、今般の一件で、習独裁体制が必ずしも盤石ではない実情が明らかとなったのですが、最後に、自らの命の危険をも顧みず、堂々と批判文を公表した許章潤教授に対し、心より敬意を表したいと思います。氏こそ、劉暁波氏と共に、中国の知性と名誉を護ったのかもしれないと思うのです。
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外国人受け入れ15業種超=政府、水産・食品加工など追加
安倍政権は、外国人労働者の受け入れ拡大に向けて準備を加速するよう指示したと報じられております。「人材開国」という野心的な表現も見受けられるようになりましたが、この開国、明治時代の成功体験を意識しているとすれば、それは、現代という時代を読み違えているのではないかと思うのです。
今般の「人材開国」は、外国人単純労働者にも門戸を広げるという意味において、過去に類例を見ません。明治時代の開国とは、通商条約の締結とそれに伴う外国との貿易の開始を意味しましたが、今般の「人材開国」は、‘モノ’でも‘資本’でもなく、‘人’が日本国内に大量に流入します。開く分野が違うのですから、江戸末から明治にかけての開国とは似て非なるものなのです。性質の違うものを恰も同じように扱うのは一種の‘印象操作’なのですが、‘人’とは、社会的、並びに、政治的な存在であり、かつ、人格を伴いますので、「人材開国」に伴う政治・社会的変化は明治の開国よりも深刻です。
明治期とは、日本国民が、西欧諸国の先進的な学問や技術のみならず、その風習や文物までも取り入れ、熱心に学ぼうとした時代です。鹿鳴館時代には諸外国からその物真似ぶりが揶揄されましたが、いわば、キャッチアップが至上命題であったこの時代、近代国家の一員となるために日本人自身が積極的に自らを変え、当時の‘国際スタンダード’に合わせようとしたのです。しかも、当時の通商条約では、主として経済活動を目的とした両国間の人の行き来は許しても、移民については自由な入国を許していません。当初は開港地に外国人居住区を設け、国内における外国人の自由移動さえ許さない程であったのですから(その後、外国人の移動制限は段階的に解除…)、近代化のプロセスにおいて国民の枠組が大きく崩れることはなかったのです(韓国併合時にあっても外地からの人の移動には制限はあった…)。大小の凡そ100藩から成るゆるい連合体の幕藩体制であった江戸時代と比較すれば、日本国民という国家への帰属意識、即ち、アイデンティティーと団結力は、むしろ強まったのではないでしょうか。
ところが、今般の「人材開国」とは、明治期の開国とは、全く異なる作用を国民に及ぼします。それは、国内に大量流入するのが‘人’であるからに他ならないのですが、国籍のみならず、言語、慣習、宗教、社会常識等が異なる様々な国々から‘人’が押し寄せてくるとしますと、日本国の政治や社会的枠組が崩壊するリスクは格段と高まります。‘モノ’、‘資本’、‘技術’、‘情報’などは基本的には非人格的な要素であり、比較的管理が容易ですが、‘人’とは、自由意思を持ち、かつ、自由な活動能力をも有していますので、前者のように管理することはできません。否、政府や雇用主が厳格な管理を試みようとすれば、人権侵害や人種差別行為として糾弾されかねないのです。言い換えますと、一旦入国を許せば、一個の独立した人格としてその権利と自由は尊重されなければなりませんので、仮に、経済目的であれ、来日した外国人労働者が、出身国の政治問題や社会的な要素を持ち込んだ場合について、政府は、これらを認めるのか、認めないのか、という重大な選択を迫られるのです。
‘外国人ファースト’を是とするマスメディアは、前者以外に道はないと主張したいようですが、出身国の政治や社会が日本国内に持ち込まれれば、先日のカンボジアでの選挙に際して在日カンボジア人が都内でデモを行ったように、出身国の様々な政治問題が日本国を舞台にして噴出するでしょうし、中国出身者に至っては、本国政府の指令に従って政治的な活動に従事する可能性もあります。また、多文化共生主義の下では日本国の文化も相対化されると同時に多文化空間となり(政府は既に多言語化を推進…)、歴史も伝統も、そして、日本人ならではの美徳もその生命力を失ってゆくことでしょう。
日本国政府は、経済的な目的を以って事実上の‘移民政策’を正当化しようとしておりますが、上記の政治・社会的問題に対して、どのように対応するつもりなのでしょうか。安倍首相は、自民党の総裁選を前に、目下、三選目を目指しておりますが、一般国民からの支持を失っては元も子もないのではないでしょうか。「サイレント・インベージョン(静かなる侵略)」と非難されるようにもなり、諸外国で既に失敗の評価が下されている移民拡大政策を後追いするのはあまりにも愚かであり、「人材開国」の行く末が、政府による迂闊な‘開城’による自国の破滅であるならば、こうしたリスクに満ちた政策は、早々に断念した方が賢明であると思うのです。
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ディープラーニングの出現により、AIは、人が指示しなくとも自らの能力で様々な判断ができるようになりました。囲碁、将棋、チェス等では、トップクラスの棋士たちがAIを前にして敗北しており、多くの人々が、AIが知的能力において人を凌駕する時代の到来を確信することとなったのです。
人間の天才をも易々と越える能力を有するAIの登場は、近い将来、人々から仕事を奪う存在として警戒もされているのですが、その並外れた能力の高さから、既に実用化が検討されている分野もあります。とりわけ、AIの発展史上のブレークスルーとなった自己判断能力が高く評価され、政治分野での活用も取り沙汰されているのです。とは申しますものの、政治とは、古来、国家による一方向的な権力行使に陥りがちな分野です。乃ち、AIに政治的な判断を全面的に任せますと、国家と国民との間の双方向性を意味する民主主義が消滅し、映画の世界の如く、‘AIによる人類支配’が出現するかもしれません。‘AI政治家’は、その超越的な知的能力のみを権力の正当性の根拠として権力の座に就くのであり、有権者が選挙によって選ぶわけはないからです。
AIの政治利用については、権力は腐敗しやすく、しかも、政治家は私利私欲に流され易いという一面を取り上げて、中立・公平、かつ、頭脳明晰な‘AI政治家’の方が、国民から信頼を得ることができるとする主張もあります。その一方で、AIの政治的な決定は、その設計者の政治的偏向や政治信条、あるいは、入力データの事前選別の影響を強く受けるとする説もあり、必ずしも中立・公平性が確保されているわけでもないようです。また、AIの政治判断が、広く一般の人々から集積されたビッグデータに基づくものであるならば、それは、ネット上に表明された国民一般、あるいは、オピニオン・リーダーの政治的傾向の解析に過ぎなくなります。
何れにしましても、‘AI政治家’には問題が山積しており、その実現性には疑問があります。しかも、生身の政治家は、国民に対して説明責任を負っています。果たして、‘AI政治家’は、自ら下した決定に対して、政治権力の信託者、即ち、国民が満足し得るレベルの説明ができるのでしょうか。仮に、AIがこの能力を有するとしますと、それは、自らを構成するアルゴリズムを明らかにした上で、結論に至ったプロセスを自己分析して他者に説明する能力を備えていることを意味します。人では当たり前にできることですが、現状の技術レベルでは、AIの自己決定のプロセスについては、その製作者ですら説明できないというのです。自らの決定プロセスを万人が納得するように論理的に説明できない限り、‘AI政治家’は、国民から信頼を得ることは殆ど不可能なのではないでしょうか。この素朴な疑問、‘AI政治家’にぶつけてみるのも、興味深い実験かもしれません。
ディープラーニングがあまりにも画期的な発明であったために、AIに対する期待は否が応でも膨らんでいます。しかしながら、その活用方法や導入分野を間違えますと、人類が生み出したAIが人類を支配するという本末転倒が起こり、人々から生きる喜びや生き甲斐を奪うかもしれません。政治分野については、AIの技術開発と同レベルの熱意と資金を以って、政治腐敗や利益誘導型の政治を効果的に防ぎ、民意を誠実に汲み上げ、かつ、上手に利害調整ができる、より高度で優れた’人による’民主的統治制度を開発した方が、余程、人類に益するのではないかと思うのです。
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朝鮮戦争とは北朝鮮が起こした対韓侵略戦争であり、米軍を主力とする‘国連軍’は、この侵略を阻止するために闘った、とする見方は、最もシンプルな朝鮮戦争理解です。こうした国際社会の一般的な見解に対して、北朝鮮は内戦論を主張しており、両者の見解の溝は埋まっていません。見解が真っ向から対立する状況下にあって平和的な解決を希求するならば、一先ずは、両者が自らの行動の正当性を主張し得る国際裁判が最も適した方法となりましょう。しかしながら、その一方で、冷戦期に発生した朝鮮戦争には、もう一つ、同問題を複雑にし、明快なる司法解決を阻害している要因があります。
その要因とは、朝鮮戦争が、‘熱戦’と称されたように米ソを盟主とする東西陣営による代理戦争であったとする側面です。第二次世界大戦の末期には、独裁者スターリンが率いるソ連邦は、ナチス・ドイツからの‘解放’を大義名分として掲げつつ、軍事力、並びに、全世界に張り巡らした共産党の組織力を以って周辺諸国を社会・共産主義陣営に組み込んでゆきます。この行為に対し危機感を覚えた米英は、大戦末期にはソ連邦を連合国の一員、即ち、‘味方’ではなく、半ば‘敵国’と見なすに至っており、特に朝鮮半島においては、米ソが南北から占領地の確保を競う形となったのです。こうして1948年には、韓国と北朝鮮の両国が独立国家として誕生しますが、南北は、それぞれアメリカとソ連邦を後ろ盾としたのです。
南北両国が、米ソの事実上の‘傀儡国家’であるならば、朝鮮戦争の背景にも超大国の‘世界戦略’があったはずです。実際に、侵略を開始するに先立って、北朝鮮の金日成はソ連邦のスターリンに‘お伺い’を立てていますので、同国が、純粋な独立国家でなかったことは確かです。仮に、スターリンが許可を与えなければ、朝鮮戦争は起きなかったことでしょう。ソ連邦は、社会・共産主義陣営の版図拡大のために朝鮮戦争を後押ししたのであり、ソ連欠席の内に安保理決議を成立させた国連の対応は、勢力圏の拡大を目指す東側陣営の拡張主義に対する西側諸国のリアクションであったことになります。そして、北朝鮮側の戦局の悪化を受けて開始された義勇兵派兵による中国の介入は、社会・共産主義諸国の間では、この時、暗黙の軍事同盟が成立していたことを示唆しているのです。
西側陣営の行動は東側陣営の攻勢に対する受け身であれ、朝鮮戦争が冷戦期における米ソ代理戦争の側面を帯びていたことは、今日にあって、なおも同戦争の終結を困難としています。何故ならば、仮に‘平壌裁判’の設置によって司法解決に至ったとしても、東アジアにおける軍事バランスの問題が残されてしまうからです。現状を見れば、ソ連邦の後継国であるロシアは、ウクライナやクリミア半島で牙を剥いたようにその覇権主義の旗印を降ろしていませんし、中国に至っては、共産党一党独裁体制の下で軍事大国化の道を邁進しております。‘東側陣営’の世界戦略は朝鮮戦争当時と変わっていないどころか、むしろ、中国の台頭によって強化されていると考えざるを得ないのです。言い換えますと、中ロの覇権主義が終焉しない限り、根本的な問題は全く解決されないのです。
このことは、朝鮮戦争を完全に終結させるには、司法解決のみでは不十分であることを意味します。朝鮮半島の安定には、まずは、米中ロの軍事大国を含む当事国間による、朝鮮半島の勢力圏に関する合意の形成という方法が検討されましょう。もっとも、この方法、極めて平和的な解決手段にも見えますが、中国が勢力拡大の意図を隠さなくなった今日、一時的な妥協としての大国間合意も根本的な解決をもたらさないかもしれません。近い将来、米中の軍事力が逆転した途端、この手の弥縫策的な合意は、即、空文化することでしょう。八方塞に見える中、それでは人類は、どのようにしてこの問題に対応すべきなのでしょうか。
仮に、朝鮮戦争のみならず、国際社会における様々な紛争の背景に、大国の覇権主義という問題が潜んでいるならば、実のところ、人類は、この扱い難く、かつ、大国からの抵抗も受け易い問題にこそ真摯に取り組むべきなのかもしれません。特に中国は、全世界の諸国を支配下におさめかねない極めて危険な軍事大国に成長しつつあります。基本に立ち返ってみますと、共通のルールや行動規範の下で、全ての諸国が相互に権利と自由とを享受し得る状態こそ、国際社会の理想でもあります。人類が理想に近づくためには、日米を含め、自由主義諸国は、他国の安全保障を脅かす中国の国家体制を崩壊に導き、法の支配に基づく国際法秩序を構築すべく、より高度な戦略を展開する必要があるように思えるのです。
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朝鮮戦争で戦死の米兵遺骨 北朝鮮が一部を米に返還
朝鮮戦争の法的処理のために特別国際軍事裁判所を設けるとする‘平壌裁判案’は、当時国間の終戦合意による解決とは異なる、司法解決という平和的解決手段の一つです。しかしながら、国家犯罪の廉で訴追され、被告席に座ることになるのですから、北朝鮮側が同裁判所の設置に賛同するはずもありません。とは申しますものの、この解決方法、北朝鮮側にとりましてもメリットがないわけではないのです。
それでは、‘平壌裁判案’を受け入れる動機となるような北朝鮮側のメリットとは、どのようなものなのでしょうか。それは、一先ずは、1950年6月25日に始まる北朝鮮による対韓侵略行為について、弁明する機会を得ることができることです。この時、国連安保理は、北朝鮮人民軍が宣戦布告もなく米ソの同意の下で法的に設けられていた38度線を越えて韓国に侵攻したため、北朝鮮の行為を‘侵略’と認定しました(「国連安保理決議82」)。同決議は北朝鮮の後ろ盾であったソ連邦が欠席したために成立したものの、同国の侵略行為を排除すべく、これを機に米軍を中心とした‘国連軍’が結成されたのです。この経緯を見ますと、朝鮮戦争とは、国際社会の平和を侵略国家から護るための、国連による正義の戦いとなります。
一方、北朝鮮側は、国際社会において凡そ一致している同見解を決して受け入れようとはしていません。同国の朝鮮戦争に対する見方とは、一民族一国家の原則に従い、朝鮮半島全域において統一国家を建設すべく始まった、南北両陣営による‘内戦’なのです。果たして、この言い分、国際社会において通用するのでしょうか。因みに、ベトナム戦争では、北ベトナムのホーチミンが、1954年のジュネーヴ協定で定められた北緯17度線を越えて南ベトナム側に対して武力解放戦争を仕掛けましたが(「第一五号決議」)、この際、同戦争を正当化するために、むしろ北ベトナム側がアメリカによるジュネーヴ協定違反を主張しています(もっとも、アメリカと南ベトナムは同協定に調印していない…)。同戦争は、北ベトナム側の勝利に終わったため、国際法上の違法性に関する議論はフェードアウトしてしまいましたが、朝鮮戦争は、現在、停戦状態にありますので、武力解決ではない司法解決の道も残されています(この際、ソ連邦の黙認や中国人民志願軍の介入の合法性も問われるかもしれない…)。
裁判とは、中立・公平性を旨とします。ニュルンベルク裁判や東京裁判は‘勝者の裁き’が問題視されましたが、過去の国際軍事裁判の不備や欠陥に対する反省から、今般、仮に‘平壌裁判’を設置するならば、偏りのないよう判事が選任され、北朝鮮の主張にも中立・公平な立場から耳を貸すことでしょう。北朝鮮が、あくまでも自国の戦争犯罪を問われ、罰せられたくないのであれば、侵略を認定した「安保理決議82」を不服として国際裁判の法廷において争うべきです(特別に国際軍事裁判を設けなくとも、ICJや常設仲裁裁判所でも可能…)。
この意味において、‘平壌裁判’は、北朝鮮にも弁明のチャンスを平等に与えるのですから、金正恩委員長には、この提案を拒絶する理由は無いのではないでしょうか。時計の針を戻すことはできませんが、少なくとも、停戦中の朝鮮戦争に限っては、今日あっても凡そ70年前の戦争を平和裏、かつ、最も正当なる手続きを以って解決できるのではないかと思うのです。
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北朝鮮は核物質の生産続行 米国務長官が認識示す
最近の米朝関係を見ますと、かつてあれほど騒がれたCVIDは、一体、何処に行ってしまったのかと戸惑うばかりですが、北朝鮮が、核・ミサイルの開発能力を維持しようとしている背景には、朝鮮戦争終結の要求があることは想像に難くありません。北朝鮮側は、アメリカが朝鮮戦争の終結を実行に移さない限り、核もICBM等のミサイル開発も放棄するつもりはないことを、敢えて中途半端な行動をとることで、アメリカに対して仄めかしていると考えられるのです。ミサイル基地の解体ショーも、アメリカがポーズであることを見破ることを計算に入れてのことなのでしょう。しかしながら、かくも北朝鮮に対して大幅な譲歩を見せながら、トランプ政権は、北朝鮮からの朝鮮戦争終結要求に応じるつもりはないようです。
ここで、しばし考えてもみるべきことは、朝鮮戦争の法的な処理方法です。‘朝鮮戦争の終結’と言う時、北朝鮮側は、戦争終結宣言から平和条約への2ステップを想定しているようですが、1950年に始まる朝鮮戦争が、北朝鮮の対韓国侵略戦争に端を発していることは重要な事実です。朝鮮戦争とは、国家対国家の一般的な戦争とは性質が違います。現在、朝鮮戦争は停戦中に過ぎず、法的には、‘世界の警察官国連対侵略国家北朝鮮’の構図が継続しているのです。
朝鮮戦争の二重性(侵略戦争+制裁戦争)からしますと、最初の侵略戦争の処理もまた、法的には正当、かつ、必要な手続きとなります。この点に鑑みて現状を見ますと、今日に至るまで、南北を画する38度線は保たれており、戦争以前の原状も回復されています。言い換えますと、法的処理に際しては、強制力による原状回復を必要としておらず、残された問題は、かつて、第二次世界大戦後に戦争責任者が処罰されたように、戦争責任者の処遇となるのです(賠償や請求権問題は平和条約で解決…)。
最も望ましい形は、北朝鮮による戦争犯罪が国際法廷において裁かれ、その指導者たる責任者が処罰されるというものです(もちろん、一般の戦争法違反行為についても軍事裁判を要しますが…)。しかしながら、今日、責任当事国である北朝鮮では、金日成の孫の時代に至っております。そこで、最高責任者の代替わりに対してどのように対応するのか、という法理上の困難な問題が提起されるのです。この問題については、朝鮮戦争以来、北朝鮮では世襲独裁体制が維持されておりますので、戦争犯罪の責任も後継者に継承されていると解することも可能です。停戦協定が結ばれたとはいえ、未だに戦争状態にありますので、同解釈に立脚すれば、全責任を祖父から引き継いでいる金正恩委員長を被告人とする特別国際軍事裁判=平壌裁判もあり得ることとなりましょう。この場合、同法廷の設置者は国連となり、加盟各国から判事が選任される形態となります。
そして、もう一つ、法的な解決方法があるとすれば、金委員長が自らの国家の罪を全面的に認め、侵略戦争を終わらせることです。北朝鮮の侵略に戦争原因があり、かつ、国連安保理で侵略認定を既に受けていますので、双方の合意ではなく、侵略側の一方的な侵略行為の放棄宣言で事足りるはずです。この場合、犯人の‘投降’や‘自首’と同様の行為となりますので、もしかしますと、罰は減免されるかもしれません。
もっとも、北朝鮮側が、自らが戦犯国家となる法的処理を望むはずもありません。否、戦争犯罪の罪から逃れるべく、国際法上の法的処理手続きを飛ばした単なる‘戦争終結’を強く要求しているのでしょう。何れにしても、朝鮮戦争に法的処理について考えてみることは無駄ではないように思えます。それは、侵略戦争であった事実に頬被りをしたい北朝鮮に対する強い牽制の効果が期待できますし、あるいは、国際法秩序の未来に照らしてみれば、最も適切、かつ、人類に希望を繋ぐ解決方法であるかもしれないのですから。
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本日の日経新聞の一面には、日本国政府が、介護士不足問題の解決策として、ベトナムとの間で締結されている経済連携協定(EPA)の技能実習生の受け入れ枠を拡大し、20年には1万人を受け入れる方向で、ベトナム政府と合意したとする記事が掲載されていました。外国人労働者という事実上の‘移民問題’については、日本国内では議論が始まったばかりのはずなのですが、政府の側は、既に諸外国に‘根回し’をし、着々と既成事実化を進めているようです。
この方針、おそらく、日本国政府と言うよりも、何らかの事業者利益、あるいは、国際圧力が背後にあるものと推測され、既に「アジア健康構想」の名の下で、アジア各国から介護人材を受け入れる計画が進行しています。今後は、ベトナムのみならず、インドネシア、カンボジア、ラオスなどの東南アジア諸国からも受け入れを予定しているそうです。一般の日本国民が政府に頼んだわけでも、自民党が選挙公約に掲げたわけでもないにも拘わらず…。‘推定’の数値を付して介護人材不足を挙げれば、‘恩恵を受けるのは国民’というもっともらしい理由も付けられますので、政府は、国民の合意がないままに‘移民政策’を押し付けられると考えているのでしょう。
しかしながら、介護人材不足の唯一の解決策は、外国人労働者の受け入れなのでしょうか。政府は、そのように決めつけていますが、最近の健康や長寿に関する医療、栄養学、リハビリ技術等の日進月歩の発展ぶりからしますと、要介護となる高齢者の数が劇的に減少する未来を描くこともできます。ネットやテレビ番組等では健康に関する情報が溢れており、様々な健康食品やサプリメント等を製造・販売する健康ビジネスも盛況です。健康志向は、国民一般に浸透してきており、社員食堂にメタボ等の生活習慣病を予防するメニューを導入することなども、なかば常識化していると言えます。こうした国民的な健康志向からしますと、高齢者の低栄養や安静状態をよしとした過去とは異なり、これからの高齢者は、案外、相当の年齢に至っても自分の足で歩き、認知症予防の徹底により、脳機能の衰えも遅らせることができるかもしれないのです。
このように考えますと、外国からの介護人材の受け入れ拡大よりも、日本国政府は、学校教育に取り入れるなど、健康情報の積極的な国民への提供に加え、要介護者の数をできる限り減らすための画期的なイノベーションをも促すべく、健康寿命を延ばす研究・技術開発にこそ予算を配分すべきなのではないでしょうか。国民の意見も聞かず、他の可能性に対して頑なに耳を塞ぐ政府の態度は、‘移民’によって利益を貪る利権化した‘国際介護ビジネス’の存在をも疑わせますし、今後、要介護者の減少にともない、こうした移民たちが失業者となる可能性も指摘することができます。福祉事業という表看板の影に隠れて進められている移民政策は、一般の日本国民からの反発を買うのみなのではないかと思うのです。
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日本国政府は、特別在留資格の新設による外国人単純労働者の大量受け入れを、何としても実行に移したいようです。菅官房長官の説明では、‘中小企業からの要望による’というものですが、この説明も、誰も‘裏’をとっておりませんので疑わしい限りです。少なくとも、一般の国民からの要望ではないことだけは確かなことですし、一部の人々の要求だけを受けて政策を決定することは、民主主義の原則からも反しております。
一般常識や社会倫理に照らしてみれば、自らの利益や都合のために、他者に対して何らかの許可を求める場合には、そこから生じる負の出来事についても責任を負うものです。例えば、身も凍るような寒い日に、大勢の人々がいる部屋において、ある人が、自分は暑いからと言って窓を開けようとすれば、その他の人々は、風邪をひくか、凍えてしまうことでしょう。この状況下では、皆からの大反対に遭いますので、窓を開けることはできません。しかしながら、窓を開けたい人が、他の人々から窓を開けることを許してもらう代わりに、皆に一定の補償金を払うとか、他の人々のところに冷たい外気が入り込まないよう、自費で囲いを設けると言った手段を講じれば、あるいは、窓を開けることが許されるかもしれません(それでも、強固な反対の前に諦めざるを得なくなるかもしれない…)。
こうした因果関係から発する負担問題を考慮しますと、今般の政府による‘移民政策’は、明らかに受益と負担のバランスが極端に崩れています。政府の方針では、同政策と同時に、外国人との共生を進めるための政策も実施するそうです。大量の外国人が居住するようになれば、当然に、社会保障、医療、福祉、教育などのあらゆる分野において、一般の日本国民と同等に外国出身の人々が滞りなく生活ができるよう、特別の措置を講じる必要があります。例えば、家族の帯同が許されるとなれば、外国人労働者の子供達の日本語教育のために、全ての学校では日本語を教えるクラスを新設し、外国語にも堪能な教師を雇用しなければならなくなります。しかも、外国人労働者の出身国が多様化すればするほど、国際社会の人種・民族の平等原則から、言語毎に日本語教育のクラスの設置や指導教員の配置をしなければならなくなるのです。教育分野だけを見ても、その予算は相当額に上ると予測されますが、地方自治体の財政難の折、一般の日本人の教育ですら予算が十分とは言えない中、その労力と負担は、日本国民にのしかかる重荷と言わざるを得ません。
外国人労働者を必要としているのは一部の企業なのですから、そこから生じるコストは、利益を得る雇用者が負担すべきが筋と言うものです。仮に、様々な生活支援も企業の自己負担となれば、外国人労働者の雇用を待ち望んでいた企業も、費用対効果の観点からこれを再考するかもしれません。今般の‘移民政策’は、受益と負担のバランス面からも、到底、一般の国民を納得させることはできないのではないかと思うのです。
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本日の日経ビジネス・オンラインでは「不寛容ではオウム問題は解決しない」とするタイトルの記事が発信されておりました。英マンチェスター大学のエリカ・バフェッリ准教授によるオウム真理教研究に基づくものですが、同記事には、危険で怪しいカルト教団の見分け方に関するヒントが隠されているようです。
タイトルだけを読みますと、同記事は、‘殺人容認教義までをも含めてオウム真理教に対して寛容であろう’と主張しているとつい勘違いしてしまうのですが、全文を読み通しますと、オウム真理教団には、教団幹部による凶悪犯罪の計画を全く知らなかった、あるいは、事件が起きてからショックを受けて脱会した信者も多いので、こうした‘元信者の社会復帰を認め、過去の過ちに寛容であろう’という趣旨のようです(ただし、オウム真理教死刑囚の死刑執行に際してSNS上に起きたオウム真理教への批判・非難の嵐を‘ヘイトスピーチ’と認定する態度には疑問がある…)。社会に‘居場所’がなければ、お互いを理解できる元信者同士が集まり、同様の教団を‘再結成’してしまうリスクがあり、この点を重く見て、‘不寛容ではオウム問題は解決しない’と題したのでしょう。イギリスでも、過去にイスラム過激派に属していた人々の社会復帰問題があり、日英共通の今日的な課題として理解しているのかもしれません。
記事の主題は、元信者に対する理解と社会復帰問題なのですが、同記事で興味深い点は、大勢の‘無実の信者’がオウム真理教教団内部で生じてしまった理由に触れている点です。バフェッリ氏の説明によれば、同教団は階層集団であり、組織内部が細分化していたそうです。つまり、トップから末端までの信者が位階的な階層によって分断されており、トップや幹部と他の階層、並びに、各階層や信者の間に設けられた壁によって、教団の行動計画や関連情報の流れが遮断されていたのです。こうした風通しの悪い閉鎖型のピラミッド型の位階組織では、上部がテロや国家転覆を計画しても下部の信者は知る由もなく、いざ計画が実行に移されますと、情報が遮断されてきた下部の信者達は、知らぬまに巨悪計画に協力させられてしまっているか、思いもよらぬ出来事に慌てふためくか、それとも、茫然自失の状態になるのです。
考えてもみますと、イエス・キリストやブッダなど、世界宗教の教祖達が、こうした隠蔽体質、かつ、ヒエラルヒー志向の組織の結成を薦めたというお話は聞きません。むしろ逆に、自らの教えや行動を積極的に信者の前に範として示し、これらを以って信者達を自然に感化させています(もっともキリスト教の場合には、イエス・キリストは幾度かの奇跡を示しており、松本智津夫の空中浮揚等の超能力と共通した点もないわけではないが、キリスト教が広く受け入れられたのは、その人道主義的な教義にあったのでは…)。となりますと、オウム真理教教団の如き組織的特徴を有する教団は、神や仏の御心に従った人としての善き生き方や魂の救済を求めるといった純粋なる信仰のために存在するのではなく、どこか‘怪しい’と判断して然るべきなのかもしれません。もしかしますと、教団設立の目的は別のところにあり、それは、秘かに野望を抱く教祖の信者利用や営利目的、あるいは、何らかの国際組織、もしくは諸外国の下部団体であるかもしれないのです。
オウム真理教に関する組織研究は、カルト教団や隠れた犯罪組織を識別する方法を知る上でも、大いに役立つ可能性があります。あらゆる権威が揺らぐ今日、知らず知らずの内に、‘悪しき組織’の協力者にさせられてしまうリスクは、誰にでもあるのですから。
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再生エネ法が成立して以来、日本の景観は変化を余儀なくされております。買い取り価格の高値設定による太陽光発電偏重から全国各地にメガ・ソーラが建設され、様々な問題を引き起こしています。このまま、同政策を継続して良いものか、法改正の検討を含め、一旦、立ち止まって考えてみる必要がありそうです。
再生エネルギーとは、化石燃料による発電からの脱却、並びに、原子力発電に替る自然に優しいエネルギーとしての期待を背負って登場してきました。自然エネルギーとも表現されており、いかにも耳に心地よく響きます。地球温暖化に対する国際社会における取り組みも許可される中、発電に際して温暖化ガスを排出しない再生エネルギーは、同問題解決の‘切り札’ともされたのです。こうしたメリット面を高く評価して、再生エネルギー普及促進に賛成した国民も少なくなかったことでしょう。
ところが、実際に蓋を開けて見ますと、再生エネルギー、特に、太陽光パネルによる発電は、思わぬ問題を投げかけることとなりました。それは、パネル設置には比較的広い土地を要するため、日本国内の土地利用に著しい変化が生じたことです。乃ち、‘太陽光発電開発’とも言うべき開発事業が全国レベルで展開され、農村における休耕田の転用のみならず、用地確保のために森林等も伐採されるに至ったのです。
休耕田については、日本国の食糧自給率を考慮すれば、太陽光発電用への積極的な転用は、農政として正しい方向性なのか疑問を抱かざるを得ないのですが、森林伐採に至っては、再生エネ普及の意義からしますと、本末転倒としか言いようがありません。何故ならば、森林こそ、削減対象となっている温暖化ガスを吸収する重要な役割を果たしているからです。ヨーロッパの森林は既に農地として切り開かれており、現在では森林面積が減少しているため、パリ協定などでは、森林の役割は軽視されていますが、森林の保全と植林こそ、二酸化炭素問題の重要な解決手段なはずです。ところが、日本国の場合、メガ・ソーラ建設のために、地球環境を保全するために最も大事にすべき森林が伐採されているのです。再生エネによる自然破壊は、おそらく、政府が、発電事業者の要望にのみ応えた結果なのでしょう。
加えて、再生エネ法の制定時には、太陽光発電を技術面で牽引してきた日本企業にも恩恵が及び、その波及的な経済効果にも期待が寄せられていました。しかしながら、この側面を見ても、今日、メガ・ソーラ用の太陽光パネルの大半は中国や韓国からの輸入品であり、発電事業者もまた、海外企業がひしめいているのです。国土が荒れ、美しい自然景観が損なわれる上に、事業利益も海外勢に集中し、しかも、電力料金だけは上昇するようでは、この政策、一体、誰のための政策なのか分からなくなります。再生エネが内包する偽善性や矛盾に気が付きませんと、一般の日本国民は、負担ばかりを押し付けられることとなるのではないでしょうか。少なくとも森林伐採を伴うメガ・ソーラの建設については、法律によって歯止めをかけるべきではないかと思うのです。
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外国人材受け入れ、製造業に拡大 政府、5分野に限定せず
自由貿易理論や市場統合理論の最大の弱点、あるいは、冷酷な点は、国家の国民保護義務を完全に無視するところにあります。否、この政治的な国家の役割を完全に無視しなければ、これらの理論は成り立たないのです。
先日、日本国政府は、国民的議論を経ることなく、不意を打つように農業、建設、造船、宿泊、介護の5分野に限定した外国人労働者の受け入れ拡大方針を決定しました。この方針に対しては一般の国民から反対や懸念も寄せられていましたが、政府は馬耳東風であり、受け入れ分野を更に製造業や水産業にまで拡大すると言うのですから驚きです。一般の国民が反対すればするほど、むしろ嬉々として逆方向にアクセルを踏んでいるようで、サディスティックな政府を持つ国民はまことに不幸です。カジノ法然り、公職選挙法改正然りです。
製造業や水産業にまで外国人労働者受け入れ分野を拡大させるとなりますと、さすがに国民の雇用不安を指摘する記事を載せるマスメディアも現れ始めています。AIの導入やロボット化によって事務職さえ雇用減少が予測されている中、政府は、一体、日本国民の将来の仕事についてどのように考えているのでしょうか。しかも、製造業を見れば、生産拠点の海外移転によって国内雇用が既に減少しておりますし、貿易不均衡の改善、並びに、途上国の成長支援の意味からも現地生産が増加する傾向にもあります。あらゆる分野において将来的な雇用機会の減少が懸念される状況において、外国人労働者を大量に受け入れるとなりますと、一般の日本国民は、賃金低下圧力に加えて、職を外国人労働者と競わざるを得ず、常に失業リスクに晒されることとなりましょう。
国家の最大の存在意義とは、国民の保護であるはずです。主権者である国民もまた、政府が義務として保護機能を果たすからこそ、統治を政府に委託しているとも言えます。ところが、自由化、あるいは、‘開国’を絶対善と見なす自由貿易理論や市場統合理論は、政府が自国民保護の義務を放棄するに際して、それを正当化する便利な方便として利用されており、国民からの反論や反対を許さないのです。国民には、政府に対して保護を求める正当なる政治的権利があるにも拘わらず…。
自由貿易理論も市場統合理論も、消費者利益を表看板に掲げながらも、その実、貿易やグローバル経営に携わる人々の利益を中心に据えて編み出された理論であり、それをそのまま政治の分野において政策化しますと、堰を切って押し寄せる自由化の波が激流となって国民に犠牲を強いかねません。政府は、今一度、自らが国民から付託されている役割が国民の保護であることを思い起こし、あらゆる流れを国民にとりまして安全なレベルに保つべく、国境における管理・調整能力こそ高めるべきと思うのです。
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「イスラエルはユダヤ人国家」 賛否分かれる新法が可決
1948年5月14日、イギリスの委任統治領であったイスラエルは独立を宣言し、ディアスポラ以来、‘流浪の民’となっていた‘ユダヤ人’は、念願の祖国を持つに至りました。今日、そのイスラエルにおいて、同国を‘ユダヤ人’の国家と再定義する法案が国会で可決されたそうです。
ヨーロッパにあって、‘ユダヤ人’には長きにわたって迫害されてきた歴史があります。反ユダヤ主義はナチス政権下のドイツにおいて極致に達しますが、歴史を具に観察しますと、‘ユダヤ人’は専ら被害者であったわけではなく、選民意識の強さからか、異教徒、あるいは、異邦人の立場から一般の人々を苦しめた加害者としての側面もあります。しばしば債務者の人生を破綻させる金融業の独占的支配のみならず、世界大の奴隷売買や麻薬密売等にも関与しており、一般の人々から危険視されるだけの理由はあったようなのです。そして、今日、‘ユダヤ人’が批判される理由の一つは、他民族の民族自決主義に対する非寛容性です。この側面は、今般の法案成立にあってはアラブ語を公用語から外すといった国内的な排除作用として表面化しましたが、対外的、あるいは、国際的には、他の民族の枠組を融解させる方向に強力に作用しています。
‘流浪の民’であった故に、‘ユダヤ人’は、長きにわたる年月を費やして人的ネットワークを全世界に張り巡らしてきました。こうした世界大の民族・宗教的なネットワークを有するのは、唯一‘ユダヤ人’のみです(もっとも、‘ユダヤ人’は、その発祥からして混成民族であった可能性が高く、かつ、今日では、定住地での混血や改宗等を通して構成が多様化している…)。‘ユダヤ人’のみが、現実の歴史をも裏から動かし得る国境を越えた‘プラットフォーム’を保有しているのです。仮に、こうした‘ユダヤ人’のネットワークが民族的出自を同じくする人々による親睦的な組織であれば、あるいは、啓蒙思想等が内包する人類愛と結びついていた時代には、然したる問題は起きなかったかもしれません。ところが、そうとばかりは言えないようなのです。
世界大のネットワーク、並びに、金融業等で成した莫大な資金力を擁する故に、‘ユダヤ人’の影響力は絶大です。各国の世論を誘導し得るマスメディアの多くもユダヤ系です。その隠然たる組織力とマネーの力を以ってすれば、外交・安全保障政策や移民政策など、裏から各国の政治家をコントロールし、歴史を裏から動かすことは決して不可能ではありません。また、カール・マルクスを始め、‘ユダヤ人’の中には、民族の固有性に関心を払わず、‘唯物的世界観’や‘世界市民主義’的な理想論を掲げる思想家も少なくありませんでした。常に諸国にあって‘異邦人’であった‘ユダヤ人’には、おそらく、他の一般の国民に対する反感や否定的な感情が、迫害に対する恨み、あるいは、逆恨みと混然一体となって染みついているのでしょう。
同法案は、その意図するところの解釈に難しさがありますが、「イスラエルはユダヤ人にとって歴史的な母国であり、民族自決権はユダヤ人の独占的権利」と書かれており、一読しますと過激な表現にも思えます。しかしながら、逆に、民族自決権が他民族にも開放されれば、植民地支配や異民族支配、あるいは、移民支配は簡単に成立しますので(もっとも、イスラエル居住するアラブ系国民は先住している…)、何れの国の固有民族にあっても、民族自決権は、‘手放したら最後’となる死活的権利です。今日の基本的な国際体系は、人類の人種・民族・民族的気質の違いによる枠組を基礎とする国民国家体系ですので、歴史的民族の枠組の消滅は、国家、即ち、祖国の消滅をも意味しかねないからです。
法文に見られるイスラエルの民族自決権への執着は、ある意味において、自らの祖国を維持したい全ての民族の自然な思いの極端な形での表現なのですが、‘ユダヤ人’が、移民推進政策を世界規模で後押ししていることを踏まえますと、民族自決権力を自らの民族にしか認めようとはしていないようにも思えます。ここに、‘ユダヤ人’の選民思想の問題点としての深刻なダブル・スタンダードが見て取れるのです。神から選ばれた‘ユダヤ人’だけが、唯一の民族、あるいは、超人類であり、他の民族は雑多な‘烏合の衆’としてその被支配者か、あるいは、下等な別種として扱いたいのでしょうか。仮に、そうでありましたならば、この傲慢で冷酷な態度こそ、ユダヤ人迫害、あるいは、反ユダヤ主義を引き起こしているとも想定されます。あるいは、現在、‘ユダヤ人’は、自らも国民国家の一つとなることを認めるイスラエル派と全世界支配を目指す非イスラエル派に分裂しているのでしょうか。
人とは、‘自らを尊重する相手を尊重する’とされていますが、果たして、‘ユダヤ人’は、対等な立場から他の民族を尊重し、隣人として暖かい眼差しを以って接してきたのでしょうか。‘ユダヤ人’もまた、自らの来し方を自戒すべきなのではないかと思うのです。
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イラン、核合意離脱で米を国際司法裁に提訴
報道に拠りますと、トランプ政権によるイラン核合意からの一方的な脱退を受けて、イランは、アメリカによる制裁再開の停止や同国が被った被害の補償等を求めて、ICJ(国際司法裁判所)に提訴したそうです。しかしながら、このイラン側からの訴訟、違和感を覚えざるを得ないのです。
訴状の具体的な内容については詳らかではありませんが、おそらく、一方的な合意離脱の国際法上の合法性が問われるものと予測されます。条約の無効や脱退の条件等を定める「条約法に関するウィーン条約」を読みますと、確かに、締約国の一国による一方的な合意からの脱退は、国際法上の違法行為とする見方もあり得るかもしれません。しかしながら、イラン核合意は極めて特異なケースです。
そもそも、2015年のイラン核合意は、イランによる国際法違反に端を発しています。イランは、NPT(核拡散防止条約)に1970年の発足当初から加盟しており、締約国としての核不拡散の義務を負っているはずでした。ところが、通常の原子力発電では必要のない高濃度イランの製造をイランが始めたことから、秘密裏に核開発を進めているのではないか、とする疑いが持ち上ったのです。
このことは、イランは、自らのNPT違反疑惑を全く無視して、イラン核合意の違法性だけを切り取ってICJに提訴したことを意味します(なお、ICJの手続き上、提訴には相手国政府の合意が必要ですが、ICJは、イランからの提訴を受理した模様…)。NPTは、国際社会の‘刑法’に喩えるべき一般国際法ですが、イラン核合意は、関連諸国による任意の多国間合意に過ぎません。しかも、核合意の内容には重大な欠陥があり、確実、かつ、永続的にイランが核開発計画を放棄する保証はどこにもないのです。果たして、イランからの提訴を受けたICJは、どのように対応するのでしょうか。
こうした経緯から考えますと、イランの核開発問題に対して、関連諸国による国際合意による開発停止という解決手段が適切であったのか、という疑問も湧いてきます。乃ち、この時、NPT条約違反の疑いありとして、ICJといった国際司法機関にストレートにイランを訴えた方が法的にはすっきりとした解決が実現したかもしれないのです。そして、この方法は、今からでも遅くはないのかもしれず、イランもアメリカをICJに提訴した以上、自らも司法解決の提案を受け入れざるを得ず、判決が下されれば、当然に従うべき立場に置かれます。
加えて、国際司法機関への提訴は、北朝鮮の核問題に対しても取り得る選択肢の一つともなります。仮に、既に核保有を宣言している北朝鮮に対してこの方法を適用するならば、NPT締約国としての義務違反、NPTからの一方的脱退の合法性、並びに、国連安保理決議の不履行等が訴因となりましょう。イランによるICJへの提訴は、同国の思惑とは全く違った影響を国際社会にもたらすかもしれないと思うのです。
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現在、ロシアは、強引な手法でクリミアをウクライナから奪い、自国に併合した行為を咎められ、国際社会から厳しい経済制裁を受けております。特に、長期に亘ってロシアの脅威に晒されてきたヨーロッパ諸国の態度は硬く、対ロシア制裁が解かれる気配はありません。
ロシアのクリミア併合はその合法性において欠落があり、軍事力を背景にした‘一方的な現状の変更’を支持するつもりはありませんが、それでも、中国と比較しますと、国際社会はとりわけロシアに対しては厳罰で臨んでいるように思えます。
クリミア半島は、第二次世界大戦中にスターリンによって追放されたクリミア・タタールの地であるとする説もありますが、ユーラシア大陸には遊牧民族が闊歩していたため、同半島に対して正当な領有権を主張できる国、又は、民族は何れか、という問題について、解を見出すことは簡単ではありません。紀元前に遡り、恰も文明の十字路の如く、ローマ人、ゴート族、フン族など様々な民族がその歴史を彩っています。13世紀におけるモンゴル族のバトゥのヨーロッパ遠征以降、この地には上述したタタール族が入り、暫くはクリミア・ハン国として栄えました。ロシア領となったのは、1768年の露土戦争に際して帝政ロシアが、オスマン・トルコ帝国の属国となっていた同国を独立させ、1783年にはロシア領として併合してからのことです。さらにウクライナ領とされたのは、第二次世界大戦後、ソ連邦のフルシチョフが同領域をウクライナに移譲した1954年のことなのです。
クリミア半島の歴史は、遊牧民族を含む様々な民族が興亡してきたユーラシア大陸における国境線の線引きの難しさを示していますが、ロシアの主張にも、歴史的な根拠が皆無なわけではありません。しかしながら、国際社会は、クリミアの変遷について歴史的な考察を加えることなく、ロシアに対しては厳罰を以って臨んだのです。
もちろん、ロシアに歴史的な根拠があるとはいえ、正当なる手続きを経ずして一方的に併合した行為に対しては、国際法秩序の維持の観点からすれば、厳しい制裁を科すべきはあります。しかしながら、その一方で、中国は、他の諸国の領有権主張を完全に無視し、「九段線」を根拠に南シナ海の諸島を一方的に占領しています。しかも、根拠とされた「九段線」は、2016年7月12日に、常設仲裁裁判所において国際法上の歴史的、並びに、法的根拠としての有効性を完全に否定されています。
本来であれば、中国が同判決を‘紙屑’として破り捨て、その履行を拒否した時点で、国際社会は、中国に対してロシアと同等、あるいは、それ以上に厳しい制裁を科すべきでした。ところが、何故か、中国に対しては、国連安保理に対して制裁を訴えたり、独自制裁に踏み切る国はなく、国際法秩序を破壊する行為を野放しにしてしまったのです。今般、アメリカ国内では、トランプ大統領の対ロ融和が批判を浴びておりますが、軍事的脅威や他国への政治介入の程度からすれば、オーストラリアで既に表面化しているように、中国の方がよほど危険な存在です。
中国は、北朝鮮危機の影に隠れるかの如く、南シナ海の軍事要塞化をほぼ完成したとも報じられております。国際社会はダブル・スタンダードを排し、国際法秩序を護るために、対中制裁を検討すべき段階に至っているのではないかと思うのです。
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中国とEU、保護主義反対を確認 対米結束演出
比較優位説、あるいは、比較生産費説は、今日にあっても自由貿易を支える基本中の基本の理論です。其々優位分野が違う国家間のおける貿易が、如何にして相互に利益をもたらすのかを端的に説明しており、誰もがこの説を持ち出されますと納得してしまいます。しかしながら、原点に返って考えても見ますと、案外、非情な理論なのではないかと思うのです。
何故、非常なのかと申しますと、必然的に、この理論に従えば、各国とも相対的に競争力の弱い分野が淘汰されることを、全面的に肯定しているからです。理論としては正しくとも、人間社会において一部の産業やその従事者の淘汰を是認するとなりますと、本来であれば、どこかに良心の痛みを感じるはずです。ところが、比較優位説という権威ある名の下で国際貿易理論として不動の地位を築いてしまいますと、この理論には、倫理・道徳的な問題が潜んでいることが見逃されてしまうのです。否、この説を批判しようものなら、‘異端者’扱いされて迫害されかねないのです。
例えば、極めてシンプルな事例として、A国とB国との間の貿易にあって、A国には工業製品に優位性があり、B国には農産物に優位性があったとします。比較優位説に忠実に従えば、A国が工業製品の輸出を増やす一方で農業分野を見捨て、B国では、工業製品の生産を諦めて農産物の輸出を増やせば、両国間で最適な国際分業が成立しますし、両国とも優位分野での輸出増により一定の貿易上の利益を獲得できます。一見、完璧な国際分業体制が成立しているように見えるのですが、その実、両国ともに、劣位産業において、すなわちA国では農業が、B国では工業が深刻なマイナス影響を蒙ってしまいます。そして、それは、その特定産業の衰退とそれに伴う失業の増大を意味するのです。
もちろん、劣位産業で生じた失業者が優位産業に移動する、あるいは、新たな産業に吸収されれば、ある程度はマイナス効果を低減することはできるのですが、それでも、産業間の労働力移動は簡単なことではありませんし、上記の事例におけるA国のように、農業が劣位産業となる場合には、農村の存続や国土利用の問題とも直結します。自由貿易の結果、A国内では、長い歴史を経て育まれてきた共同体的な村落が崩壊し、農地も荒れ果ててペンペン草が生えるか、あるいは、太陽光パネルが敷き詰められるという殺伐とした光景が広がるかもしれないのです。必ず貿易相手国の誰かを犠牲にしなければ成立しない理論には、首を傾げてしまうのです。
比較優位説とは、本当は劣位産業に対して極めて冷たい理論であるとしますと、今後とも、この理論を基礎とした自由貿易体制を維持することには疑問があります。相互に相手国の一部産業や国民に犠牲を強いることのない、一般の人々に対してより優しい国際通商体制こそ構築してゆくべきなのではないでしょうか。こうした意味での保護主義の復活、あるいは、新たな体制に向けての出発であるならば、それは、全人類にとりましても大いに歓迎されるべきことではないかと思うのです。
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