万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

‘象徴天皇’を考える-不可能要求の問題

2024年08月30日 12時01分52秒 | 日本政治
 現行の日本国憲法は、不可能な事を国家並びに国民に強いてきました。常々議論されてきたように、憲法第九条を見ましても、これを文字通りに解釈すれば、日本国は、他国から侵略を受けても自然権ともされる正当防衛権さえも発動できない無防備状態に陥りかねません。そしてもう一つ、不可能条項を挙げるとすれば、それは、第一条が定める象徴天皇なのではないかと思うのです。

 日本国憲法の第一条には、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とあります。大日本帝国憲法の第一条は、「大日本帝国ハ万世系ノ天皇コレヲ統治ス」と記していますので、それがポツダム宣言を受け入れた結果としてのGHQの方針であれ、現行の憲法の制定は、統治者、すなわち、政治権力を行使し得る立憲君主に類する立場にあった天皇を‘象徴’とすることで、日本国の体制を大きく転換させたとも言えましょう。

 戦後の日本国の民主主義体制への転換を、まさしくこの第一条が‘象徴’にしたために、国民の多くは、象徴という新たな天皇の立場を歓迎したことでしょう。また、日本国の歴史を通しての伝統的な天皇像は、権力者ではなく祭祀を司る権威者でしたので、この転換をもって、明治維新を機として導入された西欧由来の立憲君主モデルから日本古来の在り方への回帰(復古)として捉えた人も少なくなかったかもしれません。何れにしましても、憲法上にあって天皇を国家並びに国民統合の象徴したことに対して、圧倒的多数の国民が賛意を示したのです。

 ところが、憲法における‘象徴天皇’の公的役割については、全くもって不明瞭です。現行の憲法にあって天皇の具体的な公務として定められているのは、第六条の任命権や第七条の国事行為のみです。このことは、憲法の制定過程にあって、草案の作成者達の専らの関心が、‘総覧者’とされながらも立憲君主として天皇が有していた統治上の政治権力をなくし、名実ともに形骸化することにあったことを示しています。言い換えますと、伝統的な天皇の役割が十分に考慮されたわけではなく、それ故に、‘象徴’という天皇のシンボル化の一言をもって第一条の条文が決定されたのでしょう。現憲法の制定は、GHQによる占領期に行なわれていますので、‘象徴’という発想にも、明治期と同様の‘外来性’が認められます。

 かくして、‘象徴天皇’は反対や反発を受けることも、深刻な混乱を招くこともなく、戦後にあって国民に受け入れられることとなったのですが、今日に至り、憲法制定時に天皇を公的な役割を曖昧にしたことが、混乱を齎しているように思えます。出発点にあって、一個の個人としての人格をもつ人というものが国家や国民統合の象徴となり得るのか、という根本的な議論が抜け落ちていたからです。国旗や国歌、あるいは、国花や国鳥と言ったシンボルやエンブレムは非人格的な存在ですので、存在するだけで象徴することができます。誰かの権利が侵害されたり、政治的な影響を受けることもありません。その一方で、人には自らの意思があり、人格も備わっています。象徴の地位が世襲制の下での自動的な継承ともなりますと、これは、やはり不可能、もしくは、可能であってもその弊害が大きすぎると言わざるを得ないのです。

 たとえ神武天皇に遡る血統の飛び抜けて濃く引く人が就任したとしても、一国を象徴し得るほどの高潔な人格、あるいは、徳の高さが必ずしも保障されているわけではありません。世襲である以上、偶然に左右されるのであり、制度上、最悪の場合には、強欲で極悪非道な人物であっても世襲によって一国の象徴となることができます。世襲制がもたらす惨事は、象徴の地位に限らず、古今東西を問わず、人類が痛いほどに経験してきたことです。しかも、先日の記事で述べたように、今日の天皇にあっては、地位と血統が分離していますので、ごく普通の国民の一人が日本国を象徴するという、訳の分からない事態に至ってしまうのです。

 また、現行の憲法では、天皇を国家のみならず、国民統合の象徴ともしています。曖昧な表現ではありながら、一先ずは、これをもって公的な役割としているのですが、統合機能を一人の人格が果たすことは、上述した国家の象徴以上に至難の業です。誰もが否定し得ないほどの飛び抜けた超越的なカリスマ性が備えていたとしても、全ての国民に対して求心力を発揮することは不可能とも言えましょう(完璧であることが嫌われたり、忌避感を持たれなる理由となることも・・・)。あるいは、カリスマとまでは言わないまでも、球心型の統合には、最低限、全国民の自発的な合意を要するのですが、世俗の欲にまみれた皇室の現状見る限り、国民の多くが天皇や皇族の存在をもって日本国民が纏まっているとは見なしていないことでしょう(無関心な国民も多く、進学問題のみならず、皇位継承に関しても世論の分裂が見られる・・・)。

 以上に述べてきましたように、合理的かつロジカルに考えますと、そもそも不可能な事柄を現行の憲法は要求していることとなります。人類というものが理性を高め、精神的にも進化を遂げているとしますと、国家の体制も成長に合わせた改良や調整が必要であり、かつ、それこそがより自然な対応なのではないでしょうか。既に窮屈で不合理となった体制に国民を無理に押し込めておく方が、よほど国民の精神的な成長を阻害するのではないかと思うのです。

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皇族の世俗的上昇志向―地位と血統との不一致

2024年08月29日 11時50分32秒 | 日本政治
 皇族の進学問題が波紋を広げた理由は、それが、日本の大学の頂点とも言える東京大学を入学目標に定めていることにもあります。何故ならば、この目標設定、並びに、同校入学に向けた様々な作戦は、並々ならぬ世俗的な上昇志向を示しているからです。

 今日に至るまで、皇族の存在は、『日本書紀』や『古事記』に記されている日本国の建国神話に支えられております。世俗の世界にありながらも、神々の世界から天下った神の子孫とする位置づけであり、市井の人々らしますと‘雲の上の人々’であり続けたのです。こうした天皇は神々の子孫とする観念は、近現代の遺伝学のみならず、敗戦を機に発せられた昭和天皇による「人間宣言」によっても否定されることになったのですが、それでも暫くの間は、国民の中にあって皇族を一般の人々とは異なる神聖なる血筋の人々とする意識は残ったのです。

 実のところ、記紀神話なくして皇族の権威も保ち得ないことは偽らざる真実です。このことは、逆の視点から見ますと、神聖なる血統、即ち、神武天皇に遡る皇統を全く継いでいない、あるいは、一般の国民と同程度にしか皇統の遺伝子を持たないならば、国民が、天皇や皇族を敬う理由も根拠も存在しないことを意味します。天皇や皇族という法律上の地位はあっても、同地位にある人々は、いたって普通の人々であり、世襲制度による出生や婚姻等によって偶然にその立場にある人々に過ぎなくなるのですから。言い換えますと、地位と血統が一致せず、両者が分離するのであり、前者は法律上の地位として権威を纏うことはできても、後者は必ずしも権威とはなり得ず、一般の国民にとりましては‘無関係な他人’ともなりかねないのです。

 そして、こうした現代における地位と血統の不一致、あるいは、分離は、後者が前者の伝統的な天皇の権威を否定するという、由々しき自己否定を伴う自己分裂の問題をも必然的に人々に投げかけることとなります。古くは『魏志倭人伝』に記された卑弥呼とその弟の難升米の関係に見られるように、祭政二重構造が一般的であった日本国にあって、天皇は、神話に由来する権威だけは維持してきた歴史があります。このことは、人々が、天皇に対して世俗の権力とは別次元の能力、即ち、一般の人々が持ち得ない超自然的な能力を求めたことを意味します。それは、天神地祇に祈願して自然災害や禍を鎮める力であり、戦争を勝利に導く祈り力でもあったのでしょう。天皇の権威にとりまして不可欠の成立要件こそ、神秘性を纏った神に連なる皇統に他ならなかったのです。否、現実にあって超自然的なパワーを発揮せずとも、人々が、神々の子孫である天皇にはそのような力が備わっていると‘信じる’ことが、権威の源泉となり得たのです。

 しかしながら、地位と血統が分離し、皇族の皇統が薄れる、あるいは、失われますと、人々は、もはや天皇に対して伝統的な役割を期待し得なくなります。今日の日本国憲法では、天皇を国家並びに国民の統合の象徴と定めていますが、統合の役割も、伝統的天皇観に基づく権威の存続を前提としています。統合には、信仰に類する求心力を要するからです。ところが、現実には地位と血統が分離しており、後者の血統においては国民と然したる変わりはありません。つまり、国民に対して‘超越性を帯びた特別な血統’を主張することは、最早不可能な段階に至っているとも言えましょう。

 今般の秋篠宮家の進学問題も、地位と血統との分離による伝統的な権威喪失を、世俗の権威を手にすることによって補おうとする願望が招いた結果なのかもしれません。世俗の権威ともなりますと、当然に、一般の国民との間の獲得競争が待っています。そこで、前者の伝統的な地位に伴う特別の立場を利用し、自らに有利な方向に公的なルールを変え、制度を整えようとしたのが、今般の秋篠宮家の‘悪手’であったのでしょう。何故、‘悪手’なのかと申しますと、先ずもって、国民の多くが皇族の世俗的優越志向、否、他の国民よりも上に立ちたいとするあからさまな上昇志向を目の当たりにすることで、‘象徴天皇’の名の下で糊塗されてきた地位と血統の分離に気がついてしまうことになりました。さらに、公的な地位を自らの私欲のために利用しようとしたため、国立大学の受験という公平であるべき制度が歪められ、社会的な危機をも齎してしいます。その上、推薦入学に頼ろうとする態度が、一般受験では不合格となる可能性が高く、学力が芳しくないことをむしろ露呈してしまっているのですから、逆効果と言わざるを得ないのです。

 地位と血統との不一致あるいは分離の問題を抱える今日、天皇並びに皇族については、その存在意義を問い直すための国民的な議論を要する時期に至っているように思えるのです(つづく)。

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皇族の東大推薦入学の是非

2024年08月28日 09時41分42秒 | 社会
 学習院の開設は、江戸末期の弘化4年(1847年)に遡り、以後、皇族の学び舎とされてきました。明治17年には宮内省所轄の官立学校となりますが、戦後は、皇族や華族の子弟に限らず、一般国民にも開放されると共に、私立大学として再出発することとなります。創立の経緯からしても学習院は皇族のために設けられた特別の学校であり、当然に皇族が入学試験を受けることはなかったことでしょう。

 学習院=皇族の学校という構図は戦後も暫くの間は維持されてきたのですが、秋篠宮家の長女眞子さんから学習院離れが始まり、今般、新たな問題が持ち上がっています。それは、長男である悠仁氏の進学問題です。皇嗣の嫡男となりますので、現行の皇室典範によれば、将来、天皇の位に就くものとされています。悠仁氏も、幼稚園から中学校までの期間はお茶の水大学の付属学校で学び、高等学校は、筑波大付属高校に進学し既に学習院から離れています。しかしながら、これらの学校の選択に際して特徴となるのは、何れも、国立の学校を選んでいるという点です。

 それでは、何故、悠仁氏の進学問題が国民の関心、否、批判を浴びているのかと申しますと、入学希望の大学が、国立の東京大学であるとされているからです。しかも、高校入学時と同様に、他の志願者と一緒に一般入試を受けるスタイルではありません。学校推薦での入学を目指しており、そのための‘実績’を積んでいるというのです。悠仁氏は、第一線の研究者と共同でトンボに関する論文を執筆し、8月25日に京都市で開催された「国際昆虫学会議」にあってはポスター発表を行なっています。これらの研究活動は、東大の推薦入学を勝ち取るための‘戦略’と見なされているのです。

 同戦略が、不公平であることは言うまでもありません。他の一般の高校生達が、推薦入学の条件を満たすために、その道の専門家と共同研究できる可能性はほぼゼロであるからです。入学試験とは競争試験である以上、推薦入学も含めて全ての参加者に対して競争条件を同一にしませんと、結果の信頼性をも失われてしまいます。とりわけ、国立大学の入試にあっては、平等原則は徹底されるべきです。推薦入学であっても、他者の手を借りた‘実績’は、自らの実力とは言いがたく、決して平等も公平でもないのです。

 秋篠宮家が皇族という特別の地位を自らのために利用したことは明白です。否、かつての学習院のように無試験で入学できるのではなく、競争試験を経なければならない現代であるからこそ、その裏口的な手法の姑息さが目立ってしまうとも言えましょう。皇族が、率先してアンフェアな行為を行なうのでは、‘国民に対して示しが付かない’と考えるのが、一般国民の常識的な反応なのではないでしょうか。

ところが、この件に関して脳科学者の茂木健一郎氏は、全く逆の意見を述べています。国民からの批判を人権侵害とした上で、「そんなご不便をかけてるんで、それを特権とかいうのは本当に心が貧しいな。全体を見れない方たちだなと思う」として。同氏の見解では、<皇族は特別な存在である>⇒<自由が束縛されている>⇒<束縛がある分、国民は、皇族の些細な私的要求は受け入れるべき>ということになります。つまり、‘特別な存在である皇族の要求を批判する国民の方が悪い’という論理なのです。しかしながら、この論理は、茂木氏の個人的な皇族観に基づく主張ですし、必ずしも正しいわけでもありません。社会の公平性を損ねる私的要求の抑制こそ、皇族に課された最も重要なる‘束縛’であるとも言えるからです。

 古今東西を問わず、君徳や帝王学が存在してきましたので、後者の方が国民一般が権力者や権威者に求めてきた倫理的な規範なのでしょう。むしろ、公的権威の私的利用が許されると考え(伝統的な倫理観に反する・・・)、上から目線で国民の批判を封じようとする茂木氏の論理は、どこか倫理観が倒錯しているようにも思えます。同氏は、批判する人々に対して「全体を見れない方たち」と表現して軽蔑していますか、同氏が全体を見ることができるのであれば、‘特別な存在とは何か’、‘権威の源泉とは何か’、そして、‘統合の役割とは何か’といった、天皇や皇族の根本的な存在意義や今後の在り方まで掘り下げた議論を提起すべきではないかと思うのです(つづく)。

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政治家によるSNSブロック問題-独裁者としての資質

2024年08月27日 10時24分02秒 | 日本政治
 来る自民党総裁選挙では、かねてより出馬が囁かれてきた河野太郎氏も、予測通りに立候補を表明することとなりました。同氏は、必ずしも国民から信頼され、好感を持たれているとは言い難い政治家です。ワクチン接種推進担当大臣を務めた際には、無責任かつ国民の命を軽視する冷酷な発言を繰り返しましたし、デジタル大臣としても、マイナンバー・カードの使用を余儀なくさせるような姑息な手段などに訴えているからです。世論調査では‘首相になって欲しくない政治家’のトップ3には常に顔を出すのですが、コロナワクチンにせよ、デジタル化にせよ、グローバリストの計画に沿った行動を見せていますので、世界権力からの覚えはめでたいのでしょう。マスメディアの持ち上げ方を見ましても、同権力に対する高い忠誠心と国民多数の反発や反感を無視するという意味での‘突破力’は、自民党総裁選における立候補者にあってトップクラスなのでしょう。

 さて、報道に因りますと、総裁選挙への立候補に際しての質疑応答にあって、河野氏はSNSにおけるブロック問題について釈明したそうです。自らのXにて特定の投稿者をブロックをした理由を投稿内容が誹謗中傷であったとした上で、他の人々にも誹謗中傷対策としてブロックを薦めたというのです。同言い訳に対しては、国民の声を聞くことが重要な政治家の仕事の一つですので、河野氏の政治家としの資質を問う批判の声が多数寄せられることにもなったのですが、同一件によって、河野太郎氏は日本国の首相に相応しくないと確信した国民も少なくなかったのではないかと思います。

 統治とは、そもそも国民の必要性から生じてきた公的機能ですので、政治家が国民を遮断する、すなわち、ブロックした場合、国民のニーズを把握したり、国民の要望を知ることはできなくなります。また、国民からの批判をシャットアウトしたのでは、政策改善のためのフィードバックも難しくなりましょう。今日、SNSは、それがコメント投稿という形であれ、政治家が国民と直接に接し、生の声を聞くことができる貴重な場を提供しています。いわば、国民が公開の場で政治家に対して発言し得る唯一の場とも言えましょう。このため、政治家が一方的にSNSでブロックしますと、国民の声の遮断行為として受け止められてしまうのです。言い換えますと、ブロックするような政治家は国民の声を聞くつもりは毛頭なく、独裁者のように国民を一方的に支配したいのではないか、とする疑いを持たれてしまうのです。

 かくしてブロックという行為自体が独裁者の資質を認識するに十分なのですが、それでは、投稿内容が誹謗中傷であればブロックは許されるのでしょうか。河野氏の釈明は、国民の声を全てブロックしているのではなく、単なる悪口や言葉の暴力ともなり得る誹謗中傷のみを排除しているというものです。確かに、SNSには、通常、ブロック機能が設けられており、悪意のある投稿者、あるいは、不特定多数の投稿者による誹謗中傷からユーザーを保護する役割を果たしています。

 しかしながら、河野氏の場合、誹謗中傷の判断は自らの主観のみに基づいています。同氏が、誹謗中傷と見なした投稿は、それが真っ当な意見や批判等であったとしても、‘誹謗中傷’として排除されてしますのです。実際に、新型コロナワクチンの被害を訴えた女性がブロックされる事件も発生しており、この懸念を裏付けています。独裁者とは、常に自らの耳に心地よい意見や取り巻きの追従しか聴きませんし、真摯な批判や誠実な諫言は遠ざける傾向にあります。ここにも独裁者の特性との共通点が見られるのであり、同氏の総裁選での勝利を国民の多くが懸念する理由となりましょう。

 しかも、国民の多くは、ブロック対象者が実際に誹謗中傷を書き込んだのか、確かめる術もありません。24時間、河野氏のSNSをチェックしているわけではないからです。上述したワクチン被害を訴えた女性に対するブロックの場合には、同女性が集団訴訟に参加したためにマスメディアでも報じられることとなりましたが、他にも政治的な意見や正当なる批判を投稿した人々が密かに、かつ、瞬時にブロックされてきたことでしょう。ブロックはアカウント保持者が一方的に行なうことが出来ますので、‘誹謗中傷’とは、体よく自らに対するネガティブな意見を排除してしまう口実としか思えないのです。そして、この意図が透けて見えるからこそ、国民の多くが河野政権誕生を警戒するのではないでしょうか。

 結局、SNSブロック問題についての釈明は、河野氏が自らの独裁者としての資質を証明する場となってしまったかのようです。そして、この素質こそが、国民世論とは逆に、独裁体制を志向する世界権力が河野を高く評価する理由なのではないかと思うのです。

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民営化には民意を問うべき-東京メトロ株売却問題

2024年08月26日 09時13分05秒 | 日本政治

 民営化という言葉には、どこか‘民のため’というイメージがあります。非効率で旧態依然としていて無駄も多く、見えないところで政治家の利権も疑われる公営よりも、費用対効果を重視する民間の事業とした方が、国民の利便性向上にも利益にも資するというイメージです。しかしながら、現実は、この期待を裏切る事例が後を絶ちません。およそらく、公共交通事業やエネルギー供給といった公共性の高い事業を民間に任せてしまうと私的独占が生じてしまい、国民が不利益を被ってきた歴史をすっかり忘れてしまっているのでしょう。

 歴史的経験からしましても、官民の間の線引きについては、不特定多数の人々が使用する施設やプラットフォームを要する公共性の高い事業は公営に、そして消費者が自ら自由に選択し得る製品やサービス事業は民間に、という棲み分けが望ましいということになりましょう。しかしながら、80年代後半以降に歴史の表舞台に躍り出た新自由主義がこの区別を曖昧にし、‘民営化こそ正義’という流れを造ってしましました。本来、公営であるべき領域をも浸食する行き過ぎた民営化なのですが、日本国政府は、同方針を凡そ38年間も頑なに堅持しており、未だに軌道修正、あるいは、官民境界線の適性化の兆しが見えません。むしろ、ブレーキではなくアクセルを踏んでいるかのようなのです。

 それでは、何故、日本国政府は、民営化に向けて38年間もアクセルを踏み続けているのでしょうか。主たる理由は、日本国の政治家が海外の資本家やグローバリストへの優先的な利益誘導を自らの‘仕事’としてしまったことにあるのですが、これを可能としているのが、‘民営化隠し’とも表現すべき政治サイドの隠密行動であるように思えます。つまり、国政レベルであれ、地方自治体レベルであれ、選挙に際しての政策論争の争点から、巧妙に民営化問題を外してしまっているのです。

 この点、今から16年前の2007年の郵政民営化に際しては、当時の小泉純一郎首相は、‘郵政民営化解散’に訴えたため、一先ずは、国民の合意を得る形で実施されています。郵政事業の場合には、郵便や金融など民間事業者と競合するサービス業が含まれていましたので、一定の国民からの理解を得ることができたのでしょう(しかも、国民は、民営化の結果についてはまだ知るよしもない・・・)。しかしながら、その他の民営化事業を見ますと、国民に是非を問うことなく、政治サイドの決定によって一方的に民営化作業が進められています。東京メトロの株式売却につきましても、唐突に10月上場の方針が発表されており、先日行なわれた東京都知事選にあっても、何れの候補者も、東京メトロの民営化に関する自らの見解を明らかにしていませんし、また、それを選挙の争点として論じようとはしなかったのです。

 公費で建設された都営地下鉄は、いわば、国民並びに都民が権利を有する公有財産でもあります。政治サイドによる一方的な決定による民営化は、所有者の合意なくして公有財産を勝手に売り払うに等しくなります。いわば、政治家による国有財産の私物化でもありますので、政治倫理のみならず、権利に関する法的要件に照らしましても、民営化に際しましては、権利者である国民や都民の合意は不可欠なのではないでしょうか。

 もっとも、公費で建設した不可欠施設が公有財産であるとしますと、所有と運営を切り離し、運営事業体のみを民営化し、施設に関する所有権は、国と都に残すとする選択肢もないわけではありません。この場合、運営事業体は、国や都に使用料を支払うことになり、両者ともに一定の収入は確保できます。ただし、公共性の高い事業を民営化する必要性は低いことに加え、同ケースでは、莫大な建設費やメンテナンス費等は所有者である国や都から支出されることになります。同方法でも、やはり民間事業体の株式保有者が最大の利得者となりましょう。

 以上に述べた諸点から、選挙に際しては、少なくとも‘○○事業を民営化します’とする公約を掲げる、あるいは、‘○○事業の民営化に支持を’と訴えて争点化すべきです。国民や都民の合意なくしての当選後の同事業の民営化は、権力の濫用、あるいは、不法行為に当たるとも考えられるのですから(行政訴訟の対象に・・・)。なお、地方自治体レベルであれば、民営化の是非を問う手段として住民投票を実施することができます。

 こうした政治サイドにおける‘民営化隠し’は、今般、注目を集めています自民党総裁選挙にあっても顕著に見られます。どの候補者も、東京メトロの株式売却問題について触れようとはしないからです。公営事業の民営化は、国民や都民の共有財産の処分問題ですので、自民党総裁選が、事実上、日本国の首相を決める選挙である以上、全ての立候補者は、東京メトロの民営化についての賛否の立場を表明すべきではないでしょうか。そして、国民も都民も(総裁選の場合はもちろん党員も・・・)、自らの権利に関する最も重要な政治課題の一つとして、全立候補者に対して民営化の是非を問いただすべきではないかと思うのです。民営化は特定の民間人のための利益誘導策であってはなりませんし、官民間の適切な線引きが実現されなければならないのですから。

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東京メトロ株売却はそもそも必要ないのでは

2024年08月23日 11時40分13秒 | 日本政治
 今般、東京証券取引所での上場が取り沙汰されている東京メトロをはじめ、日本国政府並びに地方自治体による公営事業の民営化は、レーガノミクスやサッチャリズムが時代の潮流であった38年前の決定を踏襲したものです。今日、新自由主義並びにグローバリズムは曲がり角を迎え、既に潮目が変わりつつあります。見直し論が高まる中にあって、既定路線通りに東京メトロの株式売却を進める必要性は、一体、どこにあるのでしょうか。

 報道に因りますと、東京メトロの運営状況は、‘最近24年4~6月期の連結決済‘を見ますと、売上高が前年同期比で6%増えで1019億円、営業利益は同34%増の290億円、純利益は同38%増の180億円なそうです。何れも前年同期と比較して増えているのは、コロナ禍後の外出や公共交通機関の利用の機会の増加、即ち、平常化に伴うものでしょうから、今後とも、同程度の収益が見込まれることでしょう。

民営化を訴える際の主要な根拠の一つは、公営事業にしばしば見られる慢性的な赤字体質の改善です(赤字補填は財政逼迫化の要因・・・)。しかしながら、上記の東京メトロの収益状況の数字を見る限り、この指摘は当たりません。むしろ、純利益を四半期で180億円もあげれば、政府や都、否、国民や都民にとりましては’ドル箱‘ならぬ’円箱‘となりましょう。純利益の使途についての詳細は分からないものの(事業収益として政府や都の歳入となる?)、上場後は、少なくとも民間株主には配当金を支払わなければなりませんので、一般の国民や都民への還元率は下がります。

 また、もう一つの民営化の有力な根拠は、経営の効率化並びに合理化です。民間企業とは違い、過剰な人員を抱え込んだり、不要な公共調達が日常化しても合理化へのインセンティヴが働かないため、公営事業体には‘無駄遣い体質’が染みついているというのです。同体質を改善するためには、費用対効果を重視する民間に運営を任せた方がよい、というのが民営化論者の主張なのです。しかしながら、非効率性あるいは非合理性の観点から見ましても、東京メトロは当て嵌まらないように思えます。それは、東京メトロの地下駅構内の風景を見れば一目瞭然です。‘無駄な人員’ところか、駅員さんを見つけるのさえ一苦労するのですから。しかも、近年、行政機関のアウトソーシングが進むと共に、ITなどの活用によりとりわけ公共交通機関では、官民を問わずに効率的でシステマティックな運営が実現しています。

 さらに民営化論では、市場メカニズムの導入が声高に叫ばれています。独占的な公営事業では業者間の競争、特に価格競争が働かず、消費者やユーザーが不利益を被るとする説です。一般的な製造業やサービス業などではこの説明にも説得力があるものの、公共交通事業については、この根拠は意味をなしません。そもそも、地下鉄といった不可欠施設を要する交通インフラ事業は、時空による制約により独占事業とならざるを得ないからです。つまり、東京メトロのケースでは、市場の競争メカニズム導入は不可能なのですから、民営化の根拠とはなり得ないのです(ライバル事業者が存在しない・・・)。

 そして、東京メトロを建設するための総事業費を考慮しますと、民営化が、如何に国民や都民にとりまして不利益となるのか、容易に理解されます。東京メトロの直接の前身は、戦前の1941年に設立された帝都高速度交通営団なのですが、凡そ1世紀近くにわたって国や都が地下採掘や用地買収などに要した予算の累積総額が膨大な数字となることは想像に難くありません。因みに、現在、計画中の有楽線・南北線の延長事業費は、4000億円とも5000億円とも試算されております(同建設費の全部あるは一部は、上場後も国や都の予算から支出されるのでは・・・)。株式総数の半数であれ、株主=所有者の認識の元では、相当の安値での‘売却’と言うことになりましょう。これでは、戦前にあって疑獄事件に発展した国有財産の安値払い下げを、民営化の‘美名’の下で合法的に行なっているようなものです。

 以上に東京メトロについて民営化並びに株式上場の主要な問題点について述べてきましたが、全国にあって水源の中国資本による買い占めや不動産市場へのチャイナ・マネーの流入が問題視されていますように、今後は、グローバリストの欧米系投資ファンド等みならず貪欲な中国資本も、東京メトロ株を含む日本国のインフラ関連事業株を買い漁るかも知れません(日本国の植民地化へのステップ・・・)。東京メトロの民営化の必要性は見当たらず、むしろ、国民や都民にとりましては、百害あって一利なしなのではないかと思うのです。

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東京メトロの売却は売国では?-民営化はグローバリストへの利益誘導

2024年08月22日 12時17分40秒 | 日本政治
 報道に因りますと、日本国政府と東京都は、今年の10月にも両者が所有する東京メトロ株の50%を東京証券取引所に上場する方針のようです(国53.4%・都46.6%)。上場時の時価総額が凡そ6000億円ほどに見込まれておりますので、その半分となりますと、両者の売却益は3000億円程度となりましょう。国の売却益は東日本大震災の復興財源に充てられるとのことですが、この売却、私益のために国民並びに都民の共有財産を勝手に売り払うに等しいのではないでしょうか。

 東京メトロの売却の発端は、昭和61年6月に提出された臨時行政改革推進審議会答申にまで遡ることができるそうです。昭和61年、即ち1986年とは、アメリカではレーガノミクスが、イギリスではサッチャリズムが吹き荒れていた時期に当たります。全世界的な民営化の流れはこの時期に始まっており、この3年後に訪れる冷戦崩壊を前にしてグローバリズムの下地が既に準備されていたとも言えましょう。

 日本国の民営化も、およそ同時期に始まっています。プラザ合意と軌を一にするかのように、1985年は、最初の案件として公衆電気通信法の電気通信事業法への改正による日本電信電話公社の民営化、並びに、同事業への参入自由化が決定されています。その後、国鉄や郵政事業をはじめ、今日に至るまで数多くの公的事業が民営化されてゆくこととなるのです。このことは、日本国では、実に38年も前に決定された民営化路線が今日まで堅持されていることを意味します。

 さて、政府レベルで民営化が決定されますと、その方向に向かっての動きが始まります。東京メトロをみますと、2001年に特殊法人等整理合理化計画が閣議決定され、2004年には帝都高速度交通営団が東京地下鉄株式会社へと改組されます。つまり、民営化の前段階として、株式市場での売却が可能となるように、公営事業体の株式会社化が行なわれるのです。

 この手法は、東京メトロに限ったことではありません。例えば、より大規模な事例でいれば、ソ連邦といった社会・共産主義国家の崩壊時にも、同様の手法が採られています。同国では、ロシア革命以来の計画経済を放棄して資本主義化するにあたり、公営事業体を株式会社化し、国民に株式を譲渡しています。政府による株式譲渡時にあっては、国民への均等配布を方針としながらも共産党幹部がその大半を手にしたとする指摘もありますが、その後、モスクワやサンクトペテルブルクに証券取引所も開設されるに至りますと、株主構成に変化が見られるようになります。証券市場や相対取引での株式取得等により、オリガルヒとも呼ばれる新興財閥が出現してしまうのです。

 共産主義国家の事例と自由主義国である日本国の東京メトロのケースを同列に扱うのは、適切ではないとする意見もありましょう。しかしながら、東京メトロの株式売却についても、似たような事態、いな、さらに‘悪い事態’が起きないとも限りません。同売却に際しては、政府は、「可能な限り政府の売却する株式が特定の個人・法人に集中することなく、広く国民が所有できるよう、広い範囲の投資家を対象として円滑に消化できる方法により行う必要がある。」とする方針を示しているからです。しかしながら、一端、株式が公開されますと、その後の取引は自由となります。金融市場が自由化され、かつ、グローバル化した今日では、東京証券取引所等にあって海外投資家の売買総額が国内勢を上回る日も少なくはないのです。

 こうした現状からしますと、東京メトロ株の上場は、海外投資家にビジネスチャンスを与えると共に、それが、公共交通事業であるだけに、隠れた‘植民地化’のリスクも懸念されます。国民世論にあって水道事業民営化に対する反対の声が高いのも、同事業が国民生活並びに経済を支えるインフラ事業であるからに他なりません。資本主義の根幹となる株式システムには、企業の独立性を損なうと共に、それが民営化の手段となることで、公共事業の私物化や植民地化のリスクをももたらしていると言えましょう(この意味でも、株式システムは諸悪の根源・・・)。

 今日、グローバリズムに対する批判が各国で噴出しておりますが、38年前の民営化の方針を今日にあって貫く必要はあるのでしょうか。小池都知事は、今年の1月24日に、東京メトロの株式売却を進める方針を改めて示しています(都知事選に向けての投資家からの支持の取り付け?)。因みに、2022年に財務相が選定した主幹事証券には、海外区分としてゴールドマンサックスやBofAも含まれています(日本勢では野村証券、みずほ証券、三菱UFJモルガンスタンレー証券・・・)。グローバリストへの利益誘導である疑いがある以上、東京メトロ株式の上場については見直すべきではないかと思うのです(つづく)。

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自民党の総裁選挙に見えるメビウスの輪

2024年08月21日 12時25分58秒 | 日本政治
 今日の自民党総裁選挙は、党内派閥よりも党外派閥による混戦状態の様相を呈しているのですが、もう一つ、自民党には、重大な課題があります。それは、来るべき総選挙において同党が勝利することです(より厳密言えば、自民党勝利の口実を得ること・・・)。仮に、総選挙において与野党の逆転が起き、政権交代ともなれば、首相の椅子も失うことになるからです。ここに、総裁選びに際して‘国民の好感度’というファクターが加わることになるのです。

 この課題に対して、自民党は、岸田内閣の支持率低下の原因を‘パーティー券問題’に矮小化した上で、‘自民党は生まれ変わります’、あるいは、‘党内改革を進めます’といった自民党の組織改革を強調し、国民にアピールする作戦をとっているようです。この点、‘古い自民党’のイメージが染みついていない上川陽子氏や小林鷹之氏は、好都合な候補者となりましょう。

 しかも、若干の濃淡はあるものの、両氏共に(1)グローバリスト、(2)アメリカ、(3)中国、(4)宗教・新興宗教団体が相乗りできる候補者でもあります。何れも何らかの繋がりが推測できるのですが、報道されている情報からすれば、上川氏は、アメリカ、及び、創価学会とより近い一方で、かの中国派のドンを長とする二階派に属する小林氏は、どちらかと申しますと、中国色並びに元統一教会色が濃いのかも知れません。なお、同じく女性候補、かつ、アメリカ色の強い立候補者であったとしても、保守色の強い高市氏は共和党系であり、よりリベラルな上川氏は、米民主党が推しているようです(それ故に、中国は、女性候補者の中では野田聖子氏が最も望ましい?)。もっとも、各候補者に見られるこれらの支持母体の濃淡は程度の差に過ぎず、この点は、世界権力の多頭作戦(八岐大蛇作戦?)を考慮すれば容易に理解されます。

 以上の推測からしますと、上川氏と小林氏の擁立は、世界権力による日本国民向けの対策と言うことになりましょう。メディア操作によって岸田政権並びに自民党に対する支持率低下の原因を、パーティー券問題に象徴されるような‘古い自民党体質’としてきた手前、フレッシュな人材をもって総選挙に臨む必要があるからです。つまり、自らが作成したシナリオに信憑性を与える一種の‘アリバイ造り’でもあるのでしょう。真の自民党離れの原因は、自民党が世界権力に取り込まれ、同勢力が描く未来ヴィジョンを実現するための実行機関にすぎなくなったにも拘わらず・・・(マスメディアの報道は信用を置けず、ワクチン接種の推進並びにデジタル化を強引に進めた河野太郎氏に至っては、国民からの支持は1%にも満たないのでは・・・)。

 そして、‘古い自民党こそ変わるべき’とするアピールの姿勢は、世界権力の意向をキャッチした他の候補者達にも及んでいるように思えます。目下、何れの候補者も、自らが‘古い自民党’を壊す勇気ある‘改革者’のスタンスで選挙戦に臨もうとしているのですから。この結果、本来であれば国政上の政策論争となるべきところが、総裁選挙の場は、国民からの信頼を回復するための自民党の自己改革を訴える場となり、論点が本来の国政から逸脱するという奇妙な展開を見せているのです。

 ここに、自民党総裁選挙を日本政治の末期症状の現れとした理由があります。日本国の政治が世界権力に取り込まれてしまった結果、選挙の場は多頭戦略による‘政治ショー’に過ぎなくなり、売国政治家に対する国民からの政治不信や改革要求が、政党改革低度に矮小化されてしまうからです。つまり、国民からの批判的な声が、黒幕である世界権力批判に向かったり、グレート・リセット路線からの転換要求に繋がらないように逸らしているのです(重要な政治課題が自己浄化という現状・・・)。つまり、日本国の政治は、世界権力が定めた極めて狭い範囲に押し込められ、その狭い世界で意味もなくメビウスの輪を描きながら循環しているのです。

 おそらく、来るべき総選挙にあっても多頭作戦(八岐大蛇作戦?)が繰り返され、表向きの対立は見せかけに過ぎず、与野党共にメビウスの輪を回り続けることでしょう。果たして、このメビウスの輪から抜け出ることはできるのか、日本国民が真に必要としているのは、メビウスの輪から抜け出す知恵ではないかと思うのです。

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自民党の総裁選挙は政治の末期症状を映し出す鏡

2024年08月20日 12時00分34秒 | 日本政治
 戦後を通して日本国では、他党と連立を組んだり、一時的に下野することはあっても、自民党による一党優位体制が続いてきました。議院内閣制を採用しているため、このことは、国会における最大与党である自民党の総裁選挙は、事実上、日本国の首相が選出される場となることを意味します。首相の選出と凡そ同義という側面からすれば、総裁選挙にあって最も国民から注目されるべきは、総裁選挙への立候補者の各々が掲げる国政上の政策となるはずなのですが、今日の自民党総裁選挙は、まるで日本政治の混迷を映し出す鏡であるかのようです。

 それでは、自民党総裁選挙に立候補した政治家の人々は、選挙戦に打って出ることを自ら決断したのでしょうか。また、政治家としての能力や力量に基づく評価によって、20名とされる推薦人を集めると共に、党員票を獲得しようとしているのでしょうか。一般的には、総裁の椅子は、派閥間のパワー・バランスや妥協によって決まるものと見なされてきました。‘総裁の椅子は○○派に譲るとしても、△□大臣の椅子は我が方に’というように・・・。

しかしながら、おそらく、自民党結党以来、総裁の椅子に座るには、外部からの強力な後押しが必要であったことは想像に難くありません。しばしば指摘されているのが、サンフランシスコ講和条約の発効によって日本国が主権を回復した後にあっても、アメリカ、あるいは、米軍が影響力、否、‘支配力’を残すために、‘自民党はアメリカが造った’とする説です。日米合同委員会も実在することから、この説は、まことしやかに囁かれてきました。因みに、日米合同会議とは、1960年に締結された日米地位協定の第25条に基づいて設立さていますので、GHQの後身という訳ではないものの、議事録も公開されない秘密会合ですので(同委員会で合意があった場合のみ公表されることもある・・・)、アメリカが密約によって日本国を水面下でコントロールするための手段と疑われるだけの理由はあります。

 日米同盟締結の経緯からしましても、自民党の総裁ポストに関する外部からの介入は今に始まったことではないようなのですが、グローバル化時代を迎えた今日の総裁選挙の様子を見ますと、より複雑さが増しているようにも見えます。アメリカのみならず、立候補者の背後には、様々な外部勢力が見え隠れしているからです。これらを整理してみますと、(1)グローバリスト、(2)アメリカ、(3)中国、(4)宗教・新興宗教団体などに凡そ分類することが出来ましょう。例えば、(1)のグローバリスト系候補者としては、ダボス詣でに事欠かない河野太郎氏や民営化推進路線の小泉進次郎氏などを挙げることが出来ますし、保守系かつ日米同盟重視の高市早苗氏は(2)のアメリカ系候補者であるかもしれず、中国寄りの発言で知られる石破茂氏は(3)の中国系かもしれません。

 もっとも、立候補者の各々を上記の区分に沿ってきれいに分類できるわけではなく、支持団体の重複や内外の支持団体の違いによる差異も見られます。例えば、同じくグローバリスト色の強い候補者であっても、河野太郎氏が麻生派に属している点を考慮しますと、イエズス会の支持を取り付けているとも推測され、小泉氏とは支持母体が違うのでしょう。また、その姿が見えにくい宗教・新興宗教団体については、自ら特定の候補者を擁立するのではなく、巧妙なバーゲニングによって‘キング・メーカー’の立場にありたいようです。各候補者とも、とりわけ創価学会と元統一教会の支持は是非とも得たいところなのでしょう(創価学会も、海外での布教活動を見れば外部勢力の一つでは・・・)。

 かくして、自民党の総裁選挙は党外勢力をバックとした混戦状態となるのですが、さらに背後の暗闇に目を凝らしますと、これらの勢力の奥に‘総元締め’が潜んでいるとも推測されます。‘総元締め’とは、全世界に支配のネットワークを張り巡らせている金融・経済財閥を中心とした利益団体であり、世界権力と目される極少数の人々です。同権力は、何れの立候補者が総裁選挙に勝利を収めたとしましても、その結果に満足することでしょう。国家レベルであれ、政党レベルであれ、何れのレベルでも、多頭作戦が展開されているからです。結局、誰が自民党総裁の椅子に座ったとしても、同ポストが世界権力の代理人の席に過ぎないのであれば、国内の支援団体等の違いによる程度の差こそあれ、日本国の政治は、何らの変わりはないこととなりましょう(つづく)。
 


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フワちゃん大炎上事件の‘ネット民’批判を考える

2024年08月19日 09時14分55秒 | 社会
 フワちゃん大炎上事件は、人々にとりまして、善悪の判断を含む様々な問題について考える貴重な機会となっているように思えます。本日も、千原せいじ氏によるSNSユーザーに対する苦言が報じられておりました。「結局今フワちゃんを叩いてるヤツら、お前はフワちゃんと同じことをしてるからな」として。

 それでは、フワちゃん氏の発言と‘ネット民’は、‘同じこと’をしている、つまり、両者の行動は同質のものなのでしょうか。どこか理屈っぽく聞えるかも知れませんが、善悪を基準としますと、両者は、むしろ正反対と言っても過言ではないように思えます。フワちゃん氏の発言は、他者に自死を薦めたのですから、弁明の余地がありません(やす子氏が告訴すれば刑事事件となる可能性も・・・)。しかも、やす子氏のX上の発言は博愛精神から発せられていますので、フワちゃん氏のリプライは、情状の余地がないほどに悪が際立ってしまっているのです。つまり、同事件では、善悪の立場が明確に区別されるのです。

 こうした善悪の構図を前提としますと、‘ネット民’による批判は、人々の一般的な倫理観に発する悪に対する批判となります。罪に対する批判なので懲罰的な意見も当然に含まれることでしょう。こうした意見は、当事者であるフワちゃん氏にとりましては主観的には‘害’であり、自らに対する‘攻撃’なのでしょうが(刑罰は常に受ける側にとりましては‘害’である・・・)、基本的には悪意から発せられるものではないのです。とりわけ、フワちゃん氏の言葉が‘苛めっ子’の常套句であり、精神的な虐めの手段であったからこそ、より激しい懲罰意識と反発を招いたことは想像に難くありません。ここには、‘罪に対してはそれ相応の罰を与えるべきとする’常識的なバランスが働いているのです。この側面に注目しますと、メディアでは、フワちゃん氏の発言を‘不適切発言’や‘失言’とする表現で報じているものの、‘虐め発言’や‘反倫理発言’と言った方が、問題の本質を言い表しているかも知れません。

 もちろん、匿名によるバッシングに快感を覚え、便乗しているSNSのユーザーも存在しているのでしょうが、大多数の人々は、正義感から投稿しているはずです。しばしば、ネットバッシングが起きる度に、‘自分だけが正しいと信じている’とする批判を耳にするのですが、そもそも、大勢の人々の正義感を呼び覚ますような‘悪’がなければ、炎上するはずもありません。ネット上の炎上こそ、人々の道徳心や良心の現れであり、それを批判したり、封じるような発言には、疑問を抱かざるを得ないのです。仮に、フワちゃん氏の発言に対してネット空間が沈黙する、あるいは、同発言に同調した笑いが一斉に起きたとしましたら、その社会は、恐ろしく陰湿で冷酷な歪んだ世界となりましょう。他害的で悪意のある発言に対する社会的な反発は、同社会に生きる人々の道徳や倫理のレベルを示す、一種のバロメーターでもあるのです。

 以上に述べましたように、善悪の区別を基準としますと、フワちゃん氏の発言と‘ネット民’の批判は、同質とは言えないように思えます。そして、この基準からしますと、よりフワちゃん氏に近いのは、‘ネット民’ではなくむしろ千原氏自身なのではないかと思うのです。何故ならば、善悪両サイドの関係からしますと、フワちゃん氏サイドから‘ネット民’を批判する発言は、自ずと悪が善を叩く構図となってしまうからです。同氏は、SNSのユーザーに対して「ヤツ」、あるいは、「お前」とも呼んでおり、こうした他者に対するぞんざい、かつ、自らを‘上位者’と自己認識した上での言い方も、フワちゃん氏の社会観と態度と似通っているのです。

 しかも、活動休止が宣言されながら、ウェブ上では、マイナス情報であれ、プラス情報であれ、フワちゃん氏に関する記事が散見されます。こうした現状では、‘ネット民’を同氏と同列に貶めて批判したとしても、鎮火するどころか火に油ともなりかねません。フワちゃん氏に限らず、近年のマスメディアでは、一般の視聴者やユーザーから忌避されているタレント等を起用し続ける傾向があるのですが、背後に圧力団体や何者かの意向があるとしますと、この問題は、メディアとは、一体、誰のためにあるのか、という、メディアと‘ネット民’、否、一般の人々との間の根本的な関係性をも問いかけているように思えるのです。

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フワちゃん発言の論理的怖さ

2024年08月16日 11時56分21秒 | 社会
 「フワちゃん大炎上事件」は、なかなか鎮火には至らないようです。様々な分野の人々が新たな視点で賛否両論の議論を起こしており、予想を超えた延焼が続いているようにも見えます。その一つに、フワちゃん氏の発言に見られる論理性を評価する哲学者からの擁護論もあります。矛盾に満ちたやす子氏の発言よりもフワちゃん氏のリポストの方が余程論理性が高いというのです。

 論理性をもって新たなるフワちゃん氏擁護論を展開しているのは、フランス哲学者の福田肇氏です。それでは、同氏は、哲学的な考察からどのような論拠をもってフワちゃん氏の発言を評価しているのでしょうか。

 先ずもって、同氏は、自身のフワちゃん氏擁護論の出発点は、「やす子の無神経で情緒的でお気楽な発想」にあるとしています。現実には、高齢者や障害者の介護に疲弊する人々、安楽死を望む人々、LGBTQ問題を抱えている人々などが存在しながら、「生きてるだけで偉いので皆 優勝でーす」という言葉は‘好きになれない’というのです。つまり、同氏の不快感という感情から始まっているのですが、その後は、やす子氏の発言の論理的な矛盾点を指摘しています。‘生きているだけで皆偉い’と言う以上、優勝という順位付けは矛盾するというのです。

 やす子氏が、‘優勝’という言葉を順位付けの意味合いで使ったとは思えないものの、この論理で矛盾を批判するならば、フワちゃん氏の発言にも同様の指摘をすることはできます。‘死んでくださーい’と言う以上、その後の‘予選敗退’もあり得ないからです(本人は「生きておらず」、既にこの世にはいない・・・)。

 そして、次なる指摘こそが、福田氏が最も強調したかった論理性なのでしょう。同論理性は、両氏の発言の文章構成を個別に検討するものではありません。フワちゃん氏は、やす子氏の発言を逆手に取る形で自らの発言を組み立てており、そこに高い論理性を認めて評価してるのです

 確かに、やす子氏の発言を分析しますと、1.生きる(S)は、偉い(P)、2.偉い(P)は優勝(X)、3.生きる(S)は優勝(X)というきれいな三段論法を構成しています(S⇒P、P⇒X、S⇒X)。その一方で、この論法に対して、一切の条件なしで単純に否定で構成すると、(1)S(ー)⇒P(ー)、(2)P(-)⇒X(-)、(3)S(-)⇒X(-)となります。‘死者は偉くなく、偉くない人は優勝しない、死者は優勝しない’となります(ここでは大文字右の(-)は補集合を意味し、少なくとも数学的には正しい)。

 ところが、福田氏のフワちゃん発言論理優位説の根拠は、こうした単純な否定の論理ではありません。福田氏は、やす子氏の三段論法の最初の一段目において、フワちゃん氏の発言は、SとPを否定形となるS(-)とP(-)に変えたことに加えて、両者の位置を逆転させている、即ち、‘逆手’にとっているから「面白い」と言っているのです。つまり、S(ー)⇒P(ー)ではなくP(-)⇒S(-)あるいはS(ー)⇐P(ー)に・・・。ところが、この否定逆転の意味を文章表現しますと、’偉くない人は死ぬべき‘という恐ろしい言葉に転換されてしまいます。すなわち、第一段以下を三段論法で記述しますと、(1)P(-)⇒S(-)、(2)S(-)⇒X(-)、(3)P(-)⇒X(-)となり、’偉くない人は死ぬべきであり、優勝もしない(予選敗退)‘となり、まさにフワちゃん氏の問題発言となるのです。

 ‘逆は必ずしも真ならず’と申しますように、S(ー)⇒P(ー)からP(-)⇒S(-)へと逆順とした論理式が正しいわけではありません。むしろ詭弁的な論法でもあり、この‘逆手’が倫理や道徳に著しく反したが故に、気の利いた‘ウイット’として笑えず、大炎上する結果を招いたとも言えましょう。おそらく、福田氏もこの逆手が含意する‘偉くない人に対する死の肯定’には気がついていたのかもしれません。福田氏は、「フワちゃんは、そこから「偉くない」のであれば、その人は「生きていない」はずだ、よって「予選敗退だ」という結論を導き出した」と述べており、‘「生きていない」はずだ’と表現することにより、積極的な死の肯定に対して和らげた表現を用いているからです。

 結局、フワちゃん氏の発言に論理性をもって擁護する試みは、その意図とは反対に、同発言に潜む反倫理性を暴き出してしまったようにも思えます。「偉い」、「偉くない」のフワちゃん氏の基準が何であるのかが曖昧であるだけに(P(-)は主観的に設定可能・・・)、多くの読者が、自らをやす子氏の立場と重ねることとになり、フワちゃん氏への批判が強まったとも言えるかもしれません(フワちゃん氏の基準によって「偉くない」とされた人は、すべて「死んでください」ということになるのでは?)。

 介護を要するほどの高齢になっても、障害を持っていても、LGBTQ等であっても、生きていて欲しい、生きていてくれるだけで幸せと思う人々も少なくありません(とりわけ家族は・・・)。同擁護論も感情から始まっていますように、生死の関わる問題は、論理では割り切れない部分があります。ましてや道徳や倫理を真っ向から否定するような詭弁であるならば、多くの人々からの反発や批判を受けるのは当然のことなのではないかと思うのです。

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知られざる学徒出陣-戦場に散った高校生達を悼む

2024年08月15日 11時16分49秒 | 日本政治
 79年前の8月15日、日本国は連合国軍から発せられたポツダム宣言の受け入れを表明し、第二次世界大戦の幕が降ろされることとなりました。同戦争により、多くの日本国民の命が失われ、犠牲者の数は軍人・軍属並びに民間人を合わせて凡そ310万人にも上ります。この犠牲者の数は、日本国民にとりまして先の戦争が如何に凄惨を極めたかを如実に物語っているのです。

 かくして凡そ4年に及ぶ先の戦争は、『海行ば』の哀愁を帯びた調べと共に深い悲しみとして日本国民の心に刻まれることとなったのですが、中でも、雨が降りしきる神宮外苑競技場を学生達が黙々と行進してゆく学徒出陣の映像は、今でも多くの人々の涙を誘います。同壮行会の映像から文系の大学生が学徒出陣したものとするイメージが強いものの、出陣した学徒の中に高校生が存在したことは、あまり知られていません。

 ある時、亡き父茂の遺品の中から旧制高校の名簿(旧制東京高等学校)を見つけ、ページをめくっておりましたら、進学先が記されておらず、「○○にて戦没」と記載された生徒さんの数が多いことに気付きました。どこか不可解にも思えたのですが、この時には、高等学校在籍中に出征した生徒さん達が存在していたとは思いもよりませんでした。

 ところが、最近に至り、今から凡そ20年ほど前に刊行された『日本歴史平成15年9月号』にあって「「高校生出陣」の検証」というタイトルの論文が掲載されているのを発見し、この謎が解けることとなりました。高校生とは申しましても、今の学制とは違い、旧制高等学校の生徒ですので年齢は少しばかり上とはなるのですが、高校生までもが出征していた事実に愕然とさせられたのです。

 同論文によりますと、高校生の入隊は志願であるため、入隊率の高い学校もあれば低い学校もあり、それぞれの高等学校においてばらつきがあったそうです。それでは、どの高等学校が最も志願率が高かったのかと申しますと、それは、驚くことに第一高等学校であったというのです。

 第一高等学校といえば、全国から優秀な学生が集まり、加藤高明、若槻禮次郎、広田弘毅、近衛文麿、平沼騏一郎等総理大臣を含む政治家をはじめ、官僚、財界人、学者、小説家、芸術家など多方面に亘って人材を送り出した学校です。今日と比較して高校生の生徒数が絶対的に少ない当時にあって、同校の生徒達は、将来を約束された極少数のエリートの卵達でもありました。その一高にあって、在籍者数409名の内、119名が自ら志願して入隊したというのです。同論文の調査範囲では、一高の入隊率は凡そ29%であり、三人に一人が出征した計算になります。因みに、二高の入隊率が12.1%、松本高が16.6%、富山高が19.7%とされていますので、一高の入隊率は抜きん出ています。旧制東京高等学校からの志願者数も少なくなかったのでしょう。

 戦争に際しては、老練な政治家等の上層部は自らは安全な場所に身を置きながら、若者達を死地に送り出しているとする批判があります。しかしながら、若年層を見る限りこの指摘は当たらず、自らの死を覚悟して戦地に赴いたのは、日本国の未来を背負ったであろう才能に恵まれた若者達でした。同論文は、入隊後にあっては、学徒であったことが仇になって上官等から暴力を振るわれるなど、軍隊での生活は生やさしいものではなかった様子を伝えています。出身学校との絆や学生時代の学友達との懐かしい思い出は、一角の軍人となる上で自ら封印しなければならなかったのです。

 神宮外苑での学徒出陣の答辞には、「生等もとより生還を期せず」とするくだりがあります。この言葉通り、自ら特攻隊あるいは人間魚雷に志願し、帰らぬ人となった高校生も少なくありませんでした。当時の高校生には、エリートとしての自覚があったからこそ、身を挺して国家並びに国民の危機を救おうとしたのでしょう。西欧風に言えば‘ノーブレス・オブリージュ’の精神であり、‘選ばれし者’故の自己犠牲の精神であったことになります。

 以上に、高校生出陣について記してきましたが、今日を生きる人々は、この事実から何を学ぶべきなのでしょうか。先ずもって、戦争とは、敵国人のみならず、自らの国民をも犠牲にするということのように思われます。しばしば、日本国は先の戦争で優れた人材を失った、あるいは、戦争の場を借りて‘失わされた’とする指摘がありますが、この指摘は、強ち間違いではないように思えます。とりわけ、当時の高校生達が、自らの将来をも捨て、純粋に祖国を護りたい一心で出征を決意した悲壮な心情に思い至りますと、その勇気を賞賛するというよりも、そのけなげさが不憫でならなくなります。

 と同時に、当時の高校生達は、今日のエリートと称される人々に対して、人としての生き方を問うているようにも思えます。何故ならば、今日の‘選ばれし者’、すなわち、グローバリストをはじめとした‘セレブ達’は、他者を自らのために犠牲に供することはあっても、決して自らを他者のために犠牲にすることはないからです。ヨーロッパでも、ノーブレス・オブリージュの精神は、第一次世界大戦をもって息絶えたとされていますが、利己主義や拝金主義が持て囃される現代という時代は、エリート達が、自らの利益のために自国民を売る時代でもあるとも言えましょう。

 日本国では8月15日は終戦記念日とされ、お盆の時期とも重なることもあって、毎年、正午には黙祷が捧げられ、戦没者の方々の御魂を慰めております。もし、戦場に散った学徒達から現代に生きる人々にメッセージが送られるとすれば、それは、世界大戦の巧妙な仕組みを見て取った上での、‘今度こそ、知力を尽くし、命をかけて戦争を回避せよ’という言葉なのではないかと思うのです。

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スクールカーストは猿山か

2024年08月14日 11時28分59秒 | 社会
 今日の学校は、虐め問題に限らず、子供達にとりまして生き辛い場所のようです。何故ならば、教室では、しばしば‘スクールカースト’と呼ばれる階層化が見られるというのです。同カースト制度はおよそ3階層に分かれており、上位から1軍、2軍、3軍と序列が下がってゆきます。カーストと言いますと、インドの過酷な身分制度が思い出され、この言葉が使われているだけでも引いてしまうのですが、今日の学校での序列化を説明する日常語として使われていること自体が驚きでもあります。

 それでは、スクールカーストの序列がどのようにして決まるのかと申しますと、その基準となるのは、コミュニケーション能力、容姿、運動神経、学業成績、所属する部活動などなそうです。上位者は、これらの何れにあっても優れており、このため、教室全体においてリーダーシップを発揮し得るのです。リーダーシップといえば聞こえは良いのですが、その実態は、横暴な支配階級のようなもののようです。他の2軍や3軍に自らの意見を押しつけ、あらゆる物事を自分たちで勝手に決めてしまうのですから。

 その一方で、2軍とされる生徒達は1軍の取り巻き、あるいは、フォロワーとなり、1軍の意に添うように行動します。同調圧力を醸し出すのもこの階層であり、同階層の協力なくして教室全体の同調圧力も生じないこととなります。そして、最下層に位置づけられる3軍に至っては、1軍による虐めの対象となりやすく、精神を病んだり、不登校となる生徒も少なくないそうです。スクールカーストは、虐めの原因でもあるのです。

 実のところ、このスクールカーストの世界、前近代における階級社会が、現代においてそのミニ版として再現されているといっても過言ではありません。階級社会では、国や社会全体の決定権は一部の特権階級が独占しており、他の人々は、一方的に支配される立場にありました。しかも、その決定も、社会全体のルールや法に照らしたものでもなく、大方、権力を握る少数の人々の恣意や私的な好悪によって決められます。言い換えますと、今日、普遍的な価値とされる自由、民主主義、法の支配、平等・公正といった諸価値とはほど遠い、真逆の世界なのです。

 こうした世界が、子供達の間で自然に形成されているとしますと、この現象をどのように理解すべきなのでしょうか。前近代における階級社会は、過去から引き継がれてきた伝統でもあり、かつ、半ば公権力によって強制されてもいました。しかしながら、今日の教室で出現したスクールカーストは、クラス替えの度に起きるというのですから、自然発生的なものとも言えましょう。否、スクールカーストという名称が存在しないだけで、過去の時代の教室にあっても位階的なグルーピングは存在しており、今日の一般社会にあっても散見されるのかもしれません。

 序列化の現象をもってこれを人間集団の本質的な傾向とする説明は簡単なのですが、人類史的な視点からしますと、人類の精神的な発展を無視しているようにも思えます。自然界を観察しますと、生物学的に人類に最も近い霊長類では、ボス猿を頂点として‘猿山’とも称されるピラミッド型の位階秩序を形成する種属がいます。このことは、類人猿より高い知能を有する人類にあっても、十分に知性や理性が十分に備わっていない段階では、社会が‘猿山モデル’となり得ることを示唆しているとも考えられます。学童期にあってスクールカーストが自然に形成されてしまうのも、あるいは、人の精神的な発展段階と無縁ではなく、理性や理性が未成熟な故の過渡的な現象かも知れないのです。

 古代ギリシャ哲学の流れを引き継いだ西欧においては、近代にあって理性と社会や国家との関係について深い思考を加えています。これらの哲学は、現実の世界にあっても近代国家の制度的発展に理論的な基盤をも提供しており、上述した自由、民主主義、法の支配、平等・公正と言った諸価値が統治機構にあって制度化されたのも、客観的且つ公平な視点の源としての理性という概念に負うところが大きいのです。そして、現代国家の大半が、普遍的諸価値と共に近代的な制度を取り入れたことは、人類における理性の普遍性の証とも言えるのです。

 このように考えますと、生徒や学生の知性や理性を育て、‘猿山モデル’であるスクールカーストの世界を卒業させることこそ、教育の果たす役割とも言えましょう。恣意的で固定的な物差で個々人を評価し、位階秩序に振り分けてしまうのは、理性に照らして見ればまことに馬鹿馬鹿しいことなのです(ボス猿には、外敵からメンバーを護る役割があるので、猿山以上に馬鹿馬鹿しいかも知れない・・・)。この馬鹿馬鹿しさは、2軍の人も3軍の人こそ気がつくべきかもしれません。自己呪縛という愚かな行為なのですから。そして、このことは、子供達の理性や知性を育むことに失敗しますと、社会も‘猿山モデル’に退行してしまうリスクをも示しています。今日、世界各国にあって独裁化の兆候が見られますが、横暴な独裁者の出現を防ぐためにも、人々の精神的な成長を促す教育の役割は重要なのではないかと思うのです。

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「フワちゃん大炎上事件」の教育効果

2024年08月13日 10時09分50秒 | 社会
 今日、誰にとっても学校の教室が楽しい場であるわけではありません。とりわけ、虐めが起きている学校では、休み時間や課外活動、学校行事でさえ精神的な苦痛を伴うことも少なくないのです。しかも、スマホやタブレットが普及した今日、子供達は、新たな虐めの手段を手にするようにもなりました。SNSの使用は、虐めの場を教室から子供達の私的空間へとさらに広げているのです。言葉の暴力は古今東西を問わずに昔からあるのですが、SNSは、現代にあって言葉による虐めリスクを一層高めているのです。

 今般のフワちゃん氏による暴言も、言葉による虐めの問題と直結しています。何故ならば、「おまえは偉くないので、 死んでくださーい 予選敗退でーす」という発言には、言葉による虐めの核心的な要素が凝縮されているからです。「おまえは偉くない」では、自らの優越感に基づく主観のみで他者の人格に対して低評価を与えています。この言葉を受けた側は、自らの価値を一方的に貶められるわけですから、自ずと自己評価も下がってしまい、落ち込んでしまうのです。続く「死んでくださーい」は、これは言うまでもない、刑法に抵触するような暴言です。最初の節の‘偉くない’は理由付けですので、‘おまえには価値がないから死ぬべき’という意味となり、この言葉を投げかけられた側が繊細な傷つきやすい心の持つ主であれば、死という選択が頭を過るかも知れません。そして、最期の「予選敗退でーす」には、それが架空の競争であるからこそ、‘敗退’という表現には、相手に惨めな思いをさせたいという意地の悪い願望が滲み出ています(事実ではないだけ、悪意が明白・・・)この言葉を聞いた側は、実際に敗北したわけでもないにも拘わらず、自らに向けられた悪意に打ちのめされてしまうのです。

 以上に述べましたように、同発言には、虐める側の心理的な特徴がよく現れています。(1)他者を下げることによる自己優越感、(2)排除願望、(3)嗜虐性、(4)悪意などです。これらの悪意のある言葉を他者に向けて発することが、言論の自由によって保障されるべきか、と申しますと、そうではないように思えます。あらゆる自由には、‘他者を害しない範囲’という限界があるからです。つまり、利己的他害性は悪ですので、直接に他者の身体を傷つけるものではなくとも、言葉による暴力には他害性が認められるのです。今般の「フワちゃん大炎上事件」にあっても、フワちゃん氏による一方的な暴言は加害行為であって、やす子氏は虐めの被害者とも言えましょう。

 そして、虐めの場が、生徒達が偶然に‘同級生’になってしまう教室と、芸能界という同業者集団という、比較的狭い世界である点も共通しています。全く接点のない他人同士であるよりも、何らかの共通性をもつ人々の間での方が、自他の境界線が曖昧となり、度を超した侵害行為が起きやすいのです。外側から見れば‘仲良しグループ’であっても、同グループ内部で深刻な虐め問題が発生しているケースも少なくありません。

 学校での虐め問題がなかなか解決を見ない現状からしますと、今般の「フワちゃん大炎上事件」では、加害者となるフワちゃん氏が批判を浴び、番組やCM等が降板となると共に、芸能活動を休止するに至っています。言い換えますと加害者側に制裁、あるいは、ペナルティーが科せられたのです。この成り行きは、学校での虐め問題に少なくない影響を与えるかもしれません。何故ならば、今日における虐め問題に対する学校側の対応は、被害者のサポートに務めても、加害者側には極めて甘いからです。何らのお咎めを受けることもなく、どこ吹く風で卒業してゆく加害者側の生徒や学生も珍しくはありません。

 こうした中、今般の一件は、他者に対して死を勧めるような言葉の暴力が、社会的な制裁の対象となる事例を子供達の目の前に示すこととなりました。虐めの現場では、‘死ね’とか、‘死んでくれ’といった酷い言葉が日常的に飛び交うのですが、こうした言葉を口にしている加害側の生徒や学生は、他者に対して心理的にダメージを与える発言が罰の対象であることに気がつくことでしょう。罪の自覚は重要です。そして、同調圧力に屈して‘苛めっ子’の言いなりになってきた他の生徒や学生達も、虐めへの加担を悪として理解し、今後は自制するかもしれません。加害者から周囲の人々が離れてゆくのです。このように考えますと、虐めをなくすという意味において、今般の「フワちゃん大炎上事件」には一定の教育効果があったのではないかと思うのです。

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『羅生門』からフワちゃん炎上問題を語るとしたら

2024年08月12日 10時00分12秒 | 社会
 目下、タレントとして活躍してきたフワちゃん氏が、お笑い芸人であるやす子氏のXへのポストを引用する形でリポストしたコメントが、大炎上を起こしているそうです。批判を浴びることとなった言葉とは、やす子氏の「オリンピック 生きているだけで偉いので皆 優勝でーす」に対して投稿された、「おまえは偉くないので、 死んでくださーい 予選敗退でーす」というものです。

 この言葉、小中高等学校で起きている生徒や学生による自殺が虐めによるものが少なくない現状からしますと、あまりにも冷酷で悪意を含む言葉でもあります。自ら死を選んだ子供達の多くは、同級生達から‘死んでください’とか‘死ねばよい’といった心ない言葉を浴びせられてきたからです。軽い気持ちの発言であったとしても、言われた本人の精神的なダメージは相当です。しかも、自ら手を下すことなく相手に対して死を求めたり、相手の不幸を喜ぶような表現なのですから、どこか陰湿な底意地の悪さが感じられるのです。

 刑法上の自殺教唆や侮辱の罪にも当たりかねませんので、フワちゃん氏に批判が集中するのも当然なのですが、中には、フワちゃん氏に対して擁護的な発言も見受けられます。“やす子氏を自らに見立てた虐められた側の復讐心の現れ”とする、これもまた意地の悪いフワちゃん氏を暗にサポートする意見もありますが、ネット上には、芥川龍之介の名作『羅生門』を引き合いに出しつつ、フワちゃん氏を批判する人々を「義務教育の敗北」として嘆くネット記事もあります(SPA!Web記事)。教科書にも掲載されている同作品から、フワちゃん氏を「叩く」人々は学んでいないというのです。

 同記事は、[貧困東大生・布施川天馬]氏のよって執筆されています(ペンネームではないかと推測・・・)。それでは、『羅生門』から何を学んでいないのか、と申しますと、筆者の言葉を借りますと「人間は、たった一つの安易なきっかけで悪にも善にも染まる移ろいやすい生き物だ」ということなそうです。しかしながら、『羅生門』には、別の解釈も成り立つように思えます。少なくとも、今般の大炎上とは、いささか状況の設定に違いあります。

 第一の相違点は、羅生門にて老婆から髪の毛を抜かれている遺骸は、皆、悪人のものとして設定されています。それ故に、老婆の‘言い分’は、‘悪人に対して悪さをしても当の悪人も許すに違いない‘というものとなるのです。ところが、フワちゃん氏の炎上事件では、やす子氏は、’悪人‘ではありません。むしろ、Xに投稿された博愛主義的な投稿内容からしますと、’善人ポジション‘にあります。この構図ですと、『羅生門』とは違い、善人に対して悪を為していることとなるのです。
 
 第二の相違点は、老婆の言い訳を聞いた下人も、善人はおろか、一般の人々から物を盗ったわけではない点です。あくまでも、老婆も自らの弱い心に負けた‘悪人’であったとする認識の元で、‘悪人’の着物を奪っているのです。言い換えますと、悪人が悪人に対して悪事を働いても許される、と言う論理の範囲内での行動であり、その後、‘行方知れず’となった下人が、善人を含む一般の人々に危害を加える‘本物の強盗’になったかどうかは、分からないのです(被害者はあくまでも‘悪人’・・・)。フワちゃんの大炎上事件についても、批判した人々が、今後、自らも正真正銘の悪人となって、他者に対して‘死んでくださーい’と言い放つようになるとは思えません。健全なる正義感からの批判であれば、悪人に転落するはずもないのです。

 以上に述べた違いを踏まえますと、『羅生門』が語っているのは、人間の善性と悪性との境界の曖昧さ、あるいは、容易に悪に陥りやすい本性と言うよりも、‘悪’に直面したときに内面に生じる懲罰的な感情としての‘善’と、それを自らの悪行の言い訳としたい私的欲望としての‘悪’との葛藤なのかも知れません。自らの生命をも危ぶまれる極限状態にあっては、時にして後者が優ってしまうこともあり言えるという・・・。つまり、『羅生門』における‘悪’への転落は極めて限定的なのです。そして、もう一つ、教訓めいたものが『羅生門』に秘められているとしますと、それは、‘自らが主張する論理が自らを滅ぼすこともある‘ということではないかと思うのです。

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