万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

相互主義関税は保護主義の相互承認への道?

2025年02月14日 12時07分31秒 | 国際経済
 江戸時代も末期となる1858年、徳川幕府は「安政五カ国条約」を結び、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリスそしてフランスとの間の通商を開始します。これらの条約によって輸出入に関する関税も定められたのですが、その内容が不平等であったため、その後、条約改正が明治政府の重大なる政治課題となったことは、教科書の記述等でもよく知られるところです。関税自主権の回復は、1905年の日露戦争での勝利を待たねばならず、日本国の悲願の達成には凡そ半世紀を要したことになります。

 輸出関税率を5%、輸入関税率を20%とする「安政五カ国条約」で定められた関税率は、アロー号事件後に清国と間で締結された天津条約における輸入関税率が輸出関税率と等しく5%であったことを踏まえますと、自国産業の保護という意味においては、確かに「安政五カ国条約」の方が有利であったかも知れません。また、低率の輸出関税率が、日本製品の海外輸出を後押ししたことも確かなのでしょう。しかしながら、喩え日本国側に有利な側面があったとしても、この時、日本国側が強く意識したのが、独立国家としての主権の確立であったことは疑いようもありません。西欧列強の砲艦外交の結果として締結された条約でしたので、日本国にとりましては、半ば‘強制された’条約であったからです。今日の「条約法条約」第52条では、‘武力による威嚇、または、武力の行使による国に対する強制は、条約の無効事由となりますので、日本国側の不服は当然の反応とも言えましょう。日本国の近代史を振り返りましても、関税に関する権限、すなわち、通商に関する政策権限が、現代人が想像する以上に重大問題であったことが分かります。

 さて、前置きが長くなりましたが、第二次世界大戦が、ブロック経済、すなわち、列強による経済圏の‘囲い込み’を要因として発生したとする共通認識から、戦後は、アメリカを中心とした自由貿易体制が構築されることになります。この流れの中で、自由貿易主義=正義とするイメージが浸透し、完全なる関税の撤廃こそ世界の諸国が共に目指すべき究極の目的地とされたのです。かくして、関税を設けること、即ち、保護主義が、あたかも悪事のような後ろめたさや罪悪感を抱かせる程まで、自由貿易主義は‘絶対善’の地位を得てしまうのです。今日の自由貿易体制、延いてはグローバリズムの出発点が第二次世界大戦にあったとしますと、GATTの枠組みにおける交渉ラウンドを経たとはいえ、各国の市場開放にはやはり武力が用いられたとする見方も成り立つようにも思えます。

 しかしながら、誰かを護る、あるいは、何かを保護するという役割を考えた場合、それを‘壁’や‘囲い’を設けることなくできるのでしょうか。自然界でも、放置すれば外来種が在来種を駆逐してしまうケースは珍しくはありません。勢力圏の囲い込みが世界大戦を招いたとする説に一理があったとしても、関税壁そのものを否定するのは、‘羮に懲りて膾を吹く’という諺どおりの過剰反応のように思えます。そもそも、各国が独立的な‘関税自主権’を有していれば、自国の産業構成や生産量等に鑑みて、自由に貿易相手国を選ぶことができるのですから、ブロック化は起きるはずもないのです。この側面からしますと、EUであれ、CPTPPであれ、RCEPであれ、今日、さらなる自由化を目指して世界各地で誕生している地域的経済枠組みの方が、余程、ブロック化の要素が強いとも言えましょう(多角貿易の阻害要因に・・・)。

 今般、アメリカのドナルド・トランプ大統領は、相互関税の方針の下で関税を復活させております。その具体的な内容についての詳細は不明なものの、今後、アメリカは、自国の関税率と同率の関税を相手国に課すという相互主義を、通商の原則に据えたものと推測されます。この方針は、貿易相手国によって関税率を変えることを意味しており、関税の完全撤廃という、戦後に敷かれた‘一本道’からの離脱を示したことにもなりましょう。

 関税の復活については、自由貿易主義やグローバリズムの流れに反するとする批判もありますが、アメリカの方針転換は、他の諸国にとりまして決して悲劇ではないように思えます。例えば、日本国につきましても、相互主義に基づけば、中国等からの安価な輸入品の一方的な流入を防ぐことができるようになります。現状は、中国側が、自らの都合に合わせて一方的に高い関税を設定する一方で、日本国政府は、グローバリズム原理主義の下でさらなる市場開放を進めているからです。相互主義への転換は、全世界の諸国にとりまして保護主義の相互容認への第一歩であり、やがては各国共に自国の産業を護りながら、相手国にも恩恵となる最適な通商網を選択的に世界大に構築する道を開くことになるのではないかと思うのです。

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グローバリズムの正体は世界戦略では

2025年02月13日 11時32分09秒 | 国際経済
 グローバリストの最終目的が‘もの’、‘サービス’、‘マネー’、‘人’、‘知的財産’、‘情報’の世界大かつ全面的な自由移動であるとすれば、その行く末は、グローバリストが最適と見なした形での国際分業の成立とその固定化であることは、容易に予測されます。そして、自由移動こそが、政治分野における征服や異民族支配に伴う一側面であったことを思い起こしますと、グローバリズムとは、経済理論でも、思想や宗教でもなく、その本質において‘世界戦略’であった可能性が高まってくるのです。

 経済学にあって、グローバリズムが全人類にもたらす効用や恩恵を論理的に説明する理論が登場せず、行き詰まってしまった理由も、それが不可能な命題であったからなのでしょう。国境の消滅とそれに伴う全ての生産要素の自由移動の帰結が、全ての諸国の経済成長であり、全ての人々の生活レベルの向上であると断言することには、誰もが躊躇するはずです。逸早く市場統合を試みたEUでも、当初に予測されていた高い経済効果が全ての加盟国にもたらされた訳ではありませんでした。ドイツ、フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクといったかつての‘西側先進国’は、低成長と経済停滞に悩まされていますし(マイナス成長を記録した年もある)、加盟当初は投資に沸いた中東欧諸国でも、今ではマイナス成長が目立ってきています。その一方で、企業レベルでは、インフラ分野を含めて規模に優るドイツ企業の‘一人勝ち’が指摘されており、欧州市場やユーロ誕生の際の浮かれたような熱気は今では嘘のようなのです。現実が証明しているのですから、グローバリズムにつきましても、経済的な繁栄を描く理論や理論を提起しても、自ずと説得力が乏しくなるのです。

 かくしてグローバリズムの理論武装の路線は半ば放棄された状況に至ったのですが、それに代わって頻繁に用いられるようになったのが、プロパガンダやイデオロギー化で合ったように思えます。理屈では説明を付けられない、あるいは、論理的帰結を誤魔化したい場合、イメージ操作や洗脳という手段がしばしば使われるものです。グローバリズムも、人類の理想郷としての根拠のないイメージが拡散されるようになるのです。例えば、今日、マスメディアや経済空間では、DX、GX、再生エネ、AI、メタバースといった近未来テクノロジーの言葉が飛び交い、日本国政府もファンタジーのようなムーショット計画を打ち上げています。グローバリストの本山とも言える世界経済フォーラムが描く未来像もこの一種であり、臆面もなく‘グレート・リセット’の名の下で‘グローバル・ガバナンス’のヴィジョンが公開されているのです。グローバリズムはあたかも新興宗教のようでもあり、多くの人々が洗脳されているかのようです。

 しかしながら、グローバリズムとは、元よりグローバリストの世界戦略であったとすれば、以上に述べてきた奇妙な現象も説明が付きます。‘グローバリズムは金融財閥でもあり、膨大な利権とマネー・パワーを握る極少数の私人達による世界戦略である’とする仮定の下で経済現象を分析すれば、経済学にあってもより合理的に現実を説明できたことでしょう。陰謀論として同仮定をはじめから排除しているからこそ、出口のない迷路にはまってしまっているようにも見えるのです。

 それでは、人類は、グローバリズムの罠から逃れることが出来るのでしょうか。少なくとも今日の日本国の政治家やマスメディアを見ておりますと、あたかもグローバリストの‘僕’のようです。その一方で、グローバリズムの行く先が、中間層の消滅を経て貧富の格差の拡大し、最終局面では経済面における‘世界分業体制’であるとしますと、AIの普及促進も、中間層の消滅という意味において最終段階に差し掛かってきている証であるのかもしれません。しかしながら、現時点にあっては、既に引き返しのできない段階に達しているとも思えません。グローバリズムは‘世界戦略’である、とする認識が人々の間に広がれば、やがて洗脳も解けてゆくことでしょう。

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グローバリズムの格差拡大メカニズムとは

2025年02月12日 13時38分03秒 | 国際経済
 1980年代後半以降、米ソ冷戦時代の終焉をもってグローバリズムが全世界に広がることとなります。とりわけ、2002年に中国がWTOに加盟すると世界経済の状況は一変し、同国が、経済大国として躍り出ることにもなりました。この流れに平行するように、経済格差の広がりも顕著となり、かつての先進国でも中間層の崩壊に伴う貧困の増加が深刻な問題として持ち上がることにもなったのです。結局、グローバリズムが国家間の貿易において相互に利益をもたらし、全ての人々の生活を豊かにするとする宣伝文句とは逆の方向へと向かったことになります。それでは、何故、グローバリズムは‘嘘つき’となってしまったのでしょうか。

 その理由は、昨日の記事でも指摘したように、国境を越えた生産要素の自由移動が、経済学において自由貿易主義者が主張してきた比較優位による互恵的な国際分業の根拠を崩壊させると共に、現実においても、堰きを外すと水が高きから低きに流れるが如く、あらゆる領域にあって最適な箇所への集中が起きてしまったからなのでしょう。ヘクシャー・オーリンモデルでは、資本が潤沢な国での知識集約型、労働力が豊富な国での労働集約型の産業への特化による国際分業が説明されていますが、国境の壁が消失しますと、資本の自由移動により労働力の豊富な国における知識集約型の製品の製造が可能となります。つまり、資本も労働力も特定の国に集中してしまうのです。言い換えますと、自由貿易論は、その前提が崩れることにより、皮肉なことに、グローバリズムにおける格差拡大の必然性を説明しているとも言えましょう。

 技術レベルが国際競争力の源泉となる現在では、資本のみならず、製造拠点の移転と共に先端的なテクノロジーや情報も特定の国に集まります。中国が短期間で世界第二位の経済大国まで成長したのも、豊富、かつ、安価な労働力という国際競争上の有利な条件に加え、外部から国境を越えて資本やテクノロジーが集中的に流入したからに他なりません。その一方で、日本国は、勤勉な国民性に支えられた製造拠点としての優位性を失うと共に、テクノロジーの多くも中国に移転されたのですから、産業が衰退するのも当然の成り行きであったとも言えましょう。しかも、アメリカの場合、安価な移民労働力も流入してくるのですから、一般国民の所得水準が低下し、中間層の崩壊が他の先進工業国よりも早くに訪れたことになります。そして日本国も、今や移民労働力の大量流入により、アメリカと同じ轍を踏もうとしているように見えるのです。

 もっとも、貧富の差が開き続けているアメリカがそれでもなお、日本国にはない経済的なアドバンテージあるとしますと、国際決済通貨としての米ドルの強みやIT大手をはじめとしたデジタル分野での優位性などを挙げることが出来ましょう。そして、さらにグローバル時代の強者と言えるのが、グローバリストの母体とも言える金融勢力なのではないでしょうか。上部あるいは外部の視点から全体を見渡し、最も利益率の高い最適な投資、否、国際分業のパターンを見出す位置にあるからです。近年、しばしば経営のスローガンとされる‘選択と集中’とは、実のところは、対象となる産業分野であれ、事業であれ、国であれ、金融グローバリストの戦略なのです。しかも、資本ほど‘逃げ足の速い’要素もありません。焼き畑農業の如くに、賃金水準の上昇等により利益率が下がれば、他の国や地域に逸早く投資先を変えてしまうのです。

 経済学者の多くは、資本の自由移動についてその調整力に期待する向きがありますが(資本の相互融通により不足と過剰を平準化する・・・)、高い利益率が期待できる国や地域のみが‘選択’され、投資がこれらの国や地域にのみ‘集中’してしまうのが現実なのではないでしょうか。しかも、集中的な投資先となった諸国も巨額の負債を負う一方で、債権者となった金融勢力は、これらの諸国に対して自らの利益増進に貢献するように、さらなる市場開放や規制緩和等を求めつつ(政治家もマネー・パワーで籠絡・・・)、利権の獲得、利払いや配当金等によってさらにマネー・パワーを強大化してゆくのです(格差拡大のメカニズム・・・)。

 結局、グローバリズムとは、何れの国にとりましても、金融グローバリストに選ばれなければ経済発展を望むことができない、過酷な環境に身を置くことを意味します。そして、‘選ばれる’ために払われる犠牲も多大であり、屈服をも強いられかねないのです。以上に述べたように、グローバリズムを特定の勢力の利権集団のための世界大の仕組みとして捉えますと、人類は、この枠組みからの離脱こそ目指すべきと言えましょう。この意味において、日本国を含む各国共に、中間層の貧困化を防ぐためにも、自国経済の発展を基礎とした自立的な経済成長をめざし、速やかに方向転換を図るべきではないかと思うのです。

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自由貿易論の限界とグローバル理論の不在

2025年02月11日 11時34分01秒 | 国際経済
 自由貿易主義の非現実性は、垂直であれ、水平であれ、自由競争の結果とされる国際分業なるものが、全ての諸国にとりまして満足するとは限らないという事実をもって容易に理解されます。しかも、 ‘最も効率的な国際分業’である以上、たとえ自国が担うことになった‘役目’に不服があったとしても、半ば永遠に固定化されてしまうかもしれません。ITやAIなど先端技術の分野にあって圧倒的にテクノロジーの差が生じてしまっている今日では、過去の時代よりも遥かにキャッチアップが難しい時代でもあるからです。否、キャッチアップが可能な国は、中国やインドと言った人口並びに資源に恵まれた大国に限られているのが現実とも言えましょう。グローバル時代には、‘規模の経済’が優位要因として極めて強く働くからです。

 比較優位説に基づく自由貿易体制における分業については、ヘクシャー・オーリンモデルというものがあり、資本が潤沢な国と労働力が豊富な国との間の分業をモデル化しています。前者では、知識集約型の製品が製造輸出され、後者では、労働集約型の製品が製造輸出されると説明されます。この理論は戦前に唱えられたものですが、逆説的には、供給される生産要素の違いであれ、何であれ、国によって輸出製品に価値の差が生じることを認めているとも言えます。もちろん、前者の価値、すなわち、単価の価格は前者が遥かに高くなるのですが、このことは、比較的に価値の低い後者を製造する国は、前者が製造する最先端の高付加価値の商品を輸入することができないことを意味します。つまり、輸出品において価値に差がある場合には互恵関係が成立しないのです。植民地主義も、アジア・アフリカ諸国が商品作物の生産に特化する一方で、欧米諸国が工業製品の生産を担ったとすれば、国際分業として是認されてしまいます。

 輸出製品の価値差は、これらの理論に頼らなくとも、途上国の経済成長が遅れがちである現実を説明しています。途上国は、輸入に際しての決済(支払い)に必要となる外貨を十分に入手することができないからです。そして、この側面こそ、外国為替を無視したリカードの比較優位説の弱点でもあります。通貨においても国による価値差が存在する場合、価値の低い製品を輸出している国が外国からより価値の高い先端的な製品を輸入しようとすれば、決済通貨が外貨であれば、自国通貨を売って決済通貨(外貨)を買わなければならないのです。となりますと、輸入が増えるほどに自国通貨売りによる為替相場の通貨安が生じ、ますます国内における輸入品の価格が上昇すると共に、互恵関係から遠のいてゆくのです。

 もっとも、為替相場の下落については、輸出には通貨安が有利なため、輸入量の減少と輸出量の増加によって自動的に調整されるとする説もあります(逆に、通貨高の国は輸入が増加し輸出が減少・・・)。しかしながら、この調整力は、国際分業が成立し、かつ、輸出品の価値に差がある場合には、効果が限定されてしまいます。低価格の商品の輸出量が増えたとしても、そこで獲得される外貨は微々たるものだからです。しかも、リカードは、貿易に際して要する決済通貨についても、全く関心を払っていません。第二次世界大戦末期にあってIMFが設立され、兌換通貨としての米ドルを事実上の国際基軸通貨とするブレトンウッズ体制が構築されたのは、貿易決済の円滑化であったのですから、経済学者がまず先に関心を寄せるべきは国際決済通貨であったにも拘わらず・・・。

 因みに、ヘクシャー・オーリンモデルの発案者であるエリ・ヘクシャーは、スウェーデン国籍ではあるものの、リカードと同じくユダヤ系の経済学者でした(ベルティル・オリーンはその弟子・・・)。ヘクシャーもまた、一国の国益に囚われないグローバルな視点の持ち主であったことは想像に難くありません。国際分業とは、あらゆる国を自由貿易体制に組み込むこと、即ち、世界、否、全世界の諸国に関税を撤廃させることによって実現するからです。国際分業の観点からすれば、今日の日本国に期待されている役割は、日本国政府の政策方針を見る限り、富裕者向けの農産物や水産物の生産、並びに、観光であるようにも思えてきます。

 以上に、自由貿易理論の非現実性を概観してきましたが、そもそも、自然科学における理論が、一つの例外事例をもって崩壊してしまうにも拘わらず、経済理論の多くが、非現実的な条件を付していることには大いに疑問があります。例えば、ヘクシャー・オーリンモデルでは、生産要素は地域間では移動しない、としていますが、現実には、資本であれ、労働力であれ、国家間を移動するからです。そして、この生産要素の国境を越えた移動自由化こそ、自由貿易主義とグローバリズムとの違いを意味します。前者は、あくまでも、現在の国家間の貿易を前提としている一方で、後者は、未来における国境なき世界市場の出現を想定しているからです。

 実のところ、ここから先にあって、グローバリズムを肯定的に擁護する理論が現れず、移動の自由化をもって破綻してしまう自由貿易論がなおも持ち出されるのは、その論理的な帰結が一般の人類にとりましてはディストピアであるからなのではないでしょうか(つづく)。

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関税壁の復活は内需復活へのチャンスでは?

2025年02月10日 10時24分10秒 | 国際経済
 国内政治にありましては、弱い立場の人々を扶けることは、政府の役割の一つとしされています。このため、所得や収入が低いといった恵まれない立場にある人や世帯に対しては、税を軽減したり、特別に支援金や手当を支給すると言った措置がとられています。所得レベルに比例して税率を上げてゆく累進課税も、弱者に配慮した制度と言えましょう。経済政策の分野でも、大企業と中小企業とは区別されており、一律に同一条件で法を適用するのではなく、後者に対しては条件を緩和するといった措置がとられることも珍しくはありません。こうした政策の根底には、全てのメンバーの生活を維持し、豊かさをもたらすという、公権力の存在意義があるからなのでしょう。

 それでは、今日の自由貿易主義やグローバリズムはどうでしょうか。今日に至るまで、これらの自由主義思想の基礎的な理論は、リカードが唱えた比較優位説に求められてきました。ところが、この説に従えば、競争力において劣位する‘弱者’は、当然に淘汰されることになります。否、完全に淘汰しなければ、最適で理想的な国際レベルでの分業も資源の効率的配分も成立しないのですから、劣位産業を潰すことは当然に通過すべき‘プロセス’となるのです。

 そして、このリカードの視点において注目すべきことは、貿易を行なう双方国における淘汰を肯定的に認め、特定の国家の立場や利益に立脚しているわけではない点です。あるいは、客観性や中立性を装いながら、その実、当時自由貿易主義で最も利益を得たイギリス、もしくは、同国に内在化したユダヤ勢力に貿易利益がもたらされる体制を理論武装しようとしたとも言えましょう。何れにしましても、国家を主体とした二国間の貿易を論じているように見せながら(従来の一般的な見解)、リカードは、上部あるいは外部から国際経済を捉えようとしていたことになりましょう。

 さて、自由貿易主義やグローバリズムの方法論はいたってシンプルであり、それは、国境を越えてあらゆる要素を自由に移動させることにあります。障壁となる国境が消滅すれば、広域的な競争が始まり、自動的に規模や技術に劣る側が中小国の産業やより規模の小さな企業が淘汰されてしまうからです。現実には、人口、国土の面積、地理的条件、気候、国家機構、技術レベル、教育レベルなど、様々な面において国家間には格差がありますので、この状態で自由競争を強いますと、柵を外して羊さんとオオカミを同じフィールドで闘わせるようなもので、‘弱肉強食’となるのです。保護壁として国境が消滅すれば、より規模が大きくよりテクノロジーにおいて先進的な諸国のみが勝ち残るのは目に見えているのです。もちろん、敗者に対するフォローはありません。上述したように、国内政治では、規律ある自由主義経済を基調としつつも、それでも経済的に弱い立場の人々が生じた場合には、上述したように公的な支援を行なうものなのですが、グローバリズムにはそれもないのです(あるいは、淘汰された側の国に弱者救済の責任や負担を押しつける・・・)。

 リカード並びにその後継者たるグローバリスト達に淘汰に対する罪悪感が全くないのも、国家の利益やその国の国民生活は、全く視野に入っていないからなのでしょう。そして、今日、グローバリストや新自由主義者達が日米をはじめ多くの諸国から批判に晒されているのも、その冷酷なまでの淘汰容認にありましょう。淘汰とは、社会一般ではこの世からの追放を意味しますので、道徳観や倫理観を持ち合わせていないサイコバスにしか見えないのです。‘世界レベルで最適の分業体制が成立するのだから、何が悪い’ということなのでしょう(しかも、同体制においては利益の殆どは永続的にブローバリストに集中する・・・)。

 アメリカではドナルド・トランプ大統領が関税を復活させ、アメリカ産業を護る方針を打ち出しています。日本国内では、メディアを中心に自由貿易主義に反するとして反対の声で溢れていますが、むしろ、関税の復活とは、経済面においても、政府が保護的な役割を取り戻すことによる‘正常化’を意味するように思えます。日本国政府も国民も、‘関税壁のある時代’の到来を危機とは見なさず、農業を含めた自国産業の復活に努め、新たなる内需型経済を構築するチャンスとすべきではないかと思うのです。

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グローバリズムは‘デジタル帝国’をもたらす

2025年01月16日 12時11分18秒 | 国際経済
 グローバリズムとは、‘規模の経済’が絶対的な優位性を与えますので、規模の如何が企業間並びに国家間競争に多大なる影響を与えます。その一方で、もう一つ、グローバリズムにあって圧倒的な優位性を約束するのがテクノロジーです。テクノロジーにあって他に先んじる企業は、国境を越えて易々と自らのシェアを拡大してゆきますので、規模とテクノロジーの両者は車の両輪のような働きをするのです。このテクノロジーに注目しますと、今日のコンピュータを含む情報処理・通信産業の発展は、グローバル時代における経済植民地化に拍車をかけたとしか言いようがありません。

 第一に、上述したように、テクノロジーが競争上の優位性を約束する要因ですので、これは、高度で先端的なテクノロジーを有する国や企業にしか、同産業に参入するチャンスが殆どないことを意味します。今日のIT大手の顔ぶれを見れば一目瞭然であり、その大半は、アメリカ並びに国策として同国の技術を積極的に導入し、短期間でキャッチアップに成功した中国の企業で占められています。先進国企業とされる日本企業の場合、テクノロジーのレベルでは然程の大差はないかもしれませんが、規模の要件を欠きますので、米中企業の後塵を拝せざるを得ないのです。

 第二に、情報処理・通信分野、すなわちIT産業にあっては、OSの提供であれ、検索サービスであれ、SNSであれ、サービスの提供に際してユーザーとの永続的な契約関係や広範囲のプラットフォームの構築を伴います。言い換えますと、特定企業によるユーザーの‘囲い込み’を伴うのです。このため、一端、ユーザーとして組み込まれますと、不可能ではないにせよ、他社への乗り換えには手間やコストがかかります。つまり、インフラ事業の一種ともなるITサービス事業には、‘先手必勝的’な側面があり、後から同産業に参入しようとする企業は、競争上、常に不利な立場から出発しなければならないのです。このため、先に自らの製品の普及やプラットフォームの構築に成功した事業者は、長期的に収益を確保できるのです。しかも国境を越えて、他国の人々の個人情報をも飲み込みながら。

 もっとも、今日では競争法があるのだから、IT大手による独占や寡占は規制されるのではないか、とする反論もありましょう。実際に日本国の公正取引委員会をはじめとする各国の競争当局は、IT大手に対する規制の強化に動いています。しかしながら、デジタル技術を基盤とするIT産業は、農業、商業、工業といった既存の産業ではなく、人類史にあって全く新しい産業分野として20世紀に登場しています。このことは、同産業では、既存の競争相手が存在しない状態で起業が行なわれたことを意味しますので、スタート時点においては凡そ独占状態が否が応でも出現してしまうのです。事業の新規性に鑑みて、アメリカの連邦最高裁判所も、同事業分野についてはIT大手に対して好意的な判決を下す傾向にあります。第三の経済支配加速化原因は、更地の上に新たな事業を広げ、ネットワークをも独自に構築できる‘自由自在さ’にあります。そしてこれも、国境を越えて広がってゆくのです。

 また、企業買収を許す今日の経済システムでは、たとえ先進国であれ、途上国であれ、小規模ながらも独自技術を開発したスタートアップが設立されても、マネー・パワーによってIT大手に買い取られてしまいます。企業としての独立性を保つことは難しく、何時、大手に飲み込まれてもおかしくはないのです。

 これらの要因が重なりますと、領域支配を伴わないとしても、IT大手は、あたかも‘仮想帝国’のような様相を呈することとなります。全世界の人々をユーザーとして囲い込む、あるいは、自らのプラットフォームに取り込むことで、永続的に収益を吸い上げることができるのですから。植民地時代にあって、宗主国が植民地の課税権等を掌握したのと、然して変わりはないようい思えます。しかも、サービスの内容や使用料金、あるいは、製品の価格や品質を決める決定権は、IT大手側にありますので、ユーザーは一方的に‘支配される側’となるのです。OSを例にとれば、企業側の一方的なモデル更新や仕様の変更により、過去のデータさえ読み出せなくなる事態に直面するかも知れないのですから、ユーザーの不利益は計り知れません。

 かくして登場したIT大手、あるいは、グローバリスト連合が、その絶大なるマネー・パワーをもってグローバルレベルでデジタル化をさらに推し進め、人類に未来ヴィジョンを押しつけ、挙げ句の果てに、ワクチン事業等をもって‘現地住民’に対する生殺与奪の権まで握ろうとするのであれば、これは、かつての植民地時代よりも専制的で冷酷な支配となりましょう。グローバリズムについては、その負の実態から目を背けることなく、人類は、より安全な別の道を模索すべきではないかと思うのです(つづく)。


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企業買収と経済植民地主義

2025年01月15日 12時04分30秒 | 国際経済
 第二次世界大戦後、植民地主義は終焉したと見なされがちです。確かに、アジア・アフリカ諸国の多くが独立し、植民地は、地球上から姿を消したようにも見えます。しかしながら、植民地は消えたとしても、植民地主義は、別の形で残っているようにも思えます。

 植民地主義とは、自国の国境線を越えた領土や勢力範囲の拡張を是とする考え方であり、‘帝国主義’とも言い換えることができるかもしれません。強者の論理であり、この世界では、強い者が弱い者から奪うことが是認されます。その一方で、敗者や弱者の側は、支配される側として虐げられることを意味します。実際に、植民地主義が蔓延していた時代には、宗主国が現地の統治権を奪うのみならず、植民地とされた諸国の領域内にある資源や権益は持ち去られ、一般の住民達もプランテーション等での労働を強制されたり、一方的に搾取される立場に置かれることも珍しくはありませんでした。支配の安定を目的として宗主国から地位や豪奢な生活を特別に保障された極少数の人々は別としても、植民地の人々には過酷な運命が待ち受けていたのです。もちろん、とりわけ人種や民族が違う場合には、宗主国の人々が、植民地の現地住民の人々を自らの国の国民と見なす意識も殆どなかったことでしょう。

 しかしながら、やがて人類は、他国の支配を‘悪’とみなすことで合意してゆきます。この流れは、利己的他害性を悪とする人類普遍の理性が、国際レベルにあってようやく形として現れる過程でもありました。侵略や植民地支配等を禁じる国際法も制定され、民族自決並びに主権平等の原則も国際社会において確立するのです。かくして、国家レベルでは、一部を除いて植民地主義は消えたかのように見えるのですが、経済分野では、必ずしも同方向に同調したわけではないようです。経済の基本システムにあって、それがより取引が簡便となる小口の株式の形態であれ、所有権や経営権の売買が合法的な行為とされる以上、経済分野にあっては、‘他国企業’、あるいは、‘グローバル企業’による合法的な支配はあり得るからです。そして、冷戦の終焉によって国境の壁が著しく低下し、もの、サービス、マネー、人、知的財産、情報と言った諸要素が自由に国境を越えるに至ったグローバルな時代とは、企業買収や出資等を介してマネー・パワーが全世界の諸国の隅々まで及ぶ時代を意味したのです。言い換えますと、政治的植民地主義は過去のものとはなったとしても、経済的植民地主義は細々と生き残るどころか、90年代以降は、加速されてしまったとも言えましょう。

 グローバル市場における最大の強みは‘規模’ですので、この時期にあって、中小国がひしめくヨーロッパにあって経済統合が推進されたのも容易に理解されます。そして、かつての植民地時代のように産業の発展した国が必ずしも優位となるわけではなく、BRICSや今日注目を集めているグローバル・サウスのように、人口規模の大きな国が競争力を有し、急速な経済成長を遂げるようにもなります。もっとも、BRICSもグローバル・サウスも、その人口規模が評価されて、世界金融・産業財閥とも言えるグローバリストから有力な投資先として選定されたのでしょう。言い換えますと、たとえ過去にあって植民地であったとしても、規模の経済を備えた国の企業が、グローバリストを後ろ盾としつつ、かつての宗主国であった先進諸国の企業を買収するケースも増大してゆくのです。

 アヘン戦争以来の歴史を屈辱と見なす中国では、この‘下剋上’あるいは逆転劇に、過去に傷つけられたプライドを埋め合わせ、あるいは、復讐劇として溜飲を下げているかも知れません。その一方で、チャイナ・マネーによって多くの企業が買収された諸国では、国民の対中感情は芳しくはないはずです。そして、USスチールの買収を諦めていない日本製鉄に対して、同社の買収を競ったクリーブランド・クリフス社のゴンカルベス最高経営責任者(CEO)が、太平洋戦争時の真珠湾攻撃を持ち出して「日本は邪悪だ」と罵るのも、敗戦国が戦勝国の企業を買収することに対する怒りにも似た嫌悪の感情があるからなのでしょう。

 しかも、これらの感情の根源に、他者による支配を‘悪’と見なす人類普遍の倫理観があるとしますと、日本側も、米国民の国民感情を決して無視は出来ないように思えます。否、グローバルな時代には国境はないとするのが幻想であればこそ、経済における‘企業売買’の許容は、当事者となる企業や政府のみならず、国民をも巻き込む政治的な対立要因ともなりかねないと言えましょう。

 このように考えますと、今後、議論すべきは、経済における相互的な主体尊重のルール造りのように思えます。窃盗の被害に遭った人が、その後、窃盗を行なったとしても状況は改善されるわけではなく、治安はさらに悪化することでしょう。USスチールにつきましても、‘何れかに買収されなければ生き残れない’とする主張は、救済目的であれば文句はないはず、とする自己正当化のための弁明であり、一企業としてのUSスチールの独立性や自力再生力を見くびっているとも言えましょう。マネー・パワーが猛威を振るい、政治や社会における人々の自由を侵害しつつある今日、急ぐべきは経済植民地主義を推進している同パワーに対する制御であり、相互の主体性尊重と対等性を原則とする企業間の関係、延いては、企業組織そのものの倫理に即した在り方なのではないかと思うのです(つづく)。

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企業買収の反倫理性-経済における自由のパラドックス

2025年01月14日 08時54分27秒 | 国際経済
 自由とは、しばしば‘他者の意思に従属しないこと’として説明されています。‘自由な市民社会’という言葉も、ヨーロッパにあって中世の身分社会が崩壊し、個々人が対等な立場にあって自らの意思に基づいて生きることができる社会の到来の表現したものです。もちろん、‘全て’の人々の自由を護るには、相互に他害行為を抑制する規範やルールが必要なものの、自由とは、本来、独立した主体性を意味しており、これを奪うことは、他者に対する不当な侵害行為と見なされるのです。

 この観点から見ますと、今日の自由主義経済には、その名とは裏腹に、自由、否、主体性の侵害を許す側面があります。この側面は、自由の最大化を目指す新自由主義に顕著なのですが、株式会社が経済活動の主体としての基本モデルとなったために、株式の取得等により、他社を自らの支配下に置いたり、吸収合併することが、容易かつ合法的にできるからです。つまり、企業間関係をみますと、企業グループの名の下で中世さながらのヒエラルヒーが形成されたり(親会社、子会社、兄弟会社、孫会社・・・)、帝国に飲み込まれるが如くに主体性を完全に失い、市場から消えてしまう企業も少なくないのです。

 そして、一度、他の企業に経営権が移りますと、買収される、あるいは、従属下に置かれた側の企業側の境遇は、過去の奴隷と大差はありません。支配権を握った企業経営者は、収益が期待外れであった、あるいは、価値や必要性が失われたと判断した場合には、当該企業を再度市場で売却することができます。取得側が投資ファンドであれば、利ざやを稼ぐための‘転売’こそが買収の目的となりましょう。また、経営や資産活用の効率性が思わしくなく、リストラを要すると見なした場合には、売られた側の企業に勤める社員は、CEO等の幹部から製造現場の労働者に至るまで、戦々恐々となります。即、解雇される恐怖に直面するからです。さらには、売却側企業が保有していた資産の処分も買収側の自由自在です。‘身売り’する側の企業の境遇は、自らに対する決定権を失い、なす術のない‘奴隷’のそれに近いと言えましょう。

 近現代とは、社会の分野にあっては個々人の人格が尊重され、全ての人々の自由を保障した時代として理解されています。誰もが、人々が自由に生きられる時代の到来を歓迎したことでしょう。実際に、個々の人格の平等性は憲法の保障するところでもあります。その一方で、経済分野を見ますと、経済の基本システムが、‘企業売買’を当然視しているため、永続的な主体性の喪失と自由の侵害が放置されています。そして、競争が経済成長の原動力とされる限り、あらゆるコストを下げる効果を有する規模が重視され、規模の拡大をめぐる競争とならざるを得ないのです。この結果、規模に優る企業が弱小企業を併呑する形で寡占化や独占化が進み、いわば、経済版の‘帝国’が出現するに至ったと言えましょう。このことは、‘自由な社会’とは逆に、‘不自由な経済’が出現したことを意味します。もちろん、この経済世界は、決して民主主義を基本原則としているわけでもないのです。

 経済における自由が、実質的に規模の大きい企業、あるいは、競争力に勝る企業のみの自由を意味するに至ったとき、自由主義経済の自由とは、一部の経済主体のみの自由に転じてしまいます(新自由主義はまさにこの思想・・・)。この逆転に逸早く気付いた経済大国のアメリカでは、世界に先駆けて反トラスト法が制定され、その後、日本国の独占禁止法を含めて各国にあって競争法を制定する動きが広まりました。しかしながら、同法も競争当局も力不足でもありますし、今日の経済システムが抱えている根本的な問題に踏み込んでいるわけでもありません。それどころが、経済における独裁容認の世界観が政治や社会にも浸透し、今やグローバリズムの名の下で‘全ての人々の自由’を脅かしているとも言えましょう(つづく)。

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‘企業売買’は許されるのか?

2025年01月13日 11時46分43秒 | 国際経済
 人身売買と言えば、誰もが眉を顰め、人類にはあってはならないものとして批判するものです。奴隷市場が公然と開設され、奴隷達が取引されていたお話を聴けば、それは過去の野蛮な時代の悲劇として、誰もが奴隷になりかねない時代に生きた人々に深い同情を寄せることでしょう。今日では、人を売買することは、売る側が自分自身であったとしても犯罪であり、法律によって固く禁じられています。人身売買の禁止は、人類の道徳・倫理の精神的成長を示す証とも言えましょう。

 ところが、経済の世界を見ますと、実のところ、企業の売買は許されています。人身売買の罪の本質が、他者の自己決定権とも表現される主体性を失わせ、自らの意思に従属させるところにあるとしますと、何故、人がだめで企業が許されるのか、その合理的な説明は難しくなります。どちらも、主体性の侵害、そして他者に対する“殺生与奪”の権限の掌握という側面を含んでいることには変わりはないのですから。主体性喪失あるいは簒奪の問題は、主権を有する国家についても言えるかも知れません。

 この素朴な疑問に対しては、経済学者やグローバリストの多くは、今日の自由主義経済の仕組みを解説することで、説得しようとすることでしょう。‘経済とは、市場における企業間競争が成長を牽引しており、賢明な経営によって安価で良質な製品やサービスを消費者に提供した者が生き残る世界である。企業間競争は、経済成長には不可欠であるのだから、勝者となったより優れた企業が市場の敗者となった企業を買い取ることは許されるべき当然の行為である’と・・・。あるいは、吸収・合併や企業間統合のメリットを強調し、‘規模が大きく、技術力を備えた大企業が、競争力に乏しく市場からの敗退が迫っている弱小企業を取り込むことは、一種の救済である。’ホワイト・ナイト‘のようなものであり、買う側と売る側の双方がWin-Winであれば、評価すべきである’と説明するかも知れません。

 今般の日本製鉄によるUSスチールの買収計画を見ましても、同案の正当性や合理性は、これらの主張によって支えられています。マスメディア等では、‘経営と技術力に優る日本製鉄が他の企業を合併し、さらなる強敵である中国製鉄企業との競争に備えるのは当然である’、‘USスチールは、日本製鉄が買収しなければ倒産するか、クリーブランド・クリフスに買いたたかれるはずであった’、‘日本製鉄もUSスチールも双方とも合意しているのに、部外者である政府が介入するのは不当である’とする合併推進論が声高に叫ばれているのです。

 バイデン大統領の買収禁止の判断の根拠が安全保障上の懸念であったことから、経済合理性を政治的打算が覆したとする論調も強いのですが、外国企業による自国企業の買収に憤慨するアメリカ国民の感情も、その根源を辿れば、自国企業の主体性の喪失にあるのかもしれません。単なる反日感情やアジア系に対する差別意識というよりも、より人類の根源的な自己喪失に対する危機意識に根ざしているかもしれないのです。

 このことは、上述したような合併推進派の弁明も、この主体性喪失の危機、否、自己防衛本能を伴う反発の前にはこの説も大きく揺らぐことを意味します。喩え奴隷が自らの生存に必要となる衣食住を奴隷主から提供され、奴隷主によって生かされているとしても、誰も、人身売買や奴隷制を道徳や倫理に叶った正しい行為とは見なさないことでしょう。買われた奴隷自身が、この状態を‘よし’としたとしても。

 相互的な自己保存の承認が人類社会に規範やルールをもたらし、悪や犯罪を規定し、統治機構をも出現させた側面に注目しますと、むしろ、何故、経済においてのみマネーで主体を買うことが出来るのか、この疑問が、人類の未来をも左右する問題として迫ってくるのです。果たして企業売買が許されていた時代を、人類が野蛮な時代として嘆く日は訪れるのでしょうか(つづく)。

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USスチール買収問題が示すグローバリズムの野蛮性

2025年01月10日 10時52分56秒 | 国際経済
 アメリカのジョー・バイデン大統領が日本製鉄によるUSスチールの買収を禁じる大統領令を発令した一件については、中国の反応が注目されるところです。中国共産党の機関紙である人民日報系の環球時報は、日本企業を「がっかりさせた」と論評しています。中国は、アメリカにシャットアウトされたかに見える日本製鉄、並びに、日本政府にすり依り、同事件を契機に日米離反を試みようとしたのでしょうか。あるいは、対中関税の大幅な引き上げを公約とするトランプ政権の発足を前にして、自国と日本国の立場を同一視し、アメリカの保護主義を批判したいのでしょうか。

 両者が入り交じった見解なのでしょうが、国営新華社通信は、「米国が国家安全保障をむやみに用いた新たな事例の一つにすぎない」と報じていますので、どちらかと言えば、後者、即ち、政治的な理由をもって企業買収を阻止したアメリカの政策に対する批判なのでしょう。米中対立が強まる中(少なくとも表面的には・・・)、中国としては、安全保障上のリスクを持ち出されることは、関税障壁による中国製品のみならず、即、中国企業の米穀企業に対する投資、あるいは、M&A戦略もブロックされることを意味するからです。

 米ソ冷戦終結後のグローバル化の流れを振り返ってみますと、グローバリズムによって最も恩恵を受けた国は中国でした。体制崩壊したソ連邦とは異なり、中国そのものは共産党一党独裁体制を維持し、共産主義を国家イデオロギーとして奉じながらも、‘旧西側諸国’は、もはや‘旧東側諸国’との間には政治的な壁は存在せず、同国のWTOへの加盟も許してしまったのですから。安価で豊富な労働力、安い元相場、そして、緩い環境規制などは、グローバル市場にあっては国際競争力として強力に作用し、巨額のチャイナ・マネーも、国境を越えて溢れだし、海外企業の積極的な買収に投じられるようになりました。中国企業に買収されたり、大株主の地位を占められたり、中国系企業グループの傘下に組み込まれた日本企業も少なくありません。

 中国の躍進の舞台は、国家の存在を障壁と見なすグローバリズムが提供したのですから、同国にとりましては、アメリカの保護主義はこれを台無しにしているように見えるのでしょう。しかしながら、自由貿易主義もグローバリズムも、‘ルールがないのがルール’という、一見、ルール志向に見えながら、その実、弱肉強食の野蛮な世界です(国家が規制を設けるとルール違反になる・・・)。グローバリズムの勝者が中国であったように、国家であれ、企業であれ、スケールメリット、並びに、技術力に優る者が、競争力に劣る規模の小さな者達を飲み込む、あるいは、市場から駆逐してしまうのが現実です。IT分野を見れば一目瞭然であり、途上国からグローバルなプラットフォームを構築し得る大手IT企業が出現することは絶望的に不可能に近いと言えましょう。グローバリズムとは、形を変えた‘植民地主義’の復活にも見えなくもないのです。そしてこの観点からすれば、各国政府のグローバリストに対する恭順の態度は、植民地時代の現地支配層、並びに、日本製鉄と一緒になって大統領の禁止令に抗議するUSスチール幹部の態度とも重なって見えます。支配する側(グローバリスト、宗主国、買収企業)が、形ばかりではあれ、被支配側のトップの地位を保障してもらう代わりに、自らの集団のメンバーに対する支配権を容認するのですから。

 日本国内では、グローバリズムを礼賛する傾向が続いていますが、グローバリズムを受け入れることは、開放された自らの市場が海外勢力に席巻されてしまうことも認めざるを得ないことを意味します。それが、たとえ鉄鋼やエネルギー、さらには、食料生産といった国家の安全保障や国民生活に直結する分野であったとしても。実際に、今やマネー・パワーに籠絡されてグローバリストの‘代理人’の如くとなった日本国政府や政治家達は、まさしくこの路線を一直線に歩んでいるように見えます。その一方で、日本国民にあって保守派の人々も、日本企業の米市場への参入が阻止されたわけですから、自国勢力の‘拡大’を願う立場からアメリカの今般の措置に対して批判的です。つまり、日本国内では、グローバリストと保守派という、本来、その対中姿勢や価値観において相対立する人々が、奇妙なことにアメリカ批判では一致しているのです。

 しかしながら、上述したように、国境のないグローバル市場とは弱肉強食の世界です。この視点からしますと、日本国政府は、グローバリズムの文脈にあって中国に自国の市場を開放し、中国企業による自国企業の買収を容認するのでしょう。今後、中国企業が製鉄をはじめとした基幹産業における日本の大手企業の買収に乗り出した場合、一体、どのように対応するのでしょうか(対日投資熱烈歓迎?)。そして、かねてより中国脅威論を唱えてきた保守派の人々も、この思わぬ成り行きに言葉を失うかも知れません。これらの人々の立場は、かの『羅生門』で言えば、下人に衣を奪われる老婆ともなりましょう。

 このような未来を予測しますと、真に考えるべきは、グローバリズムが許している‘ルールがないのがルール’という、一種の無法状態のように思えます。‘己の欲せざるところを人に為すなかれ’は、人類に共通する道徳規範です。人類の野蛮からの脱出は、まさしくこの相互的な抑制作用の認識とそれを具現化する制度化にありました。国際社会では、政治分野にあってもルール作りや制度整備は十分ではありませんが、他者(国家、企業、個人・・・)の主体性を奪う行為を無批判に合法とする今日の経済の在り方こそ、早急に見直すべきではないかと思うのです。

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USスチール買収措置が提起するグローバリズムの問題

2025年01月06日 10時14分30秒 | 国際経済
 新年を迎え、お正月の行事に賑わう1月3日、アメリカのジョー・バイデン大統領は、日本製鉄によるUSスチールの買収を禁じる大統領命令を発しました。2兆円規模とされる同買収案は、2023年12月に日本製鉄側が提案しており、同年4月には、USスチール側も臨時株主総会で同案を承認しています。両者合意の上の友好的買収ですので、同案の実現には然程の障害はないようにも見えたのですが、USスチールが粗鋼の世界市場では24位でありながらも、全米では第2位のシェアを誇るアメリカを代表する大手製鉄企業であったため、様々な方面から反対の声が上がることとなにもなったのです。

 先ずもって同案に反対したのが、USスチールの労働者も加盟する全米鉄鋼労働組合 (USW)です。通常、企業買収に伴って大規模なリストラが実施されますので、USスチール社を筆頭に鉄鋼事業に従事している人々が反対するのは理解に難くありません。USスチール側に対しては、日本製鉄側は雇用の維持や雇用創出効果を伴う27億ドルの投資を約束し、USスチールの取締役の過半数も米国籍とするなどの対応を示してきたものの、USWの反対姿勢は今日まで維持されています。そして、買収案が公表された時期がまさしく大統領選挙の最中であったため、USスチールの買収問題は、保守色を強める世論を巻き込む形で大統領選挙の争点として政治問題化していったのです。

 最初に同買収案に対して反対を表明したのは、かねてより保護主義を基本方針としてきたドナルド・トランプ次期大統領でした。今般の大統領命令の丁度1年前に当たる2024年1月3日には、有権者を前にして「「私は即座に阻止する。絶対にだ」と息巻いています。ところが、伝統的に労働者を支持基盤としつつも、民主党離れが顕著となってきた労働票の取り込みを狙ってか、2024年4月には、大統領の座を争うバイデン大統領も反対姿勢に転じます。この時点で、両政党の候補とも、世論の後押しを受けて日本製鉄による自国企業の買収阻止で足並みを揃えることとなるのです(民主党の候補者がカマラ・ハリスに交代した後も同方針は維持・・・)。

 アメリカでは、たとえ企業間の合意が成立したとしても、海外の企業がアメリカ企業を買収する場合には、法律上の手続きとして対米外国投資委員会による厳正なる審査(CFIUS)を経るものとされています。しかしながら、今回のケースでは、突然の大統領命令の発令という形で買収が禁じられています。上述した日本製鉄側のUSスチールに対する対応も、CFIUSから示された懸念を解消するための措置でもありました。大統領命令の発令に際してCFIUSの審査がどれほど関与したかも不明であり、手続き上の瑕疵がある可能性があります。このため、買収禁止命令を受けた日本製鉄側は、「米国憲法上の適正手続き及び対米外国投資委員会を規律する法令に明らかに違反」として、アメリカ政府を相手取った提訴をも視野に入れています。また、同大統領令によって買収がお流れになりますと、巨額の違約金が発生する可能性があり、日本製鉄側としては、法廷を舞台に‘徹底抗戦’の構えを見せているのです。

 以上に、簡単に日本製鉄によるUSスチール買収案に関する経緯を述べてきましたが、日本国内の反応を見ますと、今般の大統領命令による買収禁止については落胆と憤慨が入り交じったような見解が多数を占めているように思えます。批判の理由としては、政治的なものと、経済的なものとに凡そ二分されます。政治的な批判とは、主としてバイデン大統領が、安全保障上の懸念を理由として日本企業による買収を禁じたことによるものです。その一方で、経済的な側面からは、マネーが自由に国境を越える時代にあって、政府が海外企業の買収を禁じるのはグローバル・ルールに反するとする声が上がっているのです。グローバル時代にはあるまじき海外企業に対する‘差別’として。

 日本企業によるアメリカ企業の買収案がアメリカ政府によって阻止されたのですから、日本国政府や日本国民が不快に感じるのも理解の範囲に入ります。しかしながら、より客観的、かつ、冷静な視点からしますと、この問題、グローバリズムの欺瞞と限界、あるいは、虚像を暴いているようにも思えます。本ブログの新年は、国家とグローバリズムの問題について掘り下げることから始めてみたいと思います(つづく)。

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自由主義経済と企業の独立性―奴隷制度との比較

2024年08月08日 10時41分55秒 | 国際経済
 今日、多くの人々が、自分たちは自由主義経済の中に生きていると信じ込んでいます。しかしながら、株式システムを見る限り、そうとも言えないように思えます。自由という価値が実現するためには、各々の主体の独立性を要するからです。この自明の理からしますと、株式システムに最も近いのは、奴隷システムではないかと思うぐらいです。何故ならば、以下に述べるように、両者には幾つかの共通点があるからです

 第1の共通点は、両者とも、‘もの’ではないにも拘わらず、所謂‘物権’が設定されていると見なされている点です。奴隷の所有権が奴隷主にあるように、企業も株主に‘所有権’があるとする見方が一般的でした。何れも、お金を出して‘買った人’が、所有者であると見なされてきたのです。英米系の企業文化に顕著な株主所有の考え方は、今日、若干の修正が試みられていますが、企業という存在が、株式の発行によって売買の対象となる点においては変わりはありません。

 第1と関連して第2に、奴隷主も株主も、一端、買い取って権利を得た以上、奴隷や企業に報酬を払う必要性も義務もありません。如何に前者のために後者が懸命に働いたとしても、無報酬なのです。企業に至っては、株主に対して配当金を支払い続ける法的義務さえ課されています。

 第3に、奴隷主は自らの思いのままに奴隷を他者に売却することができますし、株主も、何時でも、自らの判断で所有している株券を売却することができます。売却に際しては、奴隷や企業の意思は、殆ど考慮されないのです。このため、奴隷は他者に売り飛ばされたくなければ、奴隷主に尽くして気に入ってもらわなければなりませんし、今日の企業も、自社株の売却を恐れて株主への配当率を高めたり、その要求に応じたり、株主サービスを拡充せざるを得なくなります。

 第4に、企業も奴隷も、その価値は、市場における売買によって決定されます。相対取引による売買もありましたが、奴隷制度が一般化していた古代にあっても、奴隷市場という奴隷の売買が行なわれる市場が存在していました(古代ギリシャではロードス島など・・・)。奴隷達は、生まれたとき、あるいは、捕縛された時から価格が決まっていたわけではなく、その属性や能力等によって値踏みされ、競売などにかけられて取引されたのです。一方、今日の企業も、証券市場による投資家等の評価が企業価値を決定しています。今日、証券市場への上場は事業成功の証の如くにお祝い事ですが、企業の売買市場への‘売り出し’という見方もできないわけではありません。上場時に高値が付けば、同企業は多額の資金を調達できますし、市場にあって自社の株価が上がれば企業価値も上がり、当該企業にとりましては喜ばしいことではあります。しかしながら、公開後にあっては、実質的な株価上昇の利益は、それを売却することができる株主が享受するのです。

 そして、第5の共通点を挙げるとすれば、全てではないにせよ、奴隷にも企業にも、自らを解放する手段がないわけではない点です。古代ギリシャでは、借金が返せなくなったために奴隷となって自らを売った債務奴隷の場合には、債務の返済によって奴隷身分から解放されました。また、奴隷契約の場合には、契約期間が満了すれば、晴れて自由の身となることができたのです。それでは、現代の企業はどうでしょうか。自らの自由の身とする方法が全くないわけではありません。例えば、日本国では2009年に解禁となった自己株式の消却です。株式の消却は、自らを買い戻すことを意味するからです。そして、もう一つの方法が、昨日の記事で述べた株式の社債への転換なのです(他にも多くのアイディアがあるかも知れない・・・)。

 株式会社の制度は、オランダ東インド会社を起源とするとされますが、400年以上にわる歴史があり、今日の最も基本的な企業モデルの地位を確立したとはいえ、最も望ましい企業形態であるとは言えないはずです。それが上述してきたように奴隷制と似通っており、かつ、グローバリストの世界支配の手段と化している現状を見れば、なおさらのことです。固定概念から離れ、否、洗脳を解き、株式制度の問題点を十分に知り尽くした上で、より人類にとりまして望ましい形態を見出することこそ、現代に生きる人々の使命なのではないかと思うのです(つづく)

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株式の社債への転換というアイディア

2024年08月07日 09時57分18秒 | 国際経済
 今日では、就任して日の浅いイギリスの首相の名を知らなくでも、ビル・ゲイツ氏やイーロン・マスク氏の名は誰もが知っています。政治家は、任期を終えると表舞台から去って行きますが、巨万の富を手にするグローバリスト達は、あたかも終身の指導者のごとくであり、その意向一つで世界を自らのヴィジョンに合わせて変えてしまうのです。そして、これらの人々が、民間人の一人に過ぎないことに思い至りますと、現代とは、マネー・パワーを握る極一部の私人に支配されている時代と言っても過言ではないかも知れません。そしてそれは、権力を私物化する政治的独裁者と然して変わりはないのです。

 マネー・パワーによる私的独裁が成立するに至った主たる原因は、今日の経済システムの欠陥にあります。この問題は、オランダ東インド会社由来の株式会社という組織形態に組み込まれており、同企業形態では、株主に一定の権利を与えるため、株式の取得が企業の独立性を失わせ、私的独占・寡占を促すメカニズムとして働くのです(今日、競争法が機能しているとも思えない・・・)。そして、グローバル化と共に国境を越えてマネーが自由に移動できる時代を迎えますと(資本移動の自由化)、マネー・パワーは瞬く間に全世界に及び、富裕な私人達、即ち、非合法な世界権力による新たな植民地支配の如き様相を呈していると言えましょう。

 それでは、世界権力に富も権力も集中する現状を変えることはできるのでしょうか。共産主義の信奉者の人々は、現政府を革命によって転覆し、政府が全面に経済を管理・統制する共産主義体制を樹立すればよい、と主張するかも知れません。しかしながら、国家による独占も私人による独占もその本質において変わりはなく、共産主義国家の実態は、共産党幹部による富と権力の私物化でしかありません。これでは改悪ですので、‘変えれば良い’というものでもないのです。なお、資本主義か共産主義下の二者択一の構図は、選択者がどちらを選んでも不幸になるという、世界権力お得意の二頭作戦なのでしょう。

 かくして、真っ先に共産革命が選択肢から外れるのですが、変化を求めた結果、経済システムが根底から破壊され、人類の生活水準が著しく低下するのでは元も子もありません。そこで、考えられる一つの案が、株式の社債への転換です。今日のシステムでは、株主の権利は企業に対する貢献度からしますと強過ぎます。株式の発行とは、本来、企業の資金調達の手段に過ぎませんので、株主が、一般の債権者以上の権利を有するのは、貸借関係からすればバランスを欠いているのです。

 株式を社債に転換すれば、株主の権利は、一般の債権者と同程度にまで縮小されます。これまで株主に支払われていた配当も、利払いの形態に転換されます。その一方で、企業にとりましての株式発行の利点は、償還の満期日が定められておらず、返済圧力を免れる点にあります。このため、社債に変換しますと、償還金額が準備できずに債務不履行の状態に直面するリスクが高まりまるのですが、同リスクについては、20年や30年といった超長期社債の形態として発行するのも一案となりましょう。この点、償還までの利払い並びに償還金総額と同期間における配当金の支払い総額とを比較して、前者が低コストとなれば、社債への転換は企業にとりましてメリットとなり、社員の給与額のアップや設備投資等への投資に繋がります。その一方で、前者が高コストとなるのであれば、企業は、社債の発行を控える方向に判断することとなりましょう(少なくとも、今日のように、グローバリストに強いられてDXやGXなどへの無理な投資を行なうような経営判断はしなくなる・・・・)。

 また、株式の社債への転換は、投機的行為を抑制する作用も期待されます。これは、「資本主義」の致命的な欠点ともされてきたバブルの発生を抑える効果でもあります。何故ならば、債権の場合には、金額が券面に明記されているために、額面の額を超えての取引にはセーブがかかります。ところが、株式の場合には、株価は証券取引所での売買によって成立しますので、株価(価格)には天井がないに等しいのです。言い換えますと、株式制度とは、投資家、否‘投機家’の思惑も加わって価格が乱高下しますので、経済にとりましては不安定要因と言わざるを得ないのです。このため、一人の投機家が自らの個人的な利益のために世界恐慌や金融危機を仕掛ける、という事態もあり得るのです(このリスクは、為替市場にも見られる・・・)。

 そして何よりも、株主が有する運営介入の権利、即ち株主総会における議決権も消滅すれば、各々の企業は、融資を受け、返済義務のある債務者ではあっても株主による介入を受けずに済みます。この企業の独立性こそ、規律ある自由主義の前提条件なのです(つづく)。

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自由主義が善で「資本主義」は悪なのでは

2024年08月05日 09時49分47秒 | 国際経済
 本日、ウェブ上に「「資本主義」は社会の発展に不可欠な必要悪?」とするタイトルのネット記事を発見いたしました(Wedge、8月5日配信)。同記事は、「資本主義」の利点を分かりやすく説明するために、女子プロレスリングや「仮面ライダー」などを引き合いに出しており、誰もが分かりやすいように書かれています。同タイトルを見た人々の中には、‘「資本主義」をなくしてはならない’と早合点する人もいることでしょう。何と申しましても、「資本主義」あっての経済発展なのですから。しかしながら、「資本主義」は、同記事が述べるように‘社会発展に必要不可欠な必要悪’なのでしょうか。

 資本主義という表現は、しばしば共産主義や社会主義の反対語として使用されてきました。その理由は、共産主義の祖ともされるカール・マルクスがその大著『資本論』において、労働者を搾取しつつ資本家のみが肥え太る、当時の経済システムを痛烈に批判したからなのでしょう。その一方で、一般的な用語としては、自由主義国の経済システムは、資本主義の他にも自由主義や市場主義などの名称でも呼ばれており、必ずしも一本化されているわけではありません。現行の経済システムは、様々な視点や角度から見ることでその呼び方も変わってくるのです。

 呼称が様々であったとしても、一つ、共通点があるとしますと、それは個人の経済的な自由が保障されている点です。「資本主義」が、統制経済あるいは計画経済をもって最大の特徴とする共産主義に対置されるのも、あらゆる権力が政府に集中する前者には個人の経済的な自由が皆無に等しいからと言えましょう。言い換えますと、資本主義という用語には、共産主義との対比において‘自由’という概念が含まれるのです。おそらく、同記事の筆者も、この意味において「資本主義」を捉えているのでしょう。

 そして、ここに、同記事には詭弁的な論法が登場することとなります。「資本主義」を必要悪とみなす根拠として、個々人の経済活動の自由を力説しているからです。「資本主義」であれば、「個人個人で独立して勝手に頑張れる」として。そして、社会主義が失敗したのは、資本主義あるいは資本家を排除したからと述べているのです。つまり、皆が豊かに暮らすには、資本主義も資本家も必要という論法なのです。

 しかしながら、資本主義と自由主義が互換性のある用語であるのか、と申しますと、そうではないように思えます。マルクスが批判したように、資本家達による資本の独占や寡占が許される状態であれば、株式の取得や企業の‘所有’により、私人による全面的な経済支配もあり得るからです。この状態に至りますと、私的独占による自由の消滅、並びに、それに付随する自由な競争も失われ、自律的な経済発展のメカニズムは停止してしまいます。表向きは自由主義国に見える非社会・共産主義国家であっても、私的独占による一般国民の貧困もあり得るのです(このため、現在では、競争法が制定され、独占や寡占は禁じられている・・・)。

 今日、一部の資本家、即ち、グローバリストへの富の集中は既に深刻な構造的な問題として表面化しており、DXやGXといったテクノロジーの普及がこれを支えています。私的独占が自由主義を蝕んでいるのであり、この現象に注目すれば、今や資本主義や資本家は、マルクスが生きた19世紀のように、搾取的なシステムをより広範囲に、つまり、グローバルに構築しようとしているように見えるのです。言い換えますと、広義の「資本主義」には私的独占も含まれているのであり、自由は自由でも、何らの制約なく資本家がマネー・パワーを発揮し得る極少数の人々の‘自由’なのでしょう(むしろ、新自由主義と表現した方が適切かも知れない・・・)。

 マネー・パワーが猛威を振るう由々しき現状からしますと、同記事の筆者のように、「資本主義」や資本家を‘必要悪’として擁護できるのか、と申しますと、この見解には疑問があります。誰もが否定し得ない‘自由’という価値を持ちだして、悪徳資本家、つまり、今日の強欲で無慈悲なグローバリスト達まで十把一絡げで擁護しようとしているにように見えるからです。因みに、今年の6月18日、ロイター社は、かの米投資大手ブラックストーン社が総額2756億円をもって日本国内で電子漫画配信サイト「めちゃコミック」を運営しているインフォコムを買収する旨を報じています(TBOの期間は7月31日まで)。同記事の筆者は、漫画家であるさくら剛氏なのですが、背後に‘資本家’の陰を疑うのは、的外れな推測なのでしょうか。

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富裕層の道楽となったグローバル企業

2024年04月23日 14時12分25秒 | 国際経済
 今日の世界情勢を観察しておりますと、人類は、あらゆる面においてグローバリストに翻弄されているように見えます。全世界を裏からコントロールし得るパワーを握るグローバリストの出現については、株式取得を勢力拡大の手段とする‘資本主義’の問題を抜きにしては語れないのですが、グローバリストによる経済支配は、企業の役割を大きく変えつつあります。

 企業の規模が拡大するのには、凡そ二つのタイプの手段があるように思えます。第一の手段は、当該企業が提供する製品やサービスが優れているために、多くの消費者が購入・利用するようになった結果、市場のシェアが拡大し、生産量の増加に伴い企業規模も大きくなるタイプです。自由主義経済において教科書的に説明されているのは、主として同タイプです。この拡大経路にあっては、企業は、できうる限り消費者に選んでもらえるような製品やサービス、すなわち、低価格・高品質を目指して企業努力を惜しまないこととなります。もっとも、発展性を伴う経済成長や多様性を維持するためには、常に競争状態が保たれる必要があるために、一社や数社による独占や寡占は競争法によって禁じられています(無制限な拡大は×)。

 第二の規模の拡大手段は、競争関係にある同業企業が発効している株式の取得です。企業合併やM&Aと称される手段であり、友好的買収であれ、敵対的買収であれ、他者を取り込むことで規模を拡大させることができます。同タイプでは、消費者の志好やニーズ、あるいは、価格や品質等にも関係なく、事業規模が拡大します。つまり、企業の経営戦略が拡大の決定要因なのです。

 もちろん、上記の二つのタイプが結びつくハイブリット型もあります。むしろ、規模の拡大はコスト逓減効果がありますし、製品の品質向上にも有利となりますので、市場における価格競争に勝つために他社を合併しようとするケースも少なくありません。否、産業革命以降、ハイブリット型で事業を拡大した企業が大量消費社会を牽引し、消費者に対して安価で高性能な製品を大量に提供した結果、大企業が出現したとも言えます。しかも、グローバル化のかけ声と共に各国政府ともに自由化の旗印の下で資本市場を含めて自国市場を開放したため、企業規模の拡大は国境を越えて全世界に広がるようにもなったのです。今日、グローバル企業と称される世界市場において事業を展開している企業の大半は、こうしたプロセスを経て今日の地位を築いたとも言えましょう。

 M&Aといった目に見える形での企業統合の他にも、資本提携などの他社をコントロールする手段はあるのですが、何れにしましても、マネー・パワーが、巨大なグローバル企業を生み出す原動力であったことは確かなようです。加えて、巨額の開発資金を要する先端テクノロジーとプラットフォーム構築における‘早い者勝ち’や‘勝者総取り’的な性質が競争法をもかいくぐりかねないデジタル分野では、一部のIT大手による独占や寡占が経済のみならず、ユーザーとなる、あるいは、利用せざるを得なくされた個々人にまでコントロ-ルを及ぼしているのが現状と言えましょう。

 かくして、グローバル化の時代における経済とは、1%の富裕層ともされる極一部の‘株式を握る者’、すなわち、グローバリストとその恩恵に浴する配下の人々にコントロールされる世界となったのですが(現実には、1%ではなく一億分の1以下かもしれない・・・)、ここに、企業経営において一つの大きな変化が生じることとなります。それは、グローバリストのコントロール下に置かれた企業は、もはや消費者のニーズや志好に対して関心を持たない、もしくは、意に介さなくなる、という現象です。

 戦争ビジネスや環境ビジネス等には余念がない一方で(これらの分野では計画化・・・)、実際に、今日のグローバル企業が自らの持てる資源をつぎ込んで熱心に開発を急がされているのは、SFの世界を追い求めるような宇宙旅行や有人宇宙ステーション、あるいは、空飛ぶ車などです。多くの一般消費者が購入・利用できるとは考え難い分野ばかりであり、一部の富裕層向けの製品やサービスに関連する近未来技術開発に集中しているのです。また、より身近な事例に目を向けましても、衰退が懸念される日本国内にあって豪華なホテルが新設あるいは改装されるという報道があったとしても、それは、富裕層向けなのです。あたかも、消費者は、富裕層しか存在しないかのように。その一方で、グローバリストは、自らの‘夢’の実現や道楽に対する投資に加えて、人類支配の手段となる技術開発には投資を惜しみません。監視装置ともなりかねないIoT家電を開発するぐらいならば、むしろ、より利便性が高く、かつ、プライバシーが保護される遮断型の製品を売り出したほうが、よほど一般消費者は安心して購入・利用するのではないでしょうか。

 一般消費者向けに手頃な価格で高品質な製品を提供することで企業規模を拡大させてきた大企業は、今や、上位者となった富裕層に奉仕するための存在と化しているかのようです。この状態では、消費と生産の好循環となる回路は断たれ、成長の原動力が失われることとなりましょう。人々の経済活動はいつの間にか富裕層への奉仕となり、自らを含めた人々の生活を豊かにする方向には向かわないのです。人類史において経済の果たしてきた役割に照らしますと、現状は決して望ましいとは言えず、消費者牽引・主導型への経済への回帰、転換こそ、同問題解決の鍵となるのではないかと思うのです。

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