報道によりますと、秋篠宮家では、長女の眞子さんと小室氏との婚姻を認めるとのことです。その最大の拠り所は、両性の合意による婚姻を定めた憲法の条文となるのでしょうが、確かに、自由意思に基づくものであり、かつ、本人達の意思が固い場合には、それを止めることは誰もできないことでしょう。そして、何故、他の皇室メンバーの自由結婚は許されて、眞子さんだけは反対を受けるのか、その線引きを合理的に説明するのも簡単なことではなさそうです。それでは、この事態、どのように考えるべきなのでしょうか。
皇室にせよ、王室にせよ、これらの制度は、‘権威’というものの維持を前提としています。‘権威’とは、人々がそれを‘尊重すべきもの’、‘受け入れるべきもの’、あるいは、‘従うべきもの’として本心から認めておりませんと成立しませんので、心理への依存度が極めて高い、否、感情こそ全て言っても過言ではありません。この側面は、しばしば、‘権威’によって合理性が封じられてしまう現象からも説明されます(権威を優先する場合、合理性を無視した結果、失敗するケースが多い…)。権威とは、人々を服従させるに際しても有効な手段となるため、政治においても、為政者を権威付けして祀り上げることで支配を容易にする権威主義体制が成立してきたのです。
皇室・王室とはまさに権威こそ命であり、これをなくしては存続することは凡そ不可能です。国民の崇敬心なくして存続するとすれば、それは、単なる法律的な存在となるか、もしくは、北朝鮮の‘金王朝’のように暴力や脅迫で‘権威’を認めるように国民に強制、あるいは、洗脳する他ありません。日本国のような自由主義国では、これまで、皇室や王室の権威は、その歴史、伝統、神聖性に対する国民の自然な崇敬心がこれらの存在を支えてきましたが、このことは、仮に、皇室や皇室が自らの‘権威’を損ねるような行為を行えば、自らが依る存立基盤をも壊してしまうことを意味します。
このように、‘権威’とは人々の心理に依存する故に、人々が思っている以上に脆いものなのです。とりわけ血筋を以って権威を正統化してきた皇室や王室の婚姻は、‘権威’喪失の機会となり得ます。この側面は、おそらく、過去二代にわたる民間からの入内から水面下にあって進行しており、今般の秋篠宮家の一件は、それが表面化したに過ぎないのかもしれません。既に皇統は希薄化しておりますので(明治期からかもしれない…)、皇室に対して心の底から崇敬の念を抱いている国民も減少しつつあります(かく言う私も、皇室に対する崇敬の念は既に心の中から消え去ってしまっている…)。政府は、‘皇女’の職の新設を検討しているそうですが、イベントや何らかの式に臨席したとしても、それを‘ありがたい’と感じる国民が減少すれば、早晩、それは、無意味になりましょう。否、国民の多くは、式典にあって、皇族に対して頭を下げるよう強要されることに苦痛やストレスを感じるかもしれないのです。自らの本心に反するのですから。
今日、権威の喪失が皇室・皇室を形骸化し、その存在意義を問われているとしますと、ここで一旦立ち止まり、原点に返って考えてみる必要があるように思えます(皇室に対する国民の感情がまちまちとなれば、国家や国民の統合の象徴ともなり得ない…)。皇室廃止と言いますと共産主義者と見なされがちですが、今日の皇室の姿、あるいは、皇室と国民との関係に疑問を感じている一般国民も少なくないはずです。現代という時代が、個人の基本的自由を尊重し、理性を尊ぶ時代であるならば、今日の皇室の在り方は、国民にとりましても、皇族にありましても、双方ともに不幸なのではないでしょうか。両者は、皇室・王室と現代という時代、即ち、権威と個人の自由は、本質的に相反するのですから。古来の伝統としての天皇という天神地祇を祀る公的な地位を残しつつも、それを皇族という、私物化されかねない、あるいは、海外勢力の介入ルートとなりかねないパーソナルな存在から切り離すべきなのではないかと思うのです。