万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

皇室・王室制度と現代は両立しないのでは

2020年11月30日 12時41分53秒 | 日本政治

 報道によりますと、秋篠宮家では、長女の眞子さんと小室氏との婚姻を認めるとのことです。その最大の拠り所は、両性の合意による婚姻を定めた憲法の条文となるのでしょうが、確かに、自由意思に基づくものであり、かつ、本人達の意思が固い場合には、それを止めることは誰もできないことでしょう。そして、何故、他の皇室メンバーの自由結婚は許されて、眞子さんだけは反対を受けるのか、その線引きを合理的に説明するのも簡単なことではなさそうです。それでは、この事態、どのように考えるべきなのでしょうか。

 

 皇室にせよ、王室にせよ、これらの制度は、‘権威’というものの維持を前提としています。‘権威’とは、人々がそれを‘尊重すべきもの’、‘受け入れるべきもの’、あるいは、‘従うべきもの’として本心から認めておりませんと成立しませんので、心理への依存度が極めて高い、否、感情こそ全て言っても過言ではありません。この側面は、しばしば、‘権威’によって合理性が封じられてしまう現象からも説明されます(権威を優先する場合、合理性を無視した結果、失敗するケースが多い…)。権威とは、人々を服従させるに際しても有効な手段となるため、政治においても、為政者を権威付けして祀り上げることで支配を容易にする権威主義体制が成立してきたのです。

 

 皇室・王室とはまさに権威こそ命であり、これをなくしては存続することは凡そ不可能です。国民の崇敬心なくして存続するとすれば、それは、単なる法律的な存在となるか、もしくは、北朝鮮の‘金王朝’のように暴力や脅迫で‘権威’を認めるように国民に強制、あるいは、洗脳する他ありません。日本国のような自由主義国では、これまで、皇室や王室の権威は、その歴史、伝統、神聖性に対する国民の自然な崇敬心がこれらの存在を支えてきましたが、このことは、仮に、皇室や皇室が自らの‘権威’を損ねるような行為を行えば、自らが依る存立基盤をも壊してしまうことを意味します。

 

 このように、‘権威’とは人々の心理に依存する故に、人々が思っている以上に脆いものなのです。とりわけ血筋を以って権威を正統化してきた皇室や王室の婚姻は、‘権威’喪失の機会となり得ます。この側面は、おそらく、過去二代にわたる民間からの入内から水面下にあって進行しており、今般の秋篠宮家の一件は、それが表面化したに過ぎないのかもしれません。既に皇統は希薄化しておりますので(明治期からかもしれない…)、皇室に対して心の底から崇敬の念を抱いている国民も減少しつつあります(かく言う私も、皇室に対する崇敬の念は既に心の中から消え去ってしまっている…)。政府は、‘皇女’の職の新設を検討しているそうですが、イベントや何らかの式に臨席したとしても、それを‘ありがたい’と感じる国民が減少すれば、早晩、それは、無意味になりましょう。否、国民の多くは、式典にあって、皇族に対して頭を下げるよう強要されることに苦痛やストレスを感じるかもしれないのです。自らの本心に反するのですから。

 

 今日、権威の喪失が皇室・皇室を形骸化し、その存在意義を問われているとしますと、ここで一旦立ち止まり、原点に返って考えてみる必要があるように思えます(皇室に対する国民の感情がまちまちとなれば、国家や国民の統合の象徴ともなり得ない…)。皇室廃止と言いますと共産主義者と見なされがちですが、今日の皇室の姿、あるいは、皇室と国民との関係に疑問を感じている一般国民も少なくないはずです。現代という時代が、個人の基本的自由を尊重し、理性を尊ぶ時代であるならば、今日の皇室の在り方は、国民にとりましても、皇族にありましても、双方ともに不幸なのではないでしょうか。両者は、皇室・王室と現代という時代、即ち、権威と個人の自由は、本質的に相反するのですから。古来の伝統としての天皇という天神地祇を祀る公的な地位を残しつつも、それを皇族という、私物化されかねない、あるいは、海外勢力の介入ルートとなりかねないパーソナルな存在から切り離すべきなのではないかと思うのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本国は米民主党系の支配下にあるのでは?

2020年11月29日 12時27分51秒 | 国際政治

 昨日、11月29日、日本国の菅首相は、就任後初めての自衛隊の観閲式に臨んでいます。NHKも、同ニュースを報じたのですが、またしても不自然な報道ぶりなのです。それは、同首相が整列して並ぶ自衛隊員を前にして訓示を垂れるシーンなのですが、ダイアモンドプリンセス号における自衛隊の献身的な活動について語る部分のみが音声付きで報じられたからです。

 

 新型コロナウイルスには中国が開発した生物兵器説がありますが、この説が正しければ、首相が敢えてダイアモンドプリンセス号について言及するのにも、対中牽制という意味が込められているのかもしれません。しかしながら、こうした対中メッセージ的な意味合いではなく、同首相が、自衛隊に対して新型コロナウイルス対策への貢献を最も評価している、あるいは、NHKが、自衛隊の活動領域として新型コロナウイルス感染症の拡大防止の役割を国民に対して強調したいのならば、そこには、どこか不自然さがあります。何故ならば、今日、日本国が直面している防衛、並びに、安全保障上の最大の危機は、中国の軍事的脅威に他ならないからです。

 

 菅首相自らがダイアモンドプリンセス号での活動を強調したとしますと、第一に、中国への‘忖度’が推測されます。先日、王毅外相が来日していますが、ネット上などでも、日本国政府側の宥和的な態度が批判を浴びておりました。今般の観閲式の報道にあっても、‘中国を刺激したくない’とする首相の意向が現れているのかもしれません(宇宙、サイバー、電磁波攻撃といった分野や‘縦割り廃止’については言及したらしい…)。あるいは、新型コロナウイルス対策を殊更に強調したのは、アメリカの民主党陣営へのアピールである可能性もあります。バイデン氏は、国家の最優先事項をコロナ対策に定めており、これを以ってトランプ政権を批判してきました。当選が未確定な状況にありながら、真っ先にツイッターでバイデン氏に祝辞を送ったぐらいですから、中国でなく、米民主党に‘忖度’したのかもしれません。これらの他にも、今般のアメリカ大統領選挙における不正選挙疑惑は、米民主党と中国との結託によるものとする有力な説がありますので、両者の結託かもしれませんし、ダイアモンドプリンセス号の船主や英系国際組織に配慮した可能性もないわけではありませんが、何れにしましても、仮に、菅首相の意向であるとしますと、そこには、防衛感覚の欠落という首相の政治意識上の重大な問題点を見出すことができるのです。

 

 もっとも、同シーンを放映したのはNHKですので、菅首相の意思は働いておらず、NHKが、自らの判断でダイアモンドプリンセス号に触れる部分を切り抜いて報道したのかもしれません。この場合ですと、上述した‘忖度’は、首相自身ではなく、放送局によるものとなります。そして、ここにも、アメリカ大統領選挙で指摘されている米民主党―中国―マスメディアのラインが見えてくるのです。

 

 既に指摘されているように、太平洋戦争、並びに、GHQによる占領は米民主党政権時代における出来事ですので、戦後、日本国は、同党の強い影響を受けてきたとされています。上述したように米民主党と中国は‘盟友’の関係にあるようですし、それは、社会・共産主義という思想的な基盤を共有しているからなのでしょう。そして、共産主義と新自由主義、あるいは、グローバリズムがコインの裏表であり、それは、近代以前にまで遡る国際的な組織体であることが判明しつつある今日、日本国は、今なおもその組織の支配下に置かれているのかもしれません。このように考えますと、米民主党の不正行為が問われているアメリカ大統領選挙の様相と日本国の政治は連動しており、決して他人事ではないように思えるのです。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本国政府は尖閣諸島の領有権確立戦略を

2020年11月28日 12時42分44秒 | 日本政治

 中国の習政権が戦争の準備に着手したとする情報が囁かれる中、尖閣諸島にも荒波が押し寄せています。中国公船による周辺海域での活動が活発化してきており、領海侵犯も頻繁に起きているようなのです。日本国側の再三にわたる停止要求をよそに、先日来日した際に王毅外相は、記者団を前にして日本漁船が同海域に入らぬように措置を採るように要請したというのですから、中国側は、一歩も二歩も歩を進めてきています。

 

 中国が尖閣諸島の奪取に向けて攻勢に出る一方で、日本国政府は、言葉だけの対応に終始し、具体的な行動を取ろうとはしていません。従来の日本国政府の立場を繰り返すのみで、戦略や政策が伴っていないのです。そして、この従来の立場にこそ、中国が高飛車な態度に出る要因が潜んでいるように思えます。

 

 尖閣諸島に関する日本国政府の基本的な立場とは、「領土問題はない」というものです。茂木外相も、王毅外相の発言に関連して「尖閣諸島を巡り、解決すべき領有権の問題はそもそも存在しない」と述べています。この意味するところは、‘日本国政府が尖閣諸島の領有権をめぐって係争が存在することを認めたが最後、中国の言い分にも一理があることを認めたことになるので、仮に、同国から侵略を受けた場合、国際法上の侵略行為として認定できなくなる’というものです。つまり、自衛権を発動することが難しくなるのです(また、領土問題化すると、‘領土交渉’に持ち込まれて譲歩を迫られることに…)。

 

この認識は、自衛権の問題とも関連している故に、厄介です。第一に、日本国憲法の第9条に関する日本国政府の公式の解釈は、自衛のための戦力は保持できるとするものです。仮に、中国の主張を認めて侵略認定ができなくなりますと、自衛権の発動とは言い難くなる、あるいは、自衛隊の出動を違憲として反対する声が上がる事態も想定されるのです。個別的自衛権に対する発動のハードルが高くなる一方で、集団的自衛権の発動にも支障をきたす可能性があります。その理由は、日本国政府は、中国が尖閣諸島を奪取した際に、日米安保の対象から外される怖れがあるからです。フォークランド紛争に際してアメリカは、同紛争をイギリスとアルゼンチン間の‘領土問題’とみなし、NATOを枠組みとする集団的自衛権を発動させませんでした。

 

以上の側面から、日本国政府は尖閣諸島問題については‘領土問題は存在しない’とする立場を貫いてきました。しかしながら、この方針は、暴力主義を奉じる中国には無力であり、突然の領有権主張⇒棚上げ論⇒一方的領有宣言⇒実力行使…へと、中国の行動をエスカレートさせるのみでした。中国は、‘物量作戦’に転じたとする指摘もあり、このままの状態を放置いたしますと、中国は、尖閣諸島に対する日本国の実効支配を切り崩すことでしょう。日米安保条約の条文では、対象地域を日本国の施政権の及ぶ範囲としていますので、中国は、同島を自らの施政下に置くことで、米軍の介入を排除しようとするかもしれないのです。

 

それでは、日本国政府は、この難局をどのように乗り切るべきなのでしょうか。最も重要なポイントとなるのは、中国の武力による尖閣諸島の奪取を、国際社会から国際法上の侵略行為として認定してもらうことです。それは、日本国政府が、中国の主張を一切認めることなく、国際法上において日本国の領有権を確立させることを意味します。つまり、領土問題が内包する意味を‘中国の主張の一部容認’から’中国の主張の全面否定‘に変えるのです。

 

国際法上の領有権確立の効果として期待できるのは、第一に、侵略行為として認定できさえすれば、個別的自衛権であれ、集団的自衛権であれ、中国による侵略行為を自衛隊、並びに、日米両軍によって排除することができる点です。つまり、領土問題化に伴う日本国政府の懸念は、払拭されることとなるのです。第二に、日本国の領有権が確定されれば、それは、中国に対する強力な抑止力ともなります。王毅外相は、尖閣諸島を中国領と強気に言い放っていましたが、法的に領有権が確定している他国の領域を占領すれば、侵略行為として激しい批判を受けることを、中国は、覚悟しなければならなくなります。そして第三に、日本国が、法的手段を以って同問題を平和的に解決する姿勢を見せることは、国際社会における法の支配の実現に大きく貢献することとなりましょう。

 

以上のように考えますと、日本国政府は従来の主張を繰り返すのではなく、これまでの基本方針を抜本的に見直し、尖閣諸島の領有権確立に向けて戦略を練り直すべきなのではないでしょうか。最も望ましいのは、国際司法機関への提訴ですが、国際司法裁判所の場合、解決の付託には両国政府の合意が必要となりますので、現状では難しいのですが、竹島問題でも指摘されているように、領有権確認訴訟としての形態であれ、単独提訴は試みるだけの価値はあるはずです。また、南シナ海問題で判決を下した常設仲裁裁判所であれば、日本国のみによる単独提訴は可能です。あるいは、現状の国際司法制度では、領有権確認訴訟の道が閉ざされているのであれば、同制度の設立を国際社会に提案することも、遠回りのようですが、尖閣諸島問題の平和的解決のみならず、国際司法制度の発展を促すことにもなりましょう。座して死を待つよりも、日本国政府は、知恵を絞るべきではないかと思うのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自公政権は独裁体制に向かう?

2020年11月27日 12時58分37秒 | 日本政治

 デジタル庁の新設や大胆な規制緩和を掲げる菅政権の方向性については、発足当初からトップ・ダウン型の改革志向であることは自他ともに認めるところであったように思います。もっとも‘改革’とは申しましても、全てが善い方向への変化とは限らず、とりわけ多くの人々が直接的な影響を受ける政策領域にあっては慎重な見極めも必要となりますし、それが、安全装置の働かない一方的なトップ・ダウン型ともなりますと、拙速となったり、予期せぬ失敗に見舞われるリスクも高くなりましょう。

 

 菅政権に対する不安は、国会における答弁を見ておりますと、自ずと確信へと変わってゆきます。一昨日も、同首相が所信表明演説、並びに、G20で公表した地球温暖化ガス排出量実質ゼロ目標に関して質疑を行っておりました。質問者は、連立相手の公明党の議員ですので、与党間での応答となるのですが、同目標を達成するための措置について首相に質問をしておりました。その際、同議員は、現行の法律では、洋上で大規模な風力発電施設を建設しようとしても、漁業権等が絡んで難しいため、政府の計画が即実現できるように規制を緩和する方向で検討してほしいと要請をしておりました。首相も前向きな姿勢を示したのですが、果たして、この種の規制緩和、国民にとりまして望ましいのでしょうか。

 

 中国が急速な経済発展を遂げた理由の一つは、トップ・ダウン型の政策決定にあったとされています。例えば、インフラ事業や製造拠点等を建設する場合、政府当局は、建設現場の住民を追い出して建設用地を確保することができます。たとえ住民からの激しい反対運動が起きたとしても、治安部隊等を派遣して排除してしまえばそれで事済んだのです。

 

 今般の答弁を聞いておりますと、日本国政府が目指す規制緩和とは、トップ・ダウン型の極みとなる中国式の開発を可能とする方向への改革なのではないかと疑いたくなります。30年後に温暖化ガスゼロを実現するならば、日本国は、相当の‘無理’をする必要があります。水素エネルギー等の代替エネルギーの開発が遅れ、かつ、与野党内の脱原発の要求にも応えるならば、日本国のエネルギー供給は再生エネ頼りとなるのですから、日本国の農村には一面に太陽光パネルが敷き詰められ、海上には風力発での施設が乱立することでしょう。農地や漁場が電力供給用に転用されるため、農家や漁業者、並びに、国民の食卓にもマイナス影響を及ぼすことは当然に予測されます。そして、ここに、菅首相が誰に諮ることもなく、また、国民的な議論も合意形成もなく発表した‘ゼロ目標’は、他の産業や国民生活を犠牲にしてまで達成すべきなのか、という素朴な疑問も湧いてくるのです。

 

 加えて、与党間での質疑応答には、マッチポンプの疑いもあります。何故ならば、公明党議員が政府の決定権限を強める法律の制定を求めているからです。与党側としては、静岡県の伊豆高原のように、風光明媚で知られる観光地の只中にある森林を全て伐採して太陽光パネルを敷き並べる計画をめぐって起こったような、地元住民による激しい反対運動が起きては目標が達成できないと考えているのかもしれません。そこで、あらゆる国民からの反対の声や抵抗を排除できるよう、法整備を促しているのでしょう。そして、この政府権限強化に向かう同‘改革’の方向性こそ、トップ・ダウン型の政策遂行を目指した権力の集中化に他ならないのです(もちろん、その背景には巨大な再生エネ利権が潜み、中国のように政治腐敗の温床ともなりかねない…)。

 

 戦前のドイツでは、当時、最も民主的とされたワイマール体制にあって、議会が「授権法」を制定し、アドルフ・ヒトラーに国家の全権を与えたために、民主主義体制の内側において独裁体制への道が拓かれることとなりました。国会が、議会や国民の権利を首相、あるいは、政府に譲渡するような法案を成立させたとき、それには、独裁体制への移行を意味しかねないリスクがあります。今般の国会での要請は、地球環境問題の分野に限定はされていますが、こうした手法が他の分野にも広がり、度重なれば、いつの間にか、日本国にも合法的に独裁体制が成立しないとも限りません。政治家に対する不信感が全世界規模で強まる今日、日本国民も、政界の不自然な動きをしっかりとウォッチするべきなのではないかと思うのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不可解な映像―茂木外相の速報会見

2020年11月26日 13時24分10秒 | 国際政治

一昨日、11月24日の晩、NHKのニュース番組にあって、不可解な映像が流されていました。それは、日本国の茂木外相が来日中の王毅外相と会談に関する報道なのですが、この時、二つの奇妙な画面が目に留まったのです。

 

 第一の映像は、日中両外相が会談の席に臨んでいる様子を映したものです。外相を中心に双方の出席者が向かい合う形でテーブルに着いているのですが、後ろの背景が黄色一色なのです。これまで、日本国の外相が外交要人と面会するシーンは、何度となく報じられてきましたが、背景が黄色一色というのは、今回が初めてであったように思えます。通常は、どちらかと申しますと、伝統的な日本風の色調であったように記憶しています。黄色は中国が好む色でもありますが、相手国に合わせているとしますと、日本国側が中国に対して特別に配慮したことになりますし、あるいは、親中メディアと化したNHKが映像処理を加えた可能性もありましょう。

 

 会談の模様を報じた映像を見た時から違和感があったのですが、暫くしますと、茂木外相の単独記者会見にテレビの画面が突然に切り替わり、速報として再び同外相が登場してきます。第二の不可解な映像とはこの場面です。会談を終えたとする茂木外相は、記者たちを前にして王毅首相との合意内容について、訥々と語り始めるのです。その主たる内容とは、尖閣諸島問題については相互の意思疎通を確認したこと、並びに、新型コロナウイルス禍によって滞っていた両国間のビジネス往来については今月から新たな枠組みを開始すること、の二つです。あたかも、合意が成立しましたので報告します、と言わんばかりに…。

 

 昨日の菅首相と王毅外相との会談については、メディアは、尖閣諸島問題については火花を散らしたように報じており、双方譲らずであったように印象付けています。しかしながら、上述した映像では、茂木外相自らが尖閣諸島問題について中国に対して強く抗議したとは語っていません。マスメディアの介在がなく、外相が直接に自らの口で語ったのですから、少なくとも首相会談を前にした茂木・王外相会談にあっては、日本国側は、融和(譲歩)の姿勢で臨んだことが伺えます。

 

 また、目下、日本国の新型コロナウイルスの感染拡大は、深刻なレベルに至っています。第三波とも称される急激な感染者拡大の一因として外国人の入国緩和も指摘されており、現状にあって中国との間で人の往来を活発化させるとは、正気の沙汰とも思えません。そもそも、検査結果や行動計画の報告を義務付けるとはしていますが、同ウイルスのパンデミック化の原因は中国の情報隠蔽にありましたので、中国側が、日本国側に対して正確な情報を伝えるとは限りません。国民に対しては、より厳しい移動制限を課しながら、中国人の入国のみを緩和するとなりますと、多くの日本国民は、日本国政府の措置に納得しないことでしょう。また、仮に、今後、中国国内で同ウイルス感染症が再拡大するような事態にでもなれば、日本国は、その責任を押し付けらえることでしょう。日本国から持ち込まれたとして…。

 

 記憶を辿りますと、投票日を過ぎても当選者が決まらないアメリカ大統領選挙にあって、菅首相の祝辞と並んで真っ先にバイデン氏が当選者に決定していると述べたのは、茂木外相であったように思います。そして、今日、中国の習近平国家主席も、バイデン氏に祝辞を送り、米中間のウィン・ウイン関係の構築を提案しているようですが、今日にあって、日本国を含むこれらの流れはどこかで連動しているように思えます。アメリカでも、バイデン氏と中国との関係が不正選挙疑惑とも関連して共に注目を集めており、どこかに、「中国共産党-バイデン陣営-日本国の政治家の一部」のラインが見え隠れしているのです。そして、そのラインの先には、他の諸国の政治家も連なり、国際ネットワークを形成しているのでしょうが、何れの国でも、マスメディアが誘導役を担っているのでしょう。

 

 しかしながら、見え透いた操作や演出を行いますと、多くの人々が、否が応でもその不自然さに気が付いてしまいます。茂木外相の速報会見の映像は、それがあまりにも異様であった故に、背後に潜む国際ネットワークの存在を浮かび上がらせてしまったとも言えましょう。最早、陰謀論で片づけられる時代は過ぎておりますので、日本国もまた、政治家に対しては疑って然るべきではないかと思うのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トランプ支持者は‘肉屋を支持する豚’なのか?

2020年11月25日 11時20分56秒 | アメリカ

 最近、‘肉屋を支持する豚’という言葉を目にするようになりました。この表現、昔から伝わる諺ではなく、2009年頃から日本国内のネット上で使われるようになった比較的新しい創作のようです。意味としては、‘将来において自らを殺す者を支持する人’となり、先行きを見通すことなく、自らに不利益を与えかねない存在を積極的に支持してしまう愚かな人ということになりましょう。

 

 言わば、洞察力や推測力に欠ける人々を揶揄する言葉なのですが、この言葉、手の込んだ欺瞞が蔓延る故に、今日、様々な場面で使われています。その一つが、共和党のトランプ大統領を支持する白人男性労働者に対するものです。米民主党は、労働者を支持母体とする政党であり、かつ、社会保障制度や福祉などの拡充を訴えているのに、前者を支持するのは、あたかも‘肉屋を支持する豚’のようなものであるとして…。

 

 苦境にある‘ラスト・ベルト’の労働者のように、産業の空洞化により失業や賃金低下に見舞われ、中産階級から転落してしまった人々が、弱者に冷たいとされてきた共和党のトランプ大統領を支持するのは、一見、矛盾しているように見えます。アメリカの二大政党制を資本家対労働者という旧来の対立構図で見れば、この表現も、あながち間違ってはいないように思えます。しかしながら、中産階級の崩壊の原因がグローバリズム、並びに、これと同時に広がったデジタル化にあるとしますと、トランプ支持層は、再配分重視の民主党の政策ではない、別の方向性を求めているのかもしれません。

 

 トランプ大統領がかくも多くの支持を得たのは、おそらく、荒野を切り開いた開拓者を祖先とするアメリカ人の心の奥底にある‘開拓者魂’に共鳴したからなのでしょう。民主党の政策とは、たとえ弱者に優しい政策であったとしても、その政策手法の基本は再配分にあります。富裕層に対しては思い負担を求める一方で、それを財源として弱者に対して給付するというスタイルです。もちろん、一般のアメリカ市民にあって同政策を支持する人も少なくないのですが、必ずしも、全ての人が手厚い給付を以って満足する訳ではありません。しばしば、何らの対価や報酬でもなく他者から金品を受け取ることに抵抗を感じ、自尊心が傷つく人も少なくないからです。

 

 ましてや、開拓者の子孫であるアメリカ人の人々からしますと、再配分政策の強化よりも、自立した一個の個人としての自らの存在を支える仕事そのものを欲することでしょう。この点、中国からアメリカに製造拠点を移し、雇用をアメリカ国内に戻そうとしたトランプ大統領の政策が、自立心が旺盛な人々の心に響いたことは想像に難くありません。政府から給付金を配給されるよりも、誇りを以って打ち込める自らの仕事が存在することこそが重要なのです。

 

本日も、イーロン・マスク氏の個人資産が13兆円を超えたとするニュースが報じられていますが、民主党の政策は、IT富豪や金融財閥といった極一部の人々への富が集中を是認する一方で、再配分によって大多数の貧困層を宥めようとする政策です。また、仕事がなくとも時を過ごせるように、リベラル派は、ネットゲームのみならず、麻薬の解禁にも積極的です。この点、ベーシックインカムを主張している右派も方向性は同じなのですが(極右と極左はコインの裏表…)、少なくともアメリカ国民のおよそ半数は、より多くの人々が、IT分野に限らず起業であれ、就業であれ、自らの希望や特性にあった様々な仕事のチャンスに恵まれ、仕事の成果、あるいは、対価としての給与によって所得格差のより小さな社会を望んでいるのではないでしょうか。

 

人の心に内在する自立心や自尊心に重きを置かない人、あるいは、それを理解しない人にとりましては(共感力に乏しい?)、トランプ支持者は、愚かな「肉屋を支持する豚」に見えることでしょう。しかしながら、一個の人格としての自己を保とうとする心理に思い至れば、トランプ支持者の心情を無碍に批判はできないのではないでしょうか。そして、これらの視点からしますと、民主党支持者の人々は、「肉屋を支持する豚」のように最後には殺されてしまう‘豚’ではないにしても、「肉屋に飼われた豚」に見えるかもしれません。リベラル派は、常々多様性の尊重を謳っていますが、その実、自らに反対する人々の心情を理解しない点において偏狭であり、不寛容であるように思えるのです。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新自由主義と共産主義-古代身分制の継承者?

2020年11月24日 12時35分02秒 | 社会

 今日のグローバリズムを観察しておりますと、そこには、中国共産党政権の政策と新自由主義との間の極めて高い類似性を見出すことができます。共にITやAIによる社会全体の‘支配’を目指し、テクノロジーを武器に自らの独善的な理想の実現に向けて、手段を択ばず、そして、立ち止まることもなく‘前進’しているからです。本来、共産主義国と自由主義国との間には越えがたい価値観の違いがあるはずなのですが、自由主義国にあって新自由主義を信奉する人々は、自称‘保守主義者’であれ、リベラルであれ、建前とは裏腹に、自由や民主主義といった価値には関心を払ってはいないのです。むしろ、自らの理想の実現を阻む‘邪魔な存在’とさえ見なしているのかもしれません。

 

 そして、支配の道具としてのテクノロジーへの拘りに加えて、中国共産党政権の政策と新自由主義との間の共通点として指摘し得るのは、その社会観、あるいは、人間像です。近代以降、啓蒙思想の影響のもとで、人間は、生まれながらにして自由で平等な存在として想定されてきました。自然権を有する各自は自立的な存在であり、こうした人間像こそ、近代社会の基盤となったのです。つまり、近代社会とは、これらの平等、かつ、独立的な人格、並びに、権利を有する個々人から構成される共同体であったのです。民主主義もまた、個人の政治的自由や権利を認めてこそ成り立ちますので、いわば、人としての自立性が民主主義を支えているとも言えましょう。

 

 啓蒙思想自体は古代ギリシャのストア派に由来するものの、近代にあって、人の自立性を尊重する思想が登場してきた背景には、‘身分から契約へ’という言葉で表現されるように、身分制度における全人格的な従属から自立的な個人同士の契約へと、人と人との関係が変化してきた点を挙げることができます。この変化には、営業の自由や職業選択の自由といった経済活動の自由の拡大も大きく寄与するのですが、契約とは、独立した人格の承認を意味しますので(奴隷は契約ができなかった…。但し、奴隷契約は存在)、経済関係が契約化した今日の社会では、法的な人格の平等が実現しているのです。法的に独立した人格を有してこそ、基本的な自由や権利を行使することもできるのです。

 

 ところが、所得移転重視の政策、あるいは、ベーシックインカムを主張する人々の思考回路には、こうした近代社会の基礎となる人格の平等が欠如しているように思えます。何故ならば、これらの人々が抱く社会像とは、‘与える者’と‘与えられる者’とによって構成されているからです。

 

そして、同社会像は、鄧小平氏の改革路線に際して語った先富論を思い起こさせます。先富論とは、「我々の政策は、先に豊かになれる者たちを富ませ、落伍した者たちを助けること、富裕層が貧困層を援助することを一つの義務にすることである。」というものです。この言葉が共産主義との決別宣言と解釈されるのは、国民全員が平等に豊かになるとは語ってはいないからです。もっとも、‘富者’を国家や共産党員に置き換えますと、実態としての共産主義国家と何らの変わりはない、あるいは、形を変えた現状の肯定に過ぎないのかもしれません。何れにしても、富を握る少数者が他の貧しき多数者に富を分け与える構図となるからです。富者と貧者、与える側と与えられる側との間の人格の平等など全く眼中にはなく、配分システムの充実を以って不平等を肯定しているのです。

 

富者に対して貧者への施しを求める思想は、実のところ、イスラム教などにも見られ、鄧小平氏の先富論、否、共産主義や新自由主義等の専売特許ではありません。むしろ、人格の自立性や平等性の欠如の容認において、古代身分制の継承者とも言えましょう。先日、イタリアのポンペイで新たに二人の男性の遺体跡が発見されたそうです。この二人、衣類や体格等から富者と奴隷であったと推測されているそうですが、今日、ITやAIにおいて時代の最先端にありながら、共産主義と新自由主義こそが社会観や人間像において古代の位階秩序を引き摺っているとしますと、‘前進’のスローガンとは逆に、人類は、時代を逆行することになるのではないでしょうか。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国の責任を問わないG20の欺瞞

2020年11月23日 12時30分32秒 | 国際政治

 国際協調や国際協力とは、必ずしも善いことばかりではありません。一般論からしますと、分け隔てなく誰とでも仲良くすることは奨励されるべき善行なのですが、犯罪者や暴力団と協調することが善いことなのか、と問われた時に、Yesと答える人は少ないのではないでしょうか。

 

 一般の社会にあってさえルールを無視したり、踏みにじる人は周囲の人々から警戒され、距離を置かれてしまいます。ましてや、法に反して利己的な理由から他者に害を与えた人は、犯罪者として法的な処罰を受けます。ところが、この至極当たり前の対応が、残念ながら国際社会では見られないのです。

 

 今般のG20を見ますと、国際協調主義が強調され、綺麗ごとばかりが並んでいます。G20が結束して取り組むべき分野としては、経済成長の回復、新型コロナウイルス対策、ワクチンの公平な分配、地球環境問題などが挙げられていますが、これらのテーマは、耳に心地よい響きがあるものの、いずれも社会・共産主義者やリベラルが理想とする世界への貢献という点において共通しています。そしてこれらは、自由、民主主義、法の支配、並びに、人権侵害といった価値観を、体よく議論の脇に置くことができる点においても共通しているのです。

 

 たとえば、新型コロナウイルス問題を取り上げましても、本来、G20において責任を問われ、対応を迫られるべき国は中国なはずです。同感染症の発祥国でありながら、WHOと結託して情報を隠蔽し、パンデミック化を招いたのですから。未だに中国もWHOは、国際社会に約束しながら発生地である武漢の調査を実施しておらず、真相が闇に葬られそうな状況にあります。本来であれば、G20は、再発予防のために感染病に関する情報公開の徹底を議論すべきでしたし、中国も、諸外国からの批判に対して誠意を以って応じるべきでした。ところが現実には、オンラインで出席した習近平国家主席は「健康コード」なる中国発のアプリの普及を訴えたのですから、唖然とさせられます。因みに「健康コード」とは、PCR検査の結果や利用した交通機関、さらには生体情報などがスマートフォンに表示されるシステムであり、中国は、全人類のデータ管理を目指しているのかもしれません。ワクチンの「特許権プール」構想も、同枠組みを利用して、安全性に問題があるような怪しげな中国製ワクチンを他の諸国の人々にも接種させようとしているのでしょう。

 

 結局、無法国家である中国の顔色を窺い、当たり障りのないような、否、偽善に満ちた首脳宣言を採択してお茶を濁すG20には、一体、どのような存在意義があるのでしょうか。これでは、犯罪国家の罪を不問に付すための‘国際協調’としか言いようがありません(新型コロナウイルス感染症により、現在なおも、全世界において夥しい数の人々が犠牲となっている…)。日本国は、天安門事件後にあっての天皇訪中が国際的な対中制裁を緩めるきっかけを作ったとして批判を受けてきましたが、今日の国際社会は、日本国の誤りを‘国際協調’の名を借りて繰り返しているように思えます。

 

議長国となったサウジアラビアは、ITを用いてG20サミットの集合写真を合成していましたが、現実と仮想現実が交差する今日の世界では、政府による如何なる偽造や誤魔化しもあり得るようで、そら恐ろしささえ感じさせます。政府への信頼が失われつつある今日、同合成写真は、中国の習主席を含め、リベラルな国際勢力によって作られた仮想現実の世界に生かされている首脳たちの幻影なのでしょうか。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米大統領選挙が示すデジタル化時代のパラドックス

2020年11月22日 12時01分07秒 | アメリカ

 今般のアメリカ大統領選挙は、民主主義を支える投票システムのデジタル化に伴うリスクをも明らかにした点において、人類の歩む道の方向を変える程のインパクトがあったのではないかと思います。何故ならば、目下、争点となっているのは、民主党陣営による不正行為の有無であり、中でも、採用された投票機、あるいは、集計ソフトウェアに嫌疑がかけられているからです。

 

 問題視されているのは、全米28州で採用されているカナダ企業であるドミニオン社の製品です。同社の資本関係は複雑であり、ドミニオン社自身は否定しているものの、同社の株を保有しているのは、3人のベネズエラ人が設立したスマートマティック社なそうです。その背後には、ペロシ下院議長一族やジョージ・ソロス氏の名のみならず、中国、カナダ、スペイン、ドイツといった国名も登場しているのですが、これらの情報の真偽は別としても、ここで確認すべきは、現実にあって、投票機や集計ソフトを内部者が操作する、あるいは、外部者がハッキングすることで、デジタル表示された‘数字’は、如何様にでも改竄することができる点です。

 

 スマートマティック社との関連が問題視されている理由は、同社がベネズエラと関係するからです。同社のホームページを訪問し、その年表を見てみますと、2000年にアメリカのロスアンジェルスで設立されたとされています(何故か、設立者の氏名は記載されていない…)。そして、2004年に、反米政治家であり、かつ、自らを共産主義者、あるいは、毛沢東主義者とも自称していたベネズエラのウゴ・チャベス大統領の政権下にあって、同国の国家選挙委員会からVVPATと称される新たなシステムを受注したことは事実のようです(同年に本社をオランダのアムステルダムに移転…)。投票マシーンの開発成功は2003年のこととしていますので、最初の導入国は、ベネズエラであったこととなります。その後、同社は急成長を遂げ、アメリカではシカゴの市議会選挙を初め、選挙に際して導入する州も増え始めます。海外にあっても、中南米諸国のみならず、アジアではフィリピン、アフリカではザンビアなどにも導入国が広がり、ヨーロッパでも、2005年にEUがその安全性についてお墨付きを与えたこともあり、ベルギー、デンマーク、ブルガリア、そして、イギリスでも採用されるに至るのです。

 

 同社と米民主党との関係は、2005年に、一早くカーター・センターが、EUと並んで同社に安全性の保障を与えたことからも伺えます。その後、2012年にあっては、ジミー・カーター元大統領が、95か国の選挙制度を比較した結果として、生体認証による本人確認を導入している‘ベネズエラの選挙制度が世界で最も優れている’と評価しているのです。また、2012年の大統領選挙において、シカゴの投票所にあってオバマ前大統領が自らに一票を投じたのも、同社の投票マシーンでした。

 

 ホームページに掲載されている表向きの情報からも、民主党との密接な繋がりが読み取れるのですが、同ホームページでは、今般の不正疑惑とは逆に、同社の事業方針が民主的選挙における安全性や透明性などの向上にあることが強調されています。そして、ここに、この問題の深刻さがあるようにも思えるのです。同システムが、民主主義を否定し、共産主義を標榜する独裁体制下において誕生し、そして、このシステムが、米国民主党の喧伝によって、自由主義国家の民主的選挙制度で広く使用されてゆくこととなったという経緯に、共産主義側の謀略が見え隠れしているからです。

 

 因みに、カーター元大統領がベネズエラの選挙制度を褒めちぎったまさしく同じ年の2012年10月に実施された大統領選挙では、‘1998年以来最高の80.94%の投票率を記録し、投票所には長蛇の列が続き、選挙管理委員会は予定時間を延長して投票を受け付けた’そうです。そして、対立候補であったエンリケ・カプリレス・ラドンスキー氏との接戦が報じられつつも、凡そ55%の得票率を以ってチャベス大統領が再選を果たしています。

 

 スマートマティック社、ベネズエラ並びに米民主党との関係が事実である以上、この問題は、どのように考えるべきなのでしょうか。もちろん、ドミニオン社と同社との繋がりについては確認する必要があるのでしょうが、それでも、共産主義と選挙制度との関係に関する問題は残ります。しかも、実際に、世界各国において使用されているのですから、不正選挙問題は、アメリカに留まらず、全世界の国家、地方自治体、並びに、地域に飛び火しかねないのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘証拠を出せ’は犯罪者の台詞では―米民主党への不信

2020年11月21日 11時49分36秒 | アメリカ

 今般のアメリカ大統領選挙は、アメリカの政治史のみならず、人類史において長く記録されることとなるかもしれません。どのような意味においてであれ、重大なる転換点として。

 

 通常であれば、大統領選挙の投票日である11月4日から日を経たずして当選者はすんなりと決定されるはずでした。しかしながら、今般の大統領選挙では、前代未聞の異常事態が起きています。その最大の原因は、米民主党による不正選挙疑惑にあります。疑いをかけられた側の民主党陣営、並びに、共闘関係にあるメディアは、この疑惑を否定しているのですが、一向に沈静化する兆しは見えません。その理由の一つは、安全保障問題も絡む、米民主党に対する米国民の拭い難い不信感にあるのではないかと思うのです。

 

 民主党陣営は、目下、マスメディアを総動員してまでトランプ陣営をバッシングし、‘見苦しい敗者による言いがかり’に過ぎないとするイメージを造り出そうとしています。しかしながら、信頼性が著しく低下したメディアの誘導に乗る人は少なく、この手段には既に限界が見えています。そして、何よりも米民主党の‘否定戦略’には、決定的な弱点があります。それは、‘証拠を出せ’の一点張りであるという点です。

 

 この‘証拠を出せ’は、しばしば刑事事件が発生した際に、被害者、あるいは、刑事などの検察・警察側に対して、容疑者側の口から発せられる言葉です。状況証拠が揃いつつも、犯罪を立証するための決定的な証拠を未だ掴まれていないと認識した加害者が、被害者側に対して白を切る時に使う常套句なのです。仮に、真に無実の人であれば、まずは、不正行為そのものを否定するはずです。つまり、この言葉が登場する状況とは、実際に犯罪行為が行われていながらも、決定的な証拠がない故に罪には問えないようなケースなのです(‘完全犯罪’という言葉があるように、通常、犯罪とは、証拠を残さないように実行される…)。こうしたケースでは、‘限りなく黒に近いグレー’のままに事件が有耶無耶になる場合が少なくありません。つまり、犯罪者に‘逃げ勝ち’されてしまうのです。

 

これでは、悪人が無罪放免となり、社会正義は実現しないのですが、法的には罰を与えることはできなくとも、社会的な制裁を受けることはあります。たとえ不起訴、あるいは、証拠不十分で有罪判決を受けないとしても、自らの潔白を証明したわけではありませんので、その後、同事件の容疑者には、常に‘疑惑’が付きまとうこととなるからです。

 

現実であれ、刑事ドラマであれ、‘証拠を出せ’が登場する場面を思い起こしますと、多くの人々は、‘証拠を出せ’とトランプ政権に迫る民主党陣営の態度に狡猾な容疑者の姿を重ねることでしょう。そもそも、カナダの企業であるドミニオン社の投票機、あるいは、集計ソフトウェアがアメリカ大統領選挙に際して28の州によって採用されていること自体が不自然過ぎるのですから。トランプ陣営の弁護団によれば、同社は、民主党幹部やかのジョージ・ソロス氏のみならず、中国やベネズエラとの関係が指摘されており、同社の親会社はスマートマティック社というベネズエラ人3人によって設立されたそうです(反米で知られた独裁者チャペス大統領を当選させることを目的に、不正選挙を行うために設立されたとも…)。この情報一つをとりましても、アメリカ国民が米民主党の不正選挙疑惑を疑うに十分です。票の集計という民主主義を根底から支えるシステムにあって、かくも背景の怪しい企業が、なぜ、選定されたのでしょうか。シリコンバレーをも擁するアメリカは、IT分野にあって先端技術を有する国ですので、より安全性の高い自国企業の製品を導入できたはずなのです。

 

ドミニオン社側は、指摘された疑惑を否定しているとも報じられていますが(もっとも、過去におけるクリントン財団への寄付は認めている…)、具体的な社名やその背後関係までが表沙汰になるに至りますと、米民主党の立場は‘ほとんど黒’となり、自ら積極的に証拠を示して不正が不可能であることを立証しない限り、国民からの信頼性を取り戻すことは不可能となりましょう。誰もが納得する‘不正がなかった証拠’を出さなければならないのは、むしろ、民主陣営なのかもしれません。不正疑惑が国際性を帯びる以上、アメリカの大統領選挙はもはやアメリカ国内の問題ではなく、不正なきフェアな社会を求め、民主主義を護りたい世界の全ての人々が、その徹底した真相究明を望んでいるのではないかと思うのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見破られたマスメディアの既成事実効果と同調圧力効果

2020年11月20日 12時34分52秒 | アメリカ

 今般のアメリカ大統領選挙では、民主党のバイデン氏が勝利を宣言したもの、未だ決着がつかない状況が続いています。その一方で、大統領選挙の行方に拘わらず、‘敗戦’が決定的になったのはマスメディアであったとも指摘されています。情報提供機関としての存在意義を支えてきた信頼性が、根底から崩壊しつつあるのですから。この現象は、アメリカのマスメディアのみならず、日本国を含む全世界のメディアにも及んでいるように見えます。

 

 今ではバイデン次期大統領という表現が減少し、双方とも○○氏と表記する報道が増加したものの、当初は、同氏の勝利が確定されたかのような記事が紙面やネットに溢れていました。今でも、アメリカ大統領選挙に関する論評の冒頭の多くに、あたかも枕詞のように、‘バイデン前副大統領が勝利をおさめた2020年の米国大統領選挙では…’とか、‘2020年米国大統領選挙を制したのは、ジョセフ.R.バイデンであった’といった前置きが付されているのを目にしますと、マスメディアの役割に対する疑いは確信に変わります。

 

それは、マスメディアが‘顧客’から請け負っている仕事の一つとは、人々に事実を余すところなく伝えるのではなく、未確定な出来事でもそれを確定された事実として報じることで既成事実化を進めることではなかったのか、とい疑いです。バイデン氏当確を印象付ける表現がかくも並びますと、単なる偶然とは思えず、その背景には、同一の‘権力体’からの‘指示’が推測されるからです。仮に、‘嘘でも百篇言えば事実になる’方式でバイデン氏勝利を連呼しているとすれば、それは、逆効果となりましょう。一般の人々は、こうしたマスコミ各社に対して、その執拗さに異常性、あるいは、作為を感じ取るからです。

 

 そして、もう一つのマスメディアのお仕事とは、社会全体に対して同調圧力を加えることです。このお仕事は、世論調査によって遂行されます。調査結果、大多数の賛意を得た回答を以って‘世論’を装うことができますし、それは、強力な同調圧力として作用するからです。今般の大統領選挙では、票数の集計ソフトにおける不正が取沙汰されていますが、選挙こそ、多数決の原則、即ち、数がモノを言う最たるものです。投票前であれ、投票後であれ、メディアによる‘多数派’の演出はとりわけ重要であり、人々の投票行動を変えたり、自らの置かれている状況を‘現実’であると‘信じ込ませる’ことができるのです。選挙の投票であれ、世論調査であれ、その結果を改竄することは難しいことではありません。民間メディアによる調査であれば、集計現場を公開する義務もなく、また、他者からチェックされることもないのですからなおさらのことです。しばしば、日本社会は同調圧力が強いとも指摘されてきましたが、何れの国にあっても、マスメディアが作為的に同調圧力を造り出している点においては変わりはないのかもしれません。

 

しかしながら、人々は、世論調査の結果をもはや‘民意’とは見なされなくなり、メディア側、あるいは、それが仕える組織の願望に過ぎないと認識されるに至りました。今日における人々とメディアとの関係は、メディアの欺瞞を察知し、行間から事実を読み取ろうとする点において、‘探偵と容疑者’との関係に類似しています。そして、人々がメディアの報道を信じなくなりますと、当然に、既成事実効果や同調圧力効果なども失われてゆきます。人々がメディアを信じていたからこそ、メディアは‘権力体’にとりまして有用な手段であったのですから、皮肉なことです。

 

中国といった全体主義国家では、強権の発動を伴う情報統制の徹底によって国民の官製メディアに対する不信感を封じ込めることができますが、言論の自由が保障されている自由主義国では、メディアに対する国民の不信は、メディア離れを加速させることでしょう。今日、メディアは、信頼性という自らが依って立つ基盤を自らの手で壊してしまったことにおいて、存亡の危機に立たされているのではないかと思うのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菅首相の危ない政治手法―国際公約化という名の既成事実化

2020年11月19日 12時41分53秒 | 国際政治

日本国の菅首相は、就任後の初の所信表明演説において2050年を目標に温室化効果ガスの排出量ゼロを掲げました。合意形成のために国民はおろか、自民党内でも議論された形跡はないのですが、この手法、国際公約化という名の既成事実化ではないかと思うのです。

 

 本日の日経新聞朝刊によりますと、菅首相は、近々開催されるG20の席で同目標を公表し、国際公約とするそうです。国内での発表が先だったものの、この手法、民主党政権時代の野田首相の政治手法を思い起こさせます。2011年11月3日、野田首相は、今般と同じくG20の場において「2010年代半ばまでに段階的に消費税率を10%まで引き上げる」と明言し、消費税率上げを国際公約化しています。この時から、消費税率上げは既定路線となり、民主党が下野し、自公政権が返り咲いた後にも同方針は継承されることとなったのです。

 

 税制は純粋なる国内問題であり、かつ、バブル崩壊後に罪上がった巨額の財政赤字は日本国固有の問題でしたので、そもそも国際社会に対して公約化すべき問題ではありません。それにも拘わらず、野田首相が、国際公約化という手法を以って消費税率上げを既定路線に据えようとした背景には、つまり、日本国債のステークホルダーの国際性を挙げることができます。日本国政府が発効する国債は、必ずしも日本国内の金融機関や個人によって購入されるわけではなく、実のところ、債権市場を介してであれ、米欧の金融機関や中国などによっても保有されているのです。日本国債に対する信頼性の低下、即ち、海外のステークホルダー達の損失に対する懸念を緩和するために、野田首相は、敢えて消費税率上げを国際公約化したと推測されるのです。

 

 消費税率上げの既定路線化の前例からしますと、今般の菅首相による2050年排出ゼロ目標の国際公約化にも、国際的なステークホルダーからの要請があったことは容易に想像できます。排出権取引や再生エネ事業を背景として、地球環境問題は今や巨大な利権とも化しており、温室効果ガスの排出量を削減するほど利益が増大する企業や団体も少なくありません。国民的合意を形成することなく、菅首相が、ゼロ目標を設定したのは、国際社会の削減推進派への利益誘導であったのかもしれません(パリ協定も、この観点からは疑問がある…)。

 

野田政権における消費税率上げには、それが国際金融や保有国の利益に叶うものであったとしても、一先ずは、日本国債の信用維持という‘国内向け’の‘大義名分’がありました。これと比較しますと、菅首相によるゼロ目標の国際公約化は、遥かに‘国外向け’のように思えます。地球温暖化問題が持ち上がった当初から、日本国は、常に不利な条件を飲まされてきました。途上国の地位が認められていた中国や韓国等が削減義務を負わない一方で、日本国には高率の削減率が課されており、同制約は、規制の緩い中国への工場移転といった産業の空洞化に拍車をかけると共に、排出権取引においても、日本国側は常に排出権を買わなければならない側であったからです。また、二酸化炭素の吸収において貢献度の高い広い森林面積を有しながら、こうした日本固有の自然条件が考慮されることもありませんでした。さらなる削減率上げは、‘乾いた雑巾を絞るようなもの’とも称されてきたのです。

 

また、消費税率上げについては、国内にあって活発な議論が闘われ、国政選挙においても国民にその是非が問われるチャンスがないわけではありませんでした。しかしながら、今般の菅首相のゼロ目標については、マスメディアをはじめ異論が殆ど見当たりません。本来、企業や国民生活に直接的な影響を及ぼしますので、国民的な合意や慎重な利害調整を要するにも拘わらず…。

 

仮に同目標を、今後30年の間に何としても達成しようとすれば、水素エネルギーを初め、最先端のエネルギー技術をハイスピードで開発する必要がありますしょう。また、化石燃料を使用し続けることを想定し、二酸化炭素の地下埋蔵技術といった新たな技術を確立したとしても、仮に二酸化炭素犯人説が覆されるような場合には、全ての努力が水泡に帰しかねません。言い換えますと、テクノロジーへの依存度の高いエネルギー政策の分野では、統制経済にあって「五か年計画」を‘工程表通り’に実行するような方法は、結局、技術開発が追い付かず、逆に産業や経済メカニズムを壊してしまうリスクがあるのです。

 

菅首相は、国民のために働く内閣を目指しているそうですが、その政治手法を見る限りでは、言葉と実際の行動が逆方向を向いているように思えます。国民に対しては、耳に心地よい言葉を語りながら、その一方で、既成事実化を以って国民に不利益を与えるような政策、あるいは、実現するには国民に相当の無理を強いる政策を独断で実行しているように見えるからです。近年における自民党の変質も著しく、少なくとも菅政権は、全体主義にシンパシーを有する‘右翼’ではあっても、自由と民主主義を尊重しつつ伝統をも重んじる‘保守’ではないと思うのです。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

危うい菅首相の‘国民の食い扶持’という発想

2020年11月18日 12時44分31秒 | 日本政治

 最近、菅義偉首相は、自らの政権のアピールを兼ねてか、『政治家の覚悟』(文春新書)というタイトルの本を上梓したそうです。尤も、同書は、2012年3月に刊行された単行本『政治家の覚悟 官僚を動かせ』を改訂版であり、首相就任を受けてインタヴュー記事を加筆したいわばリメイク版のとのことです。実のところ、同書を読んだわけではないのですが、新聞面に掲載されていたキャプションが気になりましたので、本日は、これを記事として取り上げてみたいと思います。

 

 政治家の思想的な傾向を知ることは、とりわけ民主主義国家の国民にとりましては重要なことです。それが首相であれば、時の政権が遂行しようとしている諸政策の思想的な背景を理解することができますし、同政権の基本的な性格や特徴を分析する上でも必要不可欠な情報となるからです。そして、同書にあって目に留まったキャプションとは、「私の仕事は国民の食い扶持を造ることだ」というものです。

 

実際には首相自身ではなく、長らく師として仕えた梶山静六氏が語った言葉であり、菅首相が感銘を受けたことからキャプションとして選ばれたようです。しかしながら、この言葉に、菅首相の政治信条が凝縮されているとしますと、自由で民主的な国家である現代の日本国にあっては、どこか違和感があるのです。現代という時代との齟齬から来る違和感の源泉を辿ってみますと、以下の点が挙げられるように思えます。

 

第一に、‘扶持’という言葉は、江戸時代の幕藩体制にあって、藩主が家臣に対して与えた俸禄支給を意味しています。大抵は役職と結びついており、封建時代の位階秩序にあって、人事権を伴う配分システムとして理解されます。言葉の古さも然ることながら、菅首相が、自らを藩主の立場になぞらえ、国民をそれぞれの役職に応じて扶持を授かる家臣の立場と見ているならば、この言葉は、やはり時代錯誤のようにも思えてきます。

 

もっとも、封建制度とは、主君と家臣との間に権利・義務関係が成立していましたので、一先ずは、上から下への一方的な分配ではないのですが、配分マシーンと化した国家体制は、共産主義体制とも共通しています。菅首相はかつて共産主義者の疑いをかけられたことがあるそうですが、ご両親が満州国からの帰国者であったことから(満州国には、政府中枢にも共産主義者が多かったという…)、共産主義から何らかの思想的な影響を受けているのかもしれません。ここに、菅首相が親中派とされる理由も見て取れるのです。

 

第二に、‘扶持’という言葉を‘職’という意味で用いているとすれば、菅首相が目指しているのは、‘政府が仕事を造り、国民が仕事をもらう体制’ということにもなりましょう。こうした配分型の経済システムを実現しようとすれば、現在の中国以上に純粋なる計画経済を実施する必要があります。そしてそれは、自立した個々人の自由な経済活動に支えられている今日の自由主義経済(市場主義経済)にはそぐわないように思えるのです。統治機能の提供に伴う公職は必要ですし、不景気にあっては失業対策のために公共事業等を実施して政府が仕事を造ることはあっても、自由主義経済にあっては、仕事とは、基本的には民間の人々の意欲や発意によって自然に生まれるものであり、政府から与えられるものではないからです。そして、どちらかと申しますと、共産主義の配分システムは、‘頭’が部下に分け前を与える賊や閥といった組織との間に類似性が高いのです(共産党もその一種…)。

 

仮に、菅首相の政治思想が、封建体制や共産主義体制との間に親和性が高いとしますと、この傾向は、同政権の政策にも反映されているかもしれません。例えば、中国との関係を見ましても、菅首相は、中国を‘頭’と見なし、日本国は中国から一定の‘扶持’を受ければよい、と考えているとも推測されます。同首相が思い描くアジアの未来とは、中国を頂点とした位階秩序であり、そこには最早、主権平等も民族自決もなく、日本国は、グローバリズムの結果としての国際分業の名の下で、中国から指定された産業に従事する隷従国家に過ぎなくなることでしょう。菅首相としては、それでも、‘国民のために扶持を造った’、あるいは、‘中国から仕事をもらってきた’として胸を張るのかもしれませんが、それは、悪気はなくとも独りよがりの独善であり、RCEPがこの構想を実現するための第一歩であるとしますと、それは、日本国民にとりましては望ましいはずもありません。

 

また、菅首相が、共産主義的な思想を中国と共有しているならば、同首相の云う‘国民’とは、必ずしも日本国民全員を意味するとは限りません。中国の云う‘人民’とは、事実上、共産党員であり、仕事、あるいは、利権に与れるのは、一部の人々に過ぎないからです。今日の菅政権の方向性を見ておりますと、つい、‘食い扶持’という言葉を深読みしてしまうのです。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

RCEPは日本国の対中経済制裁オプションを阻害するのでは

2020年11月17日 12時46分29秒 | 国際政治

しばしば通商政策とは、経済のみならず政治的な目的を実現するための手段としても使われてきました。アメリカが今日、人権侵害国であり、かつ、無法国家でもある中国に対して厳しい経済制裁を課しているのも、通商政策が有効な政治手段であることをよく理解しているからです。こうした観点から通商政策を眺めますと、今般の参加各国の首脳によるRCEP協定への署名は、日本国の政策手段に制約を課すリスクがあります。

 

 戦後にあって欧州経済共同体から出発したEUは、冷戦崩壊後にあっても決してロシアを加盟国として招き入れようとはしていません。資源大国であるという同国との間の相互依存の可能性を考慮しますと、ロシアもメンバー国となってもよさそうなものなのですが、むしろ、エネルギー分野にあってロシア依存を低めようとする方向にあります。その理由は、ソ連邦時代よりは低下したとはいえ、未だにロシアはヨーロッパにとりまして軍事的な脅威であるからです。‘軍事的な脅威となる国に依存してはならない’は、人類史においては鉄則であり、アメリカの対中デカップリング政策もこの文脈から理解されましょう。

 

 翻ってRCEPを見ますと、日本国政府は、歴史からの警告を無視しているように見えます。日本国のみならず、今や全世界における最大の軍事的脅威となった中国と共にアジアにあって広域経済圏を形成しようとしているのですから。しかも、中国は、自由、民主主義、法の支配といった基本的な価値観を共有しておらず、一党独裁体制を堅持している点において、ロシアよりも遥かに危険な国家です。実際に、尖閣諸島周辺海域では中国の公船が連日のように姿を現しております。また、中国は、チベット、ウイグル、モンゴル、香港において著しい人権弾圧を行っており、台湾に対しても武力行使も辞さない構えを見せています。 新型コロナウイルスのパンデミック化についても責任を問われて、南シナ海問題にあっても常設仲裁裁判所の判決をも反故にしているのですから、現状にあってさえ、中国は、アメリカのみならず、日本国を含む諸国から経済制裁を受けて然るべき国なのです。

 

 中国をめぐる現状を考慮すれば、今後とも、日本国政府は、対中経済制裁という選択肢を手放してはならないことになります。ところが、RCEPが発足しますと、同協定によって日本国政府の手足が縛られることになるかもしれません。少なくとも、経済制裁という手段に訴えるに際してのハードルが高まることが予測されるのです。そして、中国政府がアメリカの制裁を違法としてWTOに訴えたように、RCEP協定を盾にして対中制裁の阻止、あるいは、解除を求めることでしょう(自らは平然とルールを破っても、他国に対して遵守を求める…)。

 

 近い将来、最先端のハイテク兵器を手にした中国が第三次世界大戦の引き金を引く事態も否定はできません。戦争を未然に防ぐ手段は経済制裁のみとなりますので、この手段がRCEP協定によって縛られるとしますと、RCEPの設立は、人類にとりまして決定的な意味を持つことになりましょう。利益に目がくらんで、政府が重要な政策権限を手放したという意味において。

 

天安門事件後にあって、日本国の天皇訪中が対中制裁緩和のきっかけを作ったとして批判されておりますが、今日、日本国は、別の形にあって、中国の罪や責任を不問に付してしまうという、同様の過ちを繰り返えそうとしているのかもしれません。RCEPの構成国にはオーストラリアやニュージーランドといった親米の自由主義国も含まれていますので、同協定の発効の可否が国内手続きに移行した今、離脱をも視野に入れつつ、これらの諸国と対中包囲網の形成や日米豪印によるアジア・太平洋構想との整合性等を協議する場を設けるべきではないかと思うのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アメリカ大統領選挙の不正追及が必要な理由

2020年11月16日 12時50分11秒 | アメリカ

 今般のアメリカ大統領選挙は、投票日から凡そ2週間が経過した今日にあっても、未だ決着つかずの状況が続いています。それもそのはず、拭いきれない不正選挙疑惑があるからです。アメリカ国民の多くも司法の場での真相解明を望んでおり、首都ワシントンD.C.でデモ行進に参加したトランプ支持者たちも、口々に不正疑惑を訴えていました。

 

 アメリカの大統領選挙では、ブッシュ候補対ゴア候補の対決時のように、過去にも集計が問題視されたことがあります。しかしながら、不正確な票数のカウントといった共通部分もあるものの、過去の選挙と今般の選挙での決定的な違いは、意図的、かつ、システマティックな‘不正’が行われた可能性がある点です。しかも、それらに外国や国際組織も絡んでいるとなりますと、状況は俄かに国際性をも帯びてきます。

 

 組織的不正手段の一つは、再三、指摘されてきたように、コロナ禍を根拠とした杜撰な郵便投票制度です。成りすまし投票や二重、あるいは、三重投票といった‘古典的な手法’に留まらず、今般の郵便投票には、大規模な組織の影が見え隠れしているのです。とりわけ、新型コロナウイルスの発祥地は中国の武漢であり、そのパンデミック化が、ソーシャルディスタンスの徹底を訴えて、郵便投票制度の大幅導入に成功した民主党陣営に有利に働いたのですから、否が応でも中国の関与も疑われます。真偽は不明なものの、中国からの大量のバイデン票が郵送されてきたとする指摘もあり、たとえそれがフェイクニューズであったとしても、国民が真相究明を求める強い動機となります。しかも、バイデン氏には、選挙の終盤戦にあって中国スキャンダルが明るみになり、状況証拠が揃ってしまった観があるのです。この状態にあって、国民に対して‘神聖な選挙の結果に難癖をつけるのは恥である’といった言い方をしても、むしろ、怪しさが増すばかりなのではないでしょうか。

 そして、もう一つの不正手段は、集計ソフトの設計やサーバーのデータ管理における偏向操作です、これらの手法は、従来の選挙にはない、あるいは、存在していたかもしれないけれども認識されてこなかった、まさにデジタル化時代の申し子です。デジタル化には、選挙にあっても集計の高率性や正確性、並びに、速度を飛躍的に高めるといった利点はありますが、その反面、内部に忍び込めば操作しやすいという重大な問題点があります(最も操作が容易なのは設計者といった内部者…)。デジタル化時代にあってむしろ人々の不安が増したのもこの側面にあるのですが、高度なITの導入が、逆に選挙結果の信憑性を著しく低下させているのです。

 真相の解明にはもう暫く時間を要するのでしょうが、この問題、トランプ大統領が敗北を認めて引き下がってしまいますと、アメリカ国民は不正選挙を排除する折角の機会を失ってしまうかもしれません。何故ならば、バイデン氏、並びに、民主党陣営は、‘今般の大統領選挙は公正に実施され、不正選挙ではない’という立場にありますので、仮に、同政権が発足すれば、不正選挙疑惑自体を‘なかったこと’にしようとすると予測されるからです。つまり、‘不正はない’と主張する以上、現行の投票制度を、不正が不可能となるような制度に改革するとは思えないのです(‘なかったものに対処する必要はない’の立場…。むしろ証拠隠滅やさらなる不正システムの強化を行う可能性もある)。不正を防ぐための具体的な制度改革を行うには、不正手段を想定してその対処法を考案する必要がありますが、それは、自らが行ってきた‘手口’を白状するに等しいのですから。

 

 このように考えますと、トランプ大統領は、全てのアメリカ国民のために決して不正選挙疑惑を有耶無耶にしてはならないということになりましょう。幸いにして、同大統領は、最後まで不正と闘う姿勢を示しております。今やアメリカの大統領選挙は、トランプ大統領対バイデン前大統領の対立の枠を超えて、党派を超えた良識あるアメリカ国民対不正容認集団という、民主主義を護るための闘いへと広がってきているように思えるのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする