万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

皇族の東大推薦入学の是非

2024年08月28日 09時41分42秒 | 社会
 学習院の開設は、江戸末期の弘化4年(1847年)に遡り、以後、皇族の学び舎とされてきました。明治17年には宮内省所轄の官立学校となりますが、戦後は、皇族や華族の子弟に限らず、一般国民にも開放されると共に、私立大学として再出発することとなります。創立の経緯からしても学習院は皇族のために設けられた特別の学校であり、当然に皇族が入学試験を受けることはなかったことでしょう。

 学習院=皇族の学校という構図は戦後も暫くの間は維持されてきたのですが、秋篠宮家の長女眞子さんから学習院離れが始まり、今般、新たな問題が持ち上がっています。それは、長男である悠仁氏の進学問題です。皇嗣の嫡男となりますので、現行の皇室典範によれば、将来、天皇の位に就くものとされています。悠仁氏も、幼稚園から中学校までの期間はお茶の水大学の付属学校で学び、高等学校は、筑波大付属高校に進学し既に学習院から離れています。しかしながら、これらの学校の選択に際して特徴となるのは、何れも、国立の学校を選んでいるという点です。

 それでは、何故、悠仁氏の進学問題が国民の関心、否、批判を浴びているのかと申しますと、入学希望の大学が、国立の東京大学であるとされているからです。しかも、高校入学時と同様に、他の志願者と一緒に一般入試を受けるスタイルではありません。学校推薦での入学を目指しており、そのための‘実績’を積んでいるというのです。悠仁氏は、第一線の研究者と共同でトンボに関する論文を執筆し、8月25日に京都市で開催された「国際昆虫学会議」にあってはポスター発表を行なっています。これらの研究活動は、東大の推薦入学を勝ち取るための‘戦略’と見なされているのです。

 同戦略が、不公平であることは言うまでもありません。他の一般の高校生達が、推薦入学の条件を満たすために、その道の専門家と共同研究できる可能性はほぼゼロであるからです。入学試験とは競争試験である以上、推薦入学も含めて全ての参加者に対して競争条件を同一にしませんと、結果の信頼性をも失われてしまいます。とりわけ、国立大学の入試にあっては、平等原則は徹底されるべきです。推薦入学であっても、他者の手を借りた‘実績’は、自らの実力とは言いがたく、決して平等も公平でもないのです。

 秋篠宮家が皇族という特別の地位を自らのために利用したことは明白です。否、かつての学習院のように無試験で入学できるのではなく、競争試験を経なければならない現代であるからこそ、その裏口的な手法の姑息さが目立ってしまうとも言えましょう。皇族が、率先してアンフェアな行為を行なうのでは、‘国民に対して示しが付かない’と考えるのが、一般国民の常識的な反応なのではないでしょうか。

ところが、この件に関して脳科学者の茂木健一郎氏は、全く逆の意見を述べています。国民からの批判を人権侵害とした上で、「そんなご不便をかけてるんで、それを特権とかいうのは本当に心が貧しいな。全体を見れない方たちだなと思う」として。同氏の見解では、<皇族は特別な存在である>⇒<自由が束縛されている>⇒<束縛がある分、国民は、皇族の些細な私的要求は受け入れるべき>ということになります。つまり、‘特別な存在である皇族の要求を批判する国民の方が悪い’という論理なのです。しかしながら、この論理は、茂木氏の個人的な皇族観に基づく主張ですし、必ずしも正しいわけでもありません。社会の公平性を損ねる私的要求の抑制こそ、皇族に課された最も重要なる‘束縛’であるとも言えるからです。

 古今東西を問わず、君徳や帝王学が存在してきましたので、後者の方が国民一般が権力者や権威者に求めてきた倫理的な規範なのでしょう。むしろ、公的権威の私的利用が許されると考え(伝統的な倫理観に反する・・・)、上から目線で国民の批判を封じようとする茂木氏の論理は、どこか倫理観が倒錯しているようにも思えます。同氏は、批判する人々に対して「全体を見れない方たち」と表現して軽蔑していますか、同氏が全体を見ることができるのであれば、‘特別な存在とは何か’、‘権威の源泉とは何か’、そして、‘統合の役割とは何か’といった、天皇や皇族の根本的な存在意義や今後の在り方まで掘り下げた議論を提起すべきではないかと思うのです(つづく)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フワちゃん大炎上事件の‘ネット民’批判を考える

2024年08月19日 09時14分55秒 | 社会
 フワちゃん大炎上事件は、人々にとりまして、善悪の判断を含む様々な問題について考える貴重な機会となっているように思えます。本日も、千原せいじ氏によるSNSユーザーに対する苦言が報じられておりました。「結局今フワちゃんを叩いてるヤツら、お前はフワちゃんと同じことをしてるからな」として。

 それでは、フワちゃん氏の発言と‘ネット民’は、‘同じこと’をしている、つまり、両者の行動は同質のものなのでしょうか。どこか理屈っぽく聞えるかも知れませんが、善悪を基準としますと、両者は、むしろ正反対と言っても過言ではないように思えます。フワちゃん氏の発言は、他者に自死を薦めたのですから、弁明の余地がありません(やす子氏が告訴すれば刑事事件となる可能性も・・・)。しかも、やす子氏のX上の発言は博愛精神から発せられていますので、フワちゃん氏のリプライは、情状の余地がないほどに悪が際立ってしまっているのです。つまり、同事件では、善悪の立場が明確に区別されるのです。

 こうした善悪の構図を前提としますと、‘ネット民’による批判は、人々の一般的な倫理観に発する悪に対する批判となります。罪に対する批判なので懲罰的な意見も当然に含まれることでしょう。こうした意見は、当事者であるフワちゃん氏にとりましては主観的には‘害’であり、自らに対する‘攻撃’なのでしょうが(刑罰は常に受ける側にとりましては‘害’である・・・)、基本的には悪意から発せられるものではないのです。とりわけ、フワちゃん氏の言葉が‘苛めっ子’の常套句であり、精神的な虐めの手段であったからこそ、より激しい懲罰意識と反発を招いたことは想像に難くありません。ここには、‘罪に対してはそれ相応の罰を与えるべきとする’常識的なバランスが働いているのです。この側面に注目しますと、メディアでは、フワちゃん氏の発言を‘不適切発言’や‘失言’とする表現で報じているものの、‘虐め発言’や‘反倫理発言’と言った方が、問題の本質を言い表しているかも知れません。

 もちろん、匿名によるバッシングに快感を覚え、便乗しているSNSのユーザーも存在しているのでしょうが、大多数の人々は、正義感から投稿しているはずです。しばしば、ネットバッシングが起きる度に、‘自分だけが正しいと信じている’とする批判を耳にするのですが、そもそも、大勢の人々の正義感を呼び覚ますような‘悪’がなければ、炎上するはずもありません。ネット上の炎上こそ、人々の道徳心や良心の現れであり、それを批判したり、封じるような発言には、疑問を抱かざるを得ないのです。仮に、フワちゃん氏の発言に対してネット空間が沈黙する、あるいは、同発言に同調した笑いが一斉に起きたとしましたら、その社会は、恐ろしく陰湿で冷酷な歪んだ世界となりましょう。他害的で悪意のある発言に対する社会的な反発は、同社会に生きる人々の道徳や倫理のレベルを示す、一種のバロメーターでもあるのです。

 以上に述べましたように、善悪の区別を基準としますと、フワちゃん氏の発言と‘ネット民’の批判は、同質とは言えないように思えます。そして、この基準からしますと、よりフワちゃん氏に近いのは、‘ネット民’ではなくむしろ千原氏自身なのではないかと思うのです。何故ならば、善悪両サイドの関係からしますと、フワちゃん氏サイドから‘ネット民’を批判する発言は、自ずと悪が善を叩く構図となってしまうからです。同氏は、SNSのユーザーに対して「ヤツ」、あるいは、「お前」とも呼んでおり、こうした他者に対するぞんざい、かつ、自らを‘上位者’と自己認識した上での言い方も、フワちゃん氏の社会観と態度と似通っているのです。

 しかも、活動休止が宣言されながら、ウェブ上では、マイナス情報であれ、プラス情報であれ、フワちゃん氏に関する記事が散見されます。こうした現状では、‘ネット民’を同氏と同列に貶めて批判したとしても、鎮火するどころか火に油ともなりかねません。フワちゃん氏に限らず、近年のマスメディアでは、一般の視聴者やユーザーから忌避されているタレント等を起用し続ける傾向があるのですが、背後に圧力団体や何者かの意向があるとしますと、この問題は、メディアとは、一体、誰のためにあるのか、という、メディアと‘ネット民’、否、一般の人々との間の根本的な関係性をも問いかけているように思えるのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フワちゃん発言の論理的怖さ

2024年08月16日 11時56分21秒 | 社会
 「フワちゃん大炎上事件」は、なかなか鎮火には至らないようです。様々な分野の人々が新たな視点で賛否両論の議論を起こしており、予想を超えた延焼が続いているようにも見えます。その一つに、フワちゃん氏の発言に見られる論理性を評価する哲学者からの擁護論もあります。矛盾に満ちたやす子氏の発言よりもフワちゃん氏のリポストの方が余程論理性が高いというのです。

 論理性をもって新たなるフワちゃん氏擁護論を展開しているのは、フランス哲学者の福田肇氏です。それでは、同氏は、哲学的な考察からどのような論拠をもってフワちゃん氏の発言を評価しているのでしょうか。

 先ずもって、同氏は、自身のフワちゃん氏擁護論の出発点は、「やす子の無神経で情緒的でお気楽な発想」にあるとしています。現実には、高齢者や障害者の介護に疲弊する人々、安楽死を望む人々、LGBTQ問題を抱えている人々などが存在しながら、「生きてるだけで偉いので皆 優勝でーす」という言葉は‘好きになれない’というのです。つまり、同氏の不快感という感情から始まっているのですが、その後は、やす子氏の発言の論理的な矛盾点を指摘しています。‘生きているだけで皆偉い’と言う以上、優勝という順位付けは矛盾するというのです。

 やす子氏が、‘優勝’という言葉を順位付けの意味合いで使ったとは思えないものの、この論理で矛盾を批判するならば、フワちゃん氏の発言にも同様の指摘をすることはできます。‘死んでくださーい’と言う以上、その後の‘予選敗退’もあり得ないからです(本人は「生きておらず」、既にこの世にはいない・・・)。

 そして、次なる指摘こそが、福田氏が最も強調したかった論理性なのでしょう。同論理性は、両氏の発言の文章構成を個別に検討するものではありません。フワちゃん氏は、やす子氏の発言を逆手に取る形で自らの発言を組み立てており、そこに高い論理性を認めて評価してるのです

 確かに、やす子氏の発言を分析しますと、1.生きる(S)は、偉い(P)、2.偉い(P)は優勝(X)、3.生きる(S)は優勝(X)というきれいな三段論法を構成しています(S⇒P、P⇒X、S⇒X)。その一方で、この論法に対して、一切の条件なしで単純に否定で構成すると、(1)S(ー)⇒P(ー)、(2)P(-)⇒X(-)、(3)S(-)⇒X(-)となります。‘死者は偉くなく、偉くない人は優勝しない、死者は優勝しない’となります(ここでは大文字右の(-)は補集合を意味し、少なくとも数学的には正しい)。

 ところが、福田氏のフワちゃん発言論理優位説の根拠は、こうした単純な否定の論理ではありません。福田氏は、やす子氏の三段論法の最初の一段目において、フワちゃん氏の発言は、SとPを否定形となるS(-)とP(-)に変えたことに加えて、両者の位置を逆転させている、即ち、‘逆手’にとっているから「面白い」と言っているのです。つまり、S(ー)⇒P(ー)ではなくP(-)⇒S(-)あるいはS(ー)⇐P(ー)に・・・。ところが、この否定逆転の意味を文章表現しますと、’偉くない人は死ぬべき‘という恐ろしい言葉に転換されてしまいます。すなわち、第一段以下を三段論法で記述しますと、(1)P(-)⇒S(-)、(2)S(-)⇒X(-)、(3)P(-)⇒X(-)となり、’偉くない人は死ぬべきであり、優勝もしない(予選敗退)‘となり、まさにフワちゃん氏の問題発言となるのです。

 ‘逆は必ずしも真ならず’と申しますように、S(ー)⇒P(ー)からP(-)⇒S(-)へと逆順とした論理式が正しいわけではありません。むしろ詭弁的な論法でもあり、この‘逆手’が倫理や道徳に著しく反したが故に、気の利いた‘ウイット’として笑えず、大炎上する結果を招いたとも言えましょう。おそらく、福田氏もこの逆手が含意する‘偉くない人に対する死の肯定’には気がついていたのかもしれません。福田氏は、「フワちゃんは、そこから「偉くない」のであれば、その人は「生きていない」はずだ、よって「予選敗退だ」という結論を導き出した」と述べており、‘「生きていない」はずだ’と表現することにより、積極的な死の肯定に対して和らげた表現を用いているからです。

 結局、フワちゃん氏の発言に論理性をもって擁護する試みは、その意図とは反対に、同発言に潜む反倫理性を暴き出してしまったようにも思えます。「偉い」、「偉くない」のフワちゃん氏の基準が何であるのかが曖昧であるだけに(P(-)は主観的に設定可能・・・)、多くの読者が、自らをやす子氏の立場と重ねることとになり、フワちゃん氏への批判が強まったとも言えるかもしれません(フワちゃん氏の基準によって「偉くない」とされた人は、すべて「死んでください」ということになるのでは?)。

 介護を要するほどの高齢になっても、障害を持っていても、LGBTQ等であっても、生きていて欲しい、生きていてくれるだけで幸せと思う人々も少なくありません(とりわけ家族は・・・)。同擁護論も感情から始まっていますように、生死の関わる問題は、論理では割り切れない部分があります。ましてや道徳や倫理を真っ向から否定するような詭弁であるならば、多くの人々からの反発や批判を受けるのは当然のことなのではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スクールカーストは猿山か

2024年08月14日 11時28分59秒 | 社会
 今日の学校は、虐め問題に限らず、子供達にとりまして生き辛い場所のようです。何故ならば、教室では、しばしば‘スクールカースト’と呼ばれる階層化が見られるというのです。同カースト制度はおよそ3階層に分かれており、上位から1軍、2軍、3軍と序列が下がってゆきます。カーストと言いますと、インドの過酷な身分制度が思い出され、この言葉が使われているだけでも引いてしまうのですが、今日の学校での序列化を説明する日常語として使われていること自体が驚きでもあります。

 それでは、スクールカーストの序列がどのようにして決まるのかと申しますと、その基準となるのは、コミュニケーション能力、容姿、運動神経、学業成績、所属する部活動などなそうです。上位者は、これらの何れにあっても優れており、このため、教室全体においてリーダーシップを発揮し得るのです。リーダーシップといえば聞こえは良いのですが、その実態は、横暴な支配階級のようなもののようです。他の2軍や3軍に自らの意見を押しつけ、あらゆる物事を自分たちで勝手に決めてしまうのですから。

 その一方で、2軍とされる生徒達は1軍の取り巻き、あるいは、フォロワーとなり、1軍の意に添うように行動します。同調圧力を醸し出すのもこの階層であり、同階層の協力なくして教室全体の同調圧力も生じないこととなります。そして、最下層に位置づけられる3軍に至っては、1軍による虐めの対象となりやすく、精神を病んだり、不登校となる生徒も少なくないそうです。スクールカーストは、虐めの原因でもあるのです。

 実のところ、このスクールカーストの世界、前近代における階級社会が、現代においてそのミニ版として再現されているといっても過言ではありません。階級社会では、国や社会全体の決定権は一部の特権階級が独占しており、他の人々は、一方的に支配される立場にありました。しかも、その決定も、社会全体のルールや法に照らしたものでもなく、大方、権力を握る少数の人々の恣意や私的な好悪によって決められます。言い換えますと、今日、普遍的な価値とされる自由、民主主義、法の支配、平等・公正といった諸価値とはほど遠い、真逆の世界なのです。

 こうした世界が、子供達の間で自然に形成されているとしますと、この現象をどのように理解すべきなのでしょうか。前近代における階級社会は、過去から引き継がれてきた伝統でもあり、かつ、半ば公権力によって強制されてもいました。しかしながら、今日の教室で出現したスクールカーストは、クラス替えの度に起きるというのですから、自然発生的なものとも言えましょう。否、スクールカーストという名称が存在しないだけで、過去の時代の教室にあっても位階的なグルーピングは存在しており、今日の一般社会にあっても散見されるのかもしれません。

 序列化の現象をもってこれを人間集団の本質的な傾向とする説明は簡単なのですが、人類史的な視点からしますと、人類の精神的な発展を無視しているようにも思えます。自然界を観察しますと、生物学的に人類に最も近い霊長類では、ボス猿を頂点として‘猿山’とも称されるピラミッド型の位階秩序を形成する種属がいます。このことは、類人猿より高い知能を有する人類にあっても、十分に知性や理性が十分に備わっていない段階では、社会が‘猿山モデル’となり得ることを示唆しているとも考えられます。学童期にあってスクールカーストが自然に形成されてしまうのも、あるいは、人の精神的な発展段階と無縁ではなく、理性や理性が未成熟な故の過渡的な現象かも知れないのです。

 古代ギリシャ哲学の流れを引き継いだ西欧においては、近代にあって理性と社会や国家との関係について深い思考を加えています。これらの哲学は、現実の世界にあっても近代国家の制度的発展に理論的な基盤をも提供しており、上述した自由、民主主義、法の支配、平等・公正と言った諸価値が統治機構にあって制度化されたのも、客観的且つ公平な視点の源としての理性という概念に負うところが大きいのです。そして、現代国家の大半が、普遍的諸価値と共に近代的な制度を取り入れたことは、人類における理性の普遍性の証とも言えるのです。

 このように考えますと、生徒や学生の知性や理性を育て、‘猿山モデル’であるスクールカーストの世界を卒業させることこそ、教育の果たす役割とも言えましょう。恣意的で固定的な物差で個々人を評価し、位階秩序に振り分けてしまうのは、理性に照らして見ればまことに馬鹿馬鹿しいことなのです(ボス猿には、外敵からメンバーを護る役割があるので、猿山以上に馬鹿馬鹿しいかも知れない・・・)。この馬鹿馬鹿しさは、2軍の人も3軍の人こそ気がつくべきかもしれません。自己呪縛という愚かな行為なのですから。そして、このことは、子供達の理性や知性を育むことに失敗しますと、社会も‘猿山モデル’に退行してしまうリスクをも示しています。今日、世界各国にあって独裁化の兆候が見られますが、横暴な独裁者の出現を防ぐためにも、人々の精神的な成長を促す教育の役割は重要なのではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「フワちゃん大炎上事件」の教育効果

2024年08月13日 10時09分50秒 | 社会
 今日、誰にとっても学校の教室が楽しい場であるわけではありません。とりわけ、虐めが起きている学校では、休み時間や課外活動、学校行事でさえ精神的な苦痛を伴うことも少なくないのです。しかも、スマホやタブレットが普及した今日、子供達は、新たな虐めの手段を手にするようにもなりました。SNSの使用は、虐めの場を教室から子供達の私的空間へとさらに広げているのです。言葉の暴力は古今東西を問わずに昔からあるのですが、SNSは、現代にあって言葉による虐めリスクを一層高めているのです。

 今般のフワちゃん氏による暴言も、言葉による虐めの問題と直結しています。何故ならば、「おまえは偉くないので、 死んでくださーい 予選敗退でーす」という発言には、言葉による虐めの核心的な要素が凝縮されているからです。「おまえは偉くない」では、自らの優越感に基づく主観のみで他者の人格に対して低評価を与えています。この言葉を受けた側は、自らの価値を一方的に貶められるわけですから、自ずと自己評価も下がってしまい、落ち込んでしまうのです。続く「死んでくださーい」は、これは言うまでもない、刑法に抵触するような暴言です。最初の節の‘偉くない’は理由付けですので、‘おまえには価値がないから死ぬべき’という意味となり、この言葉を投げかけられた側が繊細な傷つきやすい心の持つ主であれば、死という選択が頭を過るかも知れません。そして、最期の「予選敗退でーす」には、それが架空の競争であるからこそ、‘敗退’という表現には、相手に惨めな思いをさせたいという意地の悪い願望が滲み出ています(事実ではないだけ、悪意が明白・・・)この言葉を聞いた側は、実際に敗北したわけでもないにも拘わらず、自らに向けられた悪意に打ちのめされてしまうのです。

 以上に述べましたように、同発言には、虐める側の心理的な特徴がよく現れています。(1)他者を下げることによる自己優越感、(2)排除願望、(3)嗜虐性、(4)悪意などです。これらの悪意のある言葉を他者に向けて発することが、言論の自由によって保障されるべきか、と申しますと、そうではないように思えます。あらゆる自由には、‘他者を害しない範囲’という限界があるからです。つまり、利己的他害性は悪ですので、直接に他者の身体を傷つけるものではなくとも、言葉による暴力には他害性が認められるのです。今般の「フワちゃん大炎上事件」にあっても、フワちゃん氏による一方的な暴言は加害行為であって、やす子氏は虐めの被害者とも言えましょう。

 そして、虐めの場が、生徒達が偶然に‘同級生’になってしまう教室と、芸能界という同業者集団という、比較的狭い世界である点も共通しています。全く接点のない他人同士であるよりも、何らかの共通性をもつ人々の間での方が、自他の境界線が曖昧となり、度を超した侵害行為が起きやすいのです。外側から見れば‘仲良しグループ’であっても、同グループ内部で深刻な虐め問題が発生しているケースも少なくありません。

 学校での虐め問題がなかなか解決を見ない現状からしますと、今般の「フワちゃん大炎上事件」では、加害者となるフワちゃん氏が批判を浴び、番組やCM等が降板となると共に、芸能活動を休止するに至っています。言い換えますと加害者側に制裁、あるいは、ペナルティーが科せられたのです。この成り行きは、学校での虐め問題に少なくない影響を与えるかもしれません。何故ならば、今日における虐め問題に対する学校側の対応は、被害者のサポートに務めても、加害者側には極めて甘いからです。何らのお咎めを受けることもなく、どこ吹く風で卒業してゆく加害者側の生徒や学生も珍しくはありません。

 こうした中、今般の一件は、他者に対して死を勧めるような言葉の暴力が、社会的な制裁の対象となる事例を子供達の目の前に示すこととなりました。虐めの現場では、‘死ね’とか、‘死んでくれ’といった酷い言葉が日常的に飛び交うのですが、こうした言葉を口にしている加害側の生徒や学生は、他者に対して心理的にダメージを与える発言が罰の対象であることに気がつくことでしょう。罪の自覚は重要です。そして、同調圧力に屈して‘苛めっ子’の言いなりになってきた他の生徒や学生達も、虐めへの加担を悪として理解し、今後は自制するかもしれません。加害者から周囲の人々が離れてゆくのです。このように考えますと、虐めをなくすという意味において、今般の「フワちゃん大炎上事件」には一定の教育効果があったのではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『羅生門』からフワちゃん炎上問題を語るとしたら

2024年08月12日 10時00分12秒 | 社会
 目下、タレントとして活躍してきたフワちゃん氏が、お笑い芸人であるやす子氏のXへのポストを引用する形でリポストしたコメントが、大炎上を起こしているそうです。批判を浴びることとなった言葉とは、やす子氏の「オリンピック 生きているだけで偉いので皆 優勝でーす」に対して投稿された、「おまえは偉くないので、 死んでくださーい 予選敗退でーす」というものです。

 この言葉、小中高等学校で起きている生徒や学生による自殺が虐めによるものが少なくない現状からしますと、あまりにも冷酷で悪意を含む言葉でもあります。自ら死を選んだ子供達の多くは、同級生達から‘死んでください’とか‘死ねばよい’といった心ない言葉を浴びせられてきたからです。軽い気持ちの発言であったとしても、言われた本人の精神的なダメージは相当です。しかも、自ら手を下すことなく相手に対して死を求めたり、相手の不幸を喜ぶような表現なのですから、どこか陰湿な底意地の悪さが感じられるのです。

 刑法上の自殺教唆や侮辱の罪にも当たりかねませんので、フワちゃん氏に批判が集中するのも当然なのですが、中には、フワちゃん氏に対して擁護的な発言も見受けられます。“やす子氏を自らに見立てた虐められた側の復讐心の現れ”とする、これもまた意地の悪いフワちゃん氏を暗にサポートする意見もありますが、ネット上には、芥川龍之介の名作『羅生門』を引き合いに出しつつ、フワちゃん氏を批判する人々を「義務教育の敗北」として嘆くネット記事もあります(SPA!Web記事)。教科書にも掲載されている同作品から、フワちゃん氏を「叩く」人々は学んでいないというのです。

 同記事は、[貧困東大生・布施川天馬]氏のよって執筆されています(ペンネームではないかと推測・・・)。それでは、『羅生門』から何を学んでいないのか、と申しますと、筆者の言葉を借りますと「人間は、たった一つの安易なきっかけで悪にも善にも染まる移ろいやすい生き物だ」ということなそうです。しかしながら、『羅生門』には、別の解釈も成り立つように思えます。少なくとも、今般の大炎上とは、いささか状況の設定に違いあります。

 第一の相違点は、羅生門にて老婆から髪の毛を抜かれている遺骸は、皆、悪人のものとして設定されています。それ故に、老婆の‘言い分’は、‘悪人に対して悪さをしても当の悪人も許すに違いない‘というものとなるのです。ところが、フワちゃん氏の炎上事件では、やす子氏は、’悪人‘ではありません。むしろ、Xに投稿された博愛主義的な投稿内容からしますと、’善人ポジション‘にあります。この構図ですと、『羅生門』とは違い、善人に対して悪を為していることとなるのです。
 
 第二の相違点は、老婆の言い訳を聞いた下人も、善人はおろか、一般の人々から物を盗ったわけではない点です。あくまでも、老婆も自らの弱い心に負けた‘悪人’であったとする認識の元で、‘悪人’の着物を奪っているのです。言い換えますと、悪人が悪人に対して悪事を働いても許される、と言う論理の範囲内での行動であり、その後、‘行方知れず’となった下人が、善人を含む一般の人々に危害を加える‘本物の強盗’になったかどうかは、分からないのです(被害者はあくまでも‘悪人’・・・)。フワちゃんの大炎上事件についても、批判した人々が、今後、自らも正真正銘の悪人となって、他者に対して‘死んでくださーい’と言い放つようになるとは思えません。健全なる正義感からの批判であれば、悪人に転落するはずもないのです。

 以上に述べた違いを踏まえますと、『羅生門』が語っているのは、人間の善性と悪性との境界の曖昧さ、あるいは、容易に悪に陥りやすい本性と言うよりも、‘悪’に直面したときに内面に生じる懲罰的な感情としての‘善’と、それを自らの悪行の言い訳としたい私的欲望としての‘悪’との葛藤なのかも知れません。自らの生命をも危ぶまれる極限状態にあっては、時にして後者が優ってしまうこともあり言えるという・・・。つまり、『羅生門』における‘悪’への転落は極めて限定的なのです。そして、もう一つ、教訓めいたものが『羅生門』に秘められているとしますと、それは、‘自らが主張する論理が自らを滅ぼすこともある‘ということではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

LGBTQに隠れた目的とは?―パリオリンピック開会式の先にあるもの

2024年08月01日 09時59分40秒 | 社会
 日本国政府を始め、各国とも、ここ数年来、LGBTQ運動に踊らされてきました。同運動が掲げる‘大義’は、‘差別をなくそう’という誰もが否定しがたい標語なのですが、その背後に、マネー・パワーを牛耳る世界権力の意図が隠されていることは、これも誰もが薄々と気がついてきていることです。そもそも、世界権力によるグローバルな誘導がなければ、全世界で同一の用語を用いた社会改革運動が起きるはずもないのですから。それでは、LGBTQ運動の先には、どのような世界が待ち構えているのでしょうか。

 非合法的な権力とも言える世界権力が目指している究極的な目的が自らによる‘人類支配’であるとしますと、LGBTQ運動も、この文脈にあって理解されるべきこととなります。そこで推測されるのは、ターゲットは、婚姻制度、とりわけ一夫一婦制ではないか、というものです。このように推測する理由は、そもそも奴隷は、奴隷主の所有物であり、その管理の下にある奴隷には、婚姻の自由がない、あるいは、著しく制限されてきた歴史があります。そして、何よりも、一夫一婦制は、夫婦間の相互愛が培われ、子供達が無償の愛を受けて育ち、家族が愛情を絆として助け合う幸せな家庭の基盤でもあるからです(このため、両親、あるいは、父母の一方しかいない子どもたちの場合には、愛情不足を補うために他の周囲の人々が配慮する・・・)。

 確かに、キリスト教諸国をはじめとしてLGBTQの人々を罪人とする社会的慣習が根付いてきた諸国にありましては、同運動は、あらゆる理不尽な差別の撲滅という意味において‘正しい主張’のようにも見えます。個人の自己認識に基づくLGBTQが、刑法の適用を受けるような犯罪とは言いがたいからです。その一方で、おそらくLGBTQが社会的に忌避される傾向にあった理由は、一夫一婦制という家族制を健全な家族の基準としますと、この存在は、同規範的なモデルに対する脅威あるいは破壊要因となったからなのでしょう。今日にあっても、‘同性同士の婚姻を認めるべきか否か’という問題が常に議論を呼ぶのは、同家族モデルから逸脱してしまうからなのでしょう。もっとも、同性婚肯定派の人々にあっても、養子であれ、代理母であれ、何であれ、一家族として子を養育する場合には、カップルに両親役を想定しているのは、興味深いところです。それが生物学上の両性ではなくともLGBTQが一夫一婦制の家族像の枠内にあれば、家族制度に対する破壊的な作用としての働きは微弱であるのかも知れません(ただし、LGBTQ夫妻と“親子関係”にある子への影響については、精神医学や心理学におけるデータが不十分である以上、現状では判断できない・・・)。

 世界権力のマネー・パワーの後押しでLGBTQに対す差別が解消されるとしますと、次なる差別解消の要求は、一夫一婦制に向かうかも知れません。何故ならば、そもそも、性差が一切考慮されない、あるいは、性差そのものが差別となるのであれば、婚姻という制度も存続できなくなるからです。戸籍等の出生時の登録にあって性別の記載が差別ともなれば、男女の両性の存在を前提とした婚姻という制度そのものも成り立たなくなります。つまり、一夫一婦制という制度そのものが差別的な制度となり、その廃止が主張されるかも知れないのです。馬鹿馬鹿しく聞えるかも知れませんが、パリオリンピック開会式の様子からしますと、世界権力は、そこまで考えているようにも思えてきます。

 婚姻制度が消滅した人類社会を想像するのに参考となるのは、動物たちの世界であるのかも知れません。人類に最も近い動物は類人猿なのですが、類人猿では、‘一夫多妻制’が多々見られます。否、一夫多妻制と言うよりは、群れにあって‘主’となるボス猿による雌猿達の独占なのかもしれません。そして、仮に人類にあって同状態を受け入れる、あるいは、歓迎する人々か存在するとすれば、それは、今日の法律では禁じられながら、古来の伝統的な慣習を継承してきたユダヤ人かイスラム教徒といった一夫多妻制を認める人々となりましょう。しかも、飛び抜けて富裕な。何故ならば、経済力があれば、一人だけでも何人でも扶養することが出来るからです。この点からしますと、一夫多妻制の主張は、それが少子化対策の文脈であったとしても、複数の女性や家族を養うことが出来るほどの財力を有する人々、即ち、世界権力のための発言であったとも推測されるのです。

 家庭というものが社会にあって私的な空間にして自立的な構成単位であり、かつ、無償の愛が人としての慈しみや思いやり心を育てるとしますと、一夫一婦制の婚姻制度の存在は、世界権力の目指す人類支配の目的にとりましては破壊すべき障害となりましょう。それ故に、LGBTQ運動とは、同目的を達成するための前段階なのではないかと、強く疑うのです(つづく)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

疑われる理由を考えるべき-疑惑提起への適切な対応

2024年06月10日 10時36分53秒 | 社会
 一般の社会にあっても、疑いを提起しただけなのにも拘わらず、感情的な拒絶反応が返ってくることがあります。その大半は、‘疑われるのは侮辱である’、‘私を信じないのですか’、あるいは、‘このような疑いを持つとは、あなたを見損なった’といった反応であり、悪いのは、一方的に‘疑った側’ということにされます。一方が疑いを投げかけた途端、対立関係、もしくは、あたかも“加害者”と“被害者”があるかのような関係に転じてしまい、これまで良好であった人間関係が完全に崩壊することも珍しくはないのです。それでは、疑いの提起は、疑う側のみに非があるのでしょうか。この問題、所謂‘陰謀論’による疑惑封じにも通じています。

 確かに、大抵は何らかの‘よろしからぬこと’をめぐるものなのですが、自らが他者から疑われることは、不愉快なことです。ですから、疑惑の提起が、提起された側の負の感情を引き出すことは理解に難くはありません。とりわけ、それが、根も葉もない事実無根の事柄であれば、なおさらのことでしょう。また、疑う側も、疑惑の提起に伴うリスクを認識しています。日本社会は信頼社会とも称されていますので、不信感の表明は関係性を壊しかねないと共に、提起した疑惑が間違っていれば、自らの信頼性をも損ないかねないからです。それ故に、疑いの提起に慎重になるのですが、この‘疑う’という心の働きは、事柄の重要性に差こそあれ、誰もが日常的に行なう精神活動であり、自らの安全を護るためにも不可欠とされます。このため、懐疑を否定する言動には、幾つかの問題点があるように思えます。

 まず、その疑いが事実であった場合です。この場合、疑われた側が、素直に事実として認めるとは限りません。むしろ、他者からの疑いの提起は、事実を突きつけられたことでもありますので、それが‘よろしからぬこと’であれば、保身的な動機からその事実を否認することでしょう。さらには、事実そのものの否定のみならず、‘疑われたという事実’までも消すために、疑うという行為そのものを否定しようとするかもしれません。また、‘攻撃は最大の防御手段’とも言われますように、疑いを提起した側を非難し、責め立てるという反応もありましょう。何れにしましても、事実であった場合の方が、余程、激しい否定的な反応が返ってくるのです。

 それでは、事実ではない場合はどうでしょうか。この場合は、疑惑の提起を受けた側がそれを否定するのは当然の反応です。むしろ、最初の反応は、怒りよりも、思いもよらぬ事を聞かされた驚きかも知れません。そして、一端、心が冷静さを取り戻しますと、何故、こうした自らに対する疑惑が生じたのか、その原因や疑うに至るプロセスを知ろうとする人の方が多いのではないでしょうか。‘誰から、何処で、何時、聞いたのですか’など、疑問点を聞き返すなど、疑惑の根拠を尋ねるかもしれません。そして、詳しい内容を知った上、これらの情報を否定し、同疑惑を払拭しようとすることでしょう。この証明のために、あらゆる証拠を示そうとするかもしれません。この結果として、疑惑を提起された側の怒りの対象は、提起した本人ではなく、疑惑を呼ぶような虚偽の発言をしたり、偽情報を発信した第三者に向かいます。あるいは、疑惑の原因が、‘誤解’を生じさせるに足る本人の言動や当時の状況にあるのであれば、これらの誤解が解ければ同時に疑惑も消え去るのです。疑惑が生じた理由やプロセスが明らかとなれば、疑惑の提起を受けた側も、同疑惑には、それなりの合理的な根拠があることを理解することでしょう。疑惑を抱くに十分な根拠が存在することが分かれば、無碍には疑惑を提起した人を批判できなくもなります。

 以上に述べたように、反射的な否定反応は、事実であった場合でも虚偽であった場合でもともに起きますので、疑惑を提起した側にとりましては、最初は、どちらであるのか判然としません。しかしながら、その後に続く反応によっては、それが、事実であるのか事実ではないのか、大凡は判別できるようになるかも知れません。後者の場合には、疑惑を提起された側も、自らの潔白のために事実を明らかにしようとするからです。事実ではないことが証明されれば、疑惑が晴れるのです。その一方で、一方的に疑惑の提起を拒絶したり、封じようたり、あるいは、事実を解明しようとしない場合には、限りなく怪しいと言うことになりましょう(疑惑は事実であった・・・)。

 今日、信頼社会とされてきた日本社会にあって、むしろ、信頼性の尊重が悪用されてしまうケースが目立つようになりました。疑うことが不道徳と見なされる嫌いもありましたが、内心において疑いながら、それを表に出さずに現状を黙認していますと、本人のみならず、社会全体の安全性が損なわれる事例も少なくありません。民間レベルのみならず、国家レベルでも、国民が政府を信頼した結果、同調圧力の下でワクチン禍が拡大してしまいました。そして、‘陰謀論’による懐疑心や言論の封殺をはじめ、政府やマスメディア等による一方的かつ全面的に否定しようとする態度は、指摘された疑惑が事実である可能性を否が応でも高めているのです。

 それでは、疑惑が提起された場合、どのように対応すべきなのでしょうか。最も適切な対応とは、懐疑心を正当かつ自然な精神活動とした上で、それが事実であろうとなかろうと、あらゆる疑惑に対しては、感情的に反発するのではなく、事実解明を第一とすべきと言うことになりましょう。同方法を解決の基本原則としますと、陰謀論であれ、何であれ、他者の懐疑心を否定したり、事実解明を拒むことは、自ら事実であることを認めたと見なされても致し方ないのではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伝統宗教と新興宗教を区別する基準とは

2024年06月06日 12時30分56秒 | 社会
 先祖代々人々が信仰してきたり、氏子や檀家となってきた神道、仏教並びにキリスト教と言った伝統宗教団体と、近代に至って設立された新興宗教団は、今日、両者とも法的には宗教法人として一括りにされています。天理教が神道、創価学会が日蓮宗、元統一教会がプロテスタント、幸福の科学が仏教というように、後者の大半が、前者を母体として派生しているため、両者の間に教義や組織において共通性や連続性があるという事情にも起因しているのでしょう。このため、後者が信者からお布施や奉納金を集める集金マシーンと化し、また、神や仏を拝むのではなく、教祖を崇拝の対象とするパーソナル・カルト化しても、宗教法人として前者と等しく手厚い保護を受けてきたのです。

 宗教法人に対する最大の保護措置の最たるものが、納税義務の免除です。上述したように、集金マシーン化した新興宗教団体には、信者からの定期的なお布施や奉納金により、莫大な収入が転がり込んできます。こうした集金のみならず、元統一教会の霊感商法や創価ビジネスのように、幅広く利潤が生じる事業を展開している場合には、その資金力は膨大な額となります。創価学会の名誉会長であり、教祖の地位にあった故池田大作氏に至っては、個人資産が数兆円にも上るとの噂も絶えませんでした。母体となった宗教や宗派の多くが、心の安らぎや精神の豊かさに価値を置き、金銭欲や名誉欲を含め人間の欲の抑制を説いたのとは真逆に、これらの新興宗教団体は、非信者の人々の目からしますと、拝金主義を疑う程に世俗の欲にまみれているように映るのです。

 その一方で、伝統宗教の方を見てみますと、京都、奈良、鎌倉といった、拝観料の収入が期待できる観光地にある寺社仏閣を例外とすれば、財政難に苦しむ神社やお寺は少なくありません。人口規模の小さな集落や村落などでは、既に廃寺となったり、朽ちるに任せられているお宮も散見されます。氏子や檀家数の減少やお布施や寄進等の低額化なども影響しているのでしょうが(戒名を授かるにも相当額を要した時代も・・・)、金満体質に浸かっている新興宗教団体とは対照的に、伝統宗教に属する宗教法人の多くは、自らの存続さえ危ぶまれるほどの財務状況にあるのです。

 このように、法的には同じく‘宗教法人’であったとしても、新興宗教団体と伝統宗教の置かれている状況には雲泥の差があります。それにも拘わらず、一律に税免除の特権を受けられるというのでは、多くの国民が納得しないことでしょう。これでは、貧者救済を隠れ蓑とした富者優遇策となります。そこで、重要となるのは、両者の線引きの基準を何処に置くのか、という問題です。常々、両者は区別できないから一律に扱わざるを得ないと説明されてきたからです。しかしながら、フランスやベルギー等にあって反セクト法が制定されているように、両者の間の区別が不可能であるとは言えないはずです。

 そこで、先ずもって指摘されているのが、宗教施設の開放性です。寺社仏閣やキリスト教の教会にあっては、何れも、非信者の人々に施設が公開されています。氏子や檀家ではなくとも、誰もが自由に境内に入り、そこでお祀りされている神様や仏様を拝むことができます。その一方で、新興宗教団体の施設は、実に閉鎖的です。全国の街角で目にする新興宗教団体の施設は、その教団に属する信者しか立ち入ることができません。この閉鎖性が、新興宗教団体の秘密主義を象徴しており、現代における‘秘密結社’と言うダークなイメージを与えているのです。一般の非信者の人々が、‘隠すべきことがある’と推測する根拠を与えるからです。

 新興宗教団体の閉鎖的な秘密主義という特徴は、信者の秘匿性という第二の基準を導きます。神社であれ、お寺であれ、伝統宗教団体に属する人々は、自らが所属していることを隠したりはしません。ところが、新興宗教団体の信者の人々は、マスメディアにあって宣伝塔を務めている少数の芸能人等を除いて、自らが信者であることを隠すケースがほとんどです。いわば、現代における‘隠れ教徒’の如くであり、信者であることを他者に知られることなく、教団の指示に従って組織的に行動しているのです。この隠密的な信者達の組織的行動は、一般の人々から警戒されてしかるべき理由となりますし、伝統宗教から区別される固有の特徴となります。一般社会にあって、誰が新興宗教の信者であるのか分からない状態は、それが巨大組織であるだけに、一般の人々にとりましては、疑心暗鬼となり、どこにどのような罠が潜んでいるかわからない状態とも言えましょう。

 そして、第三に挙げるべき区別の基準は、新興宗教団体には‘聖職者’が存在していないことです。神社には神職がおりますし、お寺には、僧侶という職があります。キリスト教でも、教会には司祭や牧師さんがおり、何れであれ、各自が聖典や教義に照らしながら神や仏の教えを伝える役割を担っています。一方、新興宗教団体には、教祖の下に教団の組織運営に携わる‘職員’はいても、独立的な職としての聖職者が見当たらないのです。

 以上に主要な基準について述べてきましたが、こうした新興宗教を伝統宗教から区別する諸基準の設定は、今やマネー・パワーをもって政治にまで浸透する新興宗教法人に対する課税を可能とすることでしょう。そして、これらの特徴は、実のところ、新興宗教団体の真の設立目的に関する疑いをも投げかけます。特徴的に観察される閉鎖性、秘密主義、独裁的組織形態は、これらの団体が、動員要員のリクルートであり、世界権力による支配構造の一部であるとする疑いを、否が応でも強めるのです。暴力革命を起こした共産党と同様に、短期間に多数の信者を獲得するには、相当の資金を要するはずであるからです。新興宗教団体の問題は、信者のみならず、非信者、即ち、一般の国民にとりましても、今や、早急に対処すべき重要問題なのではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

AI精神転送は降霊術に

2024年05月14日 11時50分50秒 | 社会
 AI技術を用いた死後における精神転送については、霊魂の在・不在の問題と切り離すことが出来ないという難問が立ちはだかっています。霊魂が存在すれば、魂は、天国もしくは地獄に向かうか、浮遊するか、あるいは、消滅してしまいますので、首尾良くAIに自らの意思を移行させられるとは限りません。また、魂が存在しないとすれば、たとえ精密に転送を希望する当人の脳の電子回路を再現させたとしても、同AI自体が自我を持ってしまう可能性もあるからです。そして、もう一つ、魂の存在に関連する問題として挙げられるのが、精神転送に成功したとしても、それは、必ずしもAIの技術に因るものではない可能性です。

 古来、日本国では、死者の魂の依り代という考え方がありました。神道にあっては白木で御霊璽を、仏教にあっては漆塗りの御位牌をつくるのも、この死生観に基づいています。例えば、神道では、人が亡くなりますとその魂は日の若宮にゆきますが、残された家族や子孫を見守るため、あるいは、時々、様子を見に現世に戻ってくると考えられています。その時、魂が宿る依り代となるのが、故人の神名を記した御霊璽とされるのです。また、依り代が人となる場合もあります。よく知られているのが、青森県の恐山のいたこの人々であり、高い霊能力を身につけたいたこの人々は、亡くなった人の霊を呼び寄せて、自らに憑依させることで、死せる人々が生ける人々と会話することができるのです。

 科学技術が発展した時代にあっては、魂や神などに関する伝統的な考え方は非合理的な迷信と見なされがちですが、近現代の科学者の中には、真剣に魂の存在と向き合った人も少なくありません。アイザック・ニュートンは、最期には神の存在証明に傾倒してきましたし、有人飛行の可能な飛行機を初めて設計し、脳の構造を解明し、さらにはニューロンの存在をも予測した知の巨人、エマヌエル・スウェーデンボルクも、天界に関する研究を行なっています。発明王と称されるトーマス・エジソンも、エネルギーとしての魂の永遠性を信じ、死者と交信し得る装置の発明に取り組んだとされます。今日、物理学の最先端ともされる量子論が魂の存在性の問題に急速に接近しているように、両者は真っ向から対立しているように見えながら、その実、科学とオカルトは紙一重であるとも言えましょう。

 さて、現代におけるAIによる精神転生は、デジタル時代の近未来技術としてその実現が待望されています。テクノロジーが、遂に不老不死という、秦の始皇帝をはじめ、古来、永遠の支配を欲する権力者が熱望してきた願望を実現するという文脈なのですが(今日では、大富豪・・・)、自己意識の移転や継続性は、霊魂の問題が絡まってきますので、見方によっては、エジソンの降霊装置の焼き直しとも言えます。それが木片であれ、精密な機械であれ、何であれ、死者の霊、あるいは、人の意識が宿るという現象においては変わりがないからです。

 このように考えますと、精神転送の開発に血眼となっている大富豪は、死後に恐山で呼び出してもらうか、能力が高いとされる霊媒者を高給を以て雇用しておいた方が、自らの意思を生きている人々に伝達できる可能性が高いと言えましょう。何故ならば、仮に魂が存在するならば、敢えて自らの脳内の電気回路を再現する必要はないからです。つまり、霊魂は、他者である霊媒師の電気回路、すなわち、口を借りることができるのですから。その時語られる大富豪の霊界における居場所は、果たして天国なのでしょうか、それとも、地獄なのでしょうか。あるいは、霊媒師は、必至になって降霊を試みた末に、この人の魂は既に消えている!と告げるのでしょうか。大変、興味深いところなのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

AIと魂存在論の問題-精神転送のハードル

2024年05月13日 10時14分26秒 | 社会
 ディープラーニングの登場により、マスメディアでは、近未来におけるAI時代の幕開けを予測するようになりました。AIが人間の知性を越えるシンギュラリティーの到来も現実味を帯びており、死後にAIに自らの意思を移行させるための精神転送の技術の開発も進んでいます。しかしながら、この試みには未解明の問題が横たわる故に、必ずしも成功するとは限らないように思えます。

 自らの意識をAIに移行させるというプロジェクトは、その目的を推察しますと、自己の永遠性を欲する富裕層の願望に応えたものなのでしょう。何故ならば、全ての人々が同技術を用いるとすれば、それは最早人類社会ではなく、事実上の人類の滅亡を意味するからです。地球上に、過去に生命体としての身体を有していた100億余りのAIが並んでいる光景は、あたかも荒涼とした墓場のようです。あるいは、地球の未来では、過去に生きた人々の意思を転送させたロボット達が自らを修理しながら永遠に動き続けているのでしょうか。全人類精神転送のヴィジョンあまりにも非現実的ですので、精神転送は、おそらく、自らの命令一つで永遠に‘生きている人間達’を支配したい、極めて少数の独裁願望を抱く人物の夢をかなえるための技術であると推測されるのです。この夢の技術を手にするためには、自らの全財産を擲っても悔いはないのかもしれません。

 富裕層がイニシエーターであれば、巨額の研究資金も提供されているのでしょう。実際に、全世界の研究者や研究機関が開発に取り組み、マスメディアでも一定の成果が報じられています。しかしながら、実のところ、この技術の前には、まずもって解明しなければならない別の難問が立ちはだかっているように思えます。それは、魂の実在に関する未解明の問題です。

 霊魂の存在については、科学的に証明できないために、近現代では一般的には否定される傾向にありました。とりわけ唯物論の影響が強い現代では、物質現象として科学的に実証できないものは存在しないものと見なされてきたのです。その一方で、古今東西を問わず、現代の科学のレベルでは説明できない不可思議な現象も、数多く観察されてきました。巷では幽霊を目撃しり、臨死体験をしたとするようなお話に溢れており、自らの経験によって霊魂を信じる人も少なくないのです。むしろ、科学の最前線を行く近年の量子論の発展は、霊魂否定論への流れを実在論の方向へ押し戻している観があります。何れにしましても、霊魂の存在については、誰もが納得する結論には達していないのが現状と言えましょう。

 生命科学と量子論との統合的なアプローチにより、近い将来において霊魂の存在論争に終止符が打たれる可能性もあるのですが、AIの研究は、脳の構造解明から始まっています。最先端の精神転送のアプローチの一つは、本人の脳と全く同様の電子回路をスーパーコンピューターを使って再現するというものなそうです(因みに、Blue Brainと称される研究が、IBMとスイス連邦工科大学ローザンヌ校との共同プロジェクトとして行なわれている・・・)。AIが人工的に造られた‘脳’となりますと、ここに、霊魂問題が立ち現れることとなります。霊魂が存在するにしても、しないにしても、何れにしても以下のような結末が予測されるからです。

 先ずは、霊魂が存在すると仮定してみることしましょう。この場合、霊魂は、死後に自らの意思あるいは心のAIへの転送を希望していた人物は、生物としての死を迎えた瞬間に身体を離れることとなります。利己的な支配欲から同技術の開発を急いだ人物が‘善人’とは思えませんので、その魂の行く先は‘地獄’であるかもしれません。あるいは、『死者の書』が記すように、魂の消滅ということもあり得ましょう(無神論者であるというよりも、自らが行なってきた悪行から魂の消滅を予測しているからこそ、死後も自らの魂を生き延びさせようと考えたとも・・・)。何れにしましても、霊魂が実在した場合、同人物の浮遊した魂は必ずしも移転先に予定されていたAIに無事に着地して宿るとは限らず、同AIは何らの反応をも示すこともなく止まったままである可能性の方が高いのです。

 次に、霊魂が存在しないと仮定してみます。こちらのケースでも、計画通りに自我(精神)が転送されるとは限りません。何故ならば、仮に脳というものが人工的に造られた電子回路によって再現できるのであれば、AI自身が自我を持つことがあり得るからです。この可能性については専門家でも意見が分かれるそうですが、唯物論に忠実に従えば、科学技術の発展はその可能性を肯定することでしょう。このことは、ある人物が、自らの意思の移住先として自らの脳構造をそっくりそのまま複製したAIを造らせたとしても、同AIは自分自身の自我を持ってしまいますので、行く先を失うのです。言い換えますと、ある人物の存命中にAIが完成し、試運転としてスイッチを押した瞬間に、ある人物とAIという思考パターンを同じくする二つの‘自我’が出現してしまうのです。すなわち、AIは、ある人物が、生きていようと死んでいようと、ある人物の思考パターンを“計算”して再現するマシーンでしか過ぎないのです。なお、唯物論者であれば、物質としての身体の消滅と共にその電気反応に過ぎない魂も消えるとするのが、‘正論’と言えましょう。

 近年、生成AIの出現にも見られるように、AIの技術的発展は目を見張るばかりです。しかしながら、人類は、自らについては何も知らないに等しいように思えます。生命の発生自体も解明されていないのですから。無知の知はソクラテスの説くところですが、魂や心というものの存在に関する探求や考察を欠いたテクノロジーの開発は、時間、労力、並びに費用の膨大なる無駄となるばかりか、人類を、常に悪用の危機に晒すのではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新興宗教団体への入信は魂を失うこと?-宗教の逆機能

2024年05月10日 10時49分52秒 | 社会
 宗教の主たる役割とは、この世にあって悩み苦しむ人々の魂を救うところにありました。如何に汚れた世の中であり、自らが悲惨な境遇に置かれていたとしても、神や仏の御心に従って誠実に清く正しく生きていれば、死してその魂は必ずや天国や極楽に迎え入れられるとする信念が、人々の心に安らぎと救いを与えてきたとも言えましょう。また、逆に、この世で栄華を極めたり、支配者として君臨した人でも、神や仏の教えに背き、悪事に手を染めたり、他者の命を粗末にしたり、それが何であれ、他者に属するものを奪い取るような人は、地獄に落ちるとされたのです。古今東西を問わず、人類が共通して天国と地獄という存在を想定するようになったのか、これもまことに不思議なことなのですが、ここで注目すべきことは、宗教では、天国や極楽浄土のみならず、地獄という存在が、善悪の区別と一致する形で観念されていることです。

 一般的には、天界とは、善人の魂が美しい光景の中で穏やかに心地よく過ごすところとされ、地獄は、天界とは逆に悪人がその罪や邪悪な心の故に責め苦に遭う場として説かれています。こうした地獄の一般的なイメージは人々を震え上がらせるのに十分なのですが、その一方で、古代エジプトのように、死後の裁きにおける、自己の魂の消滅や喪失宣告として捉えられている場合もあります。古代エジプトにおいて墓場に埋納された『死者の書』では、死後、人々はオシリスの前で審判に付され、死者の心臓を天秤にかけて一枚の白い羽と釣り合えばアアル(天国)に上ることができ、反対に重い場合、即ち、道徳規範に反した罪がある場合には、アメミットという名の怪獣に心臓を食べられてしまい、同時に魂も消滅してしまうと記されています。

 魂が永遠の存在であるならば、その消滅ほど恐ろしいものはなく、地獄絵に描かれている地獄そのものよりも、恐怖すべき罰であったのかも知れません。自分自身が消滅するのですから。もっとも、生前の罪に対する死後に受ける罰としての魂消滅論に近い考え方は、キリスト教にあっても見受けられます。それは、‘悪魔に魂を売る’という行為です。このテーマは、ゲーテの『ファウスト』でお馴染みともなったのですが、自己の利益のために道徳規範に反する行為を行なった者は、この世で自らの欲望や願望を実現することはできても、その魂は悪魔の所有となり、地獄に連れて行かれるというものです。つまり、‘魂を売る’という行為は、自らの魂を失うことを意味するのです。

 死後の世界については誰もが証明できない不可知な領域ではあるものの、宗教というものが、人々のそれ自身の魂に安寧をもたらす役割を担っているとしますと、ここで、一つの疑問が生じてきます。それは、カルト的な新興宗教への入信とは、悪魔に魂を売る行為なのではないか、というものです。元統一教会であれ、創価学会であれ、報じられるところに依りますと、その信者の人々は、人間の一人に過ぎないはずの教祖に心酔し、教団の指令に従って行動しているようです。その組織的行動は、選挙における投票行動、特定の候補者への支援活動、誘導的な消費行動、イベント等への動員、同調圧力の醸成など、様々な分野に及んでいます。理性や良心に照らして自らの意思で行動するのではなく、組織の命じるままに動いているのです。この‘組織的行動力’が、組織票を欲する政党や政治家に利用される要因なのですが、新興宗教団体は、信者という、魂、否、自己を失った人々を、現代にあって大量に出現させているとも言えましょう。全体の中に埋没し、‘自分’というものを持たない人々は、それ故に組織されやすく、政治的にも利用されやすいのです。

 個々人を天国への導きとなるはずの宗教が、組織のための組織となって自己喪失という地獄への道となりかねない現状を、新興宗教に入信した人々は、どのように考えているのでしょうか。宗教ビジネスが蔓延るように、利権に目がくらんで現世利益のために入信している人々は、まさしく、自らの魂を売っているようにも見えます。しかも、新興宗教団体には、人類支配のために世界権力によって設立された‘実行部隊’であり、日本国を含め、国家体制を全体主義や権威主義体制に追い込む装置であるとする疑いがあります(世界権力は、目指す目的と到達する結果が逆となるメビウスの輪作戦が得意であり、教団とは、これらの体制のミニ版でもある・・・)。宗教が人々の魂を救い、天界に導くのではなく、その消滅を意味するならば、新興宗教団体の存在は(設立の新旧に拘わらず、政治あるいは経済的な目的のために組織的行動する教団も同類・・・)、現世にも死後にも地獄をもたらすという意味において、宗教の逆機能ではないかと思うのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

権威の世襲を考える-王室・皇室の行方

2024年03月29日 14時30分06秒 | 社会
 未来を合理的に予測した場合、人々にとりまして善い未来を描けない場合、どのようにすべきなのか、と言う問題は、生きている間に誰もが直面するものです。時代に合わず、制度的に無理がありますと、否が応でも行き詰まりの状況に陥る可能性が高くなります。王室や皇室につきましても、重大な岐路に立たされているように思えます。それでは、世襲によって継承される王室や皇室の権威というものは、未来永劫にわたって国民に必要とされるものなのでしょうか。

 今日、全世界を見渡しますと、国家であれ、宗教団体であれ、何であれ、そのトップの地位にあって世襲制を採用する集団や組織は、極めて稀なケースとなりました。権威が成立するには、集団の全メンバーによる承認や心理的な崇敬心を要しますので、そもそも、世襲制にあって権威・維持成立の要件を満たすことは簡単ではないのです。メンバーの受容や承認を成立・維持要件とするという意味において、権威は、その本質において脆いと言えましょう。なお、株式や資産の相続により経営権を無条件で継承できますので、民間企業のほうが、余程、世襲が容易なのです(金融・経済財閥である世界権力のメンバーが、世襲である要因も継承の容易性にある・・・)。

 さて、権威について考えるに際して、先ずもってその権威の源泉について考える必要があります。この点、王室や皇室の権威とは、世襲である以上、祖先より受け継がれた‘血’ということになりましょう。しかしながら、今日という時代にあっては、‘血の正当性’がかつてほどに単純に人々から受け入れられるわけではありません。その理由は、以下のような問題点や矛盾点があるからです。

 第一に指摘し得るのは、血、即ち、特定の遺伝子が権威を正当化し得るのか、という問題です。しばしば、ナチスドイツが主張したようなアーリア系の血統を他の民族よりも優れていると主張する自民族優越主義は、今日、差別的な優生思想として批判されています。国内における権威の世襲制も、特定の血筋に属する人々に対して、他者の国民とは異なる優位性を認めるという意味においては、考え方の基本には変わりがありません。優生思想についてはヒステリックなまでに否定しながら、権威の世襲に対しては何らの疑問を抱かない態度は、そもそも矛盾しているのです。

 第二に、‘血’の優越性を以て権威が成立すると仮定するならば、‘王朝交代’を是認することにもなります。突然変異であれ、王族や皇族よりも優れた遺伝子を備えた人物が現れた場合、同人物において前者を凌ぐ権威が成立してしまうからです。むしろ、急速に発展した遺伝子工学が、‘デザイン・ベビー’として人工的に‘超人’を造り出す時代を迎えていますので、保有遺伝子の優秀性や卓越性は、科学によって新たな‘超人’に権威を与えてしまうことにもなりかねないのです(シンギュラリティーの実現によるAIによる人類支配もこの論理・・・)。

 もっとも、DNA配列が他者と然して変わらなくとも、‘建国の祖や王朝の始祖の血脈を引き継いでいればよし’とする主張もありましょう。しかしながら、代を重ねるごとに減数分裂によって権威を支える‘血’は薄まりますし、かつ、一般民間人や異民族との婚姻によりさらに‘血の正当性’は希薄化します(イギリスでは、皇太子妃はユダヤ系・・・)。第三の問題点は、世襲には、時間の経過による‘血の希薄化’が運命付けられて入れる点です(仮に、血の濃さを保とうとすれば、古代エジプト王朝やハプスブルク家のように婚姻を近親者間に限定しなければならない・・・)。

 こうした血の希薄化については、‘世代を越えてY染色体のみは男子間で確実に継承れるため、問題はない’とする反論があります。Y染色体のみが希薄化の運命から免れられるため、この主張は、男系の皇位継承の根拠ともされてきました。如何に様々な血脈が皇統に流れ込もうとも、Y染色体さえ維持されていれば、皇統は保たれるとする立場です。しかしながら、仮に皇族や皇別氏族に広がるY染色体を天皇即位資格の要件とすれば、その対象は、日本国民一般に広く拡散します。Y染色体説は、必ずしも天皇に権威者たり得る超越した地位を約束しないのです。第四の問題点は、‘血の希薄化’に対する反論としてのY染色体説は、‘血の拡散’問題を呼び起こしてしまう点です。

 そして、第五に指摘すべきは、王統や皇統の継続性は、極めて不確かで不明瞭である点です。日本国の場合、2000年を越えての神武天皇、否、皇祖皇霊から繋がる万世一系も、通い婚の慣習や戦乱の世の到来、並びに、明治維新を経た今日にあって疑わしく、これに輪をかけて皇室の秘密主義が、国民の疑いを一層深めています。加えて、世界権力やその配下にある新興宗教団体の陰も見え隠れしており(宮内庁における創価学会勢力の浸透や、韓国系の元統一教会の教祖による皇室との縁組み構想・・・)、すり替え説や教祖の子孫説等も、‘都市伝説’として切り捨てられない側面もあります。

 もちろん、たとえ万世一系が奇跡的に保たれていたとしても、いたって普通の人、さらには不道徳な人であれば、国民からの崇敬心は自然に失われてしまうのですが、現代という時代には、上記の問題点や矛盾点は無視し得ないように思えます。そして、時間が経過し、代替わりの度に、これらの問題点や矛盾点は、解消されるどころか増幅されてゆくことになりましょう。

 この状態では、国民統合の求心力とはなり得ませんし、国民にとりましては、疑心暗鬼に満ちた不安定な状態はストレスとなって精神面での健康をも損ねてしまいます。将来において持続性への望みが薄いならば、傷を深くするよりも、早期に見直しに着手した方が賢明なのではなかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

‘マルハラ’とは何なのか?

2024年03月21日 12時45分16秒 | 社会
 ‘マルハラ’という言葉を初めて目にしたとき、何を問題としたハラスメントであるのか、直ぐには頭に浮かびませんでした。‘パワハラ’のパワは‘パワー’ですし、モラハラのモラは‘モラル’ですので、どことなく想像がつくのですが、‘マルハラ’のマルが一体何を意味するのか、皆目見当がつかなかったのです。‘マルクス’?・・・。そこで、実際に関連の記事を読んで分かったのですが、マルハラの‘マル’とは、日本語の句点の‘。’なそうなのです。

 何故、マルハラという言葉が生まれた、あるいは、流布されるようになったのかと申しますと、‘。’で終わる文章に対して威圧感を感じる人が、若年層、とりわけ若い女性に多いというのがその理由です。仕事などでメッセージ・アプリを使用するに際して、上司や先輩の同僚からのメッセージの最後に‘。’が打たれていると、叱責されているようで怖いというのです。ハラスメントとは、迷惑行為や他者に対して精神的なダメージを与える行為を意味しますので、句点の‘。’も、他者に不快感を与えているのだからハラスメントに当たるというのがその言い分です。

 しかしながら、‘マルハラ’と他のハラスメントとでは、大きな違いがあるように思えます。パワハラにせよ、モラハラにせよ、パワーやモラルそのものが‘悪い’という訳ではありません。これに依拠した他者に対する行き過ぎた行為が、ハラスメントとして問題視されるのです。このため、モラハラをなくすためにはモラルをなくせば良い、という議論には決してなりません(ハラスメントが解消されるどころか、爆発的に増加されてしまう・・・)。これらのケースでは、許容範囲や一般的な常識の範囲を超えて明らかな利己的他害行為となった場合、ハラスメントと見なされるのです。

 ところが、‘。’の場合には、先ずもってハラスメントの認定に際して、合理的な根拠があって許される範囲、あるいは、限度というものが存在しません。‘。’を使うか使わないかの二者択一の問題となり、使った時点で、即、ハラスメントとされてしまうのです。このため、‘マルハラ’を社会からなくすことこそ正義、とばかりにマルハラ撲滅運動が広がるとしますと、日本語の書き方から句点をなくさなければならなくなります。

 ところが、言語は、国民の相互の意思疎通やコミュニケーション、並びに情報伝達等の手段であり、言語空間はおよそ社会空間と一致します。いわば、社会基盤とも言えるのであり、それ故に、義務教育にあっても句読点の使用を含めて国語は必修科目なのです。日本語は、日本国の公用語ですので(もっとも、当然すぎて憲法や法律によって国語として制定されているわけではない・・・)、マルハラの撲滅運動は、日本語の基礎的表記方法を‘勝手に’変えてしまうことを意味するのです。この突然の変更は、一般の日本国民が望んでいることなのでしょうか。一部の若い女性の句点に対する不快感への配慮は、他の大多数の国民が問題なく使用している自国語の表記方法を変える正当なる理由となるとは思えません。仮に変えるのであれば、国民的な議論並びにコンセンサスの形成を要しましょう。

 句点がない文章とは、読者にとりましては大変読みづらいばかりか、文の区切りが明確ではないので、誤読や誤解のリスクにも晒されます。あまりの不便さからあり得ないようにも思えるのですが、最近、SNS等におけるショート・メッセージのみならず、レポートなどでも句点のみならず読点も全く使われていない長文の文章を見るようになりました。それも、一つや二つではありません。一体、何が起きているのでしょうか。

 降って沸いたような‘マルハラ’の登場が句読点の消滅と連動しているとしますと、そこには、ポリコレやコンス普及問題にも通じるような政治的な思惑があるようにも思えてきます。ジョージ・オーウェルの『1984年』には、ニュースピークという‘新しい英語’が描かれていますが(名詞を並べるので文法的には中国語風・・・)、文章表記の変更を暗に要求するマルハラも、ハラスメント反対運動を装った社会改造計画(グレートリセット?)の一環であり、日本社会に対する隠れた工作活動なのではないかと疑うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

破壊=進歩というイルージョン

2024年03月12日 10時36分54秒 | 社会
 日本語では、芸術を表す言葉として長らく美術という表現が凡そ同義語として用いられてきました。この言葉には、‘美’という一文字が含まれており、その本質において美の追求であることが理解されます。その一方で、芸術の分野における進歩主義、即ち芸術にあっても時系列においてより新しいものに価値を見出そうとする考え方が浸透するようになると、美の破壊という本末転倒の現象も見られるようになりました。

 数年前、とある美術館にて展示してあった作品がゴミ箱に捨てられてしまった、という事件が発生しました。その理由はいたく単純であり、この作品が、展示場のフロアに置いてあったゴミにしか見えなかったからです。つまり、鑑賞に値する価値を見出せなかったから、廃棄すべきゴミと間違えられてしまったのです。もっとも、現代アートの専門家達は、前衛的な芸術表現への理解の欠如として、捨てた人の凡庸さを非難するのでしょうか・・・。

 本来、芸術とは、美術であれ、音楽であれ、書であれ、この世離れしたような美しいものを求める人々の精神に由来しています。古来、芸術家とは、それが個人的な美に対する憧憬や探究心に発し、鑑賞者となる他者の視線を意識しなくとも、霊感を意識しながら美の創造や表現に全身全霊を捧げてきた人々でした。例えば、西欧の音楽は長らく神への捧げ物とされていましたが、古代ギリシャでも、ムーサの女神達が天界から伝えたのが7層の音階であると信じられていました。そして、ムーサの女神達こそ、芸術家達にインスピレーションを与える霊感の源とされたのです。その一方で、芸術家のみならず、芸術を鑑賞する側にも、美への渇望があります。両者の求めるところが一致する場として、芸術は社会において重要な精神活動の領域として成り立ち、人々に精神的な安らぎや豊かさ、あるいは、高揚感や感動を与えてきたのでしょう。芸術が存在しない世の中とは、何と、味気ないことでしょう。

 近代に至ると、音楽を教会や宮廷から解放し、音楽家を一つの独立的な職業とした作曲家として、ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトが登場してきます。モーツアルトには根強いフリーメイソン会員説があるのですが、啓蒙思想は、神の認識を変えたのであって、その存在そのものを否定したわけではありませんでした。啓蒙の時代とは、教会組織やそれが説いてきた人間に擬性される人格神としての神が否定されたのであって、むしろ、極めて数理的な調和が成立している宇宙の存在を奇跡として捉え、その隅々に神が宿るとする汎神論や宇宙的調和を実現する唯一の存在を想定した理神論が唱えられた時代とも言えましょう。このため、近代以降にあっても、神的な美しさをこの世に伝えようとする使命感をもって作品を創り続けた芸術家も少なくないのです。天才とは、しばし、凡人では感知し得ない、天界に通じるような超越的な能力を示す人々を意味してきました。

 しかしながら、現代に至りますと、共産主義の蔓延に加え、ゾロアスター教やヒンドゥー教の‘再発見’、あるいは、ユダヤ教のフランキストなどの影響により、破壊や犠牲を進歩への必要不可欠かつ不可避なステップとする考え方が広がるようになります。冷静になって考えればカルトとでも言うべき破壊=進歩とする固定概念が浸透するにつれ、芸術の世界にあっても、美の追求は時代錯誤とされ、それ自体が否定されるべき前近代的な誤りや妄想とされてしまうのです。その結果として登場してくるのが、破壊こそが創造の源と信じる芸術家達であり、彼らは人間の破壊衝動の表現者ともなるのです。誰もが上述した現代アートの作品を、天界の美の表現であるとは思わないことでしょう。

 そして、こうした破壊=進歩とする狂気にも通じるイルージョンは、既存の国家や社会を破壊して新たな支配体制を構築したい人々にとりましては、好都合であったのでしょう。今日、世界権力が目指している新世界秩序やグレートリセットも、これらを実現するためには国民国家体系を含む既存のあらゆる秩序の徹底した破壊を要します。自らの未来ヴィジョンと共に環境、デジタル、宇宙、生命科学など、世界権力が開発を急いできた先端技術は、破壊と新たなる人類支配の手段でもあります。進歩は必ずしも否定されるものでもないのですが、それが破壊を伴う時、人類が多大な犠牲を払いつつ、叡智を尽くして築き上げてきた制度や秩序、そして善性の源や美に対する根源的な意識までが破壊の対象とされるのですから、人類は、大いに警戒しなければならないと思うのです(つづく)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする