今月6月29日、アメリカの連邦最高裁判所は、大学の入学選考に際して特定の人種を優遇するアファーマティブ・アクション政策を違憲とする判断を下しています。本日の記事では、何故、同政策が違憲とされたのか、あるいは、同政策は真に‘正しい’のか、という問題について、SDGsでも使用されている‘平等と公平の違いを説明する図’を用いて考えてみることとします。
昨今、アファーマティブ・アクション政策は、平等(Equality)と公平(Equity)との違いを以て肯定される傾向にありました。そして、これを説明するために、ある絵が使われてきました。様々なバージョンがあるのですが、概ね、背丈の違う三人の子供達がスタジアムを囲う塀の外からスポーツを観戦しようとしている図として描かれています。同図が説明すると平等とは、3人が同じ高さの踏み台に乗るケースであり、各自の背丈の違いとは無関係に三者は平等に扱われます。ところが、同じ高さの台では、塀から頭を出してスポーツを観戦できるのは、一番背の高い子供と二番目の子供の二人だけです。背丈の足りない三番目の子供だけは、スポーツ観戦を楽しむことができないのです。
ここで、平等ではなく、公平が登場してくることとなります。各自の乗る台の高さを背丈に合わせて調整すれば、全ての子供達がスポーツ観戦ができるようになるからです。つまり、同じ高さの台では塀に視界を塞がれてしまっている三番目の子供に対して、頭が塀の高さを越えるようにより高い台を提供してあげれば良いのです。
同図が説明する公平性に基づけば、三人が揃ってスポーツ観戦ができる状態となったのですから、三人とも幸せです。三人の内の誰もが不利益を受けるわけではありませんので、多くの人々がこの図による説明に納得することでしょう。小さな子供に高い踏み台を用意するのは、おもいやりのある正しい行為であると・・・。即ち、アファーマティブ・アクションを含めて不利な立場にある人を優遇する政策は、皆が共に幸せを享受することができる正しい政策であるとする結論に達するのです。
同図は、メディアなどを介して多くの人々が目にしているため、異議や異論を唱えようものなら、差別主義者のレッテルを貼られそうです。しかしながら、この図、一つの重大な見落としがあるように思えるのです。それは、現実にアファーマティブ・アクションが行なわれている場所は、絵の中にあるような皆が気楽に楽しんでスポーツ観戦ができるスタジアムではないという点です。
平等と公平を区別するための作成された図では、子供達の関係は横並びであり、お互いの間に競争や競合関係はありません。塀の高さまで背丈が達していない小さな子供を特別により高い台に載せたとしても、他の二人には何らの影響もないのです。ところが、入学や就学等で導入されているアファーマティブ・アクションのケースにおいては、三者の関係は競争的なライバル関係です。一つ、あるいは、少数の合格者枠や数少ないポストを競っているからです。こうしたケースでは、特定の人を対象に特別措置を設けますと、競争条件が‘平等’ではなくなりますので、特別待遇を受けた特定の人のみが合格、あるいは、採用されるという‘不公平’が生じるのです。
3人の間の競争関係を考慮すれば、同図においては、スタジアム内の観戦席に座れる人を一人選び出すシチュエーションとして描くべきこととなります。そして、アファーマティブ・アクションでは、不利な立場が考慮された三番目の子供のみが、唯一スタジアム内でゲームを観戦することができるのです。この結果、他の二人は、塀の外に置かれたままスタジアムに入ることはできません。この結末では、優遇条件を持たない故に排除された他の二人は、同制度を平等とも公平とも見なさないことでしょう。
なお、定員数に制限のない各種の資格試験にアファーマティブ・アクションが採用される場合にも、他者に不利益を与える場合があります。塀の高さが専門職に必要とされる知識や能力を意味するならば、これらが不足しているにも拘わらず優遇措置を受けて専門職の資格を得た人の顧客や取引先等に実害が及ぶかもしれないからです。また、優遇条件を備えていない他の受験者にとりましては、優遇制度は平等でも公平でもないのは言うまでもありません。
以上に述べてきましたように、当事者間の関係性や物事の性質の違いを無視した一面的で一方的な‘正しさの主張’には、論理的な誤りがあるように思えます。当事者の間の関係が非競争的であり、かつ、対象が誰にでも開放性のある状況下と、当事者間の関係が競争的であり、かつ、選抜や選考を要する閉鎖的な状況とでは、明らかな違いがあるからです。両者を同一視することはできないにも拘わらず、リベラリ派の人々は、両者を巧妙に混同することで、自らの都合のよい方向に平等原則を外す口実としているようにも見えるのです(偽善的な詭弁なのでは・・・)。仮に過去の奴隷制度や奴隷貿易に起因して不利益を被っている人々に対して何らかの政策的な措置を要するならば、誰もが不利益を受けない別の方法を考えるべきではないかと思うのです。