ここ数日、中国の大手不動産である中国恒大集団の株価の値動きが全世界の注目を集めています。それもそのはず、総額で33兆円を超えるともされる莫大な債務を抱えている同社が利払いに行き詰れば、デフォルトの事態も予測されるからです。しかも、リーマンショック時におけるリーマンブラザーズ社と同様に、同社は、中国の不動産バブルの象徴でもあります。近年、中国の不動産価格は一般市民の手の届く範囲を遥かに超えており、広東省深圳市に至っては平均年収の凡そ58倍に跳ね上がっているそうです。中国のシリコンバレーとも称される深圳市ですので、IT富豪や高所得エリート社員等が居住しているのでしょうが、都市部への不動産投資の集中は、投資ではなく’投機’によるバブルの状況を呈していたのです。
そして、恒大集団問題の背景の一つとして、習近平国家主席が唱え始めた「共同富裕論」が指摘されています。貧富の格差拡大が留まるところを知らない中国では、大多数の国民が不動産価格の高騰を含めて現状に不満を抱いており、それが、何時、共産党批判へと向かうか分からないからです。つまり、政治介入によるバブル崩壊の足音が聞こえてきていると言えましょう。
それでは、中国の不動産バブルとその崩壊は、日本国にも波及するのでしょうか。先ずもって、近年の中国の不動産バブルは、日本国内の不動産市場にも及んでいるようです。例えば、長引く不景気によって売れ行きが鈍っていた首都圏のタワーマンションや高級マンションの空き室の多くが、海外資産として中国人富裕層によって購入されているそうです。また、コロナ禍にあっては、移動規制によって観光客が減少した観光地が狙われており、京都の老舗旅館や町家、並びに、熱海等の温泉地などの多くが、中国人の手に渡ったとされています。大挙して押し寄せてきた中国人観光客は激減しても、マネーは国境をたやすく越えますので、日本の不動産市場にも中国の不動産バブルが押し寄せていたと言えましょう。
中国不動産バブルが日本国内にも波及していたとしますと、同バブルが崩壊した場合、当然に、日本国内にも影響が及ぶはずです。中国人富裕層によって買われていたマンション等には売却の動きが広がるとも予測され、都市部を中心にマンション価格も下落傾向に転じることでしょう。そして、観光地において買い漁られていた宿泊施設や温泉地なども、手放さざるを得なくなるかもしれません。もっとも、こうした影響は、日本国民からしますと、入手しやすいレベルまで不動産価格が下がることを意味しますし、日本らしさが資源となる観光地の保全にとりましても、旧経営者による安値による買戻し、あるいは、日本人事業者による購入のチャンスともなりましょう。
その一方で、中国の不動産市場に投資を行ってきた日本の金融機関は、戦々恐々とならざるを得ないかもしれません。先ずもって恒大集団の破綻問題で明るみになったのは、GPIFによる同社の株式保有です。運用額としては凡そ96億円程度とされていますが、日本国民の命綱である年金基金が中国企業をも投資先としていたことは、多くの国民にとりましては寝耳に水ではあったことでしょう。GPIFの判断の是非については今後議論すべき課題となりますものの、同社が破綻すれば、当然にGPIFの損失となります(日本国民の損失でもある…)。加えて、投機目的で中国の不動産バブルに’参加’していた日本国の民間金融機関があれば、中国の金融機関ほどではないにせよ、バブル崩壊による損失を被ることになります(不良債権問題の発生…)。なお、中国発の世界恐慌の再来も懸念されていますが、日本国内の一般企業にまで及ぶ連鎖的なマイナス影響については、日本の金融機関による対中投資額、諸外国の金融機関が被る損失、バブル崩壊後の中国経済の下落レベルなどによって、違ってくることでしょう。
これまでのところ、恒大集団は利払い期限を延期するなど、軟着陸を目指す様子を見せており、株価も持ち直しを見せています。もっとも、急落の直前には、投資家による逃避の時間稼ぎのために安心材料が報じられるとの指摘もあり、楽観視はできない状況にあります。言い換えますと、日本国もまた、中国マネーの国内不動産市場への流入、並びに、日本の金融機関による対中投資によって、それが、プラスであれ、マイナスであれ、バブル崩壊の影響を受けざるを得ないこととなりましょう。
なお、ここで若干、注意を要する点は、中国における不動産バブルの主役が金融機関ではなく不動産会社である上に、バブル崩壊の‘下手人’が国家主席である点です。この側面は、日本のバブル崩壊とも、リーマンショックとも異なっているのですが、先日、ロイター?配信の記事にあって(配信元の記憶が定かではありません…)、恒大集団に対して不動産の引き渡しを要求しているものがありました。誰が要求しているのか、といった点に関する詳細な説明はなかったのですが、不動産取引に際する融資には、通常、抵当権が付されます。このことは、恒大集団の破綻に伴って、土地の‘所有権の大移動’が発生する可能性を示唆しています(中国の場合は、正しくは土地の所有権ではなく使用権…)。果たして、中国の膨大な不動産に関する権利は、最終的に誰の手に渡るのでしょうか。上述した「共同富裕」の一環としての習政権による私権消滅の兆しなのでしょうか、共産党幹部の一部がほくそ笑むのでしょうか、それとも、外資系金融機関の餌食になるのでしょうか。舞台が共産党一党独裁国家である故に、バブル崩壊の行く先を見極めないことには、日本国への長期的な影響にてついては、正確に予測することは難しいのではないかと思うのです。
イギリスの投資ファンドCVCによる東芝に対する買収提案は、日本国内に静かなる衝撃をもたらしております。日本の代表的な企業が外資の手に渡るという事態を前にして、これまで関心の薄かった人々もようやく事の重大さに気が付くに至り、現代の’黒船来航’の観もあります。日立製作所の子会社である日立金属も米投資ファンドのベイン キャピタルと日本系の日本産業パートナーズを軸とする日米ファンド連合への売却も報じられています(日本産業パートナーズには、資本関係はないものの、米コンサルタントであるベイン・アンド・カンパニーも出資…)。
日本国の産業の空洞化は今に始まったわけではなく、シャープや東芝の家電部門をはじめ、日本企業の多くは海外企業によって買収されています。これらの買収劇は、海外の同業者が事業規模の拡大を目的に行ったケースが多いのですが、今般の傾向にあって特徴となるのは、買い手の多くが海外ファンドである点です。
海外投資ファンドとは、しばしば’ハゲタカ・ファンド’とも揶揄されてきたように、’安値で買い叩いて高値で売る’をモットーに活動する、利ザヤ狙いの強欲集団と見なされてきました。’餌食’となる日本企業にとりましては恐るるべき存在なのですが、この時期に至り、海外の投資ファンドの活動が活発化してきている背景には、一体、何があるのでしょうか。
推測されるのは、新型コロナウイルス禍の影響です。目下、国民や事業者等への給付金の支給を含めたコロナ対策費を調達するために、各国政府とも、巨額の国債を発行しています。大規模な財政出動によって赤字国債が積み上りますと、何れの政府も財政危機が懸念されることとなるのですが、同事態を回避するために、各国中央銀行は、公開オペレーションによる量的緩和策を実施しています。つまり、コロナ禍⇒政府の国債発行増額⇒民間金融機関による国債購入⇒中央銀行による民間金融機関からの保有債券・株式の買取⇒民間金融機関へのハイパワード・マネーの供給という回路により、各国の金融界には巨額の緩和マネーが流れ込んでいることとなります。
潤沢な投資資金を手にしたのですから、当然に、投資ファンドも勢いづき、海外への投資額を増やそうとすることでしょう。そして、そのターゲットとなるのは、コロナ禍のマイナス影響により経済が弱体化した国にあって、割安感が強まっている企業や事業であり、日本企業もその対象に含まれているものと推測されます。今般、相次ぐ海外ファンドによる日本企業の買収案件は、コロナ禍とそれに付随するコロナ緩和マネーに起因しているのかもしれないのです。
そして、投資ファンドが企業の事業再編をも手掛けている点を考慮しますと、事態はさらに深刻です。上述した日本産業パートナーズは、現在にあっては既に全株式を売却しているものの、みずほ証券を中心に設立された投資ファンドであり、主に日本企業を対象に事業再編、否、ソニーのパソコン部門をはじめ大手企業の一部事業を傘下に収めています。同ファンドにおけるベイン・アンド・カンパニーの出資率は不明なのですが、仮に、同社の影響力が強まるとしますと、同ファンドの事業対象も日本国内のみならず、‘グローバル市場’に拡大するかもしれません。
そして、イギリスの投資会社であるCVCに至っては、事業再編の対象が‘グローバル市場’であることは容易に想像されます。つまり、一旦、東芝がCVCの傘下に組み込まれれば、東芝は、同ファンドの’グローバルな事業再編’の目的に沿った役割を担わされることになりましょう。つまり、従来の経営組織や事業の継続は難しくなり、最悪の場合には、中国企業に売却される未来が予測されるのです。CVCの背後には、’チャイナ・マネー’、あるいは、’チャイナ利権’が潜んでいるかもしれないのです。
日立金属を手放す一方で、1兆円を投じてアメリカのIT企業を買収する日立の方針については、将来性のある分野に事業を絞り込む’選択と集中’を評価する声もあります。しかしながら、海外に支城を広げた結果、本丸が落とされてしまう可能性も否定はできません。過去の事例を見ましても、日本企業による海外企業のM&Aについては失敗例も少なくないからです(東芝の躓きの原因が米ウェスティングハウス社の買収であるように、大枚をはたいて買収しても、最終的には重荷となったり、手放す展開にも…)。安全保障も絡むため、東芝の買収には日本国政府の承認も必要となるそうですが、政府も企業も、そして国民も、長期的かつ多面的な視点から日本国の経済を護る手段を講じてゆくべきではないかと思うのです。ポスト・コロナ、あるいは、ウイズ・コロナの時代が、日本消滅の時代とならないように。
昨今、’上級国民’という言葉が流行っているそうです。池袋暴走事件の被告が元官僚であったことから、とりわけ注目されるようにもなったのですが、先日、厚生労働省の職員によるマスク無しの宴会に際しても、批判的に使われています。即ち、権力や既得権益側にいる人々を’上級国民’と呼んでいるようなのです。今や日本国民は’上級国民’とそれ以外の’下級国民’に分断されてしまったかのようなのですが、日本国の真の脅威は、別のところにあるように思えます。
’上級国民’という言葉は、それが特権階級を含意する故に、批判的に使用されています。法の前の平等という、近現代憲法の大原則に反して特定の集団に属する人々を優遇するのですから(平等に法を適用しない…)、この批判点は理に適っています。しかしながら、’上級国民’は具体的に誰なのか、という問いに対しましては、漠然とした答えしか返ってきません。冒頭で触れたように、元官僚、政治家、企業幹部…等々などが含まれているのでしょうが、その線引きは曖昧です。実際の生活ぶりを見ましても、かつての’上流階級’とは違い、一般の人々との間に天と地ほどの違いがあるようにも見えないのです。
その一方で、属性に基づく公的な特別扱い、並びに、他の国民との格差という側面からしますと、日本国にとりましては創価学会の方がよほど脅威です。’上級国民’はイメージ的な括りであってその存在も分散的であり、相互に連携や連帯しているわけでもありません。一方、創価学会員は’指揮命令系統’を有する組織であり、一つの宗教団体、あるいは、教祖の許にあって一致団結しています。しかも、同教団は、政界に公明党を送り込むと共に、’創価官僚’や’創価警察’の存在も指摘されています。言い換えますと、日本国よりも創価学会の利益のために日本国の国権が私物化され、利用されている現状があるのです。しかも、中国との間には密接な繋がりがありますので、尖閣危機の要因も、海保を擁する国土交通大臣職の公明党による独占に求めることができるかもしれません。
経済にあっても創価系企業が数多く散見され、しばしば、政界との繋がりを介したこれら企業への利益誘導も見られます。教育現場でも学会員の多くが教職を得ております。日教組はしばしば思想的な偏向や洗脳が批判されますが、’創価教師’についてはこうした指摘がないのは不思議なところなのです。芸能界でも’創価芸能人’しか出演できないともされ、大手メディアも’創価マネー’には抗しようもありません。’創価天皇’の誕生もあり得ないお話ではないのです。書き始めればきりがないのですが、自由で民主的な日本国にあって’総体革命’を目指していたというのですから、その最終目的は、日本国を中国のような一つのイデオロギー(創価学会の場合には、教祖独裁主義や拝金主義的教義?)の下で国民が監視される全体主義国家に変えることなのでしょう(’総体’とは、全体主義の意味では…)。
こうした創価学会の’総体的な脅威’に注目すれば、’上級国民’説は、意図的ではないにせよ、真の脅威から国民の目を逸らそうとする’目くらまし’のようにも思えてきます。ヨーロッパや中国には秘密結社文化がありますが、日本国民には馴染みがないために、兎角にこうした組織に対して無頓着になりがちです。創価学会につきましても、強い排他性と秘密主義が見られ、誰が学会員であるのか、一般の人々には殆ど分かりません(創価学会員以外の人々は平和会館に立ち入ることもできなければ、内部で何が行われているのかも分からない…)。しかしながら、ウイグル人弾圧問題で明らかとなったように、創価学会は、もはやその本性、すなわち、全体主義志向と海外勢力との結託を隠さなくなりました(拝金主義を中国共産党とも共有…)。同組織の背後には、古代にまで遡る世界レベルでの歴史的な経緯があるのでしょうが、今日、日本国民は、創価学会問題について真剣に対策を講じるべき時に至っているように思えます。何時の間にか創価学会が’中国共産党’に衣替えをし、日本国もまた、自由も民主主義も、そして法の支配もなき’一党独裁体制’に変貌しかねないのですから。
お知らせ
本日より、ブログ記事の更新は、月曜日から金曜日までの平日のみといたしたく存じます。リモート講義用のビデオ作成に時間を要しますこと、並びに、読書といったインプットの時間や休息の時間も必要なのではないかと考えたからでございます。急いで書かなければならないテーマがあります時には、土日祝日でも記事を更新する予定でおりますので、どうぞご容赦くださいますようお願い申し上げます。
新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、企業をはじめ自宅での勤務、即ち、テレワークという勤務形態が急速に広がることとなりました。満員電車における感染を防止するのみならず、毎日の通勤に疲れる果てることもなくなりますので、一先ずは、テレワーク導入に好意的な意見が多いようです。その一方で、テレワークは、職住の境に関する重要な問題を問いかけているように思えます。
‘職住の境界線’とは、‘公私’、あるいは、‘内と外’の区別と言い換えることができるかもしれません。日本国では、古来、公私の区別を重んじる傾向が強く、私事を公事に持ち込むことは固く戒められてきました。とりわけ近代以降にあって、雇用契約による勤務形態が広がり、国民の多くが自宅から職場へと通うようになりますと、‘内と外’の峻別する感覚は広く国民に共有されるところとなったのです。つまり、日本国では、職場と家庭は、‘別空間’であったのです。例えば、以前、子供を職場に連れて行く‘子連れ出勤’が話題となり、政府もその導入を後押ししてきたのですが、アンケート調査の結果では、凡そ8割が否定的な回答を寄せたそうです。
ところが、今般の新型コロナウイルス禍は、一瞬のうちにこの職住の境を消し去ってしましました。寛ぎの場であるはずの家庭が、突然、ビジネス用語も飛び交う職場になってしまったのです。テレワークの形態は、コロナ禍が収束した後も継続する方針の企業も少なくないそうですが、職住の境界が融解してしまうとなりますと、今後、どのような変化が起きてくるのでしょうか。
職場化した家庭内では、リビングや居間にあって家族全員がパソコンを前にして座り、大人たちは画面越しに仕事をこなし、子供たちは遠隔授業で学習する、といった光景が広がるのかもしれません。しかしながら、テレ会議などでは音声を発する必要もありますし、高い集中力を維持しなければこなせない仕事もありましょう。子供たちは、子供部屋があれば自らの空間を確保することができますが、問題は、大人たちです。今日の標準的な家屋の間取りでは、子供部屋ならぬ‘大人部屋’は想定されていないのですから。
そこで、テレワークにあっても家庭内で仕事に集中できるように、‘屋内テント’なる製品も販売されているとも報じられています。仮に、今後、テレワークが勤務形態として一般化するとすれば、予測されるのは、‘大人部屋’を備えた間取りの出現です。この点、思い起こされますのは、‘書斎’という存在です。現在では、書斎を有する家屋は少ないのですが、家庭にあっても仕事をする、あるいは、家庭に仕事を持ち込む場合を想定しての書斎という部屋があります。家庭にあっても公私を区別するために工夫でもあるのですが、コロナ禍による家庭の職場化は、書斎のような大人用の仕事部屋の需要を高めるのではないかと思うのです。
書斎が比較的珍しくなかった時代は、一軒当たりの敷地面積も比較的広く、家屋の間取りにも余裕のあった時代です。また、テレワークの普及が進む欧米諸国のように、人々が客間まで備えているような広い住宅に住んでいるわけでもありません。しかも、かつての書斎は‘一家の大黒柱’のために設けられていましたが、共働き世帯が一般化した今日では、仕事部屋も二人分用意する必要もありましょう。今日の日本国の住宅事情に鑑みますと、‘仕事部屋’を設けようとしますと、日本国の家屋は、家族の一人一人に小部屋を割り当てた、細分化された空間となるかもしれないのです(もっとも、仮に、家族全員に個室を設けるならば、人口減少は必ずしもマイナス要因とはならない…)。
個人によって性格は異なりますので、内向的な性格であれば、むしろ、狭い閉鎖空間で仕事に集中した方がオフィスといった開放空間よりも能力を発揮するかもしれませんし、あるいは、逆に外交的な性格であれば、閉塞感に苛まされて鬱状態となるかもしれません。日本人は比較的内向性が強いとされていますので、こうした細分化傾向は歓迎されるかもしれないのですが、ポスト・コロナにあってテレワークへの全面的な移行を既定路線とするよりも、個々人の性格や志向、あるいは、家屋事情に合わせた、より柔軟な‘職場’の選択が可能な勤務形態を目指すべきではないかと思うのです。
本日6月18日の日経新聞朝刊の一面に、新型コロナウイルスの感染対策として導入が広がったテレワークと関係づけながら、「ジョブ型」と呼ばれる社員評価制度に関する記事が掲載されておりました。「ジョブ型」とは、職務内容、並びに、それに必要となる能力を管理職の社員に事前に提示し、その達成度を基準として報酬を決定するというものです。近年、推奨されてきた年功序列主義から成果主義への転換の一環として理解されるのですが、この方式、どこか社会・共産主義を思い起こさせるのです。そしてこの問題は、‘人にとって働くこととは何か’という根本的な問題をも問いかけているように思えます。
「ジョブ型」とは、社員の能力や成果が報酬にストレートに反映されるのですから、勤労意欲を引き出しこそすれ、社会・共産主義批判は的外れのように聞こえることでしょう。労働と報酬との間の比例性のみに注目すれば、フェアな関係が成立しているようにも見受けられます。しかしながら、それ以前の問題、即ち、職務内容と要求能力の側面に視点を移しますと、社員は、経営戦略を立案し、それに沿って人員を配置する権限を有する企業中枢側の計画に従うだけの存在ということになります。社員は組織の歯車の一つに過ぎず、企業中枢の関心は、‘如何にして組織全体が円滑に動かし、自らの目的を社員を以って達成させるのか’ということにしかないのです。成果主義の導入も、歯車を円滑に動かすための誘導装置なのでしょうが、この仕組み、政府が排他的に経営計画を決定し、その命令の下で国民が労働を強いられる社会・共産主義の統制経済と似通っているのです。
唯物論よろしく、人を機械の一部と見なすのですから、そこには、かつての日本企業に見られた村落共同体的な温かみは見当たりません。職場とは、個々人がノルマをこなすだけの場となり、横の繋がりも断ち切られてゆくことでしょう。そして、AIやテレワークの普及は、この傾向にさらに拍車をかけるかもしれません。何故ならば、社員各自の評価はAIに任せれば一瞬のうちに済みますし、テレワークがグローバルレベルで導入されれば、空間の制約を受けることなく、全世界から自らの計画に最も適した人材を採用できるからです。かつて、ローマ帝国は、‘分割して統治せよ’という手法を編み出し、支配地が結託してローマに抵抗することを阻止しようとしましたが、今日の‘企業統治’は、社員を全世界に分散雇用することで、ますます企業の経営権を専有する中枢部による‘独裁体制’を強めるかもしれないのです。因みに、社会・共産主義国にあっても、‘労働者が団結する’ことは、あってはならないことでした(イデオロギーにおいて矛盾する…)。
近年、グローバリズムにも逆風が吹くようになり、17世紀以来の資本主義も修正を迫られております。多様なステークホルダーの利益を考慮する方向へと向かってはおりますが、日本企業における「ジョブ型」の導入拡大は、この方向性にも逆行しているように思えます。そして何よりも、「ジョブ型」という経営者と個々の社員が経て方向にのみ結びつくような雇用形態は、企業としての生命力を失わせてしまうことでしょう。行き着く先は、かつての社会・共産主義諸国のような冷淡な官僚主義の蔓延であり、組織自体が硬直化してしまうかもしれないのです。デジタル化社会は、多様な人々の意見がぶつかり合い、そこから新たなアイディア、さらには、イノヴェーションが次から次へと生まれ出るような自由、かつ、活気にあふれた社会としてその未来像が描かれています。しかしながら、「ジョブ型」の仕組みにあっては、個々の社員の豊かな発想が事業に生かされる余地は見当たらず(発想のユニークさを求めるならば、職務内容や能力の事前設定は、むしろ枠を嵌めてしまうこととなる…)、企業中枢部を中心に個々の社員が同心円状に直接的に繋がるか、あるいは、中間管理が‘官僚化’する企業形態となりかねないのです。
年功序列型への完全なる回帰が100%正しいとは言わないまでも、「ジョブ型」への移行は、人々の根源的な働く意欲や生き甲斐を喪失させるかもしれず、この意味においても、社会・共産主義体制と共通しています(もっとも、ソ連邦にあって軍事部門のみが突出したように、上意下達の徹底による目的達成には長けているかもしれない…)。そして、ソ連邦が崩壊したように、やがては救い難い停滞に沈み、同モデルは歴史から消え去ってゆくかもしれないのです。
見方によっては「ジョブ型」の‘ジョブ’とは、予め決められた仕事を上からの指令通りに実行すること、即ち、人のロボット化ともなりかねないのですから、ITやAIの普及が予測される今日であればこそ、企業は、人に相応しい組織造りに努めるべきではないかと思うのです。新たな企業モデルを世に問う起業が待たれるところですし、既存企業組織にあっても、社員の参加意識を高めるための‘自由化’や‘民主化’が必要なのかもしれません。
ヤフーとLINEの両業者は同一の事業を営み、かつ、ライバル関係にある同業者ではなく、事業分野が異なる異業者です。しかも、IT産業は誕生してから日が浅く、シェア・ビジネスなどの様々な新しいビジネスモデルも登場してきています。黎明期にある規模の小さなスタートアップ企業の買収等に対しては競争法の規制も弱いため、IT大手は、その莫大な資金力を以って様々な新種の事業分野に進出することができたのです。すなわち、デジタル社会の到来によって将来的に有望となる様々な事業を、IT大手が既存のビジネスを潰しながら独占してしまう可能性があり、先進諸国では既にこの問題が顕在化しているのです(デジタル時代の‘財閥化’…)。日本国内では、中国にWeChatを基盤に幅広い事業を展開するテンセント等が存在するため、日本国にも“すわ‘スーパー・アプリ’の登場か”と騒がれていますが、アメリカで活発になっているGAFA分割論も、IT大手による経済の囲い込み、否、経済支配に対する懸念がその根底にあり、自由主義国の流れは集中に対する規制強化に傾いています。
その一方で、両者とも、IT大手にしてプラットフォーマーという共通点があり、両者が構築したプラットフォームをインフラに喩えれば、共にユーザーのデータ収集が可能な同業者とする見立てもできなくもありません(両者の統合により、個人情報を含むデータ収集力が格段にアップ…)。同統合のメリットとして、両者がスマホ決済の分野での協力も指摘されていますが、プラットフォームの規模拡大は、他の‘スーパー・アプリ’化を目指すプラットフォーマーのみならず、既存の事業者、そして、アプリの使用により情報が筒抜けになりかねない個人ユーザーにとりましても脅威となるのです。
以上に述べたように同統合によるリスクは、従来型の単なる市場のシェアの問題ではなく、事業範囲の拡大とデータ収集を基盤となるプラットフォーム規模の拡大との相乗作用による経済支配ということになるのですが、ソフトバンク・グループの世界戦略としては、GAFAに匹敵するようなIT巨人をアジアからも誕生させる、ということのようです。公正取引委員会がこの主張をそのまま認めますと、同統合案が審査を通過する可能性は高いと言えましょう。何故ならば、グローバル市場を判断基準とすれば、たとえ両者が統合したとしも‘弱小連合’に過ぎないからです。同グループが、殊更にGAFAや中国IT大手による独占状態を打ち破る対抗馬としての姿勢をアピールするのは、グローバル市場における競争促進効果を訴えることで自らの統合案を正当化したいのでしょう。しかしながら、この説明には注意が必要です。
注意を払うべき理由は、第1に、メッセージアプリ事業には、この説明は通じ難い点です。プラットフォーム型の事業は、消費者のスマートフォンやPCを‘端末’とする広域的なネットワークによって構成されています。ところが、メッセージアプリ事業については言語による制約がありますので、ユーザー間のコミュニケーションを介する国境を越えた事業展開は容易ではないのです。LINEもタイにおいては相当数のユーザーを獲得しているそうですが、他の諸国では伸び悩んでいるそうです。つまり、表向きは海外展開を掲げながら、現実には、LINEがメッセージアプリ事業をほぼ独占している日本国においてこそ、‘スーパー・アプリ’競争に際して、圧倒的に優位なポジションを占める可能性が高いのです(他の事業者は、メッセージアプリのプラットフォームを保有していない…)。
第2の理由は、ヤフーとLINEの統合は、日本国の国益に適うとは言い難い点です。かつて、日本国では、国際競争力の向上の観点から、当事企業が両社とも鉄鋼大手でありながら新日鉄と住友金属との合併を認めました。グローバル時代における最初の大型合併承認の事例となったのですが、同判断には、グローバル時代を生き抜く規模を備えた‘日の丸企業’の誕生への期待があったと指摘されています。ところが、ヤフーとLINEの合併によって誕生する新会社の資本関係は、ソフトバンク・グループが親会社となるとはいえ、同グループの決定権を握る孫正義氏は韓国系ですし、かつ、LINEの親会社である韓国のネイバーが50%を出資するそうです。つまり、‘日の丸企業’というよりも‘大極旗企業’の色合いが強く、むしろ、LINEの利用者が8000万人に達している現状では、韓国の国益のために統合を認めるに近いのです。韓国が国策として自国市場を基盤としてグローバル市場に打って出るならば分かるのですが、これでは、日本市場が踏み台にされている感があります。米中のIT大手に対抗するために、今般の合併を認めたところ、別の外国企業、即ち、韓国系企業の日本経済への支配力が強まるのであれば、どこの国の利益ための政策であったのか、誰もが疑問に思うことでしょう。
第3に指摘すべきは、日本国内での競争消滅のリスクです。ユーザーのスマートフォンやPCがネットワークの端末となるプラットフォーム型の事業は、プラットフォームの規模に比例して利便性も高くなるのですが、米中のIT大手に対する対抗勢力の結成を理由に同案が認められれば、今後とも、同様の理由によるIT企業間の合併案を承認せざるを得なくなりましょう。しかしながら、日本国内の企業規模からしますと、全てのIT企業が合併しても米中のIT巨大企業には到底及びません。結果として、日本国内での企業間競争が消滅する、あるいは、韓国系が認められるのであるならば、他の国の企業によって買収される可能性も否定はできないのです。
以上に主要な問題点を述べてきましたが、これらの諸点からしますと、ヤフーとLINEとの統合計画には慎重にならざるを得ないように思えます(たとえ承認されたとしても、厳しい条件や制約が付されるかもしれない…)。果たして公正取引委員会は、どのように判断されるのでしょうか。
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グローバル化の時代とは、民営化の時代であると共にデジタル化の時代でもありました。これらの3つの新しい波は一体化するかのように全世界を覆ったのですが、それは同時に、財閥化の時代でもあるのかもしれません。日本国では、戦後にGHQの手によって財閥解体がなされ、経済は‘民主化’されています。こうした経緯もあって、多くの人々は、集権的な財閥は過去の遺物であり、来るべき未来には、より自由で分散的であり、消費者や企業を含むあらゆる経済主体が伸び伸びと活動し得る経済ヴィジョンを思い描いていたことでしょう。そして、グローバリズムにこの未来の実現を託していたのです。
しかしながら、しばしば理想と現実とは違うものです。否、メビウスの輪の如くに逆になることもあります。この点、近年の状況を観察しておりますと、グローバル化と共に分散化よりも集中化の方が遥かに高スピードで進展しており、新たな財閥が登場してきているのです。例えば、フェイスブックの行動を見ましても、デジタル通貨の発行を目論んだリブラ構想でも知られるように、本業のSNS事業で構築したプラットフォームを基盤として、他の事業へも幅広く進出しようとしています。一方、中国でも「スーパーアプリ」が急速な成長を見せており、テンセントの事業は、対話アプリ、ネット通販、決裁、動画配信、ゲームといったあらゆる分野に亘ります。
こうしたプラットフォーマーの財閥化に関しては、データの独占問題もあり、近年、批判が頓に高まっています。アメリカでは、既に巨大IT企業であるGAFAに対する分割論も大統領選挙の争点に数えられ、日常的に利用される故に国民の関心が高いのです。競争法の世界では、一つ、あるいは、少数の企業が複数の分野に亘って広く事業を展開する‘財閥’の形態は、経済を支配し、競争を阻害する‘集中’として規制の対象となってきました(もっとも、日本国では財閥を解体した当のアメリカでは、既存の財閥に配慮して集中規制が緩いという問題もあったのですが…)。プラットフォーマーの強みを活かして事業分野を拡大し、そこから収集される様々なデータをも囲い込もうとする企業戦略は、公正公平であるべき競争において他の企業や起業家を不利な立場に置きますし、消費者を含む取引相手にも不利益を与えかねないからです。先日、ソフトバンクの孫正義氏が講演会においてデジタル社会は‘勝者総取り’と述べていましたが、実のところ、勝者による独り占めは競争法上の違法行為なのです。
かくして、少なくとも自由主義国における今日の潮流は、巨大IT企業に対する規制強化の方向性を示しているのですが、今般のヤフーとLINEの統合は、許されるのでしょうか。同統合には、アメリカがファウィエを排除した理由と同様に、LINE側が韓国企業であるネイバーの子会社であり、ソフトバンクグループのトップである孫氏も韓国系であることから、情報収集・管理に関する安全保障上の問題点もないわけではありません(ネイバーは反日を国是とする韓国政府に対して情報提供義務を負っている…)。政治的問題に加えて、やはり競争法上の集中が問題となる可能性は低くはありません。日本国でも持ち株会社が解禁され、持株会社が子会社を束ねる企業グループが多数出現しましたが、ソフトバンクグループは、携帯電話等の電気通信分野に加え、太陽光発電等の電力事業、投資事業など、企業買収を繰り返すことで既に巨大な‘財閥’と化しています(‘孫財閥’?)。LINEとの統合が実現すれば、SNSのプラットフォーム諸共LINE傘下の事業をも吸収することになりますので、経済支配力は一段と増すことになりましょう。
最近、日本国の公正取引委員会は、企業規模を主たる基準とする従来型の規制では十分には対応できないとして、データの価値を考慮するなど等の新たに審査指針を示し、デジタル・プラットフォーマーに対する審査を強化する方向性を示しております。事実上のソフトバンクグループによる買収を意味するヤフーとLINEとの統合案は(共同出資の新会社はソフトバンクの子会社に?)、金融サービス事業におけるライバル排除効果のみならず、経済支配を意味する集中問題をも含みますので、同委員会が、すんなりと承認するとは思えないのです。グローバル化がデジタルの世界における財閥支配を帰結するとしますと、警戒論が自ずと高まるのも無理もないのではないかと思うのです。
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