今日、多くの人々は、グローバリズムは自由貿易主義の延長線上にある、あるいは、前者は後者の拡大版であると考えているようです。実際に、両者を明確に区別する政治家は少なく、二国間、あるいは、多国間で自由貿易協定や経済協力協定などの通商協定を締結するに際しても、古典的な自由貿易論を以って相互利益を国民に説いています。しかしながら、両者は、似て非なるものなのではないかと思うのです。
EUなどを見ましても、1957年のEEC設立以来、‘財’、‘サービス’、‘資本(マネー)’、‘人(労働力)’といった移動要素は同列に扱われており、この表現からしますと、主として貿易を意味する‘財’と他の3つの要素との間に然したる違いは見受けません。貿易に際して各国が設けている関税が撤廃されますと、‘財’が国境を越えて自由に移動するようになりますので、人々は、自由貿易=関税障壁の撤廃とするイメージを持つようになります。そして、このイメージから類推して、グローバリズム=非関税障壁の撤廃と見なすようになるのです。言い換えますと、同構図により、財と他の3つの要素の自由化における質的な違いが見え辛くなったと言えるでしょう。
しかしながら、’自由移動’という言葉の魔力に惑わされがちなのですが、移動には、それを決定する’主体’というものが存在しているはずです。財の移動、即ち、貿易の場合には、売買、即ち、交換を行う双方が決定者となります。つまり、双方の経済圏における相対的希少性に基づく価値の違いにより相互利益を生み出すのが貿易のメカニズムですので、輸出入取引を行う双方の事業者の意思の一致がない限り、貿易は成立しないのです(もっとも、輸出入のバランスが保てないと貿易収支の不均衡問題が生じ、貿易の継続が困難となる…)。相互利益が最も確かなのは、相互に自国の’特産品’を輸出品とするパターンですが、経済格差が存在する場合には、相対的に低価格となる産品(リカード流に言えば、生産性において比較優位性のある商品…)が輸出品となります。何れにしても、関税撤廃を意味する自由貿易主義は、基本的には、’交換’の概念で説明されましょう。
その一方で、’サービス’、’投資(マネー)’、’人(労働力)’に関する非関税障壁の撤廃につきましては、別の作用が強く働くように思えます。何故ならば、これらは’モノ’ではなく、意思決定能力を有する主体の自由移動ですので、海外企業、海外資本、並びに、外国人労働者などが、国境という障壁なく国内に流入し、内部化されることとなるからです。この場合、市場の競争メカニズムにあっては、規模の経済が優位に働きますので、国内に競争力を有する企業が存在しない場合には、米中等のIT大手をはじめとしたグローバル大企業が国内市場にあって有利なポジションを占めることでしょう。その決定権は、もちろん、日本市場を含むグローバル市場で事業を展開している海外企業側にあります。投資につきましても、自国企業への融資のみならず、株式保有等を介して自国企業の経営にも影響を与えます。海外投資ファンドが、キャピタルゲインの獲得を目的に自国企業を買収したり、国内不動産を買い漁るケースもあり得ます。加えて、海外労働力の移入は、グローバル企業を含む国内の雇用主と海外被雇用者との契約に基づきますので、他の国民の意思は全く考慮されないのです。
サービス、資本(マネー)、人(労働者)などの自由移動を前提としたグローバル化とは、国境を隔てた主体間のモノの’交換’の論理ではなく、全世界を対象に利益の最大化と拠点の最適化を目指すグローバル戦略の論理によって説明されます。そして、この国家レベルの市場開放による多様な要素の流動化は、グローバルレベルでの意思決定が国内に及ぶことを意味しており、それは、その国の政府や国民の合意を最早要さないのです。国家にとりまして、同状態は、超国家権力体による’現代の植民地化’、あるいは、’属国化’のリスクともなり得ましょう。今日、自由貿易主義とグローバリズムの違いを明確化することは、同時に、グローバリズムのリスクの認識をも意味するのではないかと思うのです。