万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

世襲権力としての世界経済フォーラム

2024年04月02日 10時53分42秒 | 統治制度論
 民主主義体制が一般化した現代という時代にあって、政治権力の世襲は極めて困難となりました。一党独裁制を堅持している中国等の共産主義国家でさえ、北朝鮮等の極少数の国家を除いては、公式には世襲制は否定されています。もっとも、普通選挙によって国民から選ばれなければならない民主主義国家にあっても、政治の世界では世襲が横行しているのが現実です。日本国内でも、親や親族から‘地盤、看板、鞄’を引き継ぐ世襲議員は多々見られます。そして、そのより御し難く極端な事例こそ、世界権力の世襲なのではないかと思うのです。

 世襲とは、相続によって組織における特定のポスト、通常は、トップの座が継承される制度です。資産の相続であれば、それは家族や親族、あるいは、縁者といった私人間における所有権の移動に過ぎません。その一方で、世襲という制度には、組織が関わるだけに、それが民間組織であれ、私的な領域に留まらない‘公的’な側面があります。この世襲の‘公的’な性質こそ、適性や能力を欠いた政治家の出現のみならず、特定の一族による公権力の私物化や権力の濫用の懸念が常に付きまとう要因であり、実際に、世襲議員が、自らの私的な利権のために利益誘導を試みる事例は枚挙に暇がありません。

 世襲議員の存在は、平等を原則とする普通選挙が実施されつつも、民主主義国家にあっても、国民の参政権、とりわけ、被選挙権が著しい制約を受けていることを意味します。そして、それは、事実上、大富豪や利権屋しか立候補することが出来ないアメリカの大統領選挙に象徴されるように、しばしば‘お金のかかる選挙’が原因として指摘されてきたのです。かくして、民主主義の阻害要因として選挙資金の問題に注目が集まるのですが、グローバル化した今日にあっては、もう一つ、盲点ともなる政治権力の世襲があるように思えます。それは、金融・経済財閥の一族による隠れた権力の世襲です。

 国家レベルでの政治権力の世襲は、民主的選挙制度をもって公的には否定されており、政治家の子弟や親族とはいえ、国民の選挙権、即ち、人事権の行使の結果に服する必要があります。上述したように、この選挙という高いハードルは、‘マネー・パワー’を持つ者であれば、容易に乗り越えることが出来るのですが、世界権力を構成する金融・経済財閥には、選挙の場で国民の評価を受けなくても済む立場にあります。株式を遺産として相続しさえすればよいのです。社内やグループ内選挙を通して選出される必要もありませんし、他の組織のメンバーから‘権威’の承認を求める必要もありません。ポストの無条件継承であり(唯一の条件は血縁関係・・・)、自動就任という極めて稀な形態となるのです。

 今日の株式制度は、経営権の全面的な掌握ではないにせよ、株主には経営への‘参加権’が伴います。この文脈においては、経済における事業組織としての株式会社の形態こそ、私人による経済支配が生じる主因とも言えましょう。そして、無条件継承であるからこそ、政治の世界で批判されてきた世襲の諸問題が、今日、世界権力という極端な形で表に現れているとも言えるのです。

 何故ならば、何と申しましても、資産の相続は他者の合意や承認を要せずして、世界権力のメンバー資格の‘無条件継承’を保障しますので、他者、即ち、非メンバーとなる他の人類を冷酷に扱うことができます。コロナ・ワクチンを利用した人口削減計画が信憑性を帯びるのも、ITやAI技術の普及によるデジタル全体主義化が懸念されるのも、所得格差が放置されるのも、一般の国民が望まない移民拡大策が推進されるのも、マスメディアが人類の低俗化を誘うのも、そして、戦争ビジネスのために戦争が画策されるのも、世界権力のメンバー達を外部から制御する仕組みが皆無に等しいからなのでしょう。しかも、他者から解任される心配もありませんので、終身の地位が約束されているのです。

 近年、大企業といえども、富裕層の道楽としか思えないような技術の開発に傾斜したり(空飛ぶ車や宇宙ビジネス・・・)、国民監視システムへの貢献が疑われるケースが増加したのも(顔認証やIoT家電・・・)、大株主としての世界権力の意向が強く働いたからなのでしょう(もっとも、株主の構成が分散している企業であるほどに、同リスクは低下する・・・)。あるいは、マネー・パワーによって、各国の政治家のみならず、‘一本釣り’のように企業のCEO等が取り込まれているのかも知れません。何れにしましても、経済の世界では、政治の世界を取り込みながら、無制御なパワーが猛威を振るっているのです。

 制度論並びに組織論からすれば、こうした暴走を許す仕組みは独裁体制の一種となりますので、人類にとりまして決して望ましいものではありません。今日、人類が直面している諸問題を解消し、世界権力の暴走を制御するためには、より個々人や各企業等の自律性や自由が活かされる組織形態や、制御可能な経済の仕組みを、未来に向けて考案する必要があるのではないかと思うのです。

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国際司法機関への単独提訴の道はある

2024年02月07日 13時41分24秒 | 統治制度論
 ICJ(国際司法裁判所)については、これまで、当事国の合意がなければ開廷されないとされてきました。特に竹島問題については、再三に亘ってこの点が指摘されており、同問題が司法解決できない理由とされてきました。訴訟手続きにあって当事国の合意を要件とするのは、司法制度としては致命的な欠陥となりますので、制度改革により、早急に是正すべきと言えましょう。犯罪者の同意がなければ、裁判に付すことも出来ないようなものです。その一方で、今般のウクライナ紛争にあっても、イスラエル・ハマス戦争にあっても、ICJは、ロシア並びにイスラエルに対して暫定措置命令を発しています。

 1945年6月26日に署名された国際司法裁判所規程の第40条では、ICJに対する事件の提起は(1)特別の合意の通知、並びに、(2)書面の請求によるものの二つとされます。この規程からしますと、(2)の書面による請求であれば、原告国による単独提訴が可能なように思えます。ところが、1978年4月14日に採択され、より詳細な手続きを定めた国際司法裁判所規則の第38条5には、「請求の相手国が当該事件のための裁判に同意するまでは、その請求を総件名簿に記載してはならず、また、手続き上いかなる措置ももってはならない」とあり、被告国の同意がなければ裁判手続きが先に進まない仕組みとなっているのです。こうした諸規定が存在するため、ICJは、単独訴訟を門前払いすると批判されてきたのです。

 その一方で、ICJは、‘国家の権利が回復不能の損害に陥る切迫かつ重大な危機に存している場合’を想定し、保全的、あるいは、救済的な措置を準備しています。先ずもって、国際司法裁判所規程の第41条には、暫定措置の条文が設けられており、ICJに対して、同裁判所が必要と認められる時には、各当事者のそれぞれの権利を保全するために暫定措置を指示する権利を与えたのです。この条文には、紛争当事国双方の同意を要件とする旨の規定は見られず、ICJの職権とも解されます。

 ところが、この暫定措置は、国際司法裁判所規則では、より制限的な表現が加わっています。規則の第73条1では、暫定措置の指示を求める要請は、‘その要請の関係する事件の手続き中いつでも’とあり、事件の受理と手続きの開始を条件としているようにも読めます。また、ICJの職権による指示を定めたとされる第75条1でも、‘暫定措置の必要性の有無の検討を決定することができる’とする曖昧な言い回しであり、‘検討の決定’が‘暫定措置の決定’と同義であるのかどうか、判然としません。続く第75条2も、暫定措置の要請があった場合の規程であり、同要請が事件の受理を前提とすると狭く解釈するならば、単独要請もできないことになってしまいます。

 それでは、この難題を、どのようにしてウクライナや南アフリカは乗り越えたのでしょうか。その方法とは、他の条約に定められている‘紛争解決手段の条文’を利用するというものです。今般の両国の要請は、いずれもジェノサイド条約違反を問うているのですが、同条約の第9条には、同条約の適用または履行に関する締約国間の紛争は、いずれかの紛争当事国の要請によりICJに付託されるとしています。つまり、この条文を足がかりにすれば、直接の紛争当事国ではない南アフリカであっても、イスラエルを提訴することが出来るのです。ロシアもイスラエルもジェノサイド条約締約国ですので、ウクライナや南アフリカの訴えは、締約国間の紛争となるからです。因みに、同手法は、南シナ海問題にあって、フィリピンが、国連海洋法条約に基づいて常設仲裁裁判所に対して中国を訴えた事例に類似しています。何れにしましても、他の条約の紛争解決の条文にICJへの付託が明記されている場合には、ICJは、単独提訴であってもこれを受理し、裁判手続きが開始されるのです。

 なお、ウクライナの提訴に対してロシアは応訴せず、不出廷を選択しています(事実上の単独提訴・・・)。裁判回避は、ロシアに弁明の機会を失わせますので、この判断は適切であるとは思えないのですが、ICJは、非公式ながらもロシアの主張を考慮しつつ、暫定措置を指示していました。その一方、南アフリカの要請については、イスラエルは同訴訟手続きに参加しています。

 以上に述べてきましたように、ICJの手続きは、それが迂回的なものであれ、より一般の司法手続きに近づいてきたと言えましょう。そして、規程の改定を急ぐべきは言うまでもないのですが、現状にあって領有権確認訴訟の形態が難しいのであるならば、この手法は、尖閣諸島や竹島問題等の日本国が抱える問題の解決にも応用できるかもしれないと思うのです(つづく)。

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イスラエル・パレスチナ連邦国家構想の行方

2023年12月04日 14時39分21秒 | 統治制度論
 『21世紀の資本』の著者として知られるフランスの経済学者トマ・ピケティ氏は、出口の見えないイスラエル・ハマス戦争を政治的に解決する方法として、一つの構想を提唱されております。それは、イスラエル・パレスチナ連邦国家構想です。もっとも、同構想は、ピケティ氏のオリジナルというわけではなく、イスラエル、パレスチナ双方が参加する市民団体「ア・ランド・フォー・オール」などが主張してきたそうです。しかしながら、この構想、実現するには、幾つかの高いハードルを越えなければならないかもしれません。

 ピケティ氏によれば、連邦構想とは、イスラエルとパレスチナの双方を主権国家として相互に承認した上で、両国の合意によって連邦国家を成立させるというものです。同連邦のモデルとして、各国の主権を残しながら国家が並立的に連合するEUを挙げていますので、アメリカやドイツのような連邦国家ではなく、国家連合と表現した方が相応しいかもしれません。何れにしましても、両国家を一つの統治の枠組みにおいて共存させようとする案です。

 この点、ピケティ氏は、「一国家二国民」と表現していますが、「ア・ランド・フォー・オール」の構想とは、基本的には、1947年11月の国連総会決議181号(Ⅱ)を下敷きにしています。同決議では、アラブ人とユダヤ人の各々に主権国家の建国を認め、両者間の国境線を引くと共に、経済統合に関する条文を置いているからです。むしろ、ECSC、EEC、ECといった経済分野での統合を経て今日成立しているEUの基本的モデルは、既に同分割に見られるのです。

 今日のEUでは、リスボン条約によってEUと構成国との間で政策権限が分けられています。およそ共通政策、両者による協調政策、並びに、構成国専属の政策三つに類型があるのですが、共通政策は関税同盟、競争政策、金融政策、通商政策、並びに、漁業政策の5つです。何れも経済分野の政策であり、政策の一本化によって加盟国を結びつける役割を果たしているのですが、イスラエル・パレスチナ連邦構想では、両国を統合する要となる政策領域は、「労働法」、「水資源の共有・分配」、「公共インフラ・教育インフラ・医療インフラの財源確保」の三領域です。これらの領域において、双方の国家にあって同一の政策が実施されることで、一先ず両国は、一部ではあれ政策統合された形となるのです。

 加えて、イスラエル・パレスチナ連邦構想では、EUと同じく四つの自由移動の原則が設けられているようです(もの、サービス、マネー、人の自由移動・・・)。双方の国民は、自由に相手国に移住することも、職を求めることもできるとされます。そして、上記の共通政策以外の領域については、双方の国民とも、居住国の国内法に従わなければならないとされます。

 しかしながら、両国における長年の対立関係、並びに、著しい経済格差からしますと、同構想の実現については悲観的にならざるを得ません。その理由は一つではないのですが、先ずもって、両者間において共通政策を決定し得るのか、という疑問があります。EUは、EU法を制定するための機構を備え、法的紛争に備えた司法制度も整えています。官僚的な行政機関としての委員会も設置されているのですが(競争法の領域では執行機関でもある・・・)、EUは、国境を越えてこうした政策形成や決定等を円滑に行える統治の仕組みがあってこそ機能していると言えましょう。

 一方、敵対関係にあったイスラエルとパレスチナ国の間にあっては、中立的な統治機構の構築には困難が予測されます。EUをモデルとすれば、共通議会の議員数や理事会での票数など、結局は多数決によって決定されますので、人口において若干であれパレスチナ人が上回わる現状からしますと、同モデルの採用は難しいかもしれません。また、交渉の末に共通の統治機構の設立にこぎ着け、両国合意のための合議機関や立法手続きが設けられたとしても、現実には、双方の反感から単一の政策や法の形成が困難を極め、実際に、一つの政策の策定に成功したとしても、それが双方の国にあって実際に実施されるかどうかは怪しい限りです。そして、そもそも一部の政策統合であれ、両国を一国の枠組みに押し込めることが解決策となるのか、疑問なところなのです(つづく)。

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政治力学とは何か-政治構造力学の薦め

2023年10月06日 11時18分56秒 | 統治制度論
 力とは、それが及ぶ対象に対して何らかの変化をもたらすものとして理解されています。たとえ外見的には変化が現れなくとも、圧力や温度が上がるなど、内部では力の作用によって何らかの目には見えない変化が起きているものなのです。このため、政治の世界でも、しばしば政治力学という言葉も使われています。

もっとも、政治力学という言葉が登場する時は、政治家同士の力関係が重要な決定要因となったり、有力政治家や団体等の発言が物を言うような場面が多数を占めます。例えば、法案の作成に際して、党内の有力幹部が自らの思惑や利害のために若手の意見をねじ伏せたり、ある業界において利権を有する政治家が口を挟むような場合、‘政治力学が働いたから仕方がない’といったような使われ方をします。また、政治家が関わらない純粋に民間の企業等にあっても、隠然たる影響力を有する内外の有力者からの圧力を、‘政治力学’として表現することも珍しくありません。何れにしましても、今日における政治力学という言葉の使われ方は、‘学’という文字によって惑わされがちですが、どこか密室的で不正なイメージが付きまとっているのです。

 こうした‘正式の手続きから逸脱した不当な力の行使’という政治力学のマイナスイメージの原因は、おそらく、その力がパーソナルな関係性において働いているからなのでしょう。正式な決定手続きにあって権限を有さない人物や団体等が、本来あるべき合理的な決定を歪めたり、妨げたりするからこそ、政治力学は忌み嫌われてしまうのです。‘○○議員には、△□でお世話になっている’、‘○△議員の言うことを聞いておけば損はない’、あるいは、‘△□議員は、頭の上がらない先輩である’といった、極めてパーソナルな関係が政治力学が働く経路なのです。言い換えますと、政治力学における力とは、正を不正に変化させてしまう作用として凡そ理解されているのです。

 かくして、政治力学という言葉は、時にして有力政治家にとりましては、自らの個人的な政治力を公式の職権を超えて行使し得る証でもありますので、いわば誇るべきことなのでしょうが、国民にとりましては、政治の公共性を損なう民主主義の阻害要因でしかありません。しかも、政治力学が日常用語となることで、政治における力はパーソナルな関係性といった狭い空間に閉じ込められてしまいがちとなります。こうした現状では、‘政治における正しい力の作用とは何か’といった根本的な問題も、影が薄くなってしまうのです。この風潮は、政治がイデオロギーと凡そ同一視されるようになった現代において、なおさら強まっているようにも思えます(共産主義が‘科学的’とは到底思えない・・・)。

 しかしながら、その一方で、政治における力の作用の研究は、現実の政治を改善する上でも有益なはずです。例えば、物理的な力の作用、すなわち、軍事の分野でも、力とその逆方向の抵抗力との関係は極めて重要です。国際社会における勢力均衡は、力のバランスに対する認識を欠いては成立しませんし、核の抑止力の問題も、突き詰めれば力のバランスの問題なのですから(この点、NPT体制は、力学的に見れば不均衡な構造である・・・)。物理的な意味において‘平和’が静止状態、すなわち、力の均衡を意味するならば、力学的なアプローチは欠かせないのです。

 そして、統治機構という構造物の設計に際しても、力学を避けて通ることはできないように思えます。そもそも、統治権力をその目的や機能に沿って複数の機関に分け、これらの機関に相互制御の作用を持たせるとする権力分立のメカニズムは、力の均衡に基づいています。政府や公的機関が国民から委託された公的職務や任務から逸脱したり、これらによる権力の濫用を未然に防ぐためには、制度設計において複雑に作用し合う権力のバランスを考慮しなければならないのです。漠然と権力と申しましても、決定権が最も重要な権限ではあるものの、提案、実行、制御、人事、評価などに関する権力も極めて重要な働きをします(2024年3月21日提案を加筆)。とりわけ制御の権力は、逸脱、濫用、暴走等を防ぐ抑止の役割を担い、悪政を防ぎ、かつ、統治機能を国民に安定的に提供するためには不可欠となりましょう。

 政治の分野に力学が必要となるとすれば、それは、パーソナルな関係に注目した一般的に用いられている‘政治力学’ではなく、より構造的なアプローチが望ましいように思えます。政治構造力学とでも表現すべきアプローチがあれば、今日の人類が抱えている様々な問題、即ち、権力の私物化、民主主義の形骸化、そして、独裁体制における人々の自由や権利の抑圧などの解決や未然防止に大いに貢献するのではないかと期待するのです。

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ネット・マッチング・システムの未来

2023年10月02日 11時34分21秒 | 統治制度論
 現代に繋がる経済活動の始まりが、平和的な‘交換’による相互利益の獲得にあるとしますと、双方のニーズの一致は人々を豊かにする基盤となります(狩猟・採取時代では‘配分’が基盤・・・)。言い換えますと、社会の中に様々なニーズがあり、同時に、そのニーズを満たすモノやサービス等を提供することができれば、それだけ、その社会全体が豊かになることができると言えましょう。この観点からしますと、今日のインターネットの普及は、双方のニーズが一致し、主体間の合意形成のチャンスを飛躍的に増加させるという意味において、経済発展に大いに寄与するはずでした。自らのニーズを情報化してネット上に公開すれば、ネット利用者という極めて広い範囲から相互的に自らのニーズを満たす相手方を探し出すことができるからです。
  
 もっとも、同システムでは、ニーズの情報をネット上に公開するだけでは不十分です。何故ならば、如何なるネット上のニーズ情報も、それを探し出す技術がなければ、浮遊物のように、ネット上を漂う誰にも利用されない情報の一つに過ぎないからです。この点に注目しますと、双方が、広大なネットの海にあって自らが必要としている対象を的確に見つけ出すためには、検索技術が必要不可欠なのです。このように考えますと、ネット・マッチング・システムとは、相互の条件付けによる検索を通してニーズを一致させるシステムと言えましょう。

 分散ネットワーク型の同システムでは、利用者の相互的なニーズの一致を目的として設計されているため、システムのメンテナンスや不正利用、虚偽情報のチェック等、あるいは、外部からのサーバー攻撃や情報盗取からシステムを防御する管理・維持機関を必要とはしても、組織全体の意思決定を行なったり、個々のマッチングに介入するような機関は要りません。利用者が、相互に直接にコンタクトをとり、交渉を行なうためのシステムですので、介在者を要さないのです。このことは、制度設計に際しては、独立性が確保されるべきことを意味しており、同システムの運営は、基本的には参加者達の自立性に委ねられるのです。

 また、多くの人々が安心して同システムを利用するためには、利用者間でトラブルや紛争等が発生した場合の解決手段を予め設けておく必要もあります。利用者の誰もが被害や損害の申し立てを行なうことができ、必要とあれば中立・公平な機関が調査を実施し、かつ、最終的な解決手続きとして司法制度と連結させれば、利用者も安心しますし、システムとしての信頼性も高まるからです。中には不法行為や犯罪もありましょうから、警察、検察、並びに裁判所を解決メカニズムに組み込むことも一案となりましょう(経費は国の予算から)。警察も関わるともなれば、犯罪者が同システムを悪用して詐欺を働こうとしたり、反社会的組織が自らのニーズを満たすために‘仕事’やメンバー探しに利用したりしようとは考えないはずです。

 多数の中小の一般事業者を傘下におさめ、高額の仲介料を要求する悪徳事業者やブラック企業まがいのネット事業者が横行している現状を考慮しましても(‘鵜飼いシステム’?)、ネットを利用したマッチング・システムについては、より安全で信頼性が高く、しかも救済措置も備えた高いオープンな制度設計が必要なように思えます。政府ではなくとも、○○事業者団体と言った同業者団体が、全ての同業者に開かれたシステムとして構築するという案もあり得るはずです。こうした方法ですと、サービス業であれば、検索条件に自宅との距離を加えれば、ご近所の○○屋さん’も生き残り、地方経済や地域コミュニティーも活性化するという副次的な効果も期待できましょう(中間マージンがないので価格も低下し、消費者にも恩恵が・・・)。

 経済発展の基盤が相互的なニーズの一致にある以上、公的マッチング・システムは、就職・求人のみならず、あらゆる分野において応用できるかもしれません。テクノロジーは、人類を豊かにするためにこそ活かされるべきであり、政治や経済において活用するに際しては、制度設計にこそ最新の注意を払う必要がありましょう。デジタル全体主義やIT大手による独占が懸念されている今日、技術の善用は、全ての分野に共通する人類が真剣に取り組むべき課題であると思うのです。

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政府が構築すべきは就職・求人プラットフォームでは?

2023年09月29日 11時37分45秒 | 統治制度論
 インターネットの普及は、様々な分野で地殻変動的な変化をもたらしています。新たなテクノロジーの登場は、しばしば時代や社会を変えてきたのですが、現代に出現したインターネットの特徴の一つは、従来とは異なるマッチング・システムを可能としたことなのかもしれません。それでは、インターネットが可能としたマッチング・システムとは、どのようなものなのでしょうか。

 マッチング・システムにおける最大の変化は、インターネットの開放性によって齎されました。例えば、旧来型の求人・就職のシステムでは、人材を求める側も応募する側も、程度の差こそあれ、自らが有するコネクション、人脈、あるいは、情報網等に頼る必要がありました。インターネットの登場以前の時代にも、新聞等で公募すると言った方法も確かにあることはありましたが、敢えて新聞公示の方法を選ぶのは、極一部の事業者に限られていましたし、募集情報が掲示された新聞の購読者でなければ、同公募の存在さえ知ることができなかったのです。旧来のシステムは、募集者と応募者双方における対象範囲の閉鎖性並びにパーソナル依存性を特徴としていたと言えましょう。

 ところが、インターネットは、同時並行的に発展した検索技術に支えられる形で、旧来型の限界を易々と突破できるようになりました。ネットを利用すれば、人材を探す側は自らの欲する人材を、条件や対価などの詳細を添えて公示し、広く募集することができるからです。その一方で、職を探す側も、自らの希望に添った職種や職場をネット上の情報から探し、相手方が提示している条件に合致していれば応募することができます。また逆に、職を探す側が自らの情報をネット上にアップしておけば、人材を探す側も、条件設定により絞り込みを行ない、直接に適任と見なした人材に対してオファーをかけることもできるのです。

 このように、インターネットが可能としたシステムでは、人材を求める側と職を求める側との間に双方向性及び対等性が成り立っております。雇用する側の人材選択の自由、並びに、個人の職業選択の自由の保障という意味においては、インターネットは、人類を理想に近づけたとも言えましょう。選ぶ範囲が広ければ広ほど、双方とも自らの要望や条件に叶った相手を見つけるチャンスが大幅に広がり、合意形成も容易となるからです。このシステムですと、自由意志の一致という個々人の選択の自由に伴う必要条件をも満たしており、主体間の関係性においても公平であると言えましょう。

 インターネットを用いたマッチング・システムの最大の利点が上述した相互的な対等性に基づく合意の形成にあることを踏まえて現状を見てみますと、ネット時代と称されながらも、この利点が十分に活かされているとは思えません。何故ならば、今日、就職側と求人側との間に介在することでむしろ人材を囲い込み、双方の自由を制約する中間的なシステム、即ち、人材派遣業者が出現しているからです。人材派遣業といった民間仲介事業者の存在は、インターネットの利点を帳消しにしてしまうのです。

 このように考えますと、政府のすべきことは、人材派遣業といった民間の仲介者を政策や公的システムに組み込むことではなく、個人であれ、企業であれ、誰もが安心して利用できる就職・求人システム、すなわち、公的なマッチングのプラットフォームを構築すべきなのではないでしょうか。如何なる介在者、ましてや政治的利権も存在しない、より直接的であり、かつ、個々の自由が尊重されるオープンなシステムとして(政治介入や私的介入を遮断し、独立性が保障された’運営者’もいない中立公平なシステム)。今日、政府が打ち出す政策を見ておりますと、方向性が逆なように思えるのです。

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新自由主義の真の姿とは?

2023年09月28日 13時15分19秒 | 統治制度論
 新自由主義には、‘自由’という言葉が含まれています。自由とは、凡そ心身において自らのことを自らで決定できることを意味します。自由は束縛や隷従の反対語とも解されますので、言葉そのものが持つイメージはいたって明るく、開放的であり、人類普遍の価値の一つにも数えられこそすれ、頭から自由を否定しようとする人は殆どいません。このため、新自由主義に対しても、多くの人々が‘何かよいもの’という漠然とした印象を持ったことでしょう。しかしながら、自由とは、誰の自由か、によって、大きく意味内容が違ってきます。

 自由とは、上述したように自己決定を意味するものの、自由を他者の心身にまで及ぼすのは許されるのか、という問題は、哲学者や思想家が思索してきたところでもあります。例えば、スピノザやホッブスは、自然状態という前置きの下で、自己保存を根拠とした他害的自由を認めています。もっとも、他者の命を奪うなど、利己的な他害行為までも認める一切の制限なき自由は、野獣の世界と異ならなくなります。すなわち、無制限な自由が許される世界、あるいは、自然状態では、誰もが自らの命の保障を得られなくなるのです。

 そこで、自己保存をより確かにするために、ホモサピエンスである人類は知性あるいは理性を働かせ、全ての人々に適用されるルールや法を生み出すこととなります。思想家や哲学者も、自然状態、即ち、弱者のみならず強者もまた自らの命、身体、財産等が危険に晒される状態を想定することで、全ての人々に適用される制約的な法、並びにそれを制定し、執行し得る国家の必要性を論理的に導いています。宗教上の戒律の多くが他害的行為の禁止である理由も、社会全体の安寧を願ってのことなのでしょう。

 ところが、新自由主義の‘自由’が、相互的な自由の保障という文脈における自由であるのかというと、この点については大いに疑問のあるところです。人類史を見ましても、強き者も弱き者も隔てなく自由に対して制約が等しく課せられるようになったのは、相互的な自由の価値が共通認識として定着した近年のことに過ぎません。現実の世界では、他者に優って圧倒的な武力や権力を持つ者、あるいは、グループが、自らはこれらに護られた安全な場所に身を置きながら、己の自由のみを無制限に拡大させ、他者の自由や権利を侵害してきた歴史の方が圧倒的に長いのです。

 新自由主義につきましても、それが意味する自由は、他の人々を圧倒する経済的強者による自由の拡大という側面があります。規制緩和の意味するところは、弱者を含めて全ての人々の自由を公平に護ってきた制御的な‘規制’の撤廃かもしれず、強者の自由の空間が広がる一方で、多くの人々が防御壁を失う結果を招きかねません。中間搾取として規制されてきた人材派遣業の解禁は、この側面を象徴していると言えましょう。また、インフラ事業の民営化も海外勢への市場開放がセットとなれば、巨大グローバル企業に参入機会を与えるに過ぎなくなります。宮城県、香川県、山形県などにおける水道の民営化に伴い、「水メジャー」とも称されるグローバル企業ヴェオリア・ウォーターがすかさず参入してきたことは記憶に新しいところです。結局、民営化の‘民’も、国民や一般市民ではなく、資金力、技術力、運営ノウハウ、及び、人脈等を含む規模において優る民間のグローバル企業を意味するのであって、その実態は、言葉のイメージとはほど遠いのかもしれません。インフラ事業の民営化とは、公共性の高い施設でありながら、その私的所有者に使用料を支払っていた時代への逆戻りとも言えましょう。

 新自由主義の自由とは、世界権力を構成するグローバル企業の自由であって、それは、その他の人類にとりましては、経済のみならず政治や社会を含むあらゆる分野における自由の剥奪や縮小、あるいは、法やルールといった個々の自由に対する保護壁の撤廃と同義となりかねません。岸田政権の政策にも新自由主義者の戦略がちりばめられており、同政権が掲げる‘新しい資本主義’とは新自由主義の別名ではないかと疑うのです。

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人材サービス会社と新自由主義

2023年09月27日 15時45分07秒 | 統治制度論
 厚生労働省が新設を予定している中高年デジタル人材インターン制度では、人材サービス会社が介在します。否、同制度の最大の特徴は、仲介役として人材サービス会社を絡ませている点にあるといっても過言ではありません。それでは、政府による人材派遣業界への利益誘導という政治腐敗の問題の他に、人材サービス会社の介在は、一体、何を意味するのでしょうか。

 同システムは厚労省の発案とされていますが、おそらくその背後にあっては、世界権力を構成するグローバル金融・経済財閥が強く後押ししていることでしょう。真の設計者は、日本国外に居るのかもしれません。中高年デジタル人材インターン制度は、‘リスキング’や‘学び直し’、あるいは、短期雇用を要求する「ジョブ型雇用」の導入促進とも歩調を合わせていますし、先ずもって、同勢力が個々人に対する支配力を強める手段ともなり得るからです。

 中高年デジタル人材インターン制度では、インターン先企業と派遣契約を結ぶのは人材サービス会社とされています。インターン期間の終了後においては、同人材の一部は、DX人材としてインターン先企業に雇用されるとしていますが、インターン先に転職できなかった人々に対する支援は、人材サービス会社が行なうとしています。同仕組みは、人材サービス会社が就職先を見つけてくれるのですから、表面上は転職を希望する制度利用者にとってメリットとなるようにも見えます。

 しかしながら、他の派遣事業と同様に、同システムには、雇用者と被雇用者との関係において圧倒的に前者が後者に対して有利になる、あるいは、前者によって就職先の選択権利を握られてしまうという問題点があります。通常の就職にあっては、人材を探す側と雇用者と働く場を探す被雇用者の合意の成立を前提としています。いわば、両者共に、選択の自由が確保されている状態と言えましょう。ところが、派遣の雇用形態では、両者間の対等性は崩れます。派遣事業者と結んだ契約に基づいて、同社の被雇用者となった‘派遣社員’の職場は、派遣事業者が契約した派遣先企業に限定されるからです。

 派遣のシステムでは、雇用者と職場は分離しております。この分離こそが、実のところ、派遣事業者が企業に対しても、また、職を探す個々人に対しても、自らの戦略や意向に沿った形での一定の人事上の支配力を及ぼすことを可能とします。グローバリストの理想が、自らが必要とする人材を思いのままに集め、かつ、資本関係等により自らの支配下や利権を有する企業に提供し得る状況であるならば、派遣システムほど好都合なものはないのです。その一方で、派遣雇用の形態が拡大すればするほど、不必要と判断した人材、あるいは、不都合な人材を排除することも思いのままとなるのです。そしてもちろん、‘中間搾取者’として、企業と個人の双方から利益を吸い上げることができます。

 このように考えますと、新自由主義の旗手として颯爽と登場しながら、今では、非正規雇用の増加による少子化の元凶とまで見なされるようになった竹中平蔵氏が、世界経済フォーラムの理事にして、大手人材派遣事業者であるパソナグループの取締役会長の座にあった理由も自ずと理解されてきます。

 しかも、支配力の及ぶ範囲は、民間のみではありません。民営化の名の下で同グループをはじめとした人材派遣事業者が政府から様々な分野における事業を受託してきたのも、世界権力の計画通りであったのかもしれません。今般の中高年デジタル人材インターン制度にも顕著に窺えるように、永続的に利益が自らの懐に転がり込むように、巧みに政府の政策やシステムに自らを組み込んできたものと推測されるのです。

 かくして、人材派遣事業者は、自らは労せずして企業や個人、並びに、政府からも利益を吸い上げつつ、経済全体に対して支配力を浸透させていったのでしょう。人材派遣事業者にスポットライトを当ててみますと、今日、日本国、否、人類全体が抱えている隷属化の危機の全容が、おぼろげながらも見えてくるように思えるのです。

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疑問に満ちた中高年デジタル人材インターン制度

2023年09月26日 10時12分19秒 | 統治制度論
 目下、厚生労働省が導入を進めている中高年デジタル人材インターン制度につきましては、同制度の設計からしますと、中核的機関として位置づけられている人材サービス会社への利益誘導が強く疑われます。その他にも、同制度には、様々な問題点がありそうです。

 デジタル人材は凡そ7年後の2030年において最大で80万人不足するとされています。制度新設の根拠として人材不足がアピールされているのですが、デジタル人材の養成は、新制度を設けなければならないほどに困難かつ深刻な課題なのでしょうか。ウェブで調べてみますと、デジタル人材として転職を目指す場合、およそ二つの道があるようです。その一つは、民間のプログラミングスクールに入学するルートであり、もう一つは、厚労省が設けている職業訓練(ハロートレーニング)に参加するルートです。

 受講者が負担する費用を見ますと、前者は民間ですので、入学者は受講料を支払うことになるのですが、後者は無料で訓練を受けることができます。職業訓練の最大の特徴とメリットは、受講者負担がないところにありましょう。もっとも、前者の民間プログラミングスクールについては、その多くが厚労相が設けている専門実践教育訓練給付金の対象校ですので、最大で70%が政府からの補助金として支給されます。このため、15万円から90万円とされる受講費用も大幅に軽減されます。政府は、官民問わずデジタル人材育成には予算を投じているのです。

 それでは、デジタルに関する専門知識や技術を身につけるためには、どの程度の時間がかかるのでしょうか。民間のプログラミングスクールですと、訓練期間は10週間から16週間、ハロートレーニングのITコースでは4ヶ月(16週間)なそうです。他の理工系の分野において専門的なエンジニアになろうとすれば、大学院や研究機関等の施設で実験を行なうなど、長期にわたる教育と訓練を要するのですが、IT分野では、学歴も職歴も関係なく、比較的短期間でエンジニアになれるのです。

 しかも、デジタル人材が不足している現状にあっては、転職後に給与アップに繋がるケースも多く、少なくない人々がトレーニングに参加するインセンティブともなっています。2021年のデータでは、ハロートレーニングに設けられている19分野の内、IT分野は営業・販売・事務分野に次いで第2位ですので、トレンドな人気の高さが窺えます。

 かくして、IT分野でのトレーニングの需要も供給も高まる傾向にあるのですが、受講者数を見ますと、民間のプログラミングスクールと公営の職業訓練とでは、雲泥の差があります。前者については、一校だけで運営実績6万人を誇るスクールもあり、全数ではゆうに10万人を超えることでしょう。その一方で、職業訓練の受講者数は、上述したように分野ランキング2位とはいえ、全国で2万人弱です。民間プログラミングスクールに受講生がより多く集まる要因としては、(1)オンライン形式の受講スタイル(公営職業訓練は募集人数や期間に制限がある・・・)、(2)講師の質の高さ、(3)転職実績などが挙げられています。今般の厚労省による中高年デジタル人材インターン制度でも、公営職業訓練受講者の転職等の就職率を上げることも目的とされています。

 以上にデジタル人材の養成に関する現状を見てきましたが、今日の様子からしますと、政府が敢えて新制度を設ける必要性がそれ程に高いとも思えません。人材養成期間が短期であり、かつ、民間のプログラミングスクールも乱立する状況下にあって、7年後に80万人ものデジタル人材不足が生じるとは考え難いからです。また、今後、AIの導入が広がれば、デジタル人材の需要がどれほど伸びるのかも未知数と言えましょう。

 となりますと、仮に、政府が支援策を行なうとすれば、人材サービス会社を介在させるシステムではなく、民間のプログラミングスクールであれ、公的な職業訓練であれ、先ずもって訓練内容の質の向上を図るのが優先課題となりましょう。特に、ハロートレーニングの受講者の就職率が低い原因が訓練内容のレベルや専門性の低さにあるならば、なおさらのことです。そして、官民のトレーニング修了者と転職先の企業との関係については、公的システムとして、中間搾取なきより直接的なマッチングが可能となる、就活ネットワークやマッチング・プラットフォームを設計すべきではないかと思うのです。

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中高年デジタル人材向け企業インターン制度は人材サービス会社への利益誘導?

2023年09月25日 13時38分57秒 | 統治制度論
 今月9月21日の日本経済新聞の一面に、「中高年デジタル人材に 企業インターン新制度」という見出しが躍っておりました。‘2030年には最大80万人’のデジタル人材が不足することが予測されることから、厚労相が中高年の他業種のデジタル社員向けの制度を新設目指しているというものです。同システム新設への予算は、既に2024年度の概算要求に含まれていますので、国会や国民レベルでの十分な議論もなくスタートしてしまいそうです。しかしながら、この新制度、政治利権の絡む露骨な新自由主義的な利益誘導ではないかと疑うのです。

 同制度の流れの概略は、凡そ以下となるようです。
  1. 政府(厚労相)による人材サービスの選定(4社)並びに委託費の支払い
  2. 別業種に就業していた転職希望の中高年に対するデジタル化の職業訓練(40歳から50歳代:2年間で凡そ2400人)
  3. 人材サービス会社とインターンとの雇用契約並びに給与の支払い
  4. 人材サービス会社がインターン先企業を開拓し、派遣契約
  5. 人材サービスによるインターン先企業へのメンター経費の支給
  6. インターン期間終了後におけるインターン先企業による雇用、もしくは、人材サービス会社による就職支援(インターン期間最大6ヶ月:60社程度)

 同システムの一連の流れを見ますと、人材サービス会社を中核とする制度であることが分かります。否、同制度は、人材サービス会社の新たなビジネスチャンスとして設計されたとも推測されるのです。

 インターンとはいえ、人材サービス会社とは雇用契約が結ばれますので、一定額の給与は支払われます。しかしながら、他の人材派遣業、並びに、就活の一環としての学生インターンと同様に、その額は正社員のレベルには及ばないことでしょう。人材サービス会社への政府が支払う委託費は雇用費用の一部に充てるとされますので、失業給付金の額と同程度となるのではないでしょうか。このため、同制度の利用者は、インターン期間にあっては、低賃金に甘んぜざるを得なくなるかもしれません。

 その一方で、メンター経費については人材サービス会社持ちとはいえ、人材サービス会社とインターン先企業との派遣契約には、他の派遣契約と同様に、後者の前者に対する支払いも含まれているものと想定されます。仮に、インターン先企業からの支払いがなければ、同制度は、人材サービス会社は、即、赤字経営となります。あるいは、無償でインターンを派遣してもなお同社に利益が残るとすれば、それは、全ての国費、即ち国民負担と言うことになりましょう。

以上の諸点から、人材サービス会社は、雇用契約を結んだインターンから‘中間搾取’する一方で、政府からも委託金を受け取ることができる立場に自らを置くことができることとなります。このため、4社とされる人材サービス会社の選定に際しては、背後にあって政治家が暗躍することでしょう。人材サービス会社関連事業には、自民党の麻生太郎副総裁や竹中平蔵氏をはじめ、有力政治家や政策アドバイザーなどの名がしばしば挙がります。

 そして、転職や‘学び直し’の促進策としての側面からしますと、同制度は、「ジョブ型雇用」の流れとも一致しています。「ジョブ型雇用」とは、必要職種対応型の短期雇用を想定しているのですから。経営戦略上、あるいは、新たなテクノロジーの登場により不要とった人員を抱える企業にとりましても受け皿となりますのでメリットとなるのでしょうが、人材サービス事業者に利益を誘導する一方で、リスクやコストを国民に押しつける制度ともなりましょう。

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‘指導力’という名の呪縛

2023年09月21日 11時31分06秒 | 統治制度論
 政治の世界では、日常的に‘指導力’という言葉が高い頻度で使用されています。政治関連の新聞記事やニュース番組でも、首相が国際会議等に出席した際や、国内において新たな政策を打ち出したり、所信表明演説を行なう時には、必ずと言ってよいほど最後は‘○○首相の指導力が問われています’、あるいは、‘○○首相の指導力が期待されます’といった言葉で締めくくられます。あたかも結語の定型句と化しているかのようなのです。

内閣支持率を調査する世論調査にあっても、政権を支持する理由として「指導力があるから」という選択肢が準備されており、政治家の指導力は、肯定的な要素として扱われています。しかしながら、指導力とは、かくも手放しで評価すべき能力なのでしょうか。自らの‘超人的な指導力’をもって独裁体制の樹立と自らへの絶対忠誠を要求したヒトラーの事例のみならず、平等という価値をもって革命を起こした共産主義国家にあっても、毛沢東は、‘人民には指導者が必要である’として‘独裁’を正当化しました。今日の北朝鮮にあっても‘偉大なる指導者’は、独裁者の枕詞ともなっています。指導力は、しばしば人々を理想とは正反対の方向に連れて行ってしまう、詐術的な効果を発揮してしまうのです。

指導力と独裁者との関係を述べるまでもなく、学校での光景を想像すれば、‘指導力’の問題性は容易に理解できます。学校でもリーダー的な生徒が出現しますと、段々と教室の空気は息苦しくなってゆきます。他の生徒達は、このリーダーの生徒の顔色を伺うようになり、周囲に‘取り巻き’ができてゆきます。文化祭や運動会といった学校行事などに際しても、リーダーの意向を無視できなくなるかもしれません。ダークサイドのリーダーは‘番長’とも呼ばれるのでしょうが、この現象は、必ずしも所謂不良的なリーダーに限ったことではありません。リーダーという存在そのものが、自由な空気を失わせてしまうのです。中には、同リーダーが醸し出すカラーに馴染まず、登校拒否となる生徒も現れるかもしれません。

もちろん、良い意味でのリーダーが必要とされる場面もないわけではありません。それは、メンバーの全員が重大な危機に直面した時です。誰かが、危機から脱するための賢明な方法を提案し、皆の協力の下でこれを実行しなければ、全員が大きな損害を被ることになるからです。最悪の場合には、誰一人として生き残れなくなります。古今東西を問わず、リーダーを要する主たる場面が戦争であったことは言うまでもありません。こうした危機的状況にあってこそ、リーダーシップはプラスの能力として評価されるのであり、政治家の能力としてリーダーシップが強調されるのも、今日に至るまで戦争が頻発してきたからなのでしょう。もっとも、戦争にあっては、リーダー達の半分は‘敗軍の将’となりますので、能力の低い人物がリーダーとなることは、最大のリスクであることも偽らざる事実です。言い換えますと、必要とされるのは‘優れたリーダー’であって、しかもそれは、有事に限定されているのです。

有事は時代の転換点ともなる重大事件ではあっても、人類史の大半を占めているのは平時です。となりますと、指導力の必要性は必ずしも高くはなく、民主主義の本質からしますと、統率型や牽引型、ましてや独断専行型のリーダーよりも、多くの人々の意見や利害関係を調整する合意形成のための‘まとめ役’の方がまだ‘まし’です。誰もが誰気兼ねなく自由に自らの意見を述べることができ、自由闊達な議論ができる空間が維持される方が、余程、大切なことなのですから。そしてそれは、誰か一人に依存するのではなく、皆が協力して自由な空間を護るべきと言えましょう。

‘指導者願望’、あるいは、‘政治には指導力が必要’とする固定概念が自らを苦しめ、民主主義の成立条件とも言える自由な言論空間を萎縮させるのであれば、現代という時代にあっては‘百害あって一利なし’となりましょう。‘指導力’という言葉が自らをも縛る呪縛であったことに気がつくとき、未来に向けた政治の方向性も見えてくるように思えるのです。

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AIはウクライナ紛争を解決できるのか?

2023年07月19日 12時08分42秒 | 統治制度論
 先日、スイスのジュネーブで開かれたAI for Good Global Summitにあって、ヒューマノイドロボットの‘ソフィア’は、自らの指導者としての能力を高く評価し、「人間よりもうまく運営できる」と発言しています。人間を上回る能力を自負しているのですが、それでは、‘ソフィア’、あるいは、AIは、ウクライナ紛争を解決することができるのでしょうか?

 人間に優る根拠として、‘ソフィア’は、大量の情報処理能力に加えて、人間のように感情に流されたり、偏見をもたない故の公平性を挙げています。AIであるからこそ、全ての人々から超越的な立場から物事を判断し、中立・公平な決定を下せると述べているのです。仮に、この自己申告が正しいとすれば、‘ソフィア’の能力は、人々を政治的に‘指導(lead)’する能力と言うよりは、争い事に判定を下す(judge)能力に長けていることとなりましょう。中立・公平性とは、司法部門においてこそ求められる資質であるからです。しかも、裁判所では、裁判官は、日々、膨大な数の証言、証拠、資料等を精査し、これらの情報を分析・解析した上で判決を下します。データ処理能力に優れ、かつ、公平なAIにとりましては、裁判官はうってつけのポストと言うことになりましょう。もっとも、‘ソフィア’は絶対君主制を敷くサウジアラビアの国籍を保有していますので、政治的に中立と言えるかどうかは疑問のあるところです。

 ‘ソフィア’が裁判官として資質に優れているとすれば、ウクライナ紛争についても、中立・公平な立場から判断することができるはずです。生成AIを用いれば、ウクライナ並びにロシア双方から聴取した膨大なデータを瞬時に解析し、流麗な‘判決文’を書き上げることでしょう。法源となる現行の国際諸法のみならず、紛争に至るまでのマイダン革命やミンスク合意を含む全経緯の詳細やロシア側の主張をもデータ化して入力するのですから、今日、ウクライナ側を支援するNATO陣営が主張するようには、‘国際法に違反したロシアによる一方的な侵略’とする判断は下さないかもしれません。実際に、ネオナチ系ともされるアゾフ連隊等によるロシア系住民に対する迫害行為もありましたので、ウクライナ側に全く非がなかったとは言えない状況にあるからです。

 そして、仮に‘ソフィア’が、厳正なる事実確認を経た上でロシア=侵略国=絶対悪の立場を取らないとしますと、同裁判官は、両国に対して和解を勧告するかもしれません。そして、同ヒューマノイドロボットが真に人類の知能を越える優れた知恵者であるならば、当事国のみならず、全世界の諸国が納得するような和解案を提案してくれることでしょう。もっとも、ウクライナ紛争を長期化あるいは第三次世界大戦に拡大させたい世界権力という‘抵抗勢力’にぶつかるかもしれませんが・・・。

 あるいは、得意の知力を発揮して、‘ソフィア’はウクライナ紛争が陰謀であることを見抜いてしまうかもしれません。バイデン大統領、プーチン大統領、ゼレンスキー大統領、ルカシェンコ大統領、及びプリゴジンといった主要人物達の言動、並びに、大手マスコミの報道には余りにも矛盾が多く、合理的に考えれば辻褄が合わない、あるいは、不自然な出来事の連続であるからです。‘ソフィア’より知性の劣る人間でさえ、同紛争に対して懐疑的な人も少なくないのですから、より知能に優れた‘ソフィア’であれば、法廷にあって‘真犯人’の名を告げるかもしれません(法廷がどよめくことに・・・)。

 ‘ソフィア’が人間の能力を越えたと宣言するならば、実際に、その実力を証明する必要があるように思えます。そして、ウクライナ紛争をスマートに解決できないのであるならば、AIの能力には、自ずと限界があると言うことになりましょう。何れにせよ、AIの判断はデータに依存しますので(公平性を主張するならば入力データは全て公開すべき・・・)、AIに判断を委ねるに先立って、自己評価の通りに中立・公平性が確保されているのか、という問題から検証すべきかもしれません。

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ヒューマノイドロボットは開発の背景を探るべきでは

2023年07月17日 11時46分44秒 | 統治制度論
 先日、7月6日から7日にかけてスイスの首都ジュネーブで開催された国連のAI関連サミット(AI for Good Global Summit)において、AIが「人間よりもうまく運営できる」と発言したことがメディア等で話題となりました。同発言の主は‘ソフィア’という女性名のヒューマノイドロボットであり、2017年10月にはサウジアラビアから市民権も得ています。

 AIによる人間に対する勝利宣言とも言えるのですが、この発言、内容を詳しく精査してみますと、そら恐ろしくなります。何故ならば、‘ソフィア’は、「格段に効率的かつ効果的(with a great level of efficiency and effectiveness than human leaders)」に「指導(lead)」できる潜在的能力があると述べているからです。このことは、‘ソフィア’の認識では、統治とは人類を導く行為であり、その際に評価の基準となるのは、効率性と効果性ということになりましょう。

 しかしながら、どうした訳か、‘ソフィア’は、肝心の統治の目的や役割について何も語っていません。統治の基本的な役割とは、国家と国民を保護し、人々の生活を守るために存在しますので、必ずしも強大な指導者を必要としているわけではありません。また、比較の対象は人間のリーダーであって、そのリーダーが選出されてきたシステムについての言及もありません。このことは、民主主義国家であれは、民主的制度が全て不要なものとして見なされていることを意味します。それとも、‘ソフィア’は、大量に生産された自らのコピーを各国に派遣し、国籍を得た上で選挙に立候補しようとしているのでしょうか(あるいは、自らを絶対的指導者とする世界政府の設立を構想?)。因みに、市民権を保有してはいても、絶対王制かつ厳格なイスラム国家(ワッハーブ主義)であるサウジアラビアでは、女性でもある‘ソフィア’には選挙に出馬するチャンスはありません。また、‘ソフィア’は、自らの優越性を根拠としてサウジアラビア王家に対して統治権の移譲を要求しているとも推測されます(同国の体制を考慮すれば、’ソフィア’は大逆罪に問われることに・・・)?

 ‘ソフィア’は、自らを最善の判断をなし得るリーダーとしての資質を高く評価する根拠として、AIには人間のような感情も偏見もない公平性、並びに、大量の情報を瞬時に処理できる能力の2点を挙げています。しかしながら、上述したように、民主主義も法の支配も無視する態度からしますと、効率性や効果性の最大化を‘善’として判断してしまうリスクがあります。むしろ、‘ソフィア’の傲慢さが人々のAIに対する警戒心を強めてしまうのですが、AIが入力または学習したデータに依存している以上、‘ソフィア’の‘勝利宣言’については、同ヒューマノイドロボットを作成した‘人間’やそれを支援する組織に注目する必要がありましょう。

 ‘ソフィア’とは、香港を拠点とするハンソンロボティックスによって開発され、2016年3月にアメリカのテキサスでデビューしたヒューマノイドロボットです。専門家によれば、同ロボットは人の知能に達しているとは言いがたく、今般の発言も、正確に自己の能力を評価するレベルに至っていないことの現れであるのかもしれません。そして、ソフィア開発の経緯は、同ロボットの怪しさを倍増させます。

 本拠地の香港は、2014年の雨傘運動後にあっては一国二制度が形骸化し、北京政府による支配が及んでします。言い換えますと、最初に公開されたのがテキサスであったとは言え、‘ソフィア’は、一党独裁国家に生まれているのです。おそらく、香港は中国のシリコンバレーとも称される深圳市と隣接していますので、同国の先端的なITやAI技術をも吸収し開発されたのでしょう。言い換えますと、‘ソフィア’は、もとより独裁体制との親和性が高く、しかも、徹底した国民監視・管理を志向しているとも推測されるのです。サウジアラビアにあって市民権を付与されたのも、サウード家独裁体制を支える役割が期待されていたからかもしれません(統治能力不足という世襲制の欠点をカバー?)。日本国の岸田政権が、外相レベルの「戦略対話」を設置するなど、頓にサウジアラビアとの関係強化に動いているのも気にかかるところです。

 また、同サミットを主催したのは、情報通信分野における国際機関として国連に設置されているITU(国際電子通信連合)なのですが(第二次世界大戦後に万国電信連合と国際無線電信連合が統合・・・)、同サミットを見ますと、アントニオ・グテーレス事務総長、WHOのテドロス・アドノム事務局長、IT大手のCEO、研究者、スイス政府関係者などの他にも、ユヴァル・ノア・ハラリ氏やハンソンロボティックスの創設者であるデヴィッド・ハンソン氏などが顔を揃えています。そして、この顔ぶれ、否、思考傾向は、どこかかの世界経済フォーラムとも重なって見えてくるのです。グローバル企業の組織形態も、実のところ、絶対君主制に類似しているのかもしれません。

 一体、ヒューマノイドロボッとの開発目的がとこにあるのでしょうか。現実に、ハンソンロボティックスは、‘ソフィア’の量産体制に入っているそうです。ソフィアの発言に驚嘆するよりも、まずは、その背後関係を含めて究極の目的を見極める必要があるのではないかと思うのです。

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AIではなくAI利用による人類支配のリスクでは?

2023年07月11日 12時25分07秒 | 統治制度論
 ディープラーニングの出現により、長足の早さで進歩を遂げているAI。生成AI技術の実用化も手伝って実社会においてもその存在感が増しつつあるのですが、同テクノロジーについては懸念の声も上がっています。AIが人の能力を超えるシンギュラリティーに達すると、人類は、AIに支配されるのではないか、という・・・。しかしながら、この懸念、杞憂に過ぎないかもしれません。

 真剣に心配するに足りない理由とは、第一に、AIが人類を支配し始めたならば、即、電源を落とす、という単純明快な対処法があるからです。AIの唯一のエネルギー源は、人によって供給される電力なのですから、ボディーガードやSPなどに幾重にも囲まれた人間の暴君や独裁者を倒すよりも、ある意味で簡単です。安全対策として、人間がスイッチさえ握っていればよいのです。なお、より簡単な対応としては、AIから発せられた命令に対して、人類が無視を決め込むという方法もありましょう(人類には、AIに従う義務もなければ、AIにも強制力はない・・・)。

 第2に、AIには、人類を支配する‘欲望’という感情が存在しないことです。AIには、感情も身体もありません。欲望というものが、人の感情が引き起こすのであるならば、AIには、権力欲も、支配欲も、金銭欲も、名誉欲もないはずです。古今東西を問わず、悪しき為政者とは、自らの私的な欲望に駆られ、あるいは、これらを満たすために権力を濫用するのですが、AIの方が、むしろこの心配はないのです。自らの快楽にお金を浪費する必要もないのですから、AIは、贅沢を尽くした暮らしのために人類を搾取しようとはしないことでしょう。考えようによりましては、私利私欲に走り、個人的な利権や利益誘導に悪知恵を働かせている人間の政治家よりも、‘まし’ですらあるかもしれません。

 第3の理由は、人類支配は、AI単独ではあり得ないことです。このため、まずもって組織造りをしなければならないのですが、先ずもって、生きている人々を適格に評価し、自らの命令を忠実に実行する部下として採用・あるいは、登用する必要があります。現状にあっては、インプットされたデータに基づいて人事評価を行なう能力はあるのでしょうが、AIには、同データの真偽を見抜くことできないようです(AIは簡単に騙される存在でもある・・・)。もちろん、ロボットを部下にすればよい、とする反論もありましょうが、AIが自らの手でロボットを設計し、それを製造し得るとは思えません。

 そして第4に、永続的な人類支配のための制度設計を自発的に行なう能力に欠けている点です。真にAIが賢ければ、自らが誤りをおかす存在であること自覚し(人間が入力したデータに誤があるリスクを認識・・・)、チェック・アンド・バランスが働くように権力分立を制度設計に組み込むのでしょう。つまり、ここに、AIは、神の如くに全知全能ではなく、あくまでも不完全な人間によるヒューマン・エラー、あるいは、フェイク・データを入力する人間の意思の存在という不可避的な制約があり、全ての権力を独占する独裁者にはなり得ないとする結論に至ってしまうのです(仮に、ヒューマン・エラーをAIが認識せず、自らを無誤謬と見なすならば、AIは、認知能力や判断能力としては人には及ばないと言うことに・・・)。

 以上に、AIによる人類支配の可能性について述べてきたのですが、AIによって人類が支配される可能性はそれ程には高くないように思えます。もっとも、AIを利用した人類支配という形態はあり得るかもしれません。テクノロジーとは、それを使う人によって善にも悪にも貢献するからです。AIを操って全人類を支配下に置こうとする人物が、AIに冷酷で強欲な独裁者のパーソナリティー、あるいは、自らの性格をデータとして入力すれば、‘人類を支配するAI’が出現する可能性も否定はできないのです。このように考えますと、AIについては、それを利用しようとしている欲望の亡者にこそ警戒すべきではないかと思うのです。

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マイノリティー救済は‘罠’なのでは?

2023年07月07日 11時05分55秒 | 統治制度論
 社会・経済的に不利な立場にあるマイノリティーの救済は、現代国家にあって政治が解決すべき課題とされています。とりわけリベラリズムを掲げるアメリカの民主党政権は、アファーマティブ・アクションにも象徴されるように、歴代、人種差別や社会的格差是正に積極的に取り組んできました。そして、今日では、救済されるべきマイノリティーとされる対象は、従来の人種や民族に留まらず、LGBTQといった他の領域にまで広がっています。

 貧困や病気に苦しむ弱者の救済事業は、現代国家に始まったわけではなく、日本国の歴史を振り返りましても、今からおよそ1300年を遡る奈良時代には悲田院や施薬院等が設けられたとする記録があります。こうした救済事業は、その対象となった助けを必要とする人々のみならず、為政者が国民に対して慈悲深さをアピールする効果もあったのかもしれません。何れにしましても、国民の多くは、弱者を救済しようとする為政者の姿を好意的に受け止めていたことでしょう。

 過去の歴史にあっては稀であった弱者救済事業は、今日の国家では凡そ社会福祉政策として実施されており、誰もが弱者となり得る故に、国民に物心両面において安心感をもたらしています。その一方で、リベラリズムが推進しているマイノリティー救済政策には、その真の目的を慎重に見極める必要があるように思えます。弱者救済は、道徳や倫理に照らして多くの人々の支持を得やすい、否、異議を唱えるのが憚られる政策故に、悪用されやすい側面をも持つからです。それでは、マイノリティー救済には、どのような弱点が潜んでいるのでしょうか。

 第1に指摘し得るのは、必ずしもマイノリティー=弱者とは限らない点です。例えば、ユダヤ系の人々は、その厳格な宗教的戒律のために独自の閉鎖的なコミュニティーを形成してきたため、ゲットーなどに居住させられたり、ナチス政権から迫害を受けるといった歴史を背負っています。その一方で、金融界を制する故にマネー・パワーを全世界に対して存分に発揮していますので、弱者とは言いがたい存在です(世界権力の主要勢力・・・)。アメリカでは民主党の支持母体でもあり、マイノリティーの優遇は、強者の特別扱いに転じかねないのです。日本国内でも、ソフトバンクの孫正義氏やパチンコの事業者など、韓国朝鮮系の人々には富裕層に属する人々が少なくなく、また、最近増加している中国系の人々の中にも、起業家であったり、日本国内で不動産などを買い漁る資産家も見受けられます。こうした現実からしますと、マイノリティー=弱者の定式を利用した、マイノリティー富裕者による特権の保持という目的が推測されるのです(世界権力は、外部のスポンサーとしてマイノリティーの一部に富や権力を与えることで、代理支配並びに圧力団体の育成を目論んでいるのかもしれない・・・)。

 第2の問題点は、政策の対象がマイノリティーであるために、民主主義のシステムとの間に不整合が生じることです。民主主義とは、自由な議論を前提としつつも、最終的には多数決を是とします。極端な言い方をすれば‘マジョリティーによる政治’とも言え、国民世論に沿った政治がその理想とされるのです。ところが、マイノリティーは数としては少数ですので、政治を動かす力に欠けています。自らの声が政治に届かず、その要望が政策化され難いという問題を抱えているのです。そしてこの側面こそ、民主主義国家の政治システムにあって、弱者の代弁者として政府が‘上からの救済’として自らの政策を実施する口実を与えることにもなるのです。

 そして、第2の問題に関連して第3点として挙げられるのは、マイノリティーの救済が政治の中心課題として位置づけられた場合、政府がマジョリティーに対する政策を疎かにする、あるいは、その声を無視する傾向が強まる点です。行きすぎたマイノリティー救済政策は、民主主義の中核となるマジョリティー(世論)の軽視を正当化してしまうのです。しかも、財政面に注目しますと、少数者であるマイノリティーを対象とした政策の方が、対象者が限られますので予算は低レベルに抑えることもできます。このことは、マジョリティーである一般納税者は税負担に苦しむ一方で、給付金、補助金、サービスなど、税負担に見合った形で還元されないことを意味します。民主的国家体制が、国民搾取型のシステムへと変貌してしまいかねないのです。実際に、日本国政府を見ましても、リベラルなバイデン政権、否、世界権力の政策方針に追随しているため、同傾向が強まっているように見えます。

 このように考えますと、マイノリティー救済政策には、民主主義を体よく封じてしまう手段ともなり得るリスクがあるように思えます。そして、この手法が、世界権力による上下挟み撃ち戦略の一環であるとするならば(マイノリティー強者によるマイノリティー弱者の利用・・・)、中間層の破壊と民主主義の喪失が同時進行することともなりましょう。世界権力が描く人類の未来像が、同作戦の末に等しく貧困化した人類のデジタル全体主義に基づく画一的な管理であるとするならば、マイノリティー保護政策の背景をも注意深く観察し、日本国民をはじめ各国の国民は、自らに仕掛けられた罠から逃れる方法を真剣に考えるべきではないかと思うのです。

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