93歳・老大娘の日記

晩年を生きる

中島飛行機の終戦

2015-12-10 21:34:49 | 日々の暮らしから
今年は終戦70年、数々の本が出版されましたし、
メディアにも取り上げられました。
この本もその一貫ですが、お友達から頂きました。

その友人は私より少しだけ年長、博識、記憶力もよく、尊敬しています。
詩人の茨木のり子さんのような信念の人、強い人です。
会えばいつも刺激を受けています。

名古屋はこの中島飛行機はじめ三菱航空機など航空機生産の中心地でしたから
学徒も全国から動員され(男女で1万人位)犠牲者も多くでました。
この友人も間一髪で命拾いしたそうです。本の中で証言もしています。
動員学徒の年齢は主にS2年~S6年なので、S6年生まれの私はぎりぎりで動員されたわけです。
私は神戸製鋼名古屋工場へ動員され、飛行機の部品作りに励みました。
鋳物工程の「中子取り作業」でしたが、急ごしらえの「工員」ですから多分歩留まりはよくなかったでしょう。
↓  左から2人目が私です。食料不足の時代にしては丸い顔しています。
   父の関係で新聞社の取材を受け当時の新聞に載りました。
私も知っているカメラマンでした。
   女学生も工場で・・・と言うような見出しだったかもしれません。
左隣に座るsigekoさんは空襲警報が出て退避の途中、
焼夷弾の破片で足を怪我しましたが、命に別状はありませんでした。
      

当時の中島飛行機の技術陣には、かの宇宙開発の父と言われる糸川英夫さんはじめ東大技術の英知が集まっていた。
小惑星探査機「はやぶさ」は中島飛行機の誇る戦闘機「隼」からの命名です。
また小惑星「イトカワ」も糸川氏に因んで命名されたこともよく知られています。

終戦の混乱時、先ず学徒を父母の元に帰し、半島からの徴用工にも旅費など与え帰したりと
列車もいつ動くかわからない混乱の中で想像を絶する大変さだったでしょう。
中島飛行機の職員たち自身明日もわからぬ身の中でよく戦後処理に当ったと感動した。
なかにはどさくさにまぎれ、自己中心の行動に出た人もいただろうが
全般にはさすが日本人の誠実さがなければできなかったと思う。
後数年で歴史の証人もいなくなる時代、よい本が出版されたと思いました。
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17 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
歴史の証人 (kei)
2015-12-10 22:44:23
貴重なお写真ですね。
そして、貴重なReiさんのお話、じっくり拝読いたしました。
新聞でさまざまに戦後70年の特集が組まれてきました。
知らな過ぎますので、せめてと目を通す努力だけはしてみましたが、…。
記録に残すこと大切ですね。
返信する
学徒動員 (nampoo)
2015-12-10 22:56:08
こんばんは。
Rei様も学徒動員で工場にいらっしゃったのですね。
私の姉も女学生の時、学徒動員で工場に行ってました。
今となっては懐かしい思い出ですね。
女学生のころのRei様失礼を顧みず言わせて頂けば可愛らしい!

糸川先生の弟子で惑星探査機にかかわった、小学校時代の同級生がいます。
13日に彼が種子島の帰りに寄るそうで、
同窓会をすることになっています。
世の中狭いですね。
返信する
おはようございます (ふくちゃん)
2015-12-11 07:34:16
この本に この写真が載っているのですか?

決して良い思い出も無い時でしょう。
いろんな経験をされた方がどんどん減ります。
また経験された方も思い出したくないでしょうし

戦後の復興の良いイメージが残っている気がします。
私など中途半端な記憶ばかりです。
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≫Keiさん (Rei)
2015-12-11 09:58:28
平素忘れていても、折に触れ思い出していますが、
それも私世代が最後となりましょう。
同じ工場に奈良県の五条中学の生徒が来ていましたが、
寄宿生活ですから、いろいろなエピソードが残っています。
私たち女子は自宅から通っていましたから
恵まれていました。
学徒動員対象年齢が昭和6年生まれまでとは
私も知りませんでした。
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≫nampooさん (Rei)
2015-12-11 10:04:47
おはようございます。
惑星探査機も今回のノーベル賞も大勢の力の結集ですね。
その一人に同級生の方がおられたとは・・・
戦時中は厳しい情況でしたが、両親の庇護のもと年齢なりの楽しみを味わっていました。
今見てみれば、食糧難の時代の顔ではありませんね。
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≫ふくちゃん (Rei)
2015-12-11 10:08:36
おはようございます。
いえいえ、この写真は当時の新聞に掲載されました。
この本の中の写真はもっともっと貴重なものが載っています。
私の中では戦争が風化したわけではありませんが、
辛い苦しい思い出はありません。
現代社会の若者のほうが活きにくいとさえ思います。
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Unknown (hiro)
2015-12-11 11:00:37
Reiさん、こんにちは~♪
生きていれば103歳の夫の父親が戦前は中島飛行機、
戦後は富士重工に勤めていました。
東京にあった工場や研究所は閉鎖され
現在は国際基督教大学等が建っています。
子供時代、夫はその近くの社宅に住んでいたので、
桜が咲く頃になると、一度訪ねてみたいわね等と
話し合いながらも、まだ実現していません。

義父から戦争や「はやぶさ」の話は聞いたことがありません。
糸川英夫さんのことも知りませんでした。
良い本をご紹介いただきました。


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Unknown (Rei)
2015-12-11 16:11:52
こんにちは!
中島飛行機にはご縁があったのですね。
この本に出てくる工場(愛知県半田)は今もあるようです。自動車を生産していると思います。

国際基督教大学になっている?>・・・学生さんたちは戦時中のことは何も知らないでしょうね。

私もそうですが、あまり戦時中の事は話しません。
義父上様も同じ気持ちでお話しなさらなかったのでしょう。
今になって思えば私も父からいろいろ聞いておきたかったです。
返信する
≫hiroさん (Rei)
2015-12-11 16:13:42
ごめんなさい!↑のコメントはhiroさんへでした。
そそっかしいです!すみません!
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Unknown (のん子)
2015-12-11 18:40:08
私も今になって、(亡)父母に戦時中の話を聞いておけば良かったと後悔しています。

私は戦後教育を受けたので、天皇制度に良いイメージを持っていませんでした。
母は皇室が好きだったのですよ。
今は違う意味で皇室の危機が叫ばれていますが(汗)
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