去る秋晴れの1日、ローズ俱楽部(シニアの俱楽部)のミニツアーに参加しました。
余り知られていないけれど、ここ乙川には多くの興味深い数々がありました。
七本木池公園、中央の橋は浮橋
長閑な公園ですが、戦時中のこと。近くの中島飛行機から空襲を避けて燃料のドラム缶50余が
公園近くの雑木林に隠されました。数日も経ないでアメリカ軍の爆撃で全て燃えてしまった。
多くの一般人が犠牲になりました。この雑木林が避難地になっていたからです。
何故敵に知られたのか、今以て謎だそうです。スパイ?
豊田佐吉は発明王として教科書にも載り、現在の「世界のトヨタ」のルーツとも言えます。
地元資産家(石川藤八)の支援もあって発明に没頭、かの自動織機が完成しました。
発明王二ふさわしい多くの逸話も残っています。
世界遺産の富岡製糸場でも彼の自動織機が活躍しました。
2人で乙川綿布を立ち上げ、その製品の高級かつ均一性に世間は驚きました。
間髪入れずと言う速さで三井物産から買い入れの申し出があり、広く世に出ました。
そして佐吉は「三顧の礼」で迎えられ、三井の社員になりました。
生涯恩人の藤八さんと共に・・・と言う思いの佐吉でしたが、藤八さんの勧めで三井へ行きました。
三井資本もあって世界の豊田佐吉となりました。
恩人の石川藤八氏の居宅、いまもご子孫が住んでおられます。
近くで行われた「決闘」を前に次郎長が願掛け↓お地蔵さん。
次郎長のお地蔵さんはこの光照寺境内の一隅にある。
中島飛行機工場跡。広大な土地の一部には滑走路らしきものも残されていた。
当時この工場で造られたエンジンの素晴らしさは類を見なかったらしい。
そんな逸話:彩雲(海軍偵察機)がフィリピン辺でグラマン(アメリカの戦闘機)3機に遭遇、
その距離400m、操縦士は慌てず3機のグラマンを悠々振り切った。
ことほどさように中島飛行機のエンジンの技術は素晴らしいものだったらしい。
久しぶりに参加したローズ俱楽部ですが、今回は男性10人近く女性は私含めて3人、
テーマが女性には魅力なかったのか?男性軍は物知りの方多く驚きました。
この日の引率講師は私が受講中の「知多半島の不思議」の郷土史家西先生。
乙川では有名な「佐五銀」で昼食、天ぷらも美味しくて満足しました。食後
座学も30分以上あり、現地で解散しました。
参加に少し不安もありましたが、移動は殆どマイクロバスでしたし、
県内ですからいざとなればタクシーでも帰れるからと思い切りました。
落伍することなくよかった。
さらに半田在住のお友達が見学ポイントまで会いにきてくれて感激!
彼女も西先生と同じ会の郷土史家。よき秋の1日を過ごせました。
多くの歴史が秘めていることを郷土史家の
先生から教わりました。
実は昨日、新見南吉記念館で絵本原画展・・・>あら偶然に半田がでてきましたね。
新美南吉記念館はさほど大きくはありませんが、
若くして逝った南吉を偲ぶ数々が展示されています。
近くを流れる川の土手には何万本かの彼岸花が見事です。
南吉も歩いたことでしょう。
以前、お義父様の富士重工勤務はお聞きしたような記憶があります。
昔の研究者は勿論一般の従業員も会社に誇りを持って
お仕事されていました。
最近の不祥事は悲しいですね。
跡地がICUとなり・・・>その変貌は今昔の感にたえませんね。
杖突いてツアー参加はむりと思っていましたが
思い切って行ってよかったです。
歴史はロマンがあって面白いですし、
楽しいですね、篠山も歴史の宝庫です。
そうですね、今の時代、未来に残るものはなんでしょう?
半田は名古屋から遠くなく、
この日のように私でも行けるので満足致しました。
まだまだ多くの魅力がある地です。
財界の大物も輩出していて、それは何故?
先生も首を傾げておられました。
好天も楽しさを倍増致しました。
豊田佐吉の名、久しぶりに耳にしました。
様々な歴史を持つ半田市ですね。
実は昨日、新見南吉記念館で絵本原画展を日本画家・鈴木靖将氏が開催中だと教えられました。
氏の先妻・故三橋節子さんつながりでですが、偶然にも「半田市」でしたわ。
現地で、この二階で佐吉が発明に没頭した・・・
等々
講師の先生のお話し上手もあり、その他諸々興味は尽きませんでした。
真偽のほどはともかくエピソード多い佐吉さんだったようです。
昨今の不祥事、しかも大企業のそれは信じられない思いです。
何とか日本の名誉を挽回してほしいですね。
とても嬉しいです。
郷土史家西まさる先生の講座を受講していまして、
知多半島の不思議を知り関心益々深まりました。
中島飛行機の社員の社宅のことも現地で説明されました。
空襲でその方たちがたくさん犠牲になったとか。
いつかまたお会いする日が来るといいですが・・・
有意義なツアーでしたね。
豊田佐吉や中島飛行機の知らなかったことを
沢山知ることができ、私にとっても有意義でした。
夫の父親は三鷹の富士重工に勤務しており、
前身が中島飛行機だったことは聞いています。
その跡地がICUとなり、滑走路と呼ばれる道路は
春になると桜の名所となっているそうです。
子供のころは社宅に住んでいて、夫の故郷でもあるので、
一度は訪ねてみたいのですが、まだ実現していません。
いろんな歴史が残っている場所。
佐吉さんや次郎長さんまでお出ましで(^_-)-☆
歳がいったからでしょうか?フト思います。
今の時代ザワザワして、心に沁みる残せる歴史はあるのでしょうか?
友人の実家が織物業でしたが、今はすっかり
寂れてしまいました。
醸造や焼き物に加えて航空機も盛んだったとは・・・
知多半島は歴史の宝庫ですね。
豊田佐吉や石川藤八のこと全く知りませんでしたので、
大変興味深く読ませていただきました。
最近「物作り大国日本」が揺らぐような事件が多く、
先人の功績を汚して欲しくないですね。
またゆっくりとお邪魔いたします。
留守中にコメントをありがとうございました。
先日半田赤レンガ建物について記事を書いたところ、中島飛行機にお父様が勤務していて、爆撃機のエンジンを設計していたとコメントをいただきました。
ロケットの糸川博士も中島飛行機に勤務なさっていて、当時の日本の頭脳が結集していたのですね。
池の近くは当時の中島飛行機の社員の社宅がずらりと建っていて、その子弟が半田高校の質をさらに高めていたと聞いています。
ブログの良さでしょうか?一つの記事から、思わぬ知遇を得ることができて喜んでいます。
Rei様とお近づきになれたのもその一つとして、大変喜んでおります。
素敵な記事をありがとうございました。
この公園のお近くにお住まいとは、びっくり致しました。
さらに中島飛行機にも関係おありだったとは・・・
いろいろご縁がありますね。
この日は好天で、お子さん連れのママたちが
遊具で遊んでいました。
私は杖を突いているのですが、池の周りを歩きました。
中島航空機のことを詳しく聞いた後でしたので
平和の幸せをしみじみ感じました。
いつかまたお会いできる日がきますように・・・
乙川へは初めて訪れました。
長閑な風景の中にやはり戦争の傷跡が残っていました。
車でないと不便なところです。
「佐五銀」さんは料金以上の品数美味しさでした。
戦争中を知っていますので、貧しかった食卓を思い出し、
平和を感じました。
毎日七本木池を散歩しています。
池から我が家まで5分ほどです。
「佐五銀」のすぐそばで、小さな寺子屋のような塾を25年していました。
夫の父が中島飛行機に勤務していて、戦争中は飛行機の格納庫を設計していました。また武豊線の敷設にも尽力していたと聞いています。
今日、いらっしゃることを知っていたらお目にかかれたのに残念!
乙川に引かれて、コメントをしたくなりました。
親しい友人が、乙川在住です。
よくわからない立場ですが、乙川区長と言う立場にかなり長くいらしたと思います。
博識の持ち主で、半田や知多半島のことはその方から教わりました。
「佐五銀」のことは、教わっていませんでしたが、いつか連れて行って貰いたいです。