戦時の欲望と気質というのは変えようがない。コンプレックスと無学と戦闘気質が生んだ偶然の悲劇。
前回”その1”では、チャーチルとチューブ•アロイズ(原爆投下)計画の大まかな概要について欠きました。
そして今日は、この原爆投下に大きく関わった、”憎き”チャーチルの生い立ちと生涯の第1話です。
因みにチャーチルって、どんな人?
本名は、ウィンストン•レナード•スペンサー•チャーチル。1874年、英国人貴族で保守党議員の父と、アメリカ人投機家の次女の妻の元に生まれた。小さい頃は、学校の成績も最下位で、運動音痴で問題児でもあったチャーチルは、校長からの鞭打ちもしばし体験し、退学の目にあうが。作文と絵が好きな華奢な少年でもあった。
因みに、父親のランドルフもチャーチルと似て、性格は短気で衝動的、コンプレックスが強く酒乱だった。その上最後には失脚するなど、瓜二つの親子である。
高校に入っても学業は最低、相変わらずの問題児で、上級生の鞭打ちにも悩まされた。しかし落ちこぼれのクラスでは、得意の射撃や文章の才を磨く。
18になると、3度目の挑戦で”誰でも入れる?”王立陸軍士官学校に入学。相変わらず成績は最悪で騎兵科に回される。
ヴィクトリア女王の軍隊の軍人となったチャーチルは、学業に悩まされる事はなくなり、地形学、戦略、戦術、地図、戦史、軍法、軍政など興味ある分野の学習に集中できた。卒業時はソコソコ優秀な成績だったと、あくまで落ちこぼれ組の騎兵科のクラスですが(笑)。
軽騎兵連隊に配属されたチャーチルは、父の死もあって、家計を助ける為に従軍記者として第二次キューバ独立戦争(1895〜98)を体験する。お陰で、植民地人の独立の機運に敵愾心を抱く様になる。
英領インド帝国やスーダン侵攻では、3冊の本を描いた。これが好評でかなりの収入を得て、家計を救う。チャーチルの繊細で卓越した文才こそが、コンプレックス続きの哀れな生涯を後々も支える事になる。
23歳で陸軍を除隊し、保守党候補として出馬するが落選。再び記者になるも、ナタール植民地で捕虜となる。しかし、命からがら”脱走”したチャーチルは、その度胸と勇気を評価され、南アフリカ軽騎兵連隊に中尉のまま再入隊する。
第二次ボーア戦争(1899−1902)で、ゲリラ戦を体験したチャーチルは、有名な”脱走劇”のお陰で、保守党庶民院議員となる。
演説屋としてのチャーチル
若干26歳の若さで政治家になると、持ち前の闘争欲と武勇伝?と、弁の立つセンスと得意の文才で出世した。
国内は勿論、アメリカや英領カナダでも積極的に演説を行い、金を稼いだ。当然、アイルランド系には激しい追及を受けた。
”ボーア戦争が侵略”だった事の弁明では、”良い戦争だろうが、悪い戦争だろうが、祖国に従うしかない。しかし、私がボーア人だったら、やはり戦場で戦っているだろう”との初演説は有名だ。
1901年にはフリーメイスンにも入社。やっぱ嫌な白人だったんです。
南アフリカでの長期戦は、予想外の膨大な戦費をもたらし、イギリス財政は赤字に。そこで保守党首のチェンバレンは、植民地に帝国特恵関税を導入する保護貿易主義を唱え、国内は二分する。
ここにてもチャーチルの陰謀は冴える。敢えて、かつて”父を謀反にした”保守党に背を向け、自由党に移り、保守党の保護貿易に対抗し、自由貿易を全国中で雄弁に訴えた。
”私は保守党にいた時バカな事を沢山言った。これ以上バカな事を言いたくなかったので自由党へ移った”と笑いをとる。
お陰で2006年の解散総選挙では、チャーチルの目論見通り、自由党の圧勝となり、その勢いで”裏切り者”チャーチルは当選する。
植民地省次官を経由し、めでたくアスキス内閣では通称大臣として入閣したチャーチル(32)だが、一度は落選した筈の玉突き当選でもあった。補欠当選を決定付けた演説が泣かせます。
”社会主義は裕福な者を引きずり落とす。自由主義は貧困者を持ち上げ、社会主義は資本を攻撃する。自由主義は独占を攻撃し、社会主義は支配を高める。そして、自由主義は人を高める”
因みにチャーチルは、この時初めて社会主義への本格的な敵意を露わにする。これが後に、スターリンとの不運な対立を生むんですが。以降、チャーチルとヒトラーとスターリンのこの露骨で深刻な三角関係が、英独露の熾烈な対立と憎悪を呼び込むのです。
政治屋としてのチャーチル
その後、チャーチルが商務大臣として主導したのが、職業紹介所と失業保険制度である。お金に苦労しただけあって、いいとこ突いてますね。
お陰で国民の評判も上々だったが、労働党は違った。”労働の市場化を押し進め、資本家が手頃な労働者を見つけ易くするだけだ”と反発した。自民党が通した”派遣法”と同じですね。
その後、失業保険制度は貴族院に破棄され、労働党の労働権確立運動は強まっていく。
このチャーチルと貴族院と労働党の関係は彼の運命を変えていく事になる。
この頃のイギリスは、ドイツ資本主義の急速な発展に怯えていた。ヴィルヘルム2世は海軍力を増強し、帝国主義に乗り出し、イギリスを脅かす様になっていた。
通商大臣になったチャーチルは”海軍増強”を訴えた。”ドイツには戦う理由も戦って得る利益も戦う場所もない”
ドイツとの建艦競争や社会保障により、財政支出が膨らんだ為、金持ちから税金を取り立てる”人民予算”の増税案で、イギリス社会は真っ二つに割れた。
チャーチルは人民予算側につくも、これまた貴族院に破棄され、アスキス内閣は総辞職。
1910年は貴族院の拒否権を無効にする”議会法”を巡り、議会は真っ二つに割れ、二度の解散と総選挙が行われたが。結局、庶民院が勝利し、何とか憎き貴族院を打ち負かしたチャーチルは、”長期に及んだ不安な憲法危機が終結した”と胸を撫で下ろした。
貴族の特権の剥奪や生活費上昇をもたらす関税改革を批判する”庶民派”演説を行い、再び入閣したチャーチル(34)は内務大臣として、先に廃案となった失業保険問題を担当するが。この社会政策に真剣に取り組み、軍拡に反対する若きチャーチルの姿勢は、なかなかのモンですね。
大失態を犯したチャーチル
しかし国の財政が悪化し、アスキス内閣の”国民保険法”が裏目に出て、労働争議と暴動が激化する。
チャーチルは軍隊を投入し弾圧を計るも、犠牲者を出し、労働者との軋轢は決定的となる。
全く打ちのめされたチャーチルだったが。ドイツとの開戦が迫っている情勢の中、内閣は海軍の重要性を認識し、大失態を犯したチャーチルを海軍大臣に招聘する。実質の左遷だが、当時のアスキス首相はチャーチルの戦闘屋としての資質を見抜いていたのだ。
チャーチルがデブになりだすのはこの頃からだ。政治家としての資質に自ら疑いを持ち始め、持ち前のコンプレックスが鬱積してたのだ。
その上今度は、アイルランド問題が急浮上し、内戦も危惧された。これまた鎮圧に当ったチャーチルは再び窮地に追い込まれるも、第一次大戦の勃発で何とか難を逃れた。
結局、政治家としての資質は、チャーチルにはなかったらしい。”チャーチルが民衆操作に通じてたなら、市民的自由の意味を理解してたなら、内相の権限を行使できる能力があったなら、こんな大混乱には陥らなかったろう”と当時の労働党議員は語る。
以上、チャーチルの前半の生涯を述べましたが。これだけでも解る様に、彼の生き様はまさにコンプレックスとの戦いです。それに、貴族院や社会主義に対する憎悪も半端ないです。
これら憎悪とコンプレックスが、チャーチルの支配欲と戦闘欲を増強させるんですが。それ以上に、ヒトラーやスターリンといった生涯のライバルの存在も、チャーチルを”醜く太った化物”にしていく大きな要因となったんですね。
悪知恵が働いたんですね。
「その3」も楽しみにさせていだきます。
彼のコンプレックスが悪知恵を働かせたんでしょうか。ある意味、ヒトラーよりも哀しくも醜い人間だったかもです。
でも、チャーチルに同情する部分も正直ありますが。実際にやった事はえげつないですね。
チャーチルの支配欲がコンプレックスに基づいてるとは意外でした。ヒトラーやスターリンに対するライバル心や憎き日本やドイツに対する敵愾心と貴族特有の白人至上主義に基づいてるものかと思ってましたが。
チャーチルは結局、軍人としても政治家としても失敗や失策続きだったんですね。それらを払拭する為に、ナチスドイツとの戦いは、格好の選択肢だったんですね。
チャーチルがイギリスのヒトラーと揶揄されても不思議はないですが。軍人としても政治家としても、転んだサン言うように、ヒトラーがずっと上なんですよね。
結局、チャーチルは傲慢知己な大英帝国が生んだ負の産物だったんです。いや歴史上最低の最悪の化け物だったんですよ。そういう事にしときましょうか。
何だか少しスッキリしました。チャーチル批判、今後も楽しみにしてます。
チャーチルとヒトラーには接点が多すぎて、ここまで一致すると、とても奇妙に奇怪に写ります。
ヒトラーは本当に戦争を望んでたのか?チェンバレンのままだったら、2度目のヨーロッパ戦争は免れてたという声が多くなってます。
ヨーロッパとしては絶対に避けるべき戦争をチャーチルが仕掛けたという声がどんどん出てきそうですね。
チャーチルと言えば、演説の巧みさです。ヒトラーのそれとよく比較されますが。実に対照的ですよね。
剛のヒトラーに対し、柔のチャーチル。でも、戦争では互いに一歩も引かないという実直さ。
ただ、ブリテン島の戦いで、ヒトラーは致命的なミスを犯しました。一方、ブリテン島を死守したチャーチルもその後はアメリカのポチになってしまいます。
お互いに悲しい生涯だったんですかね。
結局、ダンケルクの撤退とバトル・オブ・ブリテンで、英独両国は完全に疲弊しきっちゃうんですね。
アメリカとソ連をそれを黙って傍観してたんですね。その後のイギリスとドイツは、日本同様に悲惨な結果になりますが。
チャーチルの無謀と無策と無能が引き起こした戦争というよりも大虐殺と言ってもいいですかね。彼について調べるほどに、その無垢な無能さが目に焼き付く思いです。